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807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#19》 §-4-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11081
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11081 |
張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) |
-#19 |
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§-4-4 |
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韓愈全集校注 訳注解説 |
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漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11081 |
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張中丞傳後敘
(御史中丞張巡 伝のあとがき)
-#16 §4-1
愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,
わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、
親祭於其所謂雙廟者。
みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。
其老人往往說巡、遠時事,云:
その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。
4-2
「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、
「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。
遠之聲威功績出己上,不肯出師救。
というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。
愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。
本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。
4-3
霽雲慷慨語曰:
南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。
『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。
『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。
雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』
こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」
4-4
因拔所佩刀斷一指,
かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。
血淋漓,以示賀蘭。
そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。
一座大驚,
ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。
皆感激為雲泣下。
みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。
雲知賀蘭終無為雲出師意,
賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。
4-5
即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,
矢著其上磚半箭,曰:
『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』
4-6
愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:
「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。
即牽去,將斬之,
4-7
又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:
『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』
雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」
§4-1
愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、
親しく其の所謂双廟という者を祭る。
其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、
4-2
「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。
霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」
4-3
霽雲慷慨して語げて日わく、
「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。
雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。
4-4
困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。
血淋漓として以て賀蘭に示す。
一座大いに驚く。
皆感激して雲が為に泣下る。
雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、
4-5
即ち馳せ去る。
将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。
矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、
「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。此の矢は志す所以なり、」と。
4-6
韓愈、貞元中、泗州に過る。
船上の人猶お指して以て相語る。
城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。巡屈せず。
即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。
4-7
又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。
不義の為に屈すべからず、と。
雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。
《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(本文)
-#19 §4-4
因拔所佩刀斷一指,
血淋漓,以示賀蘭。
一座大驚,
皆感激為雲泣下。
雲知賀蘭終無為雲出師意,
(下し文)
§4-4
困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。
血淋漓として以て賀蘭に示す。
一座大いに驚く。
皆感激して雲が為に泣下る。
雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、
(現代語訳)
(御史中丞張巡 傳のあとがき)
かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。
そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。
ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。
みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。
賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。
(訳注)
張中丞傳後敘
1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)
2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。
歐陽文忠の張中丞傳後を䟦して云う:「張巡は許逺の事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」
文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。
李 翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。
-#19 §4-4
因拔所佩刀斷一指,
かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。
断一指 『唐書』に「霽雲円く、今主将の命達せず、霽雲請ふ、一指を置きて以て信を示し、帰って中丞に報ぜんと。困りて佩刀を抜いて指を断つ」とある。使した証拠に残したのである。
血淋漓,以示賀蘭。
そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。
淋潤 したたる。流れ落ちる。
賀蘭 名は進明、当時臨淮を守っていた。上文にいう強兵を 増にして坐祝して救わなかった者である。賀蘭進明は第五琦らや、粛宗の皇后、宦官らと結託し、杜甫、房琯らに対しても、陰険な策を弄して、左遷、失脚などしかけた。ほかに、貨幣の悪化、
一座大驚,
ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。
皆感激為雲泣下。
みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。
雲知賀蘭終無為雲出師意,
賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。
南霽雲 唐の頓邱(河南)の人、騎馬を善くし張巡の将となる。安禄山の乱に睢陽城の食が尽きたので囲みを突いて賀蘭進明に救いを求めたが、聴かれなかったので、また囲みをおかして城に入り、後に城が落ちて、賊に執らえられ、遂に巡らと共に害された。その勇壮は後文に見える。






