807-11元和二年40歳§-2-5《張中丞傳後敘#7

 

 

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807-11元和二年40歳§-2-5《張中丞傳後敘#7》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10612

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕


張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

807-11元和二年40#1

張中丞傳後敘-§-1-1

昌黎先生集 巻13-04

全唐文/055

韓愈全集校注〔三〕一七一五

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10121

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

§1-1

元和二年四月十三日夜,

元和二年四月十三日の夜、

愈與郡張籍家中舊書,

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

得李翰所為《張巡傳》。

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

然尚恨有闕者:

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

(張中丞伝の後敘)§1-1

元和二年四月十三日の夜、

愈、呉郡の張籍と、家中の旧著を閲る。

李翰が為る所の張巡が伝を得たり。

1-2

翰、文章を以て自ら名あり。此の伝を為ること頗る詳密なり。

然れども尚お恨むらくは闕くる老有ることを。

許遠が為に伝を立てず、雷万春が事の首尾を載せず。

 

§2

遠雖材若不及巡者,

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

開門納巡,位本在巡上。

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

授之柄而處其下,無所疑忌,

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

竟與巡俱守死,成功名;

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

2-1

遠、材、巡に及ばざるものの若しと雖も、門を開いて巡を約す。

位本もと巡が上に在り。之に柄を授ける。

而して虞を其の下にす。

之れに柄を授けて、その下に処って、疑い忌む所無し。

竟に巡と倶に死を守って功名を成す。

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

2-2

城陥って虜にせらる。巡と死すること先後異なるのみ。

両家の子弟、材智下うして、二父の志を通知すること能わず。

以為【おも】えらく巡死して遠慮に就く、疑うらくは死を畏れで賊に辞服するやと。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

2-3

遠 誠に死を畏れば、何を苦しんでか尺寸の地を守り、

其の愛する所の肉を食ましめて、以て賊と抗して降せざらんや。

其の囲み守る時に当って、外、比蝉蟻子の援け無し。

2-4

所欲忠者,國與主耳;

忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

而賊語以國亡主滅,

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

遠見救援不至,而賊來益眾,必以其言為信。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

2-4

忠あらまく欲する所の者は、国と主とのみ。

而も賊語ぐるに國亡び主減ぶというを以てす。

遠、救援の至らずして、賊の来ること益ます衆きを見ば、必ず其の言を以て信なりと為ん。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

烏んぞ城壊れ其の徒倶に死して、独り愧恥を蒙って活を求むること有らん?

至愚の者と雖も、為るに忍びじ。

鳴呼、而るに遠が賢にして之れを為すと謂わんや。

 

 張中丞傳後叙

   歐陽文忠 張中丞傳後云:「張巡許之事壯矣!秉筆之士、皆喜稱述、

   然以翰所紀、考唐書列傳及退之所書、互得失、而列傳最為疎略。雖云

   史家當記大節、然其大小數百戰、智謀材力、亦有過/人可以示後者。

   史家皆滅而不著、甚可惜也。

   翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

   文忠所云「唐書列傳」者、謂舊傳、若新傳則采翰及公所書并舊傳為之矣。

 

元和二年四月十三日夜、愈與呉郡張籍、家中舊書、張籍字文昌公舉薦進士

得李翰所為張巡傳。巡上或無張字巡鄧州南陽人翰以文章自名。

為此傳頗詳然尚恨有闕者、不為許立傳、杭州鹽官/人敬宗曾孫

又不載雷萬春事首尾。

§-2

雖材若不及巡者開門納巡開上或疑/當有然字位本在巡上授之柄而處其

下無所疑忌竟與巡俱守死成功名城陷而虜與巡死

先後異耳兩家子弟材智下不能通知二父志以為巡

死而就虜疑畏死而辭服於賊誠畏死何苦守 

寸之地食其所愛之肉睢陽食盡巡出愛妾亦殺其奴以食士以與賊抗

而不降乎當其圍守時外無蚍蜉蟻子之援蚍蜉音/毗浮

欲忠者國與主耳而賊語以國亡主滅

 賊將令狐潮聞/𤣥宗已幸蜀以書招巡有大將六人白巡上存亡不可知不如

降賊巡/責以大義斬之士心益勸語或校作悟滅下或有悟之字且今按悟字無/理 从諸本作語

見救援不至而賊來益衆必以

言為信外無待而猶死守人相食且盡雖愚人亦能數 

日而知死處矣之不畏死亦明矣!烏有城壞其徒

死獨愧恥求活雖至愚者不忍為嗚呼而謂

而為之邪其徒上或有而字或又疑而字/當在死字之下邪上或無之字

§-3

者又謂與巡分城而守城之陷自所分始以此詬詬或作/語非是 

此又與兒童之見無異人之將死其藏腑必有先受其

病者引繩而絶之其絶必有處觀者見其然從而尤之

其亦不達於理矣小人之好議論不樂成人之美如是

哉如巡之所成就如此卓卓猶不得免其他則又

當二公之初守也寧能知人之卒不救之卒或/無之字棄城

而逆遁?此不能守雖避之他處何益及其無救而且窮也

將其創殘餓羸之餘創平/雖欲去必不達二公之賢其講 

之精矣守一城捍天下以千百就盡之卒戰百萬日滋之師 

蔽遮江淮温公曰唐人皆以全江淮為巡/之功按睢陽雖當江淮之

城既被圍若取江淮繞出其外睢陽豈能障之哉蓋巡/善用兵賊畏巡為

後患不滅巡則不敢越過其南耳

沮遏其勢天下之不亡其誰之功也!之不或無/之字非是

當是時棄城而圖存者不可一二數所拒/ 

擅彊兵坐而觀者相環也

不追議此而責二公以死守亦見其自比於逆亂 

設淫辭而助之攻也攻或作/功非是

§-4

愈嘗從事於汴徐二府屢

道於兩府間府或/作州親祭於其所謂雙廟者時詔贈巡揚/州大都督

州大都督皆立廟睢/時致祭號雙廟其老人往往時事云

霽雲之乞救於賀蘭也或無/之字賀蘭嫉巡之聲威功

出已上不肯出師救愛霽雲之勇且壯不聽其語彊留 

之具食與樂延霽雲坐霽雲慷慨語曰慷上或無霽/雲字非是「

來時睢陽之人不食月餘日矣!雲雖欲獨食義不忍雖

食且不下咽。」 因拔所佩刀斷一指血淋漓以示賀蘭一

座大驚皆感激為雲泣下。雲知賀蘭終無為雲出師意

即馳去將出城抽矢射佛寺浮圖矢著其上甎半箭/

/曰吾歸破賊歸或作/師非是必滅賀蘭此矢所以志也愈貞

元中過泗州船上人猶指以相語城陷賊以刃脅降巡

巡不屈即牽去將斬之又降霽雲雲未應或無/霽字巡呼雲曰 

「南八男兒死耳不可為不義屈!」雲笑曰「欲將以有為

欲將或疑/衍一字公有言雲敢不死。」即不屈。

§-5

張籍曰有于嵩者少依於巡及巡起事嵩常在圍中及巡或作及/其常或作嘗

籍大厯中於和州烏江縣見嵩嵩時年六十餘矣或無下/嵩字

以巡初嘗得臨渙縣尉或無/嘗字好學無所不讀籍時尚小粗

問巡事不能細也云巡長七尺餘鬚髯若神嘗見

讀漢書謂嵩曰何為讀此/作又嵩曰未熟也巡曰吾

於書讀不過三徧終身不忘也因誦嵩所讀書盡巻不

錯一字嵩驚以為巡偶熟此巻因亂抽他帙以試無不

盡然嵩又取架上諸書試以問巡巡應口誦無疑嵩從

亦不見巡常讀書也為文章操紙筆立書未嘗起草

巡開元二十四年進士劉夢得嘉話載其謝加金吾/表有云主辱臣死當臣致命之時惡稔罪盈

是賊滅亡之日激勵將士賦詩有云褁瘡猶出陣飲血更登陴/又夜聞笛聲詩云營開星月近戰

苦陣雲深觀此則巡之文見矣/起或作有

初守睢陽時士卒僅萬人城中居人

數萬或無/巡因一見問姓名其後無不識者巡怒鬚髯

輒張及城陷賊縳巡等數十人坐且將戮巡起旋其衆

見巡起或起或泣或起或/作猶起巡曰汝勿怖死命也衆泣不

能仰視巡就戮時顔色不亂陽陽如平常寛厚長

貌如其心與巡同年生月日後於巡呼巡為兄死時年

四十九呼巡或/作呼之嵩貞元初死於亳宋間或傳嵩有田在

亳宋間武人奪而有之嵩將詣州訟理為所殺嵩無子

張籍云

 嵩將上或有而字為/下或有其字皆非是

 

 

作時年:

807

元和2

40

全唐詩卷別:

全唐文/055

文體:

雜著 書敬

昌黎先生集 

13-04

韓愈全集校注〔三〕一七一五

詩題:

張中丞傳後敘

序文

 

作地點:

長安 國子博士

 

及地點:

洛陽分司 (國子博士)

 

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交遊人物:

張籍

府西驛(書簡交際)

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説

(本文)

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

 

(下し文)

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

(現代語訳)

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は警)州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

 

2-5

外無待 而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

 

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

 

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

19. 遠 許遠のこと。 (死にたくなくて族の手に下ったという世間、家族の誤解に対して、反論している。)