807年-09元和二年40歳《釋言§8-1》〔#19〕
2018年4月8日 |
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807年-09元和二年40歳《釋言§8-1》〔#19〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10458
やがて何か月か過ぎた、皇帝陛下は李吉甫閣下を宰相に任命された。友人はわたしにむかいこういった
「きみは以前一人の宰相に“つげ口”されたけれど。こんど李吉甫閣下がさらに宰相になったのであるから、
きみはもっとあぶないぞ。」ということで、わたしはそれに対していう、
前の或る人が私を宰相鄭公にそしったことは、当時の翰林李公は知らないのである。
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韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02)(2) | ||
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釋言
作者:韓愈 唐
・全唐文/卷0559-02
・韓愈全集校注〔三〕1701
・韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02)
§1
元和元年六月十日,愈自江陵法曹詔拜國子博土,始進見今相國鄭公。公賜之坐,且曰:「吾見子某詩,吾時在翰林。
職親而地禁,不敢相聞。今為我寫子詩書為一通以來。」愈再拜謝,退錄詩書若干篇,擇日時以獻。
§2
於後之數月,有來謂愈者曰:「子獻相國詩書乎?」曰:「然。」曰:「有為讒於相國之座者曰: ‘韓愈曰:相國征餘文,餘不敢匿,相國豈知我哉!’子其慎之!」
§3
愈應之曰:「愈為御史,得罪德宗朝,同遷於南者凡三人,獨愈為先收用,相國之賜大矣;百官之進見相國者,或立語以退,而愈辱賜坐語,相國之禮過矣;四海九州之人,自百官以下,欲以其業徹相國左右者多矣,皆憚而莫之敢,獨愈辱先索,相國之知至矣。賜之大,禮之過,知之至,是三者於敵以下受之,宜以何報?況在天子之宰乎!
§4
人莫不自知,凡適於用之謂才,堪其事之謂力,愈於二者,雖日勉焉而不近。束帶執笏,立士大夫之行,不見斥以不肖,幸矣,其何敢敖於言乎?夫敖雖凶德,必有恃而敢行。愈之族親鮮少,無扳聯之勢於今;不善交人,無相先相死之友於朝;無宿資蓄貨以釣聲勢;弱於才而腐於力,不能奔走乘機抵巇以要權利。夫何恃而敖?若夫狂惑喪心之人,蹈河而入火,妄言而罵詈者,則有之矣,而愈人知其無是疾也。雖有讒者百人,相國將不信之矣,愈何懼而慎歟?」
§5
既累月,又有來謂愈曰:「有讒子於翰林舍人李公與裴公者,子其慎歟!」愈曰:「二公者,吾君朝夕訪焉,以為政於天下,而階太平之治。居則與天子為心膂,出則與天子為股肱。四海九州之人,自百官以下,其孰不願忠而望賜?愈也不狂不愚,不蹈河而入火,病風而妄罵,不當有如讒者之說也。雖有讒者百人,二公將不信之矣。愈何懼而慎?」
§6
既以語應客,夜歸,私自尤曰:咄!市有虎,而曾參殺人,讒者之效也。《詩》曰:「取彼讒人,投畀豺虎。豺虎不食,投畀有北。有北不受,投畀有昊。」傷於讒,疾而甚之之辭也。又曰:「亂之初生,僭始既涵。亂之又生,君子信讒。」始疑而終信之之謂也。孔子曰:「遠佞人。」夫佞人不能遠,則有時而信之矣。今我恃直而不戒,禍其至哉!
§7
徐又自解之曰:市有虎,聽者庸也;曾參殺人,以愛惑聰也;《巷伯》之傷,亂世是逢也。今三賢方與天子謀所以施政於天下。而階太平之治,聽聰而視明,公正而敦大。夫聰明則聽視不惑,公正則不邇讒邪,敦大則有以容而思。彼讒人者,孰敢進而為讒哉?雖進而為之,亦莫之聽矣!我何懼而慎?
§8
既累月,上命李公相,客謂愈曰:「子前被言於一相,今李公又相,子其危哉!」愈曰:「前之謗我於宰相者,翰林不知也;後之謗我於翰林者,宰相不知也。今二公合處而會,言若及愈,必曰:‘韓愈亦人耳,彼敖宰相,又敖翰林,其將何求?必不然!’吾乃今知免矣。」既而讒言果不行。
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| 韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02) 《釋言》(辯明) |
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§5 -1
既累月,又有來謂愈曰:
やがて数か月がたち、又もやわたしのところへやって来てこういうものがあった。
「有讒子於翰林舍人李公與裴公者,子其慎歟!」
「きみを翰林学士李書甫閣下と中書舎人装増閣下とに讒言したものがいるぞ。きみ、気をつけたがいい。」
愈曰:「二公者,吾君朝夕訪焉,
わたしはいう、
「お二人は、わが君の朝の参列から夕べの相談と、ひごろ顧問としておられる。
以為政於天下,而階太平之治。
それでもって、天下の政治をされ、そして、“太平の治”状態へすすめようとしている方々である。
既にして累月、又来って愈に謂ふもの有りて日く、
子を翰林舎人李公と裴公とに讒する者有り。子其れ慎めよやと。
愈日く、二公は吾が君朝夕に焉に訪ひて、以て政を天下に爲して、太平の治を階す。
居則與天子為心膂,出則與天子為股肱。
朝廷におれば、天子のために心臓、内臓となり、朝廷、宮殿を出て、地方へ出むいて、天子のために手足となる。
四海九州之人,自百官以下,
天下じゅうの人は、官僚たちより以下のすべてのものが天子の事を思っている。
其孰不願忠而望賜?
だれもが真心をつくしたく願い、御恩をこうむりたいと思っている。
居りては則ち天子の與に心膂と為り、出でてほ則ち天子の與に股肱と為る。
四海九州の人、百官より以下、
其れ孰か忠を願ひて賜を望まざらん。
§5 -3
愈也不狂不愚,不蹈河而入火,
私は狂気でもなく愚人でもないし、黄河に蹈み入り、火に飛び込んだりはしない。
病風而妄罵,不當有如讒者之說也。
また狂疾をわずらい、むやみに人を罵ることをしない。讒言をする人のいうようなことはあるはずはないのである。
雖有讒者百人,二公將不信之矣。
讒言をする者が百人いたとしても、二公はまたこれを信じないであろう。
愈何懼而慎?」
私は何を懼れて用心などしようか、と。
愈や狂ならず愚ならず、河を蹈んで火に入り、風を病んで妾に罵らず。
當に讒者の説の如きこと有るべからざるなり。
讒者百人有りと雖も、二公將之を信ぜざらん。
愈何を憧れて憤まんと。
§6 -1
既以語應客,夜歸,私自尤曰:
すでにこの語を以て客に答えたのち、夜帰って、ひそかに自身の行いを自ら尤めて、ひとり言にいう、
咄!市有虎,而曾參殺人,讒者之效也。
これは何ということだ。人の賑わう市場に虎が出たり、孝子曾参が人を殺すという、ありもしないことが事実にされてしまうのは、璽口をする人の効果である。
《詩》曰:「取彼讒人,投畀豺虎。
『詩経』「小雅」巷伯篇にある「かの讒人を取って、山犬や虎に投げ与えよう、
豺虎不食,投畀有北。
山犬や虎がけがらわしいとして食わなければ、北方の寒い不毛の地に投げ与えよう、
§6 -1
既に語を以て客に応じ、夜帰って私やかにみずからとがめて曰く、
咄、市に虎有り、曽参、人を殺すは、讒者の効せるなり。
詩に日わく、彼の護人を取って、彼の讒人を取って、財虎に投げ昇えん。
財虎食らわずんば、有北に投げ昇えん。
-2
有北不受,投畀有昊。」
北地も受け入れないならば、莫天 (明らかな天) に投げ与えて、天に裁判をして貰おう」
傷於讒,疾而甚之之辭也。
というが、讒言に傷つけられ、憎んで極端にいった辞である。
又曰:「亂之初生,僭始既涵。
また「小雅」巧言篇に「乱が最初に生ずるのは、讒言が始めすでに滲みこんでいるからであり
亂之又生,君子信讒。」
乱がまた生ずるのは、道理のわかった君子もかんげん讒言を信ずるからである」という。
-2
有北受けずんば、有夫に投げ昇えん、と。
議に傷つけられて、疾んで之れを甚だしゅうするの辞なり。
又日わく、乱の初めて生ずることは、暦り始めに既に掛るればなり。
乱の又生ずるこ法は、君子、護を信ずればなり、と。
§6 -3
始疑而終信之之謂也。
始めには疑っても、ついにはこれを信じるという意味である。
孔子曰:「遠佞人。」
孔子は『論語』衛霊公篇に「佞人、すなわち口才ある人を遠ざけよ」といっている。
夫佞人不能遠,則有時而信之矣。
一体口上手な人は、これを遠ざけることができなければ、時にはこれを信ずることがある。
今我恃直而不戒,禍其至哉!
今私は自分の正直を頼みにしていて、用心をしなければ、禍がそれこそやって来るだろうよ、と。
-3
始めに疑うて終に之れを信ずるの謂なり。
孔子日わく、倭人を遠ざけよ、と。
夫れ倭人遠ざくること能わざるときは、時有って信ず。
今我れ直を悼んで戒めずんば、禍い其れ至らんか、と。
§7 -#1
徐又自解之曰:
それからやがてこんどは自分自身いいきかせるように言い訳をした、
市有虎,聽者庸也;
「市場に虎がいるというのは、聞くものが平凡な人だからだ。
曾參殺人,以愛惑聰也;
曽参が人殺しをしたというのは、母の愛情ということによって正しい判断をくらまされたのである。
《巷伯》之傷,亂世是逢也。
『詩経』の巷伯が、護人を歌った悲しみは、道行われず乱れた世に逢ったのである。
今三賢方與天子謀所以施政於天下。
今、宰相鄭公、翰林李公及び中書舎人裴公の三賢者は、天子のために、政を天下に施して、太平の治を導く方途を相談して居られる最中である。
§7
徐【おもむろ】にして 又自ら解いて日わく、
市に虎有ることは、聴く者の庸なければなり。
曽参、人を殺すことは、愛を以て聡を惑わせばなり。
《巻伯》が傷つけらるることは、乱世是れに逢えばなり。
今三撃方に天子と謀る。
-#2
而階太平之治,聽聰而視明,公正而敦大。
こうして、太平の治を導く方途を相談し、施行されて居られ、聴くことはさとく、視ることは明らかに、公平で正しく、心はあつく大きな方々である。
夫聰明則聽視不惑,公正則不邇讒邪,敦大則有以容而思。
それに、聡明であれば、聴き視ることは惑って判断を誤ることなく、公正であれは、謹言をする心よこしまな人間を近づけず、心が厚く大きければ、人を受け入れる度量があって、思慮する。
彼讒人者,孰敢進而為讒哉?
この場合、かの讒人という者の、誰が推し切って進んで讒言をするのであろうか。
雖進而為之,亦莫之聽矣!
進んでこれをしても、これを聴く人がないであろう。
我何懼而慎?
私は何を懼れて用心などしようか、と。
#2
政を天下に施して太平の治に階つる所以なり。聴くこと聡にして視ること明に、公正にして敦大なり。
夫れ聡明なるときは、聴視惑わず。公正な竃ときは、讒邪を邇づけず。敦大なるときほ、容るること有って思う。
彼の義人の者、勤か敢えて進んで讒を為さんや。
進んで之れを為すと雖も、亦之れを聴くこと莫らん。
我れ何を懼れてか慎しまん、と。
§8-#1
既累月,上命李公相,客謂愈曰:
やがて何か月か過ぎた、皇帝陛下は李吉甫閣下を宰相に任命された。友人はわたしにむかいこういった
「子前被言於一相,今李公又相,
「きみは以前一人の宰相に“つげ口”されたけれど。こんど李吉甫閣下がさらに宰相になったのであるから、
子其危哉!」愈曰:
きみはもっとあぶないぞ。」ということで、わたしはそれに対していう、
「前之謗我於宰相者,翰林不知也;
前の或る人が私を宰相鄭公にそしったことは、当時の翰林李公は知らないのである。
後之謗我於翰林者,宰相不知也。
また後のある人が私を翰林にそしったことは、宰相鄭公は知らないのである。
§8-#1
既に累月,上、李公相に命じて,客 愈に謂って曰く:
「子 前に一相に言われ,今 李公又相たり,
子 其れ危いかな!」と。愈 曰く:
「前の我を宰相に謗る者は,翰林 知らざる也;
後の我を翰林に謗る者は,宰相 知らざる也。
-#2
今二公合處而會,言若及愈,必曰:
‘韓愈亦人耳,彼敖宰相,
又敖翰林,其將何求?
必不然!’吾乃今知免矣。」
既而讒言果不行。
-#2
今 二公 合處して會し,言 若し愈に及べば,必ず曰わん:
‘韓愈も亦た人のみ,彼の宰相に敖る,
又た 翰林の敖る,其れ將 何をか求めん?
必ず然らざらん!’と。吾 乃ち今 免るるを知るなり。」と。
既にして 讒言 果して行われず。
釋言 |
此元和二年春作宰相鄭絪翰林學士李吉甫中書舍人裴垍也。 |
國語云驪姬使奄楚以環釋言註云以言解釋也。退之作釋言取此 |
元和元年六月十日、或無十日字愈自江陵法曹、詔拜國子博士、 |
始進見今相國鄭公。公賜之坐、或無下公字且曰、吾見子某詩。 |
吾時在翰林。職親而地禁。不敢相聞、今為我寫子詩書、為一 |
通以來。我下或有盡字而無為一通以字或無為我字而有盡字一或作二 |
愈再拜謝、退録詩書若干篇、擇日時以獻。若干或作著于獻下或有 |
之字入今按著于篇雖古語然施之於此似不相 且公亦未必特用此語以為竒也。 |
§-2 |
於後之數月、有來謂愈者曰、子獻相國詩書乎。 |
曰、然、曰、有為讒於相國之座者曰或無為字 |
韓愈曰、相國徴余文。余不敢匿、相國豈知我哉。子其慎之。或無之字 |
§-3 |
愈應之曰、愈為御史、得罪德宗朝、同遷於南者凡三人三人謂公及張署李方叔也 |
獨愈為先收用、相國之賜大矣。百官之進見相國者、或立語以退。 |
而愈辱賜坐語、相國之禮過矣。以或作巳四海九州之人、 |
自百官已下、欲以其業徹相國左右者多矣。 |
皆憚而莫之敢、獨愈辱先索。相國之知至矣。 |
賜之大、禮之過、知之至、是三者於敵以下受之、 |
宜以何報。况在天子之宰乎。 |
敵以或作敵已國語自敵以下則有讎註敵體也今人多用敵已字者非宰下或有相字 |
§-4 |
人莫不自知、凡適於用之謂才、堪其事之謂力。 |
愈於二者、雖日勉焉而不近。束帶執笏、立士大夫之行。 |
不見斥以不肖幸矣。其何敢敖於言乎。或無乎字 |
夫敖雖凶德、必有恃而敢行。愈之族親鮮少、無扳聯之勢。 |
於今扳音/攀不善交人無相先相死之友 |
於朝禮記儒有爵位/相先患難相死無宿資蓄貨以釣聲勢宿資蓄貨或/作宿貨蓄資 |
弱於才而腐於力。不能奔走乗機、抵巇以要權利。巇許宜反/要平聲 |
夫何恃而敖。若夫狂惑喪心之人、蹈河而入火、 |
妄言而罵詈者則有之矣而愈人知其無 |
是疾也雖有讒者百人、相國將不信之矣。愈何懼而慎歟。相國或作宰/相或無歟字 |
§-5 |
既累月、又有來謂愈曰、有讒子於翰林舍人李公與裴公者。 |
子其慎歟、愈曰、二公者吾君朝夕訪焉、以為政於天下、 |
而階太平之治、或作/理居則與天子為心膂、 |
出則與天子為股肱、四海九州之人、自百官已下、 |
其孰不願忠而望賜。不下或有/能字非是 愈也不狂不愚、不蹈河而入火 |
病風而妄罵、不當有如讒者之說也。雖有讒者百人、二公將不信之矣。 |
愈何懼而慎。 |
§-6 |
既以語應客。夜歸、私自尤曰、咄、咄字見晉殷浩語當没切 市有虎 |
而曾參殺人、讒者之效也。市有虎見戰國策龎蔥語曾參殺人見史記甘茂語 |
詩曰、取彼讒人、投畀豺虎、豺虎不食、投畀有北、有北不受、 |
投畀有昊。小雅巷/伯詩 傷於讒、疾而甚之之辭也。 |
又曰、亂之初生、僭始既涵。亂之又生、君子信讒。小雅巧言/之詩云云 |
始疑而終信之之謂也。孔子曰、逺佞人、夫佞人不能逺、則有時而信之矣。 |
今我恃直而不戒、禍其至哉。 |
§-7 |
徐又自解之曰、市有虎、聽者庸也。曾參殺人、以愛惑聰也。 |
巷伯之傷、亂世是逢也。聰或作聴非是亂世一作世亂 |
今三賢方與天子、謀所以施政於天下、而階太平之治。 |
聽聰而視明、公正而敦大。夫聰明則聽視不惑、聴視或作視聴 |
公正則不邇讒邪、敦大則有以容而思。彼讒人者、孰敢進而為讒哉。進而或/作而進 |
雖進而為之、亦莫之聽矣。 我何懼而慎。或無而/慎字 |
§-8 |
既累月、上命李公相。客謂愈曰、子前被言於一相、今李公又相。 |
子其危哉、或無/哉字 愈曰、前之謗我於宰相者、翰林不知也。 |
後之謗我於翰林者、宰相不知也。今二公合處而會。 |
言若及愈必曰、韓愈亦人耳。彼敖宰相、又敖翰林。 |
其將何求。必不然。吾乃今知免矣。 |
既而讒言果不行。宰相或皆作相國乃今或作今乃又無矣字既下或無而字 |
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《釋言》現代語訳と訳註解説
(本文)
§8-#1
既累月,上命李公相,客謂愈曰:
「子前被言於一相,今李公又相,
子其危哉!」愈曰:
「前之謗我於宰相者,翰林不知也;
後之謗我於翰林者,宰相不知也。
(下し文)
§8-#1
既に累月,上、李公相に命じて,客 愈に謂って曰く:
「子 前に一相に言われ,今 李公又相たり,
子 其れ危いかな!」と。愈 曰く:
「前の我を宰相に謗る者は,翰林 知らざる也;
後の我を翰林に謗る者は,宰相 知らざる也。
(現代語訳)
やがて何か月か過ぎた、皇帝陛下は李吉甫閣下を宰相に任命された。友人はわたしにむかいこういった
「きみは以前一人の宰相に“つげ口”されたけれど。こんど李吉甫閣下がさらに宰相になったのであるから、
きみはもっとあぶないぞ。」ということで、わたしはそれに対していう、
前の或る人が私を宰相鄭公にそしったことは、当時の翰林李公は知らないのである。
また後のある人が私を翰林にそしったことは、宰相鄭公は知らないのである。
(訳注)
《釋言》(辯明)§8-1
1. (韓愈は文名が高かくなっていった、一方で、嫉妬、中傷、讒言を受けそうなので、元和二年の春、宰相の鄭絪、翰林學士の李吉甫、中書舍人の裴垍に対して、弁明の書をつくったものである)
§8-#1
既累月,上命李公相,客謂愈曰:
やがて何か月か過ぎた、皇帝陛下は李吉甫閣下を宰相に任命された。友人はわたしにむかいこういった
51. 李公相 翰林学士であった李吉甫を宰相に命じた。
「子前被言於一相,今李公又相,
「きみは以前一人の宰相に“つげ口”されたけれど。こんど李吉甫閣下がさらに宰相になったのであるから、
52. 一相 一人の宰相、宰相鄭絪をいう。
子其危哉!」愈曰:
きみはもっとあぶないぞ。」ということで、わたしはそれに対していう、
「前之謗我於宰相者,翰林不知也;
前の或る人が私を宰相鄭公にそしったことは、当時の翰林李公は知らないのである。
53. 宰相 宰相鄭絪もこと。
54. 翰林 翰林学士李吉甫のこと。
後之謗我於翰林者,宰相不知也。
また後のある人が私を翰林にそしったことは、宰相鄭公は知らないのである。