杜甫 巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -4 周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。
766年大暦元年55歲-45-#4奉節-36-#4 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -4》 杜甫index-15 杜甫<908-#4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5775
杜甫詩1500-908-#4-1326/2500766年大暦元年55歲-45-#4
年:766年大暦元年55歲
卷別: 卷二二二 杜少陵集 巻十六 文體: 五言古詩
詩題: 八哀詩八首:故祕書少監武功蘇公源明
詩序: 并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。
及地點:徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方
兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡
泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳
萊蕪 (河南道 兗州 萊蕪)
滎陽 (都畿道 鄭州 滎陽)
長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都
交遊人物:蘇源明 詩文提及
八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明(秘書少監蘇源明を哀しんだ詩。)
(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)
武功少也孤,徒步客徐兗。
武功の蘇君は幼少のときに孤児になり、徒歩きして徐州兗州の地方に客となり、自分も斉趙に一緒に遊んでいる。
讀書東岳中,十載考墳典。
東岳泰山の中の寺観で読書し、十年間かけて古典について考えた。
時下萊蕪郭,忍飢浮雲巘。
雲の浮かんでいる山に餞餓に堪え忍んで読書し、時おり萊蕪縣の城郭へおりてくるくらいのことであった。
負米晚為身,每食臉必泫。
晩に負米の労役をしたがそれは子路のごとく親を養うためでなく、親がいないから自己のためにしるので食事をするたびに頬が涙でぬれた。
(故秘書少監武功の蘇公源明)
武功少きや孤なり、徒歩 徐兗に客たり。
書を読む東岳の中、十載 墳典を考う。
時に萊蕪の郭に下る、飢えを忍ぶ浮雲の巘。
負米 晩に身の為にす、食する毎に臉必ず泫たり。
#2
夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。
君はよく勉強し、夜の勉学の最中には薪をもやして文字を照らし、垢のついた衣には碧ごけが生えるほど没頭されていた。
庶以勤苦志,報茲劬勞顯。
できることなら、君の心中ではこれほどの勤苦の志でもっていることが、御両親の苦労なされたおぼしめしに報いたいものだということを見てもらいたかった。
學蔚醇儒姿,文包舊史善。
やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。
灑落辭幽人,歸來潛京輦。
さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。
夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。
庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』
学は蔚たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。
灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。
#3
射君東堂策,宗匠集精選。
そうして東堂で天子の御試験に応じたが、時の試験官はいずれも文章の大家で一粒えりというべき人たちが集められた。
制可題未乾,乙科已大闡。
受験の難きことは推して知るべしであるが、やがて及第の御許可が出て天子の御かきつけの墨もかわかぬうちに君の乙科及第の評判ははやくも世間にひろがった。
文章日自負,吏祿亦累踐。
文章において君は日ましに自己の力をたのんでいたが、掾吏の属官をもきらわず下の方からつぎつぎとのぼっていった
晨趨閶闔內,足蹋宿昔趼。
しかし太子論徳に任ぜられて禁城の御門へ、朝はやくでるようになっても、君は徒歩をつづけてむかしのままの足に豆して、ふみあるいていた。
君が東堂の策を射る、宗匠 精選を集む。
制可 題 未だ乾かず、乙科 己に大いに闡けたり。
文章 日々に自負す、吏祿 亦た累りに践めり。
晨に趨す 閶闔の内、足は踏む宿昔の趼。』
#4
一麾出守還,黃屋朔風卷。
それから京師より逐いだされ地方官(東平太守)掾吏の属官となって評価され、また都へもどった時に国子司業になったが、安禄山の乱がおこって天子の乗御の車蓋には北風が吹きまくって、どうしようもなかった。
不暇陪八駿,虜庭悲所遣。
周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。
平生滿尊酒,斷此朋知展。
すなわち平生なら樽に満ちた酒を心行くまで酌みかわして、朋友とのあいだで心のむすばれをほぐし、ひろげることができるのであるがそれがすっかりできなくなったのだ。
憂憤病二秋,有恨石可轉。
それで憂憤のあまり二度の秋を病気ですごされたし、この境遇におる恨みはもっていたが君の堅固な心は安史軍にはどうしても動かすことができなかった。
一麾 出守して還る、黃屋 朔風巻く。
八駿に陪するに暇あらず、虜庭 遣る所に悲しむ。
平生 樽の酒に満ち、此れを断つ 朋知の展を。
憂憤 病むこと二秋、恨み有り 石 転ず可し。
『八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明』 現代語訳と訳註解説
(本文) #4
一麾出守還,黃屋朔風卷。
不暇陪八駿,虜庭悲所遣。
平生滿尊酒,斷此朋知展。
憂憤病二秋,有恨石可轉。
(下し文)
一麾 出守して還る、黃屋 朔風巻く。
八駿に陪するに暇あらず、虜庭 遣る所に悲しむ。
平生 樽の酒に満ち、此れを断つ 朋知の展を。
憂憤 病むこと二秋、恨み有り 石 転ず可し。
(現代語訳)
それから京師より逐いだされ地方官(東平太守)掾吏の属官となって評価され、また都へもどった時に国子司業になったが、安禄山の乱がおこって天子の乗御の車蓋には北風が吹きまくって、どうしようもなかった。
周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。
すなわち平生なら樽に満ちた酒を心行くまで酌みかわして、朋友とのあいだで心のむすばれをほぐし、ひろげることができるのであるがそれがすっかりできなくなったのだ。
それで憂憤のあまり二度の秋を病気ですごされたし、この境遇におる恨みはもっていたが君の堅固な心は安史軍にはどうしても動かすことができなかった。
(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)
○故秘書少監武功蘇公源明 蘇源明、初めの名は預、京兆武功の人、秘書少監となって卒した。杜甫25歳736年から4・5年行動を共にしている。杜甫とともに、儒者房琯グループ。くわしくは、八哀詩八首〔六〕#1参照。
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一麾出守還,黃屋朔風卷。
それから京師より逐いだされ地方官(東平太守)掾吏の属官となって評価され、また都へもどった時に国子司業になったが、安禄山の乱がおこって天子の乗御の車蓋には北風が吹きまくって、どうしようもなかった。
〇一麾出守還 地方長官となって地方に出てまた都へかえったことをいう。南朝·宋·顏延之《五君詠》「屢薦不入官,一麾乃出守。」(屡、薦むれども官に人らズ、一麾乃ち出守たり」と。一麾とはひとたび差し招いて去らしめることをいう。出守は中央から出されて郡守となることをいう。蘇源明は東平太守として都より出て、召し還されて国子司業となった。安禄山が都を陥れたとき、蘇源明は病気の故を以て偽署(安史軍に官を命ぜられること)を受けなかった。
○黄屋 天子の御乗車の車蓋、車蓋をもって帝位をさす。
○朔風巻 北風が吹きまく、安禄山の軍が幽燕薊の北方の地よりおこりその勢いの強盛であり、ウイグルの傭兵が多くいたことをいう。
不暇陪八駿,虜庭悲所遣。
周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。
○陪八駿 玄宗の蜀へ逃げたおともをする、周の穆王の八駿の故事(中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「謄霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。)を用いる。
○虜庭 安史軍に占領された都の大明宮の丹庭をさす。
○悲所遣 定説がないが、安史軍が大明宮の宝物、珍品を略奪し、その後に火をかけたので、朝廷はよりどころを失っていたこと、靈武に行在所を移さざるをえなかったこと、国の50%以上が安史軍の支配下となった事、挙げればきりがないほどなり場のない、よりどころがない状態であった。100万の唐王朝軍が、10万から30万の安史軍に簡単に大敗したのである。
平生滿尊酒,斷此朋知展。
すなわち平生なら樽に満ちた酒を心行くまで酌みかわして、朋友とのあいだで心のむすばれをほぐし、ひろげることができるのであるがそれがすっかりできなくなったのだ。
○朋知展 展は展情、巻かれているこころをのべひろげることをいう。朋知は朋友知己。平日ならば懐いを遣る方法は朋友と樽酒を酌むことであるが、今はその方法がないことをいう。
憂憤病二秋,有恨石可轉。
それで憂憤のあまり二度の秋を病気ですごされたし、この境遇におる恨みはもっていたが君の堅固な心は安史軍にはどうしても動かすことができなかった。
〇二秋 756年天宝十五載(すなわち至徳元載)と757年至徳二載との両年の秋。杜甫は757年4月、長安を脱出して鳳翔の行在所に駆け込んだ。
○石可転 心は転ずることができないということをいう、《詩経、邶風・柏舟》「我心匪石 不可転也。」(我が心石に匪ず、転ずべからず」とみえる。
《詩経、邶風・柏舟》
我心匪石、不可轉也。我が心 石に匪ず、轉がす可からざる也。
我心匪席、不可卷也。我心 席(むしろ)に匪ず、卷く可からざる也。
威儀棣棣、不可選也。威儀 棣棣(ていてい)として、選ぶ可からざる也。
〔六〕故秘書少監武功蘇公源明
(故秘書少監武功の蘇公源明)
武功少きや孤なり、徒歩 徐兗に客たり。
書を読む東岳の中、十載 墳典を考う。
時に萊蕪の郭に下る、飢えを忍ぶ浮雲の巘。
負米 晩に身の為にす、食する毎に臉必ず泫たり。
夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。
庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』
学は蔚たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。
灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。
君が東堂の策を射る、宗匠 精選を集む。
制可 題 未だ乾かず、乙科 己に大いに闡けたり。
文章 日々に自負す、吏祿 亦た累りに践めり。
晨に趨す 閶闔の内、足は踏む宿昔の趼。』
一麾 出守して還る、黃屋 朔風巻く。
八駿に陪するに暇あらず、虜庭 遣る所に悲しむ。
平生 樽の酒に満ち、此れを断つ 朋知の展を。
憂憤 病むこと二秋、恨み有り 石 転ず可し。




















