杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
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2014年05月

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (11) Q-4-#1》 杜甫index-14 764年 (11) Q-4-#1 杜甫<775> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4280 杜甫詩1500-775-1027/2500index-21

(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)食物が不足し供されない状況が続くのは、これは軍事を弱体化させ、人民の信頼を棄てるということである。特に軍に食料不足であっても、戦いに余裕を持って臨んだり、馬車を疾駆させることは、必ず用いるべき姿勢でなければいけないのである。


        
 2014年5月31日の紀頌之5つのブログ 
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (11) Q-4-#1》 杜甫index-14 764 (11) Q-4-#1 杜甫<775>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4280 杜甫詩1500-775-1027/2500index-21

 

 

当時、安史軍は毎日、各城下にて掠奪する。大唐軍が出陣すると、すぐに陣へ逃げ帰るのだ。諸軍の人馬牛車は日々損失を受け、 薪の補給も難しい。大唐の警備兵は、二十四時間緊張を強いられた。

天下は飢饉で、兵糧の運搬は、南は江、淮から、西は并、汾から、船や車が途切れずに続いていた。史思明は、壮士へ官軍の扮装をさせてあちこちへ派遣し、 運搬隊へ対して期日の遅れなどを責めて妄りに殺した。 運搬者は驚き懼れた。また、船や車が密集していたら、 これを焼き払った。史思明の安史軍は神出鬼没で集合離散も変幻自在。大唐軍が捕まえようとしても、なかなか見つけきれない。

 これによって大唐諸軍は兵糧が乏しくなり、人々は戦意を無くした。それを見透かして、史思明は大軍を率いて城下へ結集し、大唐軍と時刻を決めて 決戦を挑んだ。

 

 (Q-1)

(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

 

(Q-2)

(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

 

(Q-3)

(安史の乱による交通手段の遮断、陸上水路整備による駅伝制が整うことによる国領増強はできるのか?)

 

(Q-4)

(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

 

(Q-5)

(三皇五帝の時代は質素倹約につとめ、仁徳ある施政、物理にのっとる政治を行ったが、現在、安史の乱を終わらせるためにとったウイグル援軍への多大な負担は国家財政を破たんに近いもので、それを補てんするための鋳造比率を悪化させて発行量を驚愕に増加させたことは、穀物の不作とで過激なインフレーションを起こしていることに対しての意見を述べることを求めている。)

 

 

Q-4 #1(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

問:足食足兵,先哲雅誥,

第四の策を問う、「食物を十分に供し、兵を充分にそなえておけば、人民はその施政者を信頼するというのは、『論語』顔淵篇に見える先哲の正しくて立派な戒めである。

蓋有兵無食,是謂棄之。

これを踏まえて、食物が不足し供されない状況が続くのは、これは軍事を弱体化させ、人民の信頼を棄てるということである。

致能掉鞅,靡旌,斯可用矣。

特に軍に食料不足であっても、戦いに余裕を持って臨んだり、馬車を疾駆させることは、必ず用いるべき姿勢でなければいけないのである。

況寇猶作梗,兵不可去,

ましてや安史軍は今なお略奪、横暴で輸送ルートを塞いでおり、ここ司功参軍の兵隊を引き上げることはでききないのである。

日聞將軍之令,親睹司馬之法。

日々、将軍は状況に応じた命令を出しているのが聞こえてくる、司馬の兵法を間近に見ているのであるからなおさら軍の整備が重要なのである。

Q-4、問ふ、「食を足らしめ兵を足らしむ」とは、先哲の雅誥なり。

蓋し兵有りて食無きは、是れ之を棄つと謂ふ。

能く掉鞅 靡旌を致すは、斯れ用ふ可し。

況んや寇 猶ほ梗を作し、兵去る可からず、

日々将軍の令を聞き、親しく司馬の法を睹る。 

關中之卒未息,灞上之營何遠?

近者鄭南訓練,城下屯集,

瞻彼三千之徒,有異什一而

竊見明發教以戰鬥,亭午放其庸保,

課乃菽麥,以為尋常。

 

夫悅以使人,是能用古,

則雲暮,實慮休止,

未卜及瓜之還,交比翳桑之餓。

群有司自救不暇,二三子謂之何哉?

 

 

關中の卒 未だ息まず、㶚上の営何ぞ遠からん。

近ごろ、鄭南に訓練し、城下に屯集す。

彼の三千の徒を瞻るに、什の一にして税するに異なる有り。

竊かに見るに 明発 教うるに戦闘を以ってし、亭午其の庸保を放ち、

課するは乃ち菽と麦にして、以て尋常と為す。

 

夫れ悦しみて以て人を使うに、是れ能く古を用ふ。

伊れ歳 則ち雲に暮れ、実に休止せんことを慮る。

未だ及瓜の還を卜せず、交も翳桑の餓に比す。

群有 司自ら救ふに暇あらず。二三子 之を何と謂ふや。

長安と洛陽の大地図0048 

 

『乾元元年華州試進士策問五首』 現代語訳と訳註

(本文) Q-4 #1(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

問:足食足兵,先哲雅誥,

蓋有兵無食,是謂棄之。

致能掉鞅,靡旌,斯可用矣。

況寇猶作梗,兵不可去,

日聞將軍之令,親睹司馬之法。

 

(下し文) Q-4、問ふ、「食を足らしめ兵を足らしむ」とは、先哲の雅誥なり。

蓋し兵有りて食無きは、是れ之を棄つと謂ふ。

能く掉鞅 靡旌を致すは、斯れ用ふ可し。

況んや寇 猶ほ梗を作し、兵去る可からず、

日々将軍の令を聞き、親しく司馬の法を睹る。

 

(現代語訳)

第四の策を問う、「食物を十分に供し、兵を充分にそなえておけば、人民はその施政者を信頼するというのは、『論語』顔淵篇に見える先哲の正しくて立派な戒めである。

これを踏まえて、食物が不足し供されない状況が続くのは、これは軍事を弱体化させ、人民の信頼を棄てるということである。

特に軍に食料不足であっても、戦いに余裕を持って臨んだり、馬車を疾駆させることは、必ず用いるべき姿勢でなければいけないのである。

ましてや安史軍は今なお略奪、横暴で輸送ルートを塞いでおり、ここ司功参軍の兵隊を引き上げることはでききないのである。

日々、将軍は状況に応じた命令を出しているのが聞こえてくる、司馬の兵法を間近に見ているのであるからなおさら軍の整備が重要なのである。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

(訳注) Q-4 #1(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。 

 

問:足食足兵,先哲雅誥,

第四の策を問う、「食物を十分に供し、兵を充分にそなえておけば、人民はその施政者を信頼するというのは、『論語』顔淵篇に見える先哲の正しくて立派な戒めである。

・足食足兵 『論語』顔淵篇、「子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。」(子貢、政を問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民之を信ず)孔子か政治の根本についてと述べ、もっとも重要なのは人民の信義であり、そのもとに食糧を不足させてはいけない、軍事整備を怠らずにしていることである。

・先哲 昔の哲人。昔のすぐれた思想家。前哲。

・雅誥 上品で優雅なこと。宮廷風・都会風であること。風采の立派なこと。「誥」は天子の言葉。ここは先哲の正しくて立派な戒めである。

 

蓋有兵無食,是謂棄之。

これを踏まえて、食物が不足し供されない状況が続くのは、これは軍事を弱体化させ、人民の信頼を棄てるということである。

・是謂棄之 『論語』子路に、「子日、以不教民戦、是謂棄之。」とあり、民に十分な教育を施さないで、戦わせるのは、敗亡を招くのみならず、人民を無駄に棄てることだとの意ともいえるが。ここでは、軍の試験であり、関中が自給自足できず、他地域からの穀物を補給しなければいけないのができなく、そのことにより「無食」となり、軍の体制が崩壊すること、人民の信頼はなくなる。この考え方は、杜甫の「三吏三別」見事に言い表されている。

 

致能掉鞅,靡旌,斯可用矣。

特に軍に食料不足であっても、戦いに余裕を持って臨んだり、馬車を疾駆させることは、必ず用いるべき姿勢でなければいけないのである。

・掉鞅 もと敵に挑戦するに当たって、馬のむなかいを整える意で、そこから余裕のある様子や、戦闘において主導権を握る様を表す。

・靡旌 馬車を疾駆させるさま。

 

況寇猶作梗,兵不可去,

ましてや安史軍は今なお略奪、横暴で輸送ルートを塞いでおり、ここ司功参軍の兵隊を引き上げることはでききないのである。

 

日聞將軍之令,親睹司馬之法。

日々、将軍は状況に応じた命令を出しているのが聞こえてくる、司馬の兵法を間近に見ているのであるからなおさら軍の整備が重要なのである。
洛陽 函谷関002 

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (10) Q-3-#4》 杜甫index-14 764年 (10) Q-3-#4 杜甫<774> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4275 杜甫詩1500-774-1026/2500index-21

道路や水路がそのようなことになれば、舟や車の運用は大も小も妨げられることになろうというものだ。華州司功参軍・王朝軍・連合軍など軍隊と国家の食糧は、次第に穀物倉庫は空になってくることになろう。ましてや關中の家々の炊煙はまだ稀にしかあがからず、牛馬の力も不足している

        
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(7) Q-3-#1 (陸上水路整備によるの駅伝制が整うことによる国力整備増強)

(7) Q-3-#1 (陸上水路整備によるの駅伝制が整うことによる国力整備増強)

問:通道陂澤,隨山濬川,

策を問う、道を通ぜしめ、・沢や沼をふさぎ、山に沿い河を深くさらう。

之理,疏奠之術,

そのように、古から、道を切り開く工法やふさがっている所をくりぬいて通じさせる土木術策があるのである。

抑有可觀,其來尚矣。

そもそも見るべき手本があり、その由来は久しいものかある。

初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。

洎後代控引淮海,漕通涇渭,

後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

因舟楫之利,達倉庾之儲。

これによって、引き船法であるとか、航行法の策定により水運の利益が増大した、当然、天子の御蔵と穀物蔵には貯蔵を栄えさせたのだ。

 (7) Q-3-#1

問う:道を通じ 澤を陂ぎ,山に隨い川を濬う,

理あり,疏奠の術ある,

抑も觀る可き有り,其の來れるや尚し。

初め聖人 溝洫に盡力し,國に隄防を為すを作す有り,

後代に洎んで 淮と海を控引し,涇渭を漕ぎ、通ず,

因って舟楫の利あり,倉庾の儲を達す。

 

(8) Q-3-#2

又賴此而殷,亦行之自久。

また交通整備にともなって、地域は発展し、その地域間の流通も発展し、事業は長く続けられた。

近者有司相土,決彼支渠,

最近、司功参軍の治める土地は戦争によってみだれてしまい、溝渠をつぶしてしまったり、運河、渠水を決壊、崩壊させた。

既潰渭而亂河,竟功多而事寢。

既に渭水の灌漑はつぶされ、あまつさえ重要な黄河を乱れさせてしまったのだ、結局、労役ばかり多くなった挙げ句の果てに、水路輸送はうまくゆかず遮断してしまった。

人實勞止,岸乃善崩。

安史の乱により、人々は骨を折って疲れ果て、手入れをしない川岸はしばしば崩れるようになった。

遂使委輸之勤,中道而棄。

こうしてとうとう物資輸送の勤めも中途で投げ出されているのである。

又た此に賴りて殷んに,亦た之を行うこと自ら久し。

近者 司 相いに土有り,彼の支渠を決す,

既に渭を潰して河を亂し,竟に功多くして事寢す。

人 實に勞止し,岸 乃ち 善く崩す。

遂に委輸の勤めをせしめ,中道にして棄てしむ。

長安と洛陽の大地図0048 

(9) Q-3-#3

今軍用蓋寡,國儲未贍,

今、軍事用工事は非常に多くしなければならないのに、国の蓄えについてはいまだ安史の乱は平定しないので満たされる段階ではない。

雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。

遠方の江南からの穀物を大量に都に輸送する必要があるというのに、肝腎の運送用の車がほとんどないのである。

是以國朝仗彼天使,徵茲水工,

此の経済状況に問題があるというわけで朝廷は、かの天子の使いだされた、「治水作業をする者を徴集せよ」と。

議下淇園之竹,更鑿商顏之井。

漢の時代に淇園の竹を下して堰堤とすることを議し、商顔の井戸を穿って洛水をひいたように土木工事をしようとしている。

又恐煩費居多,績用莫立,

またそこに問題があり、工事費用が膨大だということであり、実績を上げることが出来ないだけでなく計画すらできないのである。

空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。

雲を集めた様に大勢で鋤を荷ってもなにもできず空しいことである、また堤防をつくっていってもすぐに黄河の水が流してしまって泥水になるのである。

今 軍用 蓋ぞ寡なからん、國儲 未だ贍たず。

遠方の粟が大いに来たると雖も、而して助挽の車 給するなし。

是を以て 國朝 彼の天使に杖り、茲の水工を徴す。

議して 淇園の竹を下し、更に商顔の井を鑿たしむ。

又た 恐るらくは煩費多きに居り、績用立つる莫し。

空しく成雲の挿を荷ひ、復だ 填淤の泥に擁がれん。

 

 (10) Q-3-#4

若然,則舟車之用,大小相妨矣;

もし、道路や水路がそのようなことになれば、舟や車の運用は大も小も妨げられることになろうというものだ。

軍國之食,轉致或闕矣。

華州司功参軍・王朝軍・連合軍など軍隊と国家の食糧は、次第に穀物倉庫は空になってくることになろう。

矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。

ましてや關中の家々の炊煙はまだ稀にしかあがからず、牛馬の力も不足している者たちばかりだからなおさら深刻である。

子等飽隨時之要,挺賓王之資,

諸君よ、時勢の必要を充分に充たし、帝を輔佐する資質を大いにあらわしてほしい。

乎求賢,敷厥讜議。

この都圏の食糧問題に対する世に埋もれた賢人の意見を求め、その正しい議論を大いにおこして、この危急な状態を助けてもられたいのである。

若し然らば,則ち舟車の用,大小 相い妨げられん。

軍國の食,轉た致し 或いは闕かん。

矧【いわ】んや 夫【か】の人 煙 尚お稀れにし,牛力 足らざる者のみ。

子等 隨時の要を飽し,賓王の資を挺す。

求賢に副い,厥の讜議を敷かれよ。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 

『乾元元年華州試進士策問五首』 現代語訳と訳註

(本文)

 (10) Q-3-#4

若然,則舟車之用,大小相妨矣;

軍國之食,轉致或闕矣。

矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。

子等飽隨時之要,挺賓王之資,

乎求賢,敷厥讜議。

 

(下し文)

(10) Q-3-#4

若し然らば,則ち舟車の用,大小 相い妨げられん。

軍國の食,轉た致し 或いは闕かん。

矧【いわ】んや 夫【か】の人 煙 尚お稀れにし,牛力 足らざる者のみ。

子等 隨時の要を飽し,賓王の資を挺す。

求賢に副い,厥の讜議を敷かれよ。

 

(現代語訳)

もし、道路や水路がそのようなことになれば、舟や車の運用は大も小も妨げられることになろうというものだ。

華州司功参軍・王朝軍・連合軍など軍隊と国家の食糧は、次第に穀物倉庫は空になってくることになろう。

ましてや關中の家々の炊煙はまだ稀にしかあがからず、牛馬の力も不足している者たちばかりだからなおさら深刻である。

諸君よ、時勢の必要を充分に充たし、帝を輔佐する資質を大いにあらわしてほしい。

この都圏の食糧問題に対する世に埋もれた賢人の意見を求め、その正しい議論を大いにおこして、この危急な状態を助けてもられたいのである。

 

(訳注) (10) Q-3-#4

若然,則舟車之用,大小相妨矣;

もし、道路や水路がそのようなことになれば、舟や車の運用は大も小も妨げられることになろうというものだ。

 

軍國之食,轉致或闕矣。

華州司功参軍・王朝軍・連合軍など軍隊と国家の食糧は、次第に穀物倉庫は空になってくることになろう。

 

矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。

ましてや關中の家々の炊煙はまだ稀にしかあがからず、牛馬の力も不足している者たちばかりだからなおさら深刻である。

○この時、洛陽には安史軍が迫ってきて入り、江南からの輸送は激減していたのである。加えて安史の乱直前三年は長雨と日照りが続き、不作、から飢饉の状態であった。この758年も不順な天候で飢饉になることで杜甫は官を辞することになる。

 

子等飽隨時之要,挺賓王之資,

諸君よ、時勢の必要を充分に充たし、帝を輔佐する資質を大いにあらわしてほしい。

 

乎求賢,敷厥讜議。

この都圏の食糧問題に対する世に埋もれた賢人の意見を求め、その正しい議論を大いにおこして、この危急な状態を助けてもられたいのである。

 

灌漑治水は皇帝の大きな事業であった。三皇五帝は黄河の氾濫による治水がある。三皇に扱われ、水神の神と言われている共工(現在のチャン族)と方船に乗って洪水を逃れた伏羲、女媧兄妹(現在のミャオ族)。五帝の時代では、天文を観察して暦を作らせた堯が天子を務めた時に、またも黄河の氾濫が起き、治水工事を夏王朝の初代皇帝、禹の父鯀(現在の越人)に託し、その工事に失敗すると殷の始祖と言われている舜に依頼し、舜が天子になった時に禹に治水工事を完成させた。

 

中国古代の「大禹治水」の物語と都江堰の工事は後代にとても良い啓発を残してくれた。「大禹治水」の物語に、禹の父である鯀は「塞ぐ」方法で洪水を治めようとして、九年経っても洪水は治まらなかった。大禹は「水路の流れをよくする」(濬う)方法を採って治水して、山にぶつかると山を開いて、坂にぶつかると堤防を築いて、水路の流れをよくして、流れの勢いに沿って導いて、最後、洪水を海に導くことに成功した。

 洛陽 函谷関002

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遠方の江南からの穀物を大量に都に輸送する必要があるというのに、肝腎の運送用の車がほとんどないのである。またそこに問題があり、工事費用が膨大だということであり、実績を上げることが出来ないだけでなく計画すらできないのである。


        
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(7) Q-3-#1 (陸上水路整備によるの駅伝制が整うことによる国力整備増強)

問:通道陂澤,隨山濬川,

策を問う、道を通ぜしめ、・沢や沼をふさぎ、山に沿い河を深くさらう。

之理,疏奠之術,

そのように、古から、道を切り開く工法やふさがっている所をくりぬいて通じさせる土木術策があるのである。

抑有可觀,其來尚矣。

そもそも見るべき手本があり、その由来は久しいものかある。

初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。

洎後代控引淮海,漕通涇渭,

後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

因舟楫之利,達倉庾之儲。

これによって、引き船法であるとか、航行法の策定により水運の利益が増大した、当然、天子の御蔵と穀物蔵には貯蔵を栄えさせたのだ。

 (7) Q-3-#1

問う:道を通じ 澤を陂ぎ,山に隨い川を濬う,

理あり,疏奠の術ある,

抑も觀る可き有り,其の來れるや尚し。

初め聖人 溝洫に盡力し,國に隄防を為すを作す有り,

後代に洎んで 淮と海を控引し,涇渭を漕ぎ、通ず,

因って舟楫の利あり,倉庾の儲を達す。

 

(8) Q-3-#2

又賴此而殷,亦行之自久。

また交通整備にともなって、地域は発展し、その地域間の流通も発展し、事業は長く続けられた。

近者有司相土,決彼支渠,

最近、司功参軍の治める土地は戦争によってみだれてしまい、溝渠をつぶしてしまったり、運河、渠水を決壊、崩壊させた。

既潰渭而亂河,竟功多而事寢。

既に渭水の灌漑はつぶされ、あまつさえ重要な黄河を乱れさせてしまったのだ、結局、労役ばかり多くなった挙げ句の果てに、水路輸送はうまくゆかず遮断してしまった。

人實勞止,岸乃善崩。

安史の乱により、人々は骨を折って疲れ果て、手入れをしない川岸はしばしば崩れるようになった。

遂使委輸之勤,中道而棄。

こうしてとうとう物資輸送の勤めも中途で投げ出されているのである。

又た此に賴りて殷んに,亦た之を行うこと自ら久し。

近者 司 相いに土有り,彼の支渠を決す,

既に渭を潰して河を亂し,竟に功多くして事寢す。

人 實に勞止し,岸 乃ち 善く崩す。

遂に委輸の勤めをせしめ,中道にして棄てしむ。

 

(9) Q-3-#3

今軍用蓋寡,國儲未贍,

今、軍事用工事は非常に多くしなければならないのに、国の蓄えについてはいまだ安史の乱は平定しないので満たされる段階ではない。

雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。

遠方の江南からの穀物を大量に都に輸送する必要があるというのに、肝腎の運送用の車がほとんどないのである。

是以國朝仗彼天使,徵茲水工,

此の経済状況に問題があるというわけで朝廷は、かの天子の使いだされた、「治水作業をする者を徴集せよ」と。

議下淇園之竹,更鑿商顏之井。

漢の時代に淇園の竹を下して堰堤とすることを議し、商顔の井戸を穿って洛水をひいたように土木工事をしようとしている。

又恐煩費居多,績用莫立,

またそこに問題があり、工事費用が膨大だということであり、実績を上げることが出来ないだけでなく計画すらできないのである。

空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。

雲を集めた様に大勢で鋤を荷ってもなにもできず空しいことである、また堤防をつくっていってもすぐに黄河の水が流してしまって泥水になるのである。

今 軍用 蓋ぞ寡なからん、國儲 未だ贍たず。

遠方の粟が大いに来たると雖も、而して助挽の車 給するなし。

是を以て 國朝 彼の天使に杖り、茲の水工を徴す。

議して 淇園の竹を下し、更に商顔の井を鑿たしむ。

又た 恐るらくは煩費多きに居り、績用立つる莫し。

空しく成雲の挿を荷ひ、復だ 填淤の泥に擁がれん。

 

(10) Q-3-#4

若然,則舟車之用,大小相妨矣;

軍國之食,轉致或闕矣。

矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。

子等飽隨時之要,挺賓王之資,

乎求賢,敷厥讜議。

洛陽 函谷関002 

 

『乾元元年華州試進士策問五首』 現代語訳と訳註

(本文) (9) Q-3-#3

今軍用蓋寡,國儲未贍,

雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。

是以國朝仗彼天使,徵茲水工,

議下淇園之竹,更鑿商顏之井。

又恐煩費居多,績用莫立,

空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。

 

(下し文)

今 軍用 蓋ぞ寡なからん、國儲 未だ贍たず。

遠方の粟が大いに来たると雖も、而して助挽の車 給するなし。

是を以て 國朝 彼の天使に杖り、茲の水工を徴す。

議して 淇園の竹を下し、更に商顔の井を鑿たしむ。

又た 恐るらくは煩費多きに居り、績用立つる莫し。

空しく成雲の挿を荷ひ、復だ 填淤の泥に擁がれん。

 

(現代語訳)

今、軍事用工事は非常に多くしなければならないのに、国の蓄えについてはいまだ安史の乱は平定しないので満たされる段階ではない。

遠方の江南からの穀物を大量に都に輸送する必要があるというのに、肝腎の運送用の車がほとんどないのである。

此の経済状況に問題があるというわけで朝廷は、かの天子の使いだされた、「治水作業をする者を徴集せよ」と。

漢の時代に淇園の竹を下して堰堤とすることを議し、商顔の井戸を穿って洛水をひいたように土木工事をしようとしている。

またそこに問題があり、工事費用が膨大だということであり、実績を上げることが出来ないだけでなく計画すらできないのである。

雲を集めた様に大勢で鋤を荷ってもなにもできず空しいことである、また堤防をつくっていってもすぐに黄河の水が流してしまって泥水になるのである。

 

 

(訳注)   (9) Q-3-#3 (安史の乱による交通手段の遮断)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

 

今軍用蓋寡,國儲未贍,

今、軍事用工事は非常に多くしなければならないのに、国の蓄えについてはいまだ安史の乱は平定しないので満たされる段階ではない。

 

雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。

遠方の江南からの穀物を大量に都に輸送する必要があるというのに、肝腎の運送用の車がほとんどないのである。

○遠方 長安地方の穀物飢饉で特に比較的江南

 

是以國朝仗彼天使,徵茲水工,

此の経済状況に問題があるというわけで朝廷は、かの天子の使いだされた、「治水作業をする者を徴集せよ」と。

 

議下淇園之竹,更鑿商顏之井。

漢の時代に淇園の竹を下して堰堤とすることを議し、商顔の井戸を穿って洛水をひいたように土木工事をしようとしている。

淇園之竹 淇水の竹園の竹をここに持ってきて堤防、堰堤工事しようということ。三皇五帝の時代からの堰堤工事に竹は必要不可欠のものである。木杭を打ちこみ、竹を編み、割石を入れ、蛇籠にしたりして工事をする。『詩経、衛風、竹竿』衛国の淇水のほとりには竹が多い。ここの竹を使って長安近郊の穀倉地帯の渠水、灌漑用水の堤防工事に使用された。『詩経、衛風、竹竿』「籊籊竹竿、以釣于淇。豈不爾思、遠莫致之。泉源在左、淇水在右。」『漢書』巻二九溝洫志に「上乃使汲仁、郭昌発卒数萬人塞瓠子決河。(中 略)令群臣従容自将軍以ト皆負薪反決河。是時東都焼草、以故薪柴少、而下淇園之竹以為揵。」とある。

商顔 陝西省商山のこと。大禹は「水路の流れをよくする」(濬う)方法を採って治水して、山にぶつかると山を開いて、坂にぶつかると堤防を築いて、水路の流れをよくして、流れの勢いに沿って導いて、最後、洪水を海に導くことに成功した。

 

又恐煩費居多,績用莫立,

またそこに問題があり、工事費用が膨大だということであり、実績を上げることが出来ないだけでなく計画すらできないのである。

 

空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。

雲を集めた様に大勢で鋤を荷ってもなにもできず空しいことである、また堤防をつくっていってもすぐに黄河の水が流してしまって泥水になるのである。
Ta唐 長安近郊圖  新02 

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (8) Q-3-#2》 杜甫index-14 764年 (8) Q-3-#2 杜甫<772> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4265 杜甫詩1500-772-1024/2500index-21

最近、司功参軍の治める土地は戦争によってみだれてしまい、溝渠をつぶしてしまったり、運河、渠水を決壊、崩壊させた。既に渭水の灌漑はつぶされ、あまつさえ重要な黄河を乱れさせてしまったのだ、結局、労役ばかり多くなった挙げ句の果てに、水路輸送はうまくゆかず遮断してしまった。

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (8) Q-3-#2》 杜甫index-14 764 (8) Q-3-#2 杜甫<772> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4265 杜甫詩1500-772-1024/2500index-21


        
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 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (8) Q-3-#2》 杜甫index-14 764年 (8) Q-3-#2 杜甫<772> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4265 杜甫詩1500-772-1024/2500index-21 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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(7) Q-3-#1 (陸上水路整備によるの駅伝制が整うことによる国力整備増強)

問:通道陂澤,隨山濬川,

策を問う、道を通ぜしめ、・沢や沼をふさぎ、山に沿い河を深くさらう。

之理,疏奠之術,

そのように、古から、道を切り開く工法やふさがっている所をくりぬいて通じさせる土木術策があるのである。
抑有可觀,其來尚矣。

そもそも見るべき手本があり、その由来は久しいものかある。

初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。

洎後代控引淮海,漕通涇渭,

後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

因舟楫之利,達倉庾之儲。

これによって、引き船法であるとか、航行法の策定により水運の利益が増大した、当然、天子の御蔵と穀物蔵には貯蔵を栄えさせたのだ。

 (7) Q-3-#1

問う:道を通じ 澤を陂ぎ,山に隨い川を濬う,

理あり,疏奠の術ある,

抑も觀る可き有り,其の來れるや尚し。

初め聖人 溝洫に盡力し,國に隄防を為すを作す有り,

後代に洎んで 淮と海を控引し,涇渭を漕ぎ、通ず,

因って舟楫の利あり,倉庾の儲を達す。

 

(8) Q-3-#2

又賴此而殷,亦行之自久。

また交通整備にともなって、地域は発展し、その地域間の流通も発展し、事業は長く続けられた。

近者有司相土,決彼支渠,

最近、司功参軍の治める土地は戦争によってみだれてしまい、溝渠をつぶしてしまったり、運河、渠水を決壊、崩壊させた。

既潰渭而亂河,竟功多而事寢。

既に渭水の灌漑はつぶされ、あまつさえ重要な黄河を乱れさせてしまったのだ、結局、労役ばかり多くなった挙げ句の果てに、水路輸送はうまくゆかず遮断してしまった。

人實勞止,岸乃善崩。

安史の乱により、人々は骨を折って疲れ果て、手入れをしない川岸はしばしば崩れるようになった。

遂使委輸之勤,中道而棄。

こうしてとうとう物資輸送の勤めも中途で投げ出されているのである。

又た此に賴りて殷んに,亦た之を行うこと自ら久し。

近者 司 相いに土有り,彼の支渠を決す,

既に渭を潰して河を亂し,竟に功多くして事寢す。

人 實に勞止し,岸 乃ち 善く崩す。

遂に委輸の勤めをせしめ,中道にして棄てしむ。
 (9) Q-3
-#3

今軍用蓋寡,國儲未贍,

雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。

是以國朝仗彼天使,徵茲水工,

議下淇園之竹,更鑿商顏之井。

又恐煩費居多,績用莫立,

空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。

 (10) Q-3-#4

若然,則舟車之用,大小相妨矣;

軍國之食,轉致或闕矣。

矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。

子等飽隨時之要,挺賓王之資,

乎求賢,敷厥讜議。

 

隋堤01 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文) (8) Q-3-#2

又賴此而殷,亦行之自久。

近者有司相土,決彼支渠,

既潰渭而亂河,竟功多而事寢。

人實勞止,岸乃善崩。

遂使委輸之勤,中道而棄。

 

(下し文) (8) Q-3-#2

又た此に賴りて殷んに,亦た之を行うこと自ら久し。

近者 司 相いに土有り,彼の支渠を決す,

既に渭を潰して河を亂し,竟に功多くして事寢す。

人 實に勞止し,岸 乃ち 善く崩す。

遂に委輸の勤めをせしめ,中道にして棄てしむ。

 

(現代語訳)

また交通整備にともなって、地域は発展し、その地域間の流通も発展し、事業は長く続けられた。

最近、司功参軍の治める土地は戦争によってみだれてしまい、溝渠をつぶしてしまったり、運河、渠水を決壊、崩壊させた。

既に渭水の灌漑はつぶされ、あまつさえ重要な黄河を乱れさせてしまったのだ、結局、労役ばかり多くなった挙げ句の果てに、水路輸送はうまくゆかず遮断してしまった。

安史の乱により、人々は骨を折って疲れ果て、手入れをしない川岸はしばしば崩れるようになった。

こうしてとうとう物資輸送の勤めも中途で投げ出されているのである。

京兆地域図00 

(訳注) (8) Q-3-#2 (安史の乱による交通手段の遮断)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

 

又賴此而殷,亦行之自久。

また交通整備にともなって、地域は発展し、その地域間の流通も発展し、事業は長く続けられた。

 

近者有司相土,決彼支渠,

最近、司功参軍の治める土地は戦争によってみだれてしまい、溝渠をつぶしてしまったり、運河、渠水を決壊、崩壊させた。

○通済渠・永済渠・山陽瀆がみだれる。

 

既潰渭而亂河,竟功多而事寢。

既に渭水の灌漑はつぶされ、あまつさえ重要な黄河を乱れさせてしまったのだ、結局、労役ばかり多くなった挙げ句の果てに、水路輸送はうまくゆかず遮断してしまった。

○事寢 事:水路輸送の事業。寝:やめる。すたれる。

 

 

人實勞止,岸乃善崩。

安史の乱により、人々は骨を折って疲れ果て、手入れをしない川岸はしばしば崩れるようになった。

○この時期、長安への江南からの食糧は

 

遂使委輸之勤,中道而棄。

こうしてとうとう物資輸送の勤めも中途で投げ出されているのである。

○委:捨てる。捨て置く。身棄てる。
洛陽 函谷関002 

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (7) Q-3-#1》 杜甫index-14 764年 (7) Q-3-#1 杜甫<771> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4260 杜甫詩1500-771-1023/2500index-21

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

        
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 孟郊張籍     
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 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (7) Q-3-#1》 杜甫index-14 764年 (7) Q-3-#1 杜甫<771> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4260 杜甫詩1500-771-1023/2500index-21 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
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 薛濤の全詩花間集(1)花間集(2)花間集(3)花間集(4)花間集(5) 
 魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (7) Q-3-#1》 杜甫index-14 764 (7) Q-3-#1 杜甫<771>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4260 杜甫詩1500-771-1023/2500index-21


(Q-1)

(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

 

(Q-2)

(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

 

(Q-3)

(安史の乱による交通手段の遮断、陸上水路整備による駅伝制が整うことによる国領増強はできるのか?)

 

(Q-4)

(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

 

(Q-5)

(三皇五帝の時代は質素倹約につとめ、仁徳ある施政、物理にのっとる政治を行ったが、現在、安史の乱を終わらせるためにとったウイグル援軍への多大な負担は国家財政を破たんに近いもので、それを補てんするための鋳造比率を悪化させて発行量を驚愕に増加させたことは、穀物の不作とで過激なインフレーションを起こしていることに対しての意見を述べることを求めている。)

 

 

 

(7) Q-3-#1(陸上水路整備によるの駅伝制が整うことによる国力整備増強)

問:通道陂澤,隨山濬川,

策を問う、道を通ぜしめ、・沢や沼をふさぎ、山に沿い河を深くさらう。

之理,疏奠之術,

そのように、古から、道を切り開く工法やふさがっている所をくりぬいて通じさせる土木術策があるのである。

抑有可觀,其來尚矣。

そもそも見るべき手本があり、その由来は久しいものかある。

初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。

洎後代控引淮海,漕通涇渭,

後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

因舟楫之利,達倉庾之儲。

これによって、引き船法であるとか、航行法の策定により水運の利益が増大した、当然、天子の御蔵と穀物蔵には貯蔵を栄えさせたのだ。

 (7) Q-3-#1

問う:道を通じ 澤を陂ぎ,山に隨い川を濬う,

理あり,疏奠の術ある,

抑も觀る可き有り,其の來れるや尚し。

初め聖人 溝洫に盡力し,國に隄防を為すを作す有り,

後代に洎んで 淮と海を控引し,涇渭を漕ぎ、通ず,

因って舟楫の利あり,倉庾の儲を達す。

 (8) Q-3-#2

又賴此而殷,亦行之自久。

近者有司相土,決彼支渠,

既潰渭而亂河,竟功多而事寢。

人實勞止,岸乃善崩。

遂使委輸之勤,中道而棄。

(9) Q-3-#3

今軍用蓋寡,國儲未贍,

雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。

是以國朝仗彼天使,徵茲水工,

議下淇園之竹,更鑿商顏之井。

又恐煩費居多,績用莫立,

空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。

(10) Q-3-#4

若然,則舟車之用,大小相妨矣;

軍國之食,轉致或闕矣。

矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。

子等飽隨時之要,挺賓王之資,

乎求賢,敷厥讜議。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文) (7) Q-3-#1

問:通道陂澤,隨山濬川,

之理,疏奠之術,

抑有可觀,其來尚矣。

初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,

洎後代控引淮海,漕通涇渭,

因舟楫之利,達倉庾之儲。

 

(下し文) (7) Q-3-#1

問う:道を通じ 澤を陂ぎ,山に隨い川を濬う,

理あり,疏奠の術ある,

抑も觀る可き有り,其の來れるや尚し。

初め聖人 溝洫に盡力し,國に隄防を為すを作す有り,

後代に洎んで 淮と海を控引し,涇渭を漕ぎ、通ず,

因って舟楫の利あり,倉庾の儲を達す。

 

(現代語訳)

策を問う、道を通ぜしめ、・沢や沼をふさぎ、山に沿い河を深くさらう。

そのように、古から、道を切り開く工法やふさがっている所をくりぬいて通じさせる土木術策があるのである。

そもそも見るべき手本があり、その由来は久しいものかある。

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。

後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

これによって、引き船法であるとか、航行法の策定により水運の利益が増大した、当然、天子の御蔵と穀物蔵には貯蔵を栄えさせたのだ。

 

(訳注) (7) Q-3-#1 (陸上水路整備によるの駅伝制が整うことによる国領増強)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

 

問:通道陂澤,隨山濬川,

策を問う、道を通ぜしめ、・沢や沼をふさぎ、山に沿い河を深くさらう。

○濬川 船の航行が潤達になされるよう川をさらう。安史軍が占領している地域を避けて水陸の交通をよくすることをいう。

 

之理,疏奠之術,

そのように、古から、道を切り開く工法やふさがっている所をくりぬいて通じさせる土木術策があるのである。

 経路を開く。/(/)とは。 (1) 短い手紙启礼状.(2) 開く,開ける开启開く.(3) 指導する,教える.→启(4) 始める,開始する启行出発する.(5) 《翰》申し述べる。

疏奠 ふさがっているところを通じる。 きりひらいて通すこと。

 

抑有可觀,其來尚矣。

そもそも見るべき手本があり、その由来は久しいものかある。

○この二句は、古代より、灌漑治水は皇帝の大きな事業であった。三皇五帝は黄河の氾濫による治水がある。三皇に扱われ、水神の神と言われている共工(現在のチャン族)と方船に乗って洪水を逃れた伏羲、女媧兄妹(現在のミャオ族)。五帝の時代では、天文を観察して暦を作らせた堯が天子を務めた時に、またも黄河の氾濫が起き、治水工事を夏王朝の初代皇帝、禹の父鯀(現在の越人)に託し、その工事に失敗すると殷の始祖と言われている舜に依頼し、舜が天子になった時に禹に治水工事を完成させた。

 

初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,

古代、聖人は田畑をめぐる溝を作ることに力を尽くし、国家は国力を高めるために堤防を次々に築いた。

○溝洫:田問の掘り割りの水、広さ深さが四尺あるものを溝といい、広さ深さが八尺あるものを池という。 杜甫『輿任城許圭簿遊南池』「秋水通溝洫,城隅進小船。晚涼看洗馬,森木亂鳴蟬。菱熟經時雨,蒲荒八月天。晨朝降白露,遙憶舊青氈。」

秋の水が田んぼ間の掘り割りに縦横に通じている、それでその水路を利用して県城の隅から小さな船を進めて南池の方へでかけた。

途中では涼しくなった夕がた、人が馬を洗ってやっていた。しげり立った木にはうるさく蝉が鳴いていた。

菱はこのごろ長くつづいた雨のために成熟している。八月の秋空に蒲などは枯れかかりつつある。

明け方白露おりていた、考えてみると二十四節気の白露である。 遥かにおもいだす故郷の書斎にのこしてあるあの青毛氈のことである。與任城許主簿游南池 杜甫

○隄防 国力を高めるために国家事業の大半を占める。

 

洎後代控引淮海,漕通涇渭,

後代になってからは、江南の物資を洛陽長安に大量輸送のために淮水と長江を結んだ山陽瀆、舟運のため涇水と渭水の間は穀倉地帯であり灌漑用水と運河を作ったのである。

○淮海 淮は淮河であり、海は長江で通済渠【つうさいきょ】中国,黄河中流と淮河(わいが)を結ぶ水路。隋の煬帝(ようだい)が開いた大運河の根幹をなす。605年開通。大運河の一部である山陽瀆(さんようとく)(淮河と長江を結ぶ水路)と江南河(長江と銭塘江(せんとうこう)を結ぶ水路)を経て杭州に達する。汴河(べんが)。永済渠】中国,黄河中流と天津を連絡する水路。隋の煬帝が開いた大運河の根幹をなす。608年開通。衛河。

○この二句 中国では年は運河網による輸送が大量輸送の基本である。漕通 運河による交通。

 

因舟楫之利,達倉庾之儲。

これによって、引き船法であるとか、航行法の策定により水運の利益が増大した、当然、天子の御蔵と穀物蔵には貯蔵を栄えさせたのだ。

○庾之儲 露天の穀物倉はゆたかにたくわえられた。
長安と洛陽の大地図0048 

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下知の使節には満足を与え、往来の主客にはしかるべき処遇をすること。民衆には織物を納めると手元には何も残らないという嘆きを終わりにさせ、官吏にはゆったりできる方策を考えてもらいたいのである。私は慎んで諸君の新しい意見を待ち望む

        
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(4) Q-2-#1(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

問:國有軺車,廬有飲食,

(Q-2)策問する、国には国軍の隊列に導軺車に続いて軍事物資を運ぶ従軺車を用意するようになっている。そうすることで軍隊の一宿衛、軍営するところで飲食物をとることができる。(府兵制の崩壊以後募兵によるものであることをいう。)

古之按風俗、遣使臣,

四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということで、まず、使節を派遣することについていう。

在王官之一守,得馳傳而分命。

地方をいくつかに分けて、まず王を置くと、王という官職はその一国を守ることであり、通常通達は駅伝制により命令をあちこちに配布できるようにさせ、王から、州府へ、県令へと分担して通達される。

蓋地有要害,郊有遠近,

それからその王の領地に要の地と害の地があるということ、要の地は郊外とし遠郊と近郊によって守りの役割を分けた。

供給之比,省費相懸。

そこで、土地によって中央への供するものと給付とこれを正当に比較するのである。省くものと必要不可欠な消費物資についてもそれぞれ関係性を考えて分けていくことである。

 (4) Q-2-#1

問う:國には 軺車有り,廬には 飲食有り。

古には之れ 風俗を按じ、使臣を遣す,

王官は之れ一守に在り,馳傳は而して分命を得。

蓋し地は 要と害 有り,郊は 遠と近 有り。

供と給は 之れ比するものなり,省と費は 相いに懸るものなり。

 

(5) Q-2-#2

今茲華惟襟帶,關逼輦轂,

今、ここ華州という地は黄河の三河の襟元であり、長安と洛陽を結ぶ軍事防衛の最重要地点であり、潼関は両都の天子の御車の通過する際の天下の剣という場所である。

行人受辭於朝夕,使者相望於道路,

都を出立した旅する使者たちは辞令を朝と夕とに天子から受け、使者は互いに目的地を臨んでこの地から北と東に道路をとることになる。

屬年無蓄積之虞,職司有愁痛之歎。

しかし今年の暮にあたって、関中は飢饉となり、華州司功参軍でも穀物の備蓄か全くなく、幕府役職にある者たちは憂いに沈んでいる。

況軍書未,王命急宣,

それにもまして、各地は不穏で軍事の書簡が絶えずここを通ってゆく、天子の勅命が急に下くだることばかりである。

插羽先翥於騰鷹,敝帷不供於埋馬,

而も緊急を要す「檄」の「羽根」を添えたものがおおく、飛ぶ鷹より迅速に飛びいたるための負担は多大なものになる、それに供された馬は無理をさせるため死んでしまうが破れたとばりでさえ、馬を埋めるのに供されないのであるから、なおさらである。

豈芻粟之勤獨爾,實驂騑之價闕如。

どうして普段馬に充分な馬草の供給をし尽くしているのであるがこのようなことになるのであろうか、添え馬をもっと買う資力に欠けているのであって、それを充たすことができないのである。

今 茲れ華は惟れ襟帶なり,關は輦轂に逼る。

行人 辭を朝夕に受け,使者 相い望んで道路に於いてする。

屬【このごろ】年 蓄積の虞【そな】え無く,職司 愁痛の歎有り。

況んや軍書 未だえず,王命 急に宣せらる。

插羽 先づ 騰鷹に翥し,敝帷 埋馬に供えざるなり,

豈に芻粟の勤 獨りありしか,驂騑の價 闕如するを實らん。

 (6) Q-2-#3

人主之軫念,屢及於茲;

天子はこの資金不足のことに心痛めておられ、そしてしばしば朝儀でこのことに及んでおられた。

邦伯之分憂,何敢怠?

州・郡・縣刺史かこの資金不足の憂えを分かち合うことを、今までなんら怠っていたわけではない。

乞恩難再,近日已降水衡之錢;

しかし、天子の恩恵を乞うことはこれ以上望めないのである。なぜなら、直近のこと水衡の銭の鋳造の命が下されたばかりだからである。

積骨頗多,無暇更入燕王之市。

確かに死んだ馬の骨はすこぶる多く高く積まれた、燕王の市の故事のいう「死馬且買之五百金」に入る暇もない。

欲使輶軒有喜,主客合宜,

天子の下知の使節には満足を与え、往来の主客にはしかるべき処遇をすること。

閭閻罷杼軸之嗟,官吏得從容之計,

民衆には織物を納めると手元には何も残らないという嘆きを終わりにさせ、官吏にはゆったりできる方策を考えてもらいたいのである。

側佇嘉論,當聞濟時。

私は慎んで諸君の新しい意見を待ち望む、きっと今の時代を難儀から救う手だてを聞けるだろうと期待するところである。

人主の軫念、屡々茲に及び、

邦伯の分憂、何ぞ嘗て敢えて怠らんや。

恩を乞ふは再びし難く、近日已に水衡の賤を降さる。

積骨頗る多く、更に燕王の市に入るに暇無し。

輶軒をして喜び有らしめ、主客をして宜しきに合せしめ、

閤閣をして抒軸の嗟きを罷めしめ、官吏をして従容の計を得しめんと欲す。

側ちて新居を佇つ。当に時を済うを開くべし。

 

京兆地域図00 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文) (6) Q-2-#3

人主之軫念,屢及於茲;

邦伯之分憂,何敢怠?

乞恩難再,近日已降水衡之錢;

積骨頗多,無暇更入燕王之市。

欲使輶軒有喜,主客合宜,

閭閻罷杼軸之嗟,官吏得從容之計,

側佇嘉論,當聞濟時。

 

(下し文)

人主の軫念、屡々茲に及び、

邦伯の分憂、何ぞ嘗て敢えて怠らんや。

恩を乞ふは再びし難く、近日已に水衡の賤を降さる。

積骨頗る多く、更に燕王の市に入るに暇無し。

輶軒をして喜び有らしめ、主客をして宜しきに合せしめ、

閤閣をして抒軸の嗟きを罷めしめ、官吏をして従容の計を得しめんと欲す。

側ちて新居を佇つ。当に時を済うを開くべし。

 

(現代語訳)

天子はこの資金不足のことに心痛めておられ、そしてしばしば朝儀でこのことに及んでおられた。

州・郡・縣刺史かこの資金不足の憂えを分かち合うことを、今までなんら怠っていたわけではない。

しかし、天子の恩恵を乞うことはこれ以上望めないのである。なぜなら、直近のこと水衡の銭の鋳造の命が下されたばかりだからである。

確かに死んだ馬の骨はすこぶる多く高く積まれた、燕王の市の故事のいう「死馬且買之五百金」に入る暇もない。

天子の下知の使節には満足を与え、往来の主客にはしかるべき処遇をすること。

民衆には織物を納めると手元には何も残らないという嘆きを終わりにさせ、官吏にはゆったりできる方策を考えてもらいたいのである。

私は慎んで諸君の新しい意見を待ち望む、きっと今の時代を難儀から救う手だてを聞けるだろうと期待するところである。

 

 

(訳注) (6) Q-2-#3(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

洛陽 函谷関002 

人主之軫念,屢及於茲;

天子はこの資金不足のことに心痛めておられ、そしてしばしば朝儀でこのことに及んでおられた。

○軫念【しんねん】天子が心を痛めること。また、天子の心。

 

邦伯之分憂,何敢怠?

州・郡・縣刺史かこの資金不足の憂えを分かち合うことを、今までなんら怠っていたわけではない。

○邦伯 州府・県令、刺史

 

乞恩難再,近日已降水衡之錢;

しかし、天子の恩恵を乞うことはこれ以上望めないのである。なぜなら、直近のこと水衡の銭の鋳造の命が下されたばかりだからである。

○水衡之錢 前漢の上林苑に大規模な鋳銭所を設置し、水衡都尉(漢代の官職名)に所属する三官(鍾官、技巧、弁銅)に鋳銭を行なわせ、三官にて鋳工された五銖銭以外の五銖銭(郡国五銖銭、赤側五銖銭)の流通を禁止し、諸郡国の鋳銭所を廃止させると同時に、銅原料(旧銭も含む)を三官に集めさせた。この政策により郡国、民間での盗鋳、私鋳は激減する様になった。ここはこの水衡錢と同じように朝廷が含有率を変えて1050倍鋳造していた。

 

積骨頗多,無暇更入燕王之市。

確かに死んだ馬の骨はすこぶる多く高く積まれた、燕王の市の故事のいう「死馬且買之五百金」に入る暇もない。

○燕王之市 戦国時代、燕の郭隗が、燕の昭王に、天下の賢者を招くには先づ自分を用いよ、と述べた言葉の中にある喩え話を踏まえる。君主から千里の馬を買うよう命じられた両人(小間使)か、死んだ馬の骨を五百斤で買って帰ると、王は怒るが、涓人は「死馬且買之五百金,況生馬乎?天下必以王為能市馬,馬今至矣。」と答えたという話。一日に千里を走る名馬を買うために、使者は千金を持って出かけた。しかし使者は、すでに死んでいたその名馬の骨を五百金で買って帰ってきた。王が怒ると、使者は「死んだ馬の骨にさえ五百金も払うという噂が広まれば、王は馬の値打ちがわかるという評判が広がり、必ず生きた名馬を売り込みにくるでしょう」と言った。その後、一年も経たないうちに千里を走る名馬を、王は三頭も手に入れたという。「戦国策」燕策の故事。

 

欲使輶軒有喜,主客合宜,

天子の下知の使節には満足を与え、往来の主客にはしかるべき処遇をすること。

 

閭閻罷杼軸之嗟,官吏得從容之計,

民衆には織物を納めると手元には何も残らないという嘆きを終わりにさせ、官吏にはゆったりできる方策を考えてもらいたいのである。

○杼軸之嗟 「杼軸」は、機を織る道具。「杼軸之嗟」は、公の税の取り立てが察しいために、村の女の手元に布帛か全く残らないことをいうのであろう。唐初期の生産量が3倍くらいになったことで価値が1/3になり、税負担は三倍になったことをいう。

 

 

側佇嘉論,當聞濟時。

私は慎んで諸君の新しい意見を待ち望む、きっと今の時代を難儀から救う手だてを聞けるだろうと期待するところである。

○濟時 時世の困難を救う意。杜甫の。「洗兵行」に「二三豪俊為時出,整頓乾坤濟時了。」(二三の豪傑【ごうけつ】時の為めに野で、乾坤【けんこん】を整頓して時を済【すく】い了【おわ】る。)とある。

これらの豪傑は時代を救わんがために出てきて天地の乱れたのを整えて時代を救い終わったのである。
二三豪傑 上に列挙した人々をさす、万人に徳をするものを俊、千人に徳をするものを豪というという。〇 その時世。○整頓乾坤 天地のかたむきみだれているのを正しくととのえなおす。○済時 時代を難儀から救う。
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (5) Q-2-#2》 杜甫index-14 764 (5) Q-2-#2 杜甫<769>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4250 杜甫詩1500-769-1021/2500index-21

 

 

(4) Q-2-#1(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

問:國有軺車,廬有飲食,

Q-2策問する、国には国軍の隊列に導軺車に続いて軍事物資を運ぶ従軺車を用意するようになっている。そうすることで軍隊の一宿衛、軍営するところで飲食物をとることができる。(府兵制の崩壊以後募兵によるものであることをいう。)

古之按風俗、遣使臣,

四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということで、まず、使節を派遣することについていう。

在王官之一守,得馳傳而分命。

地方をいくつかに分けて、まず王を置くと、王という官職はその一国を守ることであり、通常通達は駅伝制により命令をあちこちに配布できるようにさせ、王から、州府へ、県令へと分担して通達される。

蓋地有要害,郊有遠近,

それからその王の領地に要の地と害の地があるということ、要の地は郊外とし遠郊と近郊によって守りの役割を分けた。

供給之比,省費相懸。

そこで、土地によって中央への供するものと給付とこれを正当に比較するのである。省くものと必要不可欠な消費物資についてもそれぞれ関係性を考えて分けていくことである。

 (4) Q-2-#1

問う:國には 軺車有り,廬には 飲食有り。

古には之れ 風俗を按じ、使臣を遣す,

王官は之れ一守に在り,馳傳は而して分命を得。

蓋し地は 要と害 有り,郊は 遠と近 有り。

供と給は 之れ比するものなり,省と費は 相いに懸るものなり。

 

(5) Q-2-#2

今茲華惟襟帶,關逼輦轂,

今、ここ華州という地は黄河の三河の襟元であり、長安と洛陽を結ぶ軍事防衛の最重要地点であり、潼関は両都の天子の御車の通過する際の天下の剣という場所である。

行人受辭於朝夕,使者相望於道路,

都を出立した旅する使者たちは辞令を朝と夕とに天子から受け、使者は互いに目的地を臨んでこの地から北と東に道路をとることになる。

屬年無蓄積之虞,職司有愁痛之歎。

しかし今年の暮にあたって、関中は飢饉となり、華州司功参軍でも穀物の備蓄か全くなく、幕府役職にある者たちは憂いに沈んでいる。

況軍書未,王命急宣,

それにもまして、各地は不穏で軍事の書簡が絶えずここを通ってゆく、天子の勅命が急に下くだることばかりである。

插羽先翥於騰鷹,敝帷不供於埋馬,

而も緊急を要す「檄」の「羽根」を添えたものがおおく、飛ぶ鷹より迅速に飛びいたるための負担は多大なものになる、それに供された馬は無理をさせるため死んでしまうが破れたとばりでさえ、馬を埋めるのに供されないのであるから、なおさらである。

豈芻粟之勤獨爾,實驂騑之價闕如。

どうして普段馬に充分な馬草の供給をし尽くしているのであるがこのようなことになるのであろうか、添え馬をもっと買う資力に欠けているのであって、それを充たすことができないのである。

今 茲れ華は惟れ襟帶なり,關は輦轂に逼る。

行人 辭を朝夕に受け,使者 相い望んで道路に於いてする。

屬【このごろ】年 蓄積の虞【そな】え無く,職司 愁痛の歎有り。

況んや軍書 未だえず,王命 急に宣せらる。

插羽 先づ 騰鷹に翥し,敝帷 埋馬に供えざるなり,

豈に芻粟の勤 獨りありしか,驂騑の價 闕如するを實らん。

 (6) Q-2-#3

人主之軫念,屢及於茲;

邦伯之分憂,何敢怠?

乞恩難再,近日已降水衡之錢;

積骨頗多,無暇更入燕王之市。

欲使軒有喜,主客合宜,

閭閻罷杼軸之嗟,官吏得從容之計,

側佇嘉論,當聞濟時。

京兆地域図00 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文)  (5) Q-2-#2

今茲華惟襟帶,關逼輦轂,

行人受辭於朝夕,使者相望於道路,

屬年無蓄積之虞,職司有愁痛之歎。

況軍書未,王命急宣,

插羽先翥於騰鷹,敝帷不供於埋馬,

豈芻粟之勤獨爾,實驂騑之價闕如。

 

 

(下し文) (5) Q-2-#2

今 茲れ華は惟れ襟帶なり,關は輦轂に逼る。

行人 辭を朝夕に受け,使者 相い望んで道路に於いてする。

屬【このごろ】年 蓄積の虞【そな】え無く,職司 愁痛の歎有り。

況んや軍書 未だえず,王命 急に宣せらる。

插羽 先づ 騰鷹に翥し,敝帷 埋馬に供えざるなり,

豈に芻粟の勤 獨りありしか,驂騑の價 闕如するを實らん。

 

(現代語訳)

今、ここ華州という地は黄河の三河の襟元であり、長安と洛陽を結ぶ軍事防衛の最重要地点であり、潼関は両都の天子の御車の通過する際の天下の剣という場所である。

都を出立した旅する使者たちは辞令を朝と夕とに天子から受け、使者は互いに目的地を臨んでこの地から北と東に道路をとることになる。

しかし今年の暮にあたって、関中は飢饉となり、華州司功参軍でも穀物の備蓄か全くなく、幕府役職にある者たちは憂いに沈んでいる。

それにもまして、各地は不穏で軍事の書簡が絶えずここを通ってゆく、天子の勅命が急に下くだることばかりである。

而も緊急を要す「檄」の「羽根」を添えたものがおおく、飛ぶ鷹より迅速に飛びいたるための負担は多大なものになる、それに供された馬は無理をさせるため死んでしまうが破れたとばりでさえ、馬を埋めるのに供されないのであるから、なおさらである。

どうして普段馬に充分な馬草の供給をし尽くしているのであるがこのようなことになるのであろうか、添え馬をもっと買う資力に欠けているのであって、それを充たすことができないのである。

 

 

(訳注) (5) Q-2-#(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

洛陽 函谷関002 

今茲華惟襟帶,關逼輦轂,

今、ここ華州という地は黄河の三河の襟元であり、長安と洛陽を結ぶ軍事防衛の最重要地点であり、潼関は両都の天子の御車の通過する際の天下の剣という場所である。

・華惟襟帶 華州が山河に周りを囲まれた要害の地であることをいう。華州は華山の 北に位置し、黄河が中央を流れ、長安と洛陽を結ふ交通の要衝である。

・關逼輦轂 潼関と函谷関は天子の東都と長安の両都を結ぶ最も重要な関所である。地図(o-3)地点の東40kmに函谷関がある。潼関・函谷関は陸路防衛で重要であり、華州司功参軍は黄河が南下して東流するその90度流れを帰る地点の長安防衛の最重要地点である。

 

行人受辭於朝夕,使者相望於道路,

都を出立した旅する使者たちは辞令を朝と夕とに天子から受け、使者は互いに目的地を臨んでこの地から北と東に道路をとることになる。

・使者相望 使者たちは、この地点でまず北と東に別れることをいう。

 

屬年無蓄積之虞,職司有愁痛之歎。

しかし今年の暮にあたって、関中は飢饉となり、華州司功参軍でも穀物の備蓄か全くなく、幕府役職にある者たちは憂いに沈んでいる。

・愁痛之歎 750年代以降飢饉の年が多く、この年も夏旱、秋長雨と収穫は思うようになされていない。したがって賦税の徴収に問題が発生することを憂うのである。

 

況軍書未,王命急宣,

それにもまして、各地は不穏で軍事の書簡が絶えずここを通ってゆく、天子の勅命が急に下くだることばかりである。

王命急宣 天子の勅命が急に下ること。

 

插羽先翥於騰鷹,敝帷不供於埋馬,

而も緊急を要す「檄」の「羽根」を添えたものがおおく、飛ぶ鷹より迅速に飛びいたるための負担は多大なものになる、それに供された馬は無理をさせるため死んでしまうが破れたとばりでさえ、馬を埋めるのに供されないのであるから、なおさらである。

・插羽 兵の召状に鳥の羽を添えること。羽に挿むのは、急ぎの「檄」の時には「羽根」て示す速達をいう。早馬を提供する必要があり、各駅での乗り継ぎの準備が大変である。数頭一緒に走るため、華州司功参軍でもかなりの出費になることを示す。

・埋馬 早馬で無理をさせるため次々と馬が死ぬが幔幕でくるめて埋葬するのが間に合わないことをいう。ここでは、死んだ馬を埋めるのに使われる敞帷が多すぎて足らない、つまり物資が不足していることをいうのである。

 

豈芻粟之勤獨爾,實驂騑之價闕如。

どうして普段馬に充分な馬草の供給をし尽くしているのであるがこのようなことになるのであろうか、添え馬をもっと買う資力に欠けているのであって、それを充たすことができないのである。

實驂騑 倍馬の両側にある馬。添え馬。通常は四頭で一頭添え馬でゆっくり無理をせずに走らせるが、倍の頭数にして短距離を疾走させ、替え馬を繰り返して次の駅まで行くので死ぬのである。
長安と洛陽の大地図0048

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (4) Q-2-#1》 杜甫index-14 764年 (4) Q-2-#1 杜甫<768> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4245 杜甫詩1500-768-1020/2500index-21

策問する、国には国軍の隊列に導軺車に続いて軍事物資を運ぶ従軺車を用意するようになっている。そうすることで軍隊の一宿衛、軍営するところで飲食物をとることができる。(府兵制の崩壊以後募兵によるものであることをいう。)四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということで、まず、使節を派遣することについていう。


        
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (4) Q-2-#1》 杜甫index-14 764 (4) Q-2-#1 杜甫<768>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4245 杜甫詩1500-768-1020/2500index-21

 

 

(4) Q-2-#1(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

問:國有軺車,廬有飲食,

(Q-2)策問する、国には国軍の隊列に導軺車に続いて軍事物資を運ぶ従軺車を用意するようになっている。そうすることで軍隊の一宿衛、軍営するところで飲食物をとることができる。(府兵制の崩壊以後募兵によるものであることをいう。)

古之按風俗、遣使臣,

四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということで、まず、使節を派遣することについていう。

在王官之一守,得馳傳而分命。

地方をいくつかに分けて、まず王を置くと、王という官職はその一国を守ることであり、通常通達は駅伝制により命令をあちこちに配布できるようにさせ、王から、州府へ、県令へと分担して通達される。

蓋地有要害,郊有遠近,

それからその王の領地に要の地と害の地があるということ、要の地は郊外とし遠郊と近郊によって守りの役割を分けた。

供給之比,省費相懸。

そこで、土地によって中央への供するものと給付とこれを正当に比較するのである。省くものと必要不可欠な消費物資についてもそれぞれ関係性を考えて分けていくことである。

 (4) Q-2-#1

問う:國には 軺車有り,廬には 飲食有り。

古には之れ 風俗を按じ、使臣を遣す,

王官は之れ一守に在り,馳傳は而して分命を得。

蓋し地は 要と害 有り,郊は 遠と近 有り。

供と給は 之れ比するものなり,省と費は 相いに懸るものなり。

 

(5) Q-2-#2

今茲華惟襟帶,關逼輦轂,

行人受辭於朝夕,使者相望於道路,

屬年無蓄積之虞,職司有愁痛之歎。

況軍書未,王命急宣,

插羽先翥於騰鷹,敝帷不供於埋馬,

豈芻粟之勤獨爾,實驂騑之價闕如。

(6) Q-2-#3

人主之軫念,屢及於茲;

邦伯之分憂,何敢怠?

乞恩難再,近日已降水衡之錢;

積骨頗多,無暇更入燕王之市。

欲使軒有喜,主客合宜,

閭閻罷杼軸之嗟,官吏得從容之計,

側佇嘉論,當聞濟時。

 

 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文) (4) Q-2-#1

問:國有軺車,廬有飲食,

古之按風俗、遣使臣,

在王官之一守,得馳傳而分命。

蓋地有要害,郊有遠近,

供給之比,省費相懸。

 

(下し文)

(4) Q-2-#1

問う:國には 軺車有り,廬には 飲食有り。

古には之れ 風俗を按じ、使臣を遣す,

王官は之れ一守に在り,馳傳は而して分命を得。

蓋し地は 要と害 有り,郊は 遠と近 有り。

供と給は 之れ比するものなり,省と費は 相いに懸るものなり。

京兆地域図00 

 

(現代語訳)

Q-2策問する、国には国軍の隊列に導軺車に続いて軍事物資を運ぶ従軺車を用意するようになっている。そうすることで軍隊の一宿衛、軍営するところで飲食物をとることができる。(府兵制の崩壊以後募兵によるものであることをいう。)

四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということで、まず、使節を派遣することについていう。

地方をいくつかに分けて、まず王を置くと、王という官職はその一国を守ることであり、通常通達は駅伝制により命令をあちこちに配布できるようにさせ、王から、州府へ、県令へと分担して通達される。

それからその王の領地に要の地と害の地があるということ、要の地は郊外とし遠郊と近郊によって守りの役割を分けた。

そこで、土地によって中央への供するものと給付とこれを正当に比較するのである。省くものと必要不可欠な消費物資についてもそれぞれ関係性を考えて分けていくことである。

 

 

(訳注) (4) Q-2-#1(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。杜甫作品の代表作、『北征』はウイグル援軍に異議を唱え、『三吏三別』では人民の生活苦、徴兵制について疑問を投げかけ、「乾元元年華州試進士策問五首」では経済問題、朝廷の家臣登用、選定について批判的に述べている

 

問:國有軺車,廬有飲食,

Q-2策問する、国には国軍の隊列に導軺車に続いて軍事物資を運ぶ従軺車を用意するようになっている。そうすることで軍隊の一宿衛、軍営するところで飲食物をとることができる。(府兵制の崩壊以後募兵によるものであることをいう。)

國有軺車 ・導軺車:戦車戦の衰退後,車馬行列が社会的地位の誇示といった意味に変化する証左にほかならない。〈導〉を受け持つ隊には,文官・武官の乗る車(導軺車(どうしようしや))が位置する。〈主車〉の直前の〈前駆〉には,前から騎吏・伍伯と続き,これらは人ばらいをして〈主車〉の警備にあたる騎士・歩卒である。…

・従軺車(じゆうしようしや)(主人の秘書官などが乗る),従輧車(じゆうへいしや)(主人の夫人などの女性が乗る),従輜車(じゆうししや)(戦争では軍需物を載せるが,実際は車行にあたっての必要品を積む)などが続く。以上は中小編成の行列であり,それが大編成となると,人員・車数がふえたり二重構成になったりするが,基本的な形は例に挙げたものと変わらない。

廬 ここでは軍隊の一時宿泊する所、軍営をいう。1 草木や竹などを材料としてつくった質素な小屋。僧・隠者などが住む小さな住居や、農作業などの仮小屋。また、自分の家を謙遜していう。草庵(そうあん)。いお。くさのかりや。「―を結ぶ」2 軍隊の一時宿泊する所。軍営。3 紋所の一。庵形の紋。

◍この頃の旅というと、軍隊は当然一切の道具を持参するものであるが、民間、杜甫が官を辞して華州から、秦州、同谷を経て成都に至るまでも家財道具一式、荷車に積んで数名の従者に牽かせているということが当たり前のことで、この策問はQ-1に続いて華州司功参軍と財政、組織、賄などについて質問したもの。

 

古之按風俗、遣使臣,

四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということで、まず、使節を派遣することについていう。

按風俗 国風と習俗をよく理解し、それを踏襲すること。四書五経など古くから上達下達に関してのしきたりは決められた方法で行うということ。。国風:1 その国や地方独特の風俗や習慣。くにぶり。2 詩経の部立ての一。民謡の部分の総称。3 その国の風俗をうたった詩歌・俗謡。習俗:ある地域やある社会で昔から伝わっている風俗や習慣。風習。ならわし。

 

在王官之一守,得馳傳而分命。

地方をいくつかに分けて、まず王を置くと、王という官職はその一国を守ることであり、通常通達は駅伝制により命令をあちこちに配布できるようにさせ、王から、州府へ、県令へと分担して通達される。

得馳傳 駅伝制は、隋・唐で確立した駅伝制。駅伝制の駅を設けるにあたっては,駅馬や駅丁を配置した陸路の駅のほかに,船と丁(水夫)を配置した水駅を設けて舟運を利用することとし,唐代では全国の陸駅1297に対して水駅は260,水陸兼用の駅は86に達した。長安を中心とした各地方につながる道路、水路が整備されていった。道路には、30里(約17km)ごとに駅站(駅館、公営の宿)が置かれ、公文書を運ぶ政府の使者や地方へ赴任し、帰ってくる官僚が利用した。駅站の近くには、往々において民間の宿が存在した。宿の名称の最後には、『駅』、『館』、『店』とつくことが多かった。唐全土には1,639もの駅站が存在し、水駅が260、水陸駅が86か所設置されていた。駅站を理由できる政府関係者は、食糧、運送、宿泊が無料で可能であった。また、道路の五里ごとに『里隔柱』という標識が置かれ、十里ごとに別の標識を立てられた。幹線道路沿いには多数の店舗が建ち並び、交通は大いに発達した。当時の貴族や官僚は外出には車を使わず、馬に乗り、牛車に乗るのは女性が多かった。牛車はまた、運送に利用された。隋代からの駅伝制度を発達させ、駅站は整備され、役人の宿泊や馬の確保に使われた。一等の駅は馬75頭が置かれていた。関津制度によって、水陸の要所に関所が置かれ、旅人や荷を検分して、商人から税を徴収した。また、商業のための往来するために、商人は「過所」という通行証明書を、中央では尚書省、地方では州で発行してもらい、所持する必要があった。紛失した場合、審査の上で再発行となった。過所に許された経路を通れば、遠距離でも行くことができたが、不正に通関しようとしたものは罰を受けた。また、安史の乱以降は、人の動きが活発化して、藩鎮の州や県で「公験」という通行証明書も発行された。唐代の関津制度は、賦役逃れや誘拐、外敵の潜入を防ぐために厳格であった。唐代後半には、軍事伝達が余りに頻繁となり、駅站が増大して、駅伝制度は崩れていった。

而分命 分って命ずる。分担させる。

 

蓋地有要害,郊有遠近,

それからその王の領地に要の地と害の地があるということ、要の地は郊外とし遠郊と近郊によって守りの役割を分けた。

要害 要所に節度使幕府を設置。唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を担うのは刺史を長とする州郡と、その下の県令を長とする県である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。

郊有遠近 都市の五十里までを郊外、行政区分の整備をいう。

 

供給之比,省費相懸。

そこで、土地によって中央への供するものと給付とこれを正当に比較するのである。省くものと必要不可欠な消費物資についてもそれぞれ関係性を考えて分けていくことである。

供と給は 之れ比するものなり,省と費は 相いに懸るものなり。
洛陽 函谷関002 

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (3) Q-1-#3》 杜甫index-14 764年 (3) Q-1-#3 杜甫<767> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4240 杜甫詩1500-767-1019/2500index-21

生活が良くならず、枯渇・貧困を、そうした疲弊を救う理論と実践について、これまで猛勉強してきた諸君が、この策問に対してどのような措置をとるのかを聞きたいと願っている。諸君の考え、きっちりとここにある。どうか高説を述べられることをせよ。


        
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (3) Q-1-#3》 杜甫index-14 764 (3) Q-1-#3 杜甫<767> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4240 杜甫詩1500-767-1019/2500index-21

 

 

乾元元年華州試進士策問五首

(1)Q-1-#1(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

問:古之山林藪澤之地,各以肥磽多少為差。

故供甲兵士徒之役,府庫賜與之用,

給郊廟宗社之祀,奉養祿食之出,

辨乎名物,存乎有司,

是謂公賦知歸、地著不撓者已。

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

次のように試問する:古代より山林や竹薮、水沢などの地は、それぞれ肥沃であるか痩せているかよって等級をつけられている。

そこで、兵士や民衆の労役・官庫や賜物の費用に供出したりすること。

天地や祖先、宗廟・社稜の祭祀や官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費をまかなうに当たったこと。

各々の上地の名産や種類を弁別し、その役目をしかるべき役人に荷わせてきたのである。

これこそ公の賦役には帰すべき所があり、そうしつたことが守られてこそ、人民がその土地に住みつくことを乱さないといえるのである。

(1)Q-1-#1

乾元元年 華州にて進士を試さる策問の五首。

問う:古えの山林藪澤の地は,各の肥磽の多少を以って差と為す。

故に甲兵 士徒の役,府庫 賜與の用を供す,

郊廟 宗社の祀,奉養 祿食の出に給するには

名物を辨じ,乎司を存す。

是れ 公賦 歸するを知り、地著 撓めずと謂う者のみ。

 (2) Q-1-#2

今聖朝紹宣王中興之洪業於上,

庶尹備山甫補袞之能事於下,

而東寇猶小梗,率土未甚辟,

總彼賦之獲,盡贍軍旅之用,是官禦之舊典闕矣。

今の聖朝は、上に立つ者として秀でているものとしては周の宣王が夷狄をしりぞけ、周を中興した偉業を唐の中興の英主として受け継がれておる。

周の中興における下臣にはもろもろの諫言者として仲山甫が天子を輔佐した能力を備えて補佐している。

しかしながら、東で反乱を起こした安史の寇軍はいまだにいくつかの前衛を塞いでおり、天下の海際の果てまで暗雲はまだ充分には開けていない。

そこで政府の大切なことは人民からきちんと賦税をすべて集めること、現地調達をやめて、尽く賦税で軍隊の需要をまかなうこと。これこそは官か天下を統御する古い制度ではあるが朝廷の重要なものなのである。

(2) Q-1-#2

今 聖朝 宣王中興の洪業を上に紹ぎ,

庶尹 山甫 補袞の能事を下に備う,

而れども東寇 猶お 小梗し,率土 未だ甚しく辟【ひら】けず。

彼の賦の獲を總べて,盡く軍旅の用を贍らしむるは,是れ官禦の舊典を闕す。

 (3)Q-1-#3

人神之攸序乖矣;欲使軍旅足食,則賦未能充備矣。

人と神にはこれが秩序であるが、これにそむくことがあるという。現実には軍隊の食料を足らせようとするだけである(賦課を中間が抜く)、すなわち賦税が軍備にあてられず、充分なだけ備えられないということである。

欲將誅求不時,則黎元轉罹於疾苦矣,

そうなるとひっきりなしに税を厳しく取り立てることになるので、人民はますますそれによる苦しみをこうむることになる。

子等以待問之實,知新之明,

これをどう解決すべきか?受験者諸君、試問にはこれを解決すること、新しい理をさとる聡明さをしめすこと。

觀誌氣之所存,於應對乎何有,

その示した理論、考えを、そしてその考えの実施する方法についてどうするのかということを、まとめ書き記してみせたまえ。

佇渴救敝之通術,願聞強學之所措,

生活が良くならず、枯渇・貧困を、そうした疲弊を救う理論と実践について、これまで猛勉強してきた諸君が、この策問に対してどのような措置をとるのかを聞きたいと願っている。

意蓋在此矣,得遊乎?

諸君の考え、きっちりとここにある。どうか高説を述べられることをせよ。

 (3) Q-1-#3

人神の攸序 乖くなるや;軍旅をして足食をら使めんと欲すれば,則ち賦未だ充備する能わず。

將に誅求 時ならざらんと欲すれば,則ち黎元 轉た疾苦に罹【かか】る,

子等 待問の實,知新の明を以ってす,

誌氣の所存を觀せて,應對に於て何をか有らん。

佇して救敝の通術を渴し,願わくば強學の措す所を聞かん,

意は蓋し此に在り,遊得んや?

華州から秦州同谷成都00 

 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文) (3)Q-1-#3

人神之攸序乖矣;欲使軍旅足食,則賦未能充備矣。

欲將誅求不時,則黎元轉罹於疾苦矣,

子等以待問之實,知新之明,

觀誌氣之所存,於應對乎何有,

佇渴救敝之通術,願聞強學之所措,

意蓋在此矣,得遊乎?

 

(下し文) (3) Q-1-#3

人神の攸序 乖くなるや;軍旅をして足食をら使めんと欲すれば,則ち賦未だ充備する能わず。

將に誅求 時ならざらんと欲すれば,則ち黎元 轉た疾苦に罹【かか】る,

子等 待問の實,知新の明を以ってす,

誌氣の所存を觀せて,應對に於て何をか有らん。

佇して救敝の通術を渴し,願わくば強學の措す所を聞かん,

意は蓋し此に在り,遊を得んや?

 

(現代語訳)

人と神にはこれが秩序であるが、これにそむくことがあるという。現実には軍隊の食料を足らせようとするだけである(賦課を中間が抜く)、すなわち賦税が軍備にあてられず、充分なだけ備えられないということである。

そうなるとひっきりなしに税を厳しく取り立てることになるので、人民はますますそれによる苦しみをこうむることになる。

これをどう解決すべきか?受験者諸君、試問にはこれを解決すること、新しい理をさとる聡明さをしめすこと。

その示した理論、考えを、そしてその考えの実施する方法についてどうするのかということを、まとめ書き記してみせたまえ。

生活が良くならず、枯渇・貧困を、そうした疲弊を救う理論と実践について、これまで猛勉強してきた諸君が、この策問に対してどのような措置をとるのかを聞きたいと願っている。

諸君の考え、きっちりとここにある。どうか高説を述べられることをせよ。

8世紀唐と周辺国00 

(訳注)(3)Q-1-#3(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

 

人神之攸序乖矣;欲使軍旅足食,則賦未能充備矣。

人と神にはこれが秩序であるが、これにそむくことがあるという。現実には軍隊の食料を足らせようとするだけである(賦課を中間が抜く)、すなわち賦税が軍備にあてられず、充分なだけ備えられないということである。

 

欲將誅求不時,則黎元轉罹於疾苦矣,

そうなるとひっきりなしに税を厳しく取り立てることになるので、人民はますますそれによる苦しみをこうむることになる。

・誅求不時 時を定めず、厳しく責めて租税を取りたてること。

 

子等以待問之實,知新之明,

これをどう解決すべきか?受験者諸君、試問にはこれを解決すること、新しい理をさとる聡明さをしめすこと。

・待問之實 試問にはこれを解決すること。

・知新 新しい理を知ること。「温故知新」

 

觀誌氣之所存,於應對乎何有,

その示した理論、考えを、そしてその考えの実施する方法についてどうするのかということを、まとめ書き記してみせたまえ。

 

佇渴救敝之通術,願聞強學之所措,

生活が良くならず、枯渇・貧困を、そうした疲弊を救う理論と実践について、これまで猛勉強してきた諸君が、この策問に対してどのような措置をとるのかを聞きたいと願っている。

・救敝「救弊一に同じ。疲弊を救うこと。戦争、飢饉、が続き生活が疲弊していたこと。賦税が払えないものが激増して軍備整えること、増強はさらに難しく状況であった。

 

意蓋在此矣,得遊乎?

諸君の考え、きっちりとここにある。どうか高説を述べられることをせよ。
帽子03 

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (2) Q-1-#2》 杜甫<766> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4235 杜甫詩1500-766-1018/2500index-21

今の聖朝は、上に立つ者として秀でているものとしては周の宣王が夷狄をしりぞけ、周を中興した偉業を唐の中興の英主として受け継がれておる。周の中興における下臣にはもろもろの諫言者として仲山甫が天子を輔佐した能力を備えて補佐している。

        
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (2) Q-1-#2》 杜甫<766> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4235 杜甫詩1500-766-1018/2500index-21


(Q-1)

(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

 

(Q-2)

(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

 

(Q-3)

(安史の乱による交通手段の遮断、陸上水路整備による駅伝制が整うことによる国領増強はできるのか?)

 

(Q-4)

(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

 

(Q-5)

(三皇五帝の時代は質素倹約につとめ、仁徳ある施政、物理にのっとる政治を行ったが、現在、安史の乱を終わらせるためにとったウイグル援軍への多大な負担は国家財政を破たんに近いもので、それを補てんするための鋳造比率を悪化させて発行量を驚愕に増加させたことは、穀物の不作とで過激なインフレーションを起こしていることに対しての意見を述べることを求めている。)

 

  

 

乾元元年華州試進士策問五首
(1)Q-1-#1(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

問:古之山林藪澤之地,各以肥磽多少為差。

次のように試問する:古代より山林や竹薮、水沢などの地は、それぞれ肥沃であるか痩せているかよって等級をつけられている。

故供甲兵士徒之役,府庫賜與之用,

そこで、兵士や民衆の労役・官庫や賜物の費用に供出したりすること。

給郊廟宗社之祀,奉養祿食之出,

天地や祖先、宗廟・社稜の祭祀や官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費をまかなうに当たったこと。

辨乎名物,存乎有司,

各々の上地の名産や種類を弁別し、その役目をしかるべき役人に荷わせてきたのである。

是謂公賦知歸、地著不撓者已。

これこそ公の賦役には帰すべき所があり、そうしつたことが守られてこそ、人民がその土地に住みつくことを乱さないといえるのである。

(1)Q-1-#1

乾元元年 華州にて進士を試さる策問の五首。

問う:古えの山林藪澤の地は,各の肥磽の多少を以って差と為す。

故に甲兵 士徒の役,府庫 賜與の用を供す,

郊廟 宗社の祀,奉養 祿食の出に給するには

名物を辨じ,乎司を存す。

是れ 公賦 歸するを知り、地著 撓めずと謂う者のみ。

 (2) Q-1-#2

今聖朝紹宣王中興之洪業於上,

今の聖朝は、上に立つ者として秀でているものとしては周の宣王が夷狄をしりぞけ、周を中興した偉業を唐の中興の英主として受け継がれておる。

庶尹備山甫補袞之能事於下,

周の中興における下臣にはもろもろの諫言者として仲山甫が天子を輔佐した能力を備えて補佐している。

而東寇猶小梗,率土未甚辟,

しかしながら、東で反乱を起こした安史の寇軍はいまだにいくつかの前衛を塞いでおり、天下の海際の果てまで暗雲はまだ充分には開けていない。

總彼賦之獲,盡贍軍旅之用,是官禦之舊典闕矣。

そこで政府の大切なことは人民からきちんと賦税をすべて集めること、現地調達をやめて、尽く賦税で軍隊の需要をまかなうこと。これこそは官か天下を統御する古い制度ではあるが朝廷の重要なものなのである。

(2) Q-1-#2

今 聖朝 宣王中興の洪業を上に紹ぎ,

庶尹 山甫 補袞の能事を下に備う,

而れども東寇 猶お 小梗し,率土 未だ甚しく辟【ひら】けず。

彼の賦の獲を總べて,盡く軍旅の用を贍らしむるは,是れ官禦の舊典を闕す。

 (3)Q-1-#3

人神之攸序乖矣;欲使軍旅足食,則賦未能充備矣。

欲將誅求不時,則黎元轉罹於疾苦矣,

子等以待問之實,知新之明,

觀誌氣之所存,於應對乎何有,

佇渴救敝之通術,願聞強學之所措,

意蓋在此矣,得遊乎?

 (3) Q-1-#3

人神の攸序 乖くなるや;軍旅をして足食をら使めんと欲すれば,則ち賦未だ充備する能わず。

將に誅求 時ならざらんと欲すれば,則ち黎元 轉た疾苦に罹【かか】る,

子等 待問の實,知新の明を以ってす,

誌氣の所存を觀せて,應對に於て何をか有らん。

佇して救敝の通術を渴し,願わくば強學の措す所を聞かん,

意は蓋し此に在り,遊得んや?

 

yuugure02 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文)  (2) Q-1-#2

今聖朝紹宣王中興之洪業於上,

庶尹備山甫補袞之能事於下,

而東寇猶小梗,率土未甚辟,

總彼賦之獲,盡贍軍旅之用,是官禦之舊典闕矣。

 

(下し文)(2) Q-1-#2

今 聖朝 宣王中興の洪業を上に紹ぎ,

庶尹 山甫 補袞の能事を下に備う,

而れども東寇 猶お 小梗し,率土 未だ甚しく辟【ひら】けず。

彼の賦の獲を總べて,盡く軍旅の用を贍らしむるは,是れ官禦の舊典を闕す。

 

(現代語訳)

今の聖朝は、上に立つ者として秀でているものとしては周の宣王が夷狄をしりぞけ、周を中興した偉業を唐の中興の英主として受け継がれておる。

周の中興における下臣にはもろもろの諫言者として仲山甫が天子を輔佐した能力を備えて補佐している。

しかしながら、東で反乱を起こした安史の寇軍はいまだにいくつかの前衛を塞いでおり、天下の海際の果てまで暗雲はまだ充分には開けていない。

そこで政府の大切なことは人民からきちんと賦税をすべて集めること、現地調達をやめて、尽く賦税で軍隊の需要をにまかなうこと。これこそは官か大下を統御する古い制度ではあるが朝廷の重要なものなのである。

 

(訳注) (2) Q-1-#2(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということである。

この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。

 

今聖朝紹宣王中興之洪業於上,

今の聖朝は、上に立つ者として秀でているものとしては周の宣王が夷狄をしりぞけ、周を中興した偉業を唐の中興の英主として受け継がれておる。

・聖朝 粛宗の朝廷をいう。

中興 周の第十一代の宣王は夷秋を撰い中興をなした。杜甫は希望を込めて肅宗を中興の英主と称した。杜甫の作品で、房琯、鄭虔を偲んで作った詩には肅宗を中興の英主としてうたっている。『憶昔,二首之二』『洗兵行』は同時期に作られたものである。

index杜甫詩 (5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 

-5

 

758年;乾元元年、47

 

193

 

得舎弟消息

 

194

 

逼仄行贈畢曜

 

195

 

送李校書二十六韻

 

196

 

洗兵行 #1

 

 

 

洗兵行 #2

 

 

 

洗兵行 #3

 

 

 

洗兵行 #4

 

 

 

送鄭十八虔貶台州司、傷其臨老隋賊之故閲馬面別情見於詩

 

 

 

有懷台州鄭十八司虔 

 

 

庶尹備山甫補袞之能事於下,

周の中興における下臣にはもろもろの諫言者として仲山甫が天子を輔佐した能力を備えて補佐している。

・山甫 周の宣王の賢臣、仲山甫のこと。周の宣王を補佐して中興を成し遂げた。仲山甫(生没年不詳)樊穆仲、樊仲山父ともいう。周の宣王に仕えた臣。宣王のとき、西戎との戦いに南方諸侯国の兵力を消耗したため、王自らが戸口調査をして徴兵しようとしたのを諫めたが容れられなかった。また、魯の公子ふたりが入朝したとき、宣王は弟の戯を気に入って魯の太子に立てさせようとしたので、これを諫めたが聞き入れられなかった。  『詩経』大雅、蒸民に「保茲天子、生仲山甫。」とある。杜甫や房琯、鄭虔など良い諫言をするものがいたということ。

 

而東寇猶小梗,率土未甚辟,

しかしながら、東で反乱を起こした安史の寇軍はいまだにいくつかの前衛を塞いでおり、天下の海際の果てまで暗雲はまだ充分には開けていない。

・東寇猶小梗 安史軍の安慶緒か東北方面に勢力を保っていることをいう。

・率土 「率土之浜」の略。境域の内。天下中。「持経」小雅、北山に「溥天之下、莫非王土、率土之濱、莫非王臣。」(土地から土地へと続くところは海際の果てまで、そこに住む人間は誰一人として天子の臣でないものはない。)とある。

 

總彼賦之獲,盡贍軍旅之用,是官禦之舊典闕矣。

そこで政府の大切なことは人民からきちんと賦税をすべて集めること、現地調達をやめて、尽く賦税で軍隊の需要をにまかなうこと。これこそは官か大下を統御する古い制度ではあるが朝廷の重要なものなのである。

・古来軍隊の行軍で、現地調達、現地収容という横暴・強制、場合によっては略奪を行ったことがあったこと、この試験の策問として受験者の意識を確かめるものとして適正な問題といえる。
杜甫 体系 地図458華州から秦州 

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首Q-1 -(1)》 杜甫index-14 764年(1)Q-1-#1 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4230 杜甫詩1500-765-1017/2500index-21

そこで、兵士や民衆の労役・官庫や賜物の費用に供出したりすること。天地や祖先、宗廟・社稜の祭祀や官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費をまかなうに当たったこと。各々の土地の名産や種類を弁別し、その役目をしかるべき役人に荷わせてきたのである。

        
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杜甫『乾元元年華州試進士策問五首』

Q-1

問:古之山林藪澤之地,各以肥磽多少為差。故供甲兵士徒之役,府庫賜與之用,給郊廟宗社之祀,奉養祿食之出,辨乎名物,存乎有司,是謂公賦知歸、地著不撓者已。今聖朝紹宣王中興之洪業於上,庶尹備山甫補袞之能事於下,而東寇猶小梗,率土未甚辟,總彼賦之獲,盡贍軍旅之用,是官禦之舊典闕矣。人神之攸序乖矣;欲使軍旅足食,則賦未能充備矣。欲將誅求不時,則黎元轉罹於疾苦矣,子等以待問之實,知新之明,觀誌氣之所存,於應對乎何有,佇渴救敝之通術,願聞強學之所措,意蓋在此矣,得遊乎?

Q-2

問:國有軺車,廬有飲食,古之按風俗、遣使臣,在王官之一守,得馳傳而分命。蓋地有要害,郊有遠近,供給之比,省費相懸。今茲華惟襟帶,關逼輦轂,行人受辭於朝夕,使者相望於道路,屬年無蓄積之虞,職司有愁痛之歎。況軍書未,王命急宣,插羽先翥於騰鷹,敝帷不供於埋馬,豈芻粟之勤獨爾,實驂騑之價闕如。人主之軫念,屢及於茲;邦伯之分憂,何敢怠?乞恩難再,近日已降水衡之錢;積骨頗多,無暇更入燕王之市。欲使軒有喜,主客合宜,閭閻罷杼軸之嗟,官吏得從容之計,側佇嘉論,當聞濟時。

Q-3

問:通道陂澤,隨山濬川,經之理,疏奠之術,抑有可觀,其來尚矣。初聖人盡力溝洫,有國作為隄防,洎後代控引淮海,漕通涇渭,因舟楫之利,達倉庾之儲。又賴此而殷,亦行之自久。近者有司相土,決彼支渠,既潰渭而亂河,竟功多而事寢。人實勞止,岸乃善崩。遂使委輸之勤,中道而棄。今軍用蓋寡,國儲未贍,雖遠方之粟大來,而助挽之車不給。是以國朝仗彼天使,徵茲水工,議下淇園之竹,更鑿商顏之井。又恐煩費居多,績用莫立,空荷成雲之鍤,複擁填淤之泥。若然,則舟車之用,大小相妨矣;軍國之食,轉致或闕矣。矧夫人煙尚稀,牛力不足者已。子等飽隨時之要,挺賓王之資,副乎求賢,敷厥讜議。

Q-4

問:足食足兵,先哲雅誥,蓋有兵無食,是謂棄之。致能掉鞅,靡旌,斯可用矣。況寇猶作梗,兵不可去,日聞將軍之令,親睹司馬之法。關中之卒未息,灞上之營何遠?近者鄭南訓練,城下屯集,瞻彼三千之徒,有異什一而。竊見明發教以戰鬥,亭午放其庸保,課乃菽麥,以為尋常。夫悅以使人,是能用古,伊則雲暮,實慮休止,未卜及瓜之還,交比翳桑之餓。群有司自救不暇,二三子謂之何哉?

Q-5

問:昔唐堯之為君也,則天之大,敬授人時,十六升自唐侯者已;昔帝舜之為臣也,舉禹之功,克平水土,三十登為天子者已。本之以文思聰明,加之以勞身焦思,既睦九族,協和萬邦,黜去四凶,舉十六相,故五帝之後,傳載唐虞之美,無德而稱焉。《易》曰:「君子終日乾乾。」《詩》曰:「文王小心翼翼。」竊觀古人之聖哲,未有不以君唱於上,臣和於下,致乎人和年豐,成乎無為而理者也。主上躬純孝之聖,樹非常之功,則拳拳然事親如有闕,外則悸悸然求賢如不及,伊百姓不知帝力、庶官但恭。已而已。寇孽未平,咎徵之至數也;倉廩未實,物理之固然也。今大軍虎步,列國鶴立,山東之諸將雲合,淇上之捷書日至。二三子議論宏正,詞氣高雅,則遺寢蕩滌之後,聖朝砥礪之辰。雖遭明主,必致之於堯舜;降及元輔,必要之於稷。驅蒼生於仁壽之域,反淳樸於羲皇之上。自古哲王立極,大臣為體,眇然坦途,利往何順,子有否?庶複見子之誌,豈徒瑣瑣射策、趨競一第哉?頃之問孝秀,取備尋常之對,多忽經濟之體,考諸詞學,自有文章在,策以徵事,曷成凡例焉?今愚之粗徵,貴切時務而已。夫時患錢輕,以至於量資幣、權子母。代複改鑄,或行乎前莢、後契刀。當此之際,百姓蒙利厚薄,何人所制輕重?又穀者,所以阜俗康時、聚人守位者也。下至十室之邑,必有千鍾之藏。苟凶穰以之,貴賤失度,雖封丞相而猶困,侯大農而謂何?是以繼表微,無或區分逾越,蒙實不敏,仁遠何哉?

(Q-1)

(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

 

(Q-2)

(軍は整備士増強することが臨まれるが、それ以外のことにも相当な負担を強いられている。人民も物納という税負担の為生産物の価値が下落することで税負担では生活ができない。両者の負担増をどうすればよいのか?

 

(Q-3)

(安史の乱による交通手段の遮断、陸上水路整備による駅伝制が整うことによる国領増強はできるのか?)

 

(Q-4)

(食糧が不足し、その上税負担、兵役負担が増大となるのをどうすべきか)

 

(Q-5)

(三皇五帝の時代は質素倹約につとめ、仁徳ある施政、物理にのっとる政治を行ったが、現在、安史の乱を終わらせるためにとったウイグル援軍への多大な負担は国家財政を破たんに近いもので、それを補てんするための鋳造比率を悪化させて発行量を驚愕に増加させたことは、穀物の不作とで過激なインフレーションを起こしていることに対しての意見を述べることを求めている。)

 

 

洛陽 函谷関002 

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)
(1)Q-1
-#1(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

問:古之山林藪澤之地,各以肥磽多少為差。

次のように試問する:古代より山林や竹薮、水沢などの地は、それぞれ肥沃であるか痩せているかよって等級をつけられている。
故供甲兵士徒之役,府庫賜與之用,

そこで、兵士や民衆の労役・官庫や賜物の費用に供出したりすること。

給郊廟宗社之祀,奉養祿食之出,

天地や祖先、宗廟・社稜の祭祀や官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費をまかなうに当たったこと。

辨乎名物,存乎有司,

各々の土地の名産や種類を弁別し、その役目をしかるべき役人に荷わせてきたのである。

是謂公賦知歸、地著不撓者已。

これこそ公の賦役には帰すべき所があり、そうしつたことが守られてこそ、人民がその土地に住みつくことを乱さないといえるのである。

 (2) Q-1-#2

今聖朝紹宣王中興之洪業於上,

庶尹備山甫補袞之能事於下,

而東寇猶小梗,率土未甚辟,

總彼賦之獲,盡贍軍旅之用,是官禦之舊典闕矣。

(3)Q-1-#3

人神之攸序乖矣;欲使軍旅足食,則賦未能充備矣。

欲將誅求不時,則黎元轉罹於疾苦矣,

子等以待問之實,知新之明,

觀誌氣之所存,於應對乎何有,

佇渴救敝之通術,願聞強學之所措,

意蓋在此矣,得遊乎?

 

(1)Q-1-#1

乾元元年 華州にて進士を試さる策問の五首。

問う:古えの山林藪澤の地は,各の肥磽の多少を以って差と為す。

故に甲兵 士徒の役,府庫 賜與の用を供す,

郊廟 宗社の祀,奉養 祿食の出に給するには

名物を辨じ,乎司を存す。

是れ 公賦 歸するを知り、地著 撓めずと謂う者のみ。

(2) Q-1-#2

今 聖朝 宣王中興の洪業を上に紹ぎ,

庶尹 山甫 補袞の能事を下に備う,

而れども東寇 猶お 小梗し,率土 未だ甚しく辟【ひら】けず。

彼の賦の獲を總べて,盡く軍旅の用を贍らしむるは,是れ官禦の舊典を闕す。

(3) Q-1-#3

人神の攸序 乖くなるや;軍旅をして足食をら使めんと欲すれば,則ち賦未だ充備する能わず。

將に誅求 時ならざらんと欲すれば,則ち黎元 轉た疾苦に罹【かか】る,

子等 待問の實,知新の明を以ってす,

誌氣の所存を觀せて,應對に於て何をか有らん。

佇して救敝の通術を渴し,願わくば強學の措す所を聞かん,

意は蓋し此に在り,遊得んや?

 DCF00106

 

『乾元元年華州試進士策問五首』現代語訳と訳註

(本文) (1) Q-1-#1

問:古之山林藪澤之地,各以肥磽多少為差。

故供甲兵士徒之役,府庫賜與之用,

給郊廟宗社之祀,奉養祿食之出,

辨乎名物,存乎有司,

是謂公賦知歸、地著不撓者已。

 

(下し文)

Q-1 -(1)

乾元元年 華州にて進士を試さる策問五首。

問う:古えの山林藪澤の地は,各の肥磽の多少を以って差と為す。

故に甲兵 士徒の役,府庫 賜與の用を供す,

郊廟 宗社の祀,奉養 祿食の出に給するには

名物を辨じ,乎司を存す。

是れ 公賦 歸するを知り、地著 撓めずと謂う者のみ。

 

(現代語訳)

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

次のように試問する:古代より山林や竹薮、水沢などの地は、それぞれ肥沃であるか痩せているかよって等級をつけられている。

そこで、兵士や民衆の労役・官庫や賜物の費用に供出したりすること。

天地や祖先、宗廟・社稜の祭祀や官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費をまかなうに当たったこと。

各々の土地の名産や種類を弁別し、その役目をしかるべき役人に荷わせてきたのである。

これこそ公の賦役には帰すべき所があり、そうしつたことが守られてこそ、人民がその土地に住みつくことを乱さないといえるのである。

京兆地域図00 

(訳注)

乾元元年華州試進士策問五首

(乾元元年における華州進士を試する策問の五首)

表題の乾元元年(七五八)は、粛宗即位の翌年にあたる。この年の二月に(至徳三載)より乾元(元年)と改元された。この策問が作成された時期について、本文中に「伊歳則云暮」(伊れ歳則ち云うに暮れ)とあることから、十月と考えられる。杜甫か華州に左遷されたのは、同年六月であり、赴任から四ケ月ほど後に作成されたと考えられる。「策問」は、官吏登用試験において経義や政治上の意見を試問すること。「策」は、もともと問題を書いた竹札をいうし、正解を求めるということ、正解の策でどう導くかということである。
この詩は杜甫の『三吏三別』の六首を生む基本的考えの表れた内容のものである。 

 

Q-1 -(1)(租庸調が崩れ、府兵制が崩壊している時において、賦税負担だけで軍を整備増強できる方法はあるか?)

問:古之山林藪澤之地,各以肥磽多少為差。

次のように試問する:古代より山林や竹薮、水沢などの地は、それぞれ肥沃であるか痩せているかよって等級をつけられている。

・肥磽 肥沃であると痩せている。

・差 等級をつけること。

 

故供甲兵士徒之役,府庫賜與之用,

そこで、兵士や民衆の労役・官庫や賜物の費用に供出したりすること。

 

給郊廟宗社之祀,奉養祿食之出,

天地や祖先、宗廟・社稜の祭祀や官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費をまかなうに当たったこと。

・奉養祿食之出 官吏の待遇や官吏に供する扶持米の出費。

 

辨乎名物,存乎有司,

各々の土地の名産や種類を弁別し、その役目をしかるべき役人に荷わせてきたのである。

・辨 ふりわける。弁別すること。

 

是謂公賦知歸、地著不撓者已。

これこそ公の賦役には帰すべき所があり、そうしつたことが守られてこそ、人民がその土地に住みつくことを乱さないといえるのである。

・地著 人民か土地に住み着くこと。
denen03350 

永泰元年764-97-7 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之二》 杜甫index-14 764年(丹旐飛飛日) 杜甫<856> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4225 杜甫詩1500-856-1016/250054

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

        
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承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

いまはなくなった宰相房琯公の霊枢が閬州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。

Index-15

765年永泰元年 杜甫54歳 63

855

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

遠聞房太守,

856

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

丹旐飛飛日,

製作年:765  永泰元年  54

卷別: 巻十四 卷二二九  文體: 五言律詩 

詩題: 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二 

作地點: 雲安(山南東道 / 夔州 / 雲安

及地點:  閬州 (山南西道 閬州 閬州) 別名:閬、巴城     

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京     

陸渾山 (都畿道 河南府 陸渾) 別名:方山 

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)

 

其一  

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

一德興王后,孤魂久客間。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

孔明多故事,安石竟崇班。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

 

其二

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その2

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと閬州から出発したと伝え聞いた。

風塵終不解,江漢忽同流。

兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。

劍動新身匣,書歸故國樓。

今回運ばれる新しいお棺のなかには故房琯公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。

盡哀知有處,為客恐長休。

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)

丹旐【たんちょう】 飛飛たる日、初めて 閬州を発すと伝う。

風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。

剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。

尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん。

 

蜀中転々圖 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其二』 現代語訳と訳註

(本文)

其二   

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

風塵終不解,江漢忽同流。

劍動新身匣,書歸故國樓。

盡哀知有處,為客恐長休。

 

(下し文)

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)

丹旐【たんちょう】 飛飛たる日、初めて 閬州を発すと伝う。

風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。

剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。

尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん。

 

(現代語訳)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その2

あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと閬州から出発したと伝え聞いた。

兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。

今回運ばれる新しいお棺のなかには故房琯公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

 

杜甫詩年譜INDEX00 

(訳注)

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其二

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の二)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

(2)この第二首は洛陽陸渾に帰って哭そうと欲することをいう。

 

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと閬州から出発したと伝え聞いた。

○丹旐 銘旐、これは死者の姓名を記したはたをいう。のぼりのような場合もあり。

 

風塵終不解,江漢忽同流。

兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。

○風塵 兵馬の塵。

○江漢 江は長江、漢は西漢水、すなわち嘉陵江。

○同流 房琯の枢舟と杜甫自身の舟とが同じ流れにうかぶことをいう。

 

劍動新身匣,書歸故國樓。

今回運ばれる新しいお棺のなかには故房琯公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。

○剣動 房公の霊、兵乱を平らげようと欲するかのごとくであることをいう。

○新身匣 匣は剣を入れた新しいはこ、身とは公の屍のことをいう。

○書 書籍、公の愛読したもの。この二句は房琯の二つの実績、一つは剣で、二つは書ということ。

○故国 故郷の河南をいう。

 

盡哀知有處,為客恐長休。

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

○尽哀 一哀を尽くして哭すること。一哀は、「礼記」の檀弓上、曾子問篇にみえる。

○有処 処とは陸津山の公の墓地をさすが、杜甫がわざわざなく場所があるといっているのは、朝廷が763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されており、たしかに途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒したとはいえ、本葬儀に対して朝廷がかかわるべきである。太尉を贈られたのであれば朝廷がかかわる必要があるということをいうのである。作者の旧荘もまた陸渾にあるゆえに陸渾の地と解するのは単純すぎる。763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1) 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500

を全13回にわたって通訳しているので参照されたい。

○長休 休は休止である、『禮記』五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある。そのなかの『儀礼(ぎらい)』は古代中国の官吏階級の通過儀礼である、冠礼、婚礼、喪礼、外交儀礼などを細かく規定したもので、中国の文化の規範としての役割を担ってきたのであること、したがってここで哭せんと欲することが『儀礼』にのとったものでなければ泛ばれないというものである。そのまま哭することを得ずしてやむことをいう。房琯の名誉の為にも朝廷は再考ねがいたいということを思っているのだ。

 

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)

丹旐【たんちょう】 飛飛たる日、初めて 閬州を発すと伝う。

風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。

剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。

尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん

陸渾は下の図の C-7 の位置である。
 

 河南省中南部 陸渾00

永泰元年765-855 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之一》(遠聞房太守) 杜甫index-15 765年 杜甫<855> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4220 杜甫詩1500-855-1015/250053

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

        
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永泰元年765-855 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一》(遠聞房太守) 杜甫index-15 765年 杜甫<855> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4220 杜甫詩1500-855-1015/250053

 

 

757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。

左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護事件」である。

 杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

廣徳2764-88 《別房太尉墓》杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

杜甫詩index-15  765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63

855 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

856 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首)

 

●文

奉謝口敕放三司推問状

祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)

 

○房大尉 宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152   悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月廣徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

764年広徳二年春、閬州より成都に赴こうとして房琯の墓に別れる情をのべた詩『別房太尉墓』がある。作者の文集中に広徳元年九月に作った「故相国清河房公を祭る文」がある。(全唐文にあるものを別に紹介する。)

763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1) 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

いまはなくなった宰相房琯公の霊枢が閬州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。

Index-15

765年永泰元年 杜甫54歳 63

855

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

遠聞房太守,

856

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

丹旐飛飛日,

製作年:765  永泰元年  54

卷別: 巻十四 卷二二九  文體: 五言律詩 

詩題: 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一 

作地點: 雲安(山南東道 / 夔州 / 雲安

及地點:  閬州 (山南西道 閬州 閬州) 別名:閬、巴城     

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京     

陸渾山 (都畿道 河南府 陸渾) 別名:方山 

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)

 

其一   

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その一

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

一德興王后,孤魂久客間。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

孔明多故事,安石竟崇班。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

 

其二    丹旐飛飛日,初傳發閬州。風塵終不解,江漢忽同流。

        劍動新身匣,書歸故國樓。盡哀知有處,為客恐長休。

 

王屋山00 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其一』 現代語訳と訳註

(本文)其一     

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

一德興王后,孤魂久客間。

孔明多故事,安石竟崇班。

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

 

(下し文)

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

 

(現代語訳)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

 

(訳注)

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其一

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

(1)この第一首は房琯を思い雲安の地においてふたたび涙をそそぐことをいう。永泰元年雲安にあっての作。

○承聞 「聞くを承く」、聞だけでもよろしいが東を加えたのはさらに尊ぶためである。

○故房相公 没故した元の宰相 房琯。

○房大尉 宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき肅宗に上皇承諾の使者として霊武に行き宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

)によって房琯を貶されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

764年広徳二年春、閬州より成都に赴こうとして房琯の墓に別れる情をのべた詩。作者の文集中(全唐文)に広徳元年九月に作った祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)には杜甫の房琯に対する思いが一番よくわかるものである。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

 はかりうめ、はひらく、かりうめの場所をあけてはりだす。廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

詩がある。それはかりうめの墓である。

○東都 洛陽。

 

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

○房大尉 房琯は卒して太尉を贈られた。

○陸渾山 河南府嵩県の東北にある山、洛陽から遠くない。籍は河南の人、宰相房融の子で、わかくして学を好み、東平の呂向とともに十年間りくこん山に隠れていたことがある。今没してその山に葬られようとするのである。

・洛陽の陸渾荘にやった継母の盧氏と幼い弟妹たちからの連絡はない。洛陽が奪回されて半年以上もたつのに何の連絡もないのだ。『得舎弟消息』「乱後誰帰得、他郷勝故郷。直為心厄苦、久念与存亡。汝書猶在壁、汝妾已辞房。旧犬知愁恨、垂頭傍我牀。」

得舎弟消息 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 289

重過何氏五首 其五 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 72

・王維が藍田の宋之問の別荘を購入している。宗之問の死から30年経過していてほとんど手入れをされていない状態のものであった。王維は二十数年かけて整理し輞川集を完成させた。杜甫・王維関連年表参照。しかし王維の輞川荘は長安の東南50km藍田にある。

この杜甫の詩の宋之問の別荘は洛陽の北西河南省偃師県にある。高級官僚であるし、武則天は洛陽にほとんどいたので、むしろ偃師県に別荘の利用が多かったかもしれない。宋之問と杜甫の祖父の杜審言と交友があった。

杜甫は、741年開元 二十九年、首陽山の下に室を築き、遠祖当陽君(晋の杜頚)を祭った。また、このとき、陸渾荘を建て,妻を娶る。世話になったおばの死からの喪明けの年とすべてが重なるが、これら一連をやり、李白の後を追って旅に出ることになる。『過宋員外之問舊莊』「宋公舊池館,零落首陽阿。枉道祗從入,吟詩許更過。淹留問耆老,寂寞向山河。更識將軍樹,悲風日暮多。」

過宋員外之問舊莊  杜甫

河南省中南部 陸渾00 

一德興王后,孤魂久客間。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

〇一徳 儒者の基本、一徳とは守りを変えず、一筋に徳を保つことをいう、ここの意は房琯が徳操のあったことをいう。

○興王 中興の天子、粛宗をいう。

○孤魂 地方にさまよって居った房琯の精神、魂は生者の魂をさす。

○久客 地方に流寓していた他の人人。

 

孔明多故事,安石竟崇班。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

○孔明 諸葛亮の字、以て房琯に此する。後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。

○故事 晋の陳寿、筍巌らと諸葛亮の故事二十四篇を定めてたてまつった。故事とは過去の行事をいう。諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。これらを踏まえているということ。

○安石 東晋の謝安の字、これを房琯に此する。東晋の名宰相。字は安石。陳郡陽夏(河南省太康県)が本籍の人であるが,会稽(浙江省)上虞(じようぐ)に寓居して,早くから大人物と目されながら王羲之らと風流自適の生活を楽しみ,40歳を過ぎてはじめて出仕した。中央に地位を占めてからは,東晋を奪おうとする桓温(かんおん)の野望をくじき,383(太元8)には甥の謝玄らを派遣して,南下する前秦苻堅(ふけん)の大軍を淝水(ひすい)に破った(淝水の戦)。行書にも巧みで教養豊かな彼のおおらかな政治のやり方は,貴族政治の典型とされる。

○克崇班 崇班はたかい位をいう、増が卒して大尉を贈られたのは崇班である、訪安も卒して太博を贈られた、故に相い比する。

 

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

○他日 異日、往日の意。

○嘉陵涙 嘉陵は嘉陵江、閬州の西漢水をさす、ここは閬州の房琯の墓にそそいだ涙をさしていう。

○仍 やっぱりということ。

○楚水 楚地の水、夔州府より下流の長江のことを楚水といっている。この地より房琯の枢舟(びつぎぶね)が経過するはずの処をいう。

○還 ゆくというほどの意であるが、洛陽は杜甫の故郷でもあるゆえにかえるといっている。

 

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一)

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(13)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-13> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4215 杜甫詩1500-1501-13-1014/2500

祭礼するのに酒をさし上げるのは当たり前のことだし、古来からの習わしを無視するような事などないようにしないといけないし、心配し、ただしいことをいうものが陳情したり、上奏したならばせめて聞く耳を持たねばなるまい。いつの日にか、旅先におかれたままのもの、仮埋葬の房公のひつぎ、故郷を後にして旅先にいるものたちが、長江を出て、雲が沸き立つのむこうの故郷に帰ることができるだろうか。

        
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 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(13)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-13> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4215 杜甫詩1500-1501-13-1014/2500 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor 
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 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
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(長安での戦は収まらず、房琯公の棺は故郷に帰ることが出来るのだろうか))

(12)六段目-1

乾坤慘慘,豺虎紛紛。

天下は乱れて惨澹たるもので、暗く心をいたませているし、豹や虎の様な反乱者や異民族があっちもこっちも世の中をみだしてきた。

蒼生破碎,諸將功勛;

そこに人民の生活は戦続きで破壊され尽くしてしまった、一方諸将はその戦さで人の苦しみそっちのけで、その論功を競って得た。

城邑自守,鼙鼓相聞。

城郭内や、城外の街でも守りは自衛するほかなく、戦の攻め鼓があちこちから聞こえてくる。

山東雖定,灞上多軍;

安史軍の本拠地の黄河下流域、山東は平定されたというが、黄河上流域、長安のあたりでは吐蕃との戦によって多くの軍隊が出入りする。
憂恨展轉,痛傷氤氳。

みんなは天子の施政に対して心配するばかりでなく、恨むことになっていて、夜も眠れず、寝返りばかりするし、こんなにも生活に困窮し、体制も崩壊している、こんな状態を悲しまずにおれないのである。

 (13) 六段目-2

元豈正色?白亦不分;

もともと房公の身分であればどんな葬儀が正しいのであろうか、『礼記』『儀礼』の古くから守られてきたものとは全く異なったものであり、秋という季節、白い色、善意さえもまた判断できなくなってしまっているのだ。

滿地,昆侖無群。

しかし、今の世にはこれほどまでに墳墓や土饅頭が地上にいっぱいになっている状況になってしまい、崑崙山のような西王母の理想郷の場所は群れをなすことなど今の時代にはないということなのだ。

致祭者酒,陳情者文;

祭礼するのに酒をさし上げるのは当たり前のことだし、古来からの習わしを無視するような事などないようにしないといけないし、心配し、ただしいことをいうものが陳情したり、上奏したならばせめて聞く耳を持たねばなるまい。

何當旅櫬,得出江

いつの日にか、旅先におかれたままのもの、仮埋葬の房公のひつぎ、故郷を後にして旅先にいるものたちが、長江を出て、雲が沸き立つのむこうの故郷に帰ることができるだろうか。

(末文)

嗚呼哀哉!尚饗!

ああ、どちらにしてもこれは哀しいことである。どうかこのお供えを受けて下さり、悲しみの気持ちをお鎮めください。

 

(12)六段目-1

乾坤 慘慘たり,豺虎 紛紛たり。

蒼生 破碎され,諸將 功勛あり;

城邑 自ら守り,鼙鼓 相い聞こゆ。

山東 定めらると雖も,灞上 軍を多くす;

憂い恨みて 展轉し,痛み傷みて 氤氳たり。

(13) 六段目-2

元もと豈に正色ならん?白とすれども亦た 分たず;

塿【つか】を培すは 地に滿ち,昆侖 群する無し。

祭を致す者は酒なり,情を陳ぶる者は文なり;

何【いつ】に當って旅櫬し,江雲に出づるを得ん?

(末文)

嗚呼 哀しい哉!尚【こいねが】わくは饗せよ!

 

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文)  (13) 六段目-2

元豈正色?白亦不分;

滿地,昆侖無群。

致祭者酒,陳情者文;

何當旅櫬,得出江

(末文)

嗚呼哀哉!尚饗!

 

(下し文)

(13) 六段目-2

元もと豈に正色ならん?白らじらと亦た 分たず;

塿【つか】を培すは 地に滿ち,昆侖 群する無し。

祭を致す者は酒なり,情を陳ぶる者は文なり;

何【いつ】に當って旅櫬し,江雲に出づるを得ん?

(末文)

嗚呼 哀しい哉!尚【こいねが】わくは饗せよ!

 

(現代語訳)

もともと房公の身分であればどんな葬儀が正しいのであろうか、『礼記』『儀礼』の古くから守られてきたものとは全く異なったものであり、秋という季節、白い色、善意さえもまた判断できなくなってしまっているのだ。

しかし、今の世にはこれほどまでに墳墓や土饅頭が地上にいっぱいになっている状況になってしまい、崑崙山のような西王母の理想郷の場所は群れをなすことなど今の時代にはないということなのだ。

祭礼するのに酒をさし上げるのは当たり前のことだし、古来からの習わしを無視するような事などないようにしないといけないし、心配し、ただしいことをいうものが陳情したり、上奏したならばせめて聞く耳を持たねばなるまい。

いつの日にか、旅先におかれたままのもの、仮埋葬の房公のひつぎ、故郷を後にして旅先にいるものたちが、長江を出て、雲が沸き立つのむこうの故郷に帰ることができるだろうか。

(末文)

ああ、どちらにしてもこれは哀しいことである。どうかこのお供えを受けて下さり、悲しみの気持ちをお鎮めください。

 

(訳注) (13) 六段目-2

元豈正色?白亦不分;

もともと房公の身分であればどんな葬儀が正しいのであろうか、『礼記』『儀礼』の古くから守られてきたものとは全く異なったものであり、秋という季節、白い色、善意さえもまた判断できなくなってしまっているのだ。

〇元豈正色 もともと房公の身分であればどんな葬儀が正しいのであろうか。・正色 正当な家柄。唐時代は「色」=色目、家柄身分を言った。ここでは葬儀が『礼記』『儀礼』の古くから守られてきたものとは全く異なったものであることをいう。

この時代は出身地、家柄はすべてのことについて回るもので、すべてを決定づけるものである。ただ、宮廷において、由縁組、義兄弟、義親子がまかり通ったのが宦官、宮女の世界だけであった。杜甫は暗号文のようにこの句を作ったのであろう。房琯を死に追いやったこと、死んでも儀例に乗らない非礼に扱ったのも、宦官の為せるものであるということを杜甫は言っているのである。

 

培塿滿地,昆侖無群。

しかし、今の世にはこれほどまでに墳墓や土饅頭が地上にいっぱいになっている状況になってしまい、崑崙山のような西王母の理想郷の場所は群れをなすことなど今の時代にはないということなのだ。

 

致祭者酒,陳情者文;

祭礼するのに酒をさし上げるのは当たり前のことだし、古来からの習わしを無視するような事などないようにしないといけないし、心配し、ただしいことをいうものが陳情したり、上奏したならばせめて聞く耳を持たねばなるまい。

 

何當旅櫬,得出江云?

いつの日にか、旅先におかれたままのもの、仮埋葬の房公のひつぎ、故郷を後にして旅先にいるものたちが、長江を出て、雲が沸き立つのむこうの故郷に帰ることができるだろうか。

〇櫬 棺。

 

(末文)

嗚呼哀哉!尚饗!

ああ、どちらにしてもこれは哀しいことである。どうかこのお供えを受けて下さり、悲しみの気持ちをお鎮めください。

 

 

【解説】

この文には、仮葬儀の様子を簡単に述べていてそれが本来なら、朝廷が何らかの形でやらなければいけない、特に、房琯を再度招集していたのであれば、房琯の葬儀を大きく取り上げれば、房琯の考え方、政策を徹底することに利用できるはずである。特に肅宗が房琯を呼び戻したいとしたのであるからなおさらである。

 しかしこれが全くの裏腹であったということは、房琯の再度召されたのは張后と結託した宦官勢力を少しでも対抗させるためであった。しかし房琯が死んでしまって、表立って朝廷が採りあげることが出来なくなったと考えればすべて理解できることになる。

こうしたことを杜甫たち房琯グループは把握していたし、房琯が再度朝廷に、再度、宰相になれば巻き返しが図れると思っていたから、房琯の死は、杜甫にとってすべてのことを諦めざるを得なくなった出来事と思ったのである。

杜甫のこうした考えを示す詩文は他にはない。

ただ、そのまではっきりはしていないが「乾元元年華州試進士策問五首」房琯グループの考えが示されたものがある。これについてもこのブログで見ていく予定である。

 

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(1)(前文)

 祭故相國清河房公文

維唐廣德元年次癸卯

犯九月辛丑朔二十二日壬戌,

京兆杜甫,敬以醴酒茶藕鯽之奠,

奉祭故相國清河房公之靈曰:

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

唐の廣徳元年癸【みずのと】卯【う】763年である。

月を越え、辛丑が月はじめ(朔)である九月の二十二日の壬戌の日。

長安でお世話になった杜甫が、ここにつつしんで醴酒、茶・レンコンなどのジュンサイ、鯉フナなどの三品をお供えいたします。

今は啼き、宰相であり、清河郡公であった房琯公の霊をお祭り奉り、次のように申し上げる。

 

(唐は優れた宰相達により繁栄を築いた。)

(2)一段目-1

「嗚呼!純樸既散,圣人又歿;

非大賢,孰奉天秩?

唐始受命,群公間出;

君臣和同,德教充溢。

ああ、率直さと大らかさを持った太古の気風はもうすでに消え失せ、古代の聖人もまた亡くなってしまった。

だから「大賢は愚なるが如し」というばかりに賢人はいない、一体誰が天の与えられる幸いを具現する施政をするというのであろうか?

唐の建国はじめには天より命を受けて、すぐれた多くの宰相が相次いで出たのである。

君主と臣下はやちょうわしてひとつになり、徳の教えは帝が率先され、教えは天下にあふれたのであった。

 (3) 一段目-2

魏杜行之,夫何畫一;

婁宋繼之,不墜故實。

年間,見有輔弼;

及公入相,紀綱已失。

太宗に仕えた魏徴や杜如晦が良い施政をおこなうことは、一という字を画くかのように何と明瞭だったことだろうか。

耐える事を教えた婁師徳や宦官の横暴を食い止めた宋璟もその施政を継承して、古くからの仁徳をもとにしたやり方を失わなかった。

建国以来、百年以上の間、皇帝を補佐するすぐれた宰相がいるのを見ることができた。

しかし、房公が宰相として入朝した時には、すでに綱紀は失われていた。

 

(2)一段目

「嗚呼!純樸は既に散じ,圣人も又た歿す;

しくも大賢に非ずんば,孰か天秩を奉ぜん?

唐の始めに命を受けしは,群公 間出す;

君臣 和同し,德教 充溢す。

(3)

魏 杜 之を行う,夫【そもそ】も何の一を畫すごときなり;

婁 宋 之を繼ぎて,故實を墜さず。

 年間,輔弼有るを見る;

公の相に入るに及び,紀綱 已に失わる。

 

 

(綱紀が失われ打ち壊された国家を救おうとした房琯公)

(4) 二段目-1

將帥干紀,煙塵犯闕;

王風寢頓,神器圮裂。

關輔蕭條,乘輿播越。

太子即位,揖讓倉卒;

小臣用權,尊貴倏忽。

高官、武将元帥たちは、綱紀をおかし、戦さの塵はいつ起こってもおかしくないほど朝廷をおかしていたのだった。

唐王朝の格調高い風気はとどこおってゆきづまり、天子のカをしめす宝貴は裂けこわれてしまった。

安史の乱は関中の補給路を断絶し、都は飢餓におちいり、蕭条と風が抜けていくほど荒廃してしまった。玄宗の御輿は遠く成都へと行幸され、おうつりになったあいだのことである。

皇太子が即位され粛宗となられたが、その礼儀の次第は玄宗が知らぬ間にあわただしくとりおこなわれた。

しかし、その功績により、宦官の李輔国は権力をほしいままにふるいはじめた。こうして貴い人々はたちまちおとしめられてゆくのである。

 (5) 二段目-2

公實匡救,忘餐奮發;

累控直詞,空聞泣血。

時遭綅沴,國有征伐;

車駕還京,朝廷就列;

盜本乘弊,誅終不滅;

高義沈埋,赤心蕩折。

貶官厭路,讒口到骨;

致君之誠,在困彌切。

房公は心から国家を救おうとして、食事も忘れて奮闘努力をされた。

度重なる諫言を奉り控えられた、お聞き入れのないままに血の涙をまじえて天子に申し上げた。

その頃は国を滅ぼすほどの悪気に遭遇していたけれど、国中に広がった戦いを征伐することができた。

天子(玄宗・粛宗)の御車は都長安にお帰りになられ、百官はみな朝廷の列位についた。

安史軍(安禄山・安慶緒ら)は、もとより唐王朝の弊害に乗じて起すべくして反乱したので、頭目を誅殺しても本拠地から体制を立て直してきて滅ぼすことが出来ない。

陳涛斜の敗北を理由に官位を貶せられ、路をふさがれた上に、房琯公に対する讒言は骨にまでこたえるほど巌しいものであった。

しかし、我が君にお捧げ申し上げる忠誠心は、このような困難な時においても、いよいよ深くなるばかりだった。

 

(4) 二段目-1

將帥 紀を干し,煙塵 闕を犯す;

王風 寢頓し,神器 圮裂す。

關輔して 蕭條たり,乘輿して 播越す。

太子 即位するも,揖讓は 倉卒たり;

小臣 權を用し,尊貴は倏忽【しゅっこつ】たり。

(5) 二段目-2

公 實に匡救し,忘餐 奮發す;

累ねて 直詞を控え,空しく泣血を聞く。

時に綅沴【しんしん】に遭し,國 征伐する有り;

車駕 京に還し,朝廷 列に就く;

盜は本【もとも】と弊に乘じ,誅 終に滅せず;

高義 沈埋し,赤心 蕩折す。

貶官され 厭路さる,讒口 骨に到る;

君に致すの誠は,困に在りても彌【やや】切なり。

 

(房琯公は退けられ、病に憑かれた)

(6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

偶生賢達,不必際會;

明明我公,可云時代。

賈誼慟哭,雖多顛沛;

仲尼旅人,自有遺愛。

房琯公の天の道理は広いこころではるか先まで包む、その根元の精気のはたらきはそれがひろくはてしないがために理解されにくいのだ。

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。

明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。

漢の賈誼は改革の芽を摘まれ、左遷され、いく度も慟哭したけれども、ついにはつまずき倒れてしまった。

孔子は弟子とともに諸国巡遊の旅に出て、国政に失望したけれど、その仁愛はいつまでもしたわれているのだ。

(7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

後事所委,不在臥

因循寢疾,憔翠無悔;

夭閼泉涂,激揚風

天柱既折,安仰翊戴?

地維則,安放夾載?

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。

 

(6)三段目-1

天道は 闊遠し,元精は茫昧たり。

偶ま賢達を生じるも,不必ずしも際會せず;

明明たる我公,時代と云う可きなり。

賈誼 慟哭する,多くあると雖も顛沛す;

仲尼は旅人なるも,自ずから遺愛有り。

(7) 三段目-2

二圣【にせい】崩ぜし日,長く荒外に號す;

後事 委ぬるに,臥在らず

因循して疾に寢るも,憔翠して悔い無し;

泉涂に夭閼【ようあつ】し,風概を激揚す。

天柱 既に折れ,安んぞ仰ぎて翊戴せん?

地維 則ちたれ,安んぞ放ちて夾載せん?

 

 

(房琯公は国を思い、清廉で徳のある人に対して朝廷は非礼をかえしている)

(8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

不見君子,逝水滔滔。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

有車爰送,有紼爰操。

撫墳日落,劍秋高;

我公戒子,無作爾勞。

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

身瘞萬里,家無一毫。

數子哀過,他人郁陶;

水漿不入,日月其忄舀。』

州府救喪,一二而已;

自古所嘆,罕聞知已。

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

(退けられた房琯公の無実を晴らすことが出来なかった。)

(10)五段目-1

曩者書札,望公再起;

今來禮數,為態至此。

先帝松柏,故梓;

靈之忠孝,氣則依倚。

房公が死ぬ前に 天子から詔勅がよこされ、房公が再びめされ、かつやくすることを望まれていた。

それにしては今、ここになされた葬儀の礼の等級がきめられているというのに、そのありさまといえば、このようなことで天子として為すべきことをされていないのである。

房公であれば先帝の陵墓のように松柏が植えられ、房公の故郷の墓には楡と梓が植えられるのが『儀礼』にしめされているのだ。

忠義心の強い房公の霊は、先帝の陵墓に対して死後の忠義をどうしてできるのか、ここの仮埋葬の墳墓の気配はこんな有様の中でよりどころとするのである。

 (11) )五段目-2

拾遺補闕,視君所履;

公初罷任,人實切齒

甫也備位此官,蓋薄劣耳;

見時危急,敢愛身死?

君何不聞,刑欲加矣;

伏奏無成,終身愧恥。

拾遺として天子を補佐する立場にあるときには天子がなされる儀礼はその法を踏み違いをなされることはないと拝見している。

房公が罪を得て初めて官をおやめになられた時に、心ある人々は本当に歯ぎしりをして悔しい思いをしていた。

その頃、私杜甫は左拾遺の官を頂いておりましたが、考えてみますとそのつとめを充分果しているとはいえなかったのであります。

しかし、安史の乱という国家危急の時あなたが重い罪を被るという危機転立たれるのを見たのであり、国家の為あなたを擁護、弁護することで死も辞さない覚悟をしました。

しかし、天子は全くお聞き入れにならず、あなたに刑を加えようとなさったのだった。

天子に伏してあなたの無実を奏上しながら、聞き入れて頂くことがかなわなかったことは、一生恥辱に思わねばならないことであったのである。

 

(10)五段目-1

曩者【さきごろ】書札あり,公 再起を望む;

今來 禮數といえば,態を為すは此に至る。

先帝には松柏あり,故には枌梓ある;

靈 之れ忠孝なりて,氣は則ち依倚す。

(11) )五段目-2

拾遺 補闕し,君 履めし所を視る;

公 初めて任を罷めん,人 實に切齒す

甫也は 位 此の官に備わるも,蓋し薄劣なるのみ;

時 危急なるを見,敢えて身死すを愛さん?

君 何ぞ聞かざる,刑 加えられんと欲す;

伏奏 成る無し,終身 愧恥す。

 

(長安での戦は収まらず、房琯公の棺は故郷に帰ることが出来るのだろうか))

(12)六段目-1

乾坤慘慘,豺虎紛紛。

天下は乱れて惨澹たるもので、暗く心をいたませているし、豹や虎の様な反乱者や異民族があっちもこっちも世の中をみだしてきた。

蒼生破碎,諸將功勛;

そこに人民の生活は戦続きで破壊され尽くしてしまった、一方諸将はその戦さで人の苦しみそっちのけで、その論功を競って得た。

城邑自守,鼙鼓相聞。

城郭内や、城外の街でも守りは自衛するほかなく、戦の攻め鼓があちこちから聞こえてくる。

山東雖定,灞上多軍;

安史軍の本拠地の黄河下流域、山東は平定されたというが、黄河上流域、長安のあたりでは吐蕃との戦によって多くの軍隊が出入りする。
憂恨展轉,痛傷氤氳。

みんなは天子の施政に対して心配するばかりでなく、恨むことになっていて、夜も眠れず、寝返りばかりするし、こんなにも生活に困窮し、体制も崩壊している、こんな状態を悲しまずにおれないのである。

 (13) 六段目-2

元豈正色?白亦不分;

もともと房公の身分であればどんな葬儀が正しいのであろうか、『礼記』『儀礼』の古くから守られてきたものとは全く異なったものであり、秋という季節、白い色、善意さえもまた判断できなくなってしまっているのだ。

滿地,昆侖無群。

しかし、今の世にはこれほどまでに墳墓や土饅頭が地上にいっぱいになっている状況になってしまい、崑崙山のような西王母の理想郷の場所は群れをなすことなど今の時代にはないということなのだ。

致祭者酒,陳情者文;

祭礼するのに酒をさし上げるのは当たり前のことだし、古来からの習わしを無視するような事などないようにしないといけないし、心配し、ただしいことをいうものが陳情したり、上奏したならばせめて聞く耳を持たねばなるまい。

何當旅櫬,得出江

いつの日にか、旅先におかれたままのもの、仮埋葬の房公のひつぎ、故郷を後にして旅先にいるものたちが、長江を出て、雲が沸き立つのむこうの故郷に帰ることができるだろうか。

(末文)

嗚呼哀哉!尚饗!

ああ、どちらにしてもこれは哀しいことである。どうかこのお供えを受けて下さり、悲しみの気持ちをお鎮めください。

 

(12)六段目-1

乾坤 慘慘たり,豺虎 紛紛たり。

蒼生 破碎され,諸將 功勛あり;

城邑 自ら守り,鼙鼓 相い聞こゆ。

山東 定めらると雖も,灞上 軍を多くす;

憂い恨みて 展轉し,痛み傷みて 氤氳たり。

(13) 六段目-2

元もと豈に正色ならん?白とすれども亦た 分たず;

塿【つか】を培すは 地に滿ち,昆侖 群する無し。

祭を致す者は酒なり,情を陳ぶる者は文なり;

何【いつ】に當って旅櫬し,江雲に出づるを得ん?

(末文)

嗚呼 哀しい哉!尚【こいねが】わくは饗せよ!

 

 

 

  「致君堯舜上,再使風俗淳。」『韋左丞丈に贈り奉る二十二韻』(君を堯と舜の上に致し、再び風俗をして淳あつからしめん)という年来の志を果たすことができようと、杜甫は身の引き締まる思いをしながらも、心からうれしかったのだ。

その左拾遺に任ずる詔書には、

 襄陽の杜甫、爾の才徳は、朕深く之を知る。

  今、特に命じて宜義郎・行在の左拾遺と為す。

  職を授けし後は、宜しく是の職に勤めて怠る

  ことなかるべし。中書侍郎の張鎬に命じ、

  符をもたらして告論せしむ。

  至徳二載五月十六日行。

とあり、杜甫は宜しく是の職に勤めて怠ることなかるべきことを誓った。そうして数日ののち、拾遺の職務に忠実に諌諍を行なったが、粛宗の激怒によって危うく一命を失いそうになる。

 

 諌諍の内容は、杜甫が左拾遺を授けられる六日前、すなわち757年五月十六日に宰相から太子少師の閑職に左遷された房琯の弁護であった。房琯は、蜀にある玄宗のもとから派遣されて粛宗の政府の宰相となっていたが、陳陶斜と青坂での敗戦の責任は、粛宗の信任あつい李泌のとりなしによってなんとか問われなかったものの、粛宗の信頼は失われてしまっていた。また、賀蘭進明・崔円ら粛宗直属の臣と、玄宗のもとから遺わされてきた者との対立、知識人宰相として実務家官僚たちと意見が合わず孤立していた、などという事情を背景とし、直接には、房琯の取り巻きの一人である楽師が宰相への口利き料を取っていたのが露見して収賄罪で告訴され、それを房琯が救けようとした、ということが原因となって左遷されたものであった。

 

 杜甫にとって房琯は、私的には「布衣の交わりを為す」(『新唐書』杜甫伝)つまり地位の上下をぬきに儒者の子弟のようなつき合いをしていたようであるし、また公的には、新政府の宰相として彼以上の人物はいないと信じていたために、房棺が左遷されたのを、そのまま見過ごしておくことはできなかった。そうして、政府内の事情もよくわからないままに、また左拾遺としての慣例などおかまいなしに、わが思うままを述べたてて、「罪は細なり。宜しく大臣を免ずべからず」(『新唐書』杜甫伝)と奏上した。それは実情を考慮することなく、理想に向かって突っ走ろうとする、いかにも杜甫らしい行動であった。

 

「伏奏無成,終身愧恥。」

天子に伏してあなたの無実を奏上しながら、聞き入れて頂くことがかなわなかったことは、一生恥辱に思わねばならないことであったのである。
 


 
貨幣を変えたことで驚異的なインフレーションを起こしているのは朝廷と富貴の者に人民の富を収奪していくことに他ならないのである。

黄河下流域・運河は安史軍に抑えられ、長安洛陽に江南からの物資が届かないことでの物価高騰。

杜甫はその詩で度々述べているが「太夫の士族で税金がかからないから生活ができる」が、税を重くすれば、農民は逃散するということを身をもって体験している。

張皇后と李輔国は表裏一体となって禁中で横車を押し、政事に関与した。贈賄、収賄は日常。粛宗皇帝は不愉快だったが、 何もできなかった。 宦官達は、李輔国の官職さえ口にせず、李輔国を皆、“五郎”と呼んだとある。李輔国は肅宗政権の中で、ウイグル援軍に反対し、清廉で、忠君な者たちの排除を讒言をもって肅宗におこなわせた。それが房琯の一党の左遷である。それを契機に張皇后と李輔国の横暴はエスカレートし、肅宗は縮み込んだ存在になってゆく。肅宗は張皇后・李輔国の宦官勢力に身動き取れない状態に追い込まれ、玄宗と同じように蓬伍するのである。


杜甫は房琯の政策こそが唐を救うものとしていた。
房琯グループは朝廷内での勢いもなければ、政策的にも筋論が基調で説得力に欠けたのである。
 
房琯グループが左遷・解散させられたころの情勢をまとめると次のとおりである。 

  張皇后と李輔国の宦官勢力の横暴。

② 戦争課税を人民を苦しめず現有勢力を整えて上手くやるより、各種増税を人民負担の増加に求めたこと。

③ 悪貨鋳造により、人民収奪、超過激なインフレーションをを引き起こした。

④ 天災飢饉の最中人民を助けないで重税・増税を行った。

⑤ 麻薬のような劇薬ともいえるウイグル軍への安易な援軍要請。(これにより唐の財政破たん衰退がボディーブローのように効いていくことになる)

⑥ 第五琦の主張する江、淮の庸調を売って軽貨とし、江、漢を遡って洋川へ持って行き、そこから先は扶風まで漢中王・禹へ陸送させて軍用とするよう請うた。粛宗皇帝は、 これへ従う。 次いで、第五琦へ山南等五道度支使を加えた。第五琦は塩を専売にして国用にした政策実施は戦時下において的を得たものであったが、その物資は途中安史軍によって略奪されることになり相手の強化に寄与することもある。何より汚職の常態化につながった。。

⑦ 賀蘭進明は宦官グループの代弁者となった。
 

杜甫がどこまでこれらのことを把握していたのか。

房琯グループ、杜甫は完全に把握していたと思われる。ただここまで来ても、宦官勢力のゲシュタポ以上の統率力の前には誰もどうしようもなく、発言も出来なくなっていたのだ。

⑧ 宦官たちは、ある部分唐王朝の利益を守り、維持する大きな要素も持ち合わせていたので、表立っての排除は難しかった。

 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(12)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-12> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4210 杜甫詩1500-1501-12-1013/250066-#2

そこに人民の生活は戦続きで破壊され尽くしてしまった、一方諸将はその戦さで人の苦しみそっちのけで、その論功を競って得た。城郭内や、城外の街でも守りは自衛するほかなく、戦の攻め鼓があちこちから聞こえてくる。


        
 2014年5月17日の紀頌之5つのブログ 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(12) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-12 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4210 杜甫詩1500-1501-12-1013/250066-#2

 

杏の白花012 

(長安での戦は収まらず、房琯公の棺は故郷に帰ることが出来るのだろうか))

(12)六段目-1

乾坤慘慘,豺虎紛紛。

天下は乱れて惨澹たるもので、暗く心をいたませているし、豹や虎の様な反乱者や異民族があっちもこっちも世の中をみだしてきた。

蒼生破碎,諸將功勛;

そこに人民の生活は戦続きで破壊され尽くしてしまった、一方諸将はその戦さで人の苦しみそっちのけで、その論功を競って得た。

城邑自守,鼙鼓相聞。

城郭内や、城外の街でも守りは自衛するほかなく、戦の攻め鼓があちこちから聞こえてくる。

山東雖定,灞上多軍;

安史軍の本拠地の黄河下流域、山東は平定されたというが、黄河上流域、長安のあたりでは吐蕃との戦によって多くの軍隊が出入りする。
憂恨展轉,痛傷氤氳。

みんなは天子の施政に対して心配するばかりでなく、恨むことになっていて、夜も眠れず、寝返りばかりするし、こんなにも生活に困窮し、体制も崩壊している、こんな状態を悲しまずにおれないのである。

 (13) 六段目-2

元豈正色?白亦不分;

滿地,昆侖無群。

致祭者酒,陳情者文;

何當旅櫬,得出江

(末文)

嗚呼哀哉!尚饗!

 

(12)六段目-1

乾坤 慘慘たり,豺虎 紛紛たり。

蒼生 破碎され,諸將 功勛あり;

城邑 自ら守り,鼙鼓 相い聞こゆ。

山東 定めらると雖も,灞上 軍を多くす;

憂い恨みて 展轉し,痛み傷みて 氤氳たり。

(13) 六段目-2

元もと豈に正色ならん?白とすれども亦た 分たず;

塿【つか】を培すは 地に滿ち,昆侖 群する無し。

祭を致す者は酒なり,情を陳ぶる者は文なり;

何【いつ】に當って旅櫬し,江雲に出づるを得ん?

(末文)

嗚呼 哀しい哉!尚【こいねが】わくは饗せよ!

 

姑蘇台02 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文)

(12)六段目-1

乾坤慘慘,豺虎紛紛。

蒼生破碎,諸將功勛;

城邑自守,鼙鼓相聞。

山東雖定,灞上多軍;

憂恨展轉,痛傷氤氳。

 

 

(下し文)

(12)六段目-1

乾坤 慘慘たり,豺虎 紛紛たり。

蒼生 破碎され,諸將 功勛あり;

城邑 自ら守り,鼙鼓 相い聞こゆ。

山東 定めらると雖も,灞上 軍を多くす;

憂い恨みて 展轉し,痛み傷みて 氤氳たり。

 

(現代語訳)

天下は乱れて惨澹たるもので、暗く心をいたませているし、豹や虎の様な反乱者や異民族があっちもこっちも世の中をみだしてきた。

そこに人民の生活は戦続きで破壊され尽くしてしまった、一方諸将はその戦さで人の苦しみそっちのけで、その論功を競って得た。

安史軍の本拠地の黄河下流域、山東は平定されたというが、黄河上流域、長安のあたりでは吐蕃との戦によって多くの軍隊が出入りする。
城郭内や、城外の街でも守りは自衛するほかなく、戦の攻め鼓があちこちから聞こえてくる。

みんなは天子の施政に対して心配するばかりでなく、恨むことになっていて、夜も眠れず、寝返りばかりするし、こんなにも生活に困窮し、体制も崩壊している、こんな状態を悲しまずにおれないのである。

 

 

(訳注) (12)六段目-1

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

乾坤慘慘,豺虎紛紛。

天下は乱れて惨澹たるもので、暗く心をいたませているし、豹や虎の様な反乱者や異民族があっちもこっちも世の中をみだしてきた。

〇乾坤 1 (えき)の卦()の乾と坤。2 天と地。天地。3 陰陽。4 いぬい(北西)の方角とひつじさる(南西)の方角。5二巻で一組となっている書物の、上巻と下巻。

〇慘慘 悲惨、惨澹たるもの。

〇豺虎 安禄山をはじめ、この十年で各地に叛乱者が出た。そこに異民族が侵入してきて略奪、暴行が横行した。

 

蒼生破碎,諸將功勛;

そこに人民の生活は戦続きで破壊され尽くしてしまった、一方諸将はその戦さで人の苦しみそっちのけで、その論功を競って得た。

〇蒼生 多くの人々。人民。あおひとぐさ。蒼氓(そうぼう)

〇功勛 いさおいさおし1 国に尽くしたりっぱな功績。手柄。いさお。

 

城邑自守,鼙鼓相聞。

城郭内や、城外の街でも守りは自衛するほかなく、戦の攻め鼓があちこちから聞こえてくる。

〇鼙鼓 隊列を揃えて進攻するときの太鼓の音。

 

山東雖定,灞上多軍;

安史軍の本拠地の黄河下流域、山東は平定されたというが、黄河上流域、長安のあたりでは吐蕃との戦によって多くの軍隊が出入りする。

〇山東 中原以東、安史軍の本拠地の黄河下流域をいう。

〇灞上 長安地方のこと、長安に入る直前にある㶚水から上流側という意味。

 

憂恨展轉,痛傷氤氳。

みんなは天子の施政に対して心配するばかりでなく、恨むことになっていて、夜も眠れず、寝返りばかりするし、こんなにも生活に困窮し、体制も崩壊している、こんな状態を悲しまずにおれないのである。

〇展轉 (「転展」「転輾」「転顚」などとも書く) ころがること。回転すること。 寝返りを打つこと。

〇氤氳 生気・活力が盛んなさま。「―たる瞑氛(めいふん)が散るともなしに四肢五体に纏綿(てんめん)して」〈漱石・草枕〉
王屋山00 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(11)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-11> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4205 杜甫詩1500-1501-11-1012/250066-#1

安史の乱という国家危急の時あなたが重い罪を被るという危機転立たれるのを見たのであり、国家の為あなたを擁護、弁護することで死も辞さない覚悟をしました。しかし、天子は全くお聞き入れにならず、あなたに刑を加えようとなさったのだった。

        
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(11) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-11 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4205 杜甫詩1500-1501-11-1012/250066-#1

 

 

 

(房琯公は国を思い、清廉で徳のある人に対して朝廷は非礼をかえしている)

(8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

不見君子,逝水滔滔。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

有車爰送,有紼爰操。

撫墳日落,劍秋高;

我公戒子,無作爾勞。

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

身瘞萬里,家無一毫。

數子哀過,他人郁陶;

水漿不入,日月其忄舀。』

州府救喪,一二而已;

自古所嘆,罕聞知已。

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

(退けられた房琯公の無実を晴らすことが出来なかった。)

(10)五段目-1

曩者書札,望公再起;

今來禮數,為態至此。

先帝松柏,故梓;

靈之忠孝,氣則依倚。

房公が死ぬ前に 天子から詔勅がよこされ、房公が再びめされ、かつやくすることを望まれていた。

それにしては今、ここになされた葬儀の礼の等級がきめられているというのに、そのありさまといえば、このようなことで天子として為すべきことをされていないのである。

房公であれば先帝の陵墓のように松柏が植えられ、房公の故郷の墓には楡と梓が植えられるのが『儀礼』にしめされているのだ。

忠義心の強い房公の霊は、先帝の陵墓に対して死後の忠義をどうしてできるのか、ここの仮埋葬の墳墓の気配はこんな有様の中でよりどころとするのである。

 (11) )五段目-2

拾遺補闕,視君所履;

公初罷任,人實切齒

甫也備位此官,蓋薄劣耳;

見時危急,敢愛身死?

君何不聞,刑欲加矣;

伏奏無成,終身愧恥。

拾遺として天子を補佐する立場にあるときには天子がなされる儀礼はその法を踏み違いをなされることはないと拝見している。

房公が罪を得て初めて官をおやめになられた時に、心ある人々は本当に歯ぎしりをして悔しい思いをしていた。

その頃、私杜甫は左拾遺の官を頂いておりましたが、考えてみますとそのつとめを充分果しているとはいえなかったのであります。

しかし、安史の乱という国家危急の時あなたが重い罪を被るという危機転立たれるのを見たのであり、国家の為あなたを擁護、弁護することで死も辞さない覚悟をしました。

しかし、天子は全くお聞き入れにならず、あなたに刑を加えようとなさったのだった。

天子に伏してあなたの無実を奏上しながら、聞き入れて頂くことがかなわなかったことは、一生恥辱に思わねばならないことであったのである。

 

(10)五段目-1

曩者【さきごろ】書札あり,公 再起を望む;

今來 禮數といえば,態を為すは此に至る。

先帝には松柏あり,故には枌梓ある;

靈 之れ忠孝なりて,氣は則ち依倚す。

(11) )五段目-2

拾遺 補闕し,君 履めし所を視る;

公 初めて任を罷めん,人 實に切齒す

甫也は 位 此の官に備わるも,蓋し薄劣なるのみ;

時 危急なるを見,敢えて身死すを愛さん?

君 何ぞ聞かざる,刑 加えられんと欲す;

伏奏 成る無し,終身 愧恥す。

松01 

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文) (11) )五段目-2

拾遺補闕,視君所履;

公初罷任,人實切齒

甫也備位此官,蓋薄劣耳;

見時危急,敢愛身死?

君何不聞,刑欲加矣;

伏奏無成,終身愧恥。

 

(下し文) (11) )五段目-2

拾遺 補闕し,君 履めし所を視る;

公 初めて任を罷めん,人 實に切齒す。

甫也は 位 此の官に備わるも,蓋し薄劣なるのみ;

時 危急なるを見,敢えて身死すを愛さん?

君 何ぞ聞かざる,刑 加えられんと欲す;

伏奏 成る無し,終身 愧恥す。

 

 

(現代語訳)

拾遺として天子を補佐する立場にあるときには天子がなされる儀礼はその法を踏み違いをなされることはないと拝見している。

房公が罪を得て初めて官をおやめになられた時に、心ある人々は本当に歯ぎしりをして悔しい思いをしていた。

その頃、私杜甫は左拾遺の官を頂いておりましたが、考えてみますとそのつとめを充分果しているとはいえなかったのであります。

しかし、安史の乱という国家危急の時あなたが重い罪を被るという危機転立たれるのを見たのであり、国家の為あなたを擁護、弁護することで死も辞さない覚悟をしました。

しかし、天子は全くお聞き入れにならず、あなたに刑を加えようとなさったのだった。

天子に伏してあなたの無実を奏上しながら、聞き入れて頂くことがかなわなかったことは、一生恥辱に思わねばならないことであったのである。

 Ta唐 長安近郊圖  新02

(訳注) (11) )五段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。
 

拾遺補闕,視君所履;

拾遺として天子を補佐する立場にあるときには天子がなされる儀礼はその法を踏み違いをなされることはないと拝見している。

 

公初罷任,人實切齒

房公が罪を得て初めて官をおやめになられた時に、心ある人々は本当に歯ぎしりをして悔しい思いをしていた。

 

甫也備位此官,蓋薄劣耳;

その頃、私杜甫は左拾遺の官を頂いておりましたが、考えてみますとそのつとめを充分果しているとはいえなかったのであります。

 

見時危急,敢愛身死?

しかし、安史の乱という国家危急の時あなたが重い罪を被るという危機転立たれるのを見たのであり、国家の為あなたを擁護、弁護することで死も辞さない覚悟をしました。

 

君何不聞,刑欲加矣;

しかし、天子は全くお聞き入れにならず、あなたに刑を加えようとなさったのだった。

〇刑欲加矣 あなたに刑を加えようとなさったのだった。

  「致君堯舜上,再使風俗淳。」『韋左丞丈に贈り奉る二十二韻』(君を堯と舜の上に致し、再び風俗をして淳あつからしめん)という年来の志を果たすことができようと、杜甫は身の引き締まる思いをしながらも、心からうれしかったのだ。

その左拾遺に任ずる詔書には、

 “襄陽の杜甫、爾の才徳は、朕深く之を知る。

  今、特に命じて宜義郎・行在の左拾遺と為す。

  職を授けし後は、宜しく是の職に勤めて怠る

  ことなかるべし。中書侍郎の張鎬に命じ、

  符をもたらして告論せしむ。

  至徳二載五月十六日行。”

とあり、杜甫は“宜しく是の職に勤めて怠ることなかるべき”ことを誓った。そうして数日ののち、拾遺の職務に忠実に諌諍を行なったが、粛宗の激怒によって危うく一命を失いそうになる。

 

 諌諍の内容は、杜甫が左拾遺を授けられる六日前、すなわち757年五月十六日に宰相から太子少師の閑職に左遷された房琯の弁護であった。房琯は、蜀にある玄宗のもとから派遣されて粛宗の政府の宰相となっていたが、陳陶斜と青坂での敗戦の責任は、粛宗の信任あつい李泌のとりなしによってなんとか問われなかったものの、粛宗の信頼は失われてしまっていた。また、賀蘭進明・崔円ら粛宗直属の臣と、玄宗のもとから遺わされてきた者との対立、知識人宰相として実務家官僚たちと意見が合わず孤立していた、などという事情を背景とし、直接には、房琯の取り巻きの一人である楽師が宰相への口利き料を取っていたのが露見して収賄罪で告訴され、それを房琯が救けようとした、ということが原因となって左遷されたものであった。

 

 杜甫にとって房琯は、私的には「布衣の交わりを為す」(『新唐書』杜甫伝)つまり地位の上下をぬきに儒者の子弟のようなつき合いをしていたようであるし、また公的には、新政府の宰相として彼以上の人物はいないと信じていたために、房棺が左遷されたのを、そのまま見過ごしておくことはできなかった。そうして、政府内の事情もよくわからないままに、また左拾遺としての慣例などおかまいなしに、わが思うままを述べたてて、「罪は細なり。宜しく大臣を免ずべからず」(『新唐書』杜甫伝)と奏上した。それは実情を考慮することなく、理想に向かって突っ走ろうとする、いかにも杜甫らしい行動であった。

 

伏奏無成,終身愧恥。

天子に伏してあなたの無実を奏上しながら、聞き入れて頂くことがかなわなかったことは、一生恥辱に思わねばならないことであったのである。
yuugure02 


 

貨幣を変えたことで驚異的なインフレーションを起こしているのは朝廷と富貴の者に人民の富を収奪していくことに他ならないのである。

黄河下流域・運河は安史軍に抑えられ、長安洛陽に江南からの物資が届かないことでの物価高騰。

杜甫はその詩で度々述べているが「太夫の士族で税金がかからないから生活ができる」が、税を重くすれば、農民は逃散するということを身をもって体験している。

張皇后と李輔国は表裏一体となって禁中で横車を押し、政事に関与した。贈賄、収賄は日常。粛宗皇帝は不愉快だったが、 何もできなかった。 宦官達は、李輔国の官職さえ口にせず、李輔国を、“五郎と呼んだとある。李輔国は肅宗政権の中で、ウイグル援軍に反対し、清廉で、忠君な者たちの排除を讒言をもって肅宗におこなわせた。それが房琯の一党の左遷である。それを契機に張皇后と李輔国の横暴はエスカレートし、肅宗は縮み込んだ存在になってゆく。肅宗は張皇后・李輔国の宦官勢力に身動き取れない状態に追い込まれ、玄宗と同じように蓬伍するのである。


杜甫は房琯の政策こそが唐を救うものとしていた。
房琯グループは朝廷内での勢いもなければ、政策的にも筋論が基調で説得力に欠けたのである。
 
房琯グループが左遷・解散させられたころの情勢をまとめると次のとおりである。 

①   張皇后と李輔国の宦官勢力の横暴。

② 戦争課税を人民を苦しめず現有勢力を整えて上手くやるより、各種増税を人民負担の増加に求めたこと。

③ 悪貨鋳造により、人民収奪、超過激なインフレーションをを引き起こした。

④ 天災飢饉の最中人民を助けないで重税・増税を行った。

⑤ 麻薬のような劇薬ともいえるウイグル軍への安易な援軍要請。(これにより唐の財政破たん衰退がボディーブローのように効いていくことになる)

⑥ 第五琦の主張する江、淮の庸調を売って軽貨とし、江、漢を遡って洋川へ持って行き、そこから先は扶風まで漢中王・禹へ陸送させて軍用とするよう請うた。粛宗皇帝は、 これへ従う。 次いで、第五琦へ山南等五道度支使を加えた。第五琦は塩を専売にして国用にした政策実施は戦時下において的を得たものであったが、その物資は途中安史軍によって略奪されることになり相手の強化に寄与することもある。何より汚職の常態化につながった。。

⑦ 賀蘭進明は宦官グループの代弁者となった。
 

杜甫がどこまでこれらのことを把握していたのか。

房琯グループ、杜甫は完全に把握していたと思われる。ただここまで来ても、宦官勢力のゲシュタポ以上の統率力の前には誰もどうしようもなく、発言も出来なくなっていたのだ。

⑧ 宦官たちは、ある部分唐王朝の利益を守り、維持する大きな要素も持ち合わせていたので、表立っての排除は難しかった。

 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(10)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-10> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4200 杜甫詩1500-1501-10-1011/250065

房公であれば先帝の陵墓のように松柏が植えられ、房公の故郷の墓には楡と梓が植えられるのが『儀礼』にしめされているのだ。忠義心の強い房公の霊は、先帝の陵墓に対して死後の忠義をどうしてできるのか、ここの仮埋葬の墳墓の気配はこんな有様の中でよりどころとするのである。

        
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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(10) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-10 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4200 杜甫詩1500-1501-10-1011/250065

 

 

(房琯公は国を思い、清廉で徳のある人に対して朝廷は非礼をかえしている)

(8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

不見君子,逝水滔滔。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

有車爰送,有紼爰操。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

撫墳日落,劍秋高;

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

我公戒子,無作爾勞。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

身瘞萬里,家無一毫。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

數子哀過,他人郁陶;

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

水漿不入,日月其忄舀。』

水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。
州府救喪,一二而已;

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

自古所嘆,罕聞知已。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

(退けられた房琯公の無実を晴らすことが出来なかった。)

(10)五段目-1

曩者書札,望公再起;

房公が死ぬ前に 天子から詔勅がよこされ、房公が再びめされ、かつやくすることを望まれていた。

今來禮數,為態至此。

それにしては今、ここになされた葬儀の礼の等級がきめられているというのに、そのありさまといえば、このようなことで天子として為すべきことをされていないのである。

先帝松柏,故梓;

房公であれば先帝の陵墓のように松柏が植えられ、房公の故郷の墓には楡と梓が植えられるのが『儀礼』にしめされているのだ。

靈之忠孝,氣則依倚。

忠義心の強い房公の霊は、先帝の陵墓に対して死後の忠義をどうしてできるのか、ここの仮埋葬の墳墓の気配はこんな有様の中でよりどころとするのである。

 (11) )五段目-2

拾遺補闕,視君所履;

公初罷任,人實切齒

甫也備位此官,蓋薄劣耳;

見時危急,敢愛身死?

君何不聞,刑欲加矣;

伏奏無成,終身愧恥。

 

(10)五段目-1

曩者【さきごろ】書札あり,公 再起を望む;

今來 禮數といえば,態を為すは此に至る。

先帝には松柏あり,故にはある

 忠孝なりて,氣依倚

(11) )五段目-2

拾遺 補闕し,君 履めし所を視る;

公 初めて任を罷めん,人 實に切齒す

甫也は 位 此の官に備わるも,蓋し薄劣なるのみ;

時 危急なるを見,敢えて身死すを愛さん?

君 何ぞ聞かざる,刑 加えられんと欲す;

伏奏 成る無し,終身 愧恥す。

松01 

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文) (10)五段目-1

曩者書札,望公再起;

今來禮數,為態至此。

先帝松柏,故枌梓;

靈之忠孝,氣則依倚。

 

(下し文) 五段目-1

曩者【さきごろ】書札あり,公 再起を望む;

今來 禮數といえば,態を為すは此に至る。

先帝には松柏あり,故には枌梓ある;

靈 之れ忠孝なりて,氣は則ち依倚す。

 

(現代語訳)

房公が死ぬ前に 天子から詔勅がよこされ、房公が再びめされ、かつやくすることを望まれていた。

それにしては今、ここになされた葬儀の礼の等級がきめられているというのに、そのありさまといえば、このようなことで天子として為すべきことをされていないのである。

房公であれば先帝の陵墓のように松柏が植えられ、房公の故郷の墓には楡と梓が植えられるのが『儀礼』にしめされているのだ。

忠義心の強い房公の霊は、先帝の陵墓に対して死後の忠義をどうしてできるのか、ここの仮埋葬の墳墓の気配はこんな有様の中でよりどころとするのである。

 

(訳注) (10)五段目-1

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。
 

曩者書札,望公再起;

房公が死ぬ前に 天子から詔勅がよこされ、房公が再びめされ、かつやくすることを望まれていた。

〇書札 天子から詔勅のこと。房公が再びめされたのである。

 

今來禮數,為態至此。

それにしては今、ここになされた葬儀の礼の等級がきめられているというのに、そのありさまといえば、このようなことで天子として為すべきことをされていないのである。

〇禮數 五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』があるが、そのなかの『儀礼』には細やかに儀法がしめされている。

〇為態至此 天子として房公の葬儀に対し、為すべきことをしていない。四段目に明記されていることをいう。

 

先帝松柏,故梓;

房公であれば先帝の陵墓のように松柏が植えられ、房公の故郷の墓には楡と梓が植えられるのが『儀礼』にしめされているのだ。

〇松柏 五行思想で陵墓には東に常緑の松を植え、西に柏を植える。

〇枌梓 西側に植えるのが楡の木で、東には梓の木を植える。

 

靈之忠孝,氣則依倚。

忠義心の強い房公の霊は、先帝の陵墓に対して死後の忠義をどうしてできるのか、ここの仮埋葬の墳墓の気配はこんな有様の中でよりどころとするのである。

〇この二句は房公が黄泉の国で先帝に忠義を尽くすための儀式をきちんとしなければいけないということをいう。

 松03

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(9)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4195 杜甫詩1500-1501-9-1010/250064

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、というありさまなのだ。昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくない。

        
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李太白―(14) 《李白詩全集 卷十四(古近體詩三十四首) 》李白詩 973詩<李太白―(14)> Ⅰ李白詩1129 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4193 
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396-2 《猛虎行〔猛虎行贈李宗閔〕》韓愈(韓退之) Ⅱ韓昌黎集 巻五 <1042>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4194韓愈詩-396-2 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
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 薛濤の全詩花間集(1)花間集(2)花間集(3)花間集(4)花間集(5) 
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(国を思い、清廉で徳のある人房琯公対して朝廷は非礼をかえしている)

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豈無群?我心忉忉。

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泄涕寒谷,吞聲賊壕;

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

有車爰送,有紼爰操。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

撫墳日落,劍秋高;

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

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しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

身瘞萬里,家無一毫。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

數子哀過,他人郁陶;

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。
水漿不入,日月其忄舀。』

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

州府救喪,一二而已;

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

自古所嘆,罕聞知已。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

 (8)四段目-1

豈に群無からん?我が心 忉忉【とうとう】たり。

君子に見【まみ】えざり,逝く水 滔滔【とうとう】たり。

涕を寒谷に泄【もら】し,聲を賊壕に吞む;

車有りて爰【ここ】に送り,紼有りて爰に操る。

墳を撫すれば日落ち,劍をすれば秋高し;

我が公子を戒め,「爾が勞を作す無かれ」と。

(9) 四段目-2

斂するに素帛を以ってし,諸を蓬蒿に付す;

身は萬里に瘞【えい】せられ,家には一毫無し。

數子 哀しみ過ぎり,他人 郁陶たり;

水漿 入らず,日月 其れ慆【す】ぐ。

州府 救喪し,一二 にやむ;

古より嘆く所なり,知已を聞くは罕なり。

 

玄武門 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文)  (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

身瘞萬里,家無一毫。

數子哀過,他人郁陶;

水漿不入,日月其忄舀。』

州府救喪,一二而已;

自古所嘆,罕聞知已。」

 

(下し文) (9) 四段目-2

斂するに素帛を以ってし,諸を蓬蒿に付す;

身は萬里に瘞【えい】せられ,家には一毫無し。

數子 哀しみ過ぎり,他人 郁陶たり;

水漿 入らず,日月 其れ慆【す】ぐ。

州府 救喪し,一二 にやむ;

古より嘆く所なり,知已を聞くは罕なり。

 

(現代語訳)

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

(訳注) (9) 四段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

yuugure02 

斂以素帛,付諸蓬蒿;

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

『儀礼』では、一般士族でさえ、死者を埋葬する場合には、特別の衣装が用いられる。下着である明衣裳には、麻布が用いられ、死者の顔をおおう正方形の布巾、頭をくるむ掩(えん)、黒布製の顔面の覆い、手をくるむ黒布、死者の上半身をかぶせる黒色の袋、下半身をかぶせる赤袋が房の中に一列にならべられる、というもので、また三日間は依代【よりしろ】という棺を木材で作られた台の上におかれるもので、野原に置くとは言語道断ということである。仮埋葬の三日月を経て、正式の埋葬に移るのである。

 

身瘞萬里,家無一毫。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

●この時代の葬儀は、死んだ故人の為、畏敬のためというものもあるが、主君に尽くしてくれた故人が黄泉の国に問題なく逝ってもらうためであり、主君の権威づけのために行われるものであった。葬儀を形式通り行わないのは、殺した可能性の場合、五書『儀礼』を無視することある。杜甫がこの詩文でこのことを最も重要な点であるとしているのである。代宗が全く無能な天子であるといっていることになるのである。張后と李崔国の宦官グループに対して何もできない傀儡の様な存在に成り下がっていたということなのだ

 

數子哀過,他人郁陶;

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。

 

水漿不入,日月其忄舀。

水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

 

州府救喪,一二而已;

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

●ここにあるように、朝廷から使者も何もない、州府からほとんどない、というのは異常なことで、なぜこのような態度をとったのか。再度朝廷に召されたというのは嘘なのか。朝廷に向かう途中で病死したのか。結論をいうと、これらの事から朝廷で房琯を召して宰相に還すことに反対の勢力(張后と李崔国の宦官グループ)が一切を止めたということ、邪推かもしれないが、房琯の死、玄宗、肅宗の死は、宦官グループの仕業と考えれば、すべて理解できることとなるのである。ただ、この宦官グループはこの時代のすべての機関にゲシュタポGeheime Staatspolizei、のように影響力を持っていたため歴史書に見ることはなく、推測である。の聯は押韻が変換されているが、あえて次の聯と共に第四段として区切った。

 

自古所嘆,罕聞知已。」

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

○自古 五経典『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』により葬儀の方法は明確に示されているということ。この事は、儒者に限った事ではなく、ここに至るすべての王朝で執り行われてきたことなのである。

●ここまでは、執り行われた葬儀が、五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある。そのなかの『儀礼(ぎらい)』は古代中国の官吏階級の通過儀礼である、冠礼、婚礼、喪礼、外交儀礼などを細かく規定したもので、中国の文化の規範としての役割を担ってきたののであること、杜甫は、本人の希望とはいえ、朝廷に迎えられるほどの人物に対する儀礼がなされていないことをいうのである。

ここまでの解釈はおそらく初めての解釈であろうと思う。

少陵台 

この「祭故相國清河房公文」が強烈な朝廷批判であるために同時期に作られた

763年の三首

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

廣徳2764の《別房太尉墓》

廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

が極端にゆるい追悼の詩文にしたのは房琯個人にだけ向けられたものであるということ、杜甫が「文」と「詩四首」を使い分けをしたということである。 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(8)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-8> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4190 杜甫詩1500-1501-8-1009/250060

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

        
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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(8) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-8 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4190 杜甫詩1500-1501-8-1009/250060

 

 

(国を思い、清廉で徳のある人房琯公対して朝廷は非礼をかえしている)

(8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

不見君子,逝水滔滔。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

有車爰送,有紼爰操。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

撫墳日落,劍秋高;

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

我公戒子,無作爾勞。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

身瘞萬里,家無一毫。

數子哀過,他人郁陶;

水漿不入,日月其忄舀。

州府救喪,一二而已;

自古所嘆,罕聞知已。

 

 (8)四段目-1

豈に群無からん?我が心 忉忉【とうとう】たり。

君子に見【まみ】えざり,逝く水 滔滔【とうとう】たり。

涕を寒谷に泄【もら】し,聲を賊壕に吞む;

車有りて爰【ここ】に送り,紼有りて爰に操る。

墳を撫すれば日落ち,劍をすれば秋高し;

我が公子を戒め,「爾が勞を作す無かれ」と。

(9) 四段目-2

斂するに素帛を以ってし,諸を蓬蒿に付す;

身は萬里に瘞【えい】せられ,家には一毫無し。

數子 哀しみ過ぎり,他人 郁陶たり;

水漿 入らず,日月 其れ慆【す】ぐ。

州府 救喪し,一二 にやむ;

古より嘆く所なり,知已を聞くは罕なり。

杜甫像00 

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文) (8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

不見君子,逝水滔滔。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

有車爰送,有紼爰操。

撫墳日落,劍秋高;

我公戒子,無作爾勞。

 

(下し文)

(8)四段目-1

豈に群無からん?我が心 忉忉【とうとう】たり。

君子に見【まみ】えざり,逝く水 滔滔【とうとう】たり。

涕を寒谷に泄【もら】し,聲を賊壕に吞む;

車有りて爰【ここ】に送り,紼有りて爰に操る。

墳を撫すれば日落ち,劍をすれば秋高し;

我が公子を戒め,「爾が勞を作す無かれ」と。

 

(現代語訳)

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 

(訳注)  (8)四段目-1

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

 

豈無群?我心忉忉。

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

○群 大勢いる中で、すぐれた才徳をそなえた人々のこと

 

不見君子,逝水滔滔。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

 

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

○賊壕 賊は叛乱軍。防禦のために掘って置いた塹壕。

杜甫『收京三首其三』

汗馬收宮闕,春城鏟賊壕

賞應歌杕杜,歸及薦櫻桃。

雜虜橫戈數,功臣甲第高。

萬方頻送喜,無乃聖躬勞。

蜀は徐知道の叛乱や、吐蕃の侵略に戦がおさまることがないということ。

 

有車爰送,有紼爰操。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

○車 房公の棺をのせるための車。

○紼 挽歌を歌いながら挽き綱を引くときの綱。

 

撫墳日落,劍秋高;

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

 

我公戒子,無作爾勞。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。


●ここまでは、執り行われた葬儀が、五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある。そのなかの『儀礼(ぎらい)』は古代中国の官吏階級の通過儀礼である、冠礼、婚礼、喪礼、外交儀礼などを細かく規定したもので、中国の文化の規範としての役割を担ってきたののであること、杜甫は、本人の希望とはいえ、朝廷に迎えられるほどの人物に対する儀礼がなされていないことをいうのである。

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廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(7)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

 

        
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(7)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059  
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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廣徳元年

763 《祭故相國清河房公文-(7) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059

 

 

(房琯公は退けられ、病に憑かれた)

(6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

房琯公の天の道理は広いこころではるか先まで包む、その根元の精気のはたらきはそれがひろくはてしないがために理解されにくいのだ。

偶生賢達,不必際會;

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。

明明我公,可云時代。

明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。

賈誼慟哭,雖多顛沛;

漢の賈誼は改革の芽を摘まれ、左遷され、いく度も慟哭したけれども、ついにはつまずき倒れてしまった。

仲尼旅人,自有遺愛。

孔子は弟子とともに諸国巡遊の旅に出て、国政に失望したけれど、その仁愛はいつまでもしたわれているのだ。

(7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

後事所委,不在臥

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

因循寢疾,憔翠無悔;

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

夭閼泉涂,激揚風

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

天柱既折,安仰翊戴?

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

地維則,安放夾載?

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。

 

(6)三段目-1

天道は 闊遠し,元精は茫昧たり。

偶ま賢達を生じるも,不必ずしも際會せず;

明明たる我公,時代と云う可きなり。

賈誼 慟哭する,多くあると雖も顛沛す;

仲尼は旅人なるも,自ずから遺愛有り。

(7) 三段目-2

二圣【にせい】崩ぜし日,長く荒外に號す;

後事 委ぬるに,臥在らず

因循して疾に寢るも,憔翠して悔い無し;

泉涂に夭閼【ようあつ】し,風概を激揚す。

天柱 既に折れ,安んぞ仰ぎて翊戴せん?

地維 則ちたれ,安んぞ放ちて夾載せん?

玄武門 

『祭故相國清河房公文』-(7) 現代語訳と訳註

(本文) (7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

後事所委,不在臥

因循寢疾,憔翠無悔;

夭閼泉涂,激揚風

天柱既折,安仰翊戴?

地維則,安放夾載?

 

(下し文)

(7) 三段目-2

二圣【にせい】崩ぜし日,長く荒外に號す;

後事 委ぬるに,臥に在らず。

因循して疾に寢るも,憔翠して悔い無し;

泉涂に夭閼【ようあつ】し,風概を激揚す。

天柱 既に折れ,安んぞ仰ぎて翊戴せん?

地維 則ちたれ,安んぞ放ちて夾載せん?

 

(現代語訳)

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。

 

蜀中転々圖 

(訳注) (7) 三段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

 

二圣崩日,長號荒外;

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

二圣 二人の聖人、玄宗と粛宗のこと。

 

後事所委,不在臥

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

 臥室、內室.ここでは朝廷内をいう。

 

因循寢疾,憔翠無悔;

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

 

夭閼泉涂,激揚風概。

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

夭閼  押さえてさえぎる。(南方に発展しようとすること。転じて、大事業を計画すること。)『荘子』逍遥遊「而後乃今培風、背負青天、而莫之夭閼者。而後乃今將圖南。」而しかる後のち乃今いま風かぜに培のれば、背せに青天せいてんを負おいて、之これを夭閼ようあつする者もの莫なし。而しかる後のち乃今いま将まさに南みなみを図はからんとす。

泉涂 黄泉の国への道

 

天柱既折,安仰翊戴?

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

翊戴 翊:あおぎいただくすじのとおった主君。
 

地維則,安放夾載?

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。
鶻 

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廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(6)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-6> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4180 杜甫詩1500-1501-6-1007/250058

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。


        
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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(6) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-6 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4180 杜甫詩1500-1501-6-1007/250058

 

 

(房琯公は退けられ、病に憑かれた)

(6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

房琯公の天の道理は広いこころではるか先まで包む、その根元の精気のはたらきはそれがひろくはてしないがために理解されにくいのだ。

偶生賢達,不必際會;

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。

明明我公,可云時代。

明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。

賈誼慟哭,雖多顛沛;

漢の賈誼は改革の芽を摘まれ、左遷され、いく度も慟哭したけれども、ついにはつまずき倒れてしまった。

仲尼旅人,自有遺愛。

孔子は弟子とともに諸国巡遊の旅に出て、国政に失望したけれど、その仁愛はいつまでもしたわれているのだ。

(7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

後事所委,不在臥

因循寢疾,憔翠無悔;

夭閼泉涂,激揚風

天柱既折,安仰翊戴?

地維則,安放夾載?

 

(6)三段目-1

天道は 闊遠し,元精は茫昧たり。

偶ま賢達を生じるも,不必ずしも際會せず;

明明たる我公,時代と云う可きなり。

賈誼 慟哭する,多くあると雖も顛沛す;

仲尼は旅人なるも,自ずから遺愛有り。

(7) 三段目-2

二圣【にせい】崩ぜし日,長く荒外に號す;

後事 委ぬるに,臥在らず

因循して疾に寢るも,憔翠して悔い無し;

泉涂に夭閼【ようあつ】し,風概を激揚す。

天柱 既に折れ,安んぞ仰ぎて翊戴せん?

地維 則ちたれ,安んぞ放ちて夾載せん?

yuugure02 

 

『祭故相國清河房公文』-(6) 現代語訳と訳註

(本文) (6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

偶生賢達,不必際會;

明明我公,可云時代。

賈誼慟哭,雖多顛沛;

仲尼旅人,自有遺愛。

 

(下し文)

(6)三段目-1

天道は 闊遠し,元精は茫昧たり。

偶ま賢達を生じるも,不必ずしも際會せず;

明明たる我公,時代と云う可きなり。

賈誼 慟哭する,多くあると雖も顛沛す;

仲尼は旅人なるも,自ずから遺愛有り。

 

(現代語訳)

房琯公の天の道理は広いこころではるか先まで包む、その根元の精気のはたらきはそれがひろくはてしないがために理解されにくいのだ。

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。

明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。

漢の賈誼は改革の芽を摘まれ、左遷されいく度も慟哭したけれども、ついにはつまずき倒れてしまった。

孔子は弟子とともに諸国巡遊の旅に出て、国政に失望したけれど、その仁愛はいつまでもしたわれているのだ。

木蘭02 

(訳注) (6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

房琯公の天の道理は広いこころではるか先まで包む、その根元の精気のはたらきはそれがひろくはてしないがために理解されにくいのだ。

天道 儒教は「天道」「天地の道」「天理」等々の言葉で自然界の秩序を表し、自然と社会の秩序の間には密接な関連があり、互いに感応し合っているとしている。また儒教で用いる「理」という言葉は、本質的に道理(倫理)を意味し、天の法則であると同時に天の倫理を表している。ここでは施政における天の法則、房琯公の政治姿勢をいう。

闊遠 広いこころではるか先まで包む

 

偶生賢達,不必際會;

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。

賢達 天の法則・道理を得て達するもの。孔子や賈誼をさす。

際會 孔子や賈誼に会うこと。その域に達したものはその域に達したものに出会うものだ。。

 

明明我公,可云時代。

明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。

明明 明明白白。はっきりしていて疑わしいところのないさま。心が晴れ晴れとしているさま。

 

賈誼慟哭,雖多顛沛;

漢の賈誼は改革の芽を摘まれ、左遷されいく度も慟哭したけれども、ついにはつまずき倒れてしまった。

賈誼 中国の前漢文帝に仕えた文臣。若くして洛陽の秀才とうたわれ,文帝の新政に抜擢されて最年少の博士からさらに太中大夫となった。そこで漢王朝の基礎を固める諸制度の改革に乗り出し,文帝もさらに公卿に任じようとしたが,保守的な元老にはばまれ,ついに失脚して長沙に左遷された。その後また召し返され,文帝の子の梁王の太傅(たいふ)となったが,ほどなく梁王が落馬して死に,1年余ののち彼も33歳で死んだ。

顛沛 つまずき倒れること。転じて、とっさの場合。

 

仲尼旅人,自有遺愛。

孔子は弟子とともに諸国巡遊の旅に出て、国政に失望したけれど、その仁愛はいつまでもしたわれているのだ。

仲尼 紀元前552109日‐紀元前47939日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である。紀元前497年に弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。
竹林001 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(5)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4175 杜甫詩1500-1501-5-1006/250057

安史軍(安禄山・安慶緒ら)は、もとより唐王朝の弊害に乗じて起すべくして反乱したので、頭目を誅殺しても本拠地から体制を立て直してきて滅ぼすことが出来ない。陳涛斜の敗北を理由に官位を貶せられ、路をふさがれた上に、房琯公に対する讒言は骨にまでこたえるほど巌しいものであった。


        
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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(綱紀が失われ打ち壊された国家を救おうとした房琯公)

(4) 二段目-1

將帥干紀,煙塵犯闕;

高官、武将元帥たちは、綱紀をおかし、戦さの塵はいつ起こってもおかしくないほど朝廷をおかしていたのだった。

王風寢頓,神器圮裂。

唐王朝の格調高い風気はとどこおってゆきづまり、天子のカをしめす宝貴は裂けこわれてしまった。

關輔蕭條,乘輿播越。

安史の乱は関中の補給路を断絶し、都は飢餓におちいり、蕭条と風が抜けていくほど荒廃してしまった。玄宗の御輿は遠く成都へと行幸され、おうつりになったあいだのことである。

太子即位,揖讓倉卒;

皇太子が即位され粛宗となられたが、その礼儀の次第は玄宗が知らぬ間にあわただしくとりおこなわれた。

小臣用權,尊貴倏忽。

しかし、その功績により、宦官の李輔国は権力をほしいままにふるいはじめた。こうして貴い人々はたちまちおとしめられてゆくのである。

 (5) 二段目-2

公實匡救,忘餐奮發;

房公は心から国家を救おうとして、食事も忘れて奮闘努力をされた。

累控直詞,空聞泣血。

度重なる諫言を奉り控えられた、お聞き入れのないままに血の涙をまじえて天子に申し上げた。

時遭綅沴,國有征伐;

その頃は国を滅ぼすほどの悪気に遭遇していたけれど、国中に広がった戦いを征伐することができた。

車駕還京,朝廷就列;

天子(玄宗・粛宗)の御車は都長安にお帰りになられ、百官はみな朝廷の列位についた。

盜本乘弊,誅終不滅;

安史軍(安禄山・安慶緒ら)は、もとより唐王朝の弊害に乗じて起すべくして反乱したので、頭目を誅殺しても本拠地から体制を立て直してきて滅ぼすことが出来ない。

高義沈埋,赤心蕩折。

儒者の房公の気高い義は発揮されず沈み埋もれ、嘘いつわりのない心持はうちくだかれてしまった。

貶官厭路,讒口到骨;

陳涛斜の敗北を理由に官位を貶せられ、路をふさがれた上に、房琯公に対する讒言は骨にまでこたえるほど巌しいものであった。

致君之誠,在困彌切。

しかし、我が君にお捧げ申し上げる忠誠心は、このような困難な時においても、いよいよ深くなるばかりだった。

 

(4) 二段目-1

將帥 紀を干し,煙塵 闕を犯す;

王風 寢頓し,神器 圮裂す。

關輔して 蕭條たり,乘輿して 播越す。

太子 即位するも,揖讓は 倉卒たり;

小臣 權を用し,尊貴は倏忽【しゅっこつ】たり。

(5) 二段目-2

公 實に匡救し,忘餐 奮發す;

累ねて 直詞を控え,空しく泣血を聞く。

時に綅沴【しんしん】に遭し,國 征伐する有り;

車駕 京に還し,朝廷 列に就く;

盜は本【もとも】と弊に乘じ,誅 終に滅せず;

高義 沈埋し,赤心 蕩折す。

貶官され 厭路さる,讒口 骨に到る;

君に致すの誠は,困に在りても彌【やや】切なり。

 

祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文)(5) 二段目-2

公實匡救,忘餐奮發;

累控直詞,空聞泣血。

時遭綅沴,國有征伐;

車駕還京,朝廷就列;

盜本乘弊,誅終不滅;

高義沈埋,赤心蕩折。

貶官厭路,讒口到骨;

致君之誠,在困彌切。

yuugure02 

(下し文)
(5) 二段目-2

公 實に匡救し,忘餐 奮發す;

累ねて 直詞を控え,空しく泣血を聞く。

時に綅沴【しんしん】に遭し,國 征伐する有り;

車駕 京に還し,朝廷 列に就く;

盜は本【もとも】と弊に乘じ,誅 終に滅せず;

高義 沈埋し,赤心 蕩折す。

貶官され 厭路さる,讒口 骨に到る;

君に致すの誠は,困に在りても彌【やや】切なり。

 

 

(現代語訳)

房公は心から国家を救おうとして、食事も忘れて奮闘努力をされた。

度重なる諫言を奉り控えられた、お聞き入れのないままに血の涙をまじえて天子に申し上げた。

その頃は国を滅ぼすほどの悪気に遭遇していたけれど、国中に広がった戦いを征伐することができた。

天子(玄宗・粛宗)の御車は都長安にお帰りになられ、百官はみな朝廷の列位についた。

安史軍(安禄山・安慶緒ら)は、もとより唐王朝の弊害に乗じて起すべくして反乱したので、頭目を誅殺しても本拠地から体制を立て直してきて滅ぼすことが出来ない。

儒者の房公の気高い義は発揮されず沈み埋もれ、嘘いつわりのない心持はうちくだかれてしまった。

陳涛斜の敗北を理由に官位を貶せられ、路をふさがれた上に、房琯公に対する讒言は骨にまでこたえるほど巌しいものであった。

しかし、我が君にお捧げ申し上げる忠誠心は、このような困難な時においても、いよいよ深くなるばかりだった。

 

(訳注) (5) 二段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

 

公實匡救,忘餐奮發;

房公は心から国家を救おうとして、食事も忘れて奮闘努力をされた。

 

累控直詞,空聞泣血。

度重なる諫言を奉り控えられた、お聞き入れのないままに血の涙をまじえて天子に申し上げた。

〇直詞 天子に直に諫言する、上申書を奉ること。

 

時遭綅沴,國有征伐;

その頃は国を滅ぼすほどの悪気に遭遇していたけれど、国中に広がった戦いを征伐することができた。

〇綅沴 国を滅ぼすほどの悪気

〇征伐 長安を安史軍から奪還したことをいう。

75511月に始まった安史の乱は763年のこの文の年には終了している。

 

車駕還京,朝廷就列;

天子(玄宗・粛宗)の御車は都長安にお帰りになられ、百官はみな朝廷の列位についた。

 

盜本乘弊,誅終不滅;

安史軍(安禄山・安慶緒ら)は、もとより唐王朝の弊害に乗じて起すべくして反乱したので、頭目を誅殺しても本拠地から体制を立て直してきて滅ぼすことが出来ない。

〇盜本乘弊 安禄山は唐王朝の弊害に乗じて起すべくして反乱した。王朝が奢侈と頽廃、律令制が崩壊し、潘鎮を抑えることが出来なくなってきたこと。

〇誅終不滅 国の東部から北部にかけて安史軍の拠点であり、長安洛陽を奪還してもそのまま攻め込むことが出来ず、度々洛陽を落された。

 

高義沈埋,赤心蕩折。

儒者の房公の気高い義は発揮されず沈み埋もれ、嘘いつわりのない心持はうちくだかれてしまった。

〇高義 儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。

〇赤心 嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。まごころ。「―を吐露する」赤心を推して人の腹中に置く。

 

貶官厭路,讒口到骨;

陳涛斜の敗北を理由に官位を貶せられ、路をふさがれた上に、房琯公に対する讒言は骨にまでこたえるほど巌しいものであった。

〇讒口 儒者の房琯に対して李白が翰林院に仕えたころから発せられていた。宦官の影響力は次第に強くなってゆく。

 

致君之誠,在困彌切。

しかし、我が君にお捧げ申し上げる忠誠心は、このような困難な時においても、いよいよ深くなるばかりだった。
杜甫像00 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(4)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4170 杜甫詩1500-1501-4-1005/250056

皇太子が即位され粛宗となられたが、その礼儀の次第は玄宗が知らぬ間にあわただしくとりおこなわれた。しかし、その功績により、宦官の李輔国は権力をほしいままにふるいはじめた。こうして貴い人々はたちまちおとしめられてゆくのである。

        
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廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(4)》杜甫index-13 763年 杜甫<1501-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4170 杜甫詩1500-1501-4-1005/250056

 

 

(綱紀が失われ打ち壊された国家を救おうとした房琯公

(4) 二段目-1

將帥干紀,煙塵犯闕;

高官、武将元帥たちは、綱紀をおかし、戦さの塵はいつ起こってもおかしくないほど朝廷をおかしていたのだった。

王風寢頓,神器圮裂。

唐王朝の格調高い風気はとどこおってゆきづまり、天子のカをしめす宝貴は裂けこわれてしまった。

關輔蕭條,乘輿播越。

安史の乱は関中の補給路を断絶し、都は飢餓におちいり、蕭条と風が抜けていくほど荒廃してしまった。玄宗の御輿は遠く成都へと行幸され、おうつりになったあいだのことである。

太子即位,揖讓倉卒;

皇太子が即位され粛宗となられたが、その礼儀の次第は玄宗が知らぬ間にあわただしくとりおこなわれた。

小臣用權,尊貴倏忽。

しかし、その功績により、宦官の李輔国は権力をほしいままにふるいはじめた。こうして貴い人々はたちまちおとしめられてゆくのである。(5) 二段目-2

公實匡救,忘餐奮發;

累控直詞,空聞泣血。

時遭綅沴,國有征伐;

車駕還京,朝廷就列;

盜本乘弊,誅終不滅;

高義沈埋,赤心蕩折。

貶官厭路,讒口到骨;

致君之誠,在困彌切。

 

(4) 二段目-1

將帥 紀を干し,煙塵 闕を犯す;

王風 寢頓し,神器 圮裂す。

關輔して 蕭條たり,乘輿して 播越す。

太子 即位するも,揖讓は 倉卒たり;

小臣 權を用し,尊貴は倏忽【しゅっこつ】たり。

(5) 二段目-2

公 實に匡救し,忘餐 奮發す;

累ねて 直詞を控え,空しく泣血を聞く。

時に綅沴【しんしん】に遭し,國 征伐する有り;

車駕 京に還し,朝廷 列に就く;

盜は本【もとも】と弊に乘じ,誅 終に滅せず;

高義 沈埋し,赤心 蕩折す。

貶官され 厭路さる,讒口 骨に到る;

君に致すの誠は,困に在りても彌【やや】切なり。

姑蘇台02

祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文) (4) 二段目-1

將帥干紀,煙塵犯闕;

王風寢頓,神器圮裂。

關輔蕭條,乘輿播越。

太子即位,揖讓倉卒;

小臣用權,尊貴倏忽。

 

(下し文)  (4) 二段目-1

將帥 紀を干し,煙塵 闕を犯す;

王風 寢頓し,神器 圮裂す。

關輔して 蕭條たり,乘輿して 播越す。

太子 即位するも,揖讓は 倉卒たり;

小臣 權を用し,尊貴は倏忽【しゅっこつ】たり。

 

(現代語訳)

高官、武将元帥たちは、綱紀をおかし、戦さの塵はいつ起こってもおかしくないほど朝廷をおかしていたのだった。

唐王朝の格調高い風気はとどこおってゆきづまり、天子のカをしめす宝貴は裂けこわれてしまった。

安史の乱は関中の補給路を断絶し、都は飢餓におちいり、蕭条と風が抜けていくほど荒廃してしまった。玄宗の御輿は遠く成都へと行幸され、おうつりになったあいだのことである。

皇太子が即位され粛宗となられたが、その礼儀の次第は玄宗が知らぬ間にあわただしくとりおこなわれた。

しかし、その功績により、宦官の李輔国は権力をほしいままにふるいはじめた。こうして貴い人々はたちまちおとしめられてゆくのである。

 

 杜甫 体系 地図458華州から秦州

(訳注) (4) 二段目-1

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

 

將帥干紀,煙塵犯闕;

高官、武将元帥たちは、綱紀をおかし、戦さの塵はいつ起こってもおかしくないほど朝廷をおかしていたのだった。

〇將帥干紀 唐の最盛期「開元の治」は李林甫により、その死後は、楊貴妃の親族に綱紀は乱れ、楊国忠は李林甫の横暴だけを受け継ぎ楊一族の利益にむさぼった。安禄山の叛乱はそうした背景の中でおこった。この二句は房琯が宰相になったころのことをいう。

 

王風寢頓,神器圮裂。

唐王朝の格調高い風気はとどこおってゆきづまり、天子のカをしめす宝貴は裂けこわれてしまった。

〇この二句は、玄宗の後宮は華美、奢侈、頽廃となり、宦官が増殖していって、天子の権威は地に落ちたことをいう。

 

關輔蕭條,乘輿播越。

安史の乱は関中の補給路を断絶し、都は飢餓におちいり、蕭条と風が抜けていくほど荒廃してしまった。玄宗の御輿は遠く成都へと行幸され、おうつりになったあいだのことである。

〇關輔 関中を助けるまわりの地方を含めて長安地方をいう。関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。

長安はこの時、世界最大の都市でシルクロード通じて反映していたが、この地域での自給自足は全くできない、そのため、戦乱があると物資の補給が断たれると地獄の飢餓になった。陸の道路、水路を整備できない状況だと荒廃するのは「倏忽」であった。

〇乘輿播越 玄宗の御輿は遠く成都へと行幸され、おうつりになったあいだのことであるというほどの意。

 

太子即位,揖讓倉卒;

皇太子が即位され粛宗となられたが、その礼儀の次第は玄宗が知らぬ間にあわただしくとりおこなわれた。

〇太子即位 75664日哥舒翰函谷関で大敗。

同年610日 玄宗、御前会議で蜀に行幸すると決定。

同年614日 馬嵬で楊一族殺害し、この時、皇太子に討伐の任を与えた。玄宗は蜀へ、皇太子は霊武に逃れた。

同年618日 安史軍は長安に入城。

同年619日 玄宗一行は散關にようやくいたる。

同年7月 皇太子、李享らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、郭子儀の朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏回族自治区霊武市)に到着、7月に側近である宦官李輔国の建言を容れ自ら皇帝に即位、至徳と改元した。これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった。

同年728日 玄宗ら成都に着く

同年8月 群臣におされて粛宗は即位し、霊武を行在所にし、ウイグルに援軍を要請した。

〇揖讓 ① うやうやしく拱手(きようしゆ)② の礼をすること。 ② 天子が位を他の者にゆずること。・揖の用語解説 - 1 (しゃく)を持ち、上体をやや前に傾けてする礼。2 中国の昔の礼の一。両手を胸の前で組み、これを上下したり前にすすめたりする礼。

 

小臣用權,尊貴倏忽。

しかし、その功績により、宦官の李輔国は権力をほしいままにふるいはじめた。こうして貴い人々はたちまちおとしめられてゆくのである。

小臣 宦官を示す語で、李輔国のことをいう。この時、粛宗には数千の宦官の兵が帯同していたので、最も信頼できるものとしていた。「小臣」はこの時期の歴史的背景から考察しても宦官の李輔国を示し、唐王朝が滅亡まで大きな負の役割を為すものである。ただ、宦官は諜報組織を持っており、表だって倒そうとしてもことごとく潰され暗殺された。杜甫もこの程度暮表現しかできなかったのである。当然旧唐書、新唐書にも宦官のことは明確には書かれていない。

倏忽 倏あっという間に。にわかに。 【倏然】しゅくぜん. 突然であるようす。にわかであるようす。 忽然 ( こつぜん ) . 【倏忽】しゅっこつ. 時間のきわめて短いさま。たちまち。にわか。 【倏ち】たちまち. すみやか。あっという間。すぐ。
杜甫 体系 地図459同谷紀行 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(3)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4165 杜甫詩1500-1501-3-1004/250055

祭故相國清河房公文-(3)≫杜甫≫建国以来、百年以上の間、皇帝を補佐するすぐれた宰相がいるのを見ることができた。しかし、房公が宰相として入朝した時には、すでに綱紀は失われていた。

        
 2014年5月8日の紀頌之5つのブログ 
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 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(3) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4165 杜甫詩1500-1501-3-1004/250055

 

 

(1)(前文)

 祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

維唐廣德元年次癸卯

唐の廣徳元年癸【みずのと】卯【う】763年である。

犯九月辛丑朔二十二日壬戌,

月を越え、辛丑が月はじめ(朔)である九月の二十二日の壬戌の日。

京兆杜甫,敬以醴酒茶藕鯽之奠,

長安でお世話になった杜甫が、ここにつつしんで醴酒、茶・レンコンなどのジュンサイ、鯉フナなどの三品をお供えいたします。

奉祭故相國清河房公之靈曰:

今は啼き、宰相であり、清河郡公であった房琯公の霊をお祭り奉り、次のように申し上げる。

 

(唐は優れた宰相達により繁栄を築いた。)

(2)一段目-1

「嗚呼!純樸既散,圣人又歿;

ああ、率直さと大らかさを持った太古の気風はもうすでに消え失せ、古代の聖人もまた亡くなってしまった。

非大賢,孰奉天秩?

だから「大賢は愚なるが如し」というばかりに賢人はいない、一体誰が天の与えられる幸いを具現する施政をするというのであろうか?

唐始受命,群公間出;

唐の建国はじめには天より命を受けて、すぐれた多くの宰相が相次いで出たのである。

君臣和同,德教充溢。

君主と臣下はやちょうわしてひとつになり、徳の教えは帝が率先され、教えは天下にあふれたのであった。

 (3) 一段目-2

魏杜行之,夫何畫一;

太宗に仕えた魏徴や杜如晦が良い施政をおこなうことは、一という字を画くかのように何と明瞭だったことだろうか。

婁宋繼之,不墜故實。

耐える事を教えた婁師徳や宦官の横暴を食い止めた宋璟もその施政を継承して、古くからの仁徳をもとにしたやり方を失わなかった。

年間,見有輔弼;

建国以来、百年以上の間、皇帝を補佐するすぐれた宰相がいるのを見ることができた。

及公入相,紀綱已失。

しかし、房公が宰相として入朝した時には、すでに綱紀は失われていた。

 

(2)一段目

「嗚呼!純樸は既に散じ,圣人も又た歿す;

しくも大賢に非ずんば,孰か天秩を奉ぜん?

唐の始めに命を受けしは,群公 間出す;

君臣 和同し,德教 充溢す。

(3)

魏 杜 之を行う,夫れ何ぞ一を畫す;

婁 宋 之を繼ぎて,故實を墜さず。

 年間,輔弼有るを見る;

公の相に入るに及び,紀綱 已に失わる。

 

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文)  (3) 一段目-2

魏杜行之,夫何畫一;

婁宋繼之,不墜故實。

年間,見有輔弼;

及公入相,紀綱已失。

 

泰山の道観02 

 

(下し文)

魏 杜 之を行う,夫れ何ぞ一を畫す;

婁 宋 之を繼ぎて,故實を墜さず。

 年間,輔弼有るを見る;

公の相に入るに及び,紀綱 已に失わる。

 

(現代語訳)

太宗に仕えた魏徴や杜如晦が良い施政をおこなうことは、一という字を画くかのように何と明瞭だったことだろうか。

耐える事を教えた婁師徳や宦官の横暴を食い止めた宋璟もその施政を継承して、古くからの仁徳をもとにしたやり方を失わなかった。

建国以来、百年以上の間、皇帝を補佐するすぐれた宰相がいるのを見ることができた。

しかし、房公が宰相として入朝した時には、すでに綱紀は失われていた。

 

(訳注) (3) 一段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

 

魏杜行之,夫何畫一;

太宗に仕えた魏徴や杜如晦が良い施政をおこなうことは、一という字を画くかのように何と明瞭だったことだろうか。

〇魏徴 唐の政治家。字は玄成。太宗らに仕え、諫議大夫・左光禄大夫に任じられ、鄭国公に封じられた。直諫することで有名であり、そのやりとりは『貞観政要』に多く載せられている。

〇杜如晦 中国唐代の政治家。字は克明、京兆杜陵の人。隋の昌州長史であった杜吒の子として生まれる。 史書に親しみ、隋末には吏部に入ったが、間もなく官を辞し故郷へ戻った。李淵が長安を占拠すると、李世民の参謀役であった房玄齢により見出され、幕下に加わった。

 〇夫 発語。そもそも、

〇何畫一 なんの一の字を書く程度のこと。
 

婁宋繼之,不墜故實。

耐える事を教えた婁師徳や宦官の横暴を食い止めた宋璟もその施政を継承して、古くからの仁徳をもとにしたやり方を失わなかった。

〇婁師徳 字を宗仁といい度量が大きく時の大臣となった。その弟は代州の刺史の役人に任ぜられた。赴任に当たり婁師徳は弟に耐える事を教えた。

〇宋璟【そうえい】 中国唐代の政治家。字は広平。邢州南和の人。 17歳の若さで進士に挙げられて「博学にして文翰にたくみ」と評された。則天武后に抜擢されて監察御史などを務めるが、張易之ら則天武后側近の宦官を批判して名を知られるようになった。

 

年間,見有輔弼;

建国以来、百年以上の間、皇帝を補佐するすぐれた宰相がいるのを見ることができた。 

〇この二句は唐が始まって百数十年、才智、能力の者を選んで官僚にしてきたこと言い、そういう制度を辱めることを排除する自浄を内包していた。
 

及公入相,紀綱已失。

しかし、房公が宰相として入朝した時には、すでに綱紀は失われていた。
〇太宗の頃宦官は60人程度であったものが、この頃6,000人以上に膨れ上がり、軍隊化し、横暴になっていて、裏工作により、事実上宦官が朝廷を動かしていた。。
032 

廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(2)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4160 杜甫詩1500-1501-2-1003/250054

祭故相國清河房公文-(2)唐の建国はじめには天より命を受けて、すぐれた多くの宰相が相次いで出たのである。君主と臣下はや調和してひとつになり、徳の教えは帝が率先され、教えは天下にあふれたのであった。


        
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廣徳元年

763 《祭故相國清河房公文-(2) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4160 杜甫詩1500-1501-2-1003/250054

 

 

(1)(前文)

 祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

維唐廣德元年次癸卯

唐の廣徳元年癸【みずのと】卯【う】763年である。

犯九月辛丑朔二十二日壬戌,

月を越え、辛丑が月はじめ(朔)である九月の二十二日の壬戌の日。

京兆杜甫,敬以醴酒茶藕鯽之奠,

長安でお世話になった杜甫が、ここにつつしんで醴酒、茶・レンコンなどのジュンサイ、鯉フナなどの三品をお供えいたします。

奉祭故相國清河房公之靈曰:

今は啼き、宰相であり、清河郡公であった房琯公の霊をお祭り奉り、次のように申し上げる。

 

(唐は優れた宰相達により繁栄を築いた。)

(2)一段目-1

「嗚呼!純樸既散,圣人又歿;

ああ、率直さと大らかさを持った太古の気風はもうすでに消え失せ、古代の聖人もまた亡くなってしまった。

非大賢,孰奉天秩?

だから「大賢は愚なるが如し」というばかりに賢人はいない、一体誰が天の与えられる幸いを具現する施政をするというのであろうか?

唐始受命,群公間出;

唐の建国はじめには天より命を受けて、すぐれた多くの宰相が相次いで出たのである。

君臣和同,德教充溢。

君主と臣下はやちょうわしてひとつになり、徳の教えは帝が率先され、教えは天下にあふれたのであった。

 (3) 一段目-2

魏杜行之,夫何畫一;

婁宋繼之,不墜故實。

年間,見有輔弼;

及公入相,紀綱已失。

 

(2)一段目

「嗚呼!純樸は既に散じ,圣人も又た歿す;

しくも大賢に非ずんば,孰か天秩を奉ぜん?

唐の始めに命を受けしは,群公 間出す;

君臣 和同し,德教 充溢す。

(3)

魏 杜 之を行う,夫れ何ぞ一を畫す;

婁 宋 之を繼ぎて,故實を墜さず。

 年間,輔弼有るを見る;

公の相に入るに及び,紀綱 已に失わる。

 yuugure02

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文) (2)一段目-1

「嗚呼!純樸既散,圣人又歿;

非大賢,孰奉天秩?

唐始受命,群公間出;

君臣和同,德教充溢。

 

(下し文) (2)一段目-1

「嗚呼!純樸は既に散じ,圣人も又た歿す;

しくも大賢に非ずんば,孰か天秩を奉ぜん?

唐の始めに命を受けしは,群公 間出す;

君臣 和同し,德教 充溢す。

 

(現代語訳) (2)一段目-1

ああ、率直さと大らかさを持った太古の気風はもうすでに消え失せ、古代の聖人もまた亡くなってしまった。

だから「大賢は愚なるが如し」というばかりに賢人はいない、一体誰が天の与えられる幸いを具現する施政をするというのであろうか?

唐の建国はじめには天より命を受けて、すぐれた多くの宰相が相次いで出たのである。

君主と臣下はやちょうわしてひとつになり、徳の教えは帝が率先され、教えは天下にあふれたのであった。

 

 (訳注) (2)一段目-1

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

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王屋山00 

「嗚呼!純樸既散,圣人又歿;

ああ、率直さと大らかさを持った太古の気風はもうすでに消え失せ、古代の聖人もまた亡くなってしまった。

〇純樸 五経「詩、書、禮、易、春秋」詩経に代表される、率直さと大らかさをいう。

〇圣人 ①聖人.②封建時代の君主に対する尊称.儒教の聖人のことであり、仏教での聖人をいうが、房琯は儒者であるとし、ここでは、三皇五帝、孔子の儒教者をいう。

 

非大賢,孰奉天秩?

だから「大賢は愚なるが如し」というばかりに賢人はいない、一体誰が天の与えられる幸いを具現する施政をするというのであろうか?

大賢 大賢は愚なるが如し非常に賢い人は、知識をひけらかしたりしないから、一見愚かな人のように見える。大知は愚のごとし。

天秩 天下を秩序を以て施政する。秩序は仁徳によるもの。

 

唐始受命,群公間出;

唐の建国はじめには天より命を受けて、すぐれた多くの宰相が相次いで出たのである。

群公間出 宰相から諸公にいたるまで多くの賢者を輩出している。律令体制が確立され、生産性が飛躍的に伸び、安定した国の条件を満たしたことをいう。

 

君臣和同,德教充溢。

君主と臣下はやちょうわしてひとつになり、徳の教えは帝が率先され、教えは天下にあふれたのであった。

763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1)》 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500

763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1) 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/250053

 

 

        
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。

左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護発言事件(事件)」である。しかしこの「事件」により、堪え、苦しみ、詩人として格段の成長を遂げることになるのである。最も注目すべき事柄である。

 この「祭故相國清河房公文が強烈な朝廷批判であるために同時期に作られた

763年の三首

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

廣徳2764の《別房太尉墓》

廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

が極端にゆるい追悼の詩文にしたのは房琯個人にだけ向けられたものであるということ、杜甫が「文」と「詩四首」を使い分けをしたということである。

 この「祭故相國清河房公文」の分割は必ずしも押韻に寄らず、杜甫の主張に基づいたものに依った。


 

 杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

  ⑧ 悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

  ⑨ 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

①  720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

② 721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

③ 722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

④ 廣徳2764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

杜甫詩index-15  765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63

⑤ 855 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

856 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

●文

⑥ 奉謝口敕放三司推問状

⑦ 祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)

 

○関連
杜甫人生のエポックメーキングの事件
、「房琯擁護発言事件(房琯事件)」房琯に関する詩は9首あり、関連の詩が5首ある。特に上記①~⑦の詩文の前後の作品は杜甫の心境を推し量るものとして注目している。杜甫の人生を変えた、この事件を多様に、有機的に、大局的にもとらえてゆく。


 

別房太尉墓

(前の宰相房琯太尉の墓に別れをつげる。)

複行役,駐馬別孤墳。

ここはすでに他郷であるが、それに自分はここからふたたびたびにでかけるのである。因って馬をとどめて房大尉のさびしいこの墳墓にお別れをする。

無干土,低空有斷雲。

自分の悲しみはどんなであるか、苛も自分の涙のおちるところに近い場所には乾いた土というものは無く、空低くぶら下がってちぎれ雲がみえているのである。
對棋陪謝傅,把劍覓徐君。

自分は謝太博ともいうべき房大尉の生前に陪席して碁のおあい手をしたことがある。いま大尉を慕うこころもちは呉の季札が徐国の君をもとめてその墓に自己の剣をとってかけようとしている時のそれのようなものである。しかし大尉はいない、大尉は語らない、

唯見林花落,鶯啼送客聞。

ただただ、林の花がはらはらと落ちちり、自分を送るために鶯が噂きごえを聞かしてくれるのみである。

(房大尉の墓に別る)

他郷復た行役し、馬を駐めて孤墳に別る。

涙に近きは土無く、空に低れて断雲有り。

対棋 謝傅に陪しき、剣を把りて徐君を覓む。

惟だ見る 林花の落つるを、鶯啼 客を送りて聞かしむ。

 

 

祭故相國清河房公文

(1)(前文)

維唐廣德元年次癸卯犯九月辛丑朔二十二日壬戌,京兆杜甫,敬以醴酒茶藕鯽之奠,奉祭故相國清河房公之靈曰:
 

(唐は優れた宰相達により繁栄を築いた。)

(2)一段目-1

「嗚呼!純樸既散,圣人又歿;

非大賢,孰奉天秩?

唐始受命,群公間出;

君臣和同,德教充溢。

(3) 一段目-2

魏杜行之,夫何畫一;

婁宋繼之,不墜故實。

年間,見有輔弼;

及公入相,紀綱已失。

 

(綱紀が失われ打ち壊された国家を救おうとした房琯公)

(4) 二段目-1

將帥干紀,煙塵犯闕;

王風寢頓,神器圮裂。

關輔蕭條,乘輿播越。

太子即位,揖讓倉卒;

小臣用權,尊貴倏忽。

(5) 二段目-2

公實匡救,忘餐奮發;

累控直詞,空聞泣血。

時遭綅沴,國有征伐;

車駕還京,朝廷就列;

盜本乘弊,誅終不滅;

高義沈埋,赤心蕩折。

貶官厭路,讒口到骨;

致君之誠,在困彌切。

 

(房琯公は退けられ、病に憑かれた)

(6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

偶生賢達,不必際會;

明明我公,可云時代。

賈誼慟哭,雖多顛沛;

仲尼旅人,自有遺愛。

(7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

後事所委,不在臥

因循寢疾,憔翠無悔;

夭閼泉涂,激揚風

天柱既折,安仰翊戴?

地維則,安放夾載?

 

(国を思い、清廉で徳のある人房琯公対して朝廷は非礼をかえしている)

(8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

不見君子,逝水滔滔。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

有車爰送,有紼爰操。

撫墳日落,劍秋高;

我公戒子,無作爾勞。

(9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

身瘞萬里,家無一毫。

數子哀過,他人郁陶;

水漿不入,日月其忄舀。

州府救喪,一二而已;

自古所嘆,罕聞知已。

 

(退けられた房琯公の無実を晴らすことが出来なかった。)

(10)五段目-1

曩者書札,望公再起;

今來禮數,為態至此。

先帝松柏,故梓;

靈之忠孝,氣則依倚。

(11) )五段目-2

拾遺補闕,視君所履;

公初罷任,人實切齒

甫也備位此官,蓋薄劣耳;

見時危急,敢愛身死?

君何不聞,刑欲加矣;

伏奏無成,終身愧恥。

 

(長安での戦は収まらず、房琯公の棺は故郷に帰ることが出来るのだろうか)

(12)六段目-1

乾坤慘慘,豺虎紛紛。

蒼生破碎,諸將功勛;

城邑自守,鼙鼓相聞。

山東雖定,灞上多軍;

憂恨展轉,痛傷氤氳。

(13) 六段目-2

元豈正色?白亦不分;

培婁滿地,昆侖無群。

致祭者酒,陳情者文;

何當旅櫬,得出江?

(末文)

嗚呼哀哉!尚饗!

 

(故の宰相清河房公を祭る文) 

(1)(前文)

維れ唐の廣德元年 癸卯に次る、犯九月辛丑朔、二十二日壬戌,京兆にある杜甫は,敬んで醴酒、茶 藕 鯽の奠を以って,故の相國清河房公の靈を祭り奉りて曰く:

 

(2)一段目

「嗚呼!純樸は既に散じ,圣人も又た歿す;

しくも大賢に非ずんば,孰か天秩を奉ぜん?

唐の始めに命を受けしは,群公 間出す;

君臣 和同し,德教 充溢す。

(3)

魏 杜 之を行う,夫れ何ぞ一を畫す;

婁 宋 之を繼ぎて,故實を墜さず。

 年間,輔弼有るを見る;

公の相に入るに及び,紀綱 已に失わる。

(4)

將帥 紀を干し,煙塵 闕を犯す;

王風 寢頓し,神器 圮裂す。

關輔 蕭條として,乘輿 播越す。

太子即位され,揖讓され倉卒されたり;

小臣 權を用い,尊貴 倏忽【しゅっこつ】たり。

(5)

公 實に匡救せんとし,餐を忘れて奮發す;

累【かさ】ねて直詞を控え,空しく泣血を聞く。

時に綅沴【しんれい】に遭い,國 征伐有り;

車駕 京に還り,朝廷 列に就く;

盜は本【もとも】と弊に乘じ,誅するも終に滅びず;

高義 沈埋し,赤心 蕩折す。

官を貶せられ路を厭がれ,讒口され 骨に到る;

君に致すの誠,困に在りて彌々切なり。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文) (1)(前文)

 祭故相國清河房公文

維唐廣德元年次癸卯

犯九月辛丑朔二十二日壬戌,

京兆杜甫,敬以醴酒茶藕鯽之奠,

奉祭故相國清河房公之靈曰:

 

(下し文)

(故の宰相清河房公を祭る文) 

(1)(前文)

維れ唐の廣德元年 は癸卯に次る、犯九月辛丑朔、二十二日壬戌,京兆にある杜甫は,敬んで醴酒、茶 藕 鯽の奠を以って,故の相國清河房公の靈を祭り奉りて曰く:

 

(現代語訳)

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

唐の廣徳元年癸【みずのと】卯【う】763年である。

月を越え、辛丑が月はじめ(朔)である九月の二十二日の壬戌の日。

長安でお世話になった杜甫が、ここにつつしんで醴酒、茶・レンコンなどのジュンサイ、鯉フナなどの三品をお供えいたします。

今は啼き、宰相であり、清河郡公であった房琯公の霊をお祭り奉り、次のように申し上げる。

杜甫詩年譜INDEX00 

(訳注) (1)(前文)

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦⑧ 悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152によって房琯を貶されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

⑨ 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

 

維唐廣德元年次癸卯

唐の廣徳元年癸【みずのと】卯【う】763年である。

〇癸卯 干支の組み合わせの40番目で、前は壬寅、次は甲辰である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の卯は陰の木で、相生(水生木)である。西暦年を60で割って43が余る年が癸卯の年となる。したがって763年となる。

 

犯九月辛丑朔二十二日壬戌,

月を越え、辛丑が月はじめ(朔)である九月の二十二日の壬戌の日。

〇辛丑(かのとうし、しんちゅう)は、干支の一つ。干支の組み合わせの38番目で、前は庚子、次は壬寅である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の丑は陰の土で、相生(土生金)である。

〇壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの59番目で、前は辛酉、次は癸亥である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の戌は陽の土で、相剋(土剋水)である。

 

京兆杜甫,敬以醴酒茶藕鯽之奠,

長安でお世話になった杜甫が、ここにつつしんで醴酒、茶・レンコンなどのジュンサイ、鯉フナなどの三品をお供えいたします。

京兆 漢代に京畿の行政区域をいう。随唐で函谷関以西の長安地方をいう。杜甫が華州司功参軍に貶せられ、官を辞したことは、房琯は認識していた。 

醴酒 あまざけ。

茶藕鯽 お茶、レンコン・ジュンサイ、フナ

 

奉祭故相國清河房公之靈曰:

今は啼き、宰相であり、清河郡公であった房琯公の霊をお祭り奉り、次のように申し上げる。
蜀中転々圖 

廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

ここはすでに他郷であるが、それに自分はここからふたたびたびにでかけるのである。因って馬をとどめて房大尉のさびしいこの墳墓にお別れをする。自分の悲しみはどんなであるか、苛も自分の涙のおちるところに近い場所には乾いた土というものは無く、空低くぶら下がってちぎれ雲がみえているのである。

 
        
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
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廣徳2764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

 

757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。宰相の房琯が邠州刺史に貶められたことで、杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。

左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護発言事件(事件)」である。しかしこの「事件」により、堪え、苦しみ、詩人として格段の成長を遂げることになるのである。最も注目すべき事柄である。

 
 

 杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

  ⑧ 悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

  ⑨ 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

①  720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

② 721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

③ 722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

④ 廣徳2764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

杜甫詩index-15  765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63

⑤ 855 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

856 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

●文

⑥ 奉謝口敕放三司推問状

⑦ 祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)

 

○関連
杜甫人生のエポックメーキングの事件
、「房琯擁護発言事件(房琯事件)」房琯に関する詩は9首あり、関連の詩が5首ある。特に上記①~⑦の詩文の前後の作品は杜甫の心境を推し量るものとして注目している。杜甫の人生を変えた、この事件を多様に、有機的に、大局的にもとらえてゆく。


 

別房太尉墓

(前の宰相房琯太尉の墓に別れをつげる。)

複行役,駐馬別孤墳。

ここはすでに他郷であるが、それに自分はここからふたたびたびにでかけるのである。因って馬をとどめて房大尉のさびしいこの墳墓にお別れをする。

無干土,低空有斷雲。

自分の悲しみはどんなであるか、苛も自分の涙のおちるところに近い場所には乾いた土というものは無く、空低くぶら下がってちぎれ雲がみえているのである。
對棋陪謝傅,把劍覓徐君。

自分は謝太博ともいうべき房大尉の生前に陪席して碁のおあい手をしたことがある。いま大尉を慕うこころもちは呉の季札が徐国の君をもとめてその墓に自己の剣をとってかけようとしている時のそれのようなものである。しかし大尉はいない、大尉は語らない、

唯見林花落,鶯啼送客聞。

ただただ、林の花がはらはらと落ちちり、自分を送るために鶯が噂きごえを聞かしてくれるのみである。

(房大尉の墓に別る)

他郷復た行役し、馬を駐めて孤墳に別る。

涙に近きは土無く、空に低れて断雲有り。

対棋 謝傅に陪しき、剣を把りて徐君を覓む。

惟だ見る 林花の落つるを、鶯啼 客を送りて聞かしむ。

楠樹02 

『別房太尉墓』 現代語訳と訳註

(本文)

別房太尉墓

複行役,駐馬別孤墳。

近淚無干土,低空有斷雲。

對棋陪謝傅,把劍覓徐君。

唯見林花落,鶯啼送客聞。

 

(下し文)

(房大尉の墓に別る)

他郷復た行役し、馬を駐めて孤墳に別る。

涙に近きは土無く、空に低れて断雲有り。

対棋 謝傅に陪しき、剣を把りて徐君を覓む。

惟だ見る 林花の落つるを、鶯啼

楠樹01 客を送りて聞かしむ。

 

(現代語訳)

(前の宰相房琯太尉の墓に別れをつげる。)

ここはすでに他郷であるが、それに自分はここからふたたびたびにでかけるのである。因って馬をとどめて房大尉のさびしいこの墳墓にお別れをする。

自分の悲しみはどんなであるか、苛も自分の涙のおちるところに近い場所には乾いた土というものは無く、空低くぶら下がってちぎれ雲がみえているのである。

自分は謝太博ともいうべき房大尉の生前に陪席して碁のおあい手をしたことがある。いま大尉を慕うこころもちは呉の季札が徐国の君をもとめてその墓に自己の剣をとってかけようとしている時のそれのようなものである。しかし大尉はいない、大尉は語らない、

ただただ、林の花がはらはらと落ちちり、自分を送るために鶯が噂きごえを聞かしてくれるのみである。

 

(訳注)

別房太尉墓

(前の宰相房琯太尉の墓に別れをつげる。)

○房大尉 宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(⑧ 悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

⑨ 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

)によって房琯を乾されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

764年広徳二年春、閬州より成都に赴こうとして房琯の墓に別れる情をのべた詩。作者の文集中(全唐文)に広徳元年九月に作った 「故相国清河房公を祭る文」がある。

 

複行役,駐馬別孤墳。

ここはすでに他郷であるが、それに自分はここからふたたびたびにでかけるのである。因って馬をとどめて房大尉のさびしいこの墳墓にお別れをする。

○他郷 聞州をさす。

○行役 成都にゆこうとすることをいう。

 

近淚無干土,低空有斷雲。

自分の悲しみはどんなであるか、苛も自分の涙のおちるところに近い場所には乾いた土というものは無く、空低くぶら下がってちぎれ雲がみえているのである。

○近涙 自己の涙のおちる附近の地面をいう。

○乾土 かわいたつち。

 

對棋陪謝傅,把劍覓徐君。

自分は謝太博ともいうべき房大尉の生前に陪席して碁のおあい手をしたことがある。いま大尉を慕うこころもちは呉の季札が徐国の君をもとめてその墓に自己の剣をとってかけようとしている時のそれのようなものである。しかし大尉はいない、大尉は語らない、

○対碁陪謝博 謝博は晋の謝安、卒して太博を贈られたゆえ謝博という、淝水の戦に謝玄らが秦の苻堅の軍を破り、その捷報が到着した時、安は客と対して碁を囲んでいたが面に喜色をあらわさなかったという。謝安を以て房増に此した、杜甫は房琯と碁を囲んだことがあったものと思われる。或はいう、房靖は董庭蘭の琴をきいたことによって宦官の讒言などにより、物議を招いたので碁を借りてそれとなく琴のことを寓したのであると。

○把劍覓徐君 呉の季札の故事。季札が晋に使いしょうとして徐の国を過ぎたとき、徐の君が札の帯びている剣を欲しがった、札はそのことを知り、晋より帰る途中、徐に立ちよったが、徐君はすでに残していた、札は剣を解いて徐君の壕樹に繋けて去った。自己を季札に、やすし房琯を徐君に此した。

 

唯見林花落,鶯啼送客聞。

ただただ、林の花がはらはらと落ちちり、自分を送るために鶯が噂きごえを聞かしてくれるのみである。

○客 自己をさす、成都にゆこうとする旅客ゆえかくいう。
クスノキ01 

廣徳2年764-87 《自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三》 杜甫index-14 764年ふたたび成都 杜甫<763> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4145 杜甫詩1500-763-1000/250051

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三》 杜甫≫竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

 

廣徳2764-87 《自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三》 杜甫index-14 764年ふたたび成都 杜甫<763> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4145 杜甫詩1500-763-1000/250051

 

 

“「今の心境」 をのべる。”

自閬州領妻子卻赴蜀山行 三首之一

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。)

汩汩避群盜,悠悠經十年。

わたしは水の流れにもてあそばれるがごとく多くの盗賊を避けてあるいているが、それは安禄山が叛乱し、以来ゆうに十年のはるかな月日を経てしまった。

不成向南國,複作遊西川。

荊州・江南の南国の方へゆくつもりでじゅんびしていたがそれを果たすことができず、ふたたび西川、錦江の成都に遊ぶことにしたのである。

物役水照,魂傷山寂然。

途中、山水の風光を観賞も全くできないで無用の景色としてしまうのであるが、外物に使役されている身にとっては澄んだ水もいたずらに物象をうつし、魂の傷んでいる身にとっては趣きのある山もさびしいとだけの感じるのである。

我生無倚著,盡室畏途邊。

吾が生涯はまことにたよりないものであって、いま家族をこぞって盗賊や険阻があるおそろしい旅途にあるのである。

 

「妻を領する」ことをのべる。

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の二)

長林偃風色,回復意猶迷。

長く遠方まで林がつづいていて、さっと風が吹くと、うちふすようにみえる。これをみてわたしはうねるように往ったり来たりしながらきょうの天候はどうかと迷いつづける。

衫裛翠微潤,馬銜青草嘶。

上衣は山の中腹に差し掛かり、嵐気につつまれてしめったかんじがする、馬は青草をくわえながらいなないている。

棧懸斜避石,橋斷卻尋溪。

ぶらさがっているような危い桟道があるので身をかわして斜めに岩石をよけたり、橋がとぎれているのでたちもどって渓ぞいの路をたずねたりする。

何日干戈盡,飄飄媿老妻。

いつになったら兵乱がなくなるのであろうか、こんなにも彷徨って飄々としていることは老妻に対してわたしのはずるところである。

 

「子を領する」 ことをのべる

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

行色遞隱見,人煙時有無。

だんだんゆくと、家族の皆のもの達の旅姿が互いに見え隠れする、人家の煙は有ったり無人の家だったりする。

僕夫穿竹語,稚子入雲呼。

竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。

轉石驚魑魅,抨弓落狖鼯。

また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

真供一笑樂,似欲慰窮途。

これらの事はまことに一笑するだけの楽しみとして供せられる、彼らはこんなことでゆきつまった旅途の憂さを慰めようと考えているらしいのである

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の三)

行色 遞いに隠見す、人煙 時に有無。

僕夫 竹を穿ちて語り、稚子 雲に入りて呼ぶ。

石を転じて魑魅を驚かし、弓を抨【はじ】きて狖鼯【ゆうご】を落とす。

真に一笑の楽しみに供す、窮途を慰めんと欲するに似たり。

yuugure02 

『自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三』 現代語訳と訳註

(本文)

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三

行色遞隱見,人煙時有無。

僕夫穿竹語,稚子入雲呼。

轉石驚魑魅,抨弓落狖鼯。

真供一笑樂,似欲慰窮途。

 

(下し文)

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の三)

行色 遞いに隠見す、人煙 時に有無。

僕夫 竹を穿ちて語り、稚子 雲に入りて呼ぶ。

石を転じて魑魅を驚かし、弓を抨【はじ】きて狖鼯【ゆうご】を落とす。

真に一笑の楽しみに供す、窮途を慰めんと欲するに似たり。

 

(現代語訳)

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

だんだんゆくと、家族の皆のもの達の旅姿が互いに見え隠れする、人家の煙は有ったり無人の家だったりする。

竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。

また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

これらの事はまことに一笑するだけの楽しみとして供せられる、彼らはこんなことでゆきつまった旅途の憂さを慰めようと考えているらしいのである

 

蜀中転々圖 

(訳注)

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

○領 びきいる。

○卻 はじめは閬州もしくは梓州より江を下って荊州へ赴こうとしたのだが、それとは反対にということ。

○蜀 成都をさしていう。

○山行 やまじをゆく。

 

行色遞隱見,人煙時有無。

だんだんゆくと、家族の皆のもの達の旅姿が互いに見え隠れする、人家の煙は有ったり無人の家だったりする。

○行色 進行しつつあるありさま。

○人煙 人家のけむり。

 

僕夫穿竹語,稚子入雲呼。

竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。

○僕夫 めしつかいの男。

○穿竹 竹林のなかをとおりぬけることをいう。

○稚子 おさなご。

 

轉石驚魑魅,抨弓落狖鼯。

また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

○魑魅 物の精怪、もののけ。

○拝 弾くこと、ほじいてつる糸をひびかすこと。

○狖 そり鼻で尾の長い猿。

○鼯 むささび。

 

真供一笑樂,似欲慰窮途。

これらの事はまことに一笑するだけの楽しみとして供せられる、彼らはこんなことでゆきつまった旅途の憂さを慰めようと考えているらしいのである

○似欲 単に「欲す」といわないで「似」の字を加えたのは自己をいわないで稚子輩のさまをいったものである。

○窮途 ゆきづまりのみち。
浮桟橋00 

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自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三》杜甫≫竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。


        
 2014年5月4日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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“「今の心境」 をのべる。”

自閬州領妻子卻赴蜀山行 三首之一

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。)

汩汩避群盜,悠悠經十年。

わたしは水の流れにもてあそばれるがごとく多くの盗賊を避けてあるいているが、それは安禄山が叛乱し、以来ゆうに十年のはるかな月日を経てしまった。

不成向南國,複作遊西川。

荊州・江南の南国の方へゆくつもりでじゅんびしていたがそれを果たすことができず、ふたたび西川、錦江の成都に遊ぶことにしたのである。

物役水照,魂傷山寂然。

途中、山水の風光を観賞も全くできないで無用の景色としてしまうのであるが、外物に使役されている身にとっては澄んだ水もいたずらに物象をうつし、魂の傷んでいる身にとっては趣きのある山もさびしいとだけの感じるのである。

我生無倚著,盡室畏途邊。

吾が生涯はまことにたよりないものであって、いま家族をこぞって盗賊や険阻があるおそろしい旅途にあるのである。

 

「妻を領する」ことをのべる。

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)
長林偃風色,回復意猶迷。

長く遠方まで林がつづいていて、さっと風が吹くと、うちふすようにみえる。これをみてわたしはうねるように往ったり来たりしながらきょうの天候はどうかと迷いつづける。

衫裛翠微潤,馬銜青草嘶。

上衣は山の中腹に差し掛かり、嵐気につつまれてしめったかんじがする、馬は青草をくわえながらいなないている。

棧懸斜避石,橋斷卻尋溪。

ぶらさがっているような危い桟道があるので身をかわして斜めに岩石をよけたり、橋がとぎれているのでたちもどって渓ぞいの路をたずねたりする。

何日干戈盡,飄飄媿老妻。

いつになったら兵乱がなくなるのであろうか、こんなにも彷徨って飄々としていることは老妻に対してわたしのはずるところである。

月明峡01 

「子を領する」 ことをのべる

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

行色遞隱見,人煙時有無。

だんだんゆくと、家族の皆のもの達の旅姿が互いに見え隠れする、人家の煙は有ったり無人の家だったりする。

僕夫穿竹語,稚子入雲呼。

竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。

轉石驚魑魅,抨弓落狖鼯。

また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

真供一笑樂,似欲慰窮途。

これらの事はまことに一笑するだけの楽しみとして供せられる、彼らはこんなことでゆきつまった旅途の憂さを慰めようと考えているらしいのである

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の三)

行色 遞いに隠見す、人煙 時に有無。

僕夫 竹を穿ちて語り、稚子 雲に入りて呼ぶ。

石を転じて魑魅を驚かし、弓を抨【はじ】きて狖鼯【ゆうご】を落とす。

真に一笑の楽しみに供す、窮途を慰めんと欲するに似たり。

 

蜀中転々圖 

『自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三』 現代語訳と訳註

(本文)

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三

行色遞隱見,人煙時有無。

僕夫穿竹語,稚子入雲呼。

轉石驚魑魅,抨弓落狖鼯。

真供一笑樂,似欲慰窮途。

 

(下し文)

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の三)

行色 遞いに隠見す、人煙 時に有無。

僕夫 竹を穿ちて語り、稚子 雲に入りて呼ぶ。

石を転じて魑魅を驚かし、弓を抨【はじ】きて狖鼯【ゆうご】を落とす。

真に一笑の楽しみに供す、窮途を慰めんと欲するに似たり。

 

(現代語訳)

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

だんだんゆくと、家族の皆のもの達の旅姿が互いに見え隠れする、人家の煙は有ったり無人の家だったりする。

竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。

また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

これらの事はまことに一笑するだけの楽しみとして供せられる、彼らはこんなことでゆきつまった旅途の憂さを慰めようと考えているらしいのである

 

 

(訳注)

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之三

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

○領 びきいる。

○卻 はじめは閬州もしくは梓州より江を下って荊州へ赴こうとしたのだが、それとは反対にということ。

○蜀 成都をさしていう。

○山行 やまじをゆく。

 

行色遞隱見,人煙時有無。

だんだんゆくと、家族の皆のもの達の旅姿が互いに見え隠れする、人家の煙は有ったり無人の家だったりする。

○行色 進行しつつあるありさま。

○人煙 人家のけむり。

 

僕夫穿竹語,稚子入雲呼。

竹林をとおりぬけながら下僕が話しをしたり、雲の中に入りながら幼子が大声でさけんだりする。

○僕夫 めしつかいの男。

○穿竹 竹林のなかをとおりぬけることをいう。

○稚子 おさなご。

 

轉石驚魑魅,抨弓落狖鼯。

また石をころがしてもののけを驚かしてみたり、弓弦をはじいて尾長猿やむささびを高い処から落ちるようにしたりする。

○魑魅 物の精怪、もののけ。

○拝 弾くこと、ほじいてつる糸をひびかすこと。

○狖 そり鼻で尾の長い猿。

○鼯 むささび。

 

真供一笑樂,似欲慰窮途。

これらの事はまことに一笑するだけの楽しみとして供せられる、彼らはこんなことでゆきつまった旅途の憂さを慰めようと考えているらしいのである

○似欲 単に「欲す」といわないで「似」の字を加えたのは自己をいわないで稚子輩のさまをいったものである。

○窮途 ゆきづまりのみち。
竹林001 

廣徳2年764-86 《自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二》 杜甫index-14 764年ふたたび成都 杜甫<762> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4140 杜甫詩1500-762-999/250050

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二》杜甫≫上衣は山の中腹に差し掛かり、嵐気につつまれてしめったかんじがする、馬は青草をくわえながらいなないている。ぶらさがっているような危い桟道があるので身をかわして斜めに岩石をよけたり、橋がとぎれているのでたちもどって渓ぞいの路をたずねたりする。


        
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
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「妻を領する」ことをのべる。

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

長林偃風色,回復意猶迷。

長く遠方まで林がつづいていて、さっと風が吹くと、うちふすようにみえる。これをみてわたしはうねるように往ったり来たりしながらきょうの天候はどうかと迷いつづける。

衫裛翠微潤,馬銜青草嘶。

上衣は山の中腹に差し掛かり、嵐気につつまれてしめったかんじがする、馬は青草をくわえながらいなないている。

棧懸斜避石,橋斷卻尋溪。

ぶらさがっているような危い桟道があるので身をかわして斜めに岩石をよけたり、橋がとぎれているのでたちもどって渓ぞいの路をたずねたりする。

何日干戈盡,飄飄媿老妻。

いつになったら兵乱がなくなるのであろうか、こんなにも彷徨って飄々としていることは老妻に対してわたしのはずるところである。

 

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の二)

長林 風に偃す色あり、迥復 意猶お迷う。

衫【さん】翠微に裛【まと】われて潤い 馬青草を銜【ふく】みて嘶く。

桟懸かりて斜めに石を避け、橋断えて却って渓を尋ぬ。

何の日か干戈尽きん、飄飄 老妻に媿ず。

月明峡01 

 

『自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二』 現代語訳と訳註

(本文) 自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二

長林偃風色,回復意猶迷。

衫裛翠微潤,馬銜青草嘶。

棧懸斜避石,橋斷卻尋溪。

何日干戈盡,飄飄媿老妻。

 

(下し文)

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の二)

長林 風に偃す色あり、迥復 意猶お迷う。

衫【さん】翠微に裛【まと】われて潤い 馬青草を銜【ふく】みて嘶く。

桟懸かりて斜めに石を避け、橋断えて却って渓を尋ぬ。

何の日か干戈尽きん、飄飄 老妻に媿ず。

 

(現代語訳)

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

長く遠方まで林がつづいていて、さっと風が吹くと、うちふすようにみえる。これをみてわたしはうねるように往ったり来たりしながらきょうの天候はどうかと迷いつづける。

上衣は山の中腹に差し掛かり、嵐気につつまれてしめったかんじがする、馬は青草をくわえながらいなないている。

ぶらさがっているような危い桟道があるので身をかわして斜めに岩石をよけたり、橋がとぎれているのでたちもどって渓ぞいの路をたずねたりする。

いつになったら兵乱がなくなるのであろうか、こんなにも彷徨って飄々としていることは老妻に対してわたしのはずるところである。

 

 

(訳注)

自閬州領妻子卻赴蜀山行,三首之二

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。三首の三)

○領 びきいる。

○卻 はじめは閬州もしくは梓州より江を下って荊州へ赴こうとしたのだが、それとは反対にということ。

○蜀 成都をさしていう。

○山行 やまじをゆく。

 

長林偃風色,回復意猶迷。

長く遠方まで林がつづいていて、さっと風が吹くと、うちふすようにみえる。これをみてわたしはうねるように往ったり来たりしながらきょうの天候はどうかと迷いつづける。

○長林 とおくまでつづいた林。

〇偃風色 風に吹かれて臥すがごときさまにみえる。

 回転往復の意、

○意猶迷 迷とは思うに天候の良否についてまようのであろう。渓流山崖にそってゆくときは同じような路を紆回し、またたちもどるようなことがある。

 

衫裛翠微潤,馬銜青草嘶。

上衣は山の中腹に差し掛かり、嵐気につつまれてしめったかんじがする、馬は青草をくわえながらいなないている。

○衫 (上半身に着る)ひとえの上着,シャツ.⇒ chènshān ,汗衫 hànshān 2(足元まで届く)長い上着.

○裛 纏うこと。

○翠微 山気がかすかにみどりであることをいう。山の中腹部分。

 

棧懸斜避石,橋斷卻尋溪。

ぶらさがっているような危い桟道があるので身をかわして斜めに岩石をよけたり、橋がとぎれているのでたちもどって渓ぞいの路をたずねたりする。

○桟 かけはし。桟道。成都紀行で同じような経験をしている。

桔柏渡
青冥寒江渡,駕竹為長橋。竿濕煙漠漠,江永風蕭蕭。
連笮動嫋娜,徵衣颯飄颻。急流鴇鷁散,
岸黿鼉驕

西轅自茲異,東逝不可要。高通荊門路,闊會滄海潮。

孤光隱顧盼,遊子悵寂寥。無以洗心胸,前登但山椒。

○卻尋溪 あともどりして渓路をたずねる。

 

何日干戈盡,飄飄媿老妻。

いつになったら兵乱がなくなるのであろうか、こんなにも彷徨って飄々としていることは老妻に対してわたしのはずるところである。
蜀中転々圖 

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(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。)荊州・江南の南国の方へゆくつもりでじゅんびしていたがそれを果たすことができず、ふたたび西川、錦江の成都に遊ぶことにしたのである。

        
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“「今の心境」 をのべる。”

自閬州領妻子卻赴蜀山行 三首之一

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。)

汩汩避群盜,悠悠經十年。

わたしは水の流れにもてあそばれるがごとく多くの盗賊を避けてあるいているが、それは安禄山が叛乱し、以来ゆうに十年のはるかな月日を経てしまった。

不成向南國,複作遊西川。

荊州・江南の南国の方へゆくつもりでじゅんびしていたがそれを果たすことができず、ふたたび西川、錦江の成都に遊ぶことにしたのである。

物役水照,魂傷山寂然。

途中、山水の風光を観賞も全くできないで無用の景色としてしまうのであるが、外物に使役されている身にとっては澄んだ水もいたずらに物象をうつし、魂の傷んでいる身にとっては趣きのある山もさびしいとだけの感じるのである。

我生無倚著,盡室畏途邊。

吾が生涯はまことにたよりないものであって、いま家族をこぞって盗賊や険阻があるおそろしい旅途にあるのである。

 

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の一)

汨汨【いついつ】として群盗を避く、悠悠 十年を経る。

南国に向こうことを成さず、復た西川に遊ぶことを作す。

物に役せられては水虚しく照らし、魂傷みては山寂然たり。

我が生倚著無し、盡室 長途の辺にある。

 

蜀中転々圖 

『自閬州領妻子卻赴蜀山行 三首之一』 現代語訳と訳註

(本文)

自閬州領妻子卻赴蜀山行 三首之一

汩汩避群盜,悠悠經十年。

不成向南國,複作遊西川。

物役水照,魂傷山寂然。

我生無倚著,盡室畏途邊。

 

(下し文)

(閬州より妻子をひきいて卻って蜀赴むく山行 三首の一)

汨汨【いついつ】として群盗をく、悠悠 十年を経る。

南国に向こうことを成さず、復た西川に遊ぶことを作す。

物に役せられては水虚しく照らし、魂傷みては山寂然たり。

我が生倚著無し、盡室 長途の辺にある。

 

(現代語訳)

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。)

わたしは水の流れにもてあそばれるがごとく多くの盗賊を避けてあるいているが、それは安禄山が叛乱し、以来ゆうに十年のはるかな月日を経てしまった。

荊州・江南の南国の方へゆくつもりでじゅんびしていたがそれを果たすことができず、ふたたび西川、錦江の成都に遊ぶことにしたのである。

途中、山水の風光を観賞も全くできないで無用の景色としてしまうのであるが、外物に使役されている身にとっては澄んだ水もいたずらに物象をうつし、魂の傷んでいる身にとっては趣きのある山もさびしいとだけの感じるのである。

吾が生涯はまことにたよりないものであって、いま家族をこぞって盗賊や険阻があるおそろしい旅途にあるのである。

 

(訳注)

自閬州領妻子卻赴蜀山行 三首之一

(閬州から妻子をひきいて予定とはうってかわって蜀(成都)の方へ赴こうとして山路をとおったときの詩。)

○領 びきいる。

○卻 はじめは閬州もしくは梓州より江を下って荊州へ赴こうとしたのだが、それとは反対にということ。

○蜀 成都をさしていう。

○山行 やまじをゆく。

 

汩汩避群盜,悠悠經十年。

わたしは水の流れにもてあそばれるがごとく多くの盗賊を避けてあるいているが、それは安禄山が叛乱し、以来ゆうに十年のはるかな月日を経てしまった。

汩汩 水が早く流れるさま。

○悠悠 はるかなさま。

〇十年 天宝十四年、安禄山の乱が起こってより今年広徳二年まで十年である。

 

不成向南國,複作遊西川。

荊州・江南の南国の方へゆくつもりでじゅんびしていたがそれを果たすことができず、ふたたび西川、錦江の成都に遊ぶことにしたのである。

○南国 刑州地方をさす。

○西川 蜀はこの時東川(梓州)・西川(成都)の二部に分割していた。西川節度使は成都に治したのでこの西川は岷江・錦江の流れをいい、成都をさす。東川は涪江・嘉陵江をしめす。

 

物役水照,魂傷山寂然。

途中、山水の風光を観賞も全くできないで無用の景色としてしまうのであるが、外物に使役されている身にとっては澄んだ水もいたずらに物象をうつし、魂の傷んでいる身にとっては趣きのある山もさびしいとだけの感じるのである。

○物役 我が一身が外物(主として衣食の計をさす)に使役されること。

○水虚照 虚とは無効であること、いたずらにの意である。山の水は清澄にしてよく景物を照映する、これを賞玩することができるならば水に照映の効があるということができよう。これを賞玩することができないならば水の照映するのは無効の照映であるといえよう。

○山寂然 この寂然も上の虚照の類である、山の風景がわが心を慰めるのに足るならば山も寂蓼ではないということができる、今慰めるに足るものがないのでさびしくおぼえるのである。

 

我生無倚著,盡室畏途邊。

吾が生涯はまことにたよりないものであって、いま家族をこぞって盗賊や険阻があるおそろしい旅途にあるのである。

○我生 自己の生涯。

倚著 俺頼附着の意。

○尽室 一家族全体。

畏途 おそろしい旅途、盗賊や険阻があるのは畏途である。
四川省西部地区略図 

廣徳2年764-84 《渡江》 杜甫index-14 764年 杜甫<760> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4130 杜甫詩1500-760-997/250048

二月にはや風涛が起こっているので、春の嘉陵江は渡ることができないので、出発できないのである。増水しているといっても舟や楫を上手くあやつれば急流に乗って横むきになりながらでも早く走るし、水中にすんでいる魚竜の寝場所からも高いところをういて通るからよいとおもう。


        
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
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渡江

(嘉陵江を渡ろうとする)

春江不可渡,二月已風濤。

二月にはや風涛が起こっているので、春の嘉陵江は渡ることができないので、出発できないのである。

舟楫欹斜疾,魚龍偃臥高。

増水しているといっても舟や楫を上手くあやつれば急流に乗って横むきになりながらでも早く走るし、水中にすんでいる魚竜の寝場所からも高いところをういて通るからよいとおもう。

渚花兼素錦,汀草亂青袍。

にしきを張ったようにうつくしく、汀の草は青色の袍がみだれるのかとあやしまれるが、都の青袍をきた若い連中が乱れるのとはちがっていい景色ではないか。

戲問垂綸客,悠悠見汝曹。

自分は早くここを出帆したいので戯れに釣を垂れている人に向かって聞くのだけれど、このとき気長にみえるのはおまえたちだけである、と。

(江を渡る)

春江 渡る可からず、二月 已に風濤なり。

舟楫 欹斜 疾く、魚竜 偃臥 高し。

渚花 素錦を兼ね、汀草 青袍 乱る。

戯れに問う 垂綸の客に、悠悠 汝が曹を見る。

浮桟橋00 

 

『渡江』 現代語訳と訳註

(本文)

渡江

春江不可渡,二月已風濤。

舟楫欹斜疾,魚龍偃臥高。

渚花兼素錦,汀草亂青袍。

戲問垂綸客,悠悠見汝曹。

 

(下し文)

(江を渡る)

春江 渡る可からず、二月 已に風濤なり。

舟楫 欹斜 疾く、魚竜 偃臥 高し。

渚花 素錦を兼ね、汀草 青袍 乱る。

戯れに問う 垂綸の客に、悠悠 汝が曹を見る。

 

(現代語訳)

(嘉陵江を渡ろうとする)

二月にはや風涛が起こっているので、春の嘉陵江は渡ることができないので、出発できないのである。

増水しているといっても舟や楫を上手くあやつれば急流に乗って横むきになりながらでも早く走るし、水中にすんでいる魚竜の寝場所からも高いところをういて通るからよいとおもう。

にしきを張ったようにうつくしく、汀の草は青色の袍がみだれるのかとあやしまれるが、都の青袍をきた若い連中が乱れるのとはちがっていい景色ではないか。

自分は早くここを出帆したいので戯れに釣を垂れている人に向かって聞くのだけれど、このとき気長にみえるのはおまえたちだけである、と。

 

 

(訳注)

渡江

(嘉陵江を渡ろうとする)

○渡江 春の増水と点呼不漁によって出発ができないけれど、出発できないけれど決心は変わらないと詠うもの。

○江 此の詩は次の間州より発した詩とあわせ考えるのに間州を出発しょうとして先ず江を渡ったときの作であろう。とするならば江は嘉陵江であろう。

海棠花021 

春江不可渡,二月已風濤。

二月にはや風涛が起こっているので、春の嘉陵江は渡ることができないので、出発できないのである。

○春江 閬州の嘉陵江流域の山々の雪解けと天候不良によって増水していて、出向することが出来なかった。

○二月 盛春であれば出帆できるはずなのでこういう言い方をした。

○風濤 増水して水の流れが速く、風が強いと大波になる。

 

舟楫欹斜疾,魚龍偃臥高。

増水しているといっても舟や楫を上手くあやつれば急流に乗って横むきになりながらでも早く走るし、水中にすんでいる魚竜の寝場所からも高いところをういて通るからよいとおもう。

○舟楫 舟や楫を上手くあやつること。

○欹斜 急流にふねが乗ること。

○疾 早く進むこと。

○魚龍 さかなやミズチが生息する通常の高さより高いことで、彼等の邪魔をしないということをいう。

○偃臥高 魚竜の寝場所からも高いところをういて通ること。

 

渚花兼素錦,汀草亂青袍。

渚の花は白にしきを張ったようにうつくしく、汀の草は青色の袍がみだれるのかとあやしまれるが、都の青袍をきた若い連中が乱れるのとはちがっていい景色ではないか。

○渚花 渚の花。

○素錦 白にしきを張ったようにうつくしいこと。

○汀草 水際の草草。

○亂青袍 春の若草が咲き乱れる。青色の袍をきた書生、若者が少し乱れた程度のことだということ。

 

戲問垂綸客,悠悠見汝曹。

自分は早くここを出帆したいので戯れに釣を垂れている人に向かって聞くのだけれど、このとき気長にみえるのはおまえたちだけである、と。

○垂綸客 釣糸をたれる人。太公望のように三顧の礼に迎えられることを考えているなら気の長いことある。今の天子代宗は迎えに来るようなことはしない人だ。

○汝曹 なんじら。

蜀中転々圖 

 

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紀 頌之

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