杜甫 奉節-32-#2 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -2》時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。
766年大暦元年55歲-41-#2奉節-32-#2 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -2》 杜甫index-15 杜甫<904-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5620
杜甫詩1500-904-2-1295/2500766年大暦元年55歲-41-#2
卷二二二 文體: 五言古詩
詩題: 八哀詩八首:故司徒李公光弼【案:光弼已封王,贈太保,稱司徒者,以其功名著於司徒時。〈洗兵馬〉亦云:「司徒清鑒懸明鏡」。】
詩序: 并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。
八哀詩 故司徒李公光弼
李公光弼(李光弼)をかなしんでよんだ詩。
巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1
(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)
司徒天寶末,北收晉陽甲。
司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。
胡騎攻吾城,愁寂意不愜。
人そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。
安若泰山,薊北斷右脅。
しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。
朔方氣乃蘇,黎首見帝業。
朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。
(八哀詩八首〔二〕故の司徒李公光弼) -#1
北斷右。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。
司徒天宝の末、北のかた晋陽の甲を収む。
胡騎 吾が城を攻む、愁寂 意 愜【かな】わず。
人 安すること 泰山の若し、薊北 右脅を断つ。
朔方 気乃ち蘇し、黎首 帝業を見る。
#2
二宮泣西郊,九廟起頹壓。
玄宗、粛宗の二宮はみやこの西郊に泣哭せられ、安史軍のために焚毀せられた九廟をやっと頽圧から起こしたときのことである。
未散河陽卒,思明偽臣妾。
時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。
複自碣石來,火焚乾坤獵。
それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。
高視笑祿山,公又大獻捷。
史思明の倣慢な態度は安禄山をも嘲笑しているかのごとくであったが、李光弼公はそれをもうち破って宗廟に大捷を献ぜられた。
二宮西郊に泣く、九廟 頹圧せらるるを起こす。
未だ散ぜず河陽の卒、思明偽りて臣妾たり。
復た碣石より来たる、火焚 乾坤に猟す。
高視 禄山を笑う、公又た大いに捷を献ず。
#3
異王冊崇勳,小敵信所怯。擁兵鎮河汴,千里初妥帖。
青蠅紛營營,風雨秋一葉。內省未入朝,死淚終映睫。
#4
大屋去高棟,長城掃遺堞。平生白羽扇,零落蛟龍匣。
雅望與英姿,惻愴槐裏接。三軍晦光彩,烈士痛稠疊。
#5
直筆在史臣,將來洗箱篋。吾思哭孤塚,南紀阻歸楫。
扶顛永蕭條,未濟失利涉。疲苶竟何人,灑涕巴東峽。
766年大暦元年55歲-41-#2奉節-32-#2 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -2》
『八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#2
二宮泣西郊,九廟起頹壓。未散河陽卒,思明偽臣妾。
複自碣石來,火焚乾坤獵。高視笑祿山,公又大獻捷。
(下し文)
二宮西郊に泣く、九廟 頹圧せらるるを起こす。
未だ散ぜず河陽の卒、思明偽りて臣妾たり。
復た碣石より来たる、火焚 乾坤に猟す。
高視 禄山を笑う、公又た大いに捷を献ず。
(現代語訳)
玄宗、粛宗の二宮はみやこの西郊に泣哭せられ、安史軍のために焚毀せられた九廟をやっと頽圧から起こしたときのことである。
時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。
それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。
史思明の倣慢な態度は安禄山をも嘲笑しているかのごとくであったが、李光弼公はそれをもうち破って宗廟に大捷を献ぜられた。
(訳注) 766年大暦元年55歲-41-#2奉節-32-#2 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -2》
故政司徒李公光弼 故はすでに死んだ者を称する、司徒は上に云う官名、光弼をさす。
郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。
実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。
安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの2人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。
李光弼(708~764年)は、営州柳城(遼寧朝陽南)の出身で、契丹族である。幼いころは遊びまわらないで、乗馬して弓を射ることがうまく、成年してからは威厳、落ち着き、果敢さがあり、知略にとんでいた。
唐国の粛宗の靈武行在所で、郭子儀河西節度使、朔方節度副使に任命され、ついで、河東節度使、天下兵馬副元帥に任命され、安史の乱の平定する戦いのなかで功績をあげ、郭子儀とともに「李郭」と言われた。『新唐書』には、その功績をたたえ、「戦功は中興の名臣の中でも一番だ」と記されている。
唐、760年上元元年、李光弼は軍隊を率いて、史思明の安史軍と戦い、勝利をあげた。李光弼の部隊は野水度に駐屯していたが、牙将の雍希顥に留守を任せて、自ら千名の兵士をひきつれて他所に隠れた。出て行く前、李光弼は留守を任せる武将たちに言った。「敵将の高暉、李日越は、一人で一万人分くらいの力がある敵だ。敵は私を襲ってくるだろう。おまえはここに残り、敵が来ても戦うな。もし降伏したら、私のところに連れてこい」
武将たちは、この言葉を聞いて、かなり変だと感じたものの、心の中では「大将は、どう事をさばくのか、こんな不思議なことをするのだろう」と思った。
翌日、史思明は、武将の李日越に五百騎の完全武装の騎馬隊を指揮させ、李光弼を襲うことにする。このとき勝てなければ帰ってくるなと命じた。李日越は、軍隊をひきいて野水度に来て、そこには雍希顥しかいないと知ると、ついに降伏した。李光弼は、李日越を厚遇したうえ、さらに郭子儀に頼んで右金吾大将軍にしてもらった。それで、この話を聞いた高暉も、李光弼に降伏する。
すべてが片付いた後、武将たちはどんどんどうやって二人の敵将を投降させられたのかを聞きいた。李光弼は解説するように言った。「李日越が降伏したのは、私がどこにもいなかったので任務を遂行しようがなかったし、雍希顥は無名の武将なので、戦死させたとしても功績にならないからだ。高暉は、李日越より自分はすごいと自負しており、すでに李日越が降伏して厚遇されている以上、自分が降伏すればもっと厚遇されるだろうと思うだろうからだ」
李光弼の戦法は、戦略をきちんと立て、計画ができてから戦うというもので、つねに少ない兵力で大軍に勝っている。軍隊の管理が厳正で、武将たちはだれもが命令に従う。764年、李光弼は病死したが、死に際して、財産をすべて武将たちに分け与えている。武将たちはだれもが李光弼の死を泣いて悲しんだ。
杜甫758年《洗兵馬(行)》「司徒清鑒懸明鏡,尚書氣與秋天杳。」(司徒の清鑒【せいかん】明鏡【めいきょう】を懸【か】く、尚書【しょうしょ】の気は秋天【しゅうてん】と杳【はるか】なり。)司徒李光弼は人物をみぬく力のあり、性格はあかるくあたかも鏡をかけたようなのだ、兵部の王尚書の気象は秋の空とともにはるかに澄み渡っているのだ。
○司徒 李光弼、時に検校司徒を加えられる。○清鑒 人物をみぬく力のあることをいう。○懸明鏡 かがみにたとえる。○尚書 王思礼をいう、時に兵部尚書に遷る、安慶緒を討つときに粛宗は河東の李光弼、沢潞の王思礼の二節度使をして、部下の兵をひきいてこれを助けさせた。○気与秋天香 気は人の気象をいう、その気象は、秋の澄みわたった気が天とともに高く遙かなのに似ている、思礼の意気の爽かなさまをいう。
洗兵行 #2 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 296
#2
二宮泣西郊,九廟起頹壓。
玄宗、粛宗の二宮はみやこの西郊に泣哭せられ、安史軍のために焚毀せられた九廟をやっと頽圧から起こしたときのことである。
〇二宮 玄宗粛宗。
○西郊 長安の西郊、入京の途筋である。長安奪還のため攻め込んだ道筋。
〇九廟 天子の廟をいう。周制にあっては后稜を太祖廟として百世遷すことなく、その左に文王の世室、右に武重のせ室(世室もまた廟のこと)を置き、其の外に昭(左)穆(右)の位によって三昭三穆の廟を置いた、合して九廟である。「五陵」長安の北側渭水の北に並んである歴代の朝代君王の陵墓で、長陵、安陵、陽陵、茂陵、平陵をいう。
○起頹圧 くずれ圧倒されたのを起こす。
未散河陽卒,思明偽臣妾。
時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。
○未散河陽卒 河陽卒とは郭子儀の部下をいう。時に子儀らは東京(洛陽)を収めていたが戍兵はまだ撤していなかった。河陽については三吏三別《石壕吏》の「河陽役」 洛陽を繞る争いで、759年乾元二年の河陽での戦役になる。当時作者が泊まったこの詩の石壕村の近く。石壕吏 杜甫 三吏三別詩<216>#3 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1034 杜甫詩集700- 309
○思明偽臣妾 至徳二載十二月、史思明は所部十三州を以て投降してきたがのち復た叛いた、故に偽という。臣妾とは越王勾践が呉王夫差に降ったとき「身は臣と称し妻は妾と称せん」といったのに本づく。
複自碣石來,火焚乾坤獵。
それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。
○復自砥石来 碣石は渤海湾の今の秦皇島附近にあった石門の名、古の燕地に属する。燕薊州は安史軍の根拠地であるその領地の有名な石門である、乾元元年に史思明が復た反し、二年には軍を四道に分かち河を渡って汴州に会し西のかた鄭州を攻めた。
○火焚 火をたく、猟のとき獣をかりだすのに行う。
○乾坤猟 天地の間に猟する、安史軍の異民族部隊は、占領地の略奪を許されていたから、民家を焼き掠奪をほしいままにすることをたとえていう。
高視笑祿山,公又大獻捷。
史思明の倣慢な態度は安禄山をも嘲笑しているかのごとくであったが、李光弼公はそれをもうち破って宗廟に大捷を献ぜられた。
○高視 めをあげて高く視る、衿倣のさま、ふんぞり返り、また、やぶにらみの史思明の傲慢な態度。
○公 李光弼。
○献捷 758年乾元二年七月、光弼は郭子儀に代わって朔方節度使・兵馬元帥となった。十月史思明が河陽を攻めたが、李光弼は史思明と中潬の西に戦って大いにこれを破った、また懐州を収めて安太清を擒にし、捕虜を太廟に献じた。以上「二宮」八句は史思明を破った功をのべる。
二宮西郊に泣く、九廟 頹圧せらるるを起こす。
未だ散ぜず河陽の卒、思明偽りて臣妾たり。
復た碣石より来たる、火焚 乾坤に猟す。




















