杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

2015年03月

766年大暦元年55歲-45-#4奉節-36-#4 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -4》 杜甫index-15 杜甫<908-#4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5775

杜甫 巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -4  周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。

 

 
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766年大暦元年55-45-4奉節-36-4 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -4 杜甫index-15 杜甫<908-#4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5775

 

 

杜甫詩1500-908-#4-1326/2500766年大暦元年55-45-4

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二二  杜少陵集 巻十六       文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:故祕書少監武功蘇公源明

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方  

兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡        

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳        

萊蕪 (河南道 兗州 萊蕪)  

滎陽 (都畿道 鄭州 滎陽)  

長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都  

交遊人物:蘇源明              詩文提及

 

八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明秘書少監蘇源明を哀しんだ詩。)

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)

武功少也孤,徒步客徐兗。

武功の蘇君は幼少のときに孤児になり、徒歩きして徐州兗州の地方に客となり、自分も斉趙に一緒に遊んでいる。

讀書東岳中,十載考墳典。

東岳泰山の中の寺観で読書し、十年間かけて古典について考えた。

時下萊蕪郭,忍飢浮雲巘。

雲の浮かんでいる山に餞餓に堪え忍んで読書し、時おり萊蕪縣の城郭へおりてくるくらいのことであった。

負米晚為身,每食臉必泫。

晩に負米の労役をしたがそれは子路のごとく親を養うためでなく、親がいないから自己のためにしるので食事をするたびに頬が涙でぬれた。

 

(故秘書少監武功の蘇公源明)

武功少きや孤なり、徒歩 徐兗に客たり。

書を読む東岳の中、十載 墳典を考う。

時に萊蕪の郭に下る、飢えを忍ぶ浮雲の巘。

負米 晩に身の為にす、食する毎に臉必ず泫たり。

#2

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。

君はよく勉強し、夜の勉学の最中には薪をもやして文字を照らし、垢のついた衣には碧ごけが生えるほど没頭されていた。

庶以勤苦志,報茲劬勞顯。

できることなら、君の心中ではこれほどの勤苦の志でもっていることが、御両親の苦労なされたおぼしめしに報いたいものだということを見てもらいたかった。

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。

灑落辭幽人,歸來潛京輦。

さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。

 

夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。

庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』

学は蔚たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。

灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。

#3

射君東堂策,宗匠集精選。

そうして東堂で天子の御試験に応じたが、時の試験官はいずれも文章の大家で一粒えりというべき人たちが集められた。

制可題未乾,乙科已大闡。

受験の難きことは推して知るべしであるが、やがて及第の御許可が出て天子の御かきつけの墨もかわかぬうちに君の乙科及第の評判ははやくも世間にひろがった。

文章日自負,吏祿亦累踐。

文章において君は日ましに自己の力をたのんでいたが、掾吏の属官をもきらわず下の方からつぎつぎとのぼっていった

晨趨閶闔足蹋宿昔趼。

しかし太子論徳に任ぜられて禁城の御門へ、朝はやくでるようになっても、君は徒歩をつづけてむかしのままの足に豆して、ふみあるいていた。

君が東堂の策を射る、宗匠 精選を集む。

制可 題 未だ乾かず、乙科 己に大いに闡けたり。

文章 日々に自負す、吏祿 亦た累りに践めり。

晨に趨す 閶闔の内、足は踏む宿昔の趼。』

 

#4

一麾出守還,黃屋朔風卷。

それから京師より逐いだされ地方官(東平太守)掾吏の属官となって評価され、また都へもどった時に国子司業になったが、安禄山の乱がおこって天子の乗御の車蓋には北風が吹きまくって、どうしようもなかった。

不暇陪八駿,虜庭悲所遣。

周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。

平生滿尊酒,斷此朋知展。

すなわち平生なら樽に満ちた酒を心行くまで酌みかわして、朋友とのあいだで心のむすばれをほぐし、ひろげることができるのであるがそれがすっかりできなくなったのだ。

憂憤病二秋,有恨石可轉。

それで憂憤のあまり二度の秋を病気ですごされたし、この境遇におる恨みはもっていたが君の堅固な心は安史軍にはどうしても動かすことができなかった。

 

一麾 出守して還る、黃屋 朔風巻く。

八駿に陪するに暇あらず、虜庭 遣る所に悲しむ。

平生 樽の酒に満ち、此れを断つ 朋知の展を。

憂憤 病むこと二秋、恨み有り 石 転ず可し。

長安城皇城図 

 

『八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#4

一麾出守還,黃屋朔風卷。

不暇陪八駿,虜庭悲所遣。

平生滿尊酒,斷此朋知展。

憂憤病二秋,有恨石可轉。



(下し文)
一麾 出守して還る、黃屋 朔風巻く。

八駿に陪するに暇あらず、虜庭 遣る所に悲しむ。

平生 樽の酒に満ち、此れを断つ 朋知の展を。

憂憤 病むこと二秋、恨み有り 石 転ず可し。

(現代語訳)
それから京師より逐いだされ地方官(東平太守)掾吏の属官となって評価され、また都へもどった時に国子司業になったが、安禄山の乱がおこって天子の乗御の車蓋には北風が吹きまくって、どうしようもなかった。

周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。

すなわち平生なら樽に満ちた酒を心行くまで酌みかわして、朋友とのあいだで心のむすばれをほぐし、ひろげることができるのであるがそれがすっかりできなくなったのだ。

それで憂憤のあまり二度の秋を病気ですごされたし、この境遇におる恨みはもっていたが君の堅固な心は安史軍にはどうしても動かすことができなかった。


長安城漢唐
(訳注) 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 #4

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)

○故秘書少監武功蘇公源明 蘇源明、初めの名は預、京兆武功の人、秘書少監となって卒した。杜甫25736年から45年行動を共にしている。杜甫とともに、儒者房琯グループ。くわしくは、八哀詩八首〔六〕#1参照。

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一麾出守還,黃屋朔風卷。

それから京師より逐いだされ地方官(東平太守)掾吏の属官となって評価され、また都へもどった時に国子司業になったが、安禄山の乱がおこって天子の乗御の車蓋には北風が吹きまくって、どうしようもなかった。

〇一出守還 地方長官となって地方に出てまた都へかえったことをいう。南朝·宋·顏延之《五君詠》「屢薦不入官,一麾乃出守。」(屡、薦むれども官に人らズ、一乃ち出守たり」と。一とはひとたび差し招いて去らしめることをいう。出守は中央から出されて郡守となることをいう。蘇源明は東平太守として都より出て、召し還されて国子司業となった。安禄山が都を陥れたとき、蘇源明は病気の故を以て偽署(安史軍に官を命ぜられること)を受けなかった。

○黄屋 天子の御乗車の車蓋、車蓋をもって帝位をさす。

○朔風巻 北風が吹きまく、安禄山の軍が幽燕薊の北方の地よりおこりその勢いの強盛であり、ウイグルの傭兵が多くいたことをいう。

 

不暇陪八駿,虜庭悲所遣。

周の穆王の八駿の馬を使われたかのように、天子(玄宗)の御逃げになる御馬のあとに君はおともをする暇もないほどであった、その身は、私と同じように安史軍に軟禁され、国の主要部が、安史軍に支配され、その上大明宮は焼かれていて、どうして胸の懐いを遣るべきかに悲しみぬいた。

○陪八駿 玄宗の蜀へ逃げたおともをする、周の穆王の八駿の故事(中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「謄霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。)を用いる。

○虜庭 安史軍に占領された都の大明宮の丹庭をさす。

○悲所遣 定説がないが、安史軍が大明宮の宝物、珍品を略奪し、その後に火をかけたので、朝廷はよりどころを失っていたこと、靈武に行在所を移さざるをえなかったこと、国の50%以上が安史軍の支配下となった事、挙げればきりがないほどなり場のない、よりどころがない状態であった。100万の唐王朝軍が、10万から30万の安史軍に簡単に大敗したのである。

 

平生滿尊酒,斷此朋知展。

すなわち平生なら樽に満ちた酒を心行くまで酌みかわして、朋友とのあいだで心のむすばれをほぐし、ひろげることができるのであるがそれがすっかりできなくなったのだ。

○朋知展 展は展情、巻かれているこころをのべひろげることをいう。朋知は朋友知己。平日ならば懐いを遣る方法は朋友と樽酒を酌むことであるが、今はその方法がないことをいう。

 

 

憂憤病二秋,有恨石可轉。

それで憂憤のあまり二度の秋を病気ですごされたし、この境遇におる恨みはもっていたが君の堅固な心は安史軍にはどうしても動かすことができなかった。

〇二秋 756年天宝十五載(すなわち至徳元載)と757年至徳二載との両年の秋。杜甫は7574月、長安を脱出して鳳翔の行在所に駆け込んだ。

○石可転 心は転ずることができないということをいう、《詩経、邶風・柏舟》「我心匪石 不可転也。」(我が心石に匪ず、転ずべからず」とみえる。

《詩経、邶風・柏舟》

我心匪石、不可轉也。我が心 石に匪ず、轉がす可からざる也。

我心匪席、不可卷也。我心 席(むしろ)に匪ず、卷く可からざる也。

威儀棣棣、不可選也。威儀 棣棣(ていてい)として、選ぶ可からざる也。

 

安史の乱当時の勢力図 

 

 

 

〔六〕故秘書少監武功蘇公源明

(故秘書少監武功の蘇公源明)

武功少きや孤なり、徒歩 徐兗に客たり。

書を読む東岳の中、十載 墳典を考う。

時に萊蕪の郭に下る、飢えを忍ぶ浮雲の巘。

負米 晩に身の為にす、食する毎に臉必ず泫たり。

 

夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。

庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』

学は蔚たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。

灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。

 

君が東堂の策を射る、宗匠 精選を集む。

制可 題 未だ乾かず、乙科 己に大いに闡けたり。

文章 日々に自負す、吏祿 亦た累りに践めり。

晨に趨す 閶闔の内、足は踏む宿昔の趼。』

 

一麾 出守して還る、黃屋 朔風巻く。

八駿に陪するに暇あらず、虜庭 遣る所に悲しむ。

平生 樽の酒に満ち、此れを断つ 朋知の展を。

憂憤 病むこと二秋、恨み有り 石 転ず可し。

766年大暦元年55歲-45-#3奉節-36-#3 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -3》 杜甫index-15 杜甫<908-#3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5770

杜甫 奉節 巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -3 受験の難きことは推して知るべしであるが、やがて及第の御許可が出て天子の御かきつけの墨もかわかぬうちに君の乙科及第の評判ははやくも世間にひろがった。文章において君は日ましに自己の力をたのんでいたが、掾吏の属官をもきらわず下の方からつぎつぎとのぼっていった

 

 

 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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50-§3-5 《上張僕射書-#10》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1357> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5769 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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766年大暦元年55-45-3奉節-36-3 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -3》 杜甫index-15 杜甫<908-#3>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5770

 

 

杜甫詩1500-908-#3-1325/2500766年大暦元年55-45-3

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二二  杜少陵集 巻十六       文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:故祕書少監武功蘇公源明

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方  

兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡        

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳        

萊蕪 (河南道 兗州 萊蕪)  

滎陽 (都畿道 鄭州 滎陽)  

長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都  

交遊人物:蘇源明              詩文提及

 

八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明秘書少監蘇源明を哀しんだ詩。)

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)

武功少也孤,徒步客徐兗。

武功の蘇君は幼少のときに孤児になり、徒歩きして徐州兗州の地方に客となり、自分も斉趙に一緒に遊んでいる。

讀書東岳中,十載考墳典。

東岳泰山の中の寺観で読書し、十年間かけて古典について考えた。

時下萊蕪郭,忍飢浮雲巘。

雲の浮かんでいる山に餞餓に堪え忍んで読書し、時おり萊蕪縣の城郭へおりてくるくらいのことであった。

負米晚為身,每食臉必泫。

晩に負米の労役をしたがそれは子路のごとく親を養うためでなく、親がいないから自己のためにしるので食事をするたびに頬が涙でぬれた。

 

(故秘書少監武功の蘇公源明)

武功少きや孤なり、徒歩 徐兗に客たり。

書を読む東岳の中、十載 墳典を考う。

時に萊蕪の郭に下る、飢えを忍ぶ浮雲の巘。

負米 晩に身の為にす、食する毎に臉必ず泫たり。

#2

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。

君はよく勉強し、夜の勉学の最中には薪をもやして文字を照らし、垢のついた衣には碧ごけが生えるほど没頭されていた。

庶以勤苦志,報茲劬勞顯。

できることなら、君の心中ではこれほどの勤苦の志でもっていることが、御両親の苦労なされたおぼしめしに報いたいものだということを見てもらいたかった。

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。

灑落辭幽人,歸來潛京輦。

さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。

 

夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。

庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』

学は蔚たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。

灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。

#3

射君東堂策,宗匠集精選。

そうして東堂で天子の御試験に応じたが、時の試験官はいずれも文章の大家で一粒えりというべき人たちが集められた。

制可題未乾,乙科已大闡。

受験の難きことは推して知るべしであるが、やがて及第の御許可が出て天子の御かきつけの墨もかわかぬうちに君の乙科及第の評判ははやくも世間にひろがった。

文章日自負,吏祿亦累踐。

文章において君は日ましに自己の力をたのんでいたが、掾吏の属官をもきらわず下の方からつぎつぎとのぼっていった

晨趨閶闔足蹋宿昔趼。

しかし太子論徳に任ぜられて禁城の御門へ、朝はやくでるようになっても、君は徒歩をつづけてむかしのままの足に豆して、ふみあるいていた。

君が東堂の策を射る、宗匠 精選を集む。

制可 題 未だ乾かず、乙科 己に大いに闡けたり。

文章 日々に自負す、吏祿 亦た累りに践めり。

晨に趨す 閶闔の内、足は踏む宿昔の趼。』

 

長安城皇城図 

『八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#3

射君東堂策,宗匠集精選。

制可題未乾,乙科已大闡。

文章日自負,吏祿亦累踐。

晨趨閶闔足蹋宿昔趼。


(下し文)
君が東堂の策を射る、宗匠 精選を集む。

制可 題 未だ乾かず、乙科 己に大いに闡けたり。

文章 日々に自負す、吏祿 亦た累りに践めり。

晨に趨す 閶闔の内、足は踏む宿昔の

(現代語訳)
そうして東堂で天子の御試験に応じたが、時の試験官はいずれも文章の大家で一粒えりというべき人たちが集められた。

受験の難きことは推して知るべしであるが、やがて及第の御許可が出て天子の御かきつけの墨もかわかぬうちに君の乙科及第の評判ははやくも世間にひろがった。

文章において君は日ましに自己の力をたのんでいたが、掾吏の属官をもきらわず下の方からつぎつぎとのぼっていった

しかし太子論徳に任ぜられて禁城の御門へ、朝はやくでるようになっても、君は徒歩をつづけてむかしのままの足に豆して、ふみあるいていた。



(訳注) 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 #3

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)

○故秘書少監武功蘇公源明 蘇源明、初めの名は預、京兆武功の人、秘書少監となって卒した。杜甫25736年から45年行動を共にしている。杜甫とともに、儒者房琯グループ。くわしくは、八哀詩八首〔六〕#1参照。

 長安城漢唐

射君東堂策,宗匠集精選。

そうして東堂で天子の御試験に応じたが、時の試験官はいずれも文章の大家で一粒えりというべき人たちが集められた。

○射君東堂策 射策とは試験を受けること、漢の時試験に対策と射策とがあり、対策は経義を以て顕わに問い、射策は難問疑義を甲乙の策(ふだ)に書き、問題をくじびきでとって答えさせた。杜甫《醉歌行》「只今年才十六七,射策君門期第一。」

醉歌行 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 94

君は天子をいう、東堂とは試験場のこと、唐の尚書省の東堂をいう。晋の武帝の時にも、もろもろの賢良・方正・直言(試験の科名)に詔して東堂に会して策間をうけさせたことがある。

○宗匠 文章の大家をいう、当時の試験官にして受験者の文を詮衡するものをさす。

○精選 大家の中よりさらにすぐりぬいたもの。

 

制可題未乾,乙科已大闡。

受験の難きことは推して知るべしであるが、やがて及第の御許可が出て天子の御かきつけの墨もかわかぬうちに君の乙科及第の評判ははやくも世間にひろがった。

○制可 天子の仰せごとによって可とする、これは可否の字を書して及第落第を定めるのである。

○題 答案に可否の字をかくこと。

○末乾 乾とは墨痕のかわくこと。

○乙科 唐では進士の試問に時務策五条と、一の大経(毛詩・左伝・礼記などは大経)に帖して(出題の前後の場所に張り紙してだすこと)試みた。そして経と策と全部得点すれば甲第、策は四を得、帖は四以上を得ればこれを乙第とした。乙科とは乙第のことをいっている。

○己大 及第の名声の世間にびろがることをいう。蘇源明伝によると、蘇源明、文詞に工みに天宝の間に名あり、進士に及第す、更に集賢院に試せしむ、といっている。

 

文章日自負,吏祿亦累踐。〔吏祿:掾吏【えんり】〕

文章において君は日ましに自己の力をたのんでいたが、掾吏の属官をもきらわず下の方からつぎつぎとのぼっていった

○文章日自負進 士に及第したのでますます文章においてみずからたのむところがあった。

〔吏祿:掾吏〕亦累践 掾吏は属官である、これは進士及第後、まだ太子諭徳となっていなかった、前の時期ことをさす。累践とは下級より上級へと其の地位をつぎつぎとふむこと。

吏祿 吏祿制度:公府掾。公府掾は、中央で実際に治事している吏だ。中央だけでなく、令長や丞尉にもなる。安帝紀にある。事例は史料におおい。みな公府が「治劇」「茂才」だから挙げた人材である。前漢の公府掾の地位は、比較的高いから、令になる。後漢の公府掾の地位がさがり、長がおおい。

 

晨趨閶闔足蹋宿昔趼。

しかし太子論徳に任ぜられて禁城の御門へ、朝はやくでるようになっても、君は徒歩をつづけてむかしのままの足に豆して、ふみあるいていた。

○趨闇閣内 趨はわき目を振らず、すこしははやくあるく、閶闔は漢の天子の宮門、太子の宮も禁城の内にあるので閶闔の内という。これは太子諭徳の官となったことをいう。

○宿昔 は足のまめ、蘇源明は貧賤のおり、足にまめをでかしたが、仕官してのちも、昔ながらの徒歩生活で足にでかしたまめを踏み歩いていたというのである。

「学蔚」十二句は及第仕官を叙する。

766年大暦元年55歲-45-#2奉節-36-#2 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -2》 杜甫index-15 杜甫<908-#2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5765

杜甫 巻1606 八哀詩八首 六 故秘書少監武功蘇公源明 -2  やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。

 

 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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杜甫詩1500-908-#2-1324/2500766年大暦元年55-45-2

八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明秘書少監蘇源明を哀しんだ詩。)

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)

武功少也孤,徒步客徐兗。

武功の蘇君は幼少のときに孤児になり、徒歩きして徐州兗州の地方に客となり、自分も斉趙に一緒に遊んでいる。

讀書東岳中,十載考墳典。

東岳泰山の中の寺観で読書し、十年間かけて古典について考えた。

時下萊蕪郭,忍飢浮雲巘。

雲の浮かんでいる山に餞餓に堪え忍んで読書し、時おり萊蕪縣の城郭へおりてくるくらいのことであった。

負米晚為身,每食臉必泫。

晩に負米の労役をしたがそれは子路のごとく親を養うためでなく、親がいないから自己のためにしるので食事をするたびに頬が涙でぬれた。

 

(故秘書少監武功の蘇公源明)

武功少きや孤なり、徒歩 徐兗に客たり。

書を読む東岳の中、十載 墳典を考う。

時に萊蕪の郭に下る、飢えを忍ぶ浮雲の巘。

負米 晩に身の為にす、食する毎に臉必ず泫たり。

#2

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。

君はよく勉強し、夜の勉学の最中には薪をもやして文字を照らし、垢のついた衣には碧ごけが生えるほど没頭されていた。

庶以勤苦志,報茲劬勞顯。

できることなら、君の心中ではこれほどの勤苦の志でもっていることが、御両親の苦労なされたおぼしめしに報いたいものだということを見てもらいたかった。

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。

灑落辭幽人,歸來潛京輦。

さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。

 

夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。

庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』

学は蔚たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。

灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。

 

 

『八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#2

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。

庶以勤苦志,報茲劬勞顯。

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

灑落辭幽人,歸來潛京輦。


(下し文)
夜字 爇薪に照らす、垢衣 碧蘇生ず。

庶わくは勤苦の志を以て、茲の劬勞の願いに報いんことを。』

学は蔚【うつ】たり醇儒の姿、文は包ぬ 旧史の善。

灑落 幽人を辞し、帰来 京輦に潜む。


(現代語訳)
君はよく勉強し、夜の勉学の最中には薪をもやして文字を照らし、垢のついた衣には碧ごけが生えるほど没頭されていた。

できることなら、君の心中ではこれほどの勤苦の志でもっていることが、御両親の苦労なされたおぼしめしに報いたいものだということを見てもらいたかった。

やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。

さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。



(訳注) 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明#2

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)

○故秘書少監武功蘇公源明 蘇源明、初めの名は預、京兆武功の人、秘書少監となって卒した。杜甫25736年から45年行動を共にしている。杜甫とともに、儒者房琯グループ。

 

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。

君はよく勉強し、夜の勉学の最中には薪をもやして文字を照らし、垢のついた衣には碧ごけが生えるほど没頭されていた。

○夜字 夜みる文字。

爇薪 たきびをもやし、これを用いて光明をとるのである。

○碧 はこけのこと。

 

庶以勤苦志,報茲劬勞顯。

できることなら、君の心中ではこれほどの勤苦の志でもっていることが、御両親の苦労なされたおぼしめしに報いたいものだということを見てもらいたかった。

劬勞顯 父母の養育の願望をいう、「詩経」(蓼我)に「哀哀父母、生我劬勞。」(哀哀たる父母、我れを生みて苦労す。)劬もいたわり労することである。

以上起十二句は源明が孤児のために苦学したことをいう。

 

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

やがて君の学問は蔚然たる醇儒の姿をそなえ、文章は古代の歴史家の書きところをかねるようになった。

學蔚 蔚は草木の茂るさま、学殖のあるさま。

○醇儒 純正な儒者。

○文包 包は包薙、内部にひろくつつんでいれておく。

○旧史書 旧史とは旧来の歴史家、たとえば司馬遷・班固の類をいう。

 

灑落辭幽人,歸來潛京輦。

さっぱりとした山に隠棲しているなかまを去って京師へもどってきても天子のお膝もとであるのにこつそりと住んだ。

灑落 人物のさっぱりとしたさま、此の語は「幽人」を形容する。

○辞幽人 辞は辞を告げて別れること、幽人とは山中に隠遁生活をなした人々をいう。

○潜京輦 潜とはひそかに住居すること、富貴権勢の門、朝廷内の学問の派閥・一党に入ることなどに奔走しないことをいう。京輦とは輦轂の下、天子のお膝もとの意。

766年大暦元年55歲-45-#1奉節-36-#1 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -1》 杜甫index-15 杜甫<908-#1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5760

奉節-36-1 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -1 杜甫(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、〔六〕死今は亡き秘書監で武功をたてられた蘇源明公を哀しんでよんだ詩。)武功の蘇君は幼少のときに孤児になり、徒歩きして徐州兗州の地方に客となり、自分も斉趙に一緒に遊んでいる。

 

 
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 孟郊張籍     
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766年大暦元年55-45-1奉節-36-1 《巻16-06 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明 -1 杜甫index-15 杜甫<908-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5760

杜甫詩1500-908-#1-1323/2500766年大暦元年55-45-1

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:故祕書少監武功蘇公源明

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方  

兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡        

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳        

萊蕪 (河南道 兗州 萊蕪)  

滎陽 (都畿道 鄭州 滎陽)  

長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都  

交遊人物:蘇源明              詩文提及

 

 

八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明

武功少也孤,徒步客徐兗。

讀書東岳中,十載考墳典。

時下萊蕪郭,忍飢浮雲巘。

負米晚為身,每食臉必泫。

 

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚。

庶以勤苦志,報茲劬勞顯。

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

灑落辭幽人,歸來潛京輦。

 

射君東堂策,宗匠集精選。

制可題未乾,乙科已大闡。

文章日自負,吏祿亦累踐。

晨趨閶闔足蹋宿昔趼。

 

一麾出守還,黃屋朔風卷。

不暇陪八駿,虜庭悲所遣。

平生滿尊酒,斷此朋知展。

憂憤病二秋,有恨石可轉。

 

肅宗復社稷,得無逆順辨。

范曄顧其兒,李斯憶黃犬。

祕書茂松意,溟漲本末淺。

青熒芙蓉劍,犀兕豈獨剸。

 

反為後輩褻,予實苦懷緬。

煌煌齋房芝,事萬手搴。

垂之俟來者,正始徵勸勉。

不要懸黃金,胡為投乳

結交三十載,吾與誰遊衍。

 

滎陽復冥莫,罪罟已橫罥。

嗚呼子逝日,始泰則終蹇。

長安米萬錢,凋喪盡餘喘。

戰伐何當解,歸帆阻清沔。

尚纏漳水疾,永負蒿里餞。

 

詩文(含異文)

武功少也孤,徒步客徐兗【徒步寓徐兗】。

讀書東岳中,十載考墳典。

時下萊蕪郭,忍飢浮雲巘。

負米晚為身,每食臉必泫。

夜字照爇薪,垢衣生碧蘚【垢衣帶碧蘚】。

庶以勤苦志,報茲劬勞顯【報茲劬勞願】。

學蔚醇儒姿,文包舊史善。

灑落辭幽人【灑淚辭幽人】,歸來潛京輦。

射君東堂策【射策君東堂】【案:晉武帝詔諸賢良方正輩會東堂策問。】,宗匠集精選。

制可題未乾【制題墨未乾】,乙科已大闡【案:經策全得為甲科,策得四帖以上為乙科。】【休聲已大闡】。

文章日自負,吏祿亦累踐【掾吏亦累踐】。

晨趨閶闔,足蹋宿昔趼。

一麾出守還,黃屋朔風卷。

不暇陪八駿,虜庭悲所遣。

平生滿尊酒,斷此朋知展。

憂憤病二秋,有恨石可轉【有恨不可轉】。

肅宗復社稷,得無逆順辨。

范曄顧其兒,李斯憶黃犬。

祕書茂松意,溟漲本末淺。【案:以上二句一作:祕書茂松色,屢扈祠壇前。前後百卷文,枕藉皆禁臠。篆刻揚雄流,溟漲本末淺。】【案:一本作:祕書茂松色,再從祠壇前。前後百卷文,枕藉皆禁臠。篆刻揚雄流,溟漲本末淺。】【案:一本又作:祕書茂松色,屢侍祠壇前。前後百卷文,枕藉皆禁臠。制作揚雄流,溟漲本末淺。】

青熒芙蓉劍,犀兕豈獨剸【案:止兗切。】。

反為後輩褻,予實苦懷緬。

煌煌齋房芝【案:漢武帝有〈芝房歌〉,時宰相王璵以祈禱媚上,源明極言之。】,事萬手搴【案:音蹇。】【事終萬手搴】。

垂之俟來者,正始徵勸勉【正始貞勸勉】。

不要懸黃金【不惡懸黃金】,胡為投乳【案:音畎。】【胡為投亂】。

結交三十載,吾與誰遊衍。

滎陽復冥莫,罪罟已橫罥【案:音泫。】。

嗚呼子逝日,始泰則終蹇【始泰郎終蹇】。

長安米萬錢,凋喪盡餘喘。

戰伐何當解,歸帆阻清沔。

尚纏漳水疾,永負蒿里餞。

 


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766年大暦元年55歲-44-#10奉節-35-#10 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -10》 杜甫index-15 杜甫<907-10> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5755

奉節-35-10 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -10 杜甫  今や朝廷においては君臣ともにまだ吐蕃・ウイグル軍に対しての兵事を論じ、武臣で朝命にしたがわぬもの、降将であったものなどともがらは、西域から其の地遠く燕薊までつづいている。この時、李邕公の遺詩「六公篇」を朗らかに詠じてみると、心配のため胸が憂いで覆われていたが、心もからりとして、きりひらかれたような心地がするのである。
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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杜甫詩1500-907-10-1322/2500766年大暦元年55-44-10

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:卷二二二 杜少陵集巻16 7首目       文體:    五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點:              鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)             

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京        

青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

汶陽 (河南道 兗州 汶陽)  

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

 

李邕を哀しんだ詩。

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

 

#1

長嘯宇宙間,高才日陵替。

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

古人不可見,前輩複誰繼。』

古人は見ることはできぬ。古人にも近いような前輩もなくなる、だれが前輩のあとを継ぐというのだ。

憶昔李公存,詞林有根柢。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

聲華當健筆,灑落富清制。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。

 

(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

 

#2

風流散金石,追琢山嶽

したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。

情窮造化理,學貫天人際。

其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

幹謁走其門,碑版照四裔。

求める所あって李邕公に面会を乞うものは争って公の門へと走った。そうして公から書いてもらった碑版の文章は四方の遠地にかがやいた。

各滿深望還,森然起凡例。

其の文章の法は森然としで一般原則を創立するに足るほどであり、もちろん頼みに来た人々はめいめい多大の希望を満足させてもどっていった。

 

#2

風流 金石に散ず、迫琢 山岳 鋭鎖し。

情は窮む 造化の理、学は貫く 天人の際。

幹謁 其の門に走る、碑版 四裔を照らす。

各々の深望を満たして還る、森然 凡例を起こす。

 

#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

宗儒俎豆事,故吏去思計。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

向來映當時,豈獨勸後世。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

 

蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

眄睞 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。


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766年大暦元年55歲-44-#9奉節-35-#9 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -9》 杜甫index-15 杜甫<907-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5750

奉節-35-9 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -9 杜甫  張相国(張説)のことは、かれこれ是非を品評されたが李邕公と張説相国とは仲がわるくてつかみあいでもせんばかりであったもので、この事が、李邕公の身にとって、もっとも危い次第となったのである。

 

 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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766年大暦元年55-44-9奉節-35-9 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -9 杜甫index-15 杜甫<907-9 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5750

 

杜甫詩1500-907-9-1321/2500766年大暦元年55-44-9

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二                杜少陵集 巻16 7首目  文體:       五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點:              鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)             

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京        

青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

汶陽 (河南道 兗州 汶陽)  

 

 

#8

伊昔臨淄亭,酒酣托末契。

むかし(745年天寶4年)、自分は河南道 青州 臨淄郡にある臨猫の歴下亭で酒宴において李邕公と末実を託したことがある。

重敘東都別,朝陰改軒砌。』

その時、かねての東都(洛陽)でお会いして以来の別意を重ねて叙し、ながく語りつづけていつしかの階のみぎりに日影が傾いて影指す夕方までにさえなったことがある。

論文到崔蘇,指盡流水逝。

李邕公は文章を論じて「文章四友」李嶠、蘇味道、崔融におよび、前人を指おりかぞえて歳月流水の感歎を発せられた。

近伏盈川雄,未甘特進麗。

李邕公は近代では「初唐四傑」のひとりである、盈川の長官であった楊烱の雄筆に敬服しておられ、たが特進・同中書門下三品であった「文章四友」李嶠の六朝の流れの綺麗なのには満足しておられなかった。

 

伊れ昔 臨淄【りんし】の亭、酒 酣【たけなわ】にして末契に托す。

重ねて叙す 東都の別、朝陰 軒砌に改まる。』

論文 崔蘇に到る、指し尽くす 流水の逝くを。

近くは盈川の雄なるに伏するも、未だ甘んぜず 特進の麗かなるに。

 

#9

是非張相國,相扼一危脆。

張相国(張説)のことは、かれこれ是非を品評されたが李邕公と張説相国とは仲がわるくてつかみあいでもせんばかりであったもので、この事が、李邕公の身にとって、もっとも危い次第となったのである。

爭名古豈然,鍵捷欻不閉。

文士は名を争うというのは古代において必ずしもそうしたわけのものではないのだが、李邕公は心にかんぬきをかけてしめくくるということをせずにおられた。

例及吾家詩,曠懷掃氛翳。

この点において李邕公にすこし欠陥があるということで、いつも話が吾が杜家の詩の号こととなると李邕公は胸中をからりとしてもやもやとした色眼鏡で見る事を取っ払って談じられた。

慷慨嗣真作,咨嗟玉山桂。

李邕公は吾が祖父杜審言の「和李大夫嗣眞奉使存撫河東」(李大夫嗣真の使を奉じて河東を存撫するに和す)詩をよんで憤慨し、これを嘆美して「玉山の桂」だといっておられた。

鐘律儼高懸,鯤鯨噴迢遞。』

そして、儼然として高く懸かれる鐘の律音だといわれ、波を吹いて、はるかにゆく鯤鯨だとまでいわれた。 』

是非す 張相国、相扼して一に危脆なり。

名を争う 古 豈に然らんや、鍵捷 欻【たちま】ち閉じず。

例 吾が家の詩に及べば、曠懷 氛翳【ふんえい】を掃う。

憤慨す 嗣真【ししん】が作、咨嗟す 玉山の桂。

鐘律 儼として高く懸かり、鯤鯨 噴いて遥かに遞【ゆ】く。』

10

坡陀青州血,蕪沒汶陽瘞。

哀贈竟蕭條,恩波延揭厲。

子孫存如線,舊客舟凝滯。

君臣尚論兵,將帥接燕薊。

朗吟六公篇,憂來豁蒙蔽。』

 

披陀たる青州の血、薫没す投陽の瘞。

哀贈 克に粛条たり、恩波 揭厲を延く。

子孫 存すること棟の如し、旧客舟凝滞す。

君臣尚お兵を論ず、将帥 燕薊に接す。

朗詠す六公の篇、憂い来たって蒙蔽 豁なり。』

 

 安史の乱当時の勢力図

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#9

是非張相國,相扼一危脆。

爭名古豈然,鍵捷欻不閉。

例及吾家詩,曠懷掃氛翳。

慷慨嗣真作,咨嗟玉山桂。

鐘律儼高懸,鯤鯨噴迢遞。』


(下し文)
是非す 張相国、相扼して一に危脆なり。

名を争う 古 豈に然らんや、鍵捷 【たちま】ち閉じず。

例 吾が家の詩に及べば、曠懷 氛翳【ふんえい】を掃う。

憤慨す 嗣真【ししん】が作、咨嗟す 玉山の桂。

鐘律 儼として高く懸かり、鯤鯨 噴いて遥かに遞【ゆ】く。』

(現代語訳)
張相国(張説)のことは、かれこれ是非を品評されたが李邕公と張説相国とは仲がわるくてつかみあいでもせんばかりであったもので、この事が、李邕公の身にとって、もっとも危い次第となったのである。

文士は名を争うというのは古代において必ずしもそうしたわけのものではないのだが、李邕公は心にかんぬきをかけてしめくくるということをせずにおられた。

この点において李邕公にすこし欠陥があるということで、いつも話が吾が杜家の詩の号こととなると李邕公は胸中をからりとしてもやもやとした色眼鏡で見る事を取っ払って談じられた。

李邕公は吾が祖父杜審言の「和李大夫嗣眞奉使存撫河東」(李大夫嗣真の使を奉じて河東を存撫するに和す)詩をよんで憤慨し、これを嘆美して「玉山の桂」だといっておられた。

そして、儼然として高く懸かれる鐘の律音だといわれ、波を吹いて、はるかにゆく鯤鯨だとまでいわれた。 』



(訳注) #9

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏季公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

陪李北海宴歴下亭 杜甫

杜甫《奉贈韋左丞丈二十二韻》「李邕求識面,王翰願蔔鄰。」(李邕面を識らんことを求め、王翰隣を蔔せんと願う。)現代では李邕も私のかおをしりたいと求め  王翰も占いをして私の隣に住みたいと願った。

奉贈韋左丞丈二十二韻  杜甫

杜甫《同李太守登歷下古城員外新亭》  
李之芳が造った歴下の古城の新字にのぼって李邕が詩を作った。此の詩はそれに和したものである。

同李太守登歷下古城員外新亭 杜甫

李邕に関しては上記にあげた、《陪李北海宴歴下亭》《奉贈韋左丞丈二十二韻》《同李太守登歷下古城員外新亭》がある。李邕(678 - 747年)は、中国唐代の書家。広陵江都県(現・江蘇省蘇州市江都区)の人で、字は泰和。『文選』の注釈で有名な李善の子である。盛唐の名臣で、留台侍御史のときに譙王李重福を討伐して戦功を挙げた。玄宗のとき北海太守に任命されたので、世に李北海と呼ばれる。英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に800本にのぼり、巨万の富を得たといわれる。晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた。

杜甫《陪李北海宴歴下亭》

杜甫《同李太守登歷下古城員外新亭》  
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夔州東川卜居図詳細 001 

是非張相國,相扼一危脆。

張相国(張説)のことは、かれこれ是非を品評されたが李邕公と張説相国とは仲がわるくてつかみあいでもせんばかりであったもので、この事が、李邕公の身にとって、もっとも危い次第となったのである。

○是非 かれこれと評論する。

○張相国 張説をいう。玄宗は粛至忠を誅し、張説を召して中書令となし燕国公に封じた。東封して還るや張説を以て尚書左丞相となした。李邕は元来張説を軽んじていたので張説は甚だ彼を悪んだ。

○相扼 扼はもつ、おさえつける。つかみあいをはじめるという意の類。両人の交情のわるいことをいう。

○危脆 あやうく、もろし、張説が中書令であった時に李邕が陳州刺史であった時の臓事があばかれ李邕は獄に下され、死罪に当たるとされたが孔璋に救われたということ。

 

爭名古豈然,鍵捷欻不閉。

文士は名を争うというのは古代において必ずしもそうしたわけのものではないのだが、李邕公は心にかんぬきをかけてしめくくるということをせずにおられた。

○古豈然 魏の文帝の「典論」に、「文人相輕、自古而然。」(文人相い軽んず、古より然り)とある、句はこれを逆に用いている。

○鍵捷欻不閉 「老子」に「善閉無関鍵、而不可開。 善結無繩約、而不可解。」( 善く閉ずるものは関鍵なくして、開くべからず。 善く結ぶものは縄約なくして、解くべからず。らず)とみえる。注に横にとざす木を関、たでにとざす木を楗というといっている。鍵は楗と通ずる。ここの関鍵は心の戸締りをいう。李邕がすこしく心にしめくくりの無かったことをいう。

 

例及吾家詩,曠懷掃氛翳。

この点において李邕公にすこし欠陥があるということで、いつも話が吾が杜家の詩の号こととなると李邕公は胸中をからりとしてもやもやとした色眼鏡で見る事を取っ払って談じられた。

○例及 例は例のごとく、いつも、の意。

○吾家詩 吾が社家の詩、作者の祖父杜審言をさす。

○曠懷 ひろいむね。

○掃氛翳 もや、ひかげのないこと。

 

慷慨嗣真作,咨嗟玉山桂。

李邕公は吾が祖父杜審言の「和李大夫嗣眞奉使存撫河東」(李大夫嗣真の使を奉じて河東を存撫するに和す)詩をよんで憤慨し、これを嘆美して「玉山の桂」だといっておられた。

○憤慨 李邕がそれに感じて憤慨することをいう。

嗣真作 杜審言が作った「和李大夫嗣眞奉使存撫河東」(李大夫嗣真の使を奉じて河東を存撫するに和す)詩をさす。詩の原文は参考のために後に掲げる。初唐において五言排律の長篇でこのようなものはすくない。以て作者の家学の本づく所を知ることができる。

〇番嵯 李邕が感じてなげく。

○玉山桂 晋の郄詵【げきしん】が武帝に対えでいうのに、臣は賢良対策に挙げられ天下第一である、まるで桂林の一枝、崑崙山の玉のようだ、と。玉山は崑崙山をいう、玉山の桂とは郄詵が言った二事を一事として用いたものである、杜審言の詩辞の秀抜なのをたとえる。

 

鐘律儼高懸,鯤鯨噴迢遞。』

そして、儼然として高く懸かれる鐘の律音だといわれ、波を吹いて、はるかにゆく鯤鯨だとまでいわれた。 』

○鐘律 杜審言の詩の音調の和雅なことをいう。

〇鯤鯨 大魚をいう、杜審言の詩の勢いの壮んなのに此する。

○噴 潮水をふく。

○迢遞 はるかにゆく。

以上「論文」十四句は李邕が詩文を評論したことをのべる。

 

 

 

 

 

典論(てんろん)は魏の文帝(曹丕)の文学論、文学書。全5巻、100篇。魏の明帝(曹叡)の代に刊石されたが、裴松之の時代(南朝宋)はまだ存在していた。その後、『太平御覽』の引く『戴延之西征記』によると典論の石碑は六碑あったが、東晋末には4つ存在し2つが無くなっていた。唐代に石本はなくなり、宋代に写本も散逸した。現在見ることが出来るのは、『文選』に収められた「論文」篇だけだが、『全三國文』は『典略』等から典論を復元し、19(内、篇名があるのは13)を収めている。

逸話

崑崙山(こんろんざん)の峰は地の頭にあたる。ここは天帝の下界における都なので、弱水という深い川によって外界とさえぎられ、炎を噴き出す山に周りを囲まれている。山上に住む鳥獣や草木の類は、皆火炎の中で生まれ、成長して行く。そこでここには「火浣布」(火で洗う布)という布地を産するが、それは山の草木の皮や繊維でか、あるいは、鳥獣の毛で作った物である。漢の頃、西域からこの布地を献上して来たことがあるが、その後長いこと見られなかった。ところが、魏の初め頃になって、人々はそのような布が存在しないのではないかと疑問を持った。文帝(曹丕)は、だいたい火の性は容赦なく焼き尽くすものであって、生命の気を残す余地など無いはずであると考え、『典論』でこれがあり得ないことを論証し、もの知りの聞きかじりの智識を否定した。さらに明帝(曹叡)が即位するに及び、三公に対して、「先帝(曹丕)が著わし給うた『典論』は不朽の格言である。これを碑に刻み、霊廟の外及び太学に建て、石経と共に永く世に示そうぞ」と詔を下した。ところがそこへ、西域の使者が火浣布で作った袈裟を献上して来たので、石碑に刻まれた『典論』のこの部分は削り取られることになり、天下のもの笑いとなったのであった。


杜甫55歳756年作品 

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二                杜少陵集 巻16 7首目  文體:       五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點:              鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)             

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京        

青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

汶陽 (河南道 兗州 汶陽)  

 

 

#8

伊昔臨淄亭,酒酣托末契。

むかし(745年天寶4年)、自分は河南道 青州 臨淄郡にある臨猫の歴下亭で酒宴において李邕公と末実を託したことがある。

重敘東都別,朝陰改軒砌。』

その時、かねての東都(洛陽)でお会いして以来の別意を重ねて叙し、ながく語りつづけていつしかの階のみぎりに日影が傾いて影指す夕方までにさえなったことがある。

論文到崔蘇,指盡流水逝。

李邕公は文章を論じて「文章四友」李嶠、蘇味道、崔融におよび、前人を指おりかぞえて歳月流水の感歎を発せられた。

近伏盈川雄,未甘特進麗。

李邕公は近代では「初唐四傑」のひとりである、盈川の長官であった楊烱の雄筆に敬服しておられ、たが特進・同中書門下三品であった「文章四友」李嶠の六朝の流れの綺麗なのには満足しておられなかった。

 

伊れ昔 臨淄【りんし】の亭、酒 酣【たけなわ】にして末契に托す。

重ねて叙す 東都の別、朝陰 軒砌に改まる。』

論文 崔蘇に到る、指し尽くす 流水の逝くを。

近くは盈川の雄なるに伏するも、未だ甘んぜず 特進の麗かなるに。

 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#8

伊昔臨淄亭,酒酣托末契。

重敘東都別,朝陰改軒砌。』

論文到崔蘇,指盡流水逝。

近伏盈川雄,未甘特進麗。



(下し文)
伊れ昔 臨淄【りんし】の亭、酒 酣【たけなわ】にして末契に托す。

重ねて叙す 東都の別、朝陰 軒砌に改まる。』

論文 崔蘇に到る、指し尽くす 流水の逝くを。

近くは盈川の雄なるに伏するも、未だ甘んぜず 特進の麗かなるに。

(現代語訳)
むかし(745年天寶4年)、自分は河南道 青州 臨淄郡にある臨猫の歴下亭で酒宴において李邕公と末実を託したことがある。

その時、かねての東都(洛陽)でお会いして以来の別意を重ねて叙し、ながく語りつづけていつしかの階のみぎりに日影が傾いて影指す夕方までにさえなったことがある。』

李邕公は文章を論じて「文章四友」李嶠、蘇味道、崔融におよび、前人を指おりかぞえて歳月流水の感歎を発せられた。

李邕公は近代では「初唐四傑」のひとりである、盈川の長官であった楊烱の雄筆に敬服しておられ、たが特進・同中書門下三品であった「文章四友」李嶠の六朝の流れの綺麗なのには満足しておられなかった。



(訳注)

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766年大暦元年55歲-44-#7奉節-35-#7 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -7》 杜甫index-15 杜甫<907-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5740

奉節-35-7 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -7 杜甫  かかる禍のきざはしにはなにがなったかといえば公が以前から人の謗りをうけておられたということに外ならぬのであり、当路者にしてみれば李邕公をおしのけるにはさほどむずかしくはなかったであろうに、かくまでにしてしまったのはなんというひどい害しかたであるか。

 

  

 
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杜甫詩1500-907-7-1319/2500766年大暦元年55-44-7

 

 

#4

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽。

碑文の謝礼としては、富める家で用いる珊瑚の簾鉤であったり、麟鱗を模様に出した毛織物の緞通などであり、李邕の書いたものはそれぐらいの評判がたかかったのである。

紫騮隨劍幾,義取無虛

だから、紫がかった栗毛駿馬のあとに剣だの脇息だのがつきしたがってくるというのと同じように、李邕の書いた詩文・碑文にたいしてもらってしかるべきものをもらうということを年年同じようにされ止まることが無かった。

分宅驂間,感激懷未濟。

しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

眾歸賙給美,擺落多藏穢。

だから多くの人々が李邕公は他人にめぐみあたえてやる美徳をもった人だといい、ため込み主義の人だなどいう紛らわしい評判がでてもそれをはらいおとしてしまうことができた。

 

豊屋 珊瑚の鉤、麟麟 織成の罽【けい】。

紫騮 劍幾 随う、義取 虚歳 無し。

分宅 の間、感激 未済を懐く。

衆は帰す賙給の美、擺落す多蔵の穢。

 

#5

獨步四十年,風聽九皋唳。

李邕公はその当時に独歩すること四十年、その名声の高いことは九皐に鳴く鶴のこえが風につれてきこえるごとくであった。

嗚呼江夏姿,竟掩宣尼袂。

それがなんとしたことか、まあ李邕公の姿は、むかし孔子が麟麟を見て袂を反して欺かれたという話のように「吾が道窮せり矣」の運命となられたのである。

往者武后朝,引用多寵嬖。

むかし則武天の王朝には用いられた人たちはいやしい張昌宗・張易之兄弟の輩の微賤のものが多かった。

否臧太常議,面折二張勢。

その時に公は太常博士の議論を可否して諒の贈りかたに反対したり、飛ぶ鳥もおとすほど庵張氏兄弟の勢いを、まのあたりにし、挫いたりした。

 

独歩 四十年、風に聴く九皐の唳【れい】。

鳴呼江夏の姿、竟に掩う宣尼【せんじ】が袂。

往者 武后の朝、引用 寵嬖【ちょうへい】多し。

否臧【ひぞう】す 太常の議、面折す 二張の勢い。

 

#6

衰俗凜生風,排蕩秋旻霽。

そのため衰微した風俗もぴりっとして恐れをいだいてひきしまり、悪燭の雲霧がはらいのけられて秋の空がからりとはれわたったようになった。

忠貞負冤恨,宮闕深旒綴。』

その公が息貞の身を以て冤恨を抱くに至ったのはまったく天子が九重の奥におわして冤流の房深く目を蔽われてござられたからである。』

放逐早聯翩,低垂困炎厲。

やがて李邕公はひきつづいて中央から地方へ放逐せられ、つばさをしおられて、たれて炎熱と瘴癘の地方にいきくるしまれた。

日斜鵩鳥入,魂斷蒼梧帝。

その配所の舎には賈誼のように、夕方、鵩鳥が飛びこんでき、君を恋う魂は断えて舜の妃嬪が舜帝をおもうがごときものがあった。

 

衰俗 凛として風を生ず、排蕩 秋旻【しゅうびん】霽【は】れたり。

忠貞 冤恨を負う、宮闕 旒綴【りゅうてい】探し。』

放逐 早く聯翩たり、低垂 炎厲に困しむ。

日斜めにして 鵩鳥入る、魂は断ゆ 蒼梧の帝。

 

#7

榮枯走不暇,星駕無安

李邕公は栄枯の境に駆られて走るにも暇がなく、星が出ている間にその位置を見て出発の準備、馬の準備をして出るがそれをほどいておちつくことはしなかった。

幾分漢廷竹,夙擁文侯篲.

そうして、朝廷から竹符を分かち与えられていくたびか地方の長官となられた。またもとより李邕公は賢士を礼遇することは、魏の文侯の子夏における如きものがあった。

終悲洛陽獄,事近小臣敝。

ついには蔡邕の洛陽の獄におけるごとき事件がおこり、晋の太子申生が毒害されたような事件となった。

禍階初負謗,易力何深嚌。』

かかる禍のきざはしにはなにがなったかといえば公が以前から人の謗りをうけておられたということに外ならぬのであり、当路者にしてみれば李邕公をおしのけるにはさほどむずかしくはなかったであろうに、かくまでにしてしまったのはなんというひどい害しかたであるか。

栄枯 走るに暇あらず、星駕 安税無し。

幾たびか分かつ 漢廷の竹、夙【つと】に擁す文侯の篲【せい】。

終に悲しむ洛陽の獄、事は近し 小臣の敝【たお】れしに。

禍階は初めより謗りを負いしことなり、易力なるに何ぞ深嚌せるや。』

 

taigennankin88安史の乱当時の勢力図 

 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#7

榮枯走不暇,星駕無安

幾分漢廷竹,夙擁文侯篲.

終悲洛陽獄,事近小臣敝。

禍階初負謗,易力何深嚌。』




(下し文)
栄枯 走るに暇あらず、星駕 安税無し。

幾たびか分かつ 漢廷の竹、夙【つと】に擁す文侯の【せい】。

終に悲しむ洛陽の獄、事は近し 小臣の敝【たお】れしに。

禍階は初めより謗りを負いしことなり、易力なるに何ぞ深嚌せるや。』

(現代語訳)
李邕公は栄枯の境に駆られて走るにも暇がなく、星が出ている間にその位置を見て出発の準備、馬の準備をして出るがそれをほどいておちつくことはしなかった。

そうして、朝廷から竹符を分かち与えられていくたびか地方の長官となられた。またもとより李邕公は賢士を礼遇することは、魏の文侯の子夏における如きものがあった。

ついには蔡邕の洛陽の獄におけるごとき事件がおこり、晋の太子申生が毒害されたような事件となった。

かかる禍のきざはしにはなにがなったかといえば公が以前から人の謗りをうけておられたということに外ならぬのであり、当路者にしてみれば李邕公をおしのけるにはさほどむずかしくはなかったであろうに、かくまでにしてしまったのはなんというひどい害しかたであるか。



(訳注) #7

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏李公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

 

榮枯走不暇,星駕無安

李邕公は栄枯の境に駆られて走るにも暇がなく、星が出ている間にその位置を見て出発の準備、馬の準備をして出るがそれをほどいておちつくことはしなかった。

○星駕 星が出ている間にその位置を見て出発の準備、馬の準備をすること。星をみて朝はやく車に馬をつなぐことをいう。「詩経」国風・鄘風・定之方中「霊雨既零、命彼倌人。 星言夙駕、説于桑田。」(霊雨 既れ零つ彼の倌人に命じ 星みて言う夙に駕し、桑田に説于【やどらん】」とみえる。

○安税 おちついて駕をとく。

〇分漢廷竹 竹は竹符、竹符を分かつとは州の長官となること、漢の文帝の三年に初めて郡守のために銅虎符・竹使符をつくった。漢廷は唐の朝廷をいう。

 

幾分漢廷竹,夙擁文侯篲.

そうして、朝廷から竹符を分かち与えられていくたびか地方の長官となられた。またもとより李邕公は賢士を礼遇することは、魏の文侯の子夏における如きものがあった。

文侯篲. 孔子の門人子夏が西河のほとりに処ったとき、魏の文侯は子夏に師事し、ために篲(ほうき)を擁した、篲(ほうき)を擁すとは箒をかかえて道のほこりをはき清めようとすること、礼をつくすことをいう。李邕が州に在って賢士を礼遇したことは文侯の子夏におけるごとくであったことをいう。李邕傳にいう、李邕は陳州刺史となり括州刺史となり、後に淄州・滑州の二州の刺史を歴て天宝の初め、汲郡・北海の大守となる。

杜甫《陪李北海宴歴下亭

杜甫《同李太守登歷下古城員外新亭》 

 

終悲洛陽獄,事近小臣敝。

ついには蔡邕の洛陽の獄におけるごとき事件がおこり、晋の太子申生が毒害されたような事件となった。

○洛陽獄 後漢の蔡邕の故事。蔡邕は中常侍程廣璜というものに訴えられて洛陽の獄に下された。李邕が贓事を以て疑いを招いたのはこれと似ている。

○小臣姫 「左伝」(僖公四年)にみえる。晋の献公寵姫あり驪姫という、驪姫太子申生を恵み之を讒せんとし、申生をして祭りを為して祭肉を献公に致さしむ、姫、ひそかに毒を肉中に置く。先ず肉を犬に与う、犬斃る。小臣に与う、小臣亦た斃る。困って毒は申生の置く所なりと誣ゆ、と。李邕は柳勣に馬をおくったが、柳勣が罪のために獄に下されたとき、李邕はその巻き添いによって罪ありとされ、宰相李林甫のために刑部員外郎亊祁順之・監察御史羅希爽をさしむけられ北海郡において杖殺された、時に天宝六載正月である。年七十余。李邕の死は晋の中臣の毒害されたのにも似ている。

 

禍階初負謗,易力何深嚌。

かかる禍のきざはしにはなにがなったかといえば公が以前から人の謗りをうけておられたということに外ならぬのであり、当路者にしてみれば李邕公をおしのけるにはさほどむずかしくはなかったであろうに、かくまでにしてしまったのはなんというひどい害しかたであるか。

○禍階 禍を招くきざはし。

○負謗 他人のそしりをうける。これほどの事実を指しているというのではなく、しばしば罪名を蒙らせられたことをいうのであろう。

○易力 「力を為し易し」の意、容易に為しうることをいう。何を為すかというに李邕を排斥しょうとすることをさしていう。当路者(李林甫の如き)についていう。

○深嚌 嚌とは歯のところまでもっていってなめることである。深く嚌むるとはたべつくすことをいう。深害することをいう。

以上「放逐」十二句は遷謫にあって遂には罪されて殺害されたことをいう。

 

 

春秋左氏伝の僖公四年。

驪姫の美貌に心を奪われた晋の献公が妻にするの吉凶を占った際に「不吉なり。薫蕕を一緒にすれば十年悪臭が残る」という辞がでた。

献公はこの諫めを聞き入れることはなく、やがて夫人として迎え入れられた驪姫は寵愛を盾に自らの子を後継ぎにせんと画策し、晋の内乱を招くこととなる。

 

あるとき驪姫は申生に「我が君は斉姜を夢にごらんになりました。どうかはやく曲沃の廟で祀って、胙を我が君にさしあげてください」 と言う。

このやり取りは驪姫と申生のふたりだけで成立し、驪姫の謀略はすでに始まっていた。

申生は急いで母を祀り、供えた酒や肉を献公に届けた。驪姫はその酒と肉に毒を入れておいた。当然毒を入れる作業は、他人に見られないようにそっと行い、この作業は驪姫しか知らないはずであった。申生が献公に胙を献上すると、驪姫は「日がたっておりますので、お試しください」と言った。はたして酒を地にそそぐと土が盛り上がり、 肉を犬に与えると犬は死んでしまった。驪姫は泣いて、申生の残忍なことを歎き、老いたる父親まで殺そうとするから、私たち母子の命はないと訴えた。 ここにおいて驪姫の謀略は完成した。

献公は怒り、申生を疑い、申生は曲沃に出奔した。ある者が「あの毒薬を使ったのは驪姫です。太子はどうしてご自分で弁明なさらないのですか」と言いました。 しかし申生は「わが君はご高齢だから、驪姫でなければ寝ても安眠できず、食べてもうまくないのです。もしわしが弁明すれば、わが君は驪姫を怒るでしょう。 だからいけないのです」と答えてこれを拒否した。またある人が「他国へ出奔なさいませ」と言ったが 「この悪名をこうむりながら出国しても、誰が私を受け入れてくれましょう。わしは自殺するしかないのだ」と言い、 ついに申生は自殺した。

 

 

 

(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

 

風流 金石に散ず、迫琢 山岳 鋭鎖し。

情は窮む 造化の理、学は貫く 天人の際。

幹謁 其の門に走る、碑版 四裔を照らす。

各々の深望を満たして還る、森然 凡例を起こす。

 

蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

眄睞 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。

 

豊屋 珊瑚の鉤、麟麟 織成の罽【けい】。

紫騮 劍幾 随う、義取 虚歳 無し。

分宅 の間、感激 未済を懐く。

衆は帰す賙給の美、擺落す多蔵の穢。

 

独歩 四十年、風に聴く九皐の唳。

鳴呼江夏の姿、竟に掩う宣尼が袂。

往者 武后の朝、引用 寵嬖多し。

否臧す 太常の議、面折す 二張の勢い。

 

 

衰俗 凛として風を生ず、排蕩 秋旻【しゅうびん】霽【は】れたり。

忠貞 冤恨を負う、宮闕 旒綴【りゅうてい】探し。』

放逐 早く聯翩たり、低垂 炎厲に困しむ。

日斜めにして 鵩鳥入る、魂は断ゆ 蒼梧の帝。

榮枯走不暇,星駕無安

幾分漢廷竹,夙擁文侯篲.

終悲洛陽獄,事近小臣敝。

禍階初負謗,易力何深嚌。』

 

栄枯 走るに暇あらず、星駕 安税無し。

幾たびか分かつ 漢廷の竹、夙【つと】に擁す文侯の篲【せい】。

終に悲しむ洛陽の獄、事は近し 小臣の敝【たお】れしに。

禍階は初めより謗りを負いしことなり、易力なるに何ぞ深嚌せるや。』

766年大暦元年55歲-44-#6奉節-35-#6 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -6》 杜甫index-15 杜甫<907-6> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5735

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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
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206 《(改訂版) 巻24-20春夜洛城聞笛 (誰家玉笛暗飛聲)》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32歳 12首 <206> Ⅰ李白詩1437 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5733 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
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 孟郊張籍     
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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766年大暦元年55-44-6奉節-35-6 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -6 杜甫index-15 杜甫<907-6 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5735 杜甫詩1500-907-6-1318/2500766年大暦元年55-44-6

 

 

#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

宗儒俎豆事,故吏去思計。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

向來映當時,豈獨勸後世。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

 

蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

眄睞 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。

 

#4

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽。

碑文の謝礼としては、富める家で用いる珊瑚の簾鉤であったり、麟鱗を模様に出した毛織物の緞通などであり、李邕の書いたものはそれぐらいの評判がたかかったのである。

紫騮隨劍幾,義取無虛

だから、紫がかった栗毛駿馬のあとに剣だの脇息だのがつきしたがってくるというのと同じように、李邕の書いた詩文・碑文にたいしてもらってしかるべきものをもらうということを年年同じようにされ止まることが無かった。

分宅驂間,感激懷未濟。

しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

眾歸賙給美,擺落多藏穢。

だから多くの人々が李邕公は他人にめぐみあたえてやる美徳をもった人だといい、ため込み主義の人だなどいう紛らわしい評判がでてもそれをはらいおとしてしまうことができた。

 

豊屋 珊瑚の鉤、麟麟 織成の罽【けい】。

紫騮 劍幾 随う、義取 虚歳 無し。

分宅 の間、感激 未済を懐く。

衆は帰す賙給の美、擺落す多蔵の穢。

 

#5

獨步四十年,風聽九皋唳。

李邕公はその当時に独歩すること四十年、その名声の高いことは九皐に鳴く鶴のこえが風につれてきこえるごとくであった。

嗚呼江夏姿,竟掩宣尼袂。

それがなんとしたことか、まあ李邕公の姿は、むかし孔子が麟麟を見て袂を反して欺かれたという話のように「吾が道窮せり矣」の運命となられたのである。

往者武后朝,引用多寵嬖。

むかし則武天の王朝には用いられた人たちはいやしい張昌宗・張易之兄弟の輩の微賤のものが多かった。

否臧太常議,面折二張勢。

その時に公は太常博士の議論を可否して諒の贈りかたに反対したり、飛ぶ鳥もおとすほど庵張氏兄弟の勢いを、まのあたりにし、挫いたりした。

 

独歩 四十年、風に聴く九皐の唳【れい】。

鳴呼江夏の姿、竟に掩う宣尼【せんじ】が袂。

往者 武后の朝、引用 寵嬖【ちょうへい】多し。

否臧【ひぞう】す 太常の議、面折す 二張の勢い。

 

#6

衰俗凜生風,排蕩秋旻霽。

そのため衰微した風俗もぴりっとして恐れをいだいてひきしまり、悪燭の雲霧がはらいのけられて秋の空がからりとはれわたったようになった。

忠貞負冤恨,宮闕深旒綴。』

その公が息貞の身を以て冤恨を抱くに至ったのはまったく天子が九重の奥におわして冤流の房深く目を蔽われてござられたからである。』

放逐早聯翩,低垂困炎厲。

やがて李邕公はひきつづいて中央から地方へ放逐せられ、つばさをしおられて、たれて炎熱と瘴癘の地方にいきくるしまれた。

日斜鵩鳥入,魂斷蒼梧帝。

その配所の舎には賈誼のように、夕方、鵩鳥が飛びこんでき、君を恋う魂は断えて舜の妃嬪が舜帝をおもうがごときものがあった。

 

衰俗 凛として風を生ず、排蕩 秋旻【しゅうびん】霽【は】れたり。

忠貞 冤恨を負う、宮闕 旒綴【りゅうてい】探し。』

放逐 早く聯翩たり、低垂 炎厲に困しむ。

日斜めにして 鵩鳥入る、魂は断ゆ 蒼梧の帝。

安史の乱当時の勢力図 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#6

衰俗凜生風,排蕩秋旻霽。

忠貞負冤恨,宮闕深旒綴。』

放逐早聯翩,低垂困炎厲。

日斜鵩鳥入,魂斷蒼梧帝。


(下し文)
衰俗 凛として風を生ず、排蕩 秋旻【しゅうびん】霽【は】れたり。

忠貞 冤恨を負う、宮闕 旒綴【りゅうてい】探し。』

放逐 早く聯翩たり、低垂 炎厲に困しむ。

日斜めにして 鵩鳥入る、魂は断ゆ 蒼梧の帝。

(現代語訳)
そのため衰微した風俗もぴりっとして恐れをいだいてひきしまり、悪燭の雲霧がはらいのけられて秋の空がからりとはれわたったようになった。

その公が息貞の身を以て冤恨を抱くに至ったのはまったく天子が九重の奥におわして冤流の房深く目を蔽われてござられたからである。』

やがて李邕公はひきつづいて中央から地方へ放逐せられ、つばさをしおられて、たれて炎熱と瘴癘の地方にいきくるしまれた。

その配所の舎には賈誼のように、夕方、鵩鳥が飛びこんでき、君を恋う魂は断えて舜の妃嬪が舜帝をおもうがごときものがあった。


夔州東川卜居図詳細 001
(訳注) #6

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏李公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

 

衰俗凜生風,排蕩秋旻霽。

そのため衰微した風俗もぴりっとして恐れをいだいてひきしまり、悪燭の雲霧がはらいのけられて秋の空がからりとはれわたったようになった。

○衰俗 衰えて振るわぬ風俗。儒者が受け入れられないことをいう。

○凛生風 ぴりっとして、つめたく風が吹きおこる、恐れをなしたさま。

○排蕩 はらいうごかす。悪濁の気をのぞくことをいう。

○秋旻霽 秋の空の晴れ渡ること。天下の清潔になることをいう。

 

忠貞負冤恨,宮闕深旒綴。

その公が息貞の身を以て冤恨を抱くに至ったのはまったく天子が九重の奥におわして冤流の房深く目を蔽われてござられたからである。』

○忠貞 李邕をいう、忠貞の身でありながらの意。

○負冤恨 無実の罪にかかるという怨恨をもつ。

○深旒綴 旗綴深しとは冤旗の奥ふかく目を蔽われることをいう、天子が左右のために墜蔽されて事の真相に見通しのきかない、適正な判断ができないことをいう。旒綴は天子の冕冠の前後に垂れている旒の綴られたものの意として用いたもののごとくである。

「往者」以下八句は李邕が直節を持して冕旒に屈したことをいう。

 

放逐早聯翩,低垂困炎厲。

やがて李邕公はひきつづいて中央から地方へ放逐せられ、つばさをしおられて、たれて炎熱と瘴癘の地方にいきくるしまれた。

○放逐 中央から地方へおわれる。

○聯翩 ひきつづくさま。

○低垂 鳥にたとえている、つばさをひくくたれること。

○困炎厲 炎熱と悪気とにくるしむ。李邕は多く南方に流された。伝にいう;「李邕累りに雷州司戸・崖州舎城丞に配せられ、又、欽州遵化の尉に貶せらる、」と。

 

日斜鵩鳥入,魂斷蒼梧帝。

その配所の舎には賈誼のように、夕方、鵩鳥が飛びこんでき、君を恋う魂は断えて舜の妃嬪が舜帝をおもうがごときものがあった。

○鵩鳥人 漢の賈誼は長沙に流されていたとき、鵩鳥がその舎に入ってきたのをみて賦を作り自ずから傷んだ。賦序にいう、「庚子日斜めに、鵩 余ガ舎に集まる、云云」李邕の悲愁は賈誼と似ている。

○魂断蒼梧帝 蒼梧帝は舜をいう、舜は南征して蒼梧の野に至って死んだ、舜をもって唐の天子に此する、魂断とは李邕が君を思うて魂のたえることをいう。
杜甫55歳756年作品 

766年大暦元年55歲-44-#5奉節-35-#5 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -5》 杜甫index-15 杜甫<907-5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5730

奉節-35-5 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -5 杜甫  むかし則武天の王朝には用いられた人たちはいやしい張昌宗・張易之兄弟の輩の微賤のものが多かった。その時に公は太常博士の議論を可否して諒の贈りかたに反対したり、飛ぶ鳥もおとすほど庵張氏兄弟の勢いを、まのあたりにし、挫いたりした。

 


766年大暦元年55-44-5奉節-35-5 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -5 杜甫index-15 杜甫<907-5 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5730 杜甫詩1500-907-5-1317/2500766年大暦元年55-44-5

 

 

#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

宗儒俎豆事,故吏去思計。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

向來映當時,豈獨勸後世。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

 

蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

眄睞 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。

 

#4

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽。

碑文の謝礼としては、富める家で用いる珊瑚の簾鉤であったり、麟鱗を模様に出した毛織物の緞通などであり、李邕の書いたものはそれぐらいの評判がたかかったのである。

紫騮隨劍幾,義取無虛

だから、紫がかった栗毛駿馬のあとに剣だの脇息だのがつきしたがってくるというのと同じように、李邕の書いた詩文・碑文にたいしてもらってしかるべきものをもらうということを年年同じようにされ止まることが無かった。

分宅驂間,感激懷未濟。

しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

眾歸賙給美,擺落多藏穢。

だから多くの人々が李邕公は他人にめぐみあたえてやる美徳をもった人だといい、ため込み主義の人だなどいう紛らわしい評判がでてもそれをはらいおとしてしまうことができた。

 

豊屋 珊瑚の鉤、麟麟 織成の罽【けい】。

紫騮 劍幾 随う、義取 虚歳 無し。

分宅 の間、感激 未済を懐く。

衆は帰す賙給の美、擺落す多蔵の穢。

 

#5

獨步四十年,風聽九皋唳。

李邕公はその当時に独歩すること四十年、その名声の高いことは九皐に鳴く鶴のこえが風につれてきこえるごとくであった。

嗚呼江夏姿,竟掩宣尼袂。

それがなんとしたことか、まあ李邕公の姿は、むかし孔子が麟麟を見て袂を反して欺かれたという話のように「吾が道窮せり矣」の運命となられたのである。

往者武后朝,引用多寵嬖。

むかし則武天の王朝には用いられた人たちはいやしい張昌宗・張易之兄弟の輩の微賤のものが多かった。

否臧太常議,面折二張勢。

その時に公は太常博士の議論を可否して諒の贈りかたに反対したり、飛ぶ鳥もおとすほど庵張氏兄弟の勢いを、まのあたりにし、挫いたりした。

 

独歩 四十年、風に聴く九皐の唳【れい】。

鳴呼江夏の姿、竟に掩う宣尼【せんじ】が袂。

往者 武后の朝、引用 寵嬖【ちょうへい】多し。

否臧【ひぞう】す 太常の議、面折す 二張の勢い。

 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#5

獨步四十年,風聽九皋唳。

嗚呼江夏姿,竟掩宣尼袂。

往者武后朝,引用多寵嬖。

否臧太常議,面折二張勢。


(下し文)
独歩 四十年、風に聴く九皐の唳。

鳴呼江夏の姿、竟に掩う宣尼が袂。

往者 武后の朝、引用 寵嬖多し。

否臧す 太常の議、面折す 二張の勢い。

(現代語訳)
李邕公はその当時に独歩すること四十年、その名声の高いことは九皐に鳴く鶴のこえが風につれてきこえるごとくであった。

それがなんとしたことか、まあ李邕公の姿は、むかし孔子が麟麟を見て袂を反して欺かれたという話のように「吾が道窮せり矣」の運命となられたのである。

むかし則武天の王朝には用いられた人たちはいやしい張昌宗・張易之兄弟の輩の微賤のものが多かった。

その時に公は太常博士の議論を可否して諒の贈りかたに反対したり、飛ぶ鳥もおとすほど庵張氏兄弟の勢いを、まのあたりにし、挫いたりした。



(訳注) #5

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏李公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

 

獨步四十年,風聽九皋唳。

李邕公はその当時に独歩すること四十年、その名声の高いことは九皐に鳴く鶴のこえが風につれてきこえるごとくであった。

〇九皋唳 「詩経」(鶴鳴)に「鶴九皋に鳴く、声天に聞こゆ」とみえる。九皐とは外部よりかぞえて九層の内にある沢をいう、唳は鶴のなきごえをいう、鶴鴨をもって李邕の名声に比する。

 

嗚呼江夏姿,竟掩宣尼袂。

それがなんとしたことか、まあ李邕公の姿は、むかし孔子が麟麟を見て袂を反して欺かれたという話のように「吾が道窮せり矣」の運命となられたのである。

○江夏姿 李邕のすがたをいう。

○竟掩宣尼袂 李邕の道が窮し、直筆再びしがたいたことをいう。「公羊伝」(哀公十四年)にいう、「十有四年春、西に狩して麟を得たり。孔子日く孰が為にして來たれるや、孰が為にして来たれるやと。袂を反し面を拭い、沸、袍を沾す」と。またいう、「吾が道窮せりと。掩袂とは反袂に同じであろう、宜尼とは孔子をさす、孔子字は仲尼、唐に文宜王と諡したためにかくいう。」と。「独歩」四句は李邕が時に遭わずして卒したことを傷む。

孟子が、春秋経の最後が哀公14年(前481年)の獲麟で終わっていることを称して、孔子の嘆き(聖獣麒麟が出現してもきこりに獲られて死んでしまう、聖なる時代は終わってまさに戦国乱世である、あるいは聖なる時でもないのに間違って聖獣が現れたが空しく死んでしまう、聖なる世はどこにあるのか)

 

往者武后朝,引用多寵嬖。

むかし則武天の王朝には用いられた人たちはいやしい張昌宗・張易之兄弟の輩の微賤のものが多かった。

○武后朝 武后は則天武后だが、天子即位しているので、則武天のこと。則武天往事を追叙する。

○寵壁 寵愛をうけた微賤のもの、張昌宗・張易之兄弟の輩をさす。

 

否臧太常議,面折二張勢。

その時に公は太常博士の議論を可否して諒の贈りかたに反対したり、飛ぶ鳥もおとすほど庵張氏兄弟の勢いを、まのあたりにし、挫いたりした。

○否臧 可否をいう、是非すること。臧はよしとすること。

○太常議 太常は太常寺、礼を掌る官署、議は博士の議論をいう。太常博士李処直というものが韋巨源に昭という誼を授けようと議したとき李邕は二回までこれを駁した。

○面折 面とむかってくじく。

〇二張勢 張昌宗・張易之の二人の勢力、この二人は容貌が美男子であったために武后の寵をあつめ勢力があった。李邕は左拾遺に拝せられたとき中丞宋璟、張昌宗兄弟の反状を弾劾したが、則武天が応じなかったので、李邕は階下に在って大声をあげ「中丞宋璟の陳べる所は国家の大計である、陛下はお聞きにならなければならぬ」と叫んだので、則武天は顔色をやわらげて中丞宋璟の奏上を可とした。

 
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50-#2 〔《上張僕射書》-#2〕韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1349> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5729韓愈詩-50-#2 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年大暦元年55歲-44-#5奉節-35-#5 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -5》 杜甫index-15 杜甫<907-5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5730 
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766年大暦元年55歲-44-#4奉節-35-#4 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -4》 杜甫index-15 杜甫<907-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5725

奉節-35-4 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -4 杜甫  しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年大暦元年55歲-44-#4奉節-35-#4 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -4》 杜甫index-15 杜甫<907-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5725 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-27韋荘105《巻3-05 河傳三首 其一》三巻5-〈105〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5727 
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 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
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766年大暦元年55-44-4奉節-35-4 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -4 杜甫index-15 杜甫<907-4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5725 杜甫詩1500-907-4-1316/2500766年大暦元年55-44-4

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:卷二二二 杜少陵集巻16 7首目       文體:    五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點:              鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)             

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京        

青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

汶陽 (河南道 兗州 汶陽)  

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

 

李邕を哀しんだ詩。

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

 

#1

長嘯宇宙間,高才日陵替。

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

古人不可見,前輩複誰繼。』

古人は見ることはできぬ。古人にも近いような前輩もなくなる、だれが前輩のあとを継ぐというのだ。

憶昔李公存,詞林有根柢。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

聲華當健筆,灑落富清制。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。

 

(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

 

#2

風流散金石,追琢山嶽

したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。

情窮造化理,學貫天人際。

其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

幹謁走其門,碑版照四裔。

求める所あって李邕公に面会を乞うものは争って公の門へと走った。そうして公から書いてもらった碑版の文章は四方の遠地にかがやいた。

各滿深望還,森然起凡例。

其の文章の法は森然としで一般原則を創立するに足るほどであり、もちろん頼みに来た人々はめいめい多大の希望を満足させてもどっていった。

 

#2

風流 金石に散ず、迫琢 山岳 鋭鎖し。

情は窮む 造化の理、学は貫く 天人の際。

幹謁 其の門に走る、碑版 四裔を照らす。

各々の深望を満たして還る、森然 凡例を起こす。

 

#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

宗儒俎豆事,故吏去思計。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

向來映當時,豈獨勸後世。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

 

蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

眄睞 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。

 

#4

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽。

碑文の謝礼としては、富める家で用いる珊瑚の簾鉤であったり、麟鱗を模様に出した毛織物の緞通などであり、李邕の書いたものはそれぐらいの評判がたかかったのである。

紫騮隨劍幾,義取無虛

だから、紫がかった栗毛駿馬のあとに剣だの脇息だのがつきしたがってくるというのと同じように、李邕の書いた詩文・碑文にたいしてもらってしかるべきものをもらうということを年年同じようにされ止まることが無かった。

分宅驂間,感激懷未濟。

しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

眾歸賙給美,擺落多藏穢。

だから多くの人々が李邕公は他人にめぐみあたえてやる美徳をもった人だといい、ため込み主義の人だなどいう紛らわしい評判がでてもそれをはらいおとしてしまうことができた。

 

豊屋 珊瑚の鉤、麟麟 織成の罽【けい】。

紫騮 劍幾 随う、義取 虚歳 無し。

分宅 の間、感激 未済を懐く。

衆は帰す賙給の美、擺落す多蔵の穢。

夔州東川卜居図詳細 001 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#4

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽。

紫騮隨劍幾,義取無虛

分宅驂間,感激懷未濟。

眾歸賙給美,擺落多藏穢。


(下し文)
豊屋 珊瑚の鉤、麟麟 織成の罽【けい】。

紫騮 劍幾 随う、義取 虚歳 無し。

分宅 驂の間、感激 未済を懐く。

衆は帰す賙給の美、擺落す多蔵の穢。

(現代語訳)
碑文の謝礼としては、富める家で用いる珊瑚の簾鉤であったり、麟鱗を模様に出した毛織物の緞通などであり、李邕の書いたものはそれぐらいの評判がたかかったのである。

だから、紫がかった栗毛駿馬のあとに剣だの脇息だのがつきしたがってくるというのと同じように、李邕の書いた詩文・碑文にたいしてもらってしかるべきものをもらうということを年年同じようにされ止まることが無かった。

しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

だから多くの人々が李邕公は他人にめぐみあたえてやる美徳をもった人だといい、ため込み主義の人だなどいう紛らわしい評判がでてもそれをはらいおとしてしまうことができた。


唐時代 地図山南 東・西道50
(訳注) #4

 

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽。

碑文の謝礼としては、富める家で用いる珊瑚の簾鉤であったり、麟鱗を模様に出した毛織物の緞通などであり、李邕の書いたものはそれぐらいの評判がたかかったのである。

○豐屋 富家をいう。

○珊瑚鉤 さんごで作った簾を吊るすかぎで、金製品よりはるかに高く最高級品。。

○騏驎 罽の模様。

○織成罽 織成は毛織物をいう、罽は緞通のこと。

 

紫騮隨劍幾,義取無虛

だから、紫がかった栗毛駿馬のあとに剣だの脇息だのがつきしたがってくるというのと同じように、李邕の書いた詩文・碑文にたいしてもらってしかるべきものをもらうということを年年同じようにされ止まることが無かった。

○紫罽 紫色のくり毛馬。

○劍幾 幾は脇息にぴったりついてくるさま。。

○義取 義理にかなったうえで、のち貰いうける。

○無虚歳 もらわぬ歳のないこと。

 

分宅驂間,感激懷未濟。

しかし李邕公は他人の困窮に感じたときには、「自宅を分けて彼らを置いてやり」ようなことや、或は「駿馬を解いて与えてやったり」するように慈善事業をしながらもまだ尽くしたりないというほどにかんがえておられた。

〇分宅 自己の宅を分かって他人を置くことで、その相手と心が通じ合うことになること。「三国志」に周瑜が道南の大宅を与えて孫策を住まわせ「有無相い通じた」とみえる。

 駿馬を二頭用意し替え馬して走る時の駿馬たちを脱してその内の馬を他人に贈ること。「史記」にいう、越石父、賢にして縁組の中に在り、晏子出でて之に途に遭い、左を解きて之に贈り延きて上客と為す、と。は二馬の添え馬、替え馬をいう。

○感激 李邕が感激する。

○懐未済 懐とは李邕が心におもうこと、未済とは先方の事を成すに至らぬことをいう。

 

眾歸賙給美,擺落多藏穢。

だから多くの人々が李邕公は他人にめぐみあたえてやる美徳をもった人だといい、ため込み主義の人だなどいう紛らわしい評判がでてもそれをはらいおとしてしまうことができた。

○衆帰 衆人が美を畠に帰する。

賙給 めぐみあたえる、すなわち上の分宅の類をいう。

擺落 はらいおとす、李邕が身よりはらいおとすことをいう。孔璋の輩をさしていう。

○多蔵 多蔵とは財貨をためこむこと、はきたない行い。李邕傳にいう、李邕早く才名を檀にし尤も碑頌に長ず、職を貶められて外に在りと錐も、中朝の衣冠及び天下の寺観、多く金帛を齎持し往いて其の文を求む、前後製する所幾ど数百首と。またいう、李邕、饋遺を受納する多きこと鉅万に至る、時議以て文を鬻ぎ財を獲る未だ李邕が如き者あらずとなすと。またいう、讎人、李邕貨を贓し法を枉げると告ぐ、許昌の人孔璋、上書して之を救うて日く、斯の人能くする所の者は孤を拯い窮を卹れみ、乏を救い賑恵す、積むも而も便ち散ず、家に私聚なし、と。「畳屋」八句は物を受けてもそれを恵施することをいう。

766年大暦元年55歲-44-#3奉節-35-#3 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -3》 杜甫index-15 杜甫<907-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5720

奉節-35-3 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -3 杜甫  李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

 
 2015年3月20日の紀頌之5つのBlog 
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204 《(改訂版) 巻19-2遊南陽清泠泉 (惜彼落日暮)》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32歳 12首 <204> Ⅰ李白詩1434 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5718 
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 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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50-#0 〔《上張僕射書》-#0〕韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1347> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5719 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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766年大暦元年55-44-3奉節-35-3 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -3 杜甫index-15 杜甫<907-3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5720

 

 

杜甫詩1500-907-3-1315/2500766年大暦元年55-44-3

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:卷二二二 杜少陵集巻16 7首目       文體:    五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點:              鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)             

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京        

青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

汶陽 (河南道 兗州 汶陽)  

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

 

李邕を哀しんだ詩。

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

 

#1

長嘯宇宙間,高才日陵替。

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

古人不可見,前輩複誰繼。』

古人は見ることはできぬ。古人にも近いような前輩もなくなる、だれが前輩のあとを継ぐというのだ。

憶昔李公存,詞林有根柢。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

聲華當健筆,灑落富清制。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。

 

(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

 

#2

風流散金石,追琢山嶽

したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。

情窮造化理,學貫天人際。

其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

幹謁走其門,碑版照四裔。

求める所あって李邕公に面会を乞うものは争って公の門へと走った。そうして公から書いてもらった碑版の文章は四方の遠地にかがやいた。

各滿深望還,森然起凡例。

其の文章の法は森然としで一般原則を創立するに足るほどであり、もちろん頼みに来た人々はめいめい多大の希望を満足させてもどっていった。

 

#2

風流 金石に散ず、迫琢 山岳 鋭鎖し。

情は窮む 造化の理、学は貫く 天人の際。

幹謁 其の門に走る、碑版 四裔を照らす。

各々の深望を満たして還る、森然 凡例を起こす。

 

#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

宗儒俎豆事,故吏去思計。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

向來映當時,豈獨勸後世。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

 

蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

眄睞 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。

 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

宗儒俎豆事,故吏去思計。

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

向來映當時,豈獨勸後世。



(下し文)
蕭蕭たる白場の路、洞徹宝珠を恵す。

竜宮 塔廟湧く、浩劫 浮雲衛る。

宗儒 俎豆の事、故吏 去恩の計。

 己に皆虚し、跋涉 曾て泥まず。

向来当時に映ず、豈に 独り後世に勧むるのみならんや。

(現代語訳)
あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

(訳注) #3

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏季公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

 

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。

あの蕭々としたさびしく白楊樹の立っている墓道は、連珠のすきとおるような並木であり、李邕公の墓碑には宝珠のような碑文の字に恵まれている。

○白楊 葉裏の白いやなぎ、墓地に西側に植える樹である、ここからは墓道および墓碑についていう。

○洞徹 珠連のすきとおること。

○宝珠恵 宝珠は文字の美しいことをたとえていう、恵とは施し与えられること。

 

龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

ここは、竜宮を思わせる大塔や霊廟が湧き出るようにあり、その墓碑に記された李邕公の文章は幾千万年も浮雲がそれを護衛するだろう。

○竜宮 仏寺通観をいう。

○塔廟 塔は宝塔、寺についていい、廟は霊廟、そこに浮雲があるから、天界、竜宮ということである。。

○浩劫 永い年月をいう。

 

宗儒俎豆事,故吏去思計。

人より宗とし貴ばれる儒者の祭器に関係した事を学宮の碑とし、故吏が前上司を慕うための手段としたもので遺愛の碑をたてようとしたのである。

○宗儒 人より宗とし貴ばれる儒。

○俎豆事 俎はまないた、豆はたかつき、昔の中国の祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。ともに祭りに物を盛る器である。此の句は学校の碑をいう。

○故吏去思計 故史とはもと部下であった官吏をいう、去思とは其の地の長官が転任して去るとき故吏などが去後に彼のことを思うというのである、計とは去後の思いを慰めるために計って遺愛碑などをたてることをいう。

 

眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

それらはこれを観にくる人はやっといま来た人がいなくなったかとおもうとまたあとの人が次々にやってくる、そして、遠方から山水を跋涉してでも頓着なくやってくるのである。

○眄睞 眄はななめにみる、睞はあそびながめる、碑を見ることをいう。

○虚 其の人の皆去ることをいう。

○跋涉 山をふみ水をわたる。

○不泥 道路の困難なことに拘わらぬ。泥はなずむ。

 

向來映當時,豈獨勸後世。

李邕公の碑文の内容は、公の生存されていた前から時にあたってすでにかがやいているので、決して後世のものにだけ勧戒をのこすにはとどまらないのであることはいうまでもない。

○向来 まえかた。まえのほうからくる。

○当時 李邕公の生存の時をいう。

○勧 碑中の人物の行事を以て後世に勧戒とする。

以上「千謁」十四句は李邕公の墓を廻ることを述べる。

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奉節-35-2 《巻16-07 八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕 -2 杜甫  したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

 

 
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杜甫詩1500-907-2-1314/2500766年大暦元年55-44-2

 

年:766年大暦元年55-

卷別:卷二二二 杜少陵集巻16 7首目       文體:    五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點:鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)             

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京        

青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

汶陽 (河南道 兗州 汶陽)  

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

 

李邕を哀しんだ詩。

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

 

#1

長嘯宇宙間,高才日陵替。

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

古人不可見,前輩複誰繼。』

古人は見ることはできぬ。古人にも近いような前輩もなくなる、だれが前輩のあとを継ぐというのだ。

憶昔李公存,詞林有根柢。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

聲華當健筆,灑落富清制。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。

 

(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

 

#2

風流散金石,追琢山嶽

したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。

情窮造化理,學貫天人際。

其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

幹謁走其門,碑版照四裔。

求める所あって李邕公に面会を乞うものは争って公の門へと走った。そうして公から書いてもらった碑版の文章は四方の遠地にかがやいた。

各滿深望還,森然起凡例。

其の文章の法は森然としで一般原則を創立するに足るほどであり、もちろん頼みに来た人々はめいめい多大の希望を満足させてもどっていった。

 

#2

風流 金石に散ず、迫琢 山岳 鋭鎖し。

情は窮む 造化の理、学は貫く 天人の際。

幹謁 其の門に走る、碑版 四裔を照らす。

各々の深望を満たして還る、森然 凡例を起こす。

 

 

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

風流散金石,追琢山嶽

情窮造化理,學貫天人際。

幹謁走其門,碑版照四裔。

各滿深望還,森然起凡例。



(下し文)
風流 金石に散ず、迫琢 山岳 鋭鎖し。

情は窮む 造化の理、学は貫く 天人の際。

幹謁 其の門に走る、碑版 四裔を照らす。

各々の深望を満たして還る、森然 凡例を起こす。

(現代語訳)
したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。

其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

求める所あって李邕公に面会を乞うものは争って公の門へと走った。そうして公から書いてもらった碑版の文章は四方の遠地にかがやいた。

其の文章の法は森然としで一般原則を創立するに足るほどであり、もちろん頼みに来た人々はめいめい多大の希望を満足させてもどっていった。


(訳注) #2

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏季公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

 

風流散金石,追琢山嶽

したがってその風流文彩は金石碑版のうえに散布せられ、雕琢して建てられた石碑があり、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた。

○風流二句 上の健筆の句をうける。六朝から続いた華麗な妖艶をひく流れとは異なる、風流、山水などの流れ、律詩が完成していく流れをいう。

○散金石 散は刊布されることをいう、金石は金や石に刻することである。

○追琢 「詩経」(棫樸)に「其章を追琢す」とみえる。迫は雕に同じ、琢はみがくこと。《詩経、大雅 文王之什》棫樸「追琢其章 金玉其相」(其の章を追琢し 其の相を金玉にす.)文王は九十餘歳にもなる長命で、(その徳の感化は、深く広くて)、人心を鼓舞し振作しないことはなかった。かくの如く賢才が多く輩出して国の光りを添ゆるに至った。

○山岳鋭 山岳に雕琢して建てられた石碑、碑勢を形容していうことと、山岳の崖の岩肌にはするどく雕みこまれた

 

情窮造化理,學貫天人際。

其の文章は情においては、造化の理を窮めるものであり、学においては、天人の際を貫くものがあった。

○情窮二句 上の根低をうける。以上「憶昔」八句は文章学問をのべる。

 

幹謁走其門,碑版照四裔。

求める所あって李邕公に面会を乞うものは争って公の門へと走った。そうして公から書いてもらった碑版の文章は四方の遠地にかがやいた。

〇幹謁 他人が求め謁する。幹は助けを求める意。

○其門 李邕の門。

○碑版 碑は石碑、版は金版、金版に文をかいて墓に埋めてやる。

〇四裔 四方の遠地。

 

各滿深望還,森然起凡例。

其の文章の法は森然としで一般原則を創立するに足るほどであり、もちろん頼みに来た人々はめいめい多大の希望を満足させてもどっていった。

〇滿深望 満足することをいう。

○森然 きちんとならぶさま。

○起凡例 碑版の文の一般原則を創立することをいう。

 

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杜甫詩1500-907-1-1313/2500766年大暦元年55-44-1

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:八哀詩八首〔五〕贈祕書監江夏李公邕

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂

及地點: 鄂州 (江南西道 鄂州 鄂州) 別名:江夏         

    洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下      

    臨淄亭 (河南道 青州 臨淄)              

    東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京         

    青州 (河南道 青州 青州) 別名:北海

    汶陽 (河南道 兗州 汶陽)    

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

 

李邕を哀しんだ詩。

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

 

#1

長嘯宇宙間,高才日陵替。

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

古人不可見,前輩複誰繼。』

古人は見ることはできぬ。古人にも近いような前輩もなくなる、だれが前輩のあとを継ぐというのだ。

憶昔李公存,詞林有根柢。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

聲華當健筆,灑落富清制。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。

 

(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

#2

風流散金石,追琢山嶽。情窮造化理,學貫天人際。』

幹謁走其門,碑版照四裔。各滿深望還,森然起凡例。

#3

蕭蕭白楊路,洞徹寶珠惠。龍宮塔廟湧,浩劫浮雲衛。

宗儒俎豆事,故吏去思計。眄睞已皆虛,跋涉曾不泥。

向來映當時,豈獨勸後世。』

#4

豐屋珊瑚鉤,騏驎織成罽.紫騮隨劍幾,義取無虛

分宅驂間,感激懷未濟。眾歸賙給美,擺落多藏穢。』

#5

獨步四十年,風聽九皋唳。嗚呼江夏姿,竟掩宣尼袂。

往者武后朝,引用多寵嬖。否臧太常議,面折二張勢。

#6

衰俗凜生風,排蕩秋旻霽。忠貞負冤恨,宮闕深旒綴。』

放逐早聯翩,低垂困炎厲。日斜鵩鳥入,魂斷蒼梧帝。

#7

榮枯走不暇,星駕無安。幾分漢廷竹,夙擁文侯篲.

終悲洛陽獄,事近小臣敝。禍階初負謗,易力何深嚌。』

#8

伊昔臨淄亭,酒酣托末契。重敘東都別,朝陰改軒砌。』

論文到崔蘇,指盡流水逝。近伏盈川雄,未甘特進麗。

#9

是非張相國,相扼一危脆。爭名古豈然,鍵捷欻不閉。

例及吾家詩,曠懷掃氛翳。慷慨嗣真作,咨嗟玉山桂。

鐘律儼高懸,鯤鯨噴迢遞。』

10

坡陀青州血,蕪沒汶陽瘞。哀贈竟蕭條,恩波延揭厲。

子孫存如線,舊客舟凝滯。君臣尚論兵,將帥接燕薊。

朗吟六公篇,憂來豁蒙蔽。』

 

taigennankin88 

 

 

『八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

#1

長嘯宇宙間,高才日陵替。古人不可見,前輩複誰繼。』

憶昔李公存,詞林有根柢。聲華當健筆,灑落富清制。



(下し文)
(贈秘書監江夏の李公邕)

長嘯す 宇宙の間、高才 日々に陵替す。

古人見る可からず、前輩をば復た誰か維がん。』

憶う昔 李公の存せしとき、詞林 根抵有り。

声華 健筆に当たる、灑落 清製 富めり。

(現代語訳)
(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。


安史の乱当時の勢力図
(訳注) #1

八哀詩〔五〕贈秘書監江夏李公邕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、死後に代宗から秘書監を贈られた広陵江都県(江夏)の李邕を哀しんでよんだ詩。)〔五〕

○贈秘書監江夏季公邕 李邕をいう、北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。

杜甫《陪李北海宴歴下亭》

東藩駐皂蓋,北渚臨清河。

海右此亭古,濟南名士多。

雲山已發興,玉佩仍當歌。

修竹不受暑,交流空湧波。

蘊真愜所遇,落日將如何!

貴賤俱物役,從公難重過。

陪李北海宴歴下亭 杜甫

杜甫《奉贈韋左丞丈二十二韻》「李邕求識面,王翰願蔔鄰。」(李邕面を識らんことを求め、王翰隣を蔔せんと願う。)現代では李邕も私のかおをしりたいと求め  王翰も占いをして私の隣に住みたいと願った。

奉贈韋左丞丈二十二韻  杜甫

 

杜甫《同李太守登歷下古城員外新亭》  
李之芳が造った歴下の古城の新字にのぼって李邕が詩を作った。此の詩はそれに和したものである。

同李太守登歷下古城員外新亭 杜甫

李邕に関しては上記にあげた、《陪李北海宴歴下亭》《奉贈韋左丞丈二十二韻》《同李太守登歷下古城員外新亭》がある。李邕(678 - 747年)は、中国唐代の書家。広陵江都県(現・江蘇省蘇州市江都区)の人で、字は泰和。『文選』の注釈で有名な李善の子である。盛唐の名臣で、留台侍御史のときに譙王李重福を討伐して戦功を挙げた。玄宗のとき北海太守に任命されたので、世に李北海と呼ばれる。英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に800本にのぼり、巨万の富を得たといわれる。晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた。

 

長嘯宇宙間,高才日陵替。

自分は宇宙の間にむかって長哺してみるのに、高い才能ある人物は日日すたれてゆくようだ。

○長哺 作者がうそぶくのである。

○陵替 おちぶれておとろえる落ちぶれて衰える。李林甫によって貶め、卑しめられたことをいう。陵替とは下陵上替の意、尊卑の序を失わしめることをいう。語は「左伝」(昭公十八年)にみえる。作者は李林甫により、陵がれ、すてられるの意として用いたものである。一本に陵を淪に作るから、淪はしずむこと、淪替ならば意は明らかである。

 

古人不可見,前輩複誰繼。

古人は見ることはできぬ。古人にも近いような前輩もなくなる、だれが前輩のあとを継ぐというのだ。

○誰継 誰かが前輩をついでいかないといけないの意。起四句は高才の日に衰えることを嘆ずる。

 

憶昔李公存,詞林有根柢。

自分は昔のことをおもいだしてみる、まだ我が李邕公が存在しておられたとき、公がいる文壇はしっかりとした学問の根源ができあがった。

○李公 邕。

○詞林 文学の社会。

根抵 抵もまた木の根のこと、学に本源のあることをいう。

 

聲華當健筆,灑落富清制。

公の名声は赫赫たるものであったがそれは公の健筆に相当したもので虚名ではなく、公はさっぱりとした清らかな製作をたくさんもっておられた。

○声華 声名のひかり。

○当健筆 当とはそれに適当して似つかわしいことをいう、健筆とは雄健な筆致をいう。

〇灑落 あっさりとしたすがた。

○清制 文章の清らかなもの。

766年大暦元年55歲-43-#6奉節-34-#6 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -6》 杜甫index-15 杜甫<906-6> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5705

奉節-34-6 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -6》 杜甫  汝陽王の温和なおありさまはじぶんが昔少壮のときから紳(大帯)にかきしるして忘れられないのである。いま御兄弟との旧游をかんがえるとその迹は磨滅し易いとおもう。そんなことをかんがえて老境のじぶんはいっそう心のつらさを増すのである。

 

 
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766年大暦元年55-43-6奉節-34-6 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -6》 杜甫index-15 杜甫<906-6>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5705

杜甫詩1500-906-6-1312/2500766年大暦元年55-43-6

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:贈太子太師汝陽郡王璡

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:              汝陽 (河南道 豫州 汝陽)    

交遊人物/地點:李璡

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

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奉節-34-5 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -5》 杜甫  李璡汝陽王は晩年に、楚の元王のごとく賢者のため務めて醴を置き門に申公・白生のごとき学者の賓客を引かれた。李璡王の道徳は宏大であって自分ごとき無能の者をもお容れになった、自分はながく花の匂う茵に侍ったことを忘れることはできない。

 

 
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766年大暦元年55-43-5奉節-34-5 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -5》 杜甫index-15 杜甫<906-5>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5700

杜甫詩1500-906-5-1311/2500766年大暦元年55-43-5

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:贈太子太師汝陽郡王璡

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:              汝陽 (河南道 豫州 汝陽)    

交遊人物/地點:李璡

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

#1

汝陽讓帝子,眉宇真天人。

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

虯須似太宗,色映塞外春。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

往者開元中,主恩視遇頻。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、目をかけよくもてなされた。

出入獨非時,禮異見群臣。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

愛其謹潔極,倍此骨肉親。』

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。

(太子太師を死後に贈られた汝陽郡王璡)

汝陽は譲帝の子なり、眉宇 真に天人なり。

虯髯 太宗に似たり、色映じて塞外春なり。

往者 開元の中、主恩 視遇頻りなり。

出入 独り非時、礼 群臣を見るに異なり。

其の謹潔の極まれるを愛し、倍【ますま】す 此に骨肉親しむ。

 

#2

從容聽朝後,或在風雪晨。

謁見されれば、玄宗は朝廷の政の始終をおききになったのち、ある時は、風雪の晨などにはよくやられた。

忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

それは、猛獣を手でうちたおしにしようかと、ふと、思いつかれて車馬の沙塵をあげて植物苑から動物園へおでかけになられた。

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。

羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。

詔王來射雁,拜命已挺身。

 

従容 朝を聴くの後、或は風雪の晨に在り。

忽ち思う猛獣を格たんことを、苑囿に清塵 騰る。

羽旗 動くこと一の若し、万場 粛として駪駪たり。

王に詔して来たって雁を射しむ、命を拝して己に身を挺んず。

 

#3

箭出飛鞚,上又回翠麟。

王は馬を飛ばせながら馬の口ばみのあたりから箭を射出されると、玄宗も駿馬をむけかえて王に仕損じしたら、逃がすまいとうけてやろうとかまえられる。

翻然紫塞翮,下拂明月輪。

ところが、それを待つまでもなく、満月のごとくひきしぼられた弓のあたりを払うと、紫塞を飛びたつ雁はひらりと射落とされる。

胡人雖獲多,天笑不為新。

いくら騎馬の従者がうまく獲物を多くとったとしても、玄宗は新たにそれによってお笑いになることはない。

王每中一物,手自與金銀。

それくらべ、李璡王が一物であっても、射あてられたときには、玄宗はきっとお手ずから李璡王に金銀をおあたえて喜ばれるということだろう。

 

#3

箭は出づ 飛鞚の内、上 又た翠麟を回す。

翻然 紫塞の翮、下りて払う明月の輪。

従人 獲多しと錐も、天笑 為に新たならず。

王 一物に中【あた】る毎に、手 自ら金銀を与う。

#4

袖中諫獵書,扣馬久上陳。

だが李璡王は袖の中に諌猟書をおもちになって、ずっと以前から、玄宗の狩馬を控えてほしいということを、たてまつりその意をおのべになったのである。

竟無銜橛虞,聖聰矧多仁。

それをお聞き入れになったがため、玄宗には馬車がひっくりかえるというご心配がなくてすむし、まして天子ご自身が聡明で仁愛に富ませられることが多くできるというものである。

官免供給費,水有在藻鱗。

それで官は猟のために供給される費用がすくなくなり、水も豊富に藻のなかで楽しくおよいでくらせる魚が居れる「開元の治」といわれるほどの世になったのである。

匪唯帝老大,皆是王忠勤。

これというのも天子がお年よりになられたためばかりでなく、廣い心で老獪になられたのも、皆、李璡王が忠義勤勉であられたおかげなのである。

 

袖中 諌猟の書、馬を扣えて 久しく上陳す。

竟に銜橛の虞れ無し、,聖聰 矧や多仁なるをや。

官は 供給の費を免れ、水には在藻の鱗有り。

惟だ 帝の老大なるのみに匪ず、皆 是れ 王の忠勤なるなり。

 

#5

晚年務置醴,門引申白賓。

李璡汝陽王は晩年に、楚の元王のごとく賢者のため務めて醴を置き門に申公・白生のごとき学者の賓客を引かれた。

道大容無能,永懷侍芳茵。

李璡王の道徳は宏大であって自分ごとき無能の者をもお容れになった、自分はながく花の匂う茵に侍ったことを忘れることはできない。

好學尚貞烈,義形必沾巾。

李璡王は学を好んで、貞烈な行ないを尊ばれ、その事にわたると義気顔色にあらわれてきっと涙を流して巾をうるおされた。

揮翰綺繡揚,篇什若有神。

また李璡王は筆をふるわれると綺繡のような文彩が揚り、できた製作物は神助があるかとおもわれるばかりであった。

 

#5

晩年務めて醴を置く、門に引く申白の賓。

道 大にして 無能を容る、永く懐う芳茵に侍せしことを。

学を好みて貞烈を尚ぶ、義 形われて必ず巾をうるおす。

翰を揮えば 綺繍揚る、篇什 神有るが若し。

 

安史の乱当時の勢力図 

 

『八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

晚年務置醴,門引申白賓。

道大容無能,永懷侍芳茵。

好學尚貞烈,義形必沾巾。

揮翰綺繡揚,篇什若有神。』


(下し文)
晩年務めて醴を置く、門に引く申白の賓。

道 大にして 無能を容る、永く懐う芳茵に侍せしことを。

学を好みて貞烈を尚ぶ、義 形われて必ず巾をうるおす。

翰を揮えば 綺繍揚る、篇什 神有るが若し。

(現代語訳)
李璡汝陽王は晩年に、楚の元王のごとく賢者のため務めて醴を置き門に申公・白生のごとき学者の賓客を引かれた。

李璡王の道徳は宏大であって自分ごとき無能の者をもお容れになった、自分はながく花の匂う茵に侍ったことを忘れることはできない。

李璡王は学を好んで、貞烈な行ないを尊ばれ、その事にわたると義気顔色にあらわれてきっと涙を流して巾をうるおされた。

また李璡王は筆をふるわれると綺繡のような文彩が揚り、できた製作物は神助があるかとおもわれるばかりであった。



(訳注) #5

夔州東川卜居図詳細 001 

晚年務置醴,門引申白賓。

李璡汝陽王は晩年に、楚の元王のごとく賢者のため務めて醴を置き門に申公・白生のごとき学者の賓客を引かれた。

○晩年 李璡王の晩年。

○置醴 学者を敬礼することをいう。漢の高祖の兄楚の元王(劉交)は若いとき魯の穆生・白生・申公とともに「詩経」を浮邸伯に習った。元王は申公らを敬礼したが穆生は酒を嗜まなかったので、彼のために醴を設けたという。劉交(? - 紀元前179年)は、劉邦(前漢の高祖)の異母弟。劉太公(劉煓)の末子。字は游。楚王に封じられた。諡号は楚元王。劉交は劉邦とは違い、儒学(詩経)を学んだ。秦に対して反乱を起こした劉邦に従軍し、盧綰と共に劉邦の側近を務め、劉賈とともに別働隊ともなった。紀元前201年、謀反の罪で失脚して楚王から淮陰侯に落とされた韓信の後任として、その旧領土を南北に分割したうちの北部に楚王として封じられる。紀元前196年、淮南王英布が反乱を起こした際に、荊王劉賈を破った英布と戦い、敗れた。若い頃に儒学を学んだことから、儒者を重用したことで知られる。

○申白賓 申公・白生のごとき賓客をいう。

*浮邸伯 斉の人。初め荀子に学び学徳兼備となり、のち魯にあったが、荀子に学んだのは韓非、李斯の三人が有名。秦になって儒学を圧迫するに及んで名利を避け晩年は長安で隠遁生活を続けながら学問を楽しんだ。門人には、申公がおり、更に申公の弟子の江公、そのまた弟子の韋賢と続く。

荀子に親炙した著名人に浮邸伯、韓非、李斯の三人がいる。

 

道大容無能,永懷侍芳茵。

李璡王の道徳は宏大であって自分ごとき無能の者をもお容れになった、自分はながく花の匂う茵に侍ったことを忘れることはできない。

○道大 王の道徳が大である。

○容無能 容はいれる、無能とは作者自己をいう。

○永懐 懐とは作者がおもうこと。

○侍芳茵 春の花のさきにおっている褥にはべったこと。

 

好學尚貞烈,義形必沾巾。

李璡王は学を好んで、貞烈な行ないを尊ばれ、その事にわたると義気顔色にあらわれてきっと涙を流して巾をうるおされた。

○尚貞烈 尚はとうとぶ、貞烈は忠烈をいう。

○義形 義気の顔色にあらわれることをいう。

 

揮翰綺繡揚,篇什若有神。

また李璡王は筆をふるわれると綺繡のような文彩が揚り、できた製作物は神助があるかとおもわれるばかりであった。

○揮翰 筆をふるう、文章をつくること。

○綺繡揚 文彩のうつくしいこと。

○篇什 製作をいう。

○若有神 神助があるかのごとくである。以上「晩年」八句は李璡王が虚懐にしてよく賢を容れ好学能文であったことをいう。

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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-21韋荘99《巻2-49 淸平樂四首 其四》二巻49-〈99〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5697 
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 魚玄機全詩花間集(6)花間集(7)花間集(8)花間集(9)花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
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766年大暦元年55-43-4奉節-34-4 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -4 杜甫index-15 杜甫<906-4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5695 杜甫詩1500-906-4-1310/2500766年大暦元年55-43-4

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:贈太子太師汝陽郡王璡

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:              汝陽 (河南道 豫州 汝陽)    

交遊人物/地點:李璡

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

#1

汝陽讓帝子,眉宇真天人。

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

虯須似太宗,色映塞外春。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

往者開元中,主恩視遇頻。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、目をかけよくもてなされた。

出入獨非時,禮異見群臣。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

愛其謹潔極,倍此骨肉親。』

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。

(太子太師を死後に贈られた汝陽郡王璡)

汝陽は譲帝の子なり、眉宇 真に天人なり。

虯髯 太宗に似たり、色映じて塞外春なり。

往者 開元の中、主恩 視遇頻りなり。

出入 独り非時、礼 群臣を見るに異なり。

其の謹潔の極まれるを愛し、倍【ますま】す 此に骨肉親しむ。

 

#2

從容聽朝後,或在風雪晨。

謁見されれば、玄宗は朝廷の政の始終をおききになったのち、ある時は、風雪の晨などにはよくやられた。

忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

それは、猛獣を手でうちたおしにしようかと、ふと、思いつかれて車馬の沙塵をあげて植物苑から動物園へおでかけになられた。

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。

羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。

詔王來射雁,拜命已挺身。

 

従容 朝を聴くの後、或は風雪の晨に在り。

忽ち思う猛獣を格たんことを、苑囿に清塵 騰る。

羽旗 動くこと一の若し、万場 粛として駪駪たり。

王に詔して来たって雁を射しむ、命を拝して己に身を挺んず。

 

#3

箭出飛鞚,上又回翠麟。

王は馬を飛ばせながら馬の口ばみのあたりから箭を射出されると、玄宗も駿馬をむけかえて王に仕損じしたら、逃がすまいとうけてやろうとかまえられる。

翻然紫塞翮,下拂明月輪。

ところが、それを待つまでもなく、満月のごとくひきしぼられた弓のあたりを払うと、紫塞を飛びたつ雁はひらりと射落とされる。

胡人雖獲多,天笑不為新。

いくら騎馬の従者がうまく獲物を多くとったとしても、玄宗は新たにそれによってお笑いになることはない。

王每中一物,手自與金銀。

それくらべ、李璡王が一物であっても、射あてられたときには、玄宗はきっとお手ずから李璡王に金銀をおあたえて喜ばれるということだろう。

 

#3

箭は出づ 飛鞚の内、上 又た翠麟を回す。

翻然 紫塞の翮、下りて払う明月の輪。

従人 獲多しと錐も、天笑 為に新たならず。

王 一物に中【あた】る毎に、手 自ら金銀を与う。

#4

袖中諫獵書,扣馬久上陳。

だが李璡王は袖の中に諌猟書をおもちになって、ずっと以前から、玄宗の狩馬を控えてほしいということを、たてまつりその意をおのべになったのである。

竟無銜橛虞,聖聰矧多仁。

それをお聞き入れになったがため、玄宗には馬車がひっくりかえるというご心配がなくてすむし、まして天子ご自身が聡明で仁愛に富ませられることが多くできるというものである。

官免供給費,水有在藻鱗。

それで官は猟のために供給される費用がすくなくなり、水も豊富に藻のなかで楽しくおよいでくらせる魚が居れる「開元の治」といわれるほどの世になったのである。

匪唯帝老大,皆是王忠勤。

これというのも天子がお年よりになられたためばかりでなく、廣い心で老獪になられたのも、皆、李璡王が忠義勤勉であられたおかげなのである。

 

袖中 諌猟の書、馬を扣えて 久しく上陳す。

竟に銜橛の虞れ無し、,聖聰 矧や多仁なるをや。

官は 供給の費を免れ、水には在藻の鱗有り。

惟だ 帝の老大なるのみに匪ず、皆 是れ 王の忠勤なるなり。

 京兆地域図002洛陽 函谷関002

 

『八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#4

袖中諫獵書,扣馬久上陳。

竟無銜橛虞,聖聰矧多仁。

官免供給費,水有在藻鱗。

匪唯帝老大,皆是王忠勤。


(下し文) #4

袖中 諌猟の書、馬を扣えて 久しく上陳す。

竟に銜橛の虞れ無し、,聖聰 矧や多仁なるをや。

官は 供給の費を免れ、水には在藻の鱗有り。

惟だ 帝の老大なるのみに匪ず、皆 是れ 王の忠勤なるなり。

 

 (現代語訳)
だが李璡王は袖の中に諌猟書をおもちになって、ずっと以前から、玄宗の狩馬を控えてほしいということを、たてまつりその意をおのべになったのである。

それをお聞き入れになったがため、玄宗には馬車がひっくりかえるというご心配がなくてすむし、まして天子ご自身が聡明で仁愛に富ませられることが多くできるというものである。

それで官は猟のために供給される費用がすくなくなり、水も豊富に藻のなかで楽しくおよいでくらせる魚が居れる「開元の治」といわれるほどの世になったのである。

これというのも天子がお年よりになられたためばかりでなく、廣い心で老獪になられたのも、皆、李璡王が忠義勤勉であられたおかげなのである。


(訳注) 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡#4

 

袖中諫獵書,扣馬久上陳。

だが李璡王は袖の中に諌猟書をおもちになって、ずっと以前から、玄宗の狩馬を控えてほしいということを、たてまつりその意をおのべになったのである。

○袖中 王のそでのなか。

○諌猟書 かりをいさめる文書、前漢の司馬相如に武帝の猟を諌める書がある。

○扣馬 扣は控に同じ、ひかえる。

○上陳 たてまつりのべる。

 

竟無銜橛虞,聖聰矧多仁。

それをお聞き入れになったがため、玄宗には馬車がひっくりかえるというご心配がなくてすむし、まして天子ご自身が聡明で仁愛に富ませられることが多くできるというものである。

○街輿虞 馬車のひっくりかえるしんばい。衝は馬の口ばみ。牢は車の長柄のそりの処。口ばみがきれたり、ながえのそりがはねたりすれば馬車はびっくりかえる。

○聖聡 天子の聡明なこと。

 

官免供給費,水有在藻鱗。

それで官は猟のために供給される費用がすくなくなり、水も豊富に藻のなかで楽しくおよいでくらせる魚が居れる「開元の治」といわれるほどの世になったのである。

○供給費 狩猟の事について供給する費用。

○在藻鱗 藻草のなかでさかなが楽しくおよぐことのできる世の中「開元の治」をいう。

 

匪唯帝老大,皆是王忠勤。

これというのも天子がお年よりになられたためばかりでなく、廣い心で老獪になられたのも、皆、李璡王が忠義勤勉であられたおかげなのである。

○帝老大 玄宗が老獪に、大きくなることと年をとったこと。

○王忠勤 汝陽王の忠義勤勉。以上「袖中」八句は王のよく猟を諌めたことをいう。

 

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奉節-34-3 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -3 杜甫  いくら騎馬の従者がうまく獲物を多くとったとしても、玄宗は新たにそれによってお笑いになることはない。それくらべ、李璡王が一物であっても、射あてられたときには、玄宗はきっとお手ずから李璡王に金銀をおあたえになって喜ばれることだろう。

 

 
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杜甫詩1500-906-3-1309/2500766年大暦元年55-43-3

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:贈太子太師汝陽郡王璡

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:              汝陽 (河南道 豫州 汝陽)    

交遊人物/地點:李璡

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

#1

汝陽讓帝子,眉宇真天人。

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

虯須似太宗,色映塞外春。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

往者開元中,主恩視遇頻。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、目をかけよくもてなされた。

出入獨非時,禮異見群臣。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

愛其謹潔極,倍此骨肉親。』

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。

(太子太師を死後に贈られた汝陽郡王璡)

汝陽は譲帝の子なり、眉宇 真に天人なり。

虯髯 太宗に似たり、色映じて塞外春なり。

往者 開元の中、主恩 視遇頻りなり。

出入 独り非時、礼 群臣を見るに異なり。

其の謹潔の極まれるを愛し、倍【ますま】す 此に骨肉親しむ。

 

#2

從容聽朝後,或在風雪晨。

謁見されれば、玄宗は朝廷の政の始終をおききになったのち、ある時は、風雪の晨などにはよくやられた。

忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

それは、猛獣を手でうちたおしにしようかと、ふと、思いつかれて車馬の沙塵をあげて植物苑から動物園へおでかけになられた。

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。

羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。

詔王來射雁,拜命已挺身。

 

従容 朝を聴くの後、或は風雪の晨に在り。

忽ち思う猛獣を格たんことを、苑囿に清塵 騰る。

羽旗 動くこと一の若し、万場 粛として駪駪たり。

王に詔して来たって雁を射しむ、命を拝して己に身を挺んず。

 

#3

箭出飛鞚,上又回翠麟。

王は馬を飛ばせながら馬の口ばみのあたりから箭を射出されると、玄宗も駿馬をむけかえて王に仕損じしたら、逃がすまいとうけてやろうとかまえられる。

翻然紫塞翮,下拂明月輪。

ところが、それを待つまでもなく、満月のごとくひきしぼられた弓のあたりを払うと、紫塞を飛びたつ雁はひらりと射落とされる。

胡人雖獲多,天笑不為新。

いくら騎馬の従者がうまく獲物を多くとったとしても、玄宗は新たにそれによってお笑いになることはない。

王每中一物,手自與金銀。

それくらべ、李璡王が一物であっても、射あてられたときには、玄宗はきっとお手ずから李璡王に金銀をおあたえて喜ばれるということだろう。

 

#3

箭は出づ 飛鞚の内、上 又た翠麟を回す。

翻然 紫塞の翮、下りて払う明月の輪。

従人 獲多しと錐も、天笑 為に新たならず。

王 一物に中【あた】る毎に、手 自ら金銀を与う。

 長安城漢唐

 

『八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#3

箭出飛鞚,上又回翠麟。

翻然紫塞翮,下拂明月輪。

胡人雖獲多,天笑不為新。

王每中一物,手自與金銀。


(下し文)
箭は出づ 飛鞚の内、上 又た翠麟を回す。

翻然 紫塞の翮、下りて払う明月の輪。

従人 獲多しと錐も、天笑 為に新たならず。

王 一物に中【あた】る毎に、手 自ら金銀を与う。

(現代語訳)
王は馬を飛ばせながら馬の口ばみのあたりから箭を射出されると、玄宗も駿馬をむけかえて王に仕損じしたら、逃がすまいとうけてやろうとかまえられる。

ところが、それを待つまでもなく、満月のごとくひきしぼられた弓のあたりを払うと、紫塞を飛びたつ雁はひらりと射落とされる。

いくら騎馬の従者がうまく獲物を多くとったとしても、玄宗は新たにそれによってお笑いになることはない。

それくらべ、李璡王が一物であっても、射あてられたときには、玄宗はきっとお手ずから李璡王に金銀をおあたえになって喜ばれることだろう。


(訳注)  #3

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

贈太子大師汝陽郡王璡 

汝陽王 李璡。容宗と粛明皇后との間に寧主意(初名は成器、開憲の子が進である。進は天宝三載に特進を加えられた。汝陽郡王李璡、天宝九載卒して太子大師を贈られる。

杜甫 《贈特進汝陽王二十韻》 

贈特進汝陽王二十韻  杜甫27

杜甫「飲中八仙歌」

汝陽三鬥始朝天,道逢曲車口流涎,恨不移封向酒泉。』

汝陽王李礎は朝から三斗酒を飲みそれから出勤する、途中麹を積んだ車に出会うと口からよだれを垂らす始末、転勤先が酒泉でなかったのが残念だ。』

・三斗 飲む酒の量をいう。・朝天 朝廷へ参内すること。・麹車 こうじを載せた車。・移封 封は領地をいう、移は場所をかえる。汝陽よりほかの地へうつしてもらうこと。・酒泉 漢の時の郡名、今の甘粛省粛州。これは地名を活用したもの。

飲中八仙歌 杜甫

夔州東川卜居図詳細 001 

箭出飛鞚,上又回翠麟。

王は馬を飛ばせながら馬の口ばみのあたりから箭を射出されると、玄宗も駿馬をむけかえて王に仕損じしたら、逃がすまいとうけてやろうとかまえられる。

○飛鞚 鞚は馬のくちばみのこと。飛とは馬を早くとばして走ることをいう。

○上又 上とは玄宗をさす。

〇回翠 は駿馬をいう、回とは馬首をむけかえて王の射を助けようとすること。

 

翻然紫塞翮,下拂明月輪。

ところが、それを待つまでもなく、満月のごとくひきしぼられた弓のあたりを払うと、紫塞を飛びたつ雁はひらりと射落とされる。

○翻然 ひるがえるさま。

○紫塞 雁をいう。秦は長城を築くのに紫磚を用いたので長城のことを紫塞という、紫塞とは紫塞をこえてとびわたる鳥の意で雁をさす。

○下払 下はくだる。

○明月輪 弓の勢いを形容していう。

 

胡人雖獲多,天笑不為新。

いくら騎馬の従者がうまく獲物を多くとったとしても、玄宗は新たにそれによってお笑いになることはない。

○胡人 おとも。騎馬民族の者が、獲物を追いこんで玄宗が居やすくすることの役割をするお伴のもの、漢民族が、中国の北部や西部の異民族(とくに遊牧民族)を卑しんで呼んだ言葉である。また「胡瓜」(きゅうり)のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法もある。

○獲多 えものが多い。

○天笑 天子の笑い。

○為新 それがために新たに生じる。

 

王每中一物,手自與金銀。

それくらべ、李璡王が一物であっても、射あてられたときには、玄宗はきっとお手ずから李璡王に金銀をおあたえになって喜ばれることだろう。

○王 李璡。

○手自 玄宗の手みずから。

○与 李璡にあたえる。以上「箭出」八句は王の陪猟を叙する。

766年大暦元年55歲-43-#2奉節-34-#2 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -2》 杜甫index-15 杜甫<906-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5685

奉節-34-2 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -2 杜甫  羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。この時には李璡王に詔があって、来たって、雁を射よと仰せになる。李璡王は仰せをうけるやいなや、身をのりだして用意をされる。

 
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766年大暦元年55-43-2奉節-34-2 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -2 杜甫index-15 杜甫<906-2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5685

 

 

杜甫詩1500-906-2-1308/2500766年大暦元年55-43-2

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:贈太子太師汝陽郡王璡

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:              汝陽 (河南道 豫州 汝陽)    

交遊人物/地點:李璡

 

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

#1

汝陽讓帝子,眉宇真天人。

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

虯須似太宗,色映塞外春。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

往者開元中,主恩視遇頻。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、目をかけよくもてなされた。

出入獨非時,禮異見群臣。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

愛其謹潔極,倍此骨肉親。』

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。

(太子太師を死後に贈られた汝陽郡王璡)

汝陽は譲帝の子なり、眉宇 真に天人なり。

虯髯 太宗に似たり、色映じて塞外春なり。

往者 開元の中、主恩 視遇頻りなり。

出入 独り非時、礼 群臣を見るに異なり。

其の謹潔の極まれるを愛し、倍【ますま】す 此に骨肉親しむ。』

 

#2

從容聽朝後,或在風雪晨。

謁見されれば、玄宗は朝廷の政の始終をおききになったのち、ある時は、風雪の晨などにはよくやられた。

忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

それは、猛獣を手でうちたおしにしようかと、ふと、思いつかれて車馬の沙塵をあげて植物苑から動物園へおでかけになられた。

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。

羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。

詔王來射雁,拜命已挺身。

 

従容 朝を聴くの後、或は風雪の晨に在り。

忽ち思う猛獣を格たんことを、苑囿に清塵 騰る。

羽旗 動くこと一の若し、万場 粛として駪駪たり。

王に詔して来たって雁を射しむ、命を拝して己に身を挺んず。

 

choan9ryo 

『八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#2

從容聽朝後,或在風雪晨。

忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。

詔王來射雁,拜命已挺身。


(下し文)
従容 朝を聴くの後、或は風雪の晨に在り。

忽ち思う猛獣を格たんことを、苑囿に清塵 騰る。

羽旗 動くこと一の若し、万場 粛として駪駪たり。

王に詔して来たって雁を射しむ、命を拝して己に身を挺んず。

(現代語訳)
謁見されれば、玄宗は朝廷の政の始終をおききになったのち、ある時は、風雪の晨などにはよくやられた。

それは、猛獣を手でうちたおしにしようかと、ふと、思いつかれて車馬の沙塵をあげて植物苑から動物園へおでかけになられた。

羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。

この時には李璡王に詔があって、来たって、雁を射よと仰せになる。李璡王は仰せをうけるやいなや、身をのりだして用意をされる。


(訳注) #2

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

贈太子大師汝陽郡王璡 

汝陽王 李璡。容宗と粛明皇后との間に寧主意(初名は成器、開憲の子が進である。進は天宝三載に特進を加えられた。汝陽郡王李璡、天宝九載卒して太子大師を贈られる。

杜甫 《贈特進汝陽王二十韻》 

贈特進汝陽王二十韻  杜甫27

杜甫「飲中八仙歌」

汝陽三鬥始朝天,道逢曲車口流涎,恨不移封向酒泉。』

汝陽王李礎は朝から三斗酒を飲みそれから出勤する、途中麹を積んだ車に出会うと口からよだれを垂らす始末、転勤先が酒泉でなかったのが残念だ。』

・三斗 飲む酒の量をいう。・朝天 朝廷へ参内すること。・麹車 こうじを載せた車。・移封 封は領地をいう、移は場所をかえる。汝陽よりほかの地へうつしてもらうこと。・酒泉 漢の時の郡名、今の甘粛省粛州。これは地名を活用したもの。

飲中八仙歌 杜甫

 

京兆地域図002 

從容聽朝後,或在風雪晨。

謁見されれば、玄宗は朝廷の政の始終をおききになったのち、ある時は、風雪の晨などにはよくやられた。

○従容 ゆったり。

○聴朝 朝政をきく。

 

忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

それは、猛獣を手でうちたおしにしようかと、ふと、思いつかれて車馬の沙塵をあげて植物苑から動物園へおでかけになられた。

○格 手でうちたおす。

○苑囿 植物園。動物園。

○騰清盛 車馬が塵をあげることをいう。

 

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。

羽でかざりつけられた旗は、隊列をきれいに整えて一に動き、そこにいる万馬はしとやかに群がり翔る。

○羽旗 羽を飾りにつけたはた。

○動若一 行列のととのっていることをいう。

○肅駪駪 粛はしずかなさま、駪駪は多くが疾く行くさま。

 

詔王來射雁,拜命已挺身。

この時には李璡王に詔があって、来たって、雁を射よと仰せになる。李璡王は仰せをうけるやいなや、身をのりだして用意をされる。

○詔王 王は李璡をいう。

○拝命 天子の仰せをうける。

○挺身 わがからだを前へのりだす。以上「従容」八句は玄宗が王を猟によぴだすことをいう。
杜甫55歳756年作品 

766年大暦元年55歲-43-#1奉節-34-#1 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -1》 杜甫index-15 杜甫<906-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5680

奉節-34-1 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -1 杜甫(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕 汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

 

 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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766年大暦元年55-43-1奉節-34-1 《巻16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡 -1 杜甫index-15 杜甫<906-1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5680 杜甫詩1500-906-1-1307/2500766年大暦元年55-43-1

 

 

年:766年大暦元年55-

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    八哀詩八首:贈太子太師汝陽郡王璡

詩序:    并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

及地點:              汝陽 (河南道 豫州 汝陽)    

交遊人物/地點:李璡

 

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

#1

汝陽讓帝子,眉宇真天人。

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

虯須似太宗,色映塞外春。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

往者開元中,主恩視遇頻。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、目をかけよくもてなされた。

出入獨非時,禮異見群臣。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

愛其謹潔極,倍此骨肉親。』

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。

(太子太師を死後に贈られた汝陽郡王璡)

汝陽は譲帝の子なり、眉宇 真に天人なり。

虯髯 太宗に似たり、色映じて塞外春なり。

往者 開元の中、主恩 視遇頻りなり。

出入 独り非時、礼 群臣を見るに異なり。

其の謹潔の極まれるを愛し、倍【ますま】す 此に骨肉親しむ。』

 

#2

從容聽朝後,或在風雪晨。忽思格猛獸,苑囿騰清塵。

羽旗動若一,萬馬肅駪駪。詔王來射雁,拜命已挺身。』

#3

箭出飛鞚,上又回翠麟。翻然紫塞翮,下拂明月輪。

胡人雖獲多,天笑不為新。王每中一物,手自與金銀。』

#4

袖中諫獵書,扣馬久上陳。竟無銜橛虞,聖聰矧多仁。

官免供給費,水有在藻鱗。匪唯帝老大,皆是王忠勤。』

#5

晚年務置醴,門引申白賓。道大容無能,永懷侍芳茵。

好學尚貞烈,義形必沾巾。揮翰綺繡揚,篇什若有神。』

#6

川廣不可溯,墓久狐兔鄰。宛彼漢中郡,文雅見天倫。

何以開我悲,泛舟俱遠津。溫溫昔風味,少壯已書紳。

舊游易磨滅,衰謝增酸辛。』

 

河南省中南部 陸渾00 

『八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#1
八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

汝陽讓帝子,眉宇真天人。虯須似太宗,色映塞外春。

往者開元中,主恩視遇頻。出入獨非時,禮異見群臣。

愛其謹潔極,倍此骨肉親。』



(下し文)
(太子太師を死後に贈られた汝陽郡王璡)

汝陽は譲帝の子なり、眉宇 真に天人なり。

虯髯 太宗に似たり、色映じて塞外春なり。

往者 開元の中、主恩 視遇頻りなり。

出入 独り非時、礼 群臣を見るに異なり。

其の謹潔の極まれるを愛し、倍【ますま】す 此に骨肉親しむ。』

(現代語訳)
(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、目をかけよくもてなされた。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。


洛陽 函谷関002
(訳注) #1

八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、汝陽王李璡を哀しんでよんだ詩。)〔三〕

贈太子大師汝陽郡王璡 

汝陽王 李璡。容宗と粛明皇后との間に寧主意(初名は成器、開憲の子が進である。進は天宝三載に特進を加えられた。汝陽郡王李璡、天宝九載卒して太子大師を贈られる。

杜甫 《贈特進汝陽王二十韻》 

贈特進汝陽二十韻  杜甫27

杜甫「飲中八仙歌」

汝陽三鬥始朝天,道逢曲車口流涎,恨不移封向酒泉。』

汝陽王李礎は朝から三斗酒を飲みそれから出勤する、途中麹を積んだ車に出会うと口からよだれを垂らす始末、転勤先が酒泉でなかったのが残念だ。』

・三斗 飲む酒の量をいう。・朝天 朝廷へ参内すること。・麹車 こうじを載せた車。・移封 封は領地をいう、移は場所をかえる。汝陽よりほかの地へうつしてもらうこと。・酒泉 漢の時の郡名、今の甘粛省粛州。これは地名を活用したもの。

飲中八仙歌 杜甫

 

汝陽讓帝子,眉宇真天人。

汝陽王李璡は譲皇帝の御子で眉やひたいつきは、真に天人、そのものであった。

〇汝陽 李璡をさす。

○讓帝子 譲帝は李憲、睿宗の子でその太子となる。玄宗が韋氏の乱を平げたので太子の位を玄宗に譲り寧王に封ぜられた。開元二十九年十一月に封じた、年六十三、譲皇帝と諡する。は憲の子である。

○眉宇まゆ、ひたいつき。

○天人天上界の人。

 

虯須似太宗,色映塞外春。

虯のようなあごひげは太宗皇帝に似、その温和な顔色が、ひとたびうつれば塞外の地にも春の色が生じるほどであった。

○虯須.虯のようなあごひげ。

○太宗 李世民。太宗は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。

○色映塞外春 顔色温和の状をいう。塞外は春のない地である、そこにも春が生ずるほどだというのはよほどのあたたかみがあることをいう。容貌の美と、気象の温和とでもって塞外に春を生ずる。

 

往者開元中,主恩視遇頻。

そのむかし開元年中には天子(玄宗)の恩遇しきりで、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとはちがい、めをかけよくもてなされた。

○開元中 唐(618 - 907年)の第6代皇帝・玄宗李隆基。、開元(元年 - 29年)年間(713 - 741年)の治政であったす。貞観の治と並び称せられる中国史上の政治の安定期の一つで、唐は絶頂期を迎えた。

○主恩 天子の恩。

○視遇 めをかけよくもてなす。杜甫 《贈特進汝陽王二十韻》「聖情常有眷,朝退若無憑。」

 

出入獨非時,禮異見群臣。

李璡王が宮中へ出入りするとき、李璡王だけは時節を論ぜずいつでも宮中へ出入ごかってということであったし、天子が王におあいになる礼は群臣におあいになるとは全くちがった禮であった。

○出入 李璡が宮中へ出入りすること。

○非時 時節に制限がない。

○礼 玄宗が李璡を見るときの礼。

 

愛其謹潔極,倍此骨肉親。

天子は李璡王が親しき仲にも礼儀をわきまえ、非常に謹慎で潔白であるところを愛せられていっそう御血続き愛が親しみをまされた。

○愛其 其とは李璡をさす。

○謹潔 謹慎、潔白。

○骨肉親 血筋のあいだにおいて親しむ、譲皇帝と玄宗とは兄弟ゆえ、李璡は玄宗の甥にあたる人である。杜甫 《贈特進汝陽王二十韻》「精理通談笑,忘形向友朋。」とある。以上起十句は李璡王の人品と平時玄宗からの恩遇とをのべる。

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奉節-33-8 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#8》 杜甫  厳武公なき今は、ただ徒にこの老賓客の身を余しかなく、厳武公のおかげで官位を授けられたのではあるが、それで、身に文官の礼装である簪纓をつけることについてはずかしいと考えるのである。

 

 
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杜甫詩1500-905-8-1306/2500766年大暦元年55-42-8

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

 

及地點:        華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)      

蕭關 ( 原州 蕭關)  

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)  

華陽 (山南西道 洋州 華陽)        

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺       

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀     

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門     

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

 

#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

されば壮士は義憤のために血涙をながしてみあい、忠臣はその意気において平らかならざるものがあった。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

そこで、厳武公は給事中として密かに房琯らと先祖太宗皇帝の「貞観の治」の政治体をひいて論じたりして、こんどの粛宗皇帝の岐陽(鳳翔)におでましになって、長安攻略の御趣旨を発揮するようになった。

感激動四極,聯翩收二京。

厳武公の言は感激をあたえて四方の果てまでをば動かし、唐王朝軍は聯翩とつづいて進んで二京(長安・洛陽)を奪還して収約することになった。

西郊牛酒再,原廟丹青明。

長安の西郊では二度まで牛酒を以て軍隊を歓迎し、安史軍の手に焚かれた宗廟も二度めに修復されて画の具の赤や青の色飾りあざやかにかがやくに至った。

 

壮士 血 相視る、忠臣気平らかならず。

密かに論ず 貞観の体、揮発す 岐陽の征。

感激 四極を動かす、聯翩 二京を収む。

西郊 牛酒再びす 原廟 丹青明らかなり。

 

#5

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

ただ厳武の官途には種種の変があった。諌臣として匡衡・汲黯に比すべき公は寵辱の運命俄かにかわり、武将として衛青・霍去病に比すべき公も生には栄えて死には哀しまれる結果となった。

四登會府地,三掌華陽兵。

厳武公は生涯のうちで四たび尹として省会の地の長官にのぼり、三たびまで節度使として華陽(蜀)の兵を掌られた。

京兆空柳色,尚書無履聲。

京兆の尹をやめたときはみやこには徒に柳色がのこり、諌官をやめたときは尚書の履声をきくことができなくなった。

群烏自朝夕,白馬休橫行。

御史たりしときには幕府に朝夕の烏があつまり、白馬に乗って任侠の士を気取って盗賊まがいに横行することができなくなった。

匡汲 俄に寵辱、衛霍 竟に哀栄。

四たび登る 会府の地、三たび掌る 華陽の兵。

京兆 空しく柳色あり、尚書 履声無し。

群烏 自ずから朝夕、白馬 横行することを休む。

 

#6

諸葛蜀人愛,文翁儒化成。

厳武公が蜀へ赴任してから、厳武公は諸葛孔明の如く蜀の人たちに愛せられ、また漢の文翁の如くその儒道の教化は成就した

公來雪山重,公去雪山輕。

厳武公が蜀に来たれば雪山の地方も重きを為し、厳武公が蜀を去れば雪山の地はこれがために重きを失うが如く厳武公の去来は蜀境の安危にかかるほどである。

記室得何遜,韜鈐延子荊。

厳武公の幕府の人材は、文学者としては記室として何選の如きものを得なければいけないし、兵法に通じたものとしては孫楚の如きものをまねきひくのである。

四郊失壁壘,虛館開逢迎。

騒乱がおこらぬから四方の郊には塁壁がなくなり、宏大な館を開いては賓客を逢迎する。

#6

諸葛 蜀人の愛,文翁 儒化成る。

公 來れば 雪山重く,公 去れば 雪山輕し。

記室 何遜を得,韜鈐【とうけん】子荊を延【ひ】く。

四郊 壁壘を失す,虛館 逢迎に開く。

 

#7

堂上指圖畫,軍中吹玉笙。

幕府正庁の客間に治安を計るためにかけてある地図を指して形勢をととのえ、他方には幕府軍中にも玉笙を吹く余裕がある。

豈無成都酒,憂國只細傾。

それにつけて、成都にはうまい酒が無いわけではないが、厳武公は国を憂える余り、深酔いをせず、ただ、ちびちびと傾けて大酒をしないのである。

時觀錦水釣,問俗終相並。

時としては自分の浣花渓草堂へ尋ねてきて錦江の魚釣りで水面を眺められるが、それとて兼ねて風俗を視察されるのであって単に遊びのためではない。

意待犬戎滅,人藏紅粟盈。

厳武公の意向では人ごとに腐るほど沢山の穀物を蔵せしめて犬戎である吐蕃の侵略を滅絶することを期待された。

以茲報主願,庶或裨世程。

かくして天子の御恩にむくいたいとかんがえ、それでどうか後世の法則となるような利益をはかりたいとおもうておられた。

#7

堂上 図画を指さし、軍中に玉笙を吹く。

豈に 成都の酒無からんや、国を憂えて只だ細傾す。

時に観る錦水の釣、問俗 終に相並す。

意は待つ 犬戎の滅するを、人は蔵す 紅粟の盈てるを。

茲の報主も願いを以て,庶わくば 或【つね】に 世程を裨くる。

#8

炯炯一心在,沉沉二豎嬰。

この厳武の心は炯炯と輝いて存在していたのに、沈々と空しく重い病気にかかることになった。

顏回竟短折,賈誼徒忠貞。

そうして厳武は賈誼のごとく徒に忠貞の志のみをとどめたのであり、顔回のごとく終に若死をしてしまったのである。

飛旐出江漢,孤舟輕荊衡。

わたしは孤舟でもって三峡をくだって南のかた荊州から衡山の方へ赴こうとしているとき厳武公の柩舟は喪の旗をひらめかして江漢の水流へと出かけてきた。

虛無馬融笛,悵望龍驤塋。

自分はむなしく馬融をいたむ笛をよこたえることしかできず、うらめしく晋の王濬の龍驤将軍ともいうべき厳武公の墓地をながめやるだけだろう。

空餘老賓客,身上愧簪纓。

厳武公なき今は、ただ徒にこの老賓客の身を余しかなく、厳武公のおかげで官位を授けられたのではあるが、それで、身に文官の礼装である簪纓をつけることについてはずかしいと考えるのである。

#8

炯炯 一心在り,沉沉 二豎嬰る。

顏回 竟に短折す,賈誼 徒らに忠貞なり。

飛旐【ひちょう】江漢に出づ,孤舟 荊衡に輕んず。

虛しく馬融が笛を無くし,悵望す 龍驤の塋。

空しく餘す老賓の客,身上 簪纓に愧ず。

 

夔州東川卜居図詳細 001 

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
(本文) #8

炯炯一心在,沉沉二豎嬰。

顏回竟短折,賈誼徒忠貞。

飛旐出江漢,孤舟輕荊衡。

虛無馬融笛,悵望龍驤塋。

空餘老賓客,身上愧簪纓。


(下し文) #8

炯炯 一心在り,沉沉 二豎嬰る。

顏回 竟に短折す,賈誼 徒らに忠貞なり。

飛旐【ひちょう】江漢に出づ,孤舟 荊衡に輕んず。

虛しく馬融が笛を無くし,悵望す 龍驤の塋。

空しく餘す老賓の客,身上 簪纓に愧ず。

(現代語訳)
この厳武の心は炯炯と輝いて存在していたのに、沈々と空しく重い病気にかかることになった。

そうして厳武は賈誼のごとく徒に忠貞の志のみをとどめたのであり、顔回のごとく終に若死をしてしまったのである。

わたしは孤舟でもって三峡をくだって南のかた荊州から衡山の方へ赴こうとしているとき厳武公の柩舟は喪の旗をひらめかして江漢の水流へと出かけてきた。

自分はむなしく馬融をいたむ笛をよこたえることしかできず、うらめしく晋の王濬の龍驤将軍ともいうべき厳武公の墓地をながめやるだけだろう。

厳武公なき今は、ただ徒にこの老賓客の身を余しかなく、厳武公のおかげで官位を授けられたのではあるが、それで、身に文官の礼装である簪纓をつけることについてはずかしいと考えるのである。


関内道京畿道350万分の一図002(訳注) #8

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 〔三〕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

○贈左僕射鄭国公厳公武 厳武字は季鷹、葦州華陰の人、厳挺之の子である。7654月卒して左僕射を贈られる。765年永泰元年5478月杜甫忠州で『哭嚴僕射歸櫬』(嚴僕射櫬に歸るを哭す)「素幔隨流水,歸舟返舊京。老親如宿昔,部曲異平生。風送蛟龍雨,天長驃騎營。一哀三峽暮,遺後見君情。」(長安にほど近い華陰縣に歸葬するため、棺が忠州を通ったのを哭した詩である。)この時初めて、僕射という爵位を使っている。猶、厳武に関する杜甫の詩は、このブログで既に三十五首訳注解説して掲載しており、末尾に示す。

○鄭公 邸国公、武をさす。

 

炯炯一心在,沉沉二豎嬰。

この厳武の心は炯炯と輝いて存在していたのに、沈々と空しく重い病気にかかることになった。

○炯炯 かがやくさま。

○沈沈 病のふかまりゆくさま。

〇二豎嬰 下僕の助けをかりで生活するほどの病にかかること。「左伝」(成公十年)にいう、晋侯懦病み医を秦に求む、秦伯医緩をして之を為めしむ。晋侯夢に疾二豎子となる、其の一が日く肓の上・膏の下に居らば我を若何にせんと。豎子は下僕のこと。

杜甫は、夔州に来て下僕たちを上手く使っていろんな作業を行うようになってきた。雲安までの五十数年間杜甫も詩に下僕たちの名前や杜甫の心使いなどが出る事は無かったが、詩に出てくる下僕たちの名前をあげると次のとおりである。

名前が出ず《1505_引水》「雲安沽水奴僕悲」雲安水を沽()いて 奴僕悲しむも

阿段:《1506_示獠奴阿段》(獠奴の阿段に示す。)

信行:《1529_信行遠修水筒》(信行が遠く水筒を修む。)

1902_豎至子》(豎子(ジュシ)至る)

1905園官送菜_》(園官が菜を送る)

課隸人伯夷・辛秀・信行等、 隷人(レイジン)の伯夷・辛秀・信行:《1907_課伐木》(伐木を課す)

遣女奴阿稽豎子阿段:《1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》

獠奴、豎子、爾、小子、小奴・奴人(《1816_縛雞行》)

童児(《1919_驅豎子摘蒼耳》)、小豎など。

信行に対しては僕夫、汝、子、行など。

伯夷・辛秀・信行らに対して隷人、僮僕、人、爾曹。

阿稽に対しては女奴。阿段とともに併称して、婢僕。その他にも奴、童、童児などがある。

1816_縛鶏行》

1915_秋行官張望、督促東渚耗稲、向畢。清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣わして往きて問わしむ)

2031_暫往白帝復還東屯》・《2023_又呈呉郎》

 

顏回竟短折,賈誼徒忠貞。

そうして厳武は賈誼のごとく徒に忠貞の志のみをとどめたのであり、顔回のごとく終に若死をしてしまったのである。

○顔回 孔子の門人、三十二歳にて卒する。論語』には顔回への賛辞がいくつか見られる。たとえば孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べたことが記載されている

○短折 わか死にをいう。「尚書」洪範の孔伝にいう、未だ六十ならざるを「短」とし、未だ三十ならざるを「折」とす、と。

○賈誼 [前200~前168]中国、前漢の学者・政治家。洛陽(河南省)の人。文帝に信任されたが、重臣らの反対にあって長沙王の太傅(たいふ)に左遷された。文章家・思想家としても有名。

 

飛旐出江漢,孤舟輕荊衡。

わたしは孤舟でもって三峡をくだって南のかた荊州から衡山の方へ赴こうとしているとき厳武公の柩舟は喪の旗をひらめかして江漢の水流へと出かけてきた。

○飛旐 旐は喪車の旗、これは柩枢舟のはたをいう。厳武の霊柩の船をを詠った『哭嚴僕射歸櫬』がある。

765年永泰元年54-30 《哭嚴僕射歸櫬》 杜甫index-15 杜甫<830 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4885 杜甫詩1500-830-1148/2500

○江漢 江水と漢水。

○孤舟輕荊衡 孤舟は杜甫の三峡を下るための舟をいう。荊衝は荊州と衡山とである、作者は三峡を出て、その方面へ赴こうとしていたのである。衡山は洞庭湖南の衡陽県にある。

 

虛無馬融笛,悵望龍驤塋。

自分はむなしく馬融をいたむ笛をよこたえることしかできず、うらめしく晋の王濬の龍驤将軍ともいうべき厳武公の墓地をながめやるだけだろう。

○馬融笛 後漢の馬融は笛を吹くことを好み「長笛賦」を著わした。此の句は馬融を痛むがために吹く笛である。馬融を引くのはその音律を愛する点のみを取って厳武と比喩するのである。

○龍驤塋 晋の武帝は王濬を龍驤将軍となして呉を伐たせたところ、功があった。濬は太康六年に卒して柏谷山に葬られた。大いに塋城を営みその葬垣は周囲四十五里であったという。竜膜壁は王濬の墓をいい、厳武の墓に此する。

 

空餘老賓客,身上愧簪纓。

厳武公なき今は、ただ徒にこの老賓客の身を余しかなく、厳武公のおかげで官位を授けられたのではあるが、それで、身に文官の礼装である簪纓をつけることについてはずかしいと考えるのである。

○老賓客 作者自ずからをいう、作者はかつて厳武の剣南西川節度幕府の客であった。

○愧簪纓 簪はかんざし、纓は冠の紐、文官の礼装をいう、作者の工部員外郎の官位をさしてこういったものである。以上「意待」十四句は厳武が蜀辺境をしずめようとして完成せぬままに死したことを痛んでいる

 

#1

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

#4

壮士 血 相視る、忠臣気平らかならず。

密かに論ず 貞観の体、揮発す 岐陽の征。

感激 四極を動かす、聯翩 二京を収む。

西郊 牛酒再びす 原廟 丹青明らかなり。

#5

匡汲 俄に寵辱、衛霍 竟に哀栄。

四たび登る 会府の地、三たび掌る 華陽の兵。

京兆 空しく柳色あり、尚書 履声無し。

群烏 自ずから朝夕、白馬 横行することを休む。

#6

諸葛 蜀人の愛,文翁 儒化成る。

公 來れば 雪山重く,公 去れば 雪山輕し。

記室 何遜を得,韜鈐【とうけん】子荊を延【ひ】く。

四郊 壁壘を失す,虛館 逢迎に開く。

#7

堂上 図画を指さし、軍中に玉笙を吹く。

豈に 成都の酒無からんや、国を憂えて只だ細傾す。

時に観る錦水の釣、問俗 終に相並す。

意は待つ 犬戎の滅するを、人は蔵す 紅粟の盈てるを。

茲の報主も願いを以て,庶わくば 或【つね】に 世程を裨くる。

#8

炯炯 一心在り,沉沉 二豎嬰る。

顏回 竟に短折す,賈誼 徒らに忠貞なり。

飛旐【ひちょう】江漢に出づ,孤舟 荊衡に輕んず。

虛しく馬融が笛を無くし,悵望す 龍驤の塋。

空しく餘す老賓の客,身上 簪纓に愧ず。

766年大暦元年55歲-42-#7奉節-33-#7 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#7》 杜甫index-15 杜甫<905-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5670

奉節-33-7 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#7》 杜甫 幕府正庁の客間に治安を計るためにかけてある地図を指して形勢をととのえ、他方には幕府軍中にも玉笙を吹く余裕がある。それにつけて、成都にはうまい酒が無いわけではないが、厳武公は国を憂える余り、深酔いをせず、ただ、ちびちびと傾けて大酒をしないのである。

 

 
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766年大暦元年55-42-7奉節-33-7 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#7》 杜甫index-15 杜甫<905-7>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5670

杜甫詩1500-905-7-1305/2500766年大暦元年55-42-7

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

 

及地點:華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)     

蕭關 ( 原州 蕭關)         

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)         

華陽 (山南西道 洋州 華陽)       

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺      

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀    

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門    

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

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奉節-33-6 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#6》杜甫 厳武公が蜀へ赴任してから、厳武公は諸葛孔明の如く蜀の人たちに愛せられ、また漢の文翁の如くその儒道の教化は成就した。厳武公が蜀に来たれば雪山の地方も重きを為し、厳武公が蜀を去れば雪山の地はこれがために重きを失うが如く厳武公の去来は蜀境の安危にかかるほどである。

 

 
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766年大暦元年55-42-6奉節-33-6 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#6》 杜甫index-15 杜甫<905-6>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5665

杜甫詩1500-905-6-1304/2500766年大暦元年55-42-6

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

 

及地點:        華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)     

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雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺      

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀    

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門    

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

 

#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

されば壮士は義憤のために血涙をながしてみあい、忠臣はその意気において平らかならざるものがあった。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

そこで、厳武公は給事中として密かに房琯らと先祖太宗皇帝の「貞観の治」の政治体をひいて論じたりして、こんどの粛宗皇帝の岐陽(鳳翔)におでましになって、長安攻略の御趣旨を発揮するようになった。

感激動四極,聯翩收二京。

厳武公の言は感激をあたえて四方の果てまでをば動かし、唐王朝軍は聯翩とつづいて進んで二京(長安・洛陽)を奪還して収約することになった。

西郊牛酒再,原廟丹青明。

長安の西郊では二度まで牛酒を以て軍隊を歓迎し、安史軍の手に焚かれた宗廟も二度めに修復されて画の具の赤や青の色飾りあざやかにかがやくに至った。

 

壮士 血 相視る、忠臣気平らかならず。

密かに論ず 貞観の体、揮発す 岐陽の征。

感激 四極を動かす、聯翩 二京を収む。

西郊 牛酒再びす 原廟 丹青明らかなり。

 

#5

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

ただ厳武の官途には種種の変があった。諌臣として匡衡・汲黯に比すべき公は寵辱の運命俄かにかわり、武将として衛青・霍去病に比すべき公も生には栄えて死には哀しまれる結果となった。

四登會府地,三掌華陽兵。

厳武公は生涯のうちで四たび尹として省会の地の長官にのぼり、三たびまで節度使として華陽(蜀)の兵を掌られた。

京兆空柳色,尚書無履聲。

京兆の尹をやめたときはみやこには徒に柳色がのこり、諌官をやめたときは尚書の履声をきくことができなくなった。

群烏自朝夕,白馬休橫行。

御史たりしときには幕府に朝夕の烏があつまり、白馬に乗って任侠の士を気取って盗賊まがいに横行することができなくなった。

匡汲 俄に寵辱、衛霍 竟に哀栄。

四たび登る 会府の地、三たび掌る 華陽の兵。

京兆 空しく柳色あり、尚書 履声無し。

群烏 自ずから朝夕、白馬 横行することを休む。

 

#6

諸葛蜀人愛,文翁儒化成。

厳武公が蜀へ赴任してから、厳武公は諸葛孔明の如く蜀の人たちに愛せられ、また漢の文翁の如くその儒道の教化は成就した

公來雪山重,公去雪山輕。

厳武公が蜀に来たれば雪山の地方も重きを為し、厳武公が蜀を去れば雪山の地はこれがために重きを失うが如く厳武公の去来は蜀境の安危にかかるほどである。

記室得何遜,韜鈐延子荊。

厳武公の幕府の人材は、文学者としては記室として何選の如きものを得なければいけないし、兵法に通じたものとしては孫楚の如きものをまねきひくのである。

四郊失壁壘,虛館開逢迎。

騒乱がおこらぬから四方の郊には塁壁がなくなり、宏大な館を開いては賓客を逢迎する。

#6

諸葛 蜀人の愛,文翁 儒化成る。

公 來れば 雪山重く,公 去れば 雪山輕し。

記室 何遜を得,韜鈐【とうけん】子荊を延【ひ】く。

四郊 壁壘を失す,虛館 逢迎に開く。

 

 

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
 (本文) #6

諸葛蜀人愛,文翁儒化成。

公來雪山重,公去雪山輕。

記室得何遜,韜鈐延子荊。

四郊失壁壘,虛館開逢迎。


(下し文) #6

諸葛 蜀人の愛,文翁 儒化成る。

公 來れば 雪山重く,公 去れば 雪山輕し。

記室 何遜を得,韜鈐【とうけん】子荊を延【ひ】く。

四郊 壁壘を失す,虛館 逢迎に開く。


(現代語訳)
厳武公が蜀へ赴任してから、厳武公は諸葛孔明の如く蜀の人たちに愛せられ、また漢の文翁の如くその儒道の教化は成就した

厳武公が蜀に来たれば雪山の地方も重きを為し、厳武公が蜀を去れば雪山の地はこれがために重きを失うが如く厳武公の去来は蜀境の安危にかかるほどである。

厳武公の幕府の人材は、文学者としては記室として何選の如きものを得なければいけないし、兵法に通じたものとしては孫楚の如きものをまねきひくのである。

騒乱がおこらぬから四方の郊には塁壁がなくなり、宏大な館を開いては賓客を逢迎する。



(訳注) #6

唐時代剣南道北部075 

諸葛蜀人愛,文翁儒化成。

厳武公が蜀へ赴任してから、厳武公は諸葛孔明の如く蜀の人たちに愛せられ、また漢の文翁の如くその儒道の教化は成就した

○諸葛 孔明を厳武に比喩する。

○文翁 漢代蜀に教化を開いた人、すでに見える、厳武に此する。

○儒化 儒道の教化。

 

公來雪山重,公去雪山輕。

厳武公が蜀に来たれば雪山の地方も重きを為し、厳武公が蜀を去れば雪山の地はこれがために重きを失うが如く厳武公の去来は蜀境の安危にかかるほどである。

○公 厳武をさす。

○雪山 雪嶺山脈、西山、吐蕃の境に横たわる、よって蜀地の西境をさす。

 

記室得何遜,韜鈐延子荊。

厳武公の幕府の人材は、文学者としては記室として何選の如きものを得なければいけないし、兵法に通じたものとしては孫楚の如きものをまねきひくのである。

○記室 幕府書記官。

○何遜 梁の文学者にして建安王の記室となる。何 遜(か そん、467? - 518?)は中国南北朝時代の文学者。東海郯の人。字は仲言。曾祖父は何承天。梁が建国されると、起家して奉朝請となる。その後は地方に駐屯する皇族の幕僚を歴任する。一時期、尚書水部郎として中央の官職を兼務し(後世、彼が「何水部」と呼ばれるのはこのことによる)、武帝の弟、建安王蕭偉の推薦によって武帝に目通りを許されることもあったが、程なくして武帝の不興を被り、中央から退けられる。母の喪に服した後、武帝の子、廬陵王蕭続の記室参軍として江州に赴き、在任中に死去した。その葬儀は、彼のよき理解者であった蕭偉により執りおこなわれ、残された家族も彼の庇護を受けたという。

現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝朓とならび、唐詩の先駆とみなされている。

何遜の詩は当時からすでに高い評価を受けており、前述の范雲・蕭偉のほか、 沈約による「一日三復、猶ほ已む能はず」や、梁の元帝による「詩多くして能なる者は沈約、少なくして能なる者は謝朓・何遜」などの賞賛が記録されている。さらに唐の詩人、杜甫も「頗る陰(陰鏗)何(何遜)の苦(はなは)だ心を用ふを学ぶ」(「悶を解く十二首」其の七)とあるように、彼の詩に対する敬意を表明している。

○韜鈐 太公望の兵法というものに六輯及び玉鈴第がある。そ れらの兵書に通暁するものをいう。

○延子刑 延はまねきひくこと、子刑は晋の孫楚の字、楚は石葛の牒騎の軍事に参した。孫 楚(そんそ、 生年不詳 - 293年)は、中国・三国時代および西晋の政治家、武将。字は子荊。太原郡中都県の人。祖父は孫資、父は孫宏(南郡太守)。子に孫衆、孫洵(恂とも)、孫纂。孫に孫盛(洵の子)、孫統・孫綽(纂の子)など。曾孫に孫騰・孫登(統の子)『晋書』に伝がある。

 

四郊失壁壘,虛館開逢迎。

騒乱がおこらぬから四方の郊には塁壁がなくなり、宏大な館を開いては賓客を逢迎する。

〇四郊失壁塁 国に戦乱があるので四方の郊外に塁を多く設けるようになるのである、故に多塁は大臣たる者の恥辱である、いま「失す」というのは平和に治まっていることをいう。

○虚館 大きくてがらんどうのやかた。

○開逢迎 逢迎のために開く。逢迎とは賢士を迎えることをいう。
安史の乱当時の勢力図蜀中転々圖 

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奉節-33-5 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#5》 杜甫  京兆の尹をやめたときはみやこには徒に柳色がのこり、諌官をやめたときは尚書の履声をきくことができなくなった。御史たりしときには幕府に朝夕の烏があつまり、白馬に乗って任侠の士を気取って盗賊まがいに横行することができなくなった。

 

 
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 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
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766年大暦元年55-42-5奉節-33-5 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#5》 杜甫index-15 杜甫<905-5>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5660

杜甫詩1500-905-5-1303/2500766年大暦元年55-42-5

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

 

及地點:        華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)     

蕭關 ( 原州 蕭關)         

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)         

華陽 (山南西道 洋州 華陽)       

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺      

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀    

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門    

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

 

#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

されば壮士は義憤のために血涙をながしてみあい、忠臣はその意気において平らかならざるものがあった。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

そこで、厳武公は給事中として密かに房琯らと先祖太宗皇帝の「貞観の治」の政治体をひいて論じたりして、こんどの粛宗皇帝の岐陽(鳳翔)におでましになって、長安攻略の御趣旨を発揮するようになった。

感激動四極,聯翩收二京。

厳武公の言は感激をあたえて四方の果てまでをば動かし、唐王朝軍は聯翩とつづいて進んで二京(長安・洛陽)を奪還して収約することになった。

西郊牛酒再,原廟丹青明。

長安の西郊では二度まで牛酒を以て軍隊を歓迎し、安史軍の手に焚かれた宗廟も二度めに修復されて画の具の赤や青の色飾りあざやかにかがやくに至った。

 

壮士 血 相視る、忠臣気平らかならず。

密かに論ず 貞観の体、揮発す 岐陽の征。

感激 四極を動かす、聯翩 二京を収む。

西郊 牛酒再びす 原廟 丹青明らかなり。

 

#5

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

ただ厳武の官途には種種の変があった。諌臣として匡衡・汲黯に比すべき公は寵辱の運命俄かにかわり、武将として衛青・霍去病に比すべき公も生には栄えて死には哀しまれる結果となった。

四登會府地,三掌華陽兵。

厳武公は生涯のうちで四たび尹として省会の地の長官にのぼり、三たびまで節度使として華陽(蜀)の兵を掌られた。

京兆空柳色,尚書無履聲。

京兆の尹をやめたときはみやこには徒に柳色がのこり、諌官をやめたときは尚書の履声をきくことができなくなった。

群烏自朝夕,白馬休橫行。

御史たりしときには幕府に朝夕の烏があつまり、白馬に乗って任侠の士を気取って盗賊まがいに横行することができなくなった。

匡汲 俄に寵辱、衛霍 竟に哀栄。

四たび登る 会府の地、三たび掌る 華陽の兵。

京兆 空しく柳色あり、尚書 履声無し。

群烏 自ずから朝夕、白馬 横行することを休む。
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京兆地域図002

 

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
 (本文) #5

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

四登會府地,三掌華陽兵。

京兆空柳色,尚書無履聲。

群烏自朝夕,白馬休橫行。


(下し文) #5

匡汲 俄に寵辱、衛霍 竟に哀栄。

四たび登る 会府の地、三たび掌る 華陽の兵。

京兆 空しく柳色あり、尚書 履声無し。

群烏 自ずから朝夕、白馬 横行することを休む。

(現代語訳)
ただ厳武の官途には種種の変があった。諌臣として匡衡・汲黯に比すべき公は寵辱の運命俄かにかわり、武将として衛青・霍去病に比すべき公も生には栄えて死には哀しまれる結果となった。

厳武公は生涯のうちで四たび尹として省会の地の長官にのぼり、三たびまで節度使として華陽(蜀)の兵を掌られた。

京兆の尹をやめたときはみやこには徒に柳色がのこり、諌官をやめたときは尚書の履声をきくことができなくなった。

御史たりしときには幕府に朝夕の烏があつまり、白馬に乗って任侠の士を気取って盗賊まがいに横行することができなくなった。

安史の乱当時の勢力図
(訳注) #5

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 〔三〕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

○贈左僕射鄭国公厳公武 厳武字は季鷹、葦州華陰の人、厳挺之の子である。7654月卒して左僕射を贈られる。765年永泰元年5478月杜甫忠州で『哭嚴僕射歸櫬』(嚴僕射櫬に歸るを哭す)「素幔隨流水,歸舟返舊京。老親如宿昔,部曲異平生。風送蛟龍雨,天長驃騎營。一哀三峽暮,遺後見君情。」(長安にほど近い華陰縣に歸葬するため、棺が忠州を通ったのを哭した詩である。)この時初めて、僕射という爵位を使っている。猶、厳武に関する杜甫の詩は、このブログで既に三十五首訳注解説して掲載しており、末尾に示す。

○鄭公 邸国公、武をさす。

 

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

ただ厳武の官途には種種の変があった。諌臣として匡衡・汲黯に比すべき公は寵辱の運命俄かにかわり、武将として衛青・霍去病に比すべき公も生には栄えて死には哀しまれる結果となった。

○匡汲 漢の匡衡、汲黯はともに切諌をしたために斥けられた人。

○寵辱 初め官に用いられたのは寵であり、斥けられたのは辱である。これは諌議大夫・給事中・御史中丞らとしての厳武をいう。厳武は京兆少尹であったとき房琯の事に坐して巴州刺史に配せられ、やがて東川節度使に遷された。

○衛霍 漢の衛青、霍去病はともに武将である。ここでは節度使としての厳武をいう。

○哀栄 生前顕要の官職に居ったのは栄であり、死に至ったのは哀である。

 

四登會府地,三掌華陽兵。

厳武公は生涯のうちで四たび尹として省会の地の長官にのぼり、三たびまで節度使として華陽(蜀)の兵を掌られた。

〇四登會府地 会府とは省会をいう、長安、成都をいう、厳武は初め京兆少尹となりまた京兆尹となり、ふたたび剣南を鎮するや皆 成都尹を兼ねた、これで四たび会府の地に登ったことになる。

〇三掌華陽兵 華陽は県名、すなわち成都、武は初め御史中丞を以て蜀の東川節度使となり、またふたたび剣南節度使となった、これで三たび華陽の兵をつかさどったことになる。

 

京兆空柳色,尚書無履聲。

京兆の尹をやめたときはみやこには徒に柳色がのこり、諌官をやめたときは尚書の履声をきくことができなくなった。

○京兆空柳色 漢の張敵の故事。張敞は京兆尹となり朝会が終れば馬を章台街に走らせた。唐の時、章台は花柳の巷で楊柳があった、厳武が京兆尹をやめたときには徒らに柳色をあますのみである。

○尚書無履声 漢の張敞の故事。哀帝のとき崇は尚書であったが、常に革の履をひきずって諌諍したので、帝は「我、鄭尚書が履声を識れり」といった。厳武が地方に出て官についているときには朝廷は鄭尚書の履声をきかぬというのである。

 

群烏自朝夕,白馬休橫行。

御史たりしときには幕府に朝夕の烏があつまり、白馬に乗って任侠の士を気取って盗賊まがいに横行することができなくなった。

○群鳥自朝夕 御史の故事。「漢書」(朱博伝)にいう、御史府中に柏樹列る、常に野鳥数千ありて其の上に棲集し晨に去り暮に来たる、号して朝夕烏というと。厳武が御史中丞であった時、また御史大夫であった時、その幕府はこの状態のようであったことをいう。

○白馬休横行 白馬に乗って貴公子が任侠、遊侠の士を気取って、市中を横行した。詩人は「少年」を題材にした詩を多く作った。特に李白は、十数首作っているその中でも《結客少年場行》は杜甫のこの句の内容そのものというものである。

結客少年場行

紫燕黃金瞳,啾啾搖綠鬉。

平明相馳逐,結客洛門東。

少年學劍術,凌轢白猿公。

珠袍曳錦帶,匕首插鴻。

由來萬夫勇,挾此生雄風。

託交從劇孟,買醉入新豐。

笑盡一杯酒,殺人都市中。

羞道易水寒,徒令日貫虹。

燕丹事不立,虛沒秦帝宮。

舞陽死灰人,安可與成功。

197-#1 《巻3-25 結客少年場行 -#1(紫燕黃金瞳,)》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32 12首 <197-#1> Ⅰ李白詩1422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5658

王維の「少年行四首」は漢時代を借りて四場面の劇構成になっている。
王維『少年行四首』 其一   
新豊美酒斗十千、咸陽遊侠多少年。  
相逢意気為君飲、繋馬高楼垂柳辺。
杜甫《少年行》

馬上誰家白面郎、臨階下馬坐人牀。
不通姓氏麤豪甚、指點銀瓶索酒嘗。

少年行 杜甫 蜀中転々 杜甫 <501  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2695 杜甫詩1000-501-733/1500

杜甫『少年行』を一首と二首の三首,作っている

少年行,二首之一

莫笑田家老瓦盆,自從盛酒長兒孫。 

傾銀注瓦驚人眼,共醉終同臥竹根。 

(富貴の青年の悪行を詠う歌,二首のその一)

少年行,二首之一 蜀中転々 杜甫 <498  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2680 杜甫詩1000-498-730/1500

従来の解釈では、“梁の侯景は叛乱を起こしたとき白馬に乗っていた、そのことから白馬とは盗賊をいう。横行はかってにあるくことをいう。句は嚴武のカにより盗賊が横行せぬようになったことをいう。此の句は後漢の張堪の故事を用いるととくものがある、張堪は光禄大夫にして常に白馬に乗っていた、光武は異政をなす毎に白馬生がまた諌めることだろうといったという。以上「匡汲」八句は厳武の歴任の終始と存穀の概略をいっている。”というものであったが、厳武は、貴公子の横暴を取り締まっていたので貴公子のことを述べたものというのがただしい。
杜甫55歳756年作品 

766年大暦元年55歲-42-#4奉節-33-#4 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#4》 杜甫index-15 杜甫<905-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5655

奉節-33-4 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#4》 杜甫  そこで、厳武公は給事中として密かに房琯らと先祖太宗皇帝の「貞観の治」の政治体をひいて論じたりして、こんどの粛宗皇帝の岐陽(鳳翔)におでましになって、長安攻略の御趣旨を発揮するようになった。

 
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 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ766年大暦元年55歲-42-#4奉節-33-#4 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#4》 杜甫index-15 杜甫<905-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5655 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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766年大暦元年55-42-4奉節-33-4 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#4》 杜甫index-15 杜甫<905-4>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5655

杜甫詩1500-905-4-1302/2500766年大暦元年55-42-4

 

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

 

及地點:        華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)     

蕭關 ( 原州 蕭關)         

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)         

華陽 (山南西道 洋州 華陽)       

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺      

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀    

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門    

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

 

#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

感激動四極,聯翩收二京。

西郊牛酒再,原廟丹青明。

 

壮士 血 相視る、忠臣気平らかならず。

密かに論ず 貞観の体、揮発す 岐陽の征。

感激 四極を動かす、聯翩 二京を収む。

西郊 牛酒再びす 原廟 丹青明らかなり。

 

 関内道京畿道350万分の一図002

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
 (本文)
#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

感激動四極,聯翩收二京。

西郊牛酒再,原廟丹青明。


(下し文)
壮士 血 相視る、忠臣気平らかならず。

密かに論ず 貞観の体、揮発す 岐陽の征。

感激 四極を動かす、聯翩 二京を収む。

西郊 牛酒再びす 原廟 丹青明らかなり。

(現代語訳)
されば壮士は義憤のために血涙をながしてみあい、忠臣はその意気において平らかならざるものがあった。

そこで、厳武公は給事中として密かに房琯らと先祖太宗皇帝の「貞観の治」の政治体をひいて論じたりして、こんどの粛宗皇帝の岐陽(鳳翔)におでましになって、長安攻略の御趣旨を発揮するようになった。

厳武公の言は感激をあたえて四方の果てまでをば動かし、唐王朝軍は聯翩とつづいて進んで二京(長安・洛陽)を奪還して収約することになった。

長安の西郊では二度まで牛酒を以て軍隊を歓迎し、安史軍の手に焚かれた宗廟も二度めに修復されて画の具の赤や青の色飾りあざやかにかがやくに至った。



(訳注) #4

 

壯士血相視,忠臣氣不平。

されば壮士は義憤のために血涙をながしてみあい、忠臣はその意気において平らかならざるものがあった。

〇血相視 おたがい血の涙をだしてみあう。此の字面は江淹《別賦》の「甚至擦拭淚血互相凝視。」」の「甚至、血を擦拭して互に相い凝視す」より借り、意は義憤のために血涙をそそぎあうことをいう。

 

密論貞觀體,揮發岐陽征。

そこで、厳武公は給事中として密かに房琯らと先祖太宗皇帝の「貞観の治」の政治体をひいて論じたりして、こんどの粛宗皇帝の岐陽(鳳翔)におでましになって、長安攻略の御趣旨を発揮するようになった。

○密論 人知れず論奏する。

○貞観体貞観年中の太宗のよく治まった政治のすがた。

○揮発 発揮に同じ、其の趣旨のかくれているものをふるいだしてあらわすことをいう。

○岐陽征 岐陽は鳳翔をさしていう、粛宗は鳳翔(すなわち扶風)に行在所をおいた、征は征行、軍務の際ゆえ征という、其の地にでておられる事をさす。間もなく杜甫がここに逃げてくる。

 

感激動四極,聯翩收二京。

厳武公の言は感激をあたえて四方の果てまでをば動かし、唐王朝軍は聯翩とつづいて進んで二京(長安・洛陽)を奪還して収約することになった。

○聯翩 官軍のつづくさまをいうのであろう。

○収二京 長安・洛陽を賊の手からとりかえす。

 

西郊牛酒再,原廟丹青明。

長安の西郊では二度まで牛酒を以て軍隊を歓迎し、安史軍の手に焚かれた宗廟も二度めに修復されて画の具の赤や青の色飾りあざやかにかがやくに至った。

○西郊 長安の西の野外。

○牛酒再 牛肉と酒とは将士をねぎらうもの、再とは玄宗と粛宗と二回であることをいう、至徳二載九月契卯に長安を復し、十月丁卯に粛宗の車駕が長安に入った。十二月丙午に上皇(玄宗)が苛より至った。このために二回牛酒の事があった。

○原廟 原は重なる意、原廟とはすでに一つ廟があるのにまたそのうえに廟を設けることをいう。ここは同時に二重の廟があるのではなくで、長安の宗廟がさきに安史軍に焚かれたので、こんどまた新たにそれを修めることをさして原廟といった。

○丹青 廟の飾りとして木材に色をぬる。以上「壮士」八句は厳武が二京の収復に賛襄の功のあったことをいう。

 

安史の乱当時の勢力図 

 

 至徳2年(757)――――――――――――――――――――

      2月――――――――――――――――――――

粛宗皇帝が鳳翔へ到着してから十日ほど過ぎると、隴右、河西、安西、西域の兵が全て集結した。江、淮の庸調も洋川、漢中へ至る。 粛宗皇帝は、散関から成都へ表を出す。 使者は通路に絶えなかった。長安の人間は、車駕が来ると聞き、燕の軍中から逃げ出して やって来る者が日夜絶えなかった。西軍へ休息も取らせたので、李泌は、安西と西域の兵を派遣して前策のように東北を塞ぎ、檀から南下して范陽を取るよう請うた。

 

 関内節度使の王思禮は武功に、兵馬使の郭英乂は東原、王難得は西原に駐屯していた。丁酉、燕の安守忠らが武功へ来寇した。郭英乂は戦況不利で、頤を矢に貫かれて逃げた。王難得は、これを見て、救わずにまた逃げる。王思禮は扶風まで退却した。燕軍の遊兵は大和関まで進軍した。 ここは鳳翔から五十里である。鳳翔は大いに震駭し、戒厳令が下った。

 さて、太原の李光弼は決死隊を率いて、燕の蔡希徳を撃った。これを大いに破る。斬首七万余級。蔡希徳は逃げ去った。

 燕帝・安慶緒は史思明を范陽節度使・兼領恒陽軍事とし、嬀川王に封じた。牛廷介を領安陽軍事とする。張忠志を常山太守兼団練使として 井陘を鎮守させる。 その他は、各々旧任へ帰し、募兵して大唐軍を防がせた。

 

 

  5月――――――――――――――――――――

  癸丑、燕の安守忠は偽って退却した。郭子儀は、全軍でこれを追う。燕軍は、驍騎九千で長蛇の陣を作った。大唐軍がこれを攻撃すると、首尾が両翼となり、大唐軍を挟み込む。大唐軍は大いに潰れた。韓液、 監軍・孫知古が燕将に捕らえられ、軍資器械は殆ど捨てて行く。 郭子儀は退いて武功を保った。中外は戒厳。

   この時、府庫には余分な蓄えがなく、朝廷は官爵で功を賞した。諸将が出征する時、無記名の辞令を支給しておく。その官位は開府、特進、列卿、大将軍から 下は中郎、郎将へ至るまで。そしてその辞令に、臨機に名前を書き込むのである。その後、辞令がない時には、先に牌を給付して証拠とするやり方で、官爵を授けることまで許可した。 ついには、異姓の王まで生まれたのである。だから諸軍はただ職務で指揮系統を決め、官爵の高低など無視するようになった。

   大唐軍が清渠で敗戦すると、粛宗皇帝は再び官爵で敗残兵をかき集めた。罪を畏れた将帥が燕軍に帰順することを懼れたのだ。 これによって官爵はますます軽く、貨はますます重く、大将軍任命は、辞令一枚とわずかに 一酔の酒しか賜下されなかった。およそ応募して軍へ入った者は全員が金紫を着た。朝士の童僕は金紫を着て大官と称しながら、賎しい仕事にこき使われた。 名称の氾濫は、ここに至って極まった。 

   さて、房琯は高簡な性格。この時、国家は多難だったのに、房琯は病気と称して朝謁せず、職務など気にしていなかった。庶子の劉秩、諫議大夫・李揖らと共に釈迦や老子を高談したり、 あるいは門客の董庭蘭の鼓琴を聞いたりしていた。 董庭蘭は、これでたくさんの権利を得た。

   董庭蘭が収賄したと、御史が上奏した。

   丁巳、房琯をやめさせて太子少師とする。 諫議大夫 ・張鎬を中書侍郎、同平章事とした。

 

 

  至徳2年(757)――――――――――――――――――――

  9月――――――――――――――――――――

  庚子、大唐・ウイグル諸連合軍が共に出発する。

   壬寅、長安の西へ到着。香積寺の北、澧水の東へ布陣する。李嗣業を前軍、郭子儀を中軍、王思禮を後軍とする。 燕軍はその北に兵力10万で布陣した。

   李帰仁が出て戦いを挑んだが、大唐軍はこれを追い払い、燕軍の陣へ迫った。しかし、燕軍が一斉に進むと、大唐軍は少し退却した。そこを燕軍に乗じられて、軍中は驚き乱れた。 燕兵は、争って輜重を奪う。

 

癸卯、大唐・ウイグル連合軍が西京へ入った。

   当初、粛宗皇帝は少しでも早く長安へ入りたくて、ウイグル帝国と約束していた。

   「首都を回復したなら、土地や士庶は唐の物だが、金帛や子女は皆、ウイグルへ与える。」

   ここに至って、葉護太子は約束の履行を望んだ。すると、廣平王・李俶は葉護太子の馬の前にて拝んで言った。

 

  至徳2年(757)――――――――――――――――――――

  12月――――――――――――――――――――

  丙午、上皇は咸陽へ到着した。上は法駕を準備して望賢宮にて迎えた。

   上皇は、南楼に入る。粛宗皇帝は黄袍を紫黄袍へ着替え、楼を望んで下馬した。そこから小走りに進み、楼下にて拝舞する。上皇は楼から降り、粛宗皇帝を撫でて泣いた。 粛宗皇帝は玄宗上皇の足を捧げて、嗚咽が止まらなかった。

 

上皇は開遠門から大明宮へ入り、含元殿にて百官を慰撫する。 次いで長楽殿を詣でて九廟主へ謝り、しばらく慟哭した。その日のうちに興慶宮へ御幸し、ついに、ここに住んだ。 粛宗皇帝は退位して東宮へ戻ることを何度も請願したが、上皇は許さなかった。

 辛亥、禮部尚書・李峴、兵部尚書・呂エンを詳理使とし、 御史大夫・崔器と共に陳希烈らの疑獄を詮議させた。

 李峴は殿中侍御史・李栖筠を詳理判官とした。李栖筠は多忙でも穏やかだった。人々は呂エンや崔器を怨み、李峴ひとりだけ誉れを得た。 

 戊午、粛宗皇帝が丹鳳楼へ御幸し、天下へ恩赦を下す。 ただ、安禄山と共に造反した一味と、李林甫、王鉷、楊国忠の子孫は除いた。

 

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杜甫詩1500-905-3-1301/2500766年大暦元年55-42-3

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

 

及地點:        華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)     

蕭關 ( 原州 蕭關)         

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)         

華陽 (山南西道 洋州 華陽)       

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺      

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀    

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門    

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

#3

知らず万乗の出でしを、雪涕 風悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

 

#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

感激動四極,聯翩收二京。

西郊牛酒再,原廟丹青明。

#5

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

四登會府地,三掌華陽兵。

京兆空柳色,尚書無履聲。

群烏自朝夕,白馬休橫行。

#6

諸葛蜀人愛,文翁儒化成。

公來雪山重,公去雪山輕。

記室得何遜,韜鈐延子荊。

四郊失壁壘,虛館開逢迎。

#7

堂上指圖畫,軍中吹玉笙。

豈無成都酒,憂國只細傾。

時觀錦水釣,問俗終相並。

意待犬戎滅,人藏紅粟盈。

以茲報主願,庶或裨世程。

#8

炯炯一心在,沉沉二豎嬰。

顏回竟短折,賈誼徒忠貞。

飛旐出江漢,孤舟輕荊衡。

虛無馬融笛,悵望龍驤塋。

空餘老賓客,身上愧簪纓。

 

 

奉節-33-3 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#3》 杜甫

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
(本文) #3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

江山少使者,笳鼓凝皇情。



(下し文)
知らず万乗の出でしを、涕を雪【すす】ぎ 風 悲鳴す。

詞を受く 剣闇の道、帝に謁す 蕭関城。

寂寞たり 雲台の仗、飄颻たり沙塞の旌。

江山 使者少なし、笳鼓に皇情凝る。

(現代語訳)
厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。


(訳注)

奉節-33-3 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#3》 杜甫

 

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

厳武公は万乗の玄宗天子が長安から逃げ出されたことを知らずにおられたのでそれを知って悲風の鳴りひびくところに西の方にむかって涙をおしぬぐわれた。

〇万乗出 玄宗が長安から蜀へ出奔したことをいぅ。万乗は玄宗をいう。

○雪涕 ここは、西の方角に向かって涕を雪ぐとは涕を拭いきよめることをいう。雪の風は西風である。

 

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

それから蜀の行幸におともをして剣闇の道で君の仰せごとをうけ、方向を転じてあたらしい粛宗皇帝に蕭関城で謁見をされた。

○受詞 詞は辞。玄宗の命をうけること。

○剣閣 剣門をいう。厳武の北に対しては剣門と松州を結んだ線までが北の守備範囲であることを云う

○謁帝 帝は粛宗。房琯と共に肅宗に使者した。

○蕭関城 寧夏(ねいか)回族自治区の南部にあった関門。長安(今の西安)から約300キロメートル 北西に位置する要衝。関中の四関の一。(京畿道・関内道図

関内道京畿道350万分の一図002 

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗して、時に蜀の行在では雲台の儀仗さびしく、霊武の方面では沙漠地にたてられた塞旌が飄颻とゆれてはためきつつあるだけであった。

○寂寞雲臺仗 雲台は宮苑の高い台、雲臺仗は宮中の儀仗をいう、此の句は玄宗の蜀の寂しい状態の行在所をいう。

○沙塞旋 沙塞は沙漠地方のとりで、使者がすくない。

この二句は、唐王朝百万の軍隊が、三十万の安史軍に大敗を期して散りじりになっていたことを表現している。

 

江山少使者,笳鼓凝皇情。

霊武へは蜀の江山からの使者のくることもいとまれで、粛宗皇帝は胡笳と胡鼓、軍用楽器の音という寂しい音楽のうちに遂に皇位に即こうとの決心をされた。

○江山 長江上流域、蜀盆地を囲む山々で、玄宗を守っている山々をいう。

○少使者 玄宗は当初、肅宗が勝手に即位したことを知らなかったこと、蜀の玄宗のもとには、それだけの陣容はなかった。

○笳鼓 胡笳と胡鼓、軍用楽器。

○凝皇情 凝は凝定、皇情は粛宗の心情。粛宗の即位の決心のきまったことをいう。

以上ここまで、厳武が安禄山事変の時、玄宗の後を逐い、また粛宗の靈武行在に謁したことをいう。史にいう、天宝十五載秋七月、太子(後の粛宗)平涼に至る、杜鴻漸・魏少游ら、迎えて霊武に至り、河隴の勁騎を発し、南向以て中原を定めんと謀る、と。また厳武伝にいう、厳武、玄宗に従って蜀に入り諌議大夫に擢でらる、756年至徳の初め(天宝十五載とおなじ)粛宗の行在に赴く、房琯薦めて給事中と為す、とある。

安史の乱当時の勢力図 

 

至徳元年(756)――――――――――――――――――――

  6月潼関が陥落すると、河東、華陰、馮翊、上洛の防御史は、皆、郡を棄てて逃げた。所在の守兵も皆、逃げ散った。

楊国忠は自ら領剣南だったので、安禄山の造反を聞くと即座に副使崔圓へ皇帝の後座所を密かに揃えさせ、危急の時には逃げ込めるように準備していた。だから、ここに至って蜀への御幸を首唱する。 玄宗皇帝は同意した。

平涼は散地で、屯営する場所ではない。霊武は兵力も兵糧も豊富だ。 もしも太子をここへ迎え入れ、北は諸城兵を収め、西は河、隴の勁騎を発し、南下して中原を平定したならば、これは万世の功績だ。」

   そこで李涵を使者として、皇太子・李亨へ牋(幅の狭い紙)を奉った。かつ、朔方の士馬、甲兵、穀帛、軍須の数を献上する。李涵が平涼へ到着すると、 李亨は大いに悦んでこれを迎えた。

   やがて、河西司馬・裴冕が入って御史中丞となり、平涼へ到着して皇太子・李亨へ謁見すると、彼も皇太子へ朔方へ向かう事を進めた。皇太子はこれに従う。

   杜鴻漸と崔漪は、祗少游を後へ残して宿舎や資儲を整備させ、自身は平涼の北境まで太子を出迎えて、太子に説いた。

7月――――――――――――――――――――

  辛酉、皇太子・李亨が霊武へ到着すると、李亨は珍味等をことごとく片づけさせた。

  甲子、玄宗皇帝が普安へ到着した。玄宗皇帝が長安を出発したことは、多くの群臣が知らなかった。

裴冕、杜鴻漸らは皇太子・李亨へ牋を献上し、馬蒐での命令を遵守して皇帝位へ即くよう請うた。李亨は許さない。

   裴冕らは言った。

   「将士は皆、関中の人間です。日夜故郷へ帰ることを思っているのに、殿下に従って険しい山道を遠くまでやって来たのは、尺寸の功を願っているからです。 もしも彼らが一旦離散したら、再び集めることはできません。どうか殿下、つとめて衆心へ従い、社稷の為に計ってください!」

 牋は五度献上され、皇太子・李亨はついにこれを許した。 この日、霊武城の南楼に於いて、李亨が即位した。これが粛宗皇帝である。群臣は躍り上がって喜び、粛走皇帝は流涕して啜り泣いた。 玄宗皇帝を尊んで上皇天帝とし、天下へ恩赦を下して改元した。

 

 杜鴻漸、崔漪を共に知中書舎人事とし、裴冕を中書侍郎、同平章事とする。 関内采訪使を節度使と改め安化を治めさせ、前の蒲関防禦使・盧祟賁をこれに任命する。陳倉令・薛景仙を扶風太守として防禦使を兼務させる。隴右節度使・郭英乂を天水太守として 防禦使を兼務させた。

 この時、塞上の精鋭兵は、皆、討賊に出ており、余った老弱の兵が辺境を守っていた。 文武官は三十人に満たず、草をかぶせて朝廷を立てた。制度はできたばかりで、武人が驕慢だった。大将の管祟嗣は朝堂にあって、闕へ背を向けて坐り、気ままに言笑した。 監察御史・李冕がこれを上奏して弾劾し、役人へ下げ渡した。

 

庚辰、上皇が成都へ到着した。随従した従官及び六軍は、わずか千三百人だけだった。

   さて、燕将・令狐潮の雍丘包囲は続く。張巡は相守ること四十余日、朝廷とは連絡が取れなかった。令孤潮は、上皇が既に蜀へ御幸したと聞いて、書を以て張巡を招く。 雍丘には六人の大将が居て、官位は皆、開府や特進だった。

 

粛宗皇帝が即位して霊武を行在とすると、顔眞卿は蝋を丸めた文書で、霊武と通信した。顔眞卿を工部尚書兼御史大夫とする。河北招討、采訪、處置使は従来通り。 併せて赦書も蝋丸で与えた。顔眞卿は、これを河北諸郡へ頒下し、また、使者を派遣して河南、江、淮へも頒布した。

   これによって諸道は、粛宗皇帝が霊武にて即位したことを初めて知り、御国へ尽くす心がますます堅くなった。

   郭子儀らが兵5万を率いて河北から霊武へ到着した。霊武の軍威は、初めて盛んになり、人々は復興の望みを持った。

 

北海太守の賀蘭進明は録事参軍・第五琦を蜀へ派遣して、事を上奏した。第五琦は上皇へ言った。

   「今の用兵は、財賦が急務ですが、財賦の多くは江、淮にて生産されます。どうか臣へ一職をください。そうすれば、兵糧の欠乏を防いで見せます。」

   上皇は悦び、即座に第五琦を監察御史、江淮租庸使とした。

   癸巳、霊武の使者が蜀へやって来て、粛宗皇帝の即位を告げた。上皇は怒って言った。

   「朕に許可も得ないで勝手に皇帝を名乗るとは!」

   高力士が言った。

   「陛下は蜀に西走し、国家の人心は定まらぬ有様でした。太子は敢えて衆望のために入蜀しなかったのです。どうして皇帝になることを許せないなどと言えましょうか。」

   そこで上皇は言った。

   「我が子は天に応じ人に順じる。吾にはもう何の憂いもない!」

   丁酉、制を降ろす。

   「今後、制を誥と改め、表疏では太上皇と称する。四海の軍国事は皆、先に皇帝へ知らせてから、

 朕へ奏上せよ。上京が回復したならば、朕はもう政事には関与せぬ。」

   己亥、上皇は軒へ臨み、伝国の宝玉を持って霊武へ行き皇位を伝えるよう、韋見素と房琯、崔渙へ命じた。

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奉節-33-2 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#2》 杜甫朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

 

 
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杜甫詩1500-905-2-1300/2500766年大暦元年55-42-2

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序


及地點:華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)     

蕭關 ( 原州 蕭關)         

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)         

華陽 (山南西道 洋州 華陽)       

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺      

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀    

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門    

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

 

書をして百尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

 

 

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#2

書百紙盡,落筆四座驚。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

飛傳自河隴,逢人問公卿。


(下し文)
書をして百紙尽く、筆を落とせば四座驚く。

職を歷るは父の任に匪ず、邪を嫉みて常に力争す。

漢儀 尚お整粛、胡騎 忽ち縦横なり。

飛伝 河隴よりす 人に逢えば公卿を問う。

(現代語訳)
書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

安史の乱当時の勢力図
(訳注) #2

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 〔三〕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

○贈左僕射鄭国公厳公武 厳武字は季鷹、葦州華陰の人、厳挺之の子である。7654月卒して左僕射を贈られる。765年永泰元年5478月杜甫忠州で『哭嚴僕射歸櫬』(嚴僕射櫬に歸るを哭す)「素幔隨流水,歸舟返舊京。老親如宿昔,部曲異平生。風送蛟龍雨,天長驃騎營。一哀三峽暮,遺後見君情。」(長安にほど近い華陰縣に歸葬するため、棺が忠州を通ったのを哭した詩である。)この時初めて、僕射という爵位を使っている。猶、厳武に関する杜甫の詩は、このブログで既に三十五首訳注解説して掲載しており、末尾に示す。

○鄭公 邸国公、武をさす。

 

書百紙盡,落筆四座驚。

書籍を閲覧するときは百家を読みつくし、文筆を落とせば四座の人人を驚かした。

〇百氏 百家というがごとくである。

○落筆 文章をかきおろす。厳武が杜甫に寄せた詩(このブログ掲載したもの)。

・寄題杜二錦江野亭    厳武

漫向江頭把釣竿、懶眠沙草愛風湍。

莫倚蓄題鸚鵡賦、何須不著鵔義冠。

腹中書籍幽時曬、肘後醫方静處看。

興發會能馳駿馬、應須直到使君灘。

(杜二が錦江の野亭に寄せ題す)    厳武

漫りに江頭に向かって釣竿【ちょうかん】を把る、懶【らん】にして沙草に眠り風瑞を愛す。

善く鸚鵡の賦を題するに倚ること莫れ、何ぞ夋義の冠を着けざるを須いん。

腹中の書籍幽時に曬【さら】し、肘後の医方は静処に看る。

興発せば会ず能く駿馬を馳せ、終に当に直に使君灘に到るべし。

《寄題杜二錦江野亭》 厳武  蜀中転々 <528()  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2840 杜甫詩1000-528()-762/1500

・酬別杜二    厳武

獨逢堯典日、再観漢宮儀。

未効風霜勁、空噺雨露私。

夜鐘清萬戸、曙漏彿千旗。

並向殊庭謁、倶承別館遮。

斗城憐菰路、渦水惜餉期。

峰樹逞相俘、江言更對垂。

試廻溶海擢、莫妬敬亭詩。

祇是書唐寄、無忘酒共待。

但令心事在、未肯鬢毛衰。

最恨巴山裏、清猨醒夢思。

 (杜二に酬い別る)

独り逢う尭典の日、再び観る漢官の儀。

未だ効さず風霜の勤、空しく怒ず雨露の私。

夜鐘は万戸に清く、曙漏は千旗を払う。

拉びに殊庭に向かって謁す、供に承く別館の追。

斗城に旧路を憐れみ、清水に帰期を惜しむ。

峰樹遠た相い伴う、江雲更に誰にか対する。

試みに槍海の樺を回せ、妬む莫れ敬亨の詩。

祇だ足れ書をば応に寄すべし、忘るる無かれ酒共に持せしことを。

但だ心事をして在らしめば、未だ肯て鬂毛衰えたりとせず。

最も恨む巴山の裏、清猿の夢思を悩ますことを。

酬別杜二  厳武 蜀中転々 杜甫 <534(-#1)>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2880 杜甫詩1000-534(-#1)-770/1500

 

・厳武《軍城早秋》(軍城の早秋)

昨夜秋風入漢関 朔雲辺雪満西山 昨夜 秋風 漢関に入る、朔雲 辺雪 西山に満つ。

更催飛将追臨虜 莫遣沙場匹馬還 更に飛将を催して臨虜を追わしむ、沙場の匹馬をして還らしむること莫れ。

《軍城早秋》 厳武 764年 <0 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4555 杜甫詩1500-0-1082/2500

 

杜甫《奉和厳鄭公軍城早秋》(厳鄭公が軍城早秋を和し奉る)

秋風褭褭動高旌,玉帳分弓射虜營。秋風 褭褭 高旌に動く、玉帳 弓を分かちて虜営を射る。

已收滴博雲間戍,更奪蓬婆雪外城。己に収む 滴博雲間の戍、奪わんと欲す 蓬婆 雪外の城。

《奉和嚴大夫軍城早秋》 杜甫index-14 764年 杜甫<779 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4560 杜甫詩1500-779-1083/2500

房琯は全隊を三軍にわけた 

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

いろいろの官職を歴任したが、父が高級官吏だった「親の七光り」的特典によるものではなく、邪悪をにくんではいつもつとめて其の事について論争しておった。

○歴職 いろいろの官職を歴任してのぼること。

○父任 任とは或は廕ともいう、父が或る階級以上の官であれば其の子または孫は試験を要せずして或る種類の官に就くことができる、これを任または廕と称する。武もはじめは廕によって哥舒翰の判官となり、後に殿中侍御史に遷った。

○嫉邪 よこしまなことをにくむ。

○常力争 常に、いつもおなじ。力争はつとめて争う、思うに侍御史として争ったのであろう。

 

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

朝廷は平和で官吏の儀容もまだ整粛であったとおもっているときに、急に安禄山の叛乱がおこって安禄山配下の異民族の胡騎のものどもが縦横無尽にはびこるようになった。

○漢儀 漢官の威儀、唐の朝廷の官吏の儀容をいう。

○整粛 ととのいいかめしい、厳武が御史であるのによっていう。

○胡騎 安禄山の叛乱軍の騎。

 

飛傳自河隴,逢人問公卿。

この時西域の河西・隴右の方面から早打ちの伝騎がくると厳武公は逢う人ごとに公卿の様子はどうかとたずねられた。

○飛伝 伝は駅伝制の宿次の早打ちの馬。国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれ有事に備えた。この制度をあまりに頻繁に使ったために、制度そのものが疲弊した。杜甫はこれについて鋭い分析をし、批判している論文《乾元元年華州試進士策問五首》がある。この論文を書いたために官を辞すことになる。

757年至徳二載 《乾元元年華州試進士策問五首 (23) 全体》 杜甫<1509-T 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4340 杜甫詩1500/2500

○河隴 河西・隴右、粛宗(時に尚太子)が平涼の方に赴かれたので其の途筋をいう。安史の乱で長安陥落により、霊武に退却する。

○問公卿 公卿の安否をたずねる。
洛陽 函谷関002 

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766年大暦元年55-42-1奉節-33-1 《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#1》 杜甫index-15 杜甫<905-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5640

杜甫詩1500-905-1-1299/2500766年大暦元年55-42-1

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:  卷二二二 杜少陵集巻十六        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

作地點:        目前尚無資料

及地點:        華山 (京畿道 華州華山) 別名:華、太華、華岳、西岳       

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)      

蕭關 ( 原州 蕭關)  

岐陽 (京畿道 岐州 岐陽)  

華陽 (山南西道 洋州 華陽)        

雪山 (劍南道北部 無第二級行政層級 雪山) 別名:雪嶺       

成都 (劍南道北部 益州 成都) 別名:蜀     

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門     

衡州 (江南西道 衡州 衡州)

交遊人物:嚴武  詩文提及

 

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 并序

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

八哀詩八首 幷序

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、その序文をのべる。)

傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。

自分は各地で叛乱や盗賊のようなことがおさまらないのを傷んで、感興のわくまま王・李の二公からはじめて、旧友のことを嘆じたり、賢相のことをおもったりして相国張九齢までで終った。

八公前後存歿,遂不詮次焉。

その八人の諸公はたがいにあとさきになくなった。それでこの作はその生存の順序をかんがえてそのとおりに順序だてることはしなかったのである。

 

(八哀詩八首 幷びに序)

時の盗賊未だ息まざるを傷み、王公李公より興起し、旧を嘆じ賢を懐い、張相国に終る。

八公前後存歿す、遂に銓次せず。

 

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武#1

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

昔在童子日,已聞老成名。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

#2

書百紙盡,落筆四座驚。

歷職匪父任,嫉邪常力爭。

漢儀尚整肅,胡騎忽縱橫。

飛傳自河隴,逢人問公卿。

#3

不知萬乘出,雪涕風悲鳴。

受詞劍閣道,謁帝蕭關城。

寂寞雲臺仗,飄颻沙塞旌。

江山少使者,笳鼓凝皇情。

#4

壯士血相視,忠臣氣不平。

密論貞觀體,揮發岐陽征。

感激動四極,聯翩收二京。

西郊牛酒再,原廟丹青明。

#5

匡汲俄寵辱,衛霍竟哀榮。

四登會府地,三掌華陽兵。

京兆空柳色,尚書無履聲。

群烏自朝夕,白馬休橫行。

#6

諸葛蜀人愛,文翁儒化成。

公來雪山重,公去雪山輕。

記室得何遜,韜鈐延子荊。

四郊失壁壘,虛館開逢迎。

#7

堂上指圖畫,軍中吹玉笙。

豈無成都酒,憂國只細傾。

時觀錦水釣,問俗終相並。

意待犬戎滅,人藏紅粟盈。

以茲報主願,庶或裨世程。

#8

炯炯一心在,沉沉二豎嬰。

顏回竟短折,賈誼徒忠貞。

飛旐出江漢,孤舟輕荊衡。

虛無馬融笛,悵望龍驤塋。

空餘老賓客,身上愧簪纓。

安史の乱当時の勢力図 

 

『八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武

#1

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

昔在童子日,已聞老成名。

嶷然大賢後,復見秀骨清。

開口取將相,小心事友生。

 

(下し文)
鄭公は瑚漣の器、華岳 金天に晶たり。

昔 童子の日に在り、己に聞く老成の名。

嶷然たる大賢の後、復た見る秀骨の清きを。

口を開けば将相を取らんという、小心友生に事う。

(現代語訳)
(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

公の父(挺子)は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

京兆地域図002

(訳注) #1

八哀詩八首、贈左僕射鄭國公嚴公武 〔三〕

(魏の七哀詩のように唐の八人の哀情をのべる、鄭國公であり死後、僕射をおくられた厳武公を思って作った詩)〔三〕

○贈左僕射鄭国公厳公武 厳武字は季鷹、葦州華陰の人、厳挺之の子である。7654月卒して左僕射を贈られる。765年永泰元年5478月杜甫忠州で『哭嚴僕射歸櫬』(嚴僕射櫬に歸るを哭す)「素幔隨流水,歸舟返舊京。老親如宿昔,部曲異平生。風送蛟龍雨,天長驃騎營。一哀三峽暮,遺後見君情。」(長安にほど近い華陰縣に歸葬するため、棺が忠州を通ったのを哭した詩である。)この時初めて、僕射という爵位を使っている。猶、厳武に関する杜甫の詩は、このブログで既に三十五首訳注解説して掲載しており、末尾に示す。

○鄭公 邸国公、武をさす。

 

 

鄭公瑚璉器,華岳金天晶。

厳武公は孔子の云う魯国の君主の宗廟における瑚璉のごとき人で、華州華陰県の人で、華岳が西天に精光を放っている神のようなさまがある。

○瑚璉器 「論語」(公冶長)「子貢問曰。賜也何如。子曰。女器也。曰。何器也。曰。瑚璉也。」(子貢、問いて曰く、賜や何如。子曰く、女(なんじ)は器なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚璉なり。)に孔子が子貢を評して瑚璉の器といったことがみえる。包成の注にいう、瑚璉は黍稜の器、夏に瑚といい、殿に漣といい、周に萱蓋という、宗廟の器の貴き者なりと。包成の注は鄭玄の説に本づいている。「礼記」の孔穎達疏には「論語」の鄭注の誤りであることをのべている。しからば瑚も漣も黍稜を盛って供える宗廟の貴い器で瑚は殿器の名、璉は夏器の名であることを知ることができる。瑚璉は、宗廟(みたまや)で用いる黍稷(しょしょく)(穀物)を盛る器で、黄金や玉で飾られ、各種の器の中で「貴重華美なる者」とされる。つまり、魯国の君主の宗廟における瑚璉であるから、君主を補佐する直近の地位を意味する。しかし、そういうことは明らさまに言えないので比喩的に道具の話で語ったのであろう。政治における最高の器量人という比喩。厳武の材能をこれに比したものである。

○華岳金天晶華岳は華山、五岳のうちの西岳である。華州に在る。厳武は華州華陰県の人であるのにより其の地の名山をあげる。金天は西天をいう、晶は清光のこと、金天晶とは酉天に精光を放つごとくであることをいう。

唐では華岳の神は金天王を為すということで封じられた。

 

昔在童子日,已聞老成名。

むかし、こどもであった頃から、大人びていることをいうという子供で、すでに老成だという評判を耳にしていた。

○老成 早くから大人びていることをいう。

 

嶷然大賢後,復見秀骨清。

厳武公の父の挺之は嶷然たる大賢人であったが、厳武公は其の子として生まれいでてまた清々しいほどの秀骨をもっていた。

○嶷然 才徳の高いさま。

○大賢後 大賢人であった厳武の父の嚴挺之をいう、嚴挺之は中書侍郎であった。後とはその子であることをいう。

 

開口取將相,小心事友生。

厳武公は口を開けば将相の地位を取るといっていたが、一方では謙虚に謹慎して友人につきしたがって事えたものだ。

○開口談論をいう。

○取将相取とは取ろうとすることをいう。武は黄門侍郎に遭ったとき元載と厚く結んで宰相を求めようとした。壮時すでにかかる志望のあったことをいう。

○小心 謹慎のさまをいう。

○友生 友人、生とはわかものをいう。
 

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766年大暦元年55-41-5奉節-32-5 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -5》 杜甫index-15 杜甫<904-5>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5635

杜甫詩1500-904-5-1298/2500766年大暦元年55-41-5

 

 

巻16-02 八哀詩八首 幷序

巻16-03 八哀詩八首〔一〕贈司空王公思禮

巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼

16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武

16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

16-07 八哀詩八首〔五〕贈秘書監江夏李公邕

16-08 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明

16-09 八哀詩八首〔七〕故著作郎貶台州司滎陽鄭公虔

16-10 八哀詩八首〔八〕故右僕射相國張公九齡

 

 

卷二二二        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:故司徒李公光弼【案:光弼已封王,贈太保,稱司徒者,以其功名著於司徒時。〈洗兵馬〉亦云:「司徒清鑒懸明鏡」。】

詩序:  并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

 

八哀詩 故司徒李公光弼

李公光弼(李光弼)をかなしんでよんだ詩。

16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1

(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)

司徒天寶末,北收晉陽甲。

司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

胡騎攻吾城,愁寂意不愜。

そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。

安若泰山,薊北斷右脅。

しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。

朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。

 

(八哀詩八首〔二〕故の司徒李公光弼) -#1

北斷右。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

司徒天宝の末、北のかた晋陽の甲を収む。

胡騎 吾が城を攻む、愁寂 意 愜【かな】わず。

人 安すること 泰山の若し、薊北 右脅を断つ。

朔方 気乃ち蘇し、黎首 帝業を見る。
#2

二宮泣西郊,九廟起壓。

玄宗、粛宗の二宮はみやこの西郊に泣哭せられ、安史軍のために焚毀せられた九廟をやっと頽圧から起こしたときのことである。

未散河陽卒,思明偽臣妾。

時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。

複自碣石來,火焚乾坤獵。

それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。

高視笑祿山,公又大獻捷。

史思明の倣慢な態度は安禄山をも嘲笑しているかのごとくであったが、李光弼公はそれをもうち破って宗廟に大捷を献ぜられた。

二宮西郊に泣く、九廟 圧せらるるを起こす。

未だ散ぜず河陽の卒、思明偽りて臣妾たり。

復た碣石より来たる、火焚 乾坤に猟す。

高視 禄山を笑う、公又た大いに捷を献ず。

#3

異王冊崇勳,小敵信所怯。

李光弼公は洛陽の北、邙山では敗軍されたが、それは敗軍というよりは、後漢の光武が小敵を見ては臆病であったというようなものにすぎぬものであり、懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。

擁兵鎮河汴,千里初妥帖。

それから公は黄河中流域と、汴水の地方を鎮せられて千里の地ははじめておだやかにおちついた。

青蠅紛營營,風雨秋一葉。

ところがまた青蝿のごとき讒言者にうなりたてられて李光弼公の地位の危いことは風雨に散らされようとしている秋の一葉のようになられたのである、

省未入朝,死淚終映睫。

公自らその行ないの是非を反省するために謹慎してまだ朝廷のお召しに応じて入朝もしなかったうちに睫毛に死の涙をやどすことになってしまった。

異王 崇勳【しゅうくん】を冊せらる,小敵 信に怯るる所なり。

兵を擁して河の汴を鎮す,千里 初めて妥帖なり。

青蠅 紛として營營たり,風雨 秋の一葉。

省 未だ朝に入らず,死淚 終に睫を映ず

#4

大屋去高棟,長城掃遺堞。

李光弼公がなくなり、その後の朝廷は、たとえば大屋根から高い棟をとり去ったごとく、長城から過っていた土璧の堞をはらいのけたごときものである。

平生白羽扇,零落蛟龍匣。

平生では、諸葛亮のように白羽扇を手にして軍を指揮しておられたものが、いまや葬衣装束の蚊竜のよろいかたびらを身につけるまでにおちぶれてしまわれた。

雅望與英姿,惻愴槐裏接。

品のよいすがたもいさましかったすがたも、いまはみえず、ものがなしくも衛青・霍去病の墓が槐裏の茂陵に接するごとく李光弼公の墓は献陵に接するようになった。

三軍晦光彩,烈士痛稠疊。

李光弼公が没しては三軍も号令一施の光彩がくらくなっているという。烈士たるものの胸のうちが、いまでは痛ましい思いのみが積み重なるのである。

#4

大屋 高棟を去り,長城 遺堞を掃う。

平生 白羽の扇,零落す 蛟龍の匣。

雅望と英姿と,惻愴【そくそう】槐裏に接す。

三軍 光彩晦し,烈士 痛み稠疊【ちょうじょう】たり。

#5

直筆在史臣,將來洗箱篋。

李光弼公は一時讒言によって疑いを受けたが、李光弼公の公明なことを戦国樂羊の故事のように洗箱篋に歴史官の手で書き記して洗うことで、将来必ず正当な評価がなされるはずである。

吾思哭孤塚,南紀阻歸楫。

私は都へかえって長安の北、三原にある、李光弼公のさびしい塚に哭したいのであるが、いま「滔滔たる江漢(長江、漢水)、南國の紀」の流れるところで帰楫することを阻害されているのである。

扶顛永蕭條,未濟失利涉。

李光弼公が生時に大厦の顛せんとするのを扶けられたことは永久にさびしいものになったが、李光弼公のなくなられたために我我は大川を渡ることができないうちに舟楫の利便を失うたようなものである。

疲苶竟何人,灑涕巴東峽。

これほどの人物であるにも、残念ながら自分はつかれはててしまっており、身を以て巴東の三峡でもって涙をそそぎつつあるのである。

#5

直筆 史臣に在り,將來 箱篋を洗わん。

吾 孤塚に哭せんと思うも,南紀 歸楫 阻せらる。

扶顛 永く蕭條たり,未だ濟らずに利涉するを失う。

苶 竟に何人ならん,灑涕す 巴東の峽

 

夔州東川卜居図詳細 001 

『八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼』 現代語訳と訳註解説
 (
本文) 

#5

直筆在史臣,將來洗箱篋。吾思哭孤塚,南紀阻歸楫。

扶顛永蕭條,未濟失利涉。疲苶竟何人,灑涕巴東峽。


(下し文) #5

直筆 史臣に在り,將來 箱篋を洗わん。

吾 孤塚に哭せんと思うも,南紀 歸楫 阻せらる。

扶顛 永く蕭條たり,未だ濟らずに利涉するを失う。

 竟に何人ならん,灑涕す 巴東の峽

(現代語訳)
李光弼公は一時讒言によって疑いを受けたが、李光弼公の公明なことを戦国樂羊の故事のように洗箱篋に歴史官の手で書き記して洗うことで、将来必ず正当な評価がなされるはずである。

私は都へかえって長安の北、三原にある、李光弼公のさびしい塚に哭したいのであるが、いま「滔滔たる江漢(長江、漢水)、南國の紀」の流れるところで帰楫することを阻害されているのである。

李光弼公が生時に大厦の顛せんとするのを扶けられたことは永久にさびしいものになったが、李光弼公のなくなられたために我我は大川を渡ることができないうちに舟楫の利便を失うたようなものである。

これほどの人物であるにも、残念ながら自分はつかれはててしまっており、身を以て巴東の三峡でもって涙をそそぎつつあるのである。

安史の乱当時の勢力図
(訳注) #5

直筆在史臣,將來洗箱篋。

李光弼公は一時讒言によって疑いを受けたが、李光弼公の公明なことを戦国樂羊の故事のように洗箱篋に歴史官の手で書き記して洗うことで、将来必ず正当な評価がなされるはずである。

○史臣 歴史官。記録をつかさどる官職。

○洗箱篋 箱篋は讒言の書を収めたはこをいう、洗とはそのけがれを洗い去ること。《戰國策》:魏文侯令樂羊將攻中山,三年而拔之,樂羊反而語功,文侯示之謗書一篋。樂羊再拜稽首曰:『此非臣之功也,主君之力也。』。戦国の時、魏の文侯は樂羊をして将として中山を攻めさせ三年にしてこれを抜いた。楽羊が帰って論功を行うことになったとき、文侯は彼に謗書一篋を出して見せた、楽羊は再拝稽首して戦勝は臣の功ではなく、わが君の力によるといった。

 

吾思哭孤塚,南紀阻歸楫。

私は都へかえって長安の北、三原にある、李光弼公のさびしい塚に哭したいのであるが、いま「滔滔たる江漢(長江、漢水)、南國の紀」の流れるところで帰楫することを阻害されているのである。

○孤塚 長安の北、三原にある李光弼の塚をいう。

○南紀 長安・洛陽からして南の大江、長江、漢水をいう。

詩経 小雅 小旻之什四月

滔滔江漢、南國之紀。

盡瘁以仕、寧莫我有。

滔滔たる江漢(長江、漢水)、南國の紀(法度、糸口;司る)。

盡瘁して以って仕(つかえ)う、寧ぞ我有するなきや。

○阻歸楫 故郷へかえる楫とりを阻害されている。

 

扶顛永蕭條,未濟失利涉。

李光弼公が生時に大厦の顛せんとするのを扶けられたことは永久にさびしいものになったが、李光弼公のなくなられたために我我は大川を渡ることができないうちに舟楫の利便を失うたようなものである。

○扶顕 顕覆しょうとするのをたすけささえる。李光弼の材能をいう。「顕覆戴以」をたすけること。・覆載:① この世にあるすべてのものを、天がおおい地が支えていること。また、その恩。② 天地。宇宙。

○未済失利渉 「易」の未済卦の六三に、「未濟,征凶,利涉大川。」(未済、征くは凶、大川を渉るに利)とみえる。水を渡らぬうちに渉る利を失ったという意味である。利渉とは舟楫をいう。李光弼を以て川を渡るときの舟楫に此する。

 

疲苶竟何人,灑涕巴東峽。

これほどの人物であるにも、残念ながら自分はつかれはててしまっており、身を以て巴東の三峡でもって涙をそそぎつつあるのである。

○疲苶 苶はつかれる。

○竟何人 何人とは自己を強調していう。

○巴東峽 夔州をさす。以上「直筆」八句は李光弼司徒の心事を明らかにし哀惜の情を致した。

 杜甫55歳756年作品

766年大暦元年55歲-41-#4奉節-32-#4 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -4》 杜甫index-15 杜甫<904-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5630

杜甫 奉節-32-4 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -4平生では、諸葛亮のように白羽扇を手にして軍を指揮しておられたものが、いまや葬衣装束の蚊竜のよろいかたびらを身につけるまでにおちぶれてしまわれた。品のよいすがたもいさましかったすがたも、いまはみえず、ものがなしくも衛青・霍去病の墓が槐裏の茂陵に接するごとく李光弼公の墓は献陵に接するようになった。

 

 
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766年大暦元年55-41-4奉節-32-4 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -4》 杜甫index-15 杜甫<904-4>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5630

 

杜甫詩1500-904-4-1297/2500766年大暦元年55-41-4

 

 

卷二二二        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:故司徒李公光弼【案:光弼已封王,贈太保,稱司徒者,以其功名著於司徒時。〈洗兵馬〉亦云:「司徒清鑒懸明鏡」。】

詩序:  并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

 

八哀詩 故司徒李公光弼

李公光弼(李光弼)をかなしんでよんだ詩。

16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1

(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)

司徒天寶末,北收晉陽甲。

司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

胡騎攻吾城,愁寂意不愜。

そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。

安若泰山,薊北斷右脅。

しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。

朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。

 

(八哀詩八首〔二〕故の司徒李公光弼) -#1

北斷右。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

司徒天宝の末、北のかた晋陽の甲を収む。

胡騎 吾が城を攻む、愁寂 意 愜【かな】わず。

人 安すること 泰山の若し、薊北 右脅を断つ。

朔方 気乃ち蘇し、黎首 帝業を見る。
#2

二宮泣西郊,九廟起壓。

玄宗、粛宗の二宮はみやこの西郊に泣哭せられ、安史軍のために焚毀せられた九廟をやっと頽圧から起こしたときのことである。

未散河陽卒,思明偽臣妾。

時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。

複自碣石來,火焚乾坤獵。

それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。

高視笑祿山,公又大獻捷。

史思明の倣慢な態度は安禄山をも嘲笑しているかのごとくであったが、李光弼公はそれをもうち破って宗廟に大捷を献ぜられた。

二宮西郊に泣く、九廟 圧せらるるを起こす。

未だ散ぜず河陽の卒、思明偽りて臣妾たり。

復た碣石より来たる、火焚 乾坤に猟す。

高視 禄山を笑う、公又た大いに捷を献ず。

#3

異王冊崇勳,小敵信所怯。

李光弼公は洛陽の北、邙山では敗軍されたが、それは敗軍というよりは、後漢の光武が小敵を見ては臆病であったというようなものにすぎぬものであり、懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。

擁兵鎮河汴,千里初妥帖。

それから公は黄河中流域と、汴水の地方を鎮せられて千里の地ははじめておだやかにおちついた。

青蠅紛營營,風雨秋一葉。

ところがまた青蝿のごとき讒言者にうなりたてられて李光弼公の地位の危いことは風雨に散らされようとしている秋の一葉のようになられたのである、

省未入朝,死淚終映睫。

公自らその行ないの是非を反省するために謹慎してまだ朝廷のお召しに応じて入朝もしなかったうちに睫毛に死の涙をやどすことになってしまった。

異王 崇勳【しゅうくん】を冊せらる,小敵 信に怯るる所なり。

兵を擁して河の汴を鎮す,千里 初めて妥帖なり。

青蠅 紛として營營たり,風雨 秋の一葉。

省 未だ朝に入らず,死淚 終に睫を映ず

#4

大屋去高棟,長城掃遺堞。

李光弼公がなくなり、その後の朝廷は、たとえば大屋根から高い棟をとり去ったごとく、長城から過っていた土璧の堞をはらいのけたごときものである。

平生白羽扇,零落蛟龍匣。

平生では、諸葛亮のように白羽扇を手にして軍を指揮しておられたものが、いまや葬衣装束の蚊竜のよろいかたびらを身につけるまでにおちぶれてしまわれた。

雅望與英姿,惻愴槐裏接。

品のよいすがたもいさましかったすがたも、いまはみえず、ものがなしくも衛青・霍去病の墓が槐裏の茂陵に接するごとく李光弼公の墓は献陵に接するようになった。

三軍晦光彩,烈士痛稠疊。

李光弼公が没しては三軍も号令一施の光彩がくらくなっているという。烈士たるものの胸のうちが、いまでは痛ましい思いのみが積み重なるのである。

#4

大屋 高棟を去り,長城 遺堞を掃う。

平生 白羽の扇,零落す 蛟龍の匣。

雅望と英姿と,惻愴【そくそう】槐裏に接す。

三軍 光彩晦し,烈士 痛み稠疊【ちょうじょう】たり。

 

 

『八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼』 現代語訳と訳註解説
 (
本文) 
#4

大屋去高棟,長城掃遺堞。

平生白羽扇,零落蛟龍匣。

雅望與英姿,惻愴槐裏接。

三軍晦光彩,烈士痛稠疊。


(下し文)
大屋 高棟を去り,長城 遺堞を掃う。

平生 白羽の扇,零落す 蛟龍の匣。

雅望と英姿と,惻愴【そくそう】槐裏に接す。

三軍 光彩晦し,烈士 痛み稠疊【ちょうじょう】たり。

(現代語訳)
李光弼公がなくなり、その後の朝廷は、たとえば大屋根から高い棟をとり去ったごとく、長城から過っていた土璧の堞をはらいのけたごときものである。

平生では、諸葛亮のように白羽扇を手にして軍を指揮しておられたものが、いまや葬衣装束の蚊竜のよろいかたびらを身につけるまでにおちぶれてしまわれた。

品のよいすがたもいさましかったすがたも、いまはみえず、ものがなしくも衛青・霍去病の墓が槐裏の茂陵に接するごとく李光弼公の墓は献陵に接するようになった。

李光弼公が没しては三軍も号令一施の光彩がくらくなっているという。烈士たるものの胸のうちが、いまでは痛ましい思いのみが積み重なるのである。


(訳注) #4

李公光弼 -4

故政司徒李公光弼 故はすでに死んだ者を称する、司徒は上に云う官名、光弼をさす。

郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。

実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。

安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの2人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。

 李光弼(708~764年)は、営州柳城(遼寧朝陽南)の出身で、契丹族である。幼いころは遊びまわらないで、乗馬して弓を射ることがうまく、成年してからは威厳、落ち着き、果敢さがあり、知略にとんでいた。

 唐国の粛宗の靈武行在所で、郭子儀河西節度使、朔方節度副使に任命され、ついで、河東節度使、天下兵馬副元帥に任命され、安史の乱の平定する戦いのなかで功績をあげ、郭子儀とともに「李郭」と言われた。『新唐書』には、その功績をたたえ、「戦功は中興の名臣の中でも一番だ」と記されている。

 唐、760年上元元年、李光弼は軍隊を率いて、史思明の安史軍と戦い、勝利をあげた。李光弼の部隊は野水度に駐屯していたが、牙将の雍希顥に留守を任せて、自ら千名の兵士をひきつれて他所に隠れた。出て行く前、李光弼は留守を任せる武将たちに言った。「敵将の高暉、李日越は、一人で一万人分くらいの力がある敵だ。敵は私を襲ってくるだろう。おまえはここに残り、敵が来ても戦うな。もし降伏したら、私のところに連れてこい」

 武将たちは、この言葉を聞いて、かなり変だと感じたものの、心の中では「大将は、どう事をさばくのか、こんな不思議なことをするのだろう」と思った。

 翌日、史思明は、武将の李日越に五百騎の完全武装の騎馬隊を指揮させ、李光弼を襲うことにする。このとき勝てなければ帰ってくるなと命じた。李日越は、軍隊をひきいて野水度に来て、そこには雍希顥しかいないと知ると、ついに降伏した。李光弼は、李日越を厚遇したうえ、さらに郭子儀に頼んで右金吾大将軍にしてもらった。それで、この話を聞いた高暉も、李光弼に降伏する。

 すべてが片付いた後、武将たちはどんどんどうやって二人の敵将を投降させられたのかを聞きいた。李光弼は解説するように言った。「李日越が降伏したのは、私がどこにもいなかったので任務を遂行しようがなかったし、雍希顥は無名の武将なので、戦死させたとしても功績にならないからだ。高暉は、李日越より自分はすごいと自負しており、すでに李日越が降伏して厚遇されている以上、自分が降伏すればもっと厚遇されるだろうと思うだろうからだ」

 李光弼の戦法は、戦略をきちんと立て、計画ができてから戦うというもので、つねに少ない兵力で大軍に勝っている。軍隊の管理が厳正で、武将たちはだれもが命令に従う。764年、李光弼は病死したが、死に際して、財産をすべて武将たちに分け与えている。武将たちはだれもが李光弼の死を泣いて悲しんだ。

杜甫758年《洗兵馬(行)》「司徒清鑒懸明鏡,尚書氣與秋天杳。」(司徒の清鑒【せいかん】明鏡【めいきょう】を懸【か】く、尚書【しょうしょ】の気は秋天【しゅうてん】と杳【はるか】なり。)司徒李光弼は人物をみぬく力のあり、性格はあかるくあたかも鏡をかけたようなのだ、兵部の王尚書の気象は秋の空とともにはるかに澄み渡っているのだ。
司徒 李光弼、時に検校司徒を加えられる。・清鑒 人物をみぬく力のあることをいう。・懸明鏡 かがみにたとえる。・尚書 王思礼をいう、時に兵部尚書に遷る、安慶緒を討つときに粛宗は河東の李光弼、沢潞の王思礼の二節度使をして、部下の兵をひきいてこれを助けさせた。・気与秋天香 気は人の気象をいう、その気象は、秋の澄みわたった気が天とともに高く遙かなのに似ている、思礼の意気の爽かなさまをいう。

洗兵行 #2 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 296

 

大屋去高棟,長城掃遺堞。

李光弼公なくなり、その後の朝廷は、たとえば大屋根から高い棟をとり去ったごとく、長城から過っていた土璧の堞をはらいのけたごときものである。

○大屋二句 朝廷が俺頼者を失ったことをたとえる。

○掃遺堞 掃ははき去ってなくすることをいう。遺堞はのこっているひめがき。

 

平生白羽扇,零落蛟龍匣。

平生では、諸葛亮のように白羽扇を手にして軍を指揮しておられたものが、いまや葬衣装束の蚊竜のよろいかたびらを身につけるまでにおちぶれてしまわれた。

○白羽扇 白い羽のうちわ、軍配、諸葛孔明はこれを持って軍を指揮した、借用していう。〇校竜匣 匣は貴人が使者に着せる衣で、鎧のようにかたびらを編んでいる。金の絲線を以て蚊竜の像をかがりだしたよろいおどしの喪衣、貴人の用具である。蛟龍が雨に登ることから「蛟龍雨」という表現もある。 金の刺繍の蛟龍に雨の文様の葬衣装束のこと。《1459哭嚴僕射歸櫬》詩

哭嚴僕射歸櫬

素幔隨流水,歸舟返舊京。 

老親如宿昔,部曲異平生。 

風送蛟龍匣,天長驃騎營。 

一哀三峽暮,遺後見君情。 

765年永泰元年54-30 《1459哭嚴僕射歸櫬》 杜甫index-15 杜甫<830 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4885 杜甫詩1500-830-1148/2500

 

雅望與英姿,惻愴槐裏接。

品のよいすがたもいさましかったすがたも、いまはみえず、ものがなしくも衛青・霍去病の墓が槐裏の茂陵に接するごとく李光弼公の墓は献陵に接するようになった。

○雅望 上品なすがた。

○英姿 武に秀でた姿。

○惻愴 いたみかなしむ。悲憂、哀傷。

○槐裏接 槐裏は地名、興平県の東十里()にある、漢の武帝は槐裏の茂陵に葬られた、衛青・霍去病の墓は茂陵を去ること三里たらずである。李光弼の墓は三原()にあるが、唐の高祖の献陵も三原にあるのにより、詩句は李光弼の墓の献陵に接すること衛・霍の墓の茂陵に接するごとくであることをいう。

 

三軍晦光彩,烈士痛稠疊。

李光弼公が没しては三軍も号令一施の光彩がくらくなっているという。烈士たるものの胸のうちが、いまでは痛ましい思いのみが積み重なるのである。

○三軍 唐王朝軍の全軍。中国の春秋戦国時代の兵制。上軍・中軍・下軍の三軍よりなる。

○晦光彩 761年乾元二年七月李光弼は郭子儀に代わって朔方節度使・兵馬元帥となり、東都(洛陽)の軍を領するや号令一施、士卒壁塁、旋旗の精彩皆変じた、といわれる。今は死んだので光彩がくらいという。

○烈士 壮士をいう。

○稠畳 おおくかさなりつもる。以上「大屋」八句は李光弼が没して人に悼まれることをいう。

京兆地域図002 

遣興三首 其一   
興味のあること、風流なことを思ってみる。其の一。
下馬古戰場,四顧但茫然。
秦州城の附近の古戦場へきて馬から降りる、四方を振り返ってみるとただ茫漠としており、なんのとりとめもない景色である。
風悲浮雲去,黃葉墮我前。
秋の風は悲しそうに吹いて浮き雲が飛び去っている、黄ばんだ木の葉はわたしの前にと散り落ちる。
朽骨穴螻蟻,又為蔓草纏。
地上に横たわっている戦死者の朽ちた骨のまわりには「けら」や「あり」が穴をつくっている、そしてまたは蔓草が絡ったりしている。
故老行嘆息,今人尚開邊。
通りかかる老人たちが道すがら嘆きつつ語ってくれる、今時の人はいまだにこの辺鄙な地方を開き領土の拡大しようとしておるのであるか。
漢虜互勝負,封疆不常全。
それから、我が唐のくにと胡の異民族とは戦をしては一勝一敗で、国境は一進一退いつも完全を保ちうるというわけにいかないのだ。
安得廉頗將,三軍同晏眠?
どうしたならば、むかしの廉頗のような名将を得ることができて、唐王朝軍の全軍が一緒に遅くまで眠っていることができるようになれるのであろうか。

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 杜甫55歳756年作品

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杜甫 奉節-32-3 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -3李光弼公は洛陽の北、邙山では敗軍されたが、それは敗軍というよりは、後漢の光武が小敵を見ては臆病であったというようなものにすぎぬものであり、懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。


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杜甫詩1500-904-3-1296/2500766年大暦元年55-41-3

 

 

卷二二二        文體:  五言古詩

詩題:  八哀詩八首:故司徒李公光弼【案:光弼已封王,贈太保,稱司徒者,以其功名著於司徒時。〈洗兵馬〉亦云:「司徒清鑒懸明鏡」。】

詩序:  并序:傷時盜賊未息,興起王公、李公,歎舊懷賢,終於張相國。八公前後存歿,遂不詮次焉。

 

八哀詩 故司徒李公光弼

李公光弼(李光弼)をかなしんでよんだ詩。

16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1

(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)

司徒天寶末,北收晉陽甲。

司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

胡騎攻吾城,愁寂意不愜。

そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。

安若泰山,薊北斷右脅。

しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。

朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。

 

(八哀詩八首〔二〕故の司徒李公光弼) -#1

北斷右。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

司徒天宝の末、北のかた晋陽の甲を収む。

胡騎 吾が城を攻む、愁寂 意 愜【かな】わず。

人 安すること 泰山の若し、薊北 右脅を断つ。

朔方 気乃ち蘇し、黎首 帝業を見る。
#2

二宮泣西郊,九廟起壓。

玄宗、粛宗の二宮はみやこの西郊に泣哭せられ、安史軍のために焚毀せられた九廟をやっと頽圧から起こしたときのことである。

未散河陽卒,思明偽臣妾。

時に唐郭子儀軍はまだ河陽を守って兵を撤退していない段階で、安史軍の史思明はいったん投降し、越王が呉王にしたように、いつわりの臣下を表明し、燕薊州に退いた。

複自碣石來,火焚乾坤獵。

それが、ふたたび燕の碣石の方から軍をひきいてやって来て、諸処を火で焚きはらい天地のあいだで狩猟でもやるようなさまを為したのである。

高視笑祿山,公又大獻捷。

史思明の倣慢な態度は安禄山をも嘲笑しているかのごとくであったが、李光弼公はそれをもうち破って宗廟に大捷を献ぜられた。

二宮西郊に泣く、九廟 圧せらるるを起こす。

未だ散ぜず河陽の卒、思明偽りて臣妾たり。

復た碣石より来たる、火焚 乾坤に猟す。

高視 禄山を笑う、公又た大いに捷を献ず。

#3

異王冊崇勳,小敵信所怯。

李光弼公は洛陽の北、邙山では敗軍されたが、それは敗軍というよりは、後漢の光武が小敵を見ては臆病であったというようなものにすぎぬものであり、懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。

擁兵鎮河汴,千里初妥帖。

それから公は黄河中流域と、汴水の地方を鎮せられて千里の地ははじめておだやかにおちついた。

青蠅紛營營,風雨秋一葉。

ところがまた青蝿のごとき讒言者にうなりたてられて李光弼公の地位の危いことは風雨に散らされようとしている秋の一葉のようになられたのである、

省未入朝,死淚終映睫。

公自らその行ないの是非を反省するために謹慎してまだ朝廷のお召しに応じて入朝もしなかったうちに睫毛に死の涙をやどすことになってしまった。

異王 崇勳【しゅうくん】を冊せらる,小敵 信に怯るる所なり。

兵を擁して河の汴を鎮す,千里 初めて妥帖なり。

青蠅 紛として營營たり,風雨 秋の一葉。

省 未だ朝に入らず,死淚 終に睫を映ず
#4

大屋去高棟,長城掃遺堞。平生白羽扇,零落蛟龍匣。

雅望與英姿,惻愴槐裏接。三軍晦光彩,烈士痛稠疊。

#5

直筆在史臣,將來洗箱篋。吾思哭孤塚,南紀阻歸楫。

扶顛永蕭條,未濟失利涉。疲苶竟何人,灑涕巴東峽。

洛陽 函谷関002 

 

《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -3

『八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼』 現代語訳と訳註解説
 (
本文)
#3

異王冊崇勳,小敵信所怯。

擁兵鎮河汴,千里初妥帖。

青蠅紛營營,風雨秋一葉。

省未入朝,死淚終映睫。


(下し文) #3

異王 崇勳【しゅうくん】を冊せらる,小敵 信に怯るる所なり。

兵を擁して河の汴を鎮す,千里 初めて妥帖なり。

青蠅 紛として營營たり,風雨 秋の一葉。

省 未だ朝に入らず,死淚 終に睫を映ず

(現代語訳)
李光弼公は洛陽の北、邙山では敗軍されたが、それは敗軍というよりは、後漢の光武が小敵を見ては臆病であったというようなものにすぎぬものであり、懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。

それから公は黄河中流域と、汴水の地方を鎮せられて千里の地ははじめておだやかにおちついた。

ところがまた青蝿のごとき讒言者にうなりたてられて李光弼公の地位の危いことは風雨に散らされようとしている秋の一葉のようになられたのである、

公自らその行ないの是非を反省するために謹慎してまだ朝廷のお召しに応じて入朝もしなかったうちに睫毛に死の涙をやどすことになってしまった。


安史の乱当時の勢力図
(訳注) #3

李公光弼 -2

故政司徒李公光弼 故はすでに死んだ者を称する、司徒は上に云う官名、光弼をさす。

郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。

実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。

安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの2人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。

 李光弼(708~764年)は、営州柳城(遼寧朝陽南)の出身で、契丹族である。幼いころは遊びまわらないで、乗馬して弓を射ることがうまく、成年してからは威厳、落ち着き、果敢さがあり、知略にとんでいた。

 唐国の粛宗の靈武行在所で、郭子儀河西節度使、朔方節度副使に任命され、ついで、河東節度使、天下兵馬副元帥に任命され、安史の乱の平定する戦いのなかで功績をあげ、郭子儀とともに「李郭」と言われた。『新唐書』には、その功績をたたえ、「戦功は中興の名臣の中でも一番だ」と記されている。

 唐、760年上元元年、李光弼は軍隊を率いて、史思明の安史軍と戦い、勝利をあげた。李光弼の部隊は野水度に駐屯していたが、牙将の雍希顥に留守を任せて、自ら千名の兵士をひきつれて他所に隠れた。出て行く前、李光弼は留守を任せる武将たちに言った。「敵将の高暉、李日越は、一人で一万人分くらいの力がある敵だ。敵は私を襲ってくるだろう。おまえはここに残り、敵が来ても戦うな。もし降伏したら、私のところに連れてこい」

 武将たちは、この言葉を聞いて、かなり変だと感じたものの、心の中では「大将は、どう事をさばくのか、こんな不思議なことをするのだろう」と思った。

 翌日、史思明は、武将の李日越に五百騎の完全武装の騎馬隊を指揮させ、李光弼を襲うことにする。このとき勝てなければ帰ってくるなと命じた。李日越は、軍隊をひきいて野水度に来て、そこには雍希顥しかいないと知ると、ついに降伏した。李光弼は、李日越を厚遇したうえ、さらに郭子儀に頼んで右金吾大将軍にしてもらった。それで、この話を聞いた高暉も、李光弼に降伏する。

 すべてが片付いた後、武将たちはどんどんどうやって二人の敵将を投降させられたのかを聞きいた。李光弼は解説するように言った。「李日越が降伏したのは、私がどこにもいなかったので任務を遂行しようがなかったし、雍希顥は無名の武将なので、戦死させたとしても功績にならないからだ。高暉は、李日越より自分はすごいと自負しており、すでに李日越が降伏して厚遇されている以上、自分が降伏すればもっと厚遇されるだろうと思うだろうからだ」

 李光弼の戦法は、戦略をきちんと立て、計画ができてから戦うというもので、つねに少ない兵力で大軍に勝っている。軍隊の管理が厳正で、武将たちはだれもが命令に従う。764年、李光弼は病死したが、死に際して、財産をすべて武将たちに分け与えている。武将たちはだれもが李光弼の死を泣いて悲しんだ。

杜甫758年《洗兵馬(行)》「司徒清鑒懸明鏡,尚書氣與秋天杳。」(司徒の清鑒【せいかん】明鏡【めいきょう】を懸【か】く、尚書【しょうしょ】の気は秋天【しゅうてん】と杳【はるか】なり。)司徒李光弼は人物をみぬく力のあり、性格はあかるくあたかも鏡をかけたようなのだ、兵部の王尚書の気象は秋の空とともにはるかに澄み渡っているのだ。
司徒 李光弼、時に検校司徒を加えられる。・清鑒 人物をみぬく力のあることをいう。・懸明鏡 かがみにたとえる。・尚書 王思礼をいう、時に兵部尚書に遷る、安慶緒を討つときに粛宗は河東の李光弼、沢潞の王思礼の二節度使をして、部下の兵をひきいてこれを助けさせた。・気与秋天香 気は人の気象をいう、その気象は、秋の澄みわたった気が天とともに高く遙かなのに似ている、思礼の意気の爽かなさまをいう。

洗兵行 #2 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 296

 

異王冊崇勳,小敵信所怯。

李光弼公は洛陽の北、邙山では敗軍されたが、それは敗軍というよりは、後漢の光武が小敵を見ては臆病であったというようなものにすぎぬものであり、懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。

○異王 異姓王をいう、唐の皇族の出でなくして王爵を賜わったことをいう。光弼は懐州を平らげた功を以て762年宝応元年五月臨准郡王に進封された。

○冊崇勲 冊とは記録にかくこと、崇勲はたかいいさおし。

○小敵信所怯 光弼の北部の敗軍を忌んでかくいった。761年上元二年二月、光弼は史思明と邙山の下に戦って敗れた。時に光弼は魚朝恩・僕固懐恩のためにうながされてやむを得ず兵を進め遂に敗を取った。小敵云云は後漢の光武の故事。光武が王鳳らと戦ったとき、自から歩騎千余に将として前進したとき、諸部が喜んでいうのに、劉将軍は平生小敵を見れば怯であるのに、今大敵を見て勇なのは甚だふしぎだ、と。詩句は光弼が敗軍したといわずに光武のごとく小敵の前には怯であると取りなしていったのである。異王・小敵の二句は、事実は敗軍が封王の前であるが、押韻のために置きかえていったもの。

 

擁兵鎮河汴,千里初妥帖。

それから公は黄河中流域と、汴水の地方を鎮せられて千里の地ははじめておだやかにおちついた。

○鎮河汴 河は黄河、汴は汴水、河南及び江蘇北部をさす。761年上元二年五月に李光弼は河南副元帥となり八通行営節度を統べ、中央から出て臨淮に鎖した。

○妥帖 おだやかにおちつく

 

青蠅紛營營,風雨秋一葉。

ところがまた青蝿のごとき讒言者にうなりたてられて李光弼公の地位の危いことは風雨に散らされようとしている秋の一葉のようになられたのである、

○青蝿営営 「詩経」(小雅)に青蝿篇があり、青蝿が白をけがして黒くさせることを以て義人が善悪を変乱することにたとえている。此の句は光弼が讒言を被ったことをいう。営営とは蝿の往来して飛ぶときの声である。讒人は魚朝恩・程元振らを指す。北部が敗れたとき魚朝恩は其の策の謬ったことを差じて深く李光弼を忌みきらった。また程元振はもっとも李光弼を嫉んでいたが、來瑱(宰相であった)が程元振のために護死するに及び李光弼はいよいよ程元振を恐れた。763年広徳元年十月、吐蕃が長安に人造するや代宗は李光弼に詔して入援させたが、李光弼は禍を恐れ遷延して行こうとしなかった。

○秋一葉 形勢の危いことをいう、「准南子」に「一葉落チテ秋ヲ知ル」とみえる。

 

省未入朝,死淚終映睫。

公自らその行ないの是非を反省するために謹慎してまだ朝廷のお召しに応じて入朝もしなかったうちに睫毛に死の涙をやどすことになってしまった。

○内省 李光弼がみずから自己に過失あるや否やをかえりみることをいう。

○未入朝 代宗より召されながら朝廷へでかけぬこと。

○死涙終映 死んだことをいう。はまつ毛。李光弼は763年広徳二年七月徐州に乗じた、五十七歳の時である。太保を贈り、武穆と諡した。以上「異王」八句は封王ののち久しからずして讒言を憂えて卒したことをいう。

 
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 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ766年大暦元年55歲-41-#3奉節-32-#3 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -3》 杜甫index-15 杜甫<904-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5625 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
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