漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

漫成三首

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

漫成三首 其三 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-82

漫成三首 其三 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-82





其 三
霧夕詠芙蕖、何郎得意初。
夕霧のなかに開くハスの花を詠じた詩何遜「看伏郎新婚詩」がある、これぞ何遜公が詩名を得たきっかけになったものだ。
此時誰最賞、沈范兩尚書。

この詩が世に認められる時というのは、誰が最も称賛したかといえば、それは沈約と苑雲、時の文人で高級官僚の二人の尚書であった。


詩と解説
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(本文)其 三
霧夕詠芙蕖、何郎得意初。
此時誰最賞、沈范兩尚書。


(下し文)其の三

霧夕 芙を詠ず、何郎 得意の初め。

此の時 誰か最も賞する、沈苑の両尚書。



(現代訳)
夕霧のなかに開くハスの花を詠じた詩何遜「看伏郎新婚詩」がある、これぞ何遜公が詩名を得たきっかけになったものだ。
この詩が世に認められる時というのは、誰が最も称賛したかといえば、それは沈約と苑雲、時の文人で高級官僚の二人の尚書であった。




其三 訳註と解説
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霧夕詠芙蕖、何郎得意初。
夕霧のなかに開くハスの花を詠じた詩何遜「看伏郎新婚詩」がある、これぞ何遜公が詩名を得たきっかけになったものだ。
霧夕詠芙蕖 「芙蕖」は蓮の花の別名。『爾雅』釈草に「荷は芙蕖」。一句は何遜「看伏郎新婚詩」
霧夕蓮出水,霞朝日照梁。
何如花燭夜,輕扇掩紅妝。
良人復灼灼,席上自生光。
所悲高駕動,環佩出長廊。
「伏郎の新婚を看る」詩の前半四句に「霧の夕べに蓮は水を出で、霞の朝に日は梁を照らす。何如ぞ光燭の夜、軽扇 紅柾を掩う」と花嫁の美しさを朝日の光と蓮にたとえた句を用いる。
何遜に先行して魏・曹植「洛神の賦」(『文選』巻一九)が「遠くより之を望めば、鮫として太陽の朝霞より升るが若く、迫りて之を祭れば、灼として芙妾の操(緑)波を出ずるが若し」と女神の美しきを朝日と蓮の花にたとえている。この詩を少し詳しく末尾に掲載した。参照。○何郎 何遜を指す。「郎」は男子の美称として姓のあとにつける接尾語。



此時誰最賞、沈范兩尚書。
この詩が世に認められる時というのは、誰が最も称賛したかといえば、それは沈約と苑雲、時の文人で高級官僚の二人の尚書であった
沈范兩尚書 沈約と范雲。沈約は尚書令、薄雲は尚書右僕射の官にあったので「両尚書」という。



○詩型 五言絶句。
・韻  蕖、初、書。


絶句の形式を用いて何遜を中心とした梁の詩人を論評した、いわゆる論詩絶句。杜甫に始まる文学批評の新しいスタイルであるが、李商隠のこの連作はそれに連なる早い例。詩的表現の洗練を競った南朝の文学を対象としている。絶句という軽い詩型のためもあって、正面から詩を論ずるものではなく作った感がある。思いつくままに、時にいくらか斜に構えて語



何遜(かそん?~518)中国南北朝時代の文学者。東海郯の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝朓とならび、唐詩の先駆とみなされている。

沈約(しんやく441年 - 513年) 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。その彼が若い「何遜」に対して、「吾れ卿の詩を読む毎に一日に三復するも猶お己む能わず」と絶賛したという(『梁書』何遜伝)。「憐」は対象に対して深く心を惹かれること。気の毒に思うの意味はその一部に過ぎない。 


范雲 (はんうん451 – 503年) 南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭琛と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。




*******参考*******

『洛神の賦』 曹植

この作品の制作動機については、古来有名な説がある。『文選』李善注が引く『感甄記』によると、この洛水の女神のモデルは兄曹丕の妻甄氏であるという。 甄氏(182~221)は、曹操と対立していた袁紹の次男袁熙の妻だった。しかし、袁氏の本拠地鄴を落とした時、曹丕が自分の妻にした。この時、曹植も彼女を妻にと望んだが、結局叶えられなかった。 時は流れて、甄氏は曹丕の寵愛が衰えたため、不幸にも死を賜わった。 甄氏の死後、曹植が洛陽に参内したところ、文帝は、甄氏の枕を取り出し、それを弟に与え、曹植はそれを見て涙を流した。その帰途、曹植が洛水にさしかかった時、甄氏の幻影が現われ、彼女も本当は曹植を愛していたと伝えた。甄氏の姿が消えた後、曹植は感極まって、この賦を作ったという。よって、この賦のタイトルは、最初『感甄賦』だったが、明帝(曹丕と甄氏の息子)の目に触れるところとなり『洛神賦』に改められた


・・・・・・・・・・・・・・・

其形也、翩若驚鴻、婉若遊寵、榮曜秋菊、華茂春松。』

髣髴兮若輕雲之蔽月、飄颻兮若流風之迴雪、遠而望之、皎若太陽升朝霞、迫而察之、灼若芙蓉出淥波。』

襛繊得衷、脩短合度。
肩若削成、腰如約素、廷頸秀項、皓質呈露。芳澤無加、鉛筆弗御、雲髻峩峩、脩眉聯娟。
丹脣外朗、皓齒内鮮、明眸善睞、靨輔承權。瓌姿豔逸、儀靜體閑。柔情綽態、媚於語言。
奇服曠世、骨像應圖。』

披羅衣之璀粲兮、珥瑤碧之華琚、戴金翠之首飾、綴明珠以耀躯。踐遠遊之文履、曳霧綃之輕裾、微幽蘭之芳藹兮、歩踟蹰於山隅。 』

・・・・・・・・・・・・


其の形や、翩たること驚鴻の若く、婉たること遊寵の若し、秋菊より栄曜き、春松より華やかに茂る。』

髣髴たること軽雲の月を蔽うが若く、飄颻たること流風の雪を迴らすが若し、遠くして之を望めば、皎 太陽の朝霞より升るが若し、迫りて之を察れば、灼として芙蓉の淥波より出づるが若し。』

襛繊 衷ばを得、脩短 度に合す。肩は削り成せるが若く、腰は素を如約ねたるが如し、廷びたる頸 秀でたる項、皓き質 呈露す。芳澤 加うる無く、鉛筆 御せず、雲髻 峩峩として、脩眉 聯娟たり。丹脣 外に朗り、皓齒 内に鮮やか、明眸 善く睞し、靨輔 権に承く。瓌姿は豔逸にして、儀は静かに体は閑なり。柔情 綽態、語言に媚あり。奇服 曠世にして、骨像 図に応ず。』

羅衣の璀粲たるを披り、瑤碧の華琚を珥にし、金翠の首飾りを戴き、明珠を綴りて以て躯を耀かす。遠遊の文履を踐み、霧綃の軽裾を曳き、幽蘭の芳藹たるに微れ、歩みて山隅に踟蹰す。』  



その姿かたちは、不意に飛びたつこうのとりのように軽やかで、天翔る竜のようにたおやか。秋の菊よりも明るく輝き、春の松よりも豊かに華やぐ。』

うす雲が月にかかるようにおぼろで、風に舞い上げられた雪のように変幻自在。遠くから眺めれば、その白く耀く様は、太陽が朝もやの間から昇って来たかと思うし、近付いて見れば、赤く映える蓮の花が緑の波間から現われるようにも見える。』

肉付きは太からず細からず、背は高からず低からず、肩は巧みに削りとられ、白絹を束ねたような腰つき、長くほっそり伸びたうなじ、その真白な肌は目映いばかり。香ぐわしいあぶらもつけず、おしろいも塗っていない。豊かな髷はうず高く、長い眉は細く弧を描く。朱い唇は外に輝き、白い歯は内に鮮やか。明るい瞳はなまめかしく揺らめき、笑くぽが頬にくっきり浮かぶ。たぐい稀な艶やかさ、立居振舞いのもの静かでしなやかなことこの上ない。なごやかな風情、しっとりした物腰、言葉づかいは愛らしい。この世のものとは思われない珍しい衣服をまとい、その姿は絵の中から抜け出してきたかのよう。』

きらきらひかる薄絹を身にまとい、美しく彫刻きれた宝玉の耳飾りをつけ、頭上には黄金や翡翠の髪飾り、体には真珠を連ねた飾りがまばゆい光を放つ。足には「遠遊」の刺繍のある履物をはき、透き通る絹のもすそを引きつつ、幽玄な香りを放つ蘭の辺りに見え隠れし、ゆるやかに山の一隅を歩んでいく。

さて、甄(けん)氏は曹丕との間に、息子の曹叡(そうえい)を産んでいる。曹植がひそかに甄氏を恋していたことは、曹叡にも気づかれていたと思う。なぜなら曹植が作った「感甄(けん)賦」を、後に名を「洛神賦」と改めたのは、曹叡自身であったからだ。曹叡は、母が殺されたことを片時も忘れることはなかった。


漫成三首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-81






其 二
沈約憐何遜、延年毀謝荘。
清新倶有得、名譽底相傷。

其の二

沈約は何遜を憐れみ、延年は謝荘を毀(そし)

清新 倶に得る有るも、名誉 底(なん)ぞ相い傷(そこない)

 
南朝斉を代表する詩人沈約は同じ南朝斉の何遜の詩に心惹かれ、南朝宋を代表する詩人顔延之は同じ南朝宋の謝荘の作を謗るのである。
清新さというのは何遜も謝荘もその言葉にある、その名誉はどうして軽々に傷つけられようか、けっして損なわれるものではない。



沈約憐何遜、延年毀謝荘。
南朝斉を代表する詩人沈約は同じ南朝斉の何遜の詩に心惹かれ、南朝宋を代表する詩人顔延之は同じ南朝宋の謝荘の作を謗るのである。
沈約(しんやく441年 - 513年) 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。その彼が若い「何遜」に対して、「吾れ卿の詩を読む毎に一日に三復するも猶お己む能わず」と絶賛したという(『梁書』何遜伝)。「憐」は対象に対して深く心を惹かれること。気の毒に思うの意味はその一部に過ぎない。 ○何遜(かそん?~518)中国南北朝時代の文学者。東海郯の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝朓とならび、唐詩の先駆とみなされている。

延年毀謝荘 「延年」は謝霊運とともに南朝宋を代表する文人顔 延之(がん えんし384年 - 456年)中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。○謝荘(421~466) 南朝宋を代表する文人。字は希逸。陳郡陽夏の人。謝弘微の子。はじめ始興王劉濬のもとで法曹行参軍となった。太子・劉劭が父・文帝を殺して自立すると、司徒左長史に任ぜられた。武陵王劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、檄文を改作して京邑に宣布した。孝武帝(劉駿)が即位すると、吏部尚書に任ぜられた。明帝のとき、中書令に上った。「木方丈図」を作り、中国で最も古い木刻地形図として知られた。また詩文をよくした。『謝光禄集』。顔延之が謝荘をけなした逸話は、『南史』謝荘伝に見える。謝荘の「月の賦」の評価を孝武帝が尋ねると、顔延之は「美なるは則ち美なり。但だ、荘は始めて『千里を隔てて明月を共にす』を知る」と答えた。孝武帝がその話を謝荘に伝えるや否や、謝荘はすかさず「延之は「秋胡の詩」を作り、始めて「生きては久しく離別することを為し、没しては長えに帰らざるを為す」を知る」と応じた。帝はそれを聞いて手を打って喜んだという。「始めて……知る」とはその句を作ってわかりきったことがはじめてわかった。それにはあきれるとそしりあったもの。謝荘「月の賦」は『文選』巻一三、顔延之「秋胡詩」は同巻二一に収められ、いずれも二人の代表作。



清新倶有得、名譽底相傷。
清新さというのは何遜も謝荘もその言葉にある、その名誉はどうして軽々に傷つけられようか、けっして損なわれるものではない。
清新 表現の新鮮さをほめる言葉。杜甫が李白を萸信になぞらえて
春日憶李白 杜甫
白也詩無敵,飄然思不群。清新庚開府,俊逸鮑參軍。
渭北春天樹,江東日暮雲。何時一尊酒,重與細論文?

(春日李白を憶う)
白や詩敵なし 諷然として思羣ならず。
清新は庚開府 俊速は飽参軍。
洞北春天の樹 江東日暮の雲。
何の時か一得の酒 重ねて与に細かに文を論ぜん。

「清新なるは萸開府、俊逸なるは飽参軍(飽照)」の詩に基づいている。○名譽底相傷 何遜は称えられ謝荘はけなされたが、それぞれにすぐれた文学、たとえ批判を被っても真価は揺らがない「底」は「何」と同じく疑問、反語をあらわす。絶句に用いられる俗語的な語。

作品の価値はその批評の仕方によって違う。一方は褒め合い、他方はけなし合う。しかしその清新さは後世の人々からは正当な評価を受ける。他者から受ける批評とは関わりないという李商隠の思いが籠められているか。


○詩型五言絶句
・押韻  荘・傷。




其 二
沈約憐何遜、延年毀謝荘。
南朝斉を代表する詩人沈約は同じ南朝斉の何遜の詩に心惹かれ、南朝宋を代表する詩人顔延之は同じ南朝宋の謝荘の作を謗るのである。
清新倶有得、名譽底相傷。

清新さというのは何遜も謝荘もその言葉にある、その名誉はどうして軽々に傷つけられようか、けっして損なわれるものではない。

漫成三首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-81

漫成三首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-80

漫成三首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-80


其一
不妨何范盡詩家、未解昔年垂物華。
何遜と范雲の二人ともに立派な詩人であるのは間違いない。わからないのはなぜ当時誰も書かなかった、二人が自然描写について、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえことができたのか。
遠把龍山千里雪、将来擬述洛陽花。

遥か千里も隔たった龍山に降り積もった雪をわざわざもってきて、まさに都洛陽の花と並べているかの表現の詩を書いているのだ。





其一
不妨何范盡詩家、未解昔年垂物華。
遠把龍山千里雪、将来擬述洛陽花。

漫成三首 其の一

何范 尽く詩家たるを妨げざるも

末だ解せず 当年 物華を重んずるを

遠く龍山千里の雪を把り

将ち来たりて洛陽の花に並べんと擬す



漫成三首
漫成 ふとできあがった詩の意。杜甫に五律の「漫成二首」、七絶の「漫成一首」末尾参照。があるのが「漫成」と題する詩の最も早いもの。杜甫に始まり、李商隠がそれを受け継いだ例の一つ。李商隠にはこの三首のほか、七言絶句の「漫成五章」がある。そのなかの二章もこの連作三首と同じく過去の詩を論評している。

漫成三首
不妨何泊盡詩家、未解昔年垂物華。

何遜と范雲の二人ともに立派な詩人であるのは間違いない。わからないのはなぜ当時誰も書かなかった、二人が自然描写について、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえことができたのか。
何范 梁の詩人、(何遜か そん、467年? - 518年?)は中国南北朝時代の文学者。何遜が秀才に挙げられた時の答案を見て苑雲が称賛したと伝えられるように、范雲が年長であるが、二人は「忘年の交好(年齢の差を気に掛けない交友)を結ぶ」(『梁書』何逓伝)間柄であった。後世の詩名は何遜の方が高く、景物の描写にすぐれた詩人として知られる。○尽 どれもこれもみな、すべてと異なり、文語の「皆」、現代語の「都」と同様、二人、二つに対しても用いる。○物華 景物の美。自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており



遠把龍山千里雪、将来擬述洛陽花。
遥か千里も隔たった龍山に降り積もった雪をわざわざもってきて、まさに都洛陽の花と並べているかの表現の詩を書いているのだ。
遠把二句 龍山は『楚辞』「大招」に見える遭龍という山。北方の寒冷の地にあるとされる。二句は苑雲と何遜の聯句にもとづく。「苑広州(范雲)の宅にての聯句」 の薄雲の手になる四句に「洛陽城の東西、却って作す 経年の別れ。昔去りしとき雪 花の如きも、今来たれは雪 花に似たり」。すなわち雪の舞う時期に別れ、花の舞う時期に再会したことを、花と雪の比喩を入れ替えて表現している。そこでは龍山の雪とは言っていないが、南朝宋・飽照「劉公幹体に学ぶ」詩(『文選』巻三一)に「胡風 朔雪を吹き、千里 龍山を度る」とあるのを併せて用いる。范雲・何遜のこの聯句、李商隠は「王十三校書分司を送る」詩、「韓冬郎 即席に詩を為り相い送る」詩二首の二にも用いているごとくお気に入りの句だったようで、ここでも理解できないと言いながら、実際は称賛している。


七言絶句。
○韻 家・華・花。


上元2年 761年 50歳 成都草堂
漫成二首
其 一 
野日荒荒白,春流泯泯清。渚蒲隨地有,村徑逐門成。
只作披衣慣,常從漉酒生。眼邊無俗物,多病也身輕。

(野の日びは 荒荒として白し,春の流れ泯泯としれ清。
渚蒲 地有に 隨い,村徑 門成を逐う。
只 衣慣 披いて作す,常從り漉酒を生ず。
眼邊 俗物 無く,多病 身輕に也。)
其 二 
江皋已仲春,花下複清晨。仰面貪看鳥,回頭錯應人。
讀書難字過,對酒滿壺頻。近識峨眉老,知予懶是真。

(江皐己に仲春 花下復精兵なり
仰面鳥を看るを余り 回頭錯って人に応ず
書を読むに難字過ごす 酒に対して満壷頻りなり
近ごろ識る峨帽の老 余が憮是れ兵なるを知る)

広徳2年 765年 54歳 夔州寓居
杜甫「漫 成」
江月去人只数尺、風灯照夜欲三更。
沙頭宿鷺聯拳静、船尾跳魚撥剌鳴。
(江月(こうげつ)  人を去ること只(た)だ数尺
風灯  夜を照らして三更(さんこう)ならんと欲す
沙頭の宿鷺(しゅくろ)は聯拳(れんけん)として静かに
船尾(せんび)の跳魚(ちょうぎょ)は撥剌として鳴る)
(江上にうつる月は  数尺の近くにあり
風に揺れる灯火は  闇を照らして真夜中に近い
砂浜でねむる鷺は  拳(こぶし)を並べたように動かず
船尾で魚が  元気に跳ねる音がした)
*音律的に非常に整った杜甫の作品の中でも、細やかな描写が重なり、芸術性の高いものとなっている。

范雲 (はんうん451 – 503年) 南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭琛と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。



何遜 (か そん、467? - 518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海郯の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝朓とならび、唐詩の先駆とみなされている。


何遜と范雲の二人ともに立派な詩人であるのは間違いない。わからないのはなぜ当時誰も書かなかった、二人が自然描写について、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえことができたのか。
遥か千里も隔たった龍山に降り積もった雪をわざわざもってきて、まさに都洛陽の花と並べているかの表現の詩を書いているのだ。
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