井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 143

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、難解な詩となっている。

第3場面



皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-#1
升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2
茫茫此群品,不定輪與蹄。
分別できないほど多くとりとめない親子、肉親の間での欲望の法則、それは動き続ける馬車の輪と蹄のようにさだまったものではないのである。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
堯は舜という仁徳の法則のわかった後継名を得たことを喜んだ、その父が暗愚な瞽瞍であっても迷いはしなかったのだ。
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
ついに、禹が舜に代わって帝位に就いたのだ、禹の父は問題のある人で舜に「ああ、心がねじけている」と叫ばれた人でした。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
漢祖把左契,自言一布衣。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。
長戟亂中原,何妨起戎氐。
長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3

この血筋血統については帝王だけの耳目ではないのだ。臣下についても同じことがいえるのだ。
伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4
大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈云爲
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5


茫茫たる此の群品、定まらざること輪と蹄のごとし。
舜の禅(ゆず)るべきを得るを喜び、瞽瞍(こそう)を以て疑わず。
禹は竟に舜に代わりて立つ、其の父は吁あ咈(もと)れる哉。
嬴氏(えいし)は六合を井するも、来たる所は不韋に因る。
漢祖 左契を把るも、自ら言う一布衣なりと。
当塗 国璽(こくじ)を佩(はい)するも、本は乃ち黄門の携。
長戟(ちょうげき)もて中原を乱す、何ぞ戎氐(じゅうてい)より起つを妨げん。

独り帝王のみにあらず、臣下も亦た斯くの如し。



井泥四十韻 第3場面 現代語訳と訳註
(本文)

茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』

(下し文)
茫茫たる此の群品、定まらざること輪と蹄のごとし。
舜の禅(ゆず)るべきを得るを喜び、瞽瞍(こそう)を以て疑わず。
禹は竟に舜に代わりて立つ、其の父は吁あ咈(もと)れる哉。
嬴氏(えいし)は六合を井するも、来たる所は不韋に因る。
漢祖 左契を把るも、自ら言う一布衣なりと。
当塗 国璽(こくじ)を佩(はい)するも、本は乃ち黄門の携。
長戟(ちょうげき)もて中原を乱す、何ぞ戎氐(じゅうてい)より起つを妨げん。

独り帝王のみにあらず、臣下も亦た斯くの如し。



(現代語訳)
分別できないほど多くとりとめない親子、肉親の間での欲望の法則、それは動き続ける馬車の輪と蹄のようにさだまったものではないのである。
堯は舜という仁徳の法則のわかった後継名を得たことを喜んだ、その父が暗愚な瞽瞍であっても迷いはしなかったのだ。
ついに、禹が舜に代わって帝位に就いたのだ、禹の父は問題のある人で舜に「ああ、心がねじけている」と叫ばれた人でした。
秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。
魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。
長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
この血筋血統については帝王だけの耳目ではないのだ。臣下についても同じことがいえるのだ。


(訳注)
茫茫此群品,不定輪與蹄。
分別できないほど多くとりとめない親子、肉親の間での欲望の法則、それは動き続ける馬車の輪と蹄のようにさだまったものではないのである。
茫茫 分別できないほど多い様子。○群品 もろもろの法則。○輪与蹄 車輪と馬の蹄。二つの部分を挙げることによって馬車をあらわす。馬車が走るように一定の状態に留まっていることはない。


喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
堯は舜という仁徳の法則のわかった後継名を得たことを喜んだ、その父が暗愚な瞽瞍であっても迷いはしなかったのだ。
喜得 『尚書』堯に、臣下に後継者を問うと臣下が舜を推挙する。○瞽瞍 盲目の意。舜の父は曹禦といい、愚昧な人であった。舜は母も弟も性格が悪い家庭の中にあって天孝を尽くし、堯の目にかなって帝位を譲られた。舜の父は舜に井戸を掘らせ、深くまで掘ったところで瞽叟と象が土を投げ込んで生き埋めにして殺そうとはかった。このとき舜は、井戸を掘りながら横穴を作り、そこから抜けだす事で助かった。


禹竟代舜立,其父籲咈哉。
ついに、禹が舜に代わって帝位に就いたのだ、禹の父は問題のある人で舜に「ああ、心がねじけている」と叫ばれた人でした。
 禹は初めての世襲王朝である「夏」を創始した人物とみなされていることから、三皇五帝の一人として数えられていない場合が多い。
禹は、父が功ならずして罰を受けた事を悲しみ、総力をあげて職務に打ちこんだ。 衣食を節約して鬼神への供物を豊富にし、家屋敷を質素なものとしてその費用を田畑の潅漑に回した。
『尚書』堯典に、禹の父・鯀は、帝堯が大洪水を治める人物を求めた時に、群臣や四嶽(四方の諸侯の長官)によって推挙された。
 このとき堯は、
「鯀という人物は、おかみの命令に背き、一族と和せずして仲間を損なうような人物だ」
 といって反対したが、四嶽たちが
「臣下たちの才能を比べて見ると、鯀より賢明なものは見当たりません。ためしにやらせて見てください。」
 と主張したため、鯀に治水にあたらせた。
 しかし、九年たっても洪水はやまず、何の成果も表れなかった。
 その後、帝堯に舜が登用されると、舜は鯀の治水が実情にそぐわず、何の成果もあげていないことから彼を東方の羽山へおしこめて死に致らしめた。
 舜は、鯀の代わりに鯀の子・禹を登用して、鯀の事業を継続させた。

 『山海経』によると相柳は青い色をしていて人面蛇身、頭は九つあり、その身体が触れて土が掘り返されたところは沢や谷となったという。
 禹は(おそらく、洪水の元凶となる邪神として)相柳を殺したが、その生臭い血の流れたところは五穀の種を植えることもできず、深い穴を掘って埋めたものの、何度やっても崩れてしまった。
 そこで禹は、相柳を埋めた場所に諸々の帝の臺(=陵墓)を作ったという。
 これは、帝の威光(当然、政治的というより宗教的な)によって、相柳を封じ込める意味があったのだろう。
 禹が相柳を埋めた場所は、『山海経』海外北経には「昆侖の北、柔利(国)の東」にある、とされている。


嬴氏並六合,所來因不韋。」
秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
 秦の始皇帝のこと。姓は嬴、名は政。・六合 天地と四方。世界全体をいう。・不韋 父・子楚(後の荘襄王)は趙国の人質となっていたが、大商人呂不韋の支援を得て帰国、秦王に即位した。子楚は呂不韋から愛人を譲り受けたが、この愛人との間に生まれたのが政である。
しかしその愛人は子楚の元にやってきた際には既に懐妊していたと言われ、これに従えば始皇帝の父親は子楚ではなく呂不韋となる。この風聞は当時広範囲に流布していたと考えられ、『史記』でも呂不韋列伝に史実として記載されているが、秦始皇本紀には記載されていない。司馬遷は両論併記を採用したともいえる。『史記』秦始皇本紀所収の班固の上書部では「呂政」と表記されており、始皇帝と秦王室の血縁関係を否定しているが、これは漢朝が秦朝の正統性を否定する意味合いが強い。


漢祖把左契,自言一布衣。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。
漢祖 漢の高祖劉邦。○左契 契約の札を半分ずつに割った片方。『老子』七十九章に「是を以て聖人は左契を執ってしかも人に責めず(割り符の半分を持ちながら返済を強要しない)」。ここでは天下を取る力を握っていたことをいうか。○布衣 無位無冠の身。絹でない服を着ていることから庶民をいう。劉邦は戦傷がもとで死に瀕した時、「吾は布衣を以て三尺の剣を提げて天下を取る。此れ天命に非ざるや」、死ぬのもまた天命だと言って治療を拒絶した(『史記』高祖本紀)。


當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。
当塗 道途、道塗みち。道路。道に当たる=権力者。1・:権力、2・國璽:皇帝になる印、3・黄門:宦官、4・:連れ子。この4つのキーワードにより、魏の曹操となる。3と4だけでもわかるのである。宦官のうち、高級官僚も多くいた。養子をとって家を継がせた。もっともこの頃は、その地位が売買されていたので、権力を掌中に入れて、その後、その出自を塗り替えるということをしている。曹操の場合、背は高く、秀麗であったとされているが最近のDNA検査で実際は正反対であったともいわれる。
『三国志』魏書・文帝紀の袈松之注が『献帝伝』を引くなかに、「道(=塗)に当たりて高大なるものは魏なり」。「魏」が官門の両側の建築物を意味するのと掛けたもの。「国璽」は正統王朝であるしるしの印。「黄門」は宦官を指す。曹家は名臣曹参の裔を称しており、父の曹嵩が三公である太尉であったものの、祖父の曹騰が宦官である事から常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。袁紹の幕下にいた陳琳は、曹操との戦いに向けた檄文の中で、曹操を「贅閹の遺醜」(「宦官という卑しい存在の倅」という意味)と罵倒している。「蓑紹の為に濠州に徹す」(『文選』巻四四)に、「父嵩は乞弓(物乞い)より携養さる」という。
曹 嵩(そう すう? - 193年)後漢末の政治家、豪族。字は巨高。魏の太祖武帝曹操の父である。姓は曹氏。諡号は太皇帝。『三国志』裴松之注引『曹瞞伝』によると、彼は夏侯氏の出身で、夏侯惇の叔父(父の弟)であるという。後に後漢の宦官で権勢を振るった大長秋・曹騰の養子となる。その性格は慎ましやかで、忠孝を重んじたという。官僚として司隷校尉、大司農、大鴻臚を経て、188年には太尉まで昇った。当時、売官制が横行しており、曹嵩も一億銭にも上る金額を霊帝に献上し、宦官に賄賂を贈って、太尉の職についたという。その後、黄巾の乱に始まる後漢末の大乱を避けるために、徐州東北部にある瑯邪郡に家族と共に避難していたが、子の曹操が群雄となって兗州に地盤を確保したことから帰還しようとした。だが、その途中で徐州牧陶謙の配下により殺害された。父の死を知った曹操は復讐のため出兵し、徐州で殺戮を行った。
220年、孫の曹丕(文帝)が後漢より禅譲を受けて皇帝となり魏帝国を立てると、曹嵩は魏の「太皇帝」と追尊された。子については、魏の太祖武帝である曹操や共に殺害された曹徳(あるいは曹疾)の他に数名散見されるが、いずれも事蹟に乏しい。『魏書』「樊安公均伝」によると、薊恭公曹彬、同じく『魏書』「東平霊王徽伝」によると、朗陵哀侯曹玉の名が見えるが、それぞれ曹操の子である曹均と曹徽を養子に迎えていたと記録されるのみである。また、『魏書』「夏侯淵伝」によると、曹操の弟である海陽哀侯とおくりなされた人物が確認でき、その娘が夏侯衡(夏侯淵の長子)の正妻となっている。海陽哀侯についての記録は他に見えず、曹徳あるいは曹疾と同一人物か否かは確定できない。


長戟亂中原,何妨起戎氐。
長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
○長撃一句 「戟」ははこ。武力をいう。「戎氏」は北方の異民族。晋を南方に追い遣って北方中国を奪った五胡十六国を指す。


不獨帝王耳,臣下亦如斯。』
この血筋血統については帝王だけの耳目ではないのだ。臣下についても同じことがいえるのだ。


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