中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊(東野)  漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 訳注解説ブログ

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

五言排律

中唐詩-274 酔後 韓愈 Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-30

中唐詩-274 酔後 Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-30

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次の皇帝が新たに聖明の徳を継承され、国のすみずみまで日ごとに教化が流れている。私はただこの傷を源ぎたいと思うばかりで、そうしたら官界から永久に去って農業に従事したい。嵩山を切りひらいて山小屋を建て、頴水の岸辺に風を受ける高殿をそびえ立たせよう。土地いっぱいに稲や麦をまき、家の周囲にぐるりと梨や菜の樹を植えよう。子供たちもだんだん大きくなれば、穀物を荒らす雀や鼠をおどして追いはらうのには役だつだろう。こうしてお上の租税はきちんと納め、時には地酒を作って、飲みに来いと村人たちに誘いをかけよう。心のどかに老農の愚直さを愛し、家に帰ってからはがんぜない娘をあやして楽しもう。今となってほ望むところはこれだけだ。息子の嫁とり、娘の嫁入りがすむのを待つ必要がどこにあろうか。

「県斎」とは県令の官舎内にある書斎のことである。ただし官舎といっても、県庁の建物といっしょになっていることが多い。つまり表は県庁で、裏は官舎なのである。県斎も、県令が読書をしたりするプライベートな部屋なのだが、そこを執務室のようにして使うことがある。このあたりの公私の区別は、あまりはっきりしない。恵は流罪になったのだが、形式上は陽山県令の辞令をもらっているので、陽山という片田舎の範囲内では、県令としてふるまうことができる。

この詩のなかの言葉から見れば、このときの韓愈は新帝順宗の即位をすでに知っていた。即位の儀式が挙行されれば、慣例として大赦が行なわれる。そこで恵も、大赦の恩典に浴して青天白日の身となり、そのかわりに官界から引退して農耕に余生を送ろうと哀訴しているのである。のちにもう一度述べるが、愈は順宗の側近ににらまれたのがこのたびの流罪の原田となったのではないかという疑念を抱いていた。だがこの際、そんなことを問題にしてはいられない。ひたすら哀訴嘆願するはかりであった。

即位期間 786-804 徳宗  (韓愈 19歳―37歳)
  〃   805-805 順宗  (〃   38歳    )
  〃   806-820 憲宗  (〃   39歳―53歳)

もっとも、順宗は皇太子から帝位にはついたものの、このときすでに四十五歳。しかも、どういう病気にかかったのか、前年からものが言えなくなっていた。政策はほとんど順宗側近の王伾・王叔文らによって決定されていたが、それが革新的な政策だったために、問題が大きくなった。徳宗の治政は長く続いたので、さまざまな弊害が法令または慣習として定着している。それを改めるために、新たに帝位についた皇帝を利用しようとしたのは当然であるが、新帝が病気では、それを利用して政治の壟断をほかるものという声が起こるのもやむを得ない。改革によって利権を失った保守派は、この点から革新派を攻撃する。

結局、その年の八月に順宗は退位し、皇太子だった憲宗が即位した。順宗の治政は半年強しか続かなかったわけで、革新派は全面的な敗北に終わったのである。王佐は流罪、王叔文は流罪ののち自殺を命ずるという処分を受けた。また改元が行なわれ、貞元二十一年を永貞元年と呼ぶことになった。


酔後
煌煌東方星、奈此衆客酔。
今、きらきらと東の空に希望の龍の星が輝いているというのに、この客たちは何を考えているのだろう、この酔いぶりはどうしようもない。
初喧或忿爭、中静雜嘲戯。
始めは大声をだし、騒がしくて喧嘩をする者もあるが、中ごろは静かになってきた、女をからかう者も戯言をするものが出てくるのだ。
淋漓身上衣、蘇倒筆下字。
一生懸命で上着のからだにつけている着物はびっしょりぬれている、本来なら筆を持つ手がスラスラ行くはずなのに、字が傾いてうまく書けないのだ。
人生如此少、酒購且勤置。
人生にはこんなに酔ってしまうことはめったにないことでここだからできるというものだ。酒も安いことだ、できる限りこの場をそのままにしておこう。

(酔後)
煌煌【こうこう】たり東方の星、此の衆客の酔えるを奈【いかん】せん。
初めは喧【かまびす】しくて或いは忿争し、中ごろは静かにして嘲戯を雑う。
淋漓たり身上の衣、顚倒す筆下の字。
人生 此の如きこと少なり、酒は賎【やす】し、且【しばら】く勤めて置け。


現代語訳と訳註
(本文) 酔後

煌煌東方星、奈此衆客酔。
初喧或忿爭、中静雜嘲戯。
淋漓身上衣、顚倒筆下字。
人生如此少、酒購且勤置。


(下し文) (酔後)
煌煌【こうこう】たり東方の星、此の衆客の酔えるを奈【いかん】せん。
初めは喧【かまびす】しくて或いは忿争し、中ごろは静かにして嘲戯を雑う。
淋漓たり身上の衣、顚倒す筆下の字。
人生 此の如きこと少なり、酒は賎【やす】し、且【しばら】く勤めて置け。


(現代語訳)
今、きらきらと東の空に希望の龍の星が輝いているというのに、この客たちは何を考えているのだろう、この酔いぶりはどうしようもない。
始めは大声をだし、騒がしくて喧嘩をする者もあるが、中ごろは静かになってきた、女をからかう者も戯言をするものが出てくるのだ。
一生懸命で上着のからだにつけている着物はびっしょりぬれている、本来なら筆を持つ手がスラスラ行くはずなのに、字が傾いてうまく書けないのだ。
人生にはこんなに酔ってしまうことはめったにないことでここだからできるというものだ。酒も安いことだ、できる限りこの場をそのままにしておこう。


(訳注) 酔後
煌煌東方星、奈此衆客酔。

(煌煌【こうこう】たり東方の星、此の衆客の酔えるを奈【いかん】せん。)
今、きらきらと東の空に希望の龍の星が輝いているというのに、この客たちは何を考えているのだろう、この酔いぶりはどうしようもない。
○煌煌【こうこう】きらきらと輝くさま。明るく照るさま。○東方星 五行思想では東方の色は青だったので、青龍と呼ばれた。そこにインドから仏教とともにナーガーラジャ(蛇神)が伝来し、これが龍王と翻訳されたことから、龍王という呼び方が定着したという。皇帝が没し、順宗が即位し、新しい希望持つことを、東方で表し、万物の生まれ成長していく原点が東方にある。


初喧或忿爭、中静雜嘲戯。
(初めは喧【かまびす】しくて或いは忿争し、中ごろは静かにして嘲戯を雑う。)
始めは大声をだし、騒がしくて喧嘩をする者もあるが、中ごろは静かになってきた、女をからかう者も戯言をするものが出てくるのだ。
初喧 始めは大声をだし、騒がしくする。○忿爭 て喧嘩をする者もある。○中静 宴の中ごろは静かになってきた。○雜嘲戯 戯言、女をからう、酔いの勢いに乗って混じり合うさま。


淋漓身上衣、顚倒筆下字。
(淋漓たり身上の衣、顚倒す筆下の字。)
一生懸命で上着のからだにつけている着物はびっしょりぬれている、本来なら筆を持つ手がスラスラ行くはずなのに、字が傾いてうまく書けないのだ。
淋漓 したたるさま。元気や筆勢などの盛んなこと。 杜甫『奉先劉少府新畫山水障歌』「反思前夜風雨急,乃是蒲城鬼神入。元氣淋灕障猶濕,真宰上訴天應泣。」(反って思う 前夜 風雨 急なりしを、乃ち是 蒲城(ほじょう)に鬼神入る。元気 淋灕(りんり)として障 猶 湿う、真宰(しんさい)に上り 訴えて 天 応(まさ)に泣くなるべし。)顚倒 上句に淋漓があり、下句に筆が来ると筆の運びの勢いが盛んなことである。○上衣 からだにつけている着物。


人生如此少、酒購且勤置。
(人生 此の如きこと少なり、酒は賎【やす】し、且【しばら】く勤めて置け。)
人生にはこんなに酔ってしまうことはめったにないことでここだからできるというものだ。酒も安いことだ、できる限りこの場をそのままにしておこう。


当時朝廷を勝手気ままにしていた連中は、王伾・王叔文の一党であった。徳宗の末期には、不可解な事件が多く多くの文人が左遷されている。この詩で東の空に輝く星とは、東宮にある皇太子、後の憲宗をさす。
順宗は779年に立太子され、805年に徳宗の崩御により即位した。王叔文を翰林学士に任じ、韓秦、韓曄、柳宗元、劉禹錫、陳諌、凌准、程異、韋執宜ら(二王八司馬)を登用、徳宗以来続いていた官吏腐敗を一新し、地方への財源建て直し、宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞革新の政策を行なっているが、即位して間もなく脳溢血に倒れ、言語障害の後遺症を残した。さらに8月には宦官の具文珍らが結託して皇帝に退位を迫り、即位後僅か7ヶ月で長男の李純に譲位し、自らは太上皇となった。翌年に47歳で病気により崩御したが、宦官によって殺害されたものであった。

中央では、このような状況の中、韓愈は、牧歌的な地域の県令であり、何の手の施しようもなかった。詩のなかには制作年代を推定させる言葉が一つもないが、韓愈がこの詩を書ける時期として、陽山しかないのである。陽山での作に入れられているのは、このためである。


とにかく、このように、韓愈は王伾・王叔文の改革に反対で、保守派に所属していたから、王伾たちからは敵側と見られていた。韓愈の書き残したものには、政治的に革新派であったとは思えるものはない。
しかし、徳宗時代の「弊政」を擁護しょうとする態度もまったくない改革、革新性のない儒者なのである。王伾の一派には柳宗元や劉禹錫がおり、韓愈とは前からの友人であった。だから韓愈は王伾の一派に属すことができる可能性はあったが、王伾に対しては反感すらもっていたのである。


この詩の頭に「煌煌東方星」とあるのは、家臣たちの政治で左右されるものではなく、天子の徳に期待を持っていることをあらわしている。
五行思想では龍は東方を表して虎は西方を表し、また龍は水との縁に因んで北方を代表する動物として、虎は猛火を例えて南方を代表する動物として考えられている。龍と虎を描いて天下統一の思想と世界全体を表して用いられている。

木・火・土・金・水」の五元素によって自然現象や人事現象のいっさいを解釈し説明しようとする思想を五行説とよぶ。すなわち、あらゆる .... 東方は、太陽が昇る方向、南方は暑く、西方は白く輝く山々が有り、北方は冷たい地方とつながる。そして中央には、黄土に

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有感二首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 102

有感二首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 102


有感二首 其 二
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。
朱塗りのきざはしのもと、「甘露降る」との上奏が続いていたその時、突如、宮中の紅のお庭は戦場になり血で染まった。
臨危封盧植、始悔用龐萌。
存亡の危機に臨んだ天子は、宦官にも横暴な董卓にも抗した盧植のような忠臣を役づけた、ここにいたってはじめて光武帝の信頼を裏切った龐萌のごとき逆賊を用いたことを悔いたのだ。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
禁軍は正殿を奪還したものの、追いつめられた叛逆徒は激戦を続けた。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
右往左往、あわてふためいて五色の警棒が振り回される。混乱は冬至に至って陽気が生じる天子の運行をも押しとどめた。
古有清君側、今非乏老成。
いにしえより、天子の家臣でありながらよこしまな家臣を一掃した例はあるものだ、今なお忠実な老臣が乏しいということではない。
素心雖未易、此擧太無名。
もともとの忠誠心に変わりがないとはいえ、このたびの振る舞いはなんの大義名分もない。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
罪なくして殺された人たちは、おとなしく目を閉じ、口をつぐんでいられようか。むしろ、彼らが消え入りそうな声を黙って飲み込んでしまうことなどあるものか。
近聽開壽讌、不廢用咸英。』

ところがなんと近ごろ聞いた話では、天子の生誕を祝う宴が宮廷で開かれ、「咸池」、「六英」など、恒例の歌舞音曲を控えることすらしなかったのだと。


有感二首 其 二 現代語訳と訳注


(本文)
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。
臨危封盧植、始悔用龐萌。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。」
古有清君側、今非乏老成。
素心雖未易、此擧太無名。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
近聽開壽讌、不廢用咸英。」
  
(下し文)其の二
丹陛 猶お敷奏するに、彤庭(とうてい)歘(たちま)ち戦い争う。
危きに臨みて盧植(ろしょく)に対し、始めて悔ゆ 龐萌(ほうぼう)を用いしを。
御仗(ぎょじょう) 前殿を収め、兇徒 背城に劇す。
蒼黄たり 五色の棒、掩遏(えんあつ)す一陽生ずるを。』
古えより君側を清むる有り、今も老成乏しきに非ず。
素心 末だ易らずと雖も、此の挙 太(はなは)だ名無し。
誰か冤を銜(ふく)む目を瞑せん、寧(なん)ぞ絶えんと欲する声を呑まん。
近ごろ聞く 寿讌を開きて、咸英を用いるを廃せずと。』

  
(現代語訳)
朱塗りのきざはしのもと、「甘露降る」との上奏が続いていたその時、突如、宮中の紅のお庭は戦場になり血で染まった。
存亡の危機に臨んだ天子は、宦官にも横暴な董卓にも抗した盧植のような忠臣を役づけた、ここにいたってはじめて光武帝の信頼を裏切った龐萌のごとき逆賊を用いたことを悔いたのだ。
禁軍は正殿を奪還したものの、追いつめられた叛逆徒は激戦を続けた。
右往左往、あわてふためいて五色の警棒が振り回される。混乱は冬至に至って陽気が生じる天子の運行をも押しとどめた。
いにしえより、天子の家臣でありながらよこしまな家臣を一掃した例はあるものだ、今なお忠実な老臣が乏しいということではない。
もともとの忠誠心に変わりがないとはいえ、このたびの振る舞いはなんの大義名分もない。
罪なくして殺された人たちは、おとなしく目を閉じ、口をつぐんでいられようか。むしろ、彼らが消え入りそうな声を黙って飲み込んでしまうことなどあるものか。

 
(語訳と訳註)
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。

朱塗りのきざはしのもと、「甘露降る」との上奏が続いていたその時、突如、宮中の紅のお庭は戦場になり血で染まった。
丹陛 天子の宮殿の正殿の正面階段。赤く塗られているので「丹陛」という。○敷奏 朝臣が天子に奏上すること。太和9年11月壬戌の日、左金吾衛大将軍の韓約が朝会にて、「左金吾役所(左金吾衛)裏庭の石に昨夜、甘露が降った」と上奏。○彤庭 宮中の地面は赤く塗られていたが血の色に染まった。


臨危封盧植、始悔用龐萌。
存亡の危機に臨んだ天子は、宦官にも横暴な董卓にも抗した盧植のような忠臣を役づけた、ここにいたってはじめて光武帝の信頼を裏切った龐萌のごとき逆賊を用いたことを悔いたのだ。
盧植 後漢末の忠臣。何進が昏官誅殺を謀って殺されると臣官は少帝を宮中から連れ出したが、盧植は追いかけて宦官を殺し、少帝を奪回した。また董卓が少帝を廃して陳留王(献帝)を立てようとした際、朝臣がみな黙していた時に盧植のみが断固として反対を唱えた(『後漢書』盧植伝)。ここでは令狐楚に比す。この句には「是の晩 独り故の相影陽公を召して入らしむ」の自注がある。「影陽公」は影陽郡開国公に封ぜられていた令狐楚。『旧唐書』令狐楚伝に「(李)訓の乱の夜、文宗は右僕射鄭覃と(令狐)楚を召して禁中に宿せしめ、制勅を商量す。上は皆な用て宰相と為さんと欲す」。○龐萌 後漢初期の人。龐萌は、謙遜温順な人柄により光武帝から信任と寵愛を受け、「可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也」(若い孤児を託せ(=後見を任せ)、百里四方の国の命(=政令つまり政事)を任せられるは、龐萌この人なり)とまで言わしめている。その後、龐萌は平狄将軍に任命された。任務失敗により、楚郡太守孫萌を殺害し、蓋延を撃破して、劉紆陣営に寝返ってしまう。寵臣から叛逆者へ変身した人物。ここでは鄭注、李訓を比喩している。


御仗収前殿、兇徒劇背城。
禁軍は正殿を奪還したものの、追いつめられた叛逆徒は激戦を続けた。
御杖 皇帝の儀仗兵。宦官と禁中の軍を指す。○前殿 正殿。ここでは含元殿。○背城 城を背にして死にものぐるいの戦いをする。


蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
右往左往、あわてふためいて五色の警棒が振り回される。混乱は冬至に至って陽気が生じる天子の運行をも押しとどめた。
蒼黄 あわてふためくさま。ここでは五色の棒にかけて、蒼、黄という色を用いた。〇五色棒 曹操は、洛陽の県尉であった若い時、五色の棒を用意して法を犯す者を厳しく取り締まり、有力な宦官蹇碩の叔父まで夜行の禁を犯したとして撲殺した。○掩遏 押さえつけて止める。〇一陽生 冬至に至って陽気が生じる。甘露の変の起こったのは陰暦十一月二十一日、冬至に近いので事件を連想させる。


古有清君側、今非乏老成。
いにしえより、天子の家臣でありながらよこしまな家臣を一掃した例はあるものだ、今なお忠実な老臣が乏しいということではない。
○清君側 君主のそばの奸臣、姦臣を除去する。○老成 経験が多く物事によく馴れている。ここでは令狐楚を指す。「老賊」にたいする「老成」。


素心雖未易、此擧太無名。
もともとの忠誠心に変わりがないとはいえ、このたびの振る舞いはなんの大義名分もない。
素心 もともとの思い。○無名 大義名分が立たない。


誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
罪なくして殺された人たちは、おとなしく目を閉じ、口をつぐんでいられようか。むしろ、彼らが消え入りそうな声を黙って飲み込んでしまうことなどあるものか。
誰瞑銜 瞑目は目を閉じるだけで何もしようとしない。銜は口を開かないこと。○冤目 冤は無実の罪。銜冤は罪もなく殺害された王渡ら朝臣を指す。○寧呑欲絶聲 「声を呑む」とは声に出せないほどの悲しみ。


近聽開壽讌、不廢用咸英。』
ところがなんと近ごろ聞いた話では、天子の生誕を祝う宴が宮廷で開かれ、「咸池」、「六英」など、恒例の歌舞音曲を控えることすらしなかったのだと。
寿讌 天子の生誕を祝う宴会。○咸英 古代の雅楽。黄帝の「咸池」と帝嚳の「六英」。 『荘子』(天運篇)に、「帝張咸池楽洞庭野」(黄帝、咸池の楽[黄帝の作った天上の音楽]を洞庭の野に張る)とある。咸池 音楽の名前。 咸は「みな」、池は「施す」を意味し、この音楽は黄帝の徳が備わっていたことを明らかにするもの。帝嚳の「六英」古代中国の伝説上の五聖君を尊称として「帝嚳」とし、六英等歌曲としてうたった。

送儲邕之武昌 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白174 と玄宗(7



○詩型 五言排律。
○押韻 奏、争。萌。城。生。/成。名。聲。英。


(参考)
令狐楚(れい こそ、766年 - 837年)は、中国・唐の詩人。原籍は敦煌(甘粛省)の人。しかし、一族は早くに宜州華原(陝西省耀県)に移り住んでいたので、華原の人とも言う。字は殻士(かくし)。貞元7年(791年)の進士。太原(山西省)節度使の幕僚となって文才を徳宗に認められ、憲宗朝では中書舎人から同中書門下平章事(宰相)に至った。穆宗朝では朝廷内の派閥争いのため地方に転出、各地の節度使を歴任し、敬宗朝では一時復活したが、山南西道節度使に任ぜられて、任地の興元(陝西省南鄭)で没した。

有感二首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 101

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有感二首 其一       
九服歸元化、三霊叶睿圖。
地上では九畿の果てまですべてのものが、世界の根元の働きに帰し、日月星、あるいは天地人が叡智に満ちた天子の目論見に叶うものである。
如何本初輩、自取屈氂誅。』
いまの御代になぜ、宦官を謀殺した漢の袁紹と同じことになった連中であったはずが、宦官の誣告で殺された劉屈氂同様の事態をみずから招いたのか。
有甚當車泣、因勞下殿趨。
むかし、漢の袁盎は文帝を諌めた、車に同乗した宦官の趙同は泣く泣く車から降りたが、それ以上にうるさく諌めたのが李訓だった。それが、天子に宮殿を下りて逃げ回り宦官に利用されご苦労をかけことになってしまったのだ。
何成奏雲物、直是減萑蒲。
なにゆえに、李訓は「瑞兆として甘露が降った」と奏上したのか。朝臣たちを萑蒲の草を刈りとるように激滅されたのはこれによるものではないか。
證逮符書密、詞連性命倶。
宦官らは証人をしらみつぶしに逮捕する周到な文書が発せられることになったし、証言に名前が出て、数珠つなぎとして、次々に朝臣の命は奪われたのだ。
竟緑尊漢相、不早瓣胡雛。』
匈奴の王も感嘆させた漢の宰相王商、それに劣らぬ見事な風貌の李訓に信を置いたはかりにこんな事態を呼び起こした。蔑称で「胡の雛」といわれたが、その一方、いずれ晋をおびやかすと予言され怖がられたが、攻める役割の鄭注のこの子供以下の無能さをを見抜く者はなかった。(鳳翔の節度使に詩、宦官殲滅軍の準備をさせたが、すべての行動は宦官に把握されていた。)
鬼籙分朝部、軍蜂照上都。
宦官は鬼籍に入った者と無関係者と選り分け帳を作り朝臣は二分され、操作のかがり火で大唐帝国の都は赤々と照らされたのだ。
政云堪慟哭、未免怨洪爐。』

この惨状を痛ましくおもっても、慟哭すら許されるものではないのだ、それでもなお、大きな溶鉱炉のような怨みのたかまりを述べずにはいられないのだ。

其の一

九服 元化に帰し、三霊 睿図に叶う。

如何ぞ 本初の輩、自ら取る 屈の誅。』

車に当たりて泣かしむるより甚だしき有るも、困りて殿を下りて趨るを労せしむ。

何ぞ成さん 雲物を奏するを、直だ是れ蒲を減す。

証逮えられ符書密なり、詞連なれば性命供にす。

竟に漢相を尊ぶに縁る、早に胡雛を弁ぜず。』

 朝部を分かち、軍烽 上都を照らす。

敢えて慟哭に堪うと云わんや、未だ洪爐を怨むを免れず。』



現代語訳と訳註 解説


(本文)
九服歸元化、三霊叶睿圖。』
如何本初輩、自取屈氂誅。
有甚當車泣、因勞下殿趨。』
何成奏雲物、直是減萑蒲。
證逮符書密、詞連性命倶。』
竟緑尊漢相、不早瓣胡雛。』
鬼籙分朝部、軍蜂照上都。
敢云堪慟哭、未免怨洪爐。』
 
(下し文)
九服 元化に帰し、三霊 睿図に叶う。』
如何ぞ 本初の輩、自ら取る 屈氂の誅。
車に当たりて泣かしむるより甚だしき有るも、困りて殿を下りて趨るを労せしむ。』
何ぞ成さん 雲物を奏するを、直だ是れ萑蒲を減す。
証逮えられ符書密なり、詞連なれば性命供にす。
竟に漢相を尊ぶに縁る、早に胡雛を弁ぜず。
鬼籙 朝部を分かち、軍烽 上都を照らす。
敢えて慟哭に堪うと云わんや、未だ洪爐を怨むを免れず。
  
(現代語訳)
地上では九畿の果てまですべてのものが、世界の根元の働きに帰し、日月星、あるいは天地人が叡智に満ちた天子の目論見に叶うものである。
いまの御代になぜ、宦官を謀殺した漢の袁紹と同じことになった連中であったはずが、宦官の誣告で殺された劉屈氂同様の事態をみずから招いたのか。
むかし、漢の袁盎は文帝を諌めた、車に同乗した宦官の趙同は泣く泣く車から降りたが、それ以上にうるさく諌めたのが李訓だった。それが、天子に宮殿を下りて逃げ回り宦官に利用されご苦労をかけことになってしまったのだ。
なにゆえに、李訓は「瑞兆として甘露が降った」と奏上したのか。朝臣たちを萑蒲の草を刈りとるように激滅されたのはこれによるものではないか。
宦官らは証人をしらみつぶしに逮捕する周到な文書が発せられることになったし、証言に名前が出て、数珠つなぎとして、次々に朝臣の命は奪われたのだ。
匈奴の王も感嘆させた漢の宰相王商、それに劣らぬ見事な風貌の李訓に信を置いたはかりにこんな事態を呼び起こした。蔑称で「胡の雛」といわれたが、その一方、いずれ晋をおびやかすと予言され怖がられたが、攻める役割の鄭注のこの子供以下の無能さをを見抜く者はなかった。(鳳翔の節度使に詩、宦官殲滅軍の準備をさせたが、すべての行動は宦官に把握されていた。)
宦官は鬼籍に入った者と無関係者と選り分け帳を作り朝臣は二分され、操作のかがり火で大唐帝国の都は赤々と照らされたのだ。



有感二首 其一(語訳と訳註)

有感二首
有感 思うところ有り。
835年、甘露の変にまつわる詩であることが示される。杜甫の「有感五首」も当時の政治状況に対する感慨を述べる作。○乙卯年 835年大和九年(文宗)李商隠24歳 科挙試験のため長安にいる。11月甘露の変が勃発。文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件。宦官が反撃朝臣を大量に殺した。本件が失敗したことにより中唐期以降、唐における宦官勢力の全権力掌握がほぼ確実となった。
丙辰年 その翌年、836年開成元年(文宗)。


九服歸元化、三霊叶睿圖。』
地上では九畿の果てまですべてのものが、世界の根元の働きに帰し、日月星、あるいは天地人が叡智に満ちた天子の目論見に叶うものである。
九服 中国の周囲すべての地。古代中国では中心に一辺千里の正方形を置いて王畿とし、それを囲む同心の正方形を五百里ずつ拡大していって、侯服・甸服(でんぶく)・男服・采服(さいふく)・衛服・蛮服・夷服(いふく)・鎮服・藩服(はんぶく)の九つをいう。九畿。「服」は天子に服属するの意。○元化 世界の根元の働き。ここでは天子の徳化を指す。〇三霊 日月星、あるいは天地人。世界の根幹となる三つの霊妙な存在。○睿図 叡智に満ちた天子のもくろみ。


如何本初輩、自取屈氂誅。
いまの御代になぜ、宦官を謀殺した漢の袁紹と同じことになった連中であったはずが、宦官の誣告で殺された劉屈氂同様の事態をみずから招いたのか。
本初 後漢の末期、全権力を握った袁紹のこと。袁紹は大将軍何進とともに宦官誅穀を謀り、何進は宦官によって殺されたが、袁紹は宦官を一人のこらず殺した。ここでは礼部侍郎李訓及び太僕卿鄭注をなぞらえる。○屈氂 劉屈氂。前漢の武帝の甥。武帝を呪詛していると宦官に誣告され、腰斬の刑に処せられた(『漢書』劉屈氂伝)。李訓、鄭注が宦官を打倒しようとして逆に宦官の手によって誅滅されたことをなぞらえる。
 
有甚當車泣、因勞下殿趨。』
むかし、漢の袁盎は文帝を諌めた、車に同乗した宦官の趙同は泣く泣く車から降りたが、それ以上にうるさく諌めたのが李訓だった。それが、天子に宮殿を下りて逃げ回り宦官に利用されご苦労をかけことになってしまったのだ。
当車泣 前漢、袁盎の故事を用いる。袁盎は漢の文帝に仕え直諫が多くした。妾夫人と王妃との関係を諌め、宦官の趙同に天子の車に乗せてはならぬと諌め、趙同は泣く泣く車から降りた(『史記』袁盎伝)。ここでは李訓はそれよりうるさく文宗を諌めた。○下殿趨  梁の武帝蕭衍にまつわる故事を用いる。534年中大通六年、熒惑(火星)が南斗星に重なった。この不吉な徴侯を見て武帝は「熒惑 南斗に入れば、天子 殿を下りて走る」という諺を引き、はだしのまま宮殿から下りて不祥を祓った(『資治通鑑』)。ここでは李訓、鄭注らが攻め入った際に宦官仇士良が文宗を宮殿から連れ出したことを指す。


何成奏雲物、直是減萑蒲。
なにゆえに、李訓は「瑞兆として甘露が降った」と奏上したのか。朝臣たちを萑蒲の草を刈りとるように激滅されたのはこれによるものではないか。
雲物 雲の様子。『周礼』春官・保章氏に「五雲の物を以て、吉凶を弁ず」、その鄭玄の注に「物は色なり」。それを観察することによって吉凶を判断する。『左氏伝』倍公五年に「凡そ分(春分と秋分)、至(夏至と冬至)、啓(立春と立夏)、閉(立秋と立冬)には、必ず雲物を書す」。ここでは甘露が降ってきたという瑞兆を指す。瑞兆の真偽の確認には宦官全員が確認することが慣例であったことから軽はずみな策略した。○萑蒲 盗賊のすみか。萑は草の多いさまをいう。ここでは草を朝臣としている。


證逮符書密、詞連性命倶。』
宦官らは証人をしらみつぶしに逮捕する周到な文書が発せられることになったし、証言に名前が出て、数珠つなぎとして、次々に朝臣の命は奪われたのだ。
証逮一句 証は証人。符書は官庁の文書。証人まで逮捕すべく周到な文書が発せられたこと。○詞連一句 証人の言葉からつながりがわかると、命まで奪われる。

竟緑尊漢相、不早瓣胡雛。』
匈奴の王も感嘆させた漢の宰相王商、それに劣らぬ見事な風貌の李訓に信を置いたはかりにこんな事態を呼び起こした。蔑称で「胡の雛」といわれたが、その一方、いずれ晋をおびやかすと予言され怖がられたが、攻める役割の鄭注のこの子供以下の無能さをを見抜く者はなかった。(鳳翔の節度使に詩、宦官殲滅軍の準備をさせたが、すべての行動は宦官に把握されていた。)
漢相 漢の宰相王商。王商は立派な風貌をしていたので来朝した匈奴の単于が畏敬し、成帝は「此れ真に漢相なり」と称えた(『漢書』王商伝)。ここでは李訓を比す。李訓も風采にすぐれ、弁舌巧みであったことから文宗は将来を託したという(『旧唐書』李訓伝)。○弁胡雛 五胡十六国の時代、後趙の帝位に就いた羯の石勒の故事。少年の頃、物売りをしているとその声を聞いた王衍は、「さきの胡雛、吾れその声視の奇志有るを観る。恐らくは将に天下の息をなさん」と言って収監しようとしたがすでに去ったあとだった(『晋書』載記四)。「胡雛」はえびすの幼子。胡人の子供に対する蔑称。ここでは攻める役割のものが蔑称の胡の子供並みであると鄭注のことを示す。


鬼籙分朝部、軍蜂照上都。
宦官は鬼籍に入った者と無関係者と選り分け帳を作り朝臣は二分され、操作のかがり火で大唐帝国の都は赤々と照らされたのだ。
鬼籙 善鬼の選り分け帳、過去帳。○朝部 朝班(朝臣の隊列)をいうか。○軍煙 いくさののろし。○上部 みやこ。長安を指す。


敢云堪慟哭、未免怨洪爐。』
この惨状を痛ましくおもっても、慟哭すら許されるものではないのだ、それでもなお、大きな溶鉱炉のような怨みのたかまりを述べずにはいられないのだ。
敢云堪慟哭 働笑することによって関係者とされるから、泣くことさえ許されない。悲惨ことである、の意。○洪燵 大きな溶鉱炉。怨みのたかまり。「異俗二首」其の二でも使う。
 


○詩型 五言排律。上平十虞
○押韻 化、圖。/誅、趨。/蒲、倶。/相、雛。/部、都、爐。


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甘露の変 概略
宦官の王守澄に権力を握られており、その専横を憎んでいた。その文宗の意を受ける礼部侍郎李訓及び太僕卿鄭注は仇士良という宦官を王守澄と対立させ、両者を抗争させ共倒れさせるという謀議を献策した。この下準備として鄭注は軍を動員できる節度使(鳳翔節度使)となった。
 
この策は当初順調に推移し、王守澄は実権を奪われ冤罪により誅殺された。この後、返す刀で王守澄の葬儀に参列した仇士良及び主立った宦官勢力を、鄭注が鳳翔より兵を率いて粛清する予定であったのだが、功績の独占を目論んだ李訓は、鄭注が出兵する王守澄の葬儀前に宦官を一堂に会させる機会を作るため、「瑞兆として甘露が降った」ことを理由に宦官を集めようとした。これは瑞兆の真偽の確認には宦官全員が確認することが慣例であったからである。
 
太和9年11月壬戌の日、左金吾衛大将軍の韓約が朝会にて、「左金吾役所(左金吾衛)裏庭の石に昨夜、甘露が降った」と上奏、慣例に従い殆どの宦官が確認に赴いた。
 
この時、左金吾衛の裏庭には幕が張られ、その陰に郭行余、羅立言らが兵を伏せていた。しかし、幕間から兵が見えてしまい、事態に気づいた仇士良らは文宗を擁して逃亡、宦官に取り囲まれた文宗は李訓、鄭注らを逆賊とする他なく、李訓らは殺された。
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獨居有懐 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 100

獨居有懐 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 100
五言排律


獨居有懐
麝重愁風逼、羅踈畏月侵。
濃密に麝香の香り漂う部屋にいる私は風評や圧迫に愁いに沈んでいるのだ、月の光が明るくて透き通ったとばりからはいってくるので心は落ち着かない。
怨魂迷恐斷、嬌喘細疑沈。
怨みに思う魂は迷い、おそれ、ちぎれそうだし、妓女の喘ぐ声をため息のように沈んだ声に消しているのだ。
數急芙蓉帯、頻抽翡翠簪。
妓女のところに何度も来て、芙蓉の帯を何度も締め直し、乱れ髪から抜け落ちる劣翠のかんざしを度々挿し直したのだ。
柔情終不遠、遙妒己先深。
あの情を交わす柔らかな心根はいつまでも薄れはしない、もう遙かなむかしのことにした妬む気持ちもすでにその先から深い所においてしまった。
浦冷鴛鴦去、園空蛺蝶尋。
寒々とした入り江の水辺にいた番いの鴛鴦はいなくなった、ひっそりしたなにもない小園に一羽の蝶がやってきた。
蝋花長遞涙、筝桂鎮移心。
蝋燭の頭が花になるほどの時が過ぎ、涙は途切れずながれている、こと糸を動かすように胸の思いはいつも定まらない。
覓使嵩雲暮、廻頭㶚岸陰。
手紙を届けてくれる青い鳥はいないかと捜そうにも、ここ嵩山は雲に覆われて日暮れ、㶚陵まで来て振り返っても、㶚陵橋の岸辺の楊は雲の影で暗くなっている。
只聞涼葉院、露井近寒砧。

ただ耳に聞こえるのは秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのり、屋根のない井戸端のあたりから冬着の支度を急ぐ砧の音が響きわたる。



独居 懐う有り
麝は重くして風逼(ふうひつ)を愁う、蘿は踈にして月侵すを畏る。
怨魂 迷いて断たれんかと恐れ、嬌喘 細くして沈まんかと疑う。
数しば急うす 芙蓉の帯、頻りに抽く 翡翠の簪。
柔情 終に遠からず、遥妒(ようと) 己に先んじて探し。
浦は冷やかにして鴛鴦去り、園は空しくして蛺蝶尋ぬ。
蝋花 長えに涙を逓し、筝柱 鎮に心を移す。
使いを覓むるも嵩雲暮れ、頭を廻らすも㶚岸陰る。
只だ聞く 涼葉の院、露井 寒砧近きを。


獨居有懐  現代語訳と訳註、解説

(本文)
麝重愁風逼、羅踈畏月侵。
怨魂迷恐斷、嬌喘細疑沈。
數急芙蓉帯、頻抽翡翠簪。
柔情終不遠、遙妒己先深。
浦冷鴛鴦去、園空蛺蝶尋。
蝋花長遞涙、筝桂鎮移心。
覓使嵩雲暮、廻頭㶚岸陰。
只聞涼葉院、露井近寒砧。


(下し文)
麝は重くして風の逼るを愁い、蘿は踈にして月の侵すを畏る。
怨魂 迷いて断たれんかと恐れ、嬌喘 細くして沈まんかと疑う。
数しば急うす 芙蓉の帯、頻りに抽く 翡翠の簪。
柔情 終に遠からず、遥妒(ようと) 己に先んじて探し。
浦は冷やかにして鴛鴦去り、園は空しくして蛺蝶尋ぬ。
蝋花 長えに涙を逓し、筝柱 鎮に心を移す。
使いを覓むるも嵩雲暮れ、頭を廻らすも㶚岸陰る。
只だ聞く 涼葉の院、露井 寒砧近きを。


(現代訳文)
濃密に麝香の香り漂う部屋にいる私は風評や圧迫に愁いに沈んでいるのだ、月の光が明るくて透き通ったとばりからはいってくるので心は落ち着かない。
怨みに思う魂は迷い、おそれ、ちぎれそうだし、妓女の喘ぐ声をため息のように沈んだ声に消しているのだ。
妓女のところに何度も来て、芙蓉の帯を何度も締め直し、乱れ髪から抜け落ちる劣翠のかんざしを度々挿し直したのだ。
あの情を交わす柔らかな心根はいつまでも薄れはしない、もう遙かなむかしのことにした妬む気持ちもすでにその先から深い所においてしまった。
寒々とした入り江の水辺にいた番いの鴛鴦はいなくなった、ひっそりしたなにもない小園に一羽の蝶がやってきた。
蝋燭の頭が花になるほどの時が過ぎ、涙は途切れずながれている、こと糸を動かすように胸の思いはいつも定まらない。
手紙を届けてくれる青い鳥はいないかと捜そうにも、ここ嵩山は雲に覆われて日暮れ、㶚陵まで来て振り返っても、㶚陵橋の岸辺の楊は雲の影で暗くなっている。
ただ耳に聞こえるのは秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのり、屋根のない井戸端のあたりから冬着の支度を急ぐ砧の音が響きわたる。


(訳註)
麝重愁風逼、羅踈畏月侵。

濃密に麝香の香り漂う部屋にいる私は風評や圧迫に愁いに沈んでいるのだ、月の光が明るくて透き通ったとばりからはいってくるので心は落ち着かない。
○麝重 麝香の香りが重く濃密に漂う。○愁風逼 ○羅疎 「羅」はうすぎぬ。目の粗い。薄絹を通り越す。○畏月侵 月の光がはいってくるので心は落ち着かない。


怨魂迷恐斷、嬌喘細疑沈。
怨みに思う魂は迷い、おそれ、ちぎれそうだし、妓女の喘ぐ声をため息のように沈んだ声に消しているのだ。
怨魂 怨魂は恋人を怨みがましく思う魂。魂が「断」たれるとは、茫然自失の状態になること。○迷恐斷 おそれ、ちぎれ、迷うのだ。○嬌喘 たおやかなあえぎ声。○細疑沈 ため息のように沈んだ声に消しているのだ。


數急芙蓉帯、頻抽翡翠簪。
妓女のところに何度も来て、芙蓉の帯を何度も締め直し、乱れ髪から抜け落ちる劣翠のかんざしを度々挿し直したのだ。
数急 急はきついこと。ここでは帯をきつく締めることをいう。何度もきゅっと締めなおす。○芙蓉帯 芙蓉、すなわちハスの花を模様に描いた帯。○頻抽 抽」は抜く。思い悩んで髪が乱れるために何度もかんざしを抜き取って髪を整える。○翡翠簪 翡翠の羽を飾ったかんざし。


柔情終不遠、遙妒己先深。
あの情を交わす柔らかな心根はいつまでも薄れはしない、もう遙かなむかしのことにした妬む気持ちもすでにその先から深い所においてしまった。
柔情 慕う気持ち。○終不達 いつまでも薄れはしない。○遥妬 もう遙かなむかしのことに妬む。


浦冷鴛鴦去、園空蛺蝶尋。
寒々とした入り江の水辺にいた番いの鴛鴦はいなくなった、ひっそりしたなにもない小園に一羽の蝶がやってきた。
鴛鴦 オシドリ。仲むつまじい男女の象徴。○蛺蝶 アゲハチョウ。ここでは一羽。飾り立てた妓女の象徴。
(地の果て、寂しいところにいることを想像させる。)


蝋花長遞涙、筝桂鎮移心。
蝋燭の頭が花になるほどの時が過ぎ、涙は途切れずながれている、こと糸を動かすように胸の思いはいつも定まらない。
蝋花 蝋燭の灯心の先。丁子頭。○長逓涙 逓は次々と送る。○琴柱 筝は十三舷のこと。柱はこと糸。李商隠1錦瑟。李白「前有樽酒行 其二」参照○ つねに。○移心 こと糸を動かすことに掛けて、心が定まらないことをいう。


覓使嵩雲暮、廻頭㶚岸陰。
手紙を届けてくれる青い鳥はいないかと捜そうにも、ここ嵩山は雲に覆われて日暮れ、㶚陵まで来て振り返っても、㶚陵橋の岸辺の楊は雲の影で暗くなっている。
覓使嵩雲暮 恋の使いをする青鳥は李商隠無題(相見時難別亦難) 杜甫「麗人行」にみえる。嵩山も道教の本山のあるところであり、仙界を印象付ける。
廻頭㶚岸陰 㶚水は長安東郊を流れる川。またその付近の㶚陵を指す。七哀詩三首に「南の方㶚陵に登り、首をめぐらして長安を望む」とある。王粲は長安を去って㶚水を上流に登り、峠を越えて、漢水にのり、荊州(湖北省江陵県)の劉表のもとに赴くのである。こちらの古道は南の道。李白の雑言古詩李白139灞陵行送別にイメージを借りている。


只聞涼葉院、露井近寒砧。
ただ耳に聞こえるのは秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのり、屋根のない井戸端のあたりから冬着の支度を急ぐ砧の音が響きわたる。
涼葉院 秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのる。○寒砧 冬の衣を打つきぬた。ここではきぬたの音。織りあがった布を和らげるために石の台の上に載せ叩くこと、冬着の支度を急ぐ砧の音は晩秋の夜のものさびしい風物として、また、女の夫を思う気持ちを表現するのにうたわれる。


○詩型 五言排律。
○押韻 侵・沈・啓・深・尋・心・陰・砧。平水韻、


出世ラインを外れた文人は女の思い、寡居の女になりかわってその胸中をうたう。長安のあたりであったり、洛陽の地であったり、さびしい心情は女が慕い続け、その揺れ動く心は同じなのだ。
 李商隠は自分のことを妓女に置き換えて表現しなければならなかったのだ。したがって、捨てられた女、出征兵士の女、表現は細やかなものになるほどあわれをさそうのである。

武侯廟古栢 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 67 諸葛亮(2)

武侯廟古栢 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 67 諸葛亮(2)
853年大中7年42歳 梓州
この詩は、杜甫の詩にイメージを完全に借りているが、李商隠の諸葛亮に関する評価は少し違っている。

武侯廟古栢
蜀相階前栢、龍蛇捧閟宮。
蜀の丞相諸葛亮の廟、そのあがり框の前に柏が植えられている、あたかも龍蛇のように幹をくねらせ、閟宮を守っている。
陰成外江畔、老向惠陵東。
成都を囲む江水のほとりに影をなす茂みがある、老いていまなお先主劉備の恵陵東に忠誠をあらわしている。
大樹思馮異、甘棠憶召公。
大樹は将軍馮異の武勲を思わせ、甘棠の詩はその治世に慕われた召公を憶わせる。
葉彫湘燕雨、枝折海鵬風。
葉は枯れ、湘江の石燕も風雨に撃たれた。枝は折れ、海鵬も大風に打たれてしまった。
玉壘經綸遠、金刀歴敷終。
志は蜀にそびえる玉塁山ほどに遠大であった、しかし、漢王朝の天の定めた帝王の順序はすでに尽きていたのだ。
誰将出師表、一爲問昭融。

ああ誰か、出師の表をもって、忠誠の念の結晶で歴数が変わるのか、天の意思を問うてはどうだろうか。


蜀の丞相諸葛亮の廟、そのあがり框の前に柏が植えられている、あたかも龍蛇のように幹をくねらせ、閟宮を守っている。
成都を囲む江水のほとりに影をなす茂みがある、老いていまなお先主劉備の恵陵東に忠誠をあらわしている。
大樹は将軍馮異の武勲を思わせ、甘棠の詩はその治世に慕われた召公を憶わせる。
葉は枯れ、湘江の石燕も風雨に撃たれた。枝は折れ、海鵬も大風に打たれてしまった。
志は蜀にそびえる玉塁山ほどに遠大であった、しかし、漢王朝の天の定めた帝王の順序はすでに尽きていたのだ。
ああ誰か、出師の表をもって、忠誠の念の結晶で歴数が変わるのか、天の意思を問うてはどうだろうか。


武侯廟の古柏
蜀相 階前の柏、龍蛇 閟宮(ひきゅう)を捧ずる。
陰は成る 外江の畔、老いて向かう 恵陵の東。
大樹 馮異(ふうい)を思い、甘棠(かんどう) 召公を憶う。
葉は彫(しぼむ) 湘燕の雨、枝は折れる 海鵬の風。
玉塁 経綸(けいりん)遠く、金刀 歴数終る。
誰か出師の表を将って、ひとたび為に昭融に問わん。



武侯廟古栢
武侯廟 三国鼎立の蜀の諸葛亮(諡を忠武侯という)を祀った成郡の廟。廟の前には諸葛亮手植えと伝えられる二本の柏の大木があった。○古柏 杜甫のよく知られた七言律詩「蜀相」760年上元元年49歳 
丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森。
映堦碧草自春色,隔葉黄鸝空好音。
三顧頻煩天下計,兩朝開濟老臣心。
出師未捷身先死,長使英雄涙滿襟。

にも「丞相の両堂 何処にか尋ねん、錦官城外 柏森森たり」と書き起こされ、廟のシンボルであったことがわかる。この杜甫の詩の約100年後のことだ。



蜀相階前栢、龍蛇捧閟宮。
蜀の丞相諸葛亮の廟、そのあがり框の前に柏が植えられている、あたかも龍蛇のように幹をくねらせ、閟宮を守っている。
閟宮 みたまや。「閟」は閉ざすの意。杜甫が夔州の劉備・諸葛亮の廟をうたった「古柏行」のなかに成都の廟を思い出して「憶う昨 路は操る錦亭の東、先主(劉備)・武侯同に閟宮」というように、成都の閟宮には劉備と諸葛亮がともに祀られていた。(次の句の説明参照)



陰成外江畔、老向惠陵東。
成都を囲む江水のほとりに影をなす茂みがある、老いていまなお先主劉備の恵陵東に忠誠をあらわしている。
外江 蜀の地を流れる長江の支流のうち、ふつうは綿陽から重慶に至る涪江を内江、成都から宜賓を経る岷江を外江と呼ぶが、成都に即して錦江を内江、郫江を外江と呼ぶ。ここでは成都の城外を流れる郫江を指す。○恵陵 劉備の陵墓。先主廟は中央室に先主、西室に諸葛武侯、東室に後主を祀ったもの。杜甫「登樓」参照。



大樹思馮異、甘棠憶召公。
大樹は将軍馮異の武勲を思わせ、甘棠の詩はその治世に慕われた召公を憶わせる。
馮異 後漢の建国に頁献した武将。功を誇らず、ほかの将が手柄話に興ずるとひとり樹下に退いていたので「大樹将軍」と呼ばれた(『後漢書』馮異伝)。武将としての諸葛亮が大功をあげながら誇らないのをたとえる。○甘棠憶召公 「召公」は召伯のこと。『詩経』召南に、召伯の徳を人々が慕い、ゆかりのある甘棠の木をうたった「甘棠」の詩がある。宣王の時の召穆公虎を指す。二句は詩題の「古柏」に掛けて樹木にまつわる二つの故事を引き、諸葛亮の武将として(「大樹」)、賢臣として(「甘棠」)の功績を讃える。



葉彫湘燕雨、枝折海鵬風。
葉は枯れ、湘江の石燕も風雨に撃たれた。枝は折れ、海鵬も大風に打たれてしまった。
湘燕雨 湘江のほとり、零陵(湖南省零陵県)には、風雨に遭うと燕のように飛び、雨が止むと石になる「石燕」というものがあると、『芸文類緊』巻九二などが引く『湘中記』に見える。○海鵬風 『荘子』遁遥遊篇の冒頭、北冥(北の海)の鯤という巨大な魚は鵬という鳥に変化し、風に乗って南冥に翔るという話にもとづく。



玉壘經綸遠、金刀歴敷終。
志は蜀にそびえる玉塁山ほどに遠大であった、しかし、漢王朝の天の定めた帝王の順序はすでに尽きていたのだ。
玉壘 山の名。四川省理県の東南にある。○経論 天下国家を治め人民をすく方策。李白「梁甫吟」○金刀 卯金刀の略。卯、金、刀の三字を合成すると漢王朝の姓、劉の字になることから、漢王朝を指す。漢王朝を正統に継承していると称していた。○歴数 天の定めた帝王の順序。

 

誰将出師表、一爲問昭融。
ああ誰か、出師の表をもって、忠誠の念の結晶で歴数が変わるのか、天の意思を問うてはどうだろうか。
出師表 諸葛亮が魏を攻撃するに際して蜀の後主劉禅に奉った上表文。忠誠の念の結晶とされる。『文選』巻三七。○昭融 天を指す。杜甫「哥舒開府翰に投贈す二十韻」詩に「策行なわれて戦伐を遺し、契り合して昭融を動かす」。


○詩型 五言排律。○押韻 宮・東・公・凰・終・融。


この詩のように治世と軍事に秀でた英雄を取り上げた詩もあるが、諸葛亮については、杜甫は成都と夔州、

籌筆驛 紀頌之の漢詩李商隠特集 66 諸葛亮(1)
において、4首、今回3首あげたように、いずれの廟にも詣でて、時世を救う人物の欠如を詠っている。
李商隠の場合はいっそう諸葛亮の忠誠心についてたたえつつ、それだけでは国は救えないと重心を移している。いずれにしても、古人を詠じながらそこに唐王朝の行く末を憂いている点については杜甫詩のイメージ通りである。。



古柏行  杜甫
夔州の諸葛武侯の廟にある古柏についてよんだうた。
大暦元年の作。
孔明廟前有老柏,柯如青銅根如石。霜皮溜雨四十圍,
黛色參天二千尺。君臣已與時際會,樹木猶為人愛惜。
雲來氣接巫峽長,月出寒通雪山白。』憶昨路繞錦亭東,
先主武侯同閟宮。崔嵬枝幹郊原古,窈窕丹青戶牖空。
落落盤踞雖得地,冥冥孤高多烈風。扶持自是神明力,
正直原因造化功。』大廈如傾要梁棟,萬牛回首丘山重。
不露文章世已驚,未辭翦伐誰能送。苦心豈免容螻蟻,
香葉終經宿鸞鳳。志士幽人莫怨嗟,古來材大難為用。』
(古柏行)
孔明が廟前に老柏有り、何は青銅の如く根は石の如し。霜皮雨を溜す四十囲、黛色天に参す二千尺。君臣巳に時の与に際会す、樹木猶お人に愛惜せらる。雲来たって気は巫暁の長きに接、月出でて寒は雪山の白きに通ず。』
憶う昨路 繞めぐる錦亭の東、先主 武侯 同じく閟宮ひきゅう。崔嵬さいかいとして枝幹に郊原古りたり、
窈窕ようちょうとして丹青に戸牖こゆう空し。落落 盤踞ばんきょするは地を得たりと経も、冥冥 孤高なるは 烈風多し。扶持自ずから是れ神明の力、正直 元と因る造化の功。』
大廈たいか如もし傾いて梁棟を要せば、万牛首を廻らして丘山重からん。文章を露さざれども世己に驚く、未だ翦伐を辞せざるも誰か能く送らん。苦心豈に免れんや螻蟻ろうぎを容るるを、香葉曾て経たり鸞鳳を宿せしめしを。』



登樓
成都の城楼にのぼって見る所と感ずる所とをのべた。広徳二年春の作。
花近高樓傷客心,萬方多難此登臨。
錦江春色來天地,玉壘浮雲變古今。
北極朝廷終不改,西山寇盜莫相侵。
可憐後主還祠廟,日暮聊為梁甫吟。
(楼に登る)
花高楼に近うして客心を傷ましむ、万方多難此に登臨す
錦江の春色天地より来たり、玉塁の浮雲古今変ず
北極の朝廷は終に改まらず、西山の山寇相侵すこと莫れ
憐れむ可し後主還た祠廟、日暮聊か梁父の吟を為す

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