漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

行次西郊作

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 171 #24

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 171 #24


「行次西郊作一百韻」について李商隠の詩150 -147はじめに
李商隠 148 北徵と行次西郊作一百韻について


#23
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#23

叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
私は天子の叱責をこうむるのも覚悟の上、床に額をうちつけて、甘露の変の血とは違い清らかな朱血を流し、涙ともども、天子政庁の殿堂を、その血と涙の玉で彩りたいとおもうのです。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
天子のおられます官殿は以前よりすでに九重の門を固く閉ざして王朝の雰囲気はうす暗く重いものになっている、誠心あるおおくの官位低き者を隔てて近寄せられない状況なのです。流れ落ちる涙、鼻水は、まだ何事をも心にしまい、建議すらできない、今はただ已れの唇を空しく濡らすに過ぎないというものです。
使典作尚書,廝養爲將軍。
今は学問も正義も不用、ただ僥倖姦智(ぎょうこうかんち:悪知恵―おべっか、賄賂、女などにより成り上がること)によって、役揚の小役人が最高宰相となり、軍陣の飯たきが成りあがって将軍になる時世となっているのです。
慎勿道此言,此言未忍聞
。』#-24
村人よ、よく教えてくれた、私も常々そうおもっていたが、もう二度とこうした話をされてはいけない。理解をしているからこそ、これ以上これを話されると辛くなるばかりなのでもうこれ以上聞けないのだ。

#23
我 此の言を聴き罷(おわ)り、冤憤(えんぷん) 相いに焚(や)くが如し。
昔 聞く 一(ひと)りの会(かい)を挙(あ)ぐれば、群盗(ぐんとう) 之が為に奔(はし)れりと。
又聞く 理と乱とは、人に在りて天には在らずと。
我は願う 此の事の為に、君前(くんぜん)に心肝(しんかん)を剖(あら)わし。

叩額(こうがく)して鮮血を出し、滂沱(ぼうだ)として紫宸(ししん)を污(けが)さん ことを。
九重(きゅうちょう)は黯(くら)已に隔たり、涕泗は空しく唇を沾(うるお)す。
使典 尚書と作り、廝養(しよう) 将軍と為る。
慎みて比の言を道(い)う 勿れ、此の言 未だ聞くに忍びず。




行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註

(本文)
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。

(下し文)
叩額(こうがく)して鮮血を出し、滂沱(ぼうだ)として紫宸(ししん)を污(けが)さん ことを。
九重(きゅうちょう)は黯(くら)已に隔たり、涕泗は空しく唇を沾(うるお)す。
使典 尚書と作り、廝養(しよう) 将軍と為る。
慎みて比の言を道(い)う 勿れ、此の言 未だ聞くに忍びず。


(現代語訳)
私は天子の叱責をこうむるのも覚悟の上、床に額をうちつけて、甘露の変の血とは違い清らかな朱血を流し、涙ともども、天子政庁の殿堂を、その血と涙の玉で彩りたいとおもうのです。
天子のおられます官殿は以前よりすでに九重の門を固く閉ざして王朝の雰囲気はうす暗く重いものになっている、誠心あるおおくの官位低き者を隔てて近寄せられない状況なのです。流れ落ちる涙、鼻水は、まだ何事をも心にしまい、建議すらできない、今はただ已れの唇を空しく濡らすに過ぎないというものです。
今は学問も正義も不用、ただ僥倖姦智(ぎょうこうかんち:悪知恵―おべっか、賄賂、女などにより成り上がること)によって、役揚の小役人が最高宰相となり、軍陣の飯たきが成りあがって将軍になる時世となっているのです。
村人よ、よく教えてくれた、私も常々そうおもっていたが、もう二度とこうした話をされてはいけない。理解をしているからこそ、これ以上これを話されると辛くなるばかりなのでもうこれ以上聞けないのだ。


(訳注)
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。

私は天子の叱責をこうむるのも覚悟の上、床に額をうちつけて、甘露の変の血とは違い清らかな朱血を流し、涙ともども、天子政庁の殿堂を、その血と涙の玉で彩りたいとおもうのです。
叩額出鮮血 漢の朱雲が佞臣張禹を斬らんと願って成帝劉爽の怒りをかった時、左将軍の辛慶忌が、叩頭流血してその謝免を願った故事から出る言葉。○滂沱 涙の盛んに流れるさま。「詩経」陳風沢陂に「涕泗滂沱たり。」の句がある。○紫宸 天子が政を聴く一番奥の御殿。唐の長安の宮中でも紫宸殿は奥に位する。


九重黯已隔,涕泗空沾唇。
天子のおられます官殿は以前よりすでに九重の門を固く閉ざして王朝の雰囲気はうす暗く重いものになっている、誠心あるおおくの官位低き者を隔てて近寄せられない状況なのです。流れ落ちる涙、鼻水は、まだ何事をも心にしまい、建議すらできない、今はただ已れの唇を空しく濡らすに過ぎないというものです。
○九 天子の宮城には九つの門がある。○涕泗 涙を流し鼻水を流す。


使典作尚書,廝養爲將軍。
今は学問も正義も不用、ただ僥倖姦智(ぎょうこうかんち:悪知恵―おべっか、賄賂、女などにより成り上がること)によって、役揚の小役人が最高宰相となり、軍陣の飯たきが成りあがって将軍になる時世となっているのです。
使典作尚書 使典は役所の小役人。尚書は法令を実施する官庁。ここは、その尚書省の大臣をいう。「旧唐書」李林甫の伝に、その一党の朔方節度使牛仙客(生年不詳―742年)が尚書を兼ねた時、唐朝中興の功臣の一人で、それまで尚書僕射であった張九齢(673-740年)はそれをそしって、「仙客はもと河湶の一使典のみ。」と言ったとある。この事実を直接さす訳ではないが、官僚機構の秩序がこのように崩壊していたことをいうのである。○廝養 「春秋公羊伝」の宜公十二年の章に「廝役扈養」なる語がみえる。漢の何休の注によると「草を刈りとって防を為す者を廝、炊亨する者を養と曰う。」と。また、「東観漢記」に「忠下の養 中郎将たり。」云云と、商人や料理人が官爵を授った当時の風を風刺した後漢の歌謡をのせる。下賤より成りあがった者をいやしめていう言葉であろう。 


慎勿道此言,此言未忍聞。
村人よ、よく教えてくれた、私も常々そうおもっていたが、もう二度とこうした話をされてはいけない。理解をしているからこそ、これ以上これを話されると辛くなるばかりなのでもうこれ以上聞けないのだ。


次回まとめ

行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10

奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24


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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 170 #23

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 170 #23


官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22

我聽此言罷,冤憤如相焚。
私はこの話をしっかりと聴き終えた、宦官の軍隊は叛乱の罪ないものへ災禍を与えた。こうむった者の恨みと、災厄をもたらした者への憤怒が胸の内に燃え上がるように高まるのを覚えたのだ。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
春秋戦国時代に、晋の景公は士会を技擢して中軍に将とした時、晋国に横行した盗賊らは、士会の噂を聞いただけで秦の国へ逃亡したというのである。
又聞理與亂,在人不在天。
名将が采配をふるえば、今のこの局地的な鳳翔の混乱であれば、治まらぬはずはないものである。また、国家の平和と動乱は、政治をつかさどる天子、宰相の責任である。超越的な天の意志や力で左右されるというものではないのである。
我願爲此事,君前剖心肝。」
#-23
わたしは願っていることがある、それは、超自然の力にはよらず、天子によってよくも悪しくもなる政治の次第を建て直すことにある。非力ではあるけれども、天子の御前で、このことのために胸の奥底を開いて内なる誠心をあらわしたいということなのだ。

叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24


#22
官健(かんけん)は腰に弓を佩(お)び、自らは官の為に巡ると言う。
常に恐る 荒剋(こうけい)に値(いた)らば、此の輩(やから) 還(かえ)って人を射ん。
愧(は)ず 客の本末を問うを、願わくは客よ 因循(いんじゅん)すること無れ。
郿塢(びお)より陳倉(ちんそう)に抵(いた)る、此の地 黄昏(こういん)を忌(い)む。
#23
我 此の言を聴き罷(おわ)り、冤憤(えんぷん) 相いに焚(や)くが如し。
昔 聞く 一(ひと)りの会(かい)を挙(あ)ぐれば、群盗(ぐんとう) 之が為に奔(はし)れりと。
又聞く 理と乱とは、人に在りて天には在らずと。
我は願う 此の事の為に、君前(くんぜん)に心肝(しんかん)を剖(あら)わし。
#24
叩額(こうがく)して鮮血を出し、滂沱(ぼうだ)として紫宸(ししん)を污(けが)さん ことを。
九重(きゅうちょう)は黯(くら)已に隔たり、涕泗は空しく唇を沾(うるお)す。
使典 尚書と作り、廝養(しよう) 将軍と為る。
慎みて比の言を道(い)う 勿れ、此の言 未だ聞くに忍びず。



行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註
(本文)#23
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」


(下し文) #23
我 此の言を聴き罷(おわ)り、冤憤(えんぷん) 相いに焚(や)くが如し。
昔 聞く 一(ひと)りの会(かい)を挙(あ)ぐれば、群盗(ぐんとう) 之が為に奔(はし)れりと。
又聞く 理と乱とは、人に在りて天には在らずと。
我は願う 此の事の為に、君前(くんぜん)に心肝(しんかん)を剖(あら)わし。


(現代語訳)
私はこの話をしっかりと聴き終えた、宦官の軍隊は叛乱の罪ないものへ災禍を与えた。こうむった者の恨みと、災厄をもたらした者への憤怒が胸の内に燃え上がるように高まるのを覚えたのだ。
春秋戦国時代に、晋の景公は士会を技擢して中軍に将とした時、晋国に横行した盗賊らは、士会の噂を聞いただけで秦の国へ逃亡したというのである。
名将が采配をふるえば、今のこの局地的な鳳翔の混乱であれば、治まらぬはずはないものである。また、国家の平和と動乱は、政治をつかさどる天子、宰相の責任である。超越的な天の意志や力で左右されるというものではないのである。
わたしは願っていることがある、それは、超自然の力にはよらず、天子によってよくも悪しくもなる政治の次第を建て直すことにある。非力ではあるけれども、天子の御前で、このことのために胸の奥底を開いて内なる誠心をあらわしたいということなのだ。


(訳注)
我聽此言罷,冤憤如相焚。
私はこの話をしっかりと聴き終えた、宦官の軍隊は叛乱の罪ないものへ災禍を与えた。こうむった者の恨みと、災厄をもたらした者への憤怒が胸の内に燃え上がるように高まるのを覚えたのだ。
 完了を意味する助詞。だが現代語の罷とは少し異なる。○如相焚「詩経」小雅節南山に「憂心肘べ`が如
し。」と。心が憤りに熱してきてただれるようになることをいう。


昔聞擧一會,群盜爲之奔。
春秋戦国時代に、晋の景公は士会を技擢して中軍に将とした時、晋国に横行した盗賊らは、士会の噂を聞いただけで秦の国へ逃亡したというのである。
挙一会 会は春秋時代の晋の大夫、士会のこと。晋の景公が士会を中軍に将として抜擢、また太傅に任用したとき、晋国の盗賊はまだ追いもしないのに、逃れて秦の国に逃亡した、という「春秋左氏伝」宜公十六年の記事にもとづく。


又聞理與亂,在人不在天。
名将が采配をふるえば、今のこの局地的な鳳翔の混乱であれば、治まらぬはずはないものである。また、国家の平和と動乱は、政治をつかさどる天子、宰相の責任である。超越的な天の意志や力で左右されるというものではないのである。
理与乱 理から乱は治乱に同じ。唐の太宗(599―649)続く高宗(628一683年)の治から政治闘争、権力闘争へ、開元の治から、安禄山の叛乱、中興の治から甘露の変、を指すもので、平穏な治を作り上げるためには、数々の改革をして成し遂げられるものであり、天から授かるものではないのだ。


我願爲此事,君前剖心肝。」
わたしは願っていることがある、それは、超自然の力にはよらず、天子によってよくも悪しくもなる政治の次第を建て直すことにある。非力ではあるけれども、天子の御前で、このことのために胸の奥底を開いて内なる誠心をあらわしたいということなのだ
此事 天すなわち超自然の力にはよらず、天子によってよくも悪しくもなる政治の次第を指す。○剖心肝 心肝は胸の奥底。杜甫の彭衙行 #4 杜甫 135 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132に「誰肯艱難際,豁達露心肝」(誰か 肯(あえ)て 艱難(かんなん)の際、豁達(かつたつ) 心肝(しんかん)を露(あら)わさん)と。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 168 #21

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 168 #21


鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20

爾來又三歲,甘澤不及春。
その事がございましてから、今年でもう三年になりますが。自然のうるおいを受けていた沢地もいまだに、耕せず田畑にならなくて春の季節に間にあいそうにないのです。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
治安は改められず、白昼堂々と盗賊は横行するのです。その盗賊は、みんな食いつめた難民のなれの果てなので誰と問うことができましょうか。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
節度使は責任上、宿場の駐在所所員をひっとらえて殺します。盗賊を捕えようとしたところで、到る所にいるのです。その窮民達、どうして、捕縛することができるというのでしょう。 
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21

旱天続きで黄土は乾燥しているので、ただでさえ埃がまっているのに、風吹けば黄塵で、一寸先も見えなくなるのです。

官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22

#20
鳳翔(ほうしょう) 三百里、兵馬(へいば)は黄巾(こうきん)の如し。
夜半(やはん)に軍牒(ぐんちょう)来り、兵を屯する 万五干。
鄉里は供億(きょうおく)に駭(おどろ)き、老少(ろうしょう) 相い扳(たす)け牽(ひ)く。
児孫(じそん) 生れて未だ孩(がい)ならざるに、之を棄てて惨顔(さんがん)無し。
複た適(ゆ)く所を議(はか)らず、但だ山間に死せんことを欲す。

#21
爾来(じらい) 又三載(またさんさい)、甘沢(かんたく) 春に及ばず。
盗賊は亭午(ていご)に起る、誰かと問えば 多くは窮民。
節使はただ亭吏を殺す、之を抽えんとするも恐らく因るところ無けん。
咫尺(しせき)にも相い見えず、旱(ひでり)久しくして黄塵(こうじん)多し。

#22
官健(かんけん)は腰に弓を佩(お)び、自らは官の為に巡ると言う。
常に恐る 荒剋(こうけい)に値(いた)らば、此の輩(やから) 還(かえ)って人を射ん。
愧(は)ず 客の本末を問うを、願わくは客よ 因循(いんじゅん)すること無れ。
郿塢(びお)より陳倉(ちんそう)に抵(いた)る、此の地 黄昏(こういん)を忌(い)む。

yuugure02


行次西郊作 #21 現代語訳と訳註

(本文)
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。

(下し文) #21
爾来(じらい) 又三載(またさんさい)、甘沢(かんたく) 春に及ばず。
盗賊は亭午(ていご)に起る、誰かと問えば 多くは窮民。
節使はただ亭吏を殺す、之を抽えんとするも恐らく因るところ無けん。
咫尺(しせき)にも相い見えず、旱(ひでり)久しくして黄塵(こうじん)多し。


(現代語訳)
その事がございましてから、今年でもう三年になりますが。自然のうるおいを受けていた沢地もいまだに、耕せず田畑にならなくて春の季節に間にあいそうにないのです。
治安は改められず、白昼堂々と盗賊は横行するのです。その盗賊は、みんな食いつめた難民のなれの果てなので誰と問うことができましょうか。
節度使は責任上、宿場の駐在所所員をひっとらえて殺します。盗賊を捕えようとしたところで、到る所にいるのです。その窮民達、どうして、捕縛することができるというのでしょう。 
旱天続きで黄土は乾燥しているので、ただでさえ埃がまっているのに、風吹けば黄塵で、一寸先も見えなくなるのです。


(訳注)
爾來又三歲,甘澤不及春。

その事がございましてから、今年でもう三年になりますが。自然のうるおいを受けていた沢地もいまだに、耕せず田畑にならなくて春の季節に間にあいそうにないのです。
○甘沢 甘美なるうるおい。梁の宗惶の「荊楚歳時記」に「六月に必ず三時の雨有り。田家以て甘沢と為す。」
と見える。

盜贼亭午起,問誰多窮民。
治安は改められず、白昼堂々と盗賊は横行するのです。その盗賊は、みんな食いつめた難民のなれの果てなので誰と問うことができましょうか。
亭午 まひる。


節使殺亭吏,捕之恐無因。
節度使は責任上、宿場の駐在所所員をひっとらえて殺します。盗賊を捕えようとしたところで、到る所にいるのです。その窮民達、どうして、捕縛することができるというのでしょう。 
節使 節度使。○亭吏 駐在所所員。○無因 方法、手段がない。因は原因の意にも手段の意にもなる。


咫尺不相見,旱久多黄塵。」
旱天続きで黄土は乾燥しているので、ただでさえ埃がまっているのに、風吹けば黄塵で、一寸先も見えなくなるのです。
咫尺 ほんのわずかの距離。咫は古い尺の八寸。



 ここに出てくる「甘沢」とは、甘美なるうるおいとはまさしく夏に降る雨であるが、それは作物の成長に欠かせない雨でもあり、もともと恵まれていた川の傍の田畑であったとこを指すものである。「爾来 又三歳甘沢 春に及ばず」、甘露の変より三年経つが、この地には春の恵みの雨すら降らない、また、川から水をひきいれたり、田んぼ畑を耕さないので保水力が全くないのである。当然、干ばつも推定される。咫尺の間が見えなくなる。黄河流域の砂塵のものすごさを想像させる。

問題は、流民の全員が盗賊になってしまったこと、役人でさえも、強盗になるというもので、ここには生産性のあるものはもはやなくなってしまったゴーストタウンということなのだ。


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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 167 #20

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 167 #20



近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19

鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
鳳翔から長安に至るまで、凡そ三百里の間は、しかしその甘露の変のために無政府状熊におち入り、ならず者は群盗と化し、農民一揆は乱発し、あたかも漢末の黄巾の乱のように、兵馬が駆けめぐったのだった。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
真夜中に軍部からの指令が村にとどいたのであるが、それは、一万五干の王朝の軍が駐屯するというしらせであったが、同時にそれは村人の負担になるのだ。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
村人にとって、兵糧米の供出に、村里は愕然とせねばならなかった。命令に従う以外にはないからである。老人と幼少年の者、それら辛うじて村に居残っていたものたちは前後で手をひき合って逃亡するしかなかった。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
逃民は生れてまだ乳ばなれせぬ嬰児を足于まといになるということで路傍に棄て去り、しかも、それを悲しむ表情をすら失っていた。
不複議所適,但欲死山間。』
#-20
どこへ行けばよいのかを相談すこともないままに、ただもう、兵戈にかかるよりは、山の中で餓え死にした方がましであると、逃避したのである。
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21

#19
近年 牛医(ぎゅうい)の児(こ)、
城社(じょうしゃ)に更に扳援(はんえん)す。
盲目(もうもく)にして大旆(たいはい)を把(と)り、此の京西(けいせい)の藩(はん)に処(お)る。
禍(わざわい)を楽しみて怨敵(おんてき)を忘れ、党を樹てて狂狷(きょうけん)多し。
生きては人の憚(はばか)る所と為り、死しても人の憐む所に非ず。
快刀(かいとう) 其の頭(こうべ)を断(き)り、列(つら)ねらるること猪牛(ちょぎゅう)の懸(かけ)らるるに若(に)たり。
#-20
鳳翔(ほうしょう) 三百里、兵馬(へいば)は黄巾(こうきん)の如し。
夜半(やはん)に軍牒(ぐんちょう)来り、兵を屯する 万五干。
鄉里は供億(きょうおく)に駭(おどろ)き、老少(ろうしょう) 相い扳(たす)け牽(ひ)く。
児孫(じそん) 生れて未だ孩(がい)ならざるに、之を棄てて惨顔(さんがん)無し。
複た適(ゆ)く所を議(はか)らず、但だ山間に死せんことを欲す。

#21
爾来(じらい) 又三載(またさんさい)、甘沢(かんたく) 春に及ばず。
盗賊は亭午(ていご)に起る、誰かと問えば 多くは窮民。
節使はただ亭吏を殺す、之を抽えんとするも恐らく因るところ無けん。
咫尺(しせき)にも相い見えず、
旱(ひでり)久しくして黄塵(こうじん)多し。


 現代語訳と訳註
(本文)

鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20

(下し文)
鳳翔(ほうしょう) 三百里、兵馬(へいば)は黄巾(こうきん)の如し。
夜半(やはん)に軍牒(ぐんちょう)来り、兵を屯する 万五干。
鄉里は供億(きょうおく)に駭(おどろ)き、老少(ろうしょう) 相い扳(たす)け牽(ひ)く。
児孫(じそん) 生れて未だ孩(がい)ならざるに、之を棄てて惨顔(さんがん)無し。
複た適(ゆ)く所を議(はか)らず、但だ山間に死せんことを欲す。
 
(現代語訳)
鳳翔から長安に至るまで、凡そ三百里の間は、しかしその甘露の変のために無政府状熊におち入り、ならず者は群盗と化し、農民一揆は乱発し、あたかも漢末の黄巾の乱のように、兵馬が駆けめぐったのだった。
真夜中に軍部からの指令が村にとどいたのであるが、それは、一万五干の王朝の軍が駐屯するというしらせであったが、同時にそれは村人の負担になるのだ。
村人にとって、兵糧米の供出に、村里は愕然とせねばならなかった。命令に従う以外にはないからである。老人と幼少年の者、それら辛うじて村に居残っていたものたちは前後で手をひき合って逃亡するしかなかった。
逃民は生れてまだ乳ばなれせぬ嬰児を足于まといになるということで路傍に棄て去り、しかも、それを悲しむ表情をすら失っていた。
どこへ行けばよいのかを相談すこともないままに、ただもう、兵戈にかかるよりは、山の中で餓え死にした方がましであると、逃避したのである。


(訳注)
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
鳳翔から長安に至るまで、凡そ三百里の間は、しかしその甘露の変のために無政府状熊におち入り、ならず者は群盗と化し、農民一揆は乱発し、あたかも漢末の黄巾の乱のように、兵馬が駆けめぐったのだった。
鳳翔三百里 鳳翔府は長安の西三百十五里にある。180km余り。○黄巾 後漢の霊帝劉宏(一五六―一八九年)の時に起り、後漢の滅亡の原因の一つとなった、張角に指導された大農民一揆。天師道の信仰によって結束し、その一党はみな黄色い頭巾をかぶっていたので、世にこれを黄巾の賊と称する。黄は土の色を象徴し、五行思想から云えば漢の徽色である赤に代るべき色なのである。李商隠の死後、同様に唐の末期的症状を示す黄巣の乱(こうそうのらん)(875~884)が起こっている。


夜半軍牒來,屯兵萬五千。
真夜中に軍部からの指令が村にとどいたのであるが、それは、一万五干の王朝の軍が駐屯するというしらせであったが、同時にそれは村人の負担になるのだ。
軍牒 軍の指令書。


鄉里駭供億,老少相扳牽。
村人にとって、兵糧米の供出に、村里は愕然とせねばならなかった。命令に従う以外にはないからである。老人と幼少年の者、それら辛うじて村に居残っていたものたちは前後で手をひき合って逃亡するしかなかった。
供億 乏しき者に物を給与してそれを安んぜしめるのが原義、転じて供出の義に用う。[左伝]の隠公十一年の章に「鄭伯曰く、寡人は惟だ是。のこ一の父兄だに供億する能わず。」と見える。○扳牽 扳はひっぱる。牽は前にひくの意。


兒孫生未孩,棄之無慘顏。
逃民は生れてまだ乳ばなれせぬ嬰児を足于まといになるということで路傍に棄て去り、しかも、それを悲しむ表情をすら失っていた。
未孩 生れて二I三歳、笑いを知りそめた子供を孩という。未孩は乳飲児。「老于」に「嬰児の未だ孩ならざる如し」とある。○惨顔 惨は哀れに思って心いたむこと。


不複議所適,但欲死山間。
どこへ行けばよいのかを相談すこともないままに、ただもう、兵戈にかかるよりは、山の中で餓え死にした方がましであると、逃避したのである。
 事の宜しきを考えはかる。


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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 166 #19

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 166 #19


2012new01



直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18

近年牛醫兒,城社更扳援。
少し前近年のことだ、田舎獣医の子供であったものが口を巧みにあやつった鄭注は、宦官どもにとり入って、政治の場によじ登ったのだ。
盲目把大旆,處此京西藩。
盲目に等しい極度の近限というだけでなく、加えて何らの先見もなく政策をも知らすに節度使となり、大旗を翻えして、この帝都の西のまもりである鳳翔の地に赴任して来た。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
彼は派閥争いに割り込んで人が失敗や禍にあうのを楽しんだ、私利私欲の節度使や宮廷に巣喰う宦官など、朝廷にとっては怨敵であるはずの者達を敵として戦うことなどをあたまから忘れてしまった。また鄭注のたてた党派に属するものどもは観念的な事ばかりのことをいうものや、その反対にやみ雲にやろうとするものが多かった。
生爲人所憚,死非人所憐。
それゆえに生きている間には、人のはばかり畏れる高位を得たけれども、彼の死後は、その死に様の悲惨さにも拘らず、憐れむ者はいなかったのである。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」
#-19
企まれたクーデターは失敗し、急ぎ長安に攻め入ろうーとした彼の軍隊は監軍使にだまし討ちされ、見事な切れ味の刀に彼はその頭をはねられた。その首は、あたかも豚や牛の首のように、死刑場にさらしものにされたのである。

鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20

-#18
直え赤誠(せきせい)輸さんことを求むるも,望む所は大體の全(まった)きのみ。
巍巍たる政事の堂,宰相は八珍に厭(あ)く。
敢敢て 下執事に問う,今 誰か其の權を掌(つかさど)るや。
瘡疽(そうそ) 幾十載,敢て其の根を扶(えぐ)らず。
國 蹙(おとろ) えて 賦 更に重く,人 稀にして 役彌(いよ) いよ繁し。』-18

-#19
近年 牛医(ぎゅうい)の児(こ)、城社(じょうしゃ)に更に扳援(はんえん)す。
盲目(もうもく)にして大旆(たいはい)を把(と)り、此の京西(けいせい)の藩(はん)に処(お)る。
禍(わざわい)を楽しみて怨敵(おんてき)を忘れ、党を樹てて狂狷(きょうけん)多し。
生きては人の憚(はばか)る所と為り、死しても人の憐む所に非ず。
快刀(かいとう) 其の頭(こうべ)を断(き)り、列(つら)ねらるること猪牛(ちょぎゅう)の懸(かけ)らるるに若(に)たり。

#20
鳳翔(ほうしょう) 三百里、兵馬(へいば)は黄巾(こうきん)の如し。
夜半(やはん)に軍牒(ぐんちょう)来り、兵を屯する 万五干。
鄉里は供億(きょうおく)に駭(おどろ)き、老少(ろうしょう) 相い扳(たす)け牽(ひ)く。
児孫(じそん) 生れて未だ孩(がい)ならざるに、之を棄てて惨顔(さんがん)無し。
複た適(ゆ)く所を議(はか)らず、但だ山間に死せんことを欲す。



現代語訳と訳註
(本文)

近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19

(下し文)
近年 牛医(ぎゅうい)の児(こ)、城社(じょうしゃ)に更に扳援(はんえん)す。
盲目(もうもく)にして大旆(たいはい)を把(と)り、此の京西(けいせい)の藩(はん)に処(お)る。
禍(わざわい)を楽しみて怨敵(おんてき)を忘れ、党を樹てて狂狷(きょうけん)多し。
生きては人の憚(はばか)る所と為り、死しても人の憐む所に非ず。
快刀(かいとう) 其の頭(こうべ)を断(き)り、列(つら)ねらるること猪牛(ちょぎゅう)の懸(かけ)らるるに若(に)たり。


(現代語訳)
少し前近年のことだ、田舎獣医の子供であったものが口を巧みにあやつった鄭注は、宦官どもにとり入って、政治の場によじ登ったのだ。
盲目に等しい極度の近限というだけでなく、加えて何らの先見もなく政策をも知らすに節度使となり、大旗を翻えして、この帝都の西のまもりである鳳翔の地に赴任して来た。
彼は派閥争いに割り込んで人が失敗や禍にあうのを楽しんだ、私利私欲の節度使や宮廷に巣喰う宦官など、朝廷にとっては怨敵であるはずの者達を敵として戦うことなどをあたまから忘れてしまった。また鄭注のたてた党派に属するものどもは観念的な事ばかりのことをいうものや、その反対にやみ雲にやろうとするものが多かった。
それゆえに生きている間には、人のはばかり畏れる高位を得たけれども、彼の死後は、その死に様の悲惨さにも拘らず、憐れむ者はいなかったのである。
企まれたクーデターは失敗し、急ぎ長安に攻め入ろうーとした彼の軍隊は監軍使にだまし討ちされ、見事な切れ味の刀に彼はその頭をはねられた。その首は、あたかも豚や牛の首のように、死刑場にさらしものにされたのである。


(訳注)
近年牛醫兒,城社更扳援。
 
少し前近年のことだ、田舎獣医の子供であったものが口を巧みにあやつった鄭注は、宦官どもにとり入って、政治の場によじ登ったのだ。
牛医児 835年文宗太和九年十一月の宦官勢力掃討を名目としたクーデター、所謂「甘露の変」の主謀者の一人、風翔節度使鄭注を指す。牛医児はもと、後漢の獣医の子であった黄憲のことをいうが、鄭注(?-835年)は医薬の術で文宗皇帝李昂(809-840年)の厚遇を得たので、借りて牛医の児と呼んだのである。○城社 君側の佞臣。○扳援 一本に板援につくる。扳は攀に同じ。よじのぼること。勢力ある人に頼って出世することが攀縁・鄭注は最初、中尉(宦官の職)王守澄(?-835年)の推薦で文宗の愛寵を得た。 


盲目把大旆,處此京西藩。
盲目に等しい極度の近限というだけでなく、加えて何らの先見もなく政策をも知らすに節度使となり、大旗を翻えして、この帝都の西のまもりである鳳翔の地に赴任して来た。
盲目 鄭注は近視眼で遠くを見ることが出来なかったことにひっかけ、政見も政策も持たずして重任されたことを、盲目といったもの。○把大旆 大きな旗を立てて節度使となることをいう。鄭注は833年太和七年昭義行軍司馬であったが、王守澄のすすめで天子の病をいやすべく都によばれ、彼の医術が効を奏して寵を得、835年太和九年に鳳翔節度使となった。○京西藩 鳳翔節度使をいう。藩は王城守備の外垣というのがもとの意味。ここでは潘鎮をいう。

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楽禍 李徳柿(789-849年)と牛伯儒(779-847年)、李宗閔の派閥争い、宦官王守澄、仇士良(779-841年)の介人、汲び、鄭注、李訓(?-835年)の新興勢力の巴状態の対立の中で、鄭注と李訓が自己の勢力拡張に腐心し、要職人の禍にかかるのを喜んだことをいう。○怨敵 宦官を指す。○狂狷 中庸の道に合わぬ行い。狂は実践力の伴わない観念ばかりのことをいう。狷はその反対にやみ雲にやろうとすること。 


生爲人所憚,死非人所憐。
それゆえに生きている間には、人のはばかり畏れる高位を得たけれども、彼の死後は、その死に様の悲惨さにも拘らず、憐れむ者はいなかったのである。


快刀斷其頭,列若豬牛懸。」
企まれたクーデターは失敗し、急ぎ長安に攻め入ろうーとした彼の軍隊は監軍使にだまし討ちされ、見事な切れ味の刀に彼はその頭をはねられた。その首は、あたかも豚や牛の首のように、死刑場にさらしものにされたのである。
快刀-牛懸 甘露の変は、宦官を外廷におびき寄せて殺害せんとし、冬至の日に宮殿わきの庭の石榴の花に露がおりたと奏上させ、邠寧節度使郭行俆、太原節度使王璠の援軍によって、一拳に事をきめるべく、李訓と鄭注によって計画されたクーデターである。だが、失敗して、逆に宦官の為に李訓は勿論、それに無関係な朝臣までが多く殺害された。その失敗を聞いた鄭注は、鳳翔より親兵五百余人を率いて宮門に攻め入ろうとしたが、途中監軍使張仲清に殺された(「旧唐書」鄭往伝および 「通鑑」)。
甘露の変は李商隠の人生にとって、希望の灯を立たれたエポックメーキングであった。李商隠の人生はこれにより決まったのである。この詩をはじめ多くの詩はどこかでこの事件につながったものである。

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠132 李商隠特集150- 131-#1

鸞鳳 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 111

成五章 其四 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 107

重有感 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 103

有感二首 其二 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 102

有感二首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 101

北斉二首其二 李商隠 45

哭劉司戸二首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 39 

李商隠 4 曲江


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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 165 #18

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 155 #8

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 156 #9

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 158 #11

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 164 #17




中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
心からの忠誠を、たとえ要求してもどうしてそれが果されよう。現実には、形だけの平衡、ともかくも朝廷が存続されることで満足するより仕方がなかったのである。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
高く徳の高く尊いものである行攻の殿堂である、しかし、なに一つ実際の政治の討議もされず、大臣たちはただ八種の珍味に満腹しているだけなのである。
敢問下執事,今誰掌其權。
あえて私は書記官に問うてみたいと思う。それは為政の権は一休誰が掌握しているのか、いま天子の下にいて攻事をつかさどる大臣諸氏は、一体何をしているのか、ということなのだ。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
できものが膿み、潰瘍となって国家を苦しめる状態は、もう幾十年続いてしまっている。それにも拘らず、勇気をふるって、禍の根をその根もとからりさとろうとする者もいない。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18

国家の実質支配の版図は年を追って縮小していった、残った土地に課せられる税は一層重くなっていった。人民が原籍をはなれて流民となり、死亡するにつれ、残った者への労役義務はますます比重を増していき、賦税徴収の回数が頻繁になっていくのもむしろ当然のことになった。
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19

#17
中間 遂に梗(こう)を作(な)し、狼藉(ろうぜき) 戈鋋(かせん)を用う。
門に臨(のぞ)みて節制(せっせい)を送り、以て通天の班を錫(たも)う。
破れし者は以て族滅せられ、存れし者は尚お遷延す。
礼数(れいすう) 君父(くんぷ)に異なり、羈縻(きび)羌零(きょうれん)の如し』-#17

-18

直え赤誠(せきせい)輸さんことを求むるも,望む所は大體の全(まった)きのみ。

巍巍たる政事の堂,宰相は八珍に厭()く。

敢敢て 下執事に問う,今 誰か其の權を掌(つかさど)るや。

瘡疽(そうそ) 幾十載,敢て其の根を扶(えぐ)らず。

國 蹙(おとろ) えて 賦 更に重く,人 稀にして 役彌(いよ) いよ繁し。』-18


-#19
近年 牛医(ぎゅうい)の児(こ)、
城社(じょうしゃ)に更に扳援(はんえん)す。
盲目(もうもく)にして大旆(たいはい)を把(と)り、此の京西(けいせい)の藩(はん)に処(お)る。
禍(わざわい)を楽しみて怨敵(おんてき)を忘れ、党を樹てて狂狷(きょうけん)多し。
生きては人の憚(はばか)る所と為り、死しても人の憐む所に非ず。
快刀(かいとう) 其の頭(こうべ)を断(き)り、列(つら)ねらるること猪牛(ちょぎゅう)の懸(かけ)らるるに若(に)たり。



現代語訳と訳註
(本文)

直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18


(下し文) -#18
直え赤誠(せきせい)輸さんことを求むるも,望む所は大體の全(まった)きのみ。
巍巍たる政事の堂,宰相は八珍に厭(あ)く。
敢敢て 下執事に問う,今 誰か其の權を掌(つかさど)るや。
瘡疽(そうそ) 幾十載,敢て其の根を扶(えぐ)らず。
國 蹙(おとろ) えて 賦 更に重く,人 稀にして 役彌(いよ) いよ繁し。』-18


(現代語訳)
心からの忠誠を、たとえ要求してもどうしてそれが果されよう。現実には、形だけの平衡、ともかくも朝廷が存続されることで満足するより仕方がなかったのである。
高く徳の高く尊いものである行攻の殿堂である、しかし、なに一つ実際の政治の討議もされず、大臣たちはただ八種の珍味に満腹しているだけなのである。
あえて私は書記官に問うてみたいと思う。それは為政の権は一休誰が掌握しているのか、いま天子の下にいて攻事をつかさどる大臣諸氏は、一体何をしているのか、ということなのだ。
できものが膿み、潰瘍となって国家を苦しめる状態は、もう幾十年続いてしまっている。それにも拘らず、勇気をふるって、禍の根をその根もとからりさとろうとする者もいない。
国家の実質支配の版図は年を追って縮小していった、残った土地に課せられる税は一層重くなっていった。人民が原籍をはなれて流民となり、死亡するにつれ、残った者への労役義務はますます比重を増していき、賦税徴収の回数が頻繁になっていくのもむしろ当然のことになった。


(訳注)
直求輸赤誠,所望大體全。
心からの忠誠を、たとえ要求してもどうしてそれが果されよう。現実には、形だけの平衡、ともかくも朝廷が存続されることで満足するより仕方がなかったのである。
直求 直はたとえ何何であって唇という仮設の意味になることがある。○大体 かなめのことがら。「孟子」告子篇の「休に貴践有り。小大有り。」からでる。ここは恐らく朝廷をいう。○赤誠 心からの忠誠。


巍巍政事堂,宰相厭八珍。
高く徳の高く尊いものである行攻の殿堂である、しかし、なに一つ実際の政治の討議もされず、大臣たちはただ八種の珍味に満腹しているだけなのである。
巍巍 1 山などの高く大きいさま。「巍巍たる岩山」 2 徳の高く尊いさま。○八珍 八種よりなる最上の御馳走。「周礼」の膳夫の条に見える。


敢問下執事,今誰掌其權。
あえて私は書記官に問うてみたいと思う。それは為政の権は一休誰が掌握しているのか、いま天子の下にいて攻事をつかさどる大臣諸氏は、一体何をしているのか、ということなのだ。
下執事 とりつぎの書記官。「国語」の呉語に古い用例としてこの言葉が見える。


瘡疽幾十載,不敢扶其根。
できものが膿み、潰瘍となって国家を苦しめる状態は、もう幾十年続いてしまっている。それにも拘らず、勇気をふるって、禍の根をその根もとからりさとろうとする者もいない。
療疸 かさぶたとできもの。○扶其根 政治体制にさまざまな問題点が生じている。目先の場当たり的な対処しかしなかった。それは、宦官が政治、軍事的にも圧倒的な力を持っていたからなのだ。


國蹙賦更重,人稀役彌繁。
国家の実質支配の版図は年を追って縮小していった、残った土地に課せられる税は一層重くなっていった。人民が原籍をはなれて流民となり、死亡するにつれ、残った者への労役義務はますます比重を増していき、賦税徴収の回数が頻繁になっていくのもむしろ当然のことになった。
国蹙 蹙は縮まり狭くなること。○ 土地農作物に課せられる税。○ 人力を提供する賦役。○ ますます。


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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 164 #17

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 国力が衰えていく一方で、力を蓄えた節度使は国家の障害をなすようになり、武力を以って朝廷に背く者まで現れた。しかし朝廷はこれにも十分な対策を練ることが出来ず、逆に使者を派遣して節度使に徽章である旗と任命の詔勅を送り、それのみならず宰相のような天子直属の高い官職を与え懐柔しようとする目先に動かされる対応策だけであった。このことは、朝廷の考えの中枢に宦官がいたことを示すことでもあるのだ。朝廷の討伐を受け滅亡した者もいない訳ではないが、難を逃れた者は口実を設けては生き残りを図ろうとする。もはや節度使は君王というもに変化したのである、朝廷の節度使への対策は西方の異民族に対しこれを綾絡し繋ぎとめようとする対策と同様の考えに基づいている。
朝廷が節度使に対し忠誠を尽くす事を求めえるものではなくなって、戦にならなければよいという程度の健全な状態、表向きの君臣関係を維持するのがやっとというものであったのだ。


饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
そののち、あげくのはてに節度使はかすめ取った富で私兵を雇った。そして、ついに朝廷にそむいて武力を乱用するようになるのである。
臨門送節制,以錫通天班。
一方、朝廷はこうした節度使に、わざわざ宮中より使いを派遣し、その軍門の力関係によって節度使に官位を授け、その徽章である旗をおくった。おくられる爵位、それは天子に直接、接することのできる高い位だったのである。
破者以族滅,存者尚遷延。
反抗して失敗した節度使たいしては、一族連座して洙滅はされたものもいる。しかし、生きのがれた者は日ごとに力をつけていってもとのようになったのだ。
禮數異君父,羈縻如羌零。」
#-17
社会の秩序には正しい順位がある、その位が異なれば礼の様式をも異にする区別によって支えられるものなのだ。もはや序列は崩壊した、臣王のような節度使と天子の皇帝との区別が殆どなくなり、中央に対する関係は、西方の異民族の国羌零のような半独立国のようなものとなった。
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18

#16
饋(たま)わる 餉(こめ)は多く時を過ぎ,估(あたい)を高うす銅と鉛。
山東より河北を望(のぞ)めば、爨煙(さんえん)は猶お 相い聯(つらな)れるに
ちようていきゆう。   
朝廷は給するに暇(いとま)あらず、辛苦して半年をた唇つ無し。
行人(こうじん)は行資(こうし)を搉(かく)せられ、居者(きょしゃ)は屋椽(おくてん)に税あり。』-#16

17

中間 遂に梗(こう)を作()し、狼藉(ろうぜき) 戈(かせん)を用う。

門に臨(のぞ)みて節制(せっせい)を送り、以て通天の班を錫(たも)う。

破れし者は以て族滅せられ、存れし者は尚お遷延す。

礼数(れいすう) 君父(くんぷ)に異なり、羈縻(きび)羌零(きょうれん)の如し』-17


-#18
直え赤誠(せきせい)輸さんことを求むるも,望む所は大體の全(まった)きのみ。
巍巍たる政事の堂,宰相は八珍に厭(あ)く。
敢敢て 下執事に問う,今 誰か其の權を掌(つかさど)るや。
瘡疽(そうそ) 幾十載,敢て其の根を扶(えぐ)らず。
國 蹙(おとろ) えて 賦 更に重く,人 稀にして 役彌(いよ) いよ繁し。』-18

#17 現代語訳と訳註
(本文)
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17


(下し文) #17
中間 遂に梗(こう)を作(な)し、狼藉(ろうぜき) 戈鋋(かせん)を用う。
門に臨(のぞ)みて節制(せっせい)を送り、以て通天の班を錫(たも)う。
破れし者は以て族滅せられ、存れし者は尚お遷延す。
礼数(れいすう) 君父(くんぷ)に異なり、羈縻(きび)羌零(きょうれん)の如し』

(現代語訳)
そののち、あげくのはてに節度使はかすめ取った富で私兵を雇った。そして、ついに朝廷にそむいて武力を乱用するようになるのである。
一方、朝廷はこうした節度使に、わざわざ宮中より使いを派遣し、その軍門の力関係によって節度使に官位を授け、その徽章である旗をおくった。おくられる爵位、それは天子に直接、接することのできる高い位だったのである。
反抗して失敗した節度使たいしては、一族連座して洙滅はされたものもいる。しかし、生きのがれた者は日ごとに力をつけていってもとのようになったのだ。
社会の秩序には正しい順位がある、その位が異なれば礼の様式をも異にする区別によって支えられるものなのだ。もはや序列は崩壊した、臣王のような節度使と天子の皇帝との区別が殆どなくなり、中央に対する関係は、西方の異民族の国羌零のような半独立国のようなものとなった。


(訳注)
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。

そののち、あげくのはてに節度使はかすめ取った富で私兵を雇った。そして、ついに朝廷にそむいて武力を乱用するようになるのである。
中間 ここは時間的な意味で、そののちにということ。○作梗 梗は山楡。その樹にはとげがある。梗をなすとは妨害になること。○狼藉用戈鋋 節度使が武力にあかせ、その地の賦税を独占し中央に反抗したことをいう。特に河北の諸藩鎮は、朱濡(?―785年)、田悦(?-784年)、王武悛(?-801年)、汲び朱訟(?-784年)、李懐伯(?―768年)、李納(?-792年)、李希戸(?-786年)等、あい継いで叛乱した。鋋は小さな戈。戈鋋の二字で武力をさす。


臨門送節制,以錫通天班。
一方、朝廷はこうした節度使に、わざわざ宮中より使いを派遣し、その軍門の力関係によって節度使に官位を授け、その徽章である旗をおくった。おくられる爵位、それは天子に直接、接することのできる高い位だったのである。
節制 節度使に賜わる族と任命の詔勅。のちには広く、指揮管轄の権の意に用いる。○通天班 天子に自由に拝謁できる爵位。班は官の位わけ。


破者以族滅,存者尚遷延。
反抗して失敗した節度使たいしては、一族連座して洙滅はされたものもいる。しかし、生きのがれた者は日ごとに力をつけていってもとのようになったのだ。
 やっぱり。○遷延ことがのびのびになる。


禮數異君父,羈縻如羌零。」
社会の秩序には正しい順位がある、その位が異なれば礼の様式をも異にする区別によって支えられるものなのだ。もはや序列は崩壊した、臣王のような節度使と天子の皇帝との区別が殆どなくなり、中央に対する関係は、西方の異民族の国羌零のような半独立国のようなものとなった。
礼数 儀式の等級。○羈縻 半従属国の関係をいう。○羌零 西戎の異民族の名。零は、羌零ずなわち西強に同じ。この場合、レンとよむ。


 #1、#2



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列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
供給される兵糧も多くはその時期を逸したのである。物価は高騰し、鉛の上に銅をかぶせた悪幣の乱発は一層インフレに拍車をかけた。
山東望河北,爨煙猶相聯。
山東一帯から河北のあたりを眺めてみた、安禄山の家臣や子孫がなお君臨するその地方では、家々からかまどの煙が互につらなって立ちのぼるのが見えたのである。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
本来朝廷の地域としての京畿とその近辺は、官も民ももれなく困窮になりそれも甚だしく、朝廷はいきつくひまもない有様であった。辛苦して応急策を講じたが年の半ばに尽き果てるものでしかなかった。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
王朝は課税対象をやたらに広げ、行商人や運送業者は、通行税をとられたのである、また新たな家屋税では垂木一本の長さごとに、税を計上された。

中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17

#15
列聖(れつせい) 此の恥を蒙(こうむり)り、懐を含むも宜(の)ぶる能(あた)わず。
謀臣(ぼうしん)は手を拱(こまね)いて立ち、相い戒(いまし)めて敢て先んずる無し。
万国 杼軸(ちょじく)に困(くる)み、内庫(ないこ)に金銭無し。
健児(けんじ)は霜雪(そうせつ)のうちに立ち、腹は歉(あ)かず 衣裳は単のみ。

16

(たま)わる 餉(こめ)は多く時を過ぎ,估(あたい)を高うす銅と鉛。

山東より河北を望(のぞ)めば、爨煙(さんえん)は猶お 相い聯(つらな)れるに

ちようていきゆう。   

朝廷は給するに暇(いとま)あらず、辛苦して半年をた唇つ無し。

行人(こうじん)は行資(こうし)(かく)せられ、居者(きょしゃ)は屋椽(おくてん)に税あり。#16
#17
中間 遂に梗(こう)を作(な)し、狼藉(ろうぜき) 戈鋋(かせん)を用う。
門に臨(のぞ)みて節制(せっせい)を送り、以て通天の班を錫(たも)う。
破れし者は以て族滅せられ、存れし者は尚お遷延す。
礼数(れいすう) 君父(くんぷ)に異なり、羈縻(きび)羌零(きょうれん)の如し』-#17


#16 現代語訳と訳註
(本文)

饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。

(下し文) #16
饋(たま)わる 餉(こめ)は多く時を過ぎ,估(あたい)を高うす銅と鉛。
山東より河北を望(のぞ)めば、爨煙(さんえん)は猶お 相い聯(つらな)れるに
ちようていきゆう。   
朝廷は給するに暇(いとま)あらず、辛苦して半年をた唇つ無し。
行人(こうじん)は行資(こうし)を搉(かく)せられ、居者(きょしゃ)は屋椽(おくてん)に税あり。』

(現代語訳)
供給される兵糧も多くはその時期を逸したのである。物価は高騰し、鉛の上に銅をかぶせた悪幣の乱発は一層インフレに拍車をかけた。
山東一帯から河北のあたりを眺めてみた、安禄山の家臣や子孫がなお君臨するその地方では、家々からかまどの煙が互につらなって立ちのぼるのが見えたのである。
本来朝廷の地域としての京畿とその近辺は、官も民ももれなく困窮になりそれも甚だしく、朝廷はいきつくひまもない有様であった。辛苦して応急策を講じたが年の半ばに尽き果てるものでしかなかった。
王朝は課税対象をやたらに広げ、行商人や運送業者は、通行税をとられたのである、また新たな家屋税では垂木一本の長さごとに、税を計上された。


(訳注)#16
饋餉多過時,高估銅與鉛。
供給される兵糧も多くはその時期を逸したのである。物価は高騰し、鉛の上に銅をかぶせた悪幣の乱発は一層インフレに拍車をかけた。
饋餉 饋は食物を贈ること。餉は乾米。兵糧のこと。○過時 あるべき時期をはずす。○高估銅与鉛 「新唐書」食貨志によれば、徳宗の時代に金銀が不足し、鉛の上に銅をかぶせた貨幣を発行してインフレ現象をおこした。高估は、帛すなわち交換単位である絹のあたいが、悪貨乱発に比例して騰貴したことをいう・


山東望河北,爨煙猶相聯。
山東一帯から河北のあたりを眺めてみた、安禄山の家臣や子孫がなお君臨するその地方では、家々からかまどの煙が互につらなって立ちのぼるのが見えたのである。
山東・河北 安禄山の手下の節度使どものよっている土地。○爨煙 かしぐ. 飯をたく。かまどに火をおこして米をたく。 「炊ぐ」とも書く。 【爨】かまど. 土・レンガなどで築いた、火をたいて煮炊きする設備。 「竈」とも書く。 【爨婦】さんぷ. 飯炊き女。 【炊爨】すいさん. 飯をたくこと。炊事。


朝廷不暇給,辛苦無半年。
本来朝廷の地域としての京畿とその近辺は、官も民ももれなく困窮になりそれも甚だしく、朝廷はいきつくひまもない有様であった。辛苦して応急策を講じたが年の半ばに尽き果てるものでしかなかった。
不暇給 時間に余裕のないこと。


行人搉行資,居者税屋椽。』
王朝は課税対象をやたらに広げ、行商人や運送業者は、通行税をとられたのである、また新たな家屋税では垂木一本の長さごとに、税を計上された。
搉行資 搉は通行税を課すること。徳宗の時代、一年に夏と秋の二度課税する両税法が行われたのは有名な事だが、782年建中三年また諸道の要地や渡し場に官吏を置き通行税をとった。貨物一貫文の評価につき、税二十文。「旧唐書」徳宗紀に見える。なお、「孟子」梁恵王下に「昔、文王の岐を冶むるや、耕するものには九(分)の一を課し、(中略)関は譏(しら)ぶれども征(税)せず。」と見え、儒家の理想から云えぱ、その税率の多寡よりも、通行税の徴収自体が悪政の一形態と意識される。○税屋椽 また783年建中四年には、屋二架を一間とし、一間ごと二干、一千、五百銭の三段階の差ある家屋税が課せられた。「新唐書」徳宗紀に見える。橡はたるきのこと。



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城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
それ以後、歴代の天子。第七代粛宗(711―762年)第八代代宗(727-779年)第九代徳宗(742-805年)第十代順宗(761-806六年)第十一代憲宗(778-820年)は、安史の乱がもたらした藩鎮の割拠による混乱に、至上なるべき権威を失墜する恥辱をこうむった。歴代の天子の心中には、なんとか国権の回復を計り恥辱をすすごうとする思いが一杯になっていたのだが、それは実行には移せず、思召はただ心にわだかまるだけで、逆に媚薬に活路を求めた。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
軍攻参議の将軍も、ふところ手して、茫然と立ちつくすばかりであり、しりごみして互いに警戒し合い、牛李の闘争として目先の権力争いをし、率先して国威回復の建議を奉る者はいなかった。実質、宦官勢力により、政治は動かされた。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
布を織るには、はたおり機の抒と軸とが規則正しく働かねばならぬ。国家の財政も同様、支出と収入の辻棲が合わねばならないのだ。そして、天下はその運営に窮し、国の左右の蔵には宝物、食料、金銭すべてなしというありさまになっている。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」
#-15
集められた義勇軍の兵士は、霜降り雪ちらつく寒天の下に、すき腹をかかえ、夏服を着て立ち向かわなければならないのだ。
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16



#14
城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)喧(かしま)し。
南の資は呉越に竭(つ)き、西の費は河源に失す。
因(よ)りて右の蔵庫(ぞうこ)を令(し)て、摧毁(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。
人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。
筋体(きんたい) 半ば痿(な)えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。

15

列聖(れつせい) 此の恥を蒙(こうむり)り、懐を含むも宜()ぶる能(あた)わず。

謀臣(ぼうしん)は手を拱(こまね)いて立ち、相い戒(いまし)めて敢て先んずる無し。

万国 杼軸(ちょじく)に困(くる)み、内庫(ないこ)に金銭無し。

健児(けんじ)は霜雪(そうせつ)のうちに立ち、腹は歉()かず 衣裳は単のみ。

#16
饋(たま)わる 餉(こめ)は多く時を過ぎ,估(あたい)を高うす銅と鉛。
山東より河北を望(のぞ)めば、爨煙(さんえん)は猶お 相い聯(つらな)れるに
ちようていきゆう   
朝廷は給するに暇(いとま)あらず、辛苦して半年をた唇つ無し。
行人(こうじん)は行資(こうし)を搉(かく)せられ、居者(きょしゃ)は屋椽(おくてん)に税あり



#15 現代語訳と訳註
(本文)

列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」


(下し文) #15
列聖(れつせい) 此の恥を蒙(こうむり)り、懐を含むも宜(の)ぶる能(あた)わず。
謀臣(ぼうしん)は手を拱(こまね)いて立ち、相い戒(いまし)めて敢て先んずる無し。
万国 杼軸(ちょじく)に困(くる)み、内庫(ないこ)に金銭無し。
健児(けんじ)は霜雪(そうせつ)のうちに立ち、腹は歉(あ)かず 衣裳は単のみ。


(現代語訳)
それ以後、歴代の天子。第七代粛宗(711―762年)第八代代宗(727-779年)第九代徳宗(742-805年)第十代順宗(761-806六年)第十一代憲宗(778-820年)は、安史の乱がもたらした藩鎮の割拠による混乱に、至上なるべき権威を失墜する恥辱をこうむった。歴代の天子の心中には、なんとか国権の回復を計り恥辱をすすごうとする思いが一杯になっていたのだが、それは実行には移せず、思召はただ心にわだかまるだけで、逆に媚薬に活路を求めた。
軍攻参議の将軍も、ふところ手して、茫然と立ちつくすばかりであり、しりごみして互いに警戒し合い、牛李の闘争として目先の権力争いをし、率先して国威回復の建議を奉る者はいなかった。実質、宦官勢力により、政治は動かされた。
布を織るには、はたおり機の抒と軸とが規則正しく働かねばならぬ。国家の財政も同様、支出と収入の辻棲が合わねばならないのだ。そして、天下はその運営に窮し、国の左右の蔵には宝物、食料、金銭すべてなしというありさまになっている。
集められた義勇軍の兵士は、霜降り雪ちらつく寒天の下に、すき腹をかかえ、夏服を着て立ち向かわなければならないのだ。


(訳注)
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
 
それ以後、歴代の天子。第七代粛宗(711―762年)第八代代宗(727-779年)第九代徳宗(742-805年)第十代順宗(761-806六年)第十一代憲宗(778-820年)は、安史の乱がもたらした藩鎮の割拠による混乱に、至上なるべき権威を失墜する恥辱をこうむった。歴代の天子の心中には、なんとか国権の回復を計り恥辱をすすごうとする思いが一杯になっていたのだが、それは実行には移せず、思召はただ心にわだかまるだけで、逆に媚薬に活路を求めた。
列聖 歴代の天子。第七代粛宗(711―762年)第八代代宗(727-779年)第九代徳宗(742-805年)第十代順宗(761-806六年)第十一代憲宗(778-820年)を指す。ほとんど毒殺か、中毒死。○含懐 水を口に含むように感情を胸に一杯ためる。○ 心をときほぐす。


謀臣拱手立,相戒無敢先。
軍攻参議の将軍も、ふところ手して、茫然と立ちつくすばかりであり、しりごみして互いに警戒し合い、牛李の闘争として目先の権力争いをし、率先して国威回復の建議を奉る者はいなかった。実質、宦官勢力により、政治は動かされた。
謀臣 軍政参議の臣。「敵国破、謀臣亡」(敵国破れて謀臣亡ぶ。)という言葉が「史記」(韓信のこと)伝にある。○摂 ふところ手して何もせぬこと。○ なんのそのと、事を押し切ってすること。


萬國困杼軸,内庫無金錢。
布を織るには、はたおり機の抒と軸とが規則正しく働かねばならぬ。国家の財政も同様、支出と収入の辻棲が合わねばならないのだ。そして、天下はその運営に窮し、国の左右の蔵には宝物、食料、金銭すべてなしというありさまになっている。
抒軸 はたおりの器具。抒柚とも書く。抒は横糸を通、軸は縦糸を受ける具、経緯というに等しく、古くから、国家経済の運営や作文技俯の喩えととされる。


健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」
集められた義勇軍の兵士は、霜降り雪ちらつく寒天の下に、すき腹をかかえ、夏服を着て立ち向かわなければならないのだ。
健児 職業軍人のこと。西方、南方で大敗し、北方の局地戦でも負けていたため、754年天宝十四年、首都長安に義勇軍十万を募り、天宝健児と号した。○腹歉 歉は不足なこと。○衣裳単 単はひとえの着物。


2012new01



李商隠特集について
李商隠はほとんどの詩を王朝批判としてうたっている。恋歌、艶情、閨情、故事、形を変えて批判している。李白、杜甫、王維、白居易、韓愈、・・・・それぞれの方向性に違いはあっても、王朝批判をしている。

李商隠(812-858、杜甫が712年の生誕である)が生きたその青春時代、あるいは、最も大切な時期、将来を悲観する事件が起こっている。「甘露の変」である。李商隠にとって、衝撃的なものであり、その一生を変える大事件であった。この事件を理解すること、そしてこの事件をエポックメーキングとして李商隠の一生は決まったのである。このブログではそのことに留意して紹介してきたつもりである。


李商隠の生きた時代は、それは、その広大な国土に本来の意味で広大な統一国家が成立した初めての安定した王朝国家であった。そして、格段に向上した生産体制を基軸に、空前の文明社会を築いた。その唐王朝が、建国して100年前後、150年後、国家存亡の最大ピンチを迎えたが、体制を弱めながら、そして数十年ごとにと危機をむかえながら約300年続いたのである。当然のこととして、建国から150年頃の安史の乱以降、崩壊への道をたどりながら維持されたのである。
唐建国から100年の皇帝を頂点として、支配権力・軍事体制と軍事力・行政組織・監査機関など、あらゆる政治の要素が集中的に統一され、強化されたその蓄積された総合力により、のちの200年があったのである。


 日本では、詩の一部分を切り取り、それをその時の都合に合わせて解釈して行くことがほとんどの詩の読み方である。古詩の一部分を絶句のように、あるいは律詩のように一部分を切り取って都合よく紹介されているのはほとんどである。長詩を読まないとその詩人の性格がわからない。長詩にはその詩人の性格がすべて出ている。そしてそうした長詩の幾つかを重ね合わすといろんな人生が見えてくるのである。

 身分社会であること、どこで讒言されるかわからない時代である。詩人はその網をすり抜けて現代に遺産として残してくれたのである。
 このブログでは、できるだけその時の状況、政治体制などを考慮し、詩に書かれてあることの深い意味を紹介しようと思っている。そのため、一般的に本に書かれていることと違う解釈になっていること多いのである。これも、毎日少しずつ紹介しているので、論文の様な訳にはいかないが、李商隠150首特集はそれ全体で李商隠の研究論文といえるかもしれない。

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 161 #14

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 161 #14

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #13

玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
南資竭吳越,西費失河源。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
如人當一身,有左無右邊。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』
#-14
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。

列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15

#13
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを。
誠に知りぬ 開闢(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。
千馬 轡(たずな)を返えさず、万車も轅(ながえ)を還(めぐら)さず。
14

城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)(かしま)し。

南の資は呉越に竭()き、西の費は河源に失す。

()りて右の蔵庫(ぞうこ)を令()て、摧(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。

人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。

筋体(きんたい) 半ば痿()えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。

#15
列聖(れつせい) 此の恥を蒙(こうむり)り、懐を含むも宜(の)ぶる能(あた)わず。
謀臣(ぼうしん)は手を拱(こまね)いて立ち、相い戒(いまし)めて敢て先んずる無し。
万国 杼軸(ちょじく)に困(くる)み、内庫(ないこ)に金銭無し。
健児(けんじ)は霜雪(そうせつ)のうちに立ち、腹は歉(あ)かず 衣裳は単のみ。

 

現代語訳と訳註
(本文)
#-14

城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』

(下し文) #14
城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)喧(かしま)し。
南の資は呉越に竭(つ)き、西の費は河源に失す。
因(よ)りて右の蔵庫(ぞうこ)を令(し)て、摧毁(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。
人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。
筋体(きんたい) 半ば痿(な)えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。

(現代語訳)
街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。

(訳注)
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
城空 長安城はみんな逃げて誰もいないありさま。


南資竭吳越,西費失河源。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
南資 南方から長安に運び込まれていた食糧、塩、鉄などの資源。○呉越 共に春秋時代の国名。後に呉は越に滅されたのだが、その二国の版図、江蘇、浙江一帯を呉越という。○西費 西方の異国からもたらされる衣類や香料や宝石などの貢物。○河源 黄河の源の一帯。安縁山の叛乱による中国の混乱に乗じて、粛宗皇帝李亨(711年-762年)の至徳年間(756―757年)、吐蕃は河西隴右の地をことごとく占拠したばかりか、一時長安にも迫った。


因今左藏庫,摧毁惟空垣。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
○因 それで。その結果。○左藏庫 国庫に左右の蔵倉があり、左には天下の賦調、右には国の宝貨および四方からの貢物をおさめる。長安の人口に対して、潼関から西の耕作地面積では長安の自給率は、50%に満たなかった。


如人當一身,有左無右邊。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
○基本的な税は、租庸調に変わりはない。


觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。
臊膻 動物のなま臭いにおい。また食生活の違う、北方の異民族に対する蔑称でもあり、一種のかけ言葉として用いられたもの。

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 160 #13

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生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
送者問鼎大,存者要高官。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事はできはしない。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13

行く先先、州軍の干馬は逃げ去って、たづなをしぼって馬を返す忠義の将はいなかった、州軍の万車は車のかじをめぐらしてひきかえす勇気ある兵士もいなかった。
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14


#12
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。
#13
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを。
誠に知りぬ 開闢(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。
千馬 轡(たずな)を返えさず、万車も轅(ながえ)を還(めぐら)さず。

#14
城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)喧(かしま)し。
南の資は呉越に竭(つ)き、西の費は河源に失す。
因(よ)りて右の蔵庫(ぞうこ)を令(し)て、摧毁(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。
人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。
筋体(きんたい) 半ば痿(な)えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。


80022008
 

現代語訳と訳註
(本文)

玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13


(下し文)
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを。
誠に知りぬ 開闢(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。
千馬 轡(たずな)を返えさず、万車も轅(ながえ)を還(めぐら)さず。

(現代語訳)
756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事はできはしない。

(訳注)
玉輦望南鬥,未知何日鏇。

756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
望南斗 南斗は二十八宿の一つ。玄宗が蜀(四川のこと)の地方に向って落ちのびた事を指す。剣南節度使を兼任していた楊国忠がすすめによる。756年天宝十五年六月十三日。五行・道教思想では、北斗七星と南斗六星は対を成す存在として神格化されている。北斗(北斗星君)は死をつかさどるとされ、白い服を着た醜い老人の姿で描かれる。南斗(南斗星君)は生をつかさどるとされ、赤い服を着た、北斗と同様の醜い老人の姿や逆に若い美しい男の姿で描かれる。

誠知開闢久,遘此雲雷屯。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
雲雷屯 仮痴不癲のことを示す。雷雲が群れて時期を待っているようなもので、知らないふりをして何もしないほうが、知ったかぶりをして軽挙妄動するよりもいい。沈黙を保って計画を見せない。(『易経』屯卦)。 偽って知らないふりをしているが、実は知っている。

送者問鼎大,存者要高官。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
送者 送者は玄宗につき従ったもの、存者は長安に残って安縁山の偽政府に仕えたものをいう。○鼎大 鼎は夏の萬王が九州の金を収めて鋳った九鼎が、王者のしるしとして伝えられた事から、その大きさを問うことは、あわよくば王朝をのっとろうとすること。


搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事ができはしないのだ。
搶攘 みだれること。○孰辨 孰は誰。弁は弁別。○梟与鸞 梟は悪鳥、鸞は神鳥。与は、と。接続詞である。



千馬無返轡,萬車無還轅。」
行く先先、州軍の干馬は逃げ去って、たづなをしぼって馬を返す忠義の将はいなかった、州軍の万車は車のかじをめぐらしてひきかえす勇気ある兵士もいなかった。
返轡 轡はたづな。○還轅 轅は車のかじ棒。馬車・牛車(ぎつしや)などの前に長く出した二本の棒。その前端に軛(くびき)をわたして牛馬にひかせる。

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奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
少壯盡點行,疲老守空村。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』
#-12
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
#11
奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。
是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。
列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。
但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。
大婦は児を抱きて哭き、小婦は車轓(しゃはん)に攀(すが)る。

12

生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。

少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。

生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。

廷臣は(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。


#13
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを
誠に知りぬ 開辟(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。



 現代語訳と訳註
(本文) #-12

生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲賊掃上陽,捉人送潼關。』


(下し文)
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。


(現代語訳)
思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。


(訳注)
生小太平年,不識夜閉門。
思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
生小 年少のころをいう。生まれてきてまだ小さかったころ。思い起こせばその昔、というような意味。○不識夜閉門 李白 秋浦歌十七首 其十一」-255 などにも出てくる。また李商隠 行次西郊作 一百韻 李商隠特集150- 150 #3など参照。


少壯盡點行,疲老守空村。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
点行 点は点検、行は行軍、兵役に徴兵されたことをいう。杜甫兵車行 杜甫37の詩に「道旁過者問行人,行人但云點行頻。」(道端の通りすがりの者が問い尋ねる。出征兵士がただということには、徴兵が頻(しき)りである。・道勇 退者 みちをとおりすぎるもの。・点行 点とは人名の頭に筆を以て点をつける、すなわち点つけをしてしらべること、行とは兵行。兵役に赴かしめることについて点検すること。


生分作死誓,揮淚連秋雲。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
○生分 生きているときは別れて暮らすこと。○死誓死ぬときは一緒に死のうと誓いあうこと。○連秋雲 男、夫を出征させていて、離れ離れだが秋雲ほうき雲はこちらからもこうまでつながっている。


廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
○例獐怯 ・:ノロジカ麕鹿。臆病な動物の喩に使われる。例は比較の意昧で「ごとし」と訓じる。○羸奔 やせ羊のようについ逃げること。・:つかれる. 力がなくなってぐったりする。力が萎えて衰える。弱る。


爲賊掃上陽,捉人送潼關。』#-12
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。
爲賊 反乱軍のためにすることを言う。○上陽 洛陽の宮殿の名。○捉人送潼関 潼関は河南省の西端部、長安と洛陽とのほぼ中間にあたる所にある関所。長安に侵入した叛乱軍は、百官、宦者、宮女、楽エ、長幼男女を問わず、手あたり次第に捉えて洛陽に送った。宋の司馬光の「資治通鑑」天宝十四年の条に詳しく述べられている。。


#11
 この段は安史の乱の情景を描いている。都長安の東北、芭陽の地に蜂起した反乱軍の進軍の速さは天地を覆すほどの勢いであったが、朝廷は長い平和の時代に慣れてすっかり戦争を忘れており。、精兵の大多数を辺境の守備に派遺してしていた。このため黄河一帯の城塞は瞬く間に反乱軍の課蹟され、明け方には反乱軍の旗がひらめく事となった。
民衆も反乱軍の侵攻は知らされてもこれを防ぐはずの官軍の姿が見当たらない。やむなく避難を始めるものの行くあてもなく、上の嫁は子供を抱いて泣きわめき、下の若い嫁は難を逃れようと必死に車の覆い布に槌りつく。

#12
皆平和な時分に生まれ育ち、夜になっても戸締りをすることすら知らないのだ。しかし今や反乱の勃発により若者は尽く微発され、疲れきった老人のみが人気のない村を守る有様。生き別れになってしまえばもはや会う事も出来ないだろうから死に別れるのと同じ事。人々が涙を揮えばまるで秋雲より降り注ぐ雨のようであった。対策を講じるべき朝廷はどうかと言えば、大臣達はただ蜜のごとくびくびく怯えるばかり、将軍達もやせ衰えた羊のごとくどこかへ逃げ出す始末。反乱軍が洛陽に迫るや彼らは上陽宮を掃き清めて賊どもを迎え、また人を捕らえては賊軍の為にこれを滝関に送り込んだのだ。



 このように安史の乱による混乱ぶりを描く#11、#12であるが、政治の腐敗を描いた#9、#10の直後に置かれる事により、両者の因果関係が顕在化するのではないだろうか。すなわち#9、#10で述べてきたような種々の悪政の結果が第五段で描かれるような国家の一大危機なのだというような論理の展開がここでは見られる。

なお因果関係についていえば、#9、#10でそもそもの元凶である安禄山の横暴さを詳細に描いている事もまた、後に控える悲惨な結末をより効果的に印象付けよう。また同じく#9、#10にすでに「因りて猛毅の輩をして 升平の民を雑牧せしむ」「因りて生恵の養を失し漸く微求の頻りなるを見わす」のように「因」字を用い、前の内容を受けその結果を表す叙述をしている事も見逃せない。いずれにせよ、悪政の描写の後にその結果もたらされた影響の描写を置き因果関係を明確にする事は、「又聞く理と乱とは 人に繋りて天に繋らず」の主題とも合致するものであるといえよう。

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 158 #11

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 158 #11

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131

 

行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 155 #8

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 156 #9

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 158 #10


#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
是時正忘戰,重兵多在邊。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
列城繞長河,平明插旗幡。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」
#-11
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲賊掃上陽,捉人送潼關。』#-12

#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。

11

奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。

是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。

列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。

但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。

大婦は児を抱きて哭き、小婦は車(しゃはん)に攀(すが)る。

#12
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。



hinode0100

現代語訳と訳註
(本文)

奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11

(下し文)
奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。
是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。
列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。
但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。
大婦は児を抱きて哭き、小婦は車轓(しゃはん)に攀(すが)る。

(現代語訳)
天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。


(訳注)
奚寇西北來,揮霍如天翻。

天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
契寇 契は胡族。寇は1 外から侵入して害を加える賊。「外寇・元寇・倭寇(わこう)」 2 外から攻めこむ。あだする。「侵寇・入寇・来寇」。○西北来 長安城の北西。開遠門、光化門、芳林門から攻め入ったということ。○採宙 ひっかきまわすこと。○ ひっくりかえる。


是時正忘戰,重兵多在邊。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
重兵多在辺 玄宗皇帝のとき、藩鎮の制がしかれ、それまで地方警察軍としておかれていた諸州の兵力を辺疆十節度の管埋下においた。そのことをいう。平准西碑 (韓碑)#1 李商隠136 -#1
平准西碑 (韓碑)#2 137
平准西碑 (韓碑)#3 138
平准西碑 (韓碑)#4 139
平准西碑 (韓碑)#5 140
 注参照。


列城繞長河,平明插旗幡。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
平明 夜明け。○捕旗幡 敵に占領されたことをいう。旗幡は安禄山の軍の旗。755年天宝十四年11月、安禄山註范陽に叛し、諸藩の騎歩の兵十五万をひきいて、夜半に行軍し平明に食事をとり、日に行くこと六十里、十二月に黄河を渡り、洛陽城を陥落させた。翌年元旦安禄山は自ら皇帝宣言をし、6月4日潼関で対峙したが、房琯率いる唐王朝軍は大敗した。6月12日長安城に入城した。その時は、王朝軍はほとんどが逃げ出していた。(【旧唐書】本紀)。


但聞虜騎入,不見漢兵屯。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
 南北朝時代、南人は北人を索虜と蔑称したごとく、北方異民族への蔑称である。○不見漢兵屯 叛兵の至る所の郡県、官兵の防禦する無し。甲仗も器械も朽壊し、郡県の官兵は皆白棒を持つに過ぎなかった、と「安禄山事蹟」に見える。


大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。
大婦 長安の大家族で兄弟出征している留守家族を言うのであり、上の嫁。小婦は下の嫁。○車幡 楼は車の被いのこと。

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 157 #10

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これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #12

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #13


#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10

このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12


#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。


宮島(6)宮島・厳島神社




行次西郊作 一百韻#10 現代語訳と訳註
(本文) #10

捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10


(下し文) #-10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。


#-10 (現代語訳)
范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。

 

#-10 (訳注)
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
捋須 須は鬚。捋は指でつまむこと。胡人特有の長い顎ひげを指先でひねくり様子をいう。○ 驕蹇、尊大にかまえるさま。ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度。○禦榻 天子の席・榻は長椅子。天子椅子の前に安禄山のいすを用意させ座ること。

忤者死艱屨,附之升頂顛。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
忤者 さからうもの。○艱屨 安禄山に靴で踏みつけられて圧死することをいう。○附之 安禄山に付く、すなわち媚を売り、云うことを忠実に守り従うことをしめす。○ のぼる。○頂顛 1 てっぺん。物の先端。「顛末/山顛」 2 逆さになる。ひっくり返る。「顛倒・顛沛(てんぱい)・顛覆/動顛」ここは「転」の代用字で上位の位につけるか、下位に落とされるかどうかという意味。


華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
華侈矜逓衒 はかわるがわる、次次に。は自ら尊大にしようとする。は自己宜伝をすること。玄宗が安禄山の為に京師に壮麗な邸宅を建設させた史実、及び、先に道政坊(東市と春明門の間で興慶宮の南-ピンク)に旧宅がありながらで更に親仁坊(東市の南西隣-空色)のひろびろした地に新宅を建て世に誇った事蹟を指す(新・旧「唐書」)、あるいはもっと一般的に、楊貴妃の一族である楊国忠(生年未詳-756年)、魏国夫人、韓国夫人、秦国夫人たちの華侈の競い合いをも含めた意昧かも知れない。○豪悛相併呑 安禄山が三道を兼制したこと、及び広く遠隔の節度使の兼任の風潮のあった史実を指し、貢物を貰いあさったことを示す。
10risho長安城の図

 


因失生惠養,漸見征求頻。』
このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。
生惠養 民を愛しみ養うべき攻治の本道。○征求 賦税のとりたて。○ ひんぱん。

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kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

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kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首



 

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 156 #9

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 156 #9

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131



行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 155 #8




皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12


#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。

宮島(3)

行次西郊作 一百韻#9 現代語訳と訳註
(本文) #-9

大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」

(下し文) #-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる

#-9 (現代語訳)
年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。
 

#-9 (訳注)
大朝會萬方,天子正臨軒。

年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
大朝 天下四方の国々の朝貢使節を召見する宮中の儀式。漢以後、元旦と冬至にこれを行う。○臨軒 軒は窓のある長廊。ここは軒端(のきば)。


采旂轉初旭,玉座當祥煙。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
采旂 鳥の羽を五色に染め、それを綴って虹を象(かたど)って作った五色旗。天子の儀式や行列に掲げる。杜甫「哀江頭 杜甫700- 162」では霓旌:〔げいせい〕虹色の旗と使っている。  
少陵野老呑聲哭,春日潛行曲江曲。
江頭宮殿鎖千門,細柳新蒲爲誰綠。」
憶昔霓旌下南苑,苑中萬物生顏色。
昭陽殿裏第一人,同輦隨君侍君側。
輦前才人帶弓箭,白馬嚼齧黄金勒。
当祥畑 祥炳は御座のそばでたく香炉の煙。当は炉の煙と天子の席の位置とがおおむね一議上にあること。

金障既特設,珠簾亦高褰。」
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。
金障 金色のついたて。新旧「唐書」に、帝の座の左に、金鶏の大障を張り、前に特別の榻(椅子)を置いて、安禄山を詔して坐せて、共の幄(とばり)をかかげて以て尊寵を示したことが見える。太子が諌めたが、帝は聴き入れなかったと。○ 衣や簾の裾をまきあげること。



 年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、よろずの州郡からの使者を宮廷に謁見する時、天子は庭に面する宮殿ののきば近くに臨席される。五彩に色彩られた於は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼる。その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって収けられてある。屏凰の前に福があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられている。そこへおくればせに胡人特有の長い顎ひげを指先でひねくりながら、傲慢にも居並ぶ群臣を顧みずに登場する人物がある。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に彼は悠悠と坐る。誰あろう、それは厄陽の節度使安禄山。もし彼の談倣にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに足下に斬り伏せられ、彼におもねる軽佻のやからは歎高の位にまで出世できるのだ。
 当時、長安の都では、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、みせびらかしあった。地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼併と争うかのように、その富を独占しようとした。かくて民を愛しみ養うべき攻治の本道は見失われ、中央の財政は困窮し、それを袖うべく次第に賦税がひんぱんに課せられ始めたのだった。



 

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これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7



中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
 その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8

朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。
#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10


#5
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』
#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』
#7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。
#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し。


#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。
miyajima 683


#8 現代語訳と訳註
(本文) #-8

五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』

(下し文) #8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し。

(現代語訳)
あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
 その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。


(訳注)
五里一換馬,十里一開筵。

あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
五里一換馬 安縁山の事蹟。彼は肥満型の人物で、かつて、玄宗皇帝に「此の腹の中に何が有るのか。」と言われたりしたが、晩年益。肥大し、朝廷へ参勤する時、五里3km弱ごとに馬を換えなければ馬が死んでしまうので、駅間に特別に大夫換馬台という馬換えの建物を築いてもらったという。○開筵 筵は敷物。安縁山が参勤の途中、とどまる処ごとに御膳珍味を賜られたことをいう。唐の姚汝能の「安禄山事蹟」による。

指顧動白日,暖熱回蒼旻。
その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
蒼旻 大空。春の空を蒼天と云い、秋を曼天という。
 
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。
朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。
糞丸 晋の崔豹の「古今注」に、奸鮮という虫は、土で糞を包み、転がして丸にする、とある。人を馬鹿にしたつまらぬものの喩えである。


 
これまで
時代は下り玄宗の開元・天宝年間に至り、邪な臣下が現れ国政め方針を歪め始めた。その元凶ともいうべき者が、晋公こと宰相李林甫であった。李林甫は優秀な地方官を中央に召還するという太宗以来の慣例を忌み嫌い、異民族出身の将軍達を節度使に任じ地方の統治に当たらせた。この時登用された将軍の中には、後に安史の乱を引き起こす安禄山もまた含まれていたのである。しかし政治の乱れはこれに止まらない。官職の任免ももはや天子の意向に拠るものではなく、媚びへつらう者や楊貴妃を出だした楊氏一族のような姻戚のような連中の思うがままとなってしまった。
かくして中原の民は悪政により身を裂かれるような苦しみを味わい、逆に奴隷と卑しむべき奸邪の臣どもは日々贅沢な食事に食べ飽きる有様だった。

ここまでは李林甫の悪政や楊氏一族の台頭といった事柄を述べてきたものであるが、これに続く挙例部分第コュ~四十句目では、実に二十八句を費やし安禄山の権勢ぶりに焦点を絞り叙述を連ねていく。そこでは次のようにいう。宮中では皇子すらまともに育てられていないというのに、安禄山は楊貴妃の養子になりたいなどといい、楊貴妃もまた、兪禄山を幔縦で包んで戯れる。天子の寵を受け、北辺の地芭陽に節度使として赴いた

この場面#7 #8
安禄山は二十万の精鋭を蓄え、都長安との行き来の際には五里ごとに馬を乗り換え、十里ごとに宴会を開くという有様。その権勢たるや彼が指差し顧みれば天に輝く太陽ですら動かす事ができ、その身の発する熱気で春の空(蒼天)から秋の空(受天)へという季節の順行を狂わせてしまうほどの巨大なものであった。
#9 #10
天子が四方よりの使節に謁見する大朝の儀式、金の屏風が特別に設けられ、真珠を連ねた簾が高々と巻き上げられると、そこに座していたのは他ならぬ安禄山。顎鬚を撫でつつ傲慢に振舞う彼の席は天子の席の前に設けられていた。安禄山に逆らう者は誰であろうと彼の足元で殺され、逆に彼に従う者は栄華が約束される。我が世の春を楽しむ者は互いに豪奢を競い合い、安禄山は節度使を兼任しその権力を強めていったのである。かくして人民を慈しむ政治の本道は失われ、次第に賦税の徴発が盛んに行われるようになっていった。




 

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 154 #7

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これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6



中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次次に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7

皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8

#5
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』
#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』

7

皇子は棄()てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く

重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む

控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。

皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。


#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し。




現代語訳と訳註
(本文) #-7

皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」

(下し文) #7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。


(現代語訳)
楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次次に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。


(訳注)#7
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
皇子棄不乳 通説に従い、李林甫がヽ玄宗皇帝の本予、太子瑛、鄂王瑤、光王琚を讒殺したことを指す。○椒房抱羌渾 ・椒房:山椒を壁に塗りこめてある後官の女子の居間をいう。ここでは楊貴妃が禁男の後宮に安禄山を召し入れ、彼の誕生日を祝うとして、錦繍の大きなオムツで禄山を包み、遊び戯れた史実をざす。安縁山は北方の胡人の混血であるが、羌渾即ち西方の異民族の名で呼ばれるような食生活、残虐性はその功績より上回った。安禄山は楊貴妃の養子となったもの。


重賜竭中國,強兵臨北邊。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次々に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
重賜 玄宗は安禄山を愛し、異常に手厚い賜物をほどこしている。○強兵臨北辺 安禄山は742年天宝元年平盧の節度使となり、以後、范陽の節度使を兼ね、東平郡王となり、河北道の採訪処置使を、そしてまた河東の節度便を兼ねた。かくて751年天宝十年には、北辺一帯三道の軍政は彼の掌中に帰した。中国国内最大、最強の軍を持っていた。それに国内の不平分子、諸侯、潘鎮らが媚を売って従っていた。遊び戯れることが安禄山を手なずけることと勘違いをするまでに強う勢力となったのだ。


控弦二十萬,長臂皆如猿。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
控弦 弓ひく異民族の兵士。漢書の匈奴伝に「控弦の士三十万。」と。安禄山はその鎮范陽に於いて奚人の歩騎二十万を蓄えていた、と史伝に見える。○長臂 肘から肩までの間を臂という。「史記」に「李広は人と為り、猨臂長し。其の善く射ること亦た天性なり。」(李将軍列伝)と見える。この表現はこれにもとづく。弓を引くに最適な体型を言うのであるが、強い軍隊を示す表現ということである。立ち向かうものがないということを言うのである。


皇都三千里,來往同雕鳶。」
皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。
三千里 安禄山は范陽節度使だったが、范陽(今の北京)は長安の北東二千五百二十里、約1450kmのところにある。なお中国の一里は、五七六メートル。○雕鳶 くまたか。北方に棲む李白の『戦城南』。『行行游且獵篇』など千里を見渡し、獲物を見つけ、骨までしゃぶりつくすことを意味している。安禄山は平生から、略奪を平気でできる人間であるから、先に貢物を差し出すということである。


 

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 153 #6

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 153 #6

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5




#-5
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。因令猛毅輩,雜牧升平民。」
#6
中原遂多故,除授非至尊。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』

かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。

皇子棄不乳,椒房抱羌渾。重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8


"現代語訳と訳註
(本文) #6

中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』

(下し文)
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』

(現代語訳)
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。


(訳注)
中原遂多故,除授非至尊。

天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
中原 黄河の中下流域。春秋時代、周の王畿及び漢民族諸侯の封地だった河南、山東西部、山西南部、陝西東部の一帯を中原という。○多故 多事。○除授 授は官をさずける。除はもとの官を去って新しく官に任ずること。○至尊 天子。


或出幸臣輩,或由帝戚恩。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
倖臣 佞倖の臣下。こびへつらって分不相応の地位にのしあがった臣下。


中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。
屠解 屠殺。豚や牛を殺してその肉をさく。體を八つ裂きにされるような苦しみをいう。反対派と見ると言いがかりのような理由で牛豚の屠殺のように粛清した。多くの文人が、死んでいる。○奴隷 異民族出身の安禄山らのことを賤しめて言ったもの。李林保や、宦官に逆らえない、逆らえば殺された。




(解説)
 開元・天宝年間に至り、奸邪な臣下が現れ国政め方針を歪め始めた。その元凶ともいうべき者が、晋公こと宰相李林甫であった。李林甫は優秀な地方官を中央に召還するという太宗以来の慣例を忌み嫌い、異民族出身の将軍達を節度使に任じ地方の統治に当たらせた。
この時登用された将軍の中には、後に安史の乱を引き起こす安禄山もまた含まれていたのである。しかし政治の乱れはこれに止まらない。官職の任免ももはや天子の意向に拠るものではなく、媚びへつらう者や楊貴妃を出だした楊氏一族のような姻戚のような連中の 思うがままとなってしまった。かくして中原の民は悪政により身を裂かれるような苦しみを味わい、逆に奴隷と卑しむべき奸邪の臣どもは日々贅沢な食事に食べ飽きる有様だった。ここまでは李林甫の悪政や楊氏一族の台頭といった事柄を述べてきたものである。

開元・天宝の年号712~741年。600年代の太宗の律令体制によって近隣のどの諸国よりも、すべての産業の生産性が非常に高まった。それに周辺諸国に対する交易も国家を潤し、シルクロードを通して、世界一の富強大国であった。長安は世界一の国際都市で、運河により、江南の豊富な食料にあふれた。この経済的な蓄積をただ浪費したのが玄宗の時代なのだ。文化的には開元と次の天宝の時代は唐朝最盛期となるが、文人を忌み嫌う宰相李林甫は、質素仁徳の人物を徹底的に排除し、富の還元をしないため、地方から律令体制は崩れ始め、735年頃には律令体制の片輪の府兵制度が完全崩壊するのである。府兵制度の崩壊にくわえ、私利私欲による施策は、外夷懐柔政策の破綻を見せ始め、節度使、藩鎮の制が破綻に拍車をかけた。内政面でも、宦官が北司なる近衛師団を采配する実権を握り、外威勢力が官僚機構の上層を支配し始めた。特に、宰相李林甫と宦官高力士は貞観時代の国政の大綱も輝かしい文治の方針のすべてを崩れさせた。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 152 #5


行次西郊作一百韻



行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
降及開元中,奸邪撓經綸。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」
#-5
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24


例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』

5

(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴()し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。

(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。

晋公 此の事を忌()み、多く辺将の勲を録す。

()りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令()て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』


#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』
#7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。
#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し


#-5 現代語訳と訳註
(本文) #-5

例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」

(下し文)
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』


(現代語訳)
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。



(訳注)
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。

通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
 以下の事の行われるのが通例だったという意味で、しきたり、慣例というところ。○陶鈞 陶鈞は陶器の型を造るときのロクロのこと。聖王の為政を陶工の製器に喩えたもの。したがってここでは中央で大臣、宰相をいう。李商隠、杜甫も宰相の政治姿勢を問う物差しとして使う語である。奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫 李林甫の行う政治姿勢を問う語として使っている。李商隠も井泥四十韻 李商隠のなかで政治姿勢を問う語として使っている。もともと天秤はかりの重さを言うのであるから、天下の公平ということである。ここでは史実により、国政の大綱も輝かしい文治の方針ということになる。
 
降及開元中,奸邪撓經綸。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
開元 それから約100年後、唐第六代皇帝玄宗李隆基(685~762年)は、クーデターに成功した。治政の前半の年号(712~741年)。文化的には開元と次の天宝の時代は唐朝の最盛期だったが、外夷懐柔政策が破綻を見せ始め、府兵制度の崩壊、節度藩鎮の制がかえって、その破綻に拍車をかけた。内政面でも、宦官が北司なる近衛師団を采配する実権を握り、外威勢力が官僚機構の上層を支配し始めた。特に、宰相李林甫と宦官高力士は貞観時代の国政の大綱も輝かしい文治の方針のすべてを崩れさせた。○姦邪 奸臣、よこしまなる者。以下に具体的に挙げられる、李林保など悪しき宰相、外戚、藩鎮などを、まず総括的に姦邪と言ったのである。○ まげる。みだす。○経綸 天下を経営すること。施政方針。


晉公忌此事,多錄邊將勳。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
晋公 玄宗の愛妃武恵妃にとり入って出世した宰相李林甫(生年未詳-752年)のこと。張説、張九齢を排除し、737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた故に晋公という。口に蜜あり腹に毒ありと評せられる官僚のほとんどを粛清して、宦官と協力しあって、全権を掌握し、腹黒く且つ無教養な宰相だった。「新唐書」では姦臣列伝に列せられる。○忌説事 此の事とは英賢な地方長官を召しいれて大臣とする習慣を指す。開元中、張嘉賓、王晙、張説、蕭嵩、杜遄など文官はみな一旦節度使として外に功績をあげ、そしてぬきんでられ入閣して、中央の政治に参与した。李林甫は自己の地位の存続を計る為にその慣例をやめ、文官の登用試験を事実上形骸化させた。「科挙」合格者をなくしいった。辺地が不穏であることを理由に、節度使に武将を用いる事を建言して採用された。多く辺将の勁を録すとは哥舒翰(生年未詳~757年)や高仙芝(生年未詳-755年)や安縁山(生年未詳-757年)など辺疆を守備する異族の諸将の功績を、李林甫が過大に称揚して、節度使として文官以上に重用されるようにした事実を指す。

因令猛毅輩,雜牧升平民。」
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
○猛毅輩 安縁山ら、異民族出身のたけだけしき武将たち。○雑牧 統一なく地方を支配する。○昇平民 多くの平和な民。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 155 #8

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これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39 

北斉二首其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠  103

鸞鳳 李商隠 - 111

漫成五章 其四 李商隠 150- 107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131



行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4

まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6

児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。




行次西郊作一百韻 #4 現代語訳と訳註
(本文) #4

生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』

(下し文) #4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』


#4(現代語訳)
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。

まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

(訳注) #-4
生兒不遠征,生女事四鄰。

そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。


濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
瓦缶 素焼の土器。○側穀 爛は熟に同じ。みのれる穀物。○荊困 雑木造りの田舎の倉。
 
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
健兄 血気盛んな若者。○ かぱう。○旁婦 近隣の女たち。○衰翁 老人、おきな。○童孫 幼い孫。いわゆるローティーン子供が童。

況自貞觀後,命官多儒臣。』
まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。
貞観 唐(618年 - 907年)を礎を築いた貞観の治(じょうがんのち)は、第2代皇帝太宗、李世民の治世、627年貞観元年~649年貞観23年)時代の政治を指す。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。
僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(それほど治安が良い))との評がある。○儒臣 最も正統的な儒教の教養乞もって君に仕える文官。杜甫は、『行次昭陵』(行くゆく昭陵に次る)(太宗の陵をさす。)貞観の治を「文物多師古,朝廷半老儒。直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。」(文物多く古を師とす、朝廷半ば老儒ごと讃えている。直詞寧ぞ戮辱せられん 賢路崎嶇足らず。)この詩は「北征」おなじ旅を別視点で詠ったもの。

太宗李世民:生年599年没年 649年


#5 につづく。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 150 #3

行次西郊作 一百韻#3 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 150 #3

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39 

北斉二首其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠  103

鸞鳳 李商隠 - 111

漫成五章 其四 李商隠 150- 107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131


行次西郊作 一百韻
蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3

政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


3

始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳()べたり。

右輔(ゆうほ)は田疇(でんちゅう)薄く、斯の民 常に貧しきに苦しむ。

()の昔 楽土と称せしときは、頼る所は牧伯(ぼくはく)の仁なりき。

官は清きこと冰玉の若く、吏の善きこと六親(りくしん)の如し。」

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。



行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註
(本文)#-3

始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


(下し文)#3
始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳(の)べたり。
右輔(ゆうほ)は田疇(でんちゅう)薄く、斯の民 常に貧しきに苦しむ。
伊(そ)の昔 楽土と称せしときは、頼る所は牧伯(ぼくはく)の仁なりき。
官は清きこと冰玉の若く、吏の善きこと六親(りくしん)の如し。」

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』


---
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。



(現代語訳)
始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。


(訳注)
始若畏人問,及門還具陳。

始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
 また・めぐり来って再びするかかである。○具陳 事の次第を詳しく物語ること。



右輔田疇薄,斯民常苦貧。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
右輔 都の右の輔翼の地。鳳翔府を指す。その語源扶風、右扶風(ゆうふふう)は、古代中国の官職名、またはその治める行政区域名からいうのである。前漢、後漢の代に置かれ、長安周辺の県を統治した。官秩は二千石(『漢書』百官公卿表上)。武帝の太初1年(紀元前104年)に長安より上流右内史は右扶風、長安中心とした近郊までを京兆尹とされ、下流側を左内史、左馮翊と改名された。中国では古い地名を使う表現が好まれた。
また李商隠の鳳翔を題材にした詩は次のとおりである。
有感二首 其一 有感二首 其二 重有感 燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131 以前、先に、の意。○



伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
伊昔 伊は軽い発語の詞。これ。○牧伯 地方の長官。右扶風尹。本来は、後漢に設置されたもので、王の勅命により州にあって州侯を監視・監督するものであった。

官清若冰玉,吏善如六親。」
政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。
 役所の事務にたずさわる小役人。官は科挙試験に合格した者が、朝廷から任命され、吏は、その下で実務雜役にたずさわる。○六親 六親五類のこと。「父母」、「兄弟」、「子孫」、「妻財」、「官鬼」の5つを指す。これに、自分をあらわす世爻(せこう)を加えて六親という、中国では、ほとんどの事項を五行思想で表した。
以上 #-3







#4 につづく

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149


行次西郊作 一百韻
蛇年建丑月,我自梁還秦。
丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1

その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。

高田長檞櫪,下田長荆榛。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
依依過村落,十室無一存。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』
#-2
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


行きて西郊に次る作 一百韻
蛇の年 建丑(けんちゅう)の月、我 梁より秦に還るに。
南のかた大散嶺を下り、北して渭水の浜を済る。
草木は半ば舒坼(じょたく)し、氷雪の晨に類(に)ず。
又 夏の苦熱に、燋(こ)げ巻(しお)れ 芳津(ほうしん)無きが若し。
高き田には檞櫪(こくれき)の長(の)び、下の田には荊榛(けいしん)を長(ちょう)ず。
農具は道旁に棄てられ、餓えし牛は空なる墩(おか)に死せり。」

依依として村落を過れば、十室に一の存するも無し。
存する者は面を背けて啼き、衣の賓を迎う可きもの無し。
始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳(の)べたり。


行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註
(本文)

蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


(下し文) 行きて西郊に次る作 一百韻
蛇の年 建丑(けんちゅう)の月、我 梁より秦に還るに。
南のかた大散嶺を下り、北して渭水の浜を済る。
草木は半ば舒坼(じょたく)し、氷雪の晨に類(に)ず。
又 夏の苦熱に、燋(こ)げ巻(しお)れ 芳津(ほうしん)無きが若し。
高き田には檞櫪(こくれき)の長(の)び、下の田には荊榛(けいしん)を長(ちょう)ず。
農具は道旁に棄てられ、餓えし牛は空なる墩(おか)に死せり。」
依依として村落を過れば、十室に一の存するも無し。
存する者は面を背けて啼き、衣の賓を迎う可きもの無し。


(現代語訳)
丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。

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(訳注)
行次西郊作 一百韻

行次西郊 西郊は長安の西の郊外、右扶風(鳳翔府に属す)と呼ばれるあたり。この詩は文宗皇帝の開成二年(837年)十二月、興元尹・山南道節度使だった令狐楚の葬儀を終え、興元(陝西省南鄭県)から長安へ帰る途中、鳳翔府一帯が、甘露の変(835年)後、三年を経たのちもなお土地の荒廃し、人心の動揺するのを見て作ったもの。盛唐の詩人杜甫が完成した詩史、すなわち長篇叙事詩の体を継承する詩である。時に李商隠二十六歳。

#1
蛇年建丑月,我自梁還秦。

 丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
蛇年 837年、巳の年、文宗皇帝開成二年の干支は丁巳である。○建丑月 建は北斗七星の斗柄の指す位置。それが丑の位を指すのが陰暦十二月。夏暦で建は月を示し丑は12月。○ 興元はもと梁州といった。も長安のあたりを、戦国時代の秦国が長安のすぐ北の咸陽に都した、その古名でよんだのである。


南下大散嶺,北濟渭之濱。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
大散嶺 映西省宝鶏県西甫にある秦蜀往来の要地であり、大散関という関所のある山。嶺は横に長くのびた山脈であり、またそこにある峠である。揃の字は一に関に作る。○渭水 陝西省中部の宝鷄県を経ながら東流して黄河と合流する川の名。
 長安洛陽鳳翔馬嵬

草木半舒坼,不類冰雪晨。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
舒坼 蕾が開かれるさま。芽生えはじめること。・ ひろがる。ゆったりする。・ さける、 わかれる、 ひらく、 さけめ。

又若夏苦熱,燋卷無芳津。」

その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
燃巻 燃はこげる。巻は草の葉が内にまいてしおれること。○芳津 かおりと潤い。あるいはかんばしい潤い。

#2
高田長檞櫪,下田長荆榛。

丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
檞櫪 どんぐりの樹。役立たずの木なのである。○荊榛 いばらとはしばみ。また広く雄木の総称。


農具棄道旁,饑牛死空墩。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
饑牛 餓えた牛は前の句農具が放置されているで、働き手がいないことをあらわす。 ○空墩 集まりがない、空っぽのさまをいう。人影なきむら。・墩 [量] 植物の叢(むら)や株を数える


依依過村落,十室無一存。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
○依 思い慕うさま。離れがたいさま。ここでは心配して心をそこのむらに寄せること。


存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。
○背面啼 杜甫の北征の詩に「耶を見て面を背けて啼く、垢臓脚機はかず。」とある表現が多分意識されている。



蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
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李商隠 148 北徵と行次西郊作一百韻について

李商隠 148
唐宋期漢詩ブログ、Ⅰ.李商隠の詩150 の最後に取り上げるものである。

北徵と行次西郊作一百韻について
どちらも歴史的な事件を舞台にした王朝批判の長詩である。


北徵
皇帝二載秋、閏八月初吉。
杜子將北徵、蒼茫問家室。』

(北征)
皇帝 二載(にさい)の秋、閏八月の初吉(しょきつ)。
杜子(とし)  将(まさ)に北に征して、蒼茫(そうぼう)   家室(かしつ)を問わんとす。

粛宗皇帝の至徳二載の秋、閏八月一日のことである。
杜甫は北方に向かって突き進む旅をしようとし、乱によって先行きはまったく不安に駆られてながら、家族のもとへ向かうのである。


行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。

(行きて西郊に次る作一百韻)
蛇(み)の年 建午(けんご)の月,我 梁より秦に還える。
南のかた 大散(たいさん)の關を下り,北して渭(い)これの濱(きし)を濟(わた)る。

丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。



杜甫「北征」の詩について
 左拾遺を拝命してまもなく、杜甫は諫諍(かんしょう)をしている。悲陳陶 - 152   悲青坂 - 153 で大敗を喫し、周りの助けで、許されていた房琯(ぼうかん)が宰相を罷免され、太子少師(たいししょうし)に貶された。それを任命間もない杜甫が天子に諫諍し、粛宗が激怒したのだ。

 事件というのは房琯が身近に置いていた琴の名手の董廷蘭(とうていらん)が、房琯の威を借りて賄賂をとったというのだ。社甫にしてみれば、天子を諌めたことによって、たとえ一命を失うようなことがあったとしても、それは本望であり、いささかの悔いも残らなかったであろう。それは長年にわたって願いつづけた政治の舞台での晴れの姿であった。しかし、この事件を区切りとして、その官吏としての生命は失われ、以後は詩人として生きざるをえなくなる。政治の上で世に名を著わすことを念願しながら、意に反して、詩によって世に著われるようになる、そのきっかけとなった諫諍事件といえよう。

 粛宗にとってみれば、玄宗からの命で、いわばスパイの役割をしており、大敗して謹慎中の身でありながら、横暴な面を見せていた房琯を擁護した杜甫をそのままにしておくことは、他の官僚に示しはつかない。

 事件の背景には粛宗(しゅくそう)の近臣と玄宗の旧臣との間の対立があったこと、状況判断、政治的判断ができないことに問題がある。詩人である杜甫にとっては、政治的、客観的な人間でありえないものなのだ。


 それが一生を左右する大事になろうとはまったく思ってもおらず、職務に忠実に勤務を続けて、謝罪の文を奉って十日ばかりのちには、同僚との連署ではあるが、友人の岑参を推薦する上奏文「遺補の為に岑参を薦むる状」を書いている。この結果、岑参は右補闘に任じられた。右補闘は中書省に属する諌官で末席に近く、右拾遺より一つ上のポストであり、これに対応するものとして門下省に左補闘と左拾遺があった。

 岑参に触れたついでに、杜甫の他の友人の消息を見てみると、李白は江南の地で粛宗の弟永王璘の軍に加わっていたが、この年の二月、永王、が粛宗との仲たがいから反乱軍として討伐されたあとは、江南のあちこちを逃げまわっている。しかし、やがて捕らえられて尋陽の獄につながれることになる。


 高適は、皮肉にも永王追討軍を指揮して江南を転戦し、そのまま淮南節度使となって揚州にとどまっている。杜甫がのちに蜀の成都でその庇護を受けることになる厳武は、杜甫と同じ役所の門下省に、給事中として勤めている。鄭虔は叛乱軍の偽政府で水部郎中を授けられていたために、王維らとともに宜陽里の牢獄に投ぜられ、のちに台州(浙江省の東海岸)の司戸参軍として流された。



 杜甫は問責を受ける身になり、職務も停止された。
 新しく宰相になった張鎬(ちょうこう)らのとりなしもあって、六月一日には旧職に復している。粛宗の信任はもどってはこなかったのだ。杜甫は詔書によって鄜州羌村の家族を見舞ってもよいとのお許しを願い出るとが、思いがけず即ゆるされる。勅許というのは名目的で、実体は無用の人間とされ、休職処分だったのだ。


 粛宗のそのような意を知ってか知らずか、杜甫は鳳翔から鄜州まで約二〇〇キロの道を、当時、長安は叛乱軍の占領下にあったので、渭水に沿った東行の道はとれず、鄜州へ行くには鳳翔から北へ山越えの道をゆく必要があった。閏八月の初めから半月ばかりかかって、馬は与えられなかったために、途中で馬を借りるまでは徒歩で、何人かの下僕を供にして麟遊県-邠州―宜君県-鄜州という経路で帰っていった。このときの旅で作られたのが「北征」の詩で、七百字百四十句の長篇である。「北征」というのは征旅のことではなく、「北行」ということで、勅許を受けてゆくので北征と言ったのに過ぎないものだ。


 「北征」の詩の内容は四つの段に分けられる。すなわち第一段はこのたびの帰省のことと現在の時勢について、第二段は旅中の見聞、第三段は妻子との再会、第四段は胡賊撃退へと動き出した状況の説明と大乱平定の願い、となっている。

 “鳳翔県のほうを振りかえると、行在所の旌旗が日暮れの空に見え隠れしており、やがて杜甫は冬枯れのはじまった淋しい山道にはいっていゆく。山中の道端には軍馬の水かい場が幾つも残されており、いまは人けもなく打ち棄てられているのである。”ということで始まる。



李商隠 「行次西郊作一百韻」について
 宦官による大虐殺の「甘露の変」は、李商隠にとって『杜甫にとっての安禄山の乱』と同様な事件として映るのだ。実際に、関与した鳳翔におかれていた軍隊が関与したため、長安と鳳翔の惨状はすさまじい虐殺が行われていたということなのだろう。


 杜甫と同じように鳳翔府の状況、風景から始まる。門を入っても誰も迎えてくれない。誰に聞いても答えるものがいなかった。
 ようやく話してくれ始めた。
 今はこんな荒れ果てているが、仁徳深い地方長官の時代、楽園であった時もあった。しかし、玄宗の時代になると異民族の将軍たちは無秩序な支配により、奴隷のようにあつかわれた。楊貴妃の時代、安禄山の出現と出世のいきさつ、を白居易「長恨歌」とは違った観点で述べていく。

 安禄山の叛乱について述べられる。一朝にして叛乱軍に占領され、安禄山の軍旗にあふれた。鳳翔では家に鍵をかける家などなかったものが今では、老人しか残っていない。

 陥落した長安、逃げた玄宗について触れている。そして李商隠らしい点は、安史の乱を平定するため、異民族に援軍を求めたために、唐の財産が奪われるだけでなく、資源をかすみとられる交易になってしまって、唐の国家的財政に問題を残した。

 それ以降の粛宗、代宗、徳宗、憲宗と歴代の皇帝は恥辱の上塗りしかしなかった。奸臣ばかりが重用され、改革者は左遷された。この宦官だけが力をつけていった。この宦官を一掃しようと仕組んだクーデターも失敗に終わり、長安と鳳翔の間はならず者、一揆と無政府状態となった。その甘露の変から3年も過ぎるのに盗賊を捉まえることすらできないのだ。


行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24

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