漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

漫成五章

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

漫成五章 其五 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 108

漫成五章 其五 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 108


其 五
郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。
中書令郭子儀は大乱を平定し、異民族の侵入をふせいだが、もともと武特を汚し、いわれのない戦をするような武将ではないのだ、韓国公、張仁愿も本心は北方異民族との共存を望んでいたのだ。
兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。

長安・洛陽二都の長老たちはひたすら涙にくれるのである。まさかこの年になってもこの漢民族の伝統の地中原の地に北方の軍服姿に加え、平服や風俗を見つづけているのだ。


其の五

郭令の素心は黷武に非ず、韓公の本意は和戎に在り。

両都の耆旧 偏えに涙を垂る、老いに臨んで中原に朔風を見ると。





漫成五章 其五 現代語訳と訳注 解説
(本文)

郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。
兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。

(下し文)
郭令の素心は黷武に非ず、韓公の本意は和戎に在り。
両都の耆旧 偏えに涙を垂る、老いに臨んで中原に朔風を見ると。

(現代語訳)
中書令郭子儀は大乱を平定し、異民族の侵入をふせいだが、もともと武特を汚し、いわれのない戦をするような武将ではないのだ、韓国公、張仁愿も本心は北方異民族との共存を望んでいたのだ。
長安・洛陽二都の長老たちはひたすら涙にくれるのである。まさかこの年になってもこの漢民族の伝統の地中原の地に北方の軍服姿に加え、平服や風俗を見つづけているのだ。

(訳註)
郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。

中書令郭子儀は大乱を平定し、異民族の侵入をふせいだが、もともと武特を汚し、いわれのない戦をするような武将ではないのだ、韓国公、張仁愿も本心は北方異民族との共存を望んでいたのだ。
郭令 郭子儀(697年 - 781年)。安禄山の乱を平定した功績によって中書令に任じられたので「郭令」という。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐~中唐期を代表する名将。○素心 もともとの気持ち。○黷武 武特を汚す。いわれのない戦をする。兵力に頼り、外交をしない武将のこと。武力濫用。・黷:けがすの意。郭子儀はのちに回紇、吐蕃など周辺異民族の侵入に際して武力を用いずして撤兵させた。○韓公 則天武后の時、幽州を中心に北の異民族を封じ込めた名将、張仁愿。武則天は702年4月、幽州刺史の張仁愿へ幽、平、嬀、檀の防禦を専任させ、薛季昶と連携して突厥軍を拒ませた。この時、韓国公に封じられたので「韓公」という。○和戎 周辺異民族と和睦する。張仁愿は北方国境地帯に城を築き、それ以後突厥は侵犯しなくなった。韓公については杜甫「諸將五首其二」にふれている。李商隠の「漫成五章」は杜甫のこの詩にも影響受けている。

兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。
長安・洛陽二都の長老たちはひたすら涙にくれるのである。まさかこの年になってもこの漢民族の伝統の地中原の地に北方の軍服姿に加え、平服や風俗を見つづけるているのだ。
〇両都 唐の東西の都、長安と洛陽。○耆旧 長老たち。○ ひとえに、もっぱら、ひたすら。○朔風 北方の人々の風俗、暮らしぶり。北方の領土が唐に返還され、河西・陵右(甘粛省西部一帯)で異民族の支配を受けていた中国の人々が、胡服のまま都に参することがあった。




(解説)
○詩型 七言絶句。
○押韻 戎・風。


#1
沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。
六朝の文学のほうがはるかに優れていると思われる。それより、盛唐、中唐、晩唐と圧倒的に優れた詩人が出現するわけであるから比較にならないということか。 律詩については李商隠で完成されたというべきものである。
初唐までは詩人であるが、政治家、軍人のほうに力点が置かれていた。次第に、詩に王朝色が薄れ、軍人色が薄い詩人が多くなる。
 ここに挙げられた詩人は天子の謁見は叶ったがのち疎まれた人物である。しかし、初唐の詩人については宦官の讒言はなかった。


#2
李杜操持事畧齊、三才萬象共端倪。
集仙殿興金鑾殿、可是蒼蝿惑曙雞。
711年玄宗は高力士らの手を借りてクーデターを成功させた。宦官は一気に力を持つようになり、朝臣、張説、張九齢は失脚し、李林甫は宦官の手を借り朝廷を牛耳った。玄宗は一芸に秀でたものを集めたが李林甫は文学の詩を嫌った。これより、宦官と無学が唐王朝の中枢をなす。この詩は盛唐期に入って、詩のレベルが変わった事、しかし、宦官と無学によって妨げられたとしている。朝廷における朝礼を鶏に喩え、うるさく飛び交う青蝿を宦官に喩えている。唐王朝初期に60名くらいの宦官が李商隠の時代には5千名を超えていたという。


#3
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。
借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。
孫権の時代は、三権鼎立、王羲之の時代は、南北朝、時代を経て東西の晋、どちらも若い自分は優れた軍人であった。晩年は、悪酒に傲慢な振る舞いをした孫権だけれど、臣下の諫言には耳を傾けた。官を辞し会稽の地にとどまり、人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごした王羲之であるが、飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。李商隠の時代には、自己の利益のためだけに動く軍人、文人、皇帝にしても宦官勢力に牛耳られて身動きが取れない。
だれも頼りとする人物がいない。
 七言絶句の中に込められた軍人、文人たちの対立、まとまっていかないといけないのにまとまらない。それでいて、媚びるものだらけの暗黒の時代を示している。


#4
代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。
其三の詩を今の時代には、時代を引っ張る人材がいないといいながら、受けて、よく探してみると、賤しい身分から異民族を破り、国内の叛乱を抑えた人材がおり、そして、その人材を発掘抜擢した人物がいた。孫権、王羲之のレベルの違い感は免れないのは、宦官の支配の中での問題である。

#5
郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。
兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。
「漫成三首」がいわゆる評論詩であったように、この「漫成五章」も詩評に借りた王朝批判である。どの時期も政策ミスをしている。それらの基本に流れるのは宦官の讒言であった。しかし、北の異民族と和睦ができていたものを、異民族出身の唐の連隊長が謀叛を起こし、北の異民族軍を操り、唐の兩都を蹂躙した。それを平定するために宦官の意見を取り上げ、異民族の手を借り大乱を平定したのだ。そんなことをしなくても、平常から賢臣を的確に抜擢し朝廷を作り上げれば、戦をすることはないのだ。奸臣ばかりが朝廷の中心におり、場当たり的に事にあたっていくのは王朝の末期的な象徴である。


(参考)
安禄山の母は突厥の名族阿史徳氏出身の「巫師」であった。『新唐書』巻225上 安禄山伝などによると、「軋犖山」という名の突厥の軍神に巫女であった母が祈ったところ、穹廬(ゲルなどのテント)を光が照らして懐妊し、野獣はことごとく鳴くなど祥瑞が現れた、と出生に関わる奇瑞譚が載せられている。当時、節度使であった張仁愿がこれを知り殺そうとしたが、なんとか逃れることができたという伝承もある。


郭子儀
(かく しぎ、697年 - 781年)は中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に歴仕。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐~中唐期を代表する名将。

身長190cmほどの偉丈夫であった。旧唐書によると、父郭敬之は綏州・渭州・桂州・壽州(寿州)・泗州の刺史(地方長官)を歴任したと言う。これは必ずしも低い身分ではなく、新唐書・百官志四下によると、「上州」刺史は「従三品」に当たり、また渭州・壽州などには中都督府が置かれ、中都督は「正三品」であった。府兵制が崩れる以前においては、都督・刺史の官は地方職(外官)としては高官であったと言える。

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漫成五章 其四 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 107

漫成五章 其四 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 107



其四
代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
代北軍の昭義軍という偏隊から節度使の割り符を受けるまでに出世し、関東の副将の身から一城の主になれたという。
不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。
かつてはその卑賎な出を軽んじる者ばかりだったが、ともかくも戦時に雜草というべき士を登用したのはともかく喜ばしいことである。


其の四

代北の偏師 使節を銜み、関東の裨将 行台を建つ。

妨げず 常日 軽薄餞きを、且く喜ぶ 戒に臨みて草莱を用いしを。





漫成五章 其四 現代語訳と訳註 解説と参考

(本分)

代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。

(下し文)
代北の偏師 使節を銜み、関東の裨将 行台を建つ。
妨げず 常日 軽薄餞きを、且く喜ぶ 戒に臨みて草莱を用いしを

(現代語訳)
代北軍の昭義軍という偏隊から節度使の割り符を受けるまでに出世し、関東の副将の身から一城の主になれたという。
かつてはその卑賎な出を軽んじる者ばかりだったが、ともかくも戦時に雜草というべき士を登用したのはともかく喜ばしいことである。


代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
代北軍の昭義軍という偏隊から節度使の割り符を受けるまでに出世し、関東の副将の身から一城の主になれたという。
代北偏師銜使節 この詩は同時代の武将石雄が抜擢されて大きな戦果を挙げたことを述べる。843年石雄が回鶴を撃破して功責をあげ、李徳裕は、石雄を豊州防禦使に抜擢したことをいう。・代北は代北軍、安史の乱を治めたのち、765年永泰元年、代州(山西省代県)に置かれた(『新唐書』地理志)。・偏師は、全軍ではなく、全軍ではない軍、偏隊(昭義軍をいうのではないか)。・使節は天子の使者であることを示す割り符のこと。節度使などに任じられることをいう。・は命令や辞令を受けること。○関東裨將建行臺 この句でも石雄が徐州(江蘇省徐州市)という一地方の低い武官から身を起こし、844年昭義軍を率いて藩鎮の劉稹を破り、河中節度使に任じられたことをいう。・関東は函谷関より東の地域。ここでは徐州を指す。・裨将は副将。裨は補佐するという意味だが、実際には指揮をふっている。・行台は辺境の枢要の地に置かれた軍事機構。


不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。
かつてはその卑賎な出を軽んじる者ばかりだったが、ともかくも戦時に雜草というべき士を登用したのはともかく喜ばしいことである。
軽薄 うとんじる。『漢書』王尊伝に「公卿を推辱し、国家を軽薄す」。石雄が低い出身ゆえに侮蔑されたことをいう。○臨戎 いくさに臨んで。○草葉 草奔と同じく民間、在野。また庶民をいう。・莱は雑草。石雄を抜擢したのは当時の朝廷の重鎮李徳裕であり、馮浩はこの詩は李徳裕を讃える意をこめるという。


(解説)

○詩型 七言絶句。
○押韻 台、莱。


其三の詩を今の時代には、時代を引っ張る人材がいないといいながら、受けて、よく探してみると、賤しい身分から異民族を破り、国内の叛乱を抑えた人材がおり、そして、その人材を発掘抜擢した人物がいた。孫権、王羲之のレベルの違い感は免れないのは、宦官の支配の中での問題である。

李徳裕(り とくゆう、787年 - 849年)は、中国・唐代の政治家である。趙郡(河北省寧晋県)を本貫とする、当代屈指の名門・李氏の出身。字は文饒。憲宗朝の宰相であった李吉甫の子である。

徳裕は、幼くして学を修めたが、科挙に応ずることを良しとせず、恩蔭によって校書郎となった。
 
820年、穆宗が即位すると、翰林学士となった。次いで、822年には、中書舎人となった。その頃より、牛僧孺や李宗閔らと対立し始め、「牛李の党争」として知られる唐代でも最も激烈な朋党の禍を惹起した。また、後世の仏教徒からは、道士の趙帰真と共に「会昌の廃仏」を惹起した張本人である、として非難されている。
 
敬宗の代に浙西観察使となって、任地に善政を敷き、帝を諌める等の功績があった。829年、文宗代では、兵部侍郎となった。時の宰相、裴度は、徳裕を宰相の列に加えるよう推薦した。しかし、李宗閔が、宦官と結託して先に宰相の位に就いた。逆に、830年徳裕は、投を排除され、鄭滑節度使として地方に出された。833年兵部尚書になる。 甘露の変の際、前年より病勝ちで療養中の出来事。

840年、武宗が即位すると、徳裕が宰相となり、843年、844年劉稹の地方の藩鎮の禍を除いた。その功績により、太尉衛国公となった。しかし、宣宗が即位すると、再び、潮州司馬、さらに崖州司戸参軍に左遷され、そこで没した。

特に『会昌一品集』は、李徳裕が宰相として手腕をふるった会昌年間6年に書いた制・詔・上奏文などをまとめたものである。ここには彼が処理した、ウイグル帝国崩壊後、南へ逃れ唐北辺へと流れてきたウイグル一派への対応や、昭義軍節度使劉稹の反乱の平定など、当時の政策の様相をダイレクトに描き出す文章が多数載せられ、武宗期の政治史のみならず、遊牧民の歴史の観点からも、重要な史料として注目される。

漫成五章 其三 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 106

漫成五章 其三 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 106


漫成五章 其三 
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。
むすこを生むならば、曹操がこんなむすこを持ちたいと羨んだ、呉の討虜将軍孫権のような武人が昔はいたものだ。娘を政略で嫁がせようにも、郗鍳が気に入って婿にした王義之のような将軍で文人の人材が今は見あたらないのだ。
借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。
聞いてみたい、軍人でありながら官を辞して、琴や書物とともに一生を終えられる王羲之のような文人と、孫権のように天子の儀仗で活躍した武人、天下を三分していてもだれからも尊敬され仰ぎ見られる、はたしてだれが勝るといえるのかと。


其の三

児を生めば古には孫征虜有り、女を嫁がすに今は王右軍無し。

借問す 琴書もて一世を終わるは、何如ぞ 旗蓋 三分を仰ぐに。




漫成五章 其三 現代語訳と訳註 解説・参考


(本文)
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。
借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。

(下し文)
児を生めば古には孫征虜有り、女を嫁がすに今は王右軍無し。
借問す 琴書もて一世を終わるは、何如ぞ 旗蓋 三分を仰ぐに。


(現代語訳)
むすこを生むならば、曹操がこんなむすこを持ちたいと羨んだ、呉の討虜将軍孫権のような武人が昔はいたものだ。娘を政略で嫁がせようにも、郗鍳が気に入って婿にした王義之のような将軍で文人の人材が今は見あたらないのだ。
聞いてみたい、軍人でありながら官を辞して、琴や書物とともに一生を終えられる王羲之のような文人と、孫権のように天子の儀仗で活躍した武人、天下を三分していてもだれからも尊敬され仰ぎ見られる、はたしてだれが勝るといえるのかと。


(訳註)
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。

むすこを生むならば、曹操がこんなむすこを持ちたいと羨んだ、呉の討虜将軍孫権のような武人が昔はいたものだ。娘を政略で嫁がせようにも、郗鍳が気に入って婿にした王義之のような将軍で文人の人材が今は見あたらないのだ。
生児 「児」は男の子。○孫征虜 三国・呉の孫権をいう。200年(建安5年) - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉(現在の蘇州)に本拠を構える。「児を生めば」は、曹操が孫権の水軍のよく整備されているのに感心して「子を生めば当に孫仲謀(孫権の字)の如くなるべし」と羨ましがったという話を用いる(『三国志』呉書・孫権伝の裴松之注が引く『呉歴』)。○嫁女 権力者にとって女は女の子で政略の道具の一つである。○王右軍 東晋の王義之。書聖として知られるが、右軍将軍になったので「王右軍」という。太博の郗鍳が王導の子弟の中から婿を選ほうとして、使者が王家を訪れると、みな取り澄ましていたのに、一人だけ何知らぬ顔して寝そべったままの若者がいた。報告を聞いた郗鍳が気に入ったのがその王義之だった。むすめは彼に嫁がせたという。『世説新語』雅量篇に見える話。


借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。
聞いてみたい、軍人でありながら官を辞して、琴や書物とともに一生を終えられる王羲之のような文人と、孫権のように天子の儀仗で活躍した武人、天下を三分していてもだれからも尊敬され仰ぎ見られる、はたしてだれが勝るといえるのかと。
琴書 琴と書物。文人の生活をいう。陶淵明「帰去来の辞」に「琴書を楽しみて以て憂いを消さん」。王義之は政界への意欲はなく、静謐な生き方を好んだ。○何如 二つのものを較べて、どうであるかの意。ここでは「不如」(……に及ばない)というのに同じ。王義之のような文人か、孫権のような武人か、子供や女婿には後者がよいとする。○旗蓋仰三分 「旗蓋」 は天子のしるしである旗と申蓋。しばしば「黄旗紫蓋」 の四字で用いられる。「三分」 は天下が魏蜀呉、南北東西に三分されたこと、どちらも天下が戦時下にあり、軍人であり続けるのかどうか。


(解説)

○詩型 七言絶句。
○押韻 軍。分。


 孫権の時代は、三権鼎立、王羲之の時代は、南北朝、時代を経て東西の晋、どちらも若い自分は優れた軍人であった。晩年は、悪酒に傲慢な振る舞いをした孫権だけれど、臣下の諫言には耳を傾けた。官を辞し会稽の地にとどまり、人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごした王羲之であるが、飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。李商隠の時代には、自己の利益のためだけに動く軍人、文人、皇帝にしても宦官勢力に牛耳られて身動きが取れない。
だれも頼りとする人物がいない。
 七言絶句の中に込められた軍人、文人たちの対立、まとまっていかないといけないのにまとまらない。それでいて、媚びるものだらけの暗黒の時代を示している。


(参考)
三曹 
武帝(曹操)(そうそう) 155―220後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 ・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿 ・蒿里行 ・薤露

孫権182年―252年 後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。なおよく並べられる曹操、劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。時勢を読んだ外交を始めとして思慮深さを見せる人物であったが、一方で感情のままに行動を取り部下から諌められた逸話が複数残っている。

 

三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:黃巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。    



王羲之 303年 - 361年 東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごした。


漫成五章 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 105

漫成五章 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 105


漫成五章 其二
李杜操持事畧齊、三才萬象共端倪。
李白、杜甫の筆さばき、その力量は肩を並べる。天、地、人あるいは太陽、月、星の三才、森羅万象、すべてをかすかな兆しまではかりしり、表現されている。
集仙殿興金鑾殿、可是蒼蝿惑曙雞。

天子の集仙殿と金鑾殿は厳かにある、そこで二人はそれぞれ天子の謁見を受けた、暁の朝礼で鶏の声、裏方である小うるさい青蝿よって消されてしまうことになっているはずなのだ。



其の二

李杜の操持 事 略(ほぼ)斉(ひとし)、三才 万象 共に端促(たんげい)す。

集仙殿と金鑾殿と、是れ蒼蝿(そうよう)の曙鶏(しょけい)を惑(まど)わすべけんや。




漫成五章 其二 現代語訳と訳註 解説
(本文)

李杜操持事畧齊、三才萬象共端倪。
集仙殿興金鑾殿、可是蒼蝿惑曙雞。

(下し文)
李杜の操持 事 略(ほぼ)斉(ひとし)、三才 万象 共に端促(たんげい)す。
集仙殿と金鑾殿と、是れ蒼蝿(そうよう)の曙鶏(しょけい)を惑(まど)わすべけんや。


(現代語訳)
李白、杜甫の筆さばき、その力量は肩を並べる。天、地、人あるいは太陽、月、星の三才、森羅万象、すべてをかすかな兆しまではかりしり、表現されている。
天子の集仙殿と金鑾殿は厳かにある、そこで二人はそれぞれ天子の謁見を受けた、暁の朝礼で鶏の声、裏方である小うるさい青蝿よって消されてしまうことになっているはずなのだ。



李杜操持事畧齊、三才萬象共端倪。
李白、杜甫の筆さばき、その力量は肩を並べる。天、地、人あるいは太陽、月、星の三才、森羅万象、すべてをかすかな兆しまではかりしり、表現されている。
李杜 李白と杜甫。盛唐を代表する詩人。韓愈「張張籍」(李杜文章在り、光焔万丈長し。)○操持 手で扱う。ここでは筆墨を手にすることをいう。〇三才 天、地、人。太陽、月、星。○万象 森羅万象、世界のすべての物。○端倪 端緒、きざし。端はいとぐち、倪ははて。はかりしること。『荘子』大宗師篇に「終始を反復して端悦を知らず」。ここでは動詞として、わずかなきざしをも捉えること。韓愈は「薦士」の中で、「国朝文章の盛なる、子昂始めて高踏し、勃興李杜を得て、万類は陵暴に困しむ」と言う。これは陳子昂を先駆者とし、李白の復古主義への貢献も含めての評価をしている。


集仙殿興金鑾殿、可是蒼蝿惑曙雞。
天子の集仙殿と金鑾殿は厳かにある、そこで二人はそれぞれ天子の謁見を受けた、暁の朝礼で鶏の声、裏方である小うるさい青蝿よって消されてしまうことになっているはずなのだ。
集仙殿・金鑾殿 ともに朝廷の宮殿の名。「集仙殿」はのちに集賢殿と改名された。杜甫は「三大礼賦」を献じて玄宗に称賛され、「集賢殿」に待機することを命じられた。李白は賀知章の推挽を受けて「金鑾殿」で玄宗の謁見を受けた。二つの宮殿は二人の詩人が玄宗の知遇を得た場所であったが、結局二人ともその好機を生かして重用されることはなかった。○可是 ~だろうか。○蒼蝿惑曙鶏 『詩経』斉風・鶏鳴、「鶏既に鳴く、朝既に盈つ。鶏則ち鳴くに匪ず、蒼蝿の声」 にもとづく。鶏が鳴くので夜が明けたかと思ったら、蝿の羽音だったという。ここでは李白を宮中から追い出した高力士、杜甫を認めなかった李林甫などの無学の物がかしましく騒ぎ立てて、二人を宮中から追放したことをいう。



(解説)
○詩型 七言絶句。
○押韻 斉、倪、鶏。


711年玄宗は高力士らの手を借りてクーデターを成功させた。宦官は一気に力を持つようになり、朝臣、張説、張九齢は失脚し、李林甫は宦官の手を借り朝廷を牛耳った。玄宗は一芸に秀でたものを集めたが李林甫は文学の詩を嫌った。これより、宦官と無学が唐王朝の中枢をなす。この詩は盛唐期に入って、詩のレベルが変わった事、しかし、宦官と無学によって妨げられたとしている。朝廷における朝礼を鶏に喩え、うるさく飛び交う青ばえを宦官に喩えている。唐王朝初期に60名くらいの宦官が李商隠の時代には5千名を超えていたという。



盛唐期
唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがいる。



李白 701年 - 762年 中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。

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    2011/11/3 210首掲載 -350首予定


杜甫 712年 - 770年 鞏(きょう)県(河南省)の人。字(あざな)は子美(しび)。少陵と号し、杜工部、老杜とも呼ばれる。青年時代から各地を放浪。湖南省の湘江付近で不遇の一生を終えた。現実の社会と人間を直視し、誠実・雄渾な詩を作り、律詩の完成者で詩聖と称され、詩仙と呼ばれる李白と並ぶ唐代の代表的詩人とされる。「兵車行」「春望」などは有名。

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  2011/11/3 110首掲載 -700首予定

漫成五章 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 104

漫成五章 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 104


其一
沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
初唐の詩人、沈佺期、宋之問は言葉を操っては、律詩を一変させたと自慢ばかりしていた。同時期の王勃、楊炯は詩を作る以外によき仲間をもっていた。
當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。
その当時は文壇の宗匠だと自分から言うだけでうぬぼれというものだ、今日の詩のレベルからすると、ただ対句の才能を出しただけのものでしかない。


漫成五章  其の一

沈宋 詞を裁して変律を矜る、王楊 筆を落として良朋を得たり。

当時 自ら宗師のの妙と謂うも、今日 唯だ、対属の能として観る



漫成五章 現代語訳と訳註 解説
(本文) 其一

沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。

(下し文) 其の一
沈宋 詞を裁して変律を矜る、王楊 筆を落として良朋を得たり。
当時 自ら宗師のの妙と謂うも、今日 唯だ、対属の能として観るのみ

(現代語訳) 漫成五章  其の一
初唐の詩人、沈佺期、宋之問は言葉を操っては、律詩を一変させたと自慢ばかりしていた。同時期の王勃、楊炯は詩を作る以外によき仲間をもっていた。
その当時は文壇の宗匠だと自分から言うだけでうぬぼれというものだ、今日の詩のレベルからすると、ただ対句の才能を出しただけのものでしかない。

(訳註)

○漫成五章 
ふとできあがった詩の五章。

漫成三首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-8082

「五章」というのは、『詩経』の詩が複数の「章」から成るのをまねて、五章を連ねて一后の詩としたもの。
杜甫に曲江三章 章五句 杜甫特集 52  がある。


沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
初唐の詩人、沈佺期、宋之問は言葉を操っては、律詩を一変させたと自慢ばかりしていた。同時期の王勃、楊炯は詩を作る以外によき仲間をもっていた。
沈宋 初唐後期武則天に律詩の評価を受けた宮廷詩壇を代表する詩人、沈任期と宋之間。文学史上では律詩(近体詩)の形式を完成に近づけたとされる。○裁詞 布を裁断するように言葉を裁ち切って詩を作る。「詞」は「辞」 に同じ。言葉を操る。うそを言うので有名でもあった。○変律 新しいスタイルの律詩。○王楊 王勃と楊炯のこと。盧照鄰、駱賓王とあわせて初唐四傑、と称され、宮廷文壇の外にあって、南朝風の給靡な文学から脱皮して雄渾な唐代の文学を切り開いた。ここでは沈宋とともに対句の技巧に長けていたにすぎないと否定的にとらえる。○落筆 筆をくだす。○得良朋 王勃、楊けいが慮照郷、騒賓王という盟友をもって四傑と称されたことをいう。


當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。
その当時は文壇の宗匠だと自分から言うだけでうぬぼれというものだ、今日の詩のレベルからすると、ただ対句の才能を出しただけのものでしかない。
宗師 師としてあがめられる中心的存在。○対属 対偶表現。近体詩の特徴の一つは対句の技巧を用いることなのでこういう。

(解説と参考)
○詩型 七言絶句。
・押韻 朋・能。

六朝の文学のほうがはるかに優れていると思われる。それより、盛唐、中唐、晩唐と圧倒的に優れた詩人が出現するわけであるから比較にならないということか。 律詩については李商隠で完成されたというべきものである。
初唐までは詩人であるが、政治家、軍人のほうに力点が置かれていた。次第に、詩に王朝色が薄れ、軍人色が薄い詩人が多くなる。
 ここに挙げられた詩人は天子の謁見は叶ったがのち疎まれた人物である。しかし、初唐の詩人については宦官の讒言はなかった。


初唐
前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、①王勃・②楊炯・③盧照鄰・④駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈佺期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。

魏徴 580年 - 643年 唐初の政治家・学者。癇癪を起こした太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、魏徴死亡時太宗は非常に哀しんだという。曲城(山東省)の人。字(あざな)は玄成。太宗に召し出され、節を曲げぬ直言で知られる。「隋書(ずいしょ)」「群書治要」などの編纂(へんさん)にも功があった。

上官儀 (じょうかんぎ) 608?年 - 665年 文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。皇后であった則天武后を廃そうと高宗に建議したことにより、則天武后(武則天)の怨みを買い、後に梁王・李忠の「謀反」事件に関連させられ、獄死した。

王勃 おうぼつ   650年 - 676年 "王勃の作品には、南朝の遺風を残しながら、盛唐の詩を予感させる新鮮自由な発想が見られる。「初唐の四傑」の一人。幼くして神童の誉れ高く、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。虢州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。
 この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。"
・滕王閣 , ・送杜少府之任蜀州唐、・蜀中九日(九月九日望鄕臺)


楊炯 (ようけい、生年不詳-692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる.華陰(陝西省)の出身。幼時から慧敏でよく文章を作り、661年に神童に挙げられ校書郎を授けられた。681年、崇文館学士になった。則天武后の時代に梓州司法参軍に左遷されて、のち盈川の令となった。著に『盈川集』がある
・従軍行    ・夜送趙縦 


盧照鄰 (ろしょうりん、生没年未詳) 范陽(河北省)の出身。幼少より曹憲・王義方に従って経史と小学を学び、詩文に巧みであった。初めは鄧王府の文書の処理係である典籤となり、王(唐高祖の子・元裕)に重用された。 のち新都(四川省)の尉となったが病のために職を辞し、河南省具茨の山麓に移住した。病が重くなって、ついに頴水に身を投じて死んだ。 その詩は厭世的で悲しみいたむ作が多い。長安の繁栄のさまを詠じた「長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧昇之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。
・長安古意

駱賓王 らくひんおう  640年? - 684年? "「初唐の四傑」の一人。7歳からよく詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。特にその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句を作るので「算博士」の俗称がある。(浙江省)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。
 出世の望みを失い、官職を棄てて去った。684年に李敬業が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。
・易水送別 , ・霊隠寺 , ・詠鵞

宋之問 (そうしもん) 652~712 "宋 之問(そう しもん、656年?-712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。虢州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈佺期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
 汾州出身。字は延清。科挙進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗復辟で瀧州(広東羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之の武三思暗殺を密告して赦免・登用された。太平公主に与し、横暴・驕慢として越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、玄宗に自殺を命じられた。 娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の“年年歳歳花相似たり”の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させたという。(或いは毒殺説もある)"


沈佺期 (しんせんき) 656年? - 716年?
宋之問とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少詹事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。 "


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