漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

漢詩

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

七月二十八日夜與王鄭二秀才聽雨後夢作 李商隠  : 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-79

七月二十八日夜與王鄭二秀才聽雨後夢作 李商隠  : 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-79

七月二十八日夜與王鄭二秀才聽雨後夢作

初夢龍宮賓焔然、瑞霞明麗満晴天。
夢の始まりは、燦然と宝物の輝く龍宮にみちびかれた。香しくめでたい錦の霞が拡がって華麗で輝く宮殿、満点の晴れ空がひろがっていた。
旋成酔倚蓬莱樹、有箇仙人拍我肩。』
盃が廻ってきてたちまち酒に酔い蓬莱山の木にもたれていると、ある仙人がわたしの肩を叩いてきた。
少頃遠聞吹細管、聞聲不見隔飛煙。
しばらくすると遠くから笛の音が聞こえてきた。音は聞こえるが話に遮られて姿は見えない。
逡巡又過瀟湘雨、雨打湘霊五十絃。』
ほどなくさらに瀟湘の江に雨が通り過ぎていった。雨音は湘霊が奏でる五十舷の瑟のような音をたてたのであった。
瞥見馮夷殊悵望、鮫綃休賣海爲田。
水神馮夷をちらっと見ると、悲しげに遠くを眺めているのだ。絹を売る人魚の姿も消え、みるみるうちに海が畑に変わっていったのだ。
亦逢毛女無憀極、龍伯擎將華嶽蓮。』
華山の仙女毛女にも出会ったが、なんともうつろなおももち。巨人龍伯が華山の蓮花峰を手にささげている。
恍惚無倪明文暗、低迷不己断還連。
果てなく続く恍惚の世界、明るんだかと思えば暗くなる。朦朧としたまま、夢は途切れたかと思うと夢と現実がまた続いてくる。
覚來正是平堦雨、末背寒燈枕手眠。』

目覚めれば、なんと降り続けた雨がきざはし一面を浸し、ほの暗いともし火もそのまま、手枕をして寝ていたのだった。



夢の始まりは、燦然と宝物の輝く龍宮にみちびかれた。香しくめでたい錦の霞が拡がって華麗で輝く宮殿、満点の晴れ空がひろがっていた。
盃が廻ってきてたちまち酒に酔い蓬莱山の木にもたれていると、ある仙人がわたしの肩を叩いてきた。
しばらくすると遠くから笛の音が聞こえてきた。音は聞こえるが話に遮られて姿は見えない。
ほどなくさらに瀟湘の江に雨が通り過ぎていった。雨音は湘霊が奏でる五十舷の瑟のような音をたてたのであった。
水神馮夷をちらっと見ると、悲しげに遠くを眺めているのだ。絹を売る人魚の姿も消え、みるみるうちに海が畑に変わっていったのだ。
華山の仙女毛女にも出会ったが、なんともうつろなおももち。巨人龍伯が華山の蓮花峰を手にささげている。
果てなく続く恍惚の世界、明るんだかと思えば暗くなる。朦朧としたまま、夢は途切れたかと思うと夢と現実がまた続いてくる。
目覚めれば、なんと降り続けた雨がきざはし一面を浸し、ほの暗いともし火もそのまま、手枕をして寝ていたのだった。



七月二十八日の夜 王・鄭二秀才と雨を聴きし後の夢の作
初めて夢む 龍宮に宝 焔然たりて、瑞霞 明麗として晴天に満つるを。
旋ち酔いを成して蓬莱の樹に倚れば、箇の仙人の我が肩を拍く有り。
少頃して遠く細管を吹くを聞く、声を聞くも見えず 飛煙に隔たる。
逡巡して又た過ぐ 瀟湘の雨、雨は打つ 湘霊の五十絃。
馮夷を瞥見すれば殊に悵望す、鮫綃売るを休めて海は田と爲る。
亦た毛女に逢えば無惨の極み、龍伯は擎げ将つ 華嶽の蓮。
恍惚として倪無く 明にして又た暗、低迷として巳まず 断えて還た連なる
覚め来たれは正に是れ堦に平らかなる雨、未だ寒燈を背けずして手に枕して眠る。




夜與王鄭二秀才聽雨後夢作
王・鄭二秀才と雨を聴きし後の夢の作
○王鄭二秀才 王と邸の二人、名は未詳。「秀才」は郷試(地方試験)を経て進士の受験資格をもつ者の名称だが、一般に進士に合格する前の人に対する敬称として用いられる。



初夢龍宮賓焔然、瑞霞明麗満晴天。
夢の始まりは、燦然と宝物の輝く龍宮にみちびかれた。香しくめでたい錦の霞が拡がって華麗で輝く宮殿、満点の晴れ空がひろがっていた。
龍宮 龍王が住む海底の宮殿。○ したがう。導かれる。○烙然 燃えるように輝く様子。○瑞霞 めでたいしるしをあらわす色鮮やかな雲。李商隠 「碧城」三首の世界観


旋成酔倚蓬莱樹、有箇仙人拍我肩。
盃が廻ってきてたちまち酒に酔い蓬莱山の木にもたれていると、一人の仙人がわたしの肩を叩いてきた。
蓬莱 方丈、瀛洲とともに、神仙の住む東海の島の一つ。○有箇 一人の、或る、を意味する。



少頃遠聞吹細管、聞聲不見隔飛煙。
しばらくすると遠くから笛の音が聞こえてきた。音は聞こえるが話に遮られて姿は見えない。
少頃 短い時間の経過を示すことば。○細管 箏をいうこともあるが、ここでは長細い管楽器。



逡巡又過瀟湘雨、雨打湘霊五十絃。
ほどなくさらに瀟湘の江に雨が通り過ぎていった。雨音は湘霊が奏でる五十舷の瑟のような音をたてたのであった。
竣巡 これも少しの時間の経過を示す。○瀟湘雨 瀟水・湘水は南から洞庭湖に注ぐ川。○湘霊 湘水の神。『楚辞』遠遊に「湘霊をして窓を鼓せしむ」。〇五十絃 五十舷をもつ伝説のなかの琴。五十弦:古代の瑟は五十弦のものは宮女(宮廷の芸妓)が使ったもの。後に二十五弦と改められたと、琴瑟の起源とともに伝えられている。「錦瑟」参照。


瞥見馮夷殊悵望、鮫綃休賣海爲田。
水神馮夷をちらっと見ると、悲しげに遠くを眺めているのだ。絹を売る人魚の姿も消え、みるみるうちに海が畑に変わっていったのだ。
瞥見 ちらっと見る。○満夷 水神の名。『楚辞』遠遊の先の句に続いて「海若をして漏夷を舞わしむ」。海若は海の神。○帳望 悲しい思いで眺める。杜甫「詠懐古跡」其の二に 
搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。
悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。
江山故宅空文藻,雲雨荒台豈夢思。
最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
「千秋を帳望して一たび涙を濯ぎ、粛條たる異代 時を同じくせず」。○鮫綃 入魚の織った網の織物。晋・左思「呉都賦」(『文選』巻五)の劉淵林の注が引く伝説に、人魚が水から出て人の家に寄寓し、毎日綃を売った。立ち去る時に主人に器を求め、涙をこぼすと真珠になった、という。○海為田 海が農地となる変化。地上では地殻変動を起こすほどの長い時間が神仙世界ではほんの束の間のことであるのをいう。晋・京浜『神仙伝』に仙女の麻姑が言う、「接待して以来(おもてなしをしてから)、己に東海の三たび桑田と為るを見る」。「桑田蒼海」の成語として使われる。「一片」詩にも「人間桑海 朝朝変ず、佳期をして更に期を後らしむること莫かれ」。



亦逢毛女無憀極、龍伯擎將華嶽蓮。
華山の仙女毛女にも出会ったが、なんともうつろなおももち。巨人龍伯が華山の蓮花峰を手にささげている。
毛女 仙女の名。始皇帝の官女だったが、秦の滅亡のあと華山に入り仙人となった。体中が体毛に覆われていたので「毛女」という(劉向『列仙伝』)。○無憀 無聊と同じ。頼りなげで、うつろな感じ。○龍伯 『列子』湯間に見える伝説上の大人国の名。ここではその巨人。○華嶽蓮 華山は五嶽の一つ。陝西省華陰県にある。その嶺の一つは蓮の花に似ているので蓮花峰と呼ばれる。



恍惚無倪明文暗、低迷不己断還連。
果てなく続くおぼろな世界、明るんだかと思えば暗くなる。朦朧としたまま、夢は途切れたかと思うとまた続く。
○恍惚 朦朧とした様子をいう双声の語。○無倪 果てしがない。○低迷 意識がぼんやりする様子をあらわす塁韻の語。哲康「養生論」(『文選』巻五三)に「夜分にして坐せば、則ち低迷して寝わんことを思う」。ばおっとしたなかで夢が切れたかと思うと続く。この二句のみが対を成し、夢とうつつのはざまの朦朧とした状態にたゆたうありさまをあらわす。


覚來正是平堦雨、未背寒燈枕手眠。
目覚めれば、なんと降り続けた雨がきざはし一面を浸し、ほの暗いともし火もそのまま、手枕をして寝ていたのだった。
平堦雨 「堦」は「階」と同じ。部屋から外に降りる階段。そこに降った雨水が一面にたまっている状態をいう。○未背寒燈 「背燈」は寝る時に灯火の向きを変えて暗くすること。



七言排律
○韻   然、天、肩。管、煙、絃。田、蓮。暗、連、眠。


(李商隠ものがたり<要旨>
唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受け、837年、26歳にして進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度はなぜか、李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、娘を娶った。翌839年、王茂元の働きかけにより文人官僚のスタートとして最も理想的といわれる秘書省の校書郎に任官されるも、牛僧孺派からは忘恩の徒として激しい謗りを受けることになった。以後も李商隠は、処世のために牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官僚としては一生不遇で終わることとなる。しかし、これは詩人として選んだ道であった。この頃の詩人は、武人でなく、文人詩人としての生き方であったと考えるべきであろう。儒教的発想によりみると詩に、不遇を悔やむものといわれるものがあるや、よく読むと全く悔やむものではなく、矜持を感じるものである。儒教の垣根を取り払ってみなければ、李商隠は理解できない。




この詩は夢のなかで体験した神話的世界を、光、音の豊かなイメージを繰り広げながら描き出す手法で、上記物語<要旨>の強調部分を詠っている。特定の日付と人名は目くらましである。李商隠自身、嫁を娶り、文人スタートとして、華やかにデビューしたのだ。しかし、それは束の間の出来事であった。「旋」「少頃」「選巡」など時間の経過を示すことばによって夢の展開が夢の時間を追いながら記されていること、実際に降っていた雨の音を媒介として夢と現実が交叉していること、夢そのものを主題とした詩にしたてているが、実際の話を、竜宮を舞台に比喩しているのである。下に示す詩を参考にするとよくわかる。(李商隠のすべての詩を関連付けてみるとこの結論に達する)

哭劉蕡  李商隠 36 
寄令狐郎中 李商隠 37 
哭劉司戸二首 其一 李商隠 39 
哭劉司戸二首其二 李商隠 40
潭州 李商隠  41
桂林 李商隠  42 

陸游 麗わしの人、唐琬。(6)禹寺

陸游 麗わしの人、唐琬。(6)禹寺

八十四歳の年の春、陸游は禹跡寺に遊び、またも石に刻まれた自分の詞を見た。この詞を壁に書きしるしたのは五十年以上も前のこと、自分にとっては昨日のことのようでも、人々にとっては昔話でしかない。歳を重ねて、八十四、人生五十年といわれた時代、二十歳の思い出が石に刻まれて残されている。思い出よりも詩碑が残されていることへの嬉しさの方が強く感じられる詩である。


禹寺
禹寺荒残鐘鼓在、我來又見物華新。
寺にいて自分はいろんな考えをすることができない状況でいたら時を告げる鐘鼓の音がしてきた、私はまたここに来たわけだが、新たに来ている人たちは新たなものを見る様である。
紹興年上曾題壁、観者多疑是古人。

紹興に棲むよわいを重ねた者たちはかねてからの壁の題詩を知っている、この寺の観覧者はこの題詩についてむかしの人のことだと多いに疑っている。

禹跡寺にいて自分はいろんな考えをすることができないじょうきょうでいたら時を告げる鐘鼓の音がしてきた、私はまたここに来たわけだが、新たに来ている人たちは新たなものを見る様である。
紹興に棲むよわいを重ねた者たちはかねてからの壁の題詩を知っている、この寺の観覧者はこの題詩についてむかしの人のことだと多いに疑っている。



禹寺 荒残れて 鐘鼓在り、我来りて又た見る 物華の新たなるを。
紹興の年上(ころおい) 曾て 壁に題せし、観る者 多く疑う 走れ古人なるかと



禹寺荒残鐘鼓在、我來又見物華新。
禹跡寺にいて自分はいろんな考えをすることができない状況でいたら時を告げる鐘鼓の音がしてきた、私はまたここに来たわけだが、新たに来ている人たちは新たなものを見る様である。
荒残 ものの考え方が大まか。深く考えない。


紹興年上曾題壁、観者多疑是古人。
紹興に棲むよわいを重ねた者たちはかねてからの壁の題詩を知っている、この寺の観覧者はこの題詩についてむかしの人のことだと多いに疑っている。
年上 ころおい よわいを重ねた者。老人たち、昔からこの壁を見ている者たち。

李商隠 7 無題(颯颯東風細雨來)

恋愛詩人・李商隠 7 無題(颯颯東風細雨來)
ひそかに心を寄せる貴族むすめ、何かそわそわして不安気な姿。しかし、心に思う人とは添い遂げられないもの、そんな時代なのだ。きっと愛の終末は不幸なもの。

 無題
1. 颯颯東風細雨來﹐芙蓉塘外有輕雷。
2. 金蟾嚙鎖燒香入﹐玉虎牽絲汲井回。
3. 賈氏窺帘韓掾少﹐宓妃留枕魏王才。
4. 春心莫共花爭發﹐一寸相思一寸灰。

「はやて」のようにふく風が春風となり、小糠雨を連れてきた。蓮の花が咲き乱れる庭の池のむこうの方でかろやかな雷が鳴っている。

ここ貴族の館では、誰を喜ばそうとするのか、新たに香が入れかえられ、黄金の香炉全体に浮彫りされた魔よけの蛙が、あたかも口をかみ合わしたかのように、錠前が閉ざされ、やがて薫り高い香煙が客間の方に広がってくる。そして井戸では、虎のかたちを刻んだ宝玉で飾ったの釣瓶の滑車が綱を引き井戸水が汲みあげられるにつれて回転する。

このように、この家の娘(令嬢)が、香をたかせ、化粧の水を汲ませるのは、晋の時代の大臣、賈充かじゆうの娘が、父の宴を簾越しに見たとき、韓寿という若い書記官を見初めた。その話の様に、この娘は誰か心に慕う人あってのことだろう。しかし、魏の甄后が、七歩の才という文才に秀でた弟の曹植に心寄せながらも、兄の曹丕に嫁がせられたように、いずれは死後のかたみに贈る枕でしか、思いを遂げることのできない非運に泣かぬようにせねばならのではあるまいか。

萌えたぎる若き春の心は、花同志が競いあうことはない、その心にあるひと時の愛の燃えるたかまりはひと時後には灰となり、一寸の相思はやがて一寸の死灰となっておわる。


1. 颯颯たる東風 細雨来る、 芙蓉塘外 軽雷有り
2. 金蟾きんせん 鎖を齧かみ 香を焼きて入り、 玉虎 糸を牽き 井を汲みて回る
3. 賈氏 簾を窺いて 韓掾かんえんは少わかく、 宓妃 ふくひ 枕を留めて 魏王は才あり
4. 春心 花と共に発ひらくを争うこと莫かれ、 一寸の相思 一寸の灰



1. 颯颯東風細雨來﹐芙蓉塘外有輕雷。
「はやて」のようにふく風が春風となり、小糠雨を連れてきた。蓮の花が咲き乱れる庭の池のむこうの方でかろやかな雷が鳴っている。
颯颯 はやて。疾風。さかんなさま。風のさやさやと吹く形容。楚の屈原(紀元前339-278年)の「楚辞」九歌に「風は楓楓として木粛蒲たり。」と。王維(699-761)輞川集13「欒家瀬」 とても味わい深い、いい詩なので紹介する。

欒家瀬
颯颯秋雨中、浅浅石溜瀉。
波跳自相濺、白鷺驚復下。

欒家瀬 (らんからい)
颯颯(さつさつ)たる秋雨(しゅうう)の中(うち)、浅浅(せんせん)として石溜(せきりゅう)に瀉ぐ
波は跳(おど)って自(おのずか)ら相い濺(そそ)ぎ、白鷺(はくろ)は驚きて復(ま)た下(くだ)れり

また、杜甫(712-770)「石龕」颯颯驚蒸黎 颯颯として人民を驚かすや と使う。王維の使い方に李商隠の詩は似ている。
東風 はる風。○芙蓉 蓮の花。○ いけ。或いは池畔。○軽雷 かろやかな雷のとどろき。

2. 金蟾嚙鎖燒香入﹐玉虎牽絲汲井回。
ここ貴族の館では、誰を喜ばそうとするのか、新たに香が入れかえられ、黄金の香炉全体に浮彫りされた魔よけの蛙が、あたかも口をかみ合わしたかのように、錠前が閉ざされ、やがて薫り高い香煙が客間の方に広がってくる。そして井戸では、虎のかたちを刻んだ宝玉で飾ったの釣瓶の滑車が綱を引き井戸水が汲みあげられるにつれて回転する。
金蟾嚙鎖 金は黄金、そして一般に華麗な装飾のほどこされた物品の形容。蟾はひきがえる。湿気が病気のもとと考えられていた時代。カエルが湿気を呑むとされ、健康を願って香炉をその形に造った。操は錠前。擬人的表現で、香炉の蓋が閉ざされることを、その飾りものの蛙が噛むというもの。○玉虎牽絲 玉は宝石。また金殿玉楼というように広く豪華なものの形容。玉虎は虎の形を浮き彫りに轆轤=歯車をいう。飾り立てた香炉だけならまだしも、井戸の釣瓶の滑車にも豪華な金玉の飾りをしている奢侈なことを風刺している。

3. 賈氏窺帘韓掾少﹐宓妃留枕魏王才。
このように、この家の娘(令嬢)が、香をたかせ、化粧の水を汲ませるのは、晋の時代の大臣、賈充かじゆうの娘が、父の宴を簾越しに見たとき、韓寿という若い書記官を見初めた。その話の様に、この娘は誰か心に慕う人あってのことだろう。しかし、魏の甄后が、七歩の才という文才に秀でた弟の曹植に心寄せながらも、兄の曹丕に嫁がせられたように、いずれは死後のかたみに贈る枕でしか、思いを遂げることのできない非運に泣かぬようにせねばならのではあるまいか。
賈氏窺帘韓掾少 西晋時代の宰相賈充(217-282)の令嬢と、若い書記官韓寿との物語をさす。賈氏は賈の姓の女性という意味。劉宋・劉義慶「名士言行録」『世説新語』惑溺篇に「賈充のむすめ賈氏は、父の宴の客たちを青簾の中から窺って、韓寿の美貌を見そめ、以後二人は情を通じ合った。のちに令嬢の用いている高貴な香料の香りで、韓寿が賈氏のもとに通っている事が発覚した。その香料は外国からの献上品で大臣の陳騫(221-292)と賈充だけに朝廷から賜ったものだったからである。だが、賈充はそれを秘め、韓寿を婿養子とした。」とある掾は太府掾、大臣つきの書記官である。○宓妃留枕魏王才 魏の陳思王曹植(192-232)にからまる悲恋の物語をさす。曹植がみそめた甄逸のむすめを、父の曹操(155-220)は、当時五官中郎将だった兄の文帝曹杢(186-226)にめあわせてしまった、〕 いわゆ 甄后である。彼女は謗られて早く死んだのだが、黄初年問、洛陽におもむいた曹植は兄の文帝から甄后の遺品である枕を示され、覚えず涙を流したという。帰途、洛水のほとりで甄后の霊が現われ、「妾はもとから貴方が好きでした。生時には枕を兄上様にあげましたけれど、今、この枕を貴方にさしあげます。貴方のお顔をもっと見たい。」と言って消え去ったという。曹植の洛神の賦は、太古の帝王伏羲氏のむすめ宓妃が洛水に入水して川の精となったという伝説にもとづいて作られているが、実は甄后をしのんで作られたものという。曹植は七歩の才といわれ、七歩詩が有名。


4. 春心莫共花爭發﹐一寸相思一寸灰。
萌えたぎる若き春の心は、花同志が競いあうことはない、その心にあるひと時の愛の燃えるたかまりはひと時後には灰となり、一寸の相思はやがて一寸の死灰となっておわる。
一寸 心臓の大きさは一寸といわれる。○相思 恋。片思いでも相思という。李賀(790~816)「神絃」(相思 木帖す 金の舞鸞)に使う。本当は相思相愛であるのに木に貼られて片方しか見えない。



無題
晩楓たる東風 細雨来る
芙蓉塘外 軽甫有り
金糖 鎖を轟み香を焼きて〃り
玉虎 糸を牽き井を汲みて回る
か し  すだれ うかが   かんえん わか
質氏 簾を親いて 韓按は少く

怒妃 枕を留めて 魂王は才あり
春心 花と共に発くを争うこと莫かれ
一寸の相思一寸の灰

建安の三曹 曹操 曹丕 曹植

武帝(曹操)(ぶてい・そうそう) 155年 - 220 後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 ・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿 ・蒿里行 ・薤露

曹丕・文帝(そうひ・ぶんてい) 187~226 三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220~26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。 寡婦   ・典論  ・画餅  ・燕歌行  ・善哉行  ・王は驢鳴を好めり

曹植(そうしょく) [192~232] 中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。→建安体 →七歩(しちほ)の才 七歩詩 ・怨詩行  ・野田黄雀行  ・贈白馬王彪  ・左顧右眄   七哀詩

李商隠 5 登樂遊原

李商隠 5 登樂遊原


登樂遊原
向晩意不適,驅車登古原。
夕陽無限好,只是近黄昏。


日暮に近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。馬車を命じて郊外に出、西のかた、楽遊原に私は登ってみた。陵があちこちにある歴史古き高原の空はいましも夕焼けに染まり、落日は言い知れぬ光に輝いている。とはいえ、その美しさは、夕闇の迫る、短い時間の輝きにすぎず、やがてたそがれの薄闇へと近づいてゆくのだけれども。

樂遊原に 登る
晩(くれ)に向(なんな)んとして 意(こころ)適(かな)わず,車を驅(か)りて  古原に登る。
夕陽  無限に好し,只だ是れ  黄昏に近し。
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樂遊原
地名で長安の東南にある遊覧の地で、高くなっており、長安を眺め渡すことができる古来からの名勝地で漢の武帝のころからすでにそうだという。7/15ブログの地図に示した地点6月24日李白43杜陵絶句 五言絶句で
南登杜陵上、北望五陵間。
秋水明落日、流光滅遠山。
南のかた杜陵の上に登り、北のかた五陵の間を望む
秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す
mapchina003

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杜牧の「將赴呉興登樂遊原」
淸時有味是無能,閒愛孤雲靜愛僧。
欲把一麾江海去,樂遊原上望昭陵。
清時(せいじ)味有るは是(これ)無能
滝(しづか)に孤雲(こうん)を愛し静に僧を愛す
一麾(いっき)を把(と)って江海(こうかい)を去らんと欲し
楽遊原上昭陵(らくゆうげんじょうしょうりょう)を望む
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平穏な時代は無能な者ほど味わいがある、静かに雲を眺めたり僧と話しをした。
地方長官の旗を執っていよいよ出発する時に、楽遊楼に上って昭陵を眺めた
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楽遊原は長安の城郭の内側にあり曲江の北にある。眼下に長安のまちが広がり、すぐ北の方には東市がある。ずっと北には昭陵(太宗李世民の墓)を望む。この小高い場所からは北と西しか望めない。すぐ近くにある場所なので、別れの時、夕日が沈みかけたころに登るのである。

したがって、樂遊原の詩題のものは、落ち込んだ詩になるのである。この作品は、僅かの間、美しく輝く夕陽の素晴らしさを詠んでいるが、左遷を命じられ数日のうちに旅立つ前に上ったのだろう。「朝廷には、意に沿わない連中がたくさんいる。」いらだつ気持ちを抑えつつも、登ってみると素晴らしい景色。その美しさは、夕闇の迫る、短い時間の輝きにすぎず、やがてたそがれの薄闇へ。宦官たちの暗躍を連想させる詩ととらえる。
「夕陽無限好,只是近黄昏。」の聯が現代で年を取っていく心境に使われる。


choan9ryo

向晩意不適、驅車登古原。
日暮に近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。馬車を命じて郊外に出、西のかた、楽遊原に私は登ってみた。
○向晩 夕方。暮れ方。名詞。 ○意 思い。心。気分。 ○不適 調子がわるい。具合が悪い。不快感がある。かなわない。

○驅車 車を駆って。馬車に乗って。馬車を出して。 ○古原 由緒ある古くからの原。ここでは長安の東南にあって、長安を眺め渡すことができる景勝地のことになる。後世、清・王士禛は『即目三首其一』で「蒼蒼遠煙起,槭槭疏林響。落日隱西山,人耕古原上。」と使う。 ○夕陽 夕日。 ○無限好 (白話か)限りなくよい。「好」は、「良」「佳」「善」「美」…等とは意味が違う。「好」は、似合って形の良いことをはじめとして、口語では広く使われることば。「良」は、悪(あく)ではなくて、善良なこと、という具合に使い分けが儼然としている。


夕陽無限好、只是近黄昏。
陵があちこちにある歴史古き高原の空はいましも夕焼けに染まり、落日は言い知れぬ光に輝いている。とはいえ、その美しさは、夕闇の迫る、短い時間の輝きにすぎず、やがてたそがれの薄闇へと近づいてゆくのだけれども。
 ○只是 ただ…ではあるが(しかし)。 ○近黄昏 たそがれに近い。間もなくたそがれになる。



李白の詩 連載中 7/12現在 75首

2011・6・30 3000首掲載
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李商隠の女詞特集ブログ連載中
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 李白の漢詩特集 連載中
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李商隠 4 曲江

曲江もものがたりである。おもな舞台は長安である。
choan9ryo
 

 

李商隠 4 曲江



人も知る、文京皇帝の痛ましき崩御の後は、楼閣聳え、広い庭園のある遊園地・この曲江の池畔に、かつてはしばしば御出駕あった天子の車、そして寵妃楊賢妃の翡翠で飾った乗物を、いくら見つめても、もう見る事ができなくなった。夜更ともなれば、昔、東晋の世、王氏の家の人が耳にしたような、姿なきものの悲しい歌声を人は聞くばかりである。

 皇帝の金のくるまはもはやここに返らず、帝の行幸には常に付き随った楊賢妃の傾国の美貌もは永遠に帰らない。たとえ、今も宮殿は池畔にくっきりと聳え立ち、その愛妃の骨の埋められしゆえに波立つ、下屋敷の庭池の水に、はっきりと影を落としているとはいえ、失われたものは帰ってはこない。

 かつて、晋の陸機は、冤罪に死を賜って、故郷を思い、あの華亭の鶴の鳴き声をもう二度と聞けぬと辞世した。同じ頃、老いたる索靖は不幸な予感に涙しながら、洛陽門の駱駝の銅像を指さし、いずれお前を、荊(いばら)の生いしげる廃墟の中で見ることとなろうと嘆いたという。今、この乱れんとする世に、とりわけ甘露の変より以後は、いちいち名指さなくても、どれだけの人があの陸機の悲しみに悲しみをかさね、罪なき罪に貶められ、殺されたことだろう。また幾人が力及ばぬ索靖のような憂国の憂いに沈んだままでいたことか。

 だが、たとえ天変地変のようなはげしい革命がこのように続き、心はずだずたに砕けようとも二人の女性の惨死を聞き知り、春にも喩うべきその人の死を傷む心にくらべれば、あい続く動乱にくじける心のかなしみも何ほどのこともないと思えるのだ

曲江 
望断平時翠輦過、空聞子夜鬼悲歌。
望断す 平時 翠輦の過りしを、空しく聞く 子夜 鬼の悲歌するを
金與不返傾城色、玉殿猶分下苑波。
金與(きんよ)は返らず 傾城の色(かんばせ)、宝殿は猶お分つ 下苑の波
死憶華亭聞唳鶴、老憂王室泣銅駝。
死せまりて憶う 華亭に唳鶴を聞きしことを、老いては王室を憂えて銅駝に泣く
天荒地欒心雖折、若比傷春意未多。

天荒れ地変じ心折ると雖も、若し春を傷むに此ぶれば意(こころ)未だ多からじ


曲江
望断す 平時 翠輦の過りしを、空しく聞く 子夜 鬼の悲歌するを
金與(きんよ)は返らず 傾城の色(かんばせ)、宝殿は猶お分つ 下苑の波
死せまりて憶う 華亭に唳鶴を聞きしことを、老いては王室を憂えて銅駝に泣く
天荒れ地変じ心折ると雖も、若し春を傷むに此ぶれば意(こころ)未だ多からじ


曲江
○曲江 古くから長安の南の郊外にある遊園地。唐の玄宗皇帝李隆基(685~752)の時改修して景勝の地とした。楼閣あり、庭園あり、寺社あり、士女官妓遊宴し、毎年三月三日の節句には公式の園遊会がこで催された。詳細は唐の康駢の「劇談録」に見える。唐の文宗皇帝李昂(809~840年)もしばしば寵姫楊賢妃をともなって、ここに遊んだが、甘露の変(835年)の後、補修作業も中止され、行幸も止んだ。詩は文宗の没後、後継争いから楊賢妃殺され、死骸が曲江に葬られた事を感慨する(馮浩の説)。
宦官は、虚勢を施した朝廷の侍従たち755~763安史の乱後の政治的混乱に乗じ権力を増大させ、数も数十人から5・6000にまで膨らんだ。「尚父」と号し大臣級の位まで持った。文宗は即位したときもほとんど実権を握られていた。準備周到に進められた一時は成功すとみられたが(835年)、文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件「昨夜、甘露が降りてきた」と偽って宦官を一か所に集め殺そうとしたが、宦官の組織力が強く、失敗した。唐における宦官勢力の権力掌握がさらに強めることとなった事件。甘露の変という。

mapchina003李商隠 4 曲江、5楽遊園を示す

望断平時翠輦過、空聞子夜鬼悲歌。
人も知る、文京皇帝の痛ましき崩御の後は、楼閣聳え、広い庭園のある遊園地・この曲江の池畔に、かつてはしばしば御出駕あった天子の車、そして寵妃楊賢妃の翡翠で飾った乗物を、いくら見つめても、もう見る事ができなくなった。夜更ともなれば、昔、東晋の世、王氏の家の人が耳にしたような、姿なきものの悲しい歌声を人は聞くばかりである。
○望断 望は遠くからみる。断は視界のとどかぬ事だが、ここは、以下の事柄のもう見られなくなったことをいう。○平時 つねきろ。かねがね。○翠輦 翠玉でかざった車、皇后や寵妃の乗る車と思われる。○子夜 第一の意味は真夜中ということだが、南北朝時代の歌謡に子夜歌という、南方から発生した一群の恋愛民歌をも指す。その曲詞は、東晋の時代、子夜なる乙女が初めに作り、東晋の孝武帝司馬曜(362~396年)の太元年間、琅椰の名族王氏の家で、亡霊がこの子夜を歌ったと伝えられ(「末書」楽志)、またその声は哀切に過ぎるものだったとも伝えられる(「唐書」楽志)。李白も呉の国の恋歌としてうたった。李白25子夜呉歌 ○鬼 亡霊。


金與不返傾城色、玉殿猶分下苑波。
皇帝の金のくるまはもはやここに返らず、帝の行幸には常に付き随った楊賢妃の傾国の美貌もは永遠に帰らない。たとえ、今も宮殿は池畔にくっきりと聳え立ち、その愛妃の骨の埋められしゆえに波立つ、下屋敷の庭池の水に、はっきりと影を落としているとはいえ、失われたものは帰ってはこない。
○金輿 天子の車。○傾城色 その妖艶な色香の一瞥で城をも滅ぼすほどの美貌。漢の協律郎<李延年>が妹を武帝劉徹(紀元前157~87年)に薦めて歌った詩の一節、「一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾けん。」からこの語にしている。皇帝の気に入られる事前調査済みの美人が差し向けられる場合、命を受けている。麗しい色気と回春の媚薬とでとりこにして行き、中毒死させていくのである。この役割の一端を宦官が担っていた。○下苑 「漢書」元帝紀に、この語が見え、顔師古の注に、京城東南隅の曲江なりとある。


死憶華亭聞唳鶴、老憂王室泣銅駝。
かつて、晋の陸機は、冤罪に死を賜って、故郷を思い、あの華亭の鶴の鳴き声をもう二度と聞けぬと辞世した。同じ頃、老いたる索靖は不幸な予感に涙しながら、洛陽門の駱駝の銅像を指さし、いずれお前を、荊(いばら)の生いしげる廃墟の中で見ることとなろうと嘆いたという。○華亭唳鶴 華亭は江蘇省松江県西方の渓谷の名。呉の滅亡後、陸機(261~303年)はそこに隠棲した。陸機は呉の貴族、弟の陸雲(262~303年)と、祖国滅亡後、共に上洛して晋朝に仕えたが、乱世のこと、しばしばその主を変えねばならなかった。いわゆる八王の乱の第三クーデターの時、彼は成都王司馬頴の将軍として長沙王司馬乂と戦ったが大敗、宦官孟玖に誹謗され、陣中に殺された。処刑の間際に、「あの華亭鶴の鳴き声をもう二度と聞けぬ。」と嘆いたという=陸士衡集」十巻がある。○王室泣銅駝 西晋の五行学者索靖(239~303三年)の故事。銅駝は洛陽王宮の南、東西に走る街路。王宮から南へ走る路との交叉点に、青銅の駱駝の像が相対して立てられていた。索靖は、天下の混乱を予見し、その銅駝を指さして、「今は宮門に据えられたお前を、そのうち荊の茂る廃墟で見ることとなろう。」と慨嘆したという。事実、やがて いわゆる五胡の晋都侵攻があり、洛陽は半ばが灰燼に帰した。


天荒地欒心雖折、若比傷春意未多
今、この乱れんとする世に、とりわけ甘露の変より以後は、いちいち名指さなくても、どれだけの人があの陸機の悲しみに悲しみをかさね、罪なき罪に貶められ、殺されたことだろう。また幾人が力及ばぬ索靖のような憂国の憂いに沈んだままでいたことか。だが、たとえ天変地変のようなはげしい革命がこのように続き、心はズダズタに砕けようとも二人の女性の惨死を聞き知り、春の花のようなその人の死を傷む心にくらべれば、あい続く動乱に挫ける心の悲しみも何ほどのこともないと思えるのだ
○心折 心が悲しみにくじける。盛唐の詩人杜甫(712~770年)の冬至の詩に「心折れ此の時一寸無し。」と。○傷春 実は文宗の寵妃楊賢妃の死を悼むことば。
甘露の変(かんろのへん)とは、唐の大和9年(835年)、文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件だが、失敗した。そのことにより中唐期以降、唐における宦官勢力の権力掌握がほぼ確実となったもの。





 人も知る、文京皇帝の痛ましき崩御の後は、楼閣聳え、広い庭園のある遊園地・この曲江の池畔に、かつてはしばしば御出駕あった天子の車、そして寵妃楊賢妃の翡翠で飾った乗物を、いくら見つめても、もう見る事ができなくなった。夜更ともなれば、昔、東晋の世、王氏の家の人が耳にしたような、姿なきものの悲しい歌声を人は聞くばかりである。

 皇帝の金のくるまはもはやここに返らず、帝の行幸には常に付き随った楊賢妃の傾国の美貌もは永遠に帰らない。たとえ、今も宮殿は池畔にくっきりと聳え立ち、その愛妃の骨の埋められしゆえに波立つ、下屋敷の庭池の水に、はっきりと影を落としているとはいえ、失われたものは帰ってはこない。

 かつて、晋の陸機は、冤罪に死を賜って、故郷を思い、あの華亭の鶴の鳴き声をもう二度と聞けぬと辞世した。同じ頃、老いたる索靖は不幸な予感に涙しながら、洛陽門の駱駝の銅像を指さし、いずれお前を、荊(いばら)の生いしげる廃墟の中で見ることとなろうと嘆いたという。

 今、この乱れんとする世に、とりわけ甘露の変より以後は、いちいち名指さなくても、どれだけの人があの陸機の悲しみに悲しみをかさね、罪なき罪に貶められ、殺されたことだろう。また幾人が力及ばぬ索靖のような憂国の憂いに沈んだままでいたことか。だが、たとえ天変地変のようなはげしい革命がこのように続き、心はズダズタに砕けようとも二人の女性の惨死を聞き知り、春の花のようなその人の死を傷む心にくらべれば、あい続く動乱に挫ける心の悲しみも何ほどのこともないと思えるのだ


李白の詩 連載中 7/12現在 75首

2011・6・30 3000首掲載
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李商隠 3 聞歌

李商隠 3 聞歌


李商隠の詩は小説である。漢詩ととらえて、言葉だけを並べたのでは何の意味か分からないものになってしまう。これまでの李商隠1,2ではまだ通常の現代訳(kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ)という形でよかったが、それでは、李商隠の詩の良さは分からない。詩商隠の詩は、その語句の背景にある物語を考え併せて読んでいかないと李商隠の素晴らしさが伝わらないのである。
 李商隠は詩を書くのにほとんど自分の部屋で、机のまわりにいろんな書物、故事に関連したものなど並べて書いたそうである。「獺祭魚的方法」で書かれている。したがって、その背景こそ重要なものなのである。
また、密偵、内通などにより、親しい人、官僚の死、流刑、左遷と衰退していく唐朝の中で暗黒の時代でもあった。男女の愛についてもこうした背景で見ていかないと、単に死んだ妻を偲んで詠ったもの的な解釈になるのである。李商隠における「エロ」的表現には社会批判、当時の権力者への批判が込められている。そういう意味で味わい深い詩なのである。 


ここに薄幸の宮女一人。何を悲しむのか頻をこわばらせ、眼差しを中空の一点にそそいで、いまの思いを歌おうとしている。むかし韓蛾が歌をうたえば、町中が哀哭した。秦青が歌えば、その響きによって行雲を止めたという。見よ、いま不遇の宮女の歌声に高雲も感じとって流れをやめたではないか、あたかも色うす青く、嵯峨たる峻嶽のごとく動かなくなった。

かつて、魏の武帝は銅雀台を築いて芸妓をはべらせ、そしてその臨終の際に、「我れ死せるのちも、月の初めと十五日、我れ在るごとく帷(とばり)に向って妓楽せしめ、また台上から我が墓陵を望ましめよ。」と子に遺言した。だが、武帝の崩御ののちは、後宮を追い出だされたであろう宮女達は、そののち一体どこに身を寄せたのだったろう。いや、皇帝の死後でなくても、隋の煬帝がそうであった。都をうちすてて遠く巡遊に明け暮れる天子の車を、女御達は幾度び空しく待たねばらなかったことか。

そればかりではない。今を去る漢の元帝の御代、宮女王昭君は政略結婚の犠牲となり、匈奴の王父子に凌辱され、故郷をしのびつつ異郷にひとり死んだ。なま臭い食に飽き、雁の翼をかりて故郷に消息を寄せようとした時、雁は彼女をふりかえらず、いま青塚といわれるその墓のあたりには、雁はその影すら見えぬ。また、楚の霊王が細腰の美女を好んだとき、宮女らは、我こそ寵を得んとして、食をへらし食を断ち、ある者はそのために餓死したという。いまはしかしその離宮のあとを、野暮で無作法な北方の人が通りすぎるに過ぎない。

このように、聞く人の腸をねじれさせる宮女の悲歌は、今日この日に限ってのものではないのだ。
いわば悲運こそ、囲われる者の運命なのだから。ひちたび、消えうせた香炉のかおり、燃えつきた灯火は、再び香らず、再び輝きはしない。それ故に、怨みの歌声のいかに悲しかろうと、一端、寵愛を失えば、もはやそれをどうする術もありはしない、歌っている薄幸の宮女よ。

聞歌
斂笑凝眸意欲歌,高雲不動碧嵯峨。
銅臺罷望歸何處,玉輦忘還事幾多。
靑冢路邊南雁盡,細腰宮裏北人過。
此聲腸斷非今日,香灺燈光奈爾何。


歌を聞く
笑を斂 眸(ひとみ)を凝らして意歌わんと欲し,高雲 動かず  碧 嵯峨(さが)たり。
銅臺 望むを罷めて   何處にか歸り,玉輦(ぎょくれん) (かへ)るを忘るる事 幾多(いくばく)ぞ。
靑冢(せいちょう)の路邊  南雁 盡き,細腰宮 裏  北人 過(よぎ)る。
此の聲の腸(はらわた)斷つは  今日のみに 非ず,香 灺(き)え 燈 光り  爾(なんぢ)を 奈何(いかん)せん。

靑冢は王昭君のこと 紀頌之のブログ参照 34 王昭君二首 五言絶句 王昭君二首 雑言古詩 35李白王昭君詠う(3)于巓採花

詩の訳註、解説について長いので、別の機会に漢文委員会HP に掲載することとする。

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