漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

有感二首

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

有感二首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 102

有感二首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 102


有感二首 其 二
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。
朱塗りのきざはしのもと、「甘露降る」との上奏が続いていたその時、突如、宮中の紅のお庭は戦場になり血で染まった。
臨危封盧植、始悔用龐萌。
存亡の危機に臨んだ天子は、宦官にも横暴な董卓にも抗した盧植のような忠臣を役づけた、ここにいたってはじめて光武帝の信頼を裏切った龐萌のごとき逆賊を用いたことを悔いたのだ。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
禁軍は正殿を奪還したものの、追いつめられた叛逆徒は激戦を続けた。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
右往左往、あわてふためいて五色の警棒が振り回される。混乱は冬至に至って陽気が生じる天子の運行をも押しとどめた。
古有清君側、今非乏老成。
いにしえより、天子の家臣でありながらよこしまな家臣を一掃した例はあるものだ、今なお忠実な老臣が乏しいということではない。
素心雖未易、此擧太無名。
もともとの忠誠心に変わりがないとはいえ、このたびの振る舞いはなんの大義名分もない。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
罪なくして殺された人たちは、おとなしく目を閉じ、口をつぐんでいられようか。むしろ、彼らが消え入りそうな声を黙って飲み込んでしまうことなどあるものか。
近聽開壽讌、不廢用咸英。』

ところがなんと近ごろ聞いた話では、天子の生誕を祝う宴が宮廷で開かれ、「咸池」、「六英」など、恒例の歌舞音曲を控えることすらしなかったのだと。


有感二首 其 二 現代語訳と訳注


(本文)
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。
臨危封盧植、始悔用龐萌。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。」
古有清君側、今非乏老成。
素心雖未易、此擧太無名。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
近聽開壽讌、不廢用咸英。」
  
(下し文)其の二
丹陛 猶お敷奏するに、彤庭(とうてい)歘(たちま)ち戦い争う。
危きに臨みて盧植(ろしょく)に対し、始めて悔ゆ 龐萌(ほうぼう)を用いしを。
御仗(ぎょじょう) 前殿を収め、兇徒 背城に劇す。
蒼黄たり 五色の棒、掩遏(えんあつ)す一陽生ずるを。』
古えより君側を清むる有り、今も老成乏しきに非ず。
素心 末だ易らずと雖も、此の挙 太(はなは)だ名無し。
誰か冤を銜(ふく)む目を瞑せん、寧(なん)ぞ絶えんと欲する声を呑まん。
近ごろ聞く 寿讌を開きて、咸英を用いるを廃せずと。』

  
(現代語訳)
朱塗りのきざはしのもと、「甘露降る」との上奏が続いていたその時、突如、宮中の紅のお庭は戦場になり血で染まった。
存亡の危機に臨んだ天子は、宦官にも横暴な董卓にも抗した盧植のような忠臣を役づけた、ここにいたってはじめて光武帝の信頼を裏切った龐萌のごとき逆賊を用いたことを悔いたのだ。
禁軍は正殿を奪還したものの、追いつめられた叛逆徒は激戦を続けた。
右往左往、あわてふためいて五色の警棒が振り回される。混乱は冬至に至って陽気が生じる天子の運行をも押しとどめた。
いにしえより、天子の家臣でありながらよこしまな家臣を一掃した例はあるものだ、今なお忠実な老臣が乏しいということではない。
もともとの忠誠心に変わりがないとはいえ、このたびの振る舞いはなんの大義名分もない。
罪なくして殺された人たちは、おとなしく目を閉じ、口をつぐんでいられようか。むしろ、彼らが消え入りそうな声を黙って飲み込んでしまうことなどあるものか。

 
(語訳と訳註)
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。

朱塗りのきざはしのもと、「甘露降る」との上奏が続いていたその時、突如、宮中の紅のお庭は戦場になり血で染まった。
丹陛 天子の宮殿の正殿の正面階段。赤く塗られているので「丹陛」という。○敷奏 朝臣が天子に奏上すること。太和9年11月壬戌の日、左金吾衛大将軍の韓約が朝会にて、「左金吾役所(左金吾衛)裏庭の石に昨夜、甘露が降った」と上奏。○彤庭 宮中の地面は赤く塗られていたが血の色に染まった。


臨危封盧植、始悔用龐萌。
存亡の危機に臨んだ天子は、宦官にも横暴な董卓にも抗した盧植のような忠臣を役づけた、ここにいたってはじめて光武帝の信頼を裏切った龐萌のごとき逆賊を用いたことを悔いたのだ。
盧植 後漢末の忠臣。何進が昏官誅殺を謀って殺されると臣官は少帝を宮中から連れ出したが、盧植は追いかけて宦官を殺し、少帝を奪回した。また董卓が少帝を廃して陳留王(献帝)を立てようとした際、朝臣がみな黙していた時に盧植のみが断固として反対を唱えた(『後漢書』盧植伝)。ここでは令狐楚に比す。この句には「是の晩 独り故の相影陽公を召して入らしむ」の自注がある。「影陽公」は影陽郡開国公に封ぜられていた令狐楚。『旧唐書』令狐楚伝に「(李)訓の乱の夜、文宗は右僕射鄭覃と(令狐)楚を召して禁中に宿せしめ、制勅を商量す。上は皆な用て宰相と為さんと欲す」。○龐萌 後漢初期の人。龐萌は、謙遜温順な人柄により光武帝から信任と寵愛を受け、「可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也」(若い孤児を託せ(=後見を任せ)、百里四方の国の命(=政令つまり政事)を任せられるは、龐萌この人なり)とまで言わしめている。その後、龐萌は平狄将軍に任命された。任務失敗により、楚郡太守孫萌を殺害し、蓋延を撃破して、劉紆陣営に寝返ってしまう。寵臣から叛逆者へ変身した人物。ここでは鄭注、李訓を比喩している。


御仗収前殿、兇徒劇背城。
禁軍は正殿を奪還したものの、追いつめられた叛逆徒は激戦を続けた。
御杖 皇帝の儀仗兵。宦官と禁中の軍を指す。○前殿 正殿。ここでは含元殿。○背城 城を背にして死にものぐるいの戦いをする。


蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
右往左往、あわてふためいて五色の警棒が振り回される。混乱は冬至に至って陽気が生じる天子の運行をも押しとどめた。
蒼黄 あわてふためくさま。ここでは五色の棒にかけて、蒼、黄という色を用いた。〇五色棒 曹操は、洛陽の県尉であった若い時、五色の棒を用意して法を犯す者を厳しく取り締まり、有力な宦官蹇碩の叔父まで夜行の禁を犯したとして撲殺した。○掩遏 押さえつけて止める。〇一陽生 冬至に至って陽気が生じる。甘露の変の起こったのは陰暦十一月二十一日、冬至に近いので事件を連想させる。


古有清君側、今非乏老成。
いにしえより、天子の家臣でありながらよこしまな家臣を一掃した例はあるものだ、今なお忠実な老臣が乏しいということではない。
○清君側 君主のそばの奸臣、姦臣を除去する。○老成 経験が多く物事によく馴れている。ここでは令狐楚を指す。「老賊」にたいする「老成」。


素心雖未易、此擧太無名。
もともとの忠誠心に変わりがないとはいえ、このたびの振る舞いはなんの大義名分もない。
素心 もともとの思い。○無名 大義名分が立たない。


誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
罪なくして殺された人たちは、おとなしく目を閉じ、口をつぐんでいられようか。むしろ、彼らが消え入りそうな声を黙って飲み込んでしまうことなどあるものか。
誰瞑銜 瞑目は目を閉じるだけで何もしようとしない。銜は口を開かないこと。○冤目 冤は無実の罪。銜冤は罪もなく殺害された王渡ら朝臣を指す。○寧呑欲絶聲 「声を呑む」とは声に出せないほどの悲しみ。


近聽開壽讌、不廢用咸英。』
ところがなんと近ごろ聞いた話では、天子の生誕を祝う宴が宮廷で開かれ、「咸池」、「六英」など、恒例の歌舞音曲を控えることすらしなかったのだと。
寿讌 天子の生誕を祝う宴会。○咸英 古代の雅楽。黄帝の「咸池」と帝嚳の「六英」。 『荘子』(天運篇)に、「帝張咸池楽洞庭野」(黄帝、咸池の楽[黄帝の作った天上の音楽]を洞庭の野に張る)とある。咸池 音楽の名前。 咸は「みな」、池は「施す」を意味し、この音楽は黄帝の徳が備わっていたことを明らかにするもの。帝嚳の「六英」古代中国の伝説上の五聖君を尊称として「帝嚳」とし、六英等歌曲としてうたった。

送儲邕之武昌 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白174 と玄宗(7



○詩型 五言排律。
○押韻 奏、争。萌。城。生。/成。名。聲。英。


(参考)
令狐楚(れい こそ、766年 - 837年)は、中国・唐の詩人。原籍は敦煌(甘粛省)の人。しかし、一族は早くに宜州華原(陝西省耀県)に移り住んでいたので、華原の人とも言う。字は殻士(かくし)。貞元7年(791年)の進士。太原(山西省)節度使の幕僚となって文才を徳宗に認められ、憲宗朝では中書舎人から同中書門下平章事(宰相)に至った。穆宗朝では朝廷内の派閥争いのため地方に転出、各地の節度使を歴任し、敬宗朝では一時復活したが、山南西道節度使に任ぜられて、任地の興元(陝西省南鄭)で没した。

有感二首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 101

有感二首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 101




有感二首 其一       
九服歸元化、三霊叶睿圖。
地上では九畿の果てまですべてのものが、世界の根元の働きに帰し、日月星、あるいは天地人が叡智に満ちた天子の目論見に叶うものである。
如何本初輩、自取屈氂誅。』
いまの御代になぜ、宦官を謀殺した漢の袁紹と同じことになった連中であったはずが、宦官の誣告で殺された劉屈氂同様の事態をみずから招いたのか。
有甚當車泣、因勞下殿趨。
むかし、漢の袁盎は文帝を諌めた、車に同乗した宦官の趙同は泣く泣く車から降りたが、それ以上にうるさく諌めたのが李訓だった。それが、天子に宮殿を下りて逃げ回り宦官に利用されご苦労をかけことになってしまったのだ。
何成奏雲物、直是減萑蒲。
なにゆえに、李訓は「瑞兆として甘露が降った」と奏上したのか。朝臣たちを萑蒲の草を刈りとるように激滅されたのはこれによるものではないか。
證逮符書密、詞連性命倶。
宦官らは証人をしらみつぶしに逮捕する周到な文書が発せられることになったし、証言に名前が出て、数珠つなぎとして、次々に朝臣の命は奪われたのだ。
竟緑尊漢相、不早瓣胡雛。』
匈奴の王も感嘆させた漢の宰相王商、それに劣らぬ見事な風貌の李訓に信を置いたはかりにこんな事態を呼び起こした。蔑称で「胡の雛」といわれたが、その一方、いずれ晋をおびやかすと予言され怖がられたが、攻める役割の鄭注のこの子供以下の無能さをを見抜く者はなかった。(鳳翔の節度使に詩、宦官殲滅軍の準備をさせたが、すべての行動は宦官に把握されていた。)
鬼籙分朝部、軍蜂照上都。
宦官は鬼籍に入った者と無関係者と選り分け帳を作り朝臣は二分され、操作のかがり火で大唐帝国の都は赤々と照らされたのだ。
政云堪慟哭、未免怨洪爐。』

この惨状を痛ましくおもっても、慟哭すら許されるものではないのだ、それでもなお、大きな溶鉱炉のような怨みのたかまりを述べずにはいられないのだ。

其の一

九服 元化に帰し、三霊 睿図に叶う。

如何ぞ 本初の輩、自ら取る 屈の誅。』

車に当たりて泣かしむるより甚だしき有るも、困りて殿を下りて趨るを労せしむ。

何ぞ成さん 雲物を奏するを、直だ是れ蒲を減す。

証逮えられ符書密なり、詞連なれば性命供にす。

竟に漢相を尊ぶに縁る、早に胡雛を弁ぜず。』

 朝部を分かち、軍烽 上都を照らす。

敢えて慟哭に堪うと云わんや、未だ洪爐を怨むを免れず。』



現代語訳と訳註 解説


(本文)
九服歸元化、三霊叶睿圖。』
如何本初輩、自取屈氂誅。
有甚當車泣、因勞下殿趨。』
何成奏雲物、直是減萑蒲。
證逮符書密、詞連性命倶。』
竟緑尊漢相、不早瓣胡雛。』
鬼籙分朝部、軍蜂照上都。
敢云堪慟哭、未免怨洪爐。』
 
(下し文)
九服 元化に帰し、三霊 睿図に叶う。』
如何ぞ 本初の輩、自ら取る 屈氂の誅。
車に当たりて泣かしむるより甚だしき有るも、困りて殿を下りて趨るを労せしむ。』
何ぞ成さん 雲物を奏するを、直だ是れ萑蒲を減す。
証逮えられ符書密なり、詞連なれば性命供にす。
竟に漢相を尊ぶに縁る、早に胡雛を弁ぜず。
鬼籙 朝部を分かち、軍烽 上都を照らす。
敢えて慟哭に堪うと云わんや、未だ洪爐を怨むを免れず。
  
(現代語訳)
地上では九畿の果てまですべてのものが、世界の根元の働きに帰し、日月星、あるいは天地人が叡智に満ちた天子の目論見に叶うものである。
いまの御代になぜ、宦官を謀殺した漢の袁紹と同じことになった連中であったはずが、宦官の誣告で殺された劉屈氂同様の事態をみずから招いたのか。
むかし、漢の袁盎は文帝を諌めた、車に同乗した宦官の趙同は泣く泣く車から降りたが、それ以上にうるさく諌めたのが李訓だった。それが、天子に宮殿を下りて逃げ回り宦官に利用されご苦労をかけことになってしまったのだ。
なにゆえに、李訓は「瑞兆として甘露が降った」と奏上したのか。朝臣たちを萑蒲の草を刈りとるように激滅されたのはこれによるものではないか。
宦官らは証人をしらみつぶしに逮捕する周到な文書が発せられることになったし、証言に名前が出て、数珠つなぎとして、次々に朝臣の命は奪われたのだ。
匈奴の王も感嘆させた漢の宰相王商、それに劣らぬ見事な風貌の李訓に信を置いたはかりにこんな事態を呼び起こした。蔑称で「胡の雛」といわれたが、その一方、いずれ晋をおびやかすと予言され怖がられたが、攻める役割の鄭注のこの子供以下の無能さをを見抜く者はなかった。(鳳翔の節度使に詩、宦官殲滅軍の準備をさせたが、すべての行動は宦官に把握されていた。)
宦官は鬼籍に入った者と無関係者と選り分け帳を作り朝臣は二分され、操作のかがり火で大唐帝国の都は赤々と照らされたのだ。



有感二首 其一(語訳と訳註)

有感二首
有感 思うところ有り。
835年、甘露の変にまつわる詩であることが示される。杜甫の「有感五首」も当時の政治状況に対する感慨を述べる作。○乙卯年 835年大和九年(文宗)李商隠24歳 科挙試験のため長安にいる。11月甘露の変が勃発。文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件。宦官が反撃朝臣を大量に殺した。本件が失敗したことにより中唐期以降、唐における宦官勢力の全権力掌握がほぼ確実となった。
丙辰年 その翌年、836年開成元年(文宗)。


九服歸元化、三霊叶睿圖。』
地上では九畿の果てまですべてのものが、世界の根元の働きに帰し、日月星、あるいは天地人が叡智に満ちた天子の目論見に叶うものである。
九服 中国の周囲すべての地。古代中国では中心に一辺千里の正方形を置いて王畿とし、それを囲む同心の正方形を五百里ずつ拡大していって、侯服・甸服(でんぶく)・男服・采服(さいふく)・衛服・蛮服・夷服(いふく)・鎮服・藩服(はんぶく)の九つをいう。九畿。「服」は天子に服属するの意。○元化 世界の根元の働き。ここでは天子の徳化を指す。〇三霊 日月星、あるいは天地人。世界の根幹となる三つの霊妙な存在。○睿図 叡智に満ちた天子のもくろみ。


如何本初輩、自取屈氂誅。
いまの御代になぜ、宦官を謀殺した漢の袁紹と同じことになった連中であったはずが、宦官の誣告で殺された劉屈氂同様の事態をみずから招いたのか。
本初 後漢の末期、全権力を握った袁紹のこと。袁紹は大将軍何進とともに宦官誅穀を謀り、何進は宦官によって殺されたが、袁紹は宦官を一人のこらず殺した。ここでは礼部侍郎李訓及び太僕卿鄭注をなぞらえる。○屈氂 劉屈氂。前漢の武帝の甥。武帝を呪詛していると宦官に誣告され、腰斬の刑に処せられた(『漢書』劉屈氂伝)。李訓、鄭注が宦官を打倒しようとして逆に宦官の手によって誅滅されたことをなぞらえる。
 
有甚當車泣、因勞下殿趨。』
むかし、漢の袁盎は文帝を諌めた、車に同乗した宦官の趙同は泣く泣く車から降りたが、それ以上にうるさく諌めたのが李訓だった。それが、天子に宮殿を下りて逃げ回り宦官に利用されご苦労をかけことになってしまったのだ。
当車泣 前漢、袁盎の故事を用いる。袁盎は漢の文帝に仕え直諫が多くした。妾夫人と王妃との関係を諌め、宦官の趙同に天子の車に乗せてはならぬと諌め、趙同は泣く泣く車から降りた(『史記』袁盎伝)。ここでは李訓はそれよりうるさく文宗を諌めた。○下殿趨  梁の武帝蕭衍にまつわる故事を用いる。534年中大通六年、熒惑(火星)が南斗星に重なった。この不吉な徴侯を見て武帝は「熒惑 南斗に入れば、天子 殿を下りて走る」という諺を引き、はだしのまま宮殿から下りて不祥を祓った(『資治通鑑』)。ここでは李訓、鄭注らが攻め入った際に宦官仇士良が文宗を宮殿から連れ出したことを指す。


何成奏雲物、直是減萑蒲。
なにゆえに、李訓は「瑞兆として甘露が降った」と奏上したのか。朝臣たちを萑蒲の草を刈りとるように激滅されたのはこれによるものではないか。
雲物 雲の様子。『周礼』春官・保章氏に「五雲の物を以て、吉凶を弁ず」、その鄭玄の注に「物は色なり」。それを観察することによって吉凶を判断する。『左氏伝』倍公五年に「凡そ分(春分と秋分)、至(夏至と冬至)、啓(立春と立夏)、閉(立秋と立冬)には、必ず雲物を書す」。ここでは甘露が降ってきたという瑞兆を指す。瑞兆の真偽の確認には宦官全員が確認することが慣例であったことから軽はずみな策略した。○萑蒲 盗賊のすみか。萑は草の多いさまをいう。ここでは草を朝臣としている。


證逮符書密、詞連性命倶。』
宦官らは証人をしらみつぶしに逮捕する周到な文書が発せられることになったし、証言に名前が出て、数珠つなぎとして、次々に朝臣の命は奪われたのだ。
証逮一句 証は証人。符書は官庁の文書。証人まで逮捕すべく周到な文書が発せられたこと。○詞連一句 証人の言葉からつながりがわかると、命まで奪われる。

竟緑尊漢相、不早瓣胡雛。』
匈奴の王も感嘆させた漢の宰相王商、それに劣らぬ見事な風貌の李訓に信を置いたはかりにこんな事態を呼び起こした。蔑称で「胡の雛」といわれたが、その一方、いずれ晋をおびやかすと予言され怖がられたが、攻める役割の鄭注のこの子供以下の無能さをを見抜く者はなかった。(鳳翔の節度使に詩、宦官殲滅軍の準備をさせたが、すべての行動は宦官に把握されていた。)
漢相 漢の宰相王商。王商は立派な風貌をしていたので来朝した匈奴の単于が畏敬し、成帝は「此れ真に漢相なり」と称えた(『漢書』王商伝)。ここでは李訓を比す。李訓も風采にすぐれ、弁舌巧みであったことから文宗は将来を託したという(『旧唐書』李訓伝)。○弁胡雛 五胡十六国の時代、後趙の帝位に就いた羯の石勒の故事。少年の頃、物売りをしているとその声を聞いた王衍は、「さきの胡雛、吾れその声視の奇志有るを観る。恐らくは将に天下の息をなさん」と言って収監しようとしたがすでに去ったあとだった(『晋書』載記四)。「胡雛」はえびすの幼子。胡人の子供に対する蔑称。ここでは攻める役割のものが蔑称の胡の子供並みであると鄭注のことを示す。


鬼籙分朝部、軍蜂照上都。
宦官は鬼籍に入った者と無関係者と選り分け帳を作り朝臣は二分され、操作のかがり火で大唐帝国の都は赤々と照らされたのだ。
鬼籙 善鬼の選り分け帳、過去帳。○朝部 朝班(朝臣の隊列)をいうか。○軍煙 いくさののろし。○上部 みやこ。長安を指す。


敢云堪慟哭、未免怨洪爐。』
この惨状を痛ましくおもっても、慟哭すら許されるものではないのだ、それでもなお、大きな溶鉱炉のような怨みのたかまりを述べずにはいられないのだ。
敢云堪慟哭 働笑することによって関係者とされるから、泣くことさえ許されない。悲惨ことである、の意。○洪燵 大きな溶鉱炉。怨みのたかまり。「異俗二首」其の二でも使う。
 


○詩型 五言排律。上平十虞
○押韻 化、圖。/誅、趨。/蒲、倶。/相、雛。/部、都、爐。


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甘露の変 概略
宦官の王守澄に権力を握られており、その専横を憎んでいた。その文宗の意を受ける礼部侍郎李訓及び太僕卿鄭注は仇士良という宦官を王守澄と対立させ、両者を抗争させ共倒れさせるという謀議を献策した。この下準備として鄭注は軍を動員できる節度使(鳳翔節度使)となった。
 
この策は当初順調に推移し、王守澄は実権を奪われ冤罪により誅殺された。この後、返す刀で王守澄の葬儀に参列した仇士良及び主立った宦官勢力を、鄭注が鳳翔より兵を率いて粛清する予定であったのだが、功績の独占を目論んだ李訓は、鄭注が出兵する王守澄の葬儀前に宦官を一堂に会させる機会を作るため、「瑞兆として甘露が降った」ことを理由に宦官を集めようとした。これは瑞兆の真偽の確認には宦官全員が確認することが慣例であったからである。
 
太和9年11月壬戌の日、左金吾衛大将軍の韓約が朝会にて、「左金吾役所(左金吾衛)裏庭の石に昨夜、甘露が降った」と上奏、慣例に従い殆どの宦官が確認に赴いた。
 
この時、左金吾衛の裏庭には幕が張られ、その陰に郭行余、羅立言らが兵を伏せていた。しかし、幕間から兵が見えてしまい、事態に気づいた仇士良らは文宗を擁して逃亡、宦官に取り囲まれた文宗は李訓、鄭注らを逆賊とする他なく、李訓らは殺された。
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