昔游(杜甫 唐詩)
《2084 昔游》 P391
其一:
昔謁華蓋君,深求洞宮腳。
玉棺已上天,白日亦寂寞。
暮升艮岑頂,巾幾猶未卻。
弟子四五人,入來淚俱落。
餘時游名山,發軔在遠壑。
良覿違夙願,含淒向寥廓。
林昏罷幽磬,竟夜伏石閣。
王喬下天壇,微月映皓鶴。
晨溪向虛駃,歸徑行已昨。
豈辭青鞋胝,悵望金匕藥。
東蒙赴舊隱,尚憶同志樂。
休事董先生,於今獨蕭索。
胡爲客關塞,道意久衰薄。
妻子亦何人,丹砂負前諾。
雖悲鬒發變,未憂觔力弱。
扶藜望清秋,有興入廬霍。
《1613昔游》
其二:
昔者與高李,晚登單父台。
寒蕪際碣石,萬里風雲來。
桑柘葉如雨,飛藿去裴回。
清霜大澤凍,禽獸有馀哀。
是時倉廪實,洞達寰區開。
猛士思滅胡,將帥望三台。
君王無所惜,駕馭英雄材。
幽燕盛用武,供給亦勞哉。
吳門轉粟帛,泛海陵蓬萊。
肉食三十萬,獵射起黄埃。
隔河憶長眺,青歲已摧頹。
不及少年日,無複故人杯。
賦詩獨流涕,亂世想賢才。
有能市駿骨,莫恨少龍媒。
商山議得失,蜀主脱嫌猜。
呂尚封國邑,傅說已鹽梅。
景晏楚山深,水鶴去低回。
龐公任本性,擕子臥蒼苔。
今や商山の皓老人(李泌)は、政治の得失を議しつつある。どうぞ蜀主にも比すべき吾君には臣下を信用し、他のものから嫌猜せらるることなき様にしていただきたいものだ。
766年大暦元年55歲-49【5分割】 《巻1513 昔遊 -5》 杜甫index-15 杜甫<913-#1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5925 杜甫詩1500-913-#1-1356/2500766年大暦元年55歲-49
年:766年大暦元年55歲
卷別: 卷二二二 文體: 五言古詩
詩題: 昔遊
作地點: 夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)
及地點: 單父臺 (河南道 宋州 單父)
碣石山 (河北道南部 平州 碣石山)
蘇州 (江南東道 蘇州 蘇州) 別名:吳郡、吳門
大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿
商山 (山南東道 商州 商州) 別名:南山、地肺山、楚山、商顏
昔遊 -#1
昔者與高李,晚登單父臺。
昔 李白や高適(こうせき)と、日暮れに 単父の台の登ったことがある。
寒蕪際碣石,萬里風雲來。
そのとき寒空の下 荒地は碣石のあたりまでつらなり、万里の彼方から 風雲がやってきた。
桑柘葉如雨,飛藿去裴回。
桑や山桑の葉は、雨のように散り落ち、豆の葉もそれらとともにあたりに飛び散り、徘徊していた。
清霜大澤凍,禽獸有餘哀。』
霜は清らかに降りて 大きい沢は全面凍り、鳥や獣は、猟でおいまわされて啼きだし、十分の哀しみを抱いて声をだす。
-#2
是時倉廩實,洞達寰區開。
-時に「開元の治」と言われ、唐で最も豊かな時代で、天下の米倉、穀物蔵は満ちあふれ、道路網が整備、発展し、大道はいたるところに通じ、自由に心配なく往交できた。
猛士思滅胡,將帥望三台。
勇士は周辺異民族国家を圧倒し、滅ぼし、国土面積も最高に広がった、将軍たちは三公卿の位につこうと異民族との戦いに成果をあげようと必死になった
君王無所惜,駕馭英雄材。』
生産性があがったので君王は彼らの欲するものを惜しげなく与えることができ、結果、天下の人材を自由にあやつることができたのである。
#3
幽燕盛用武,供給亦勞哉。
河北の幽州、燕州の地方は盛んに武力を用いる。それに一一、錢と食糧を供給するのは、それはそれでなかなか勞を擁するものである。
吳門轉粟帛,泛海陵蓬萊。
南の呉越の地方から、粟帛を転送するに船を浮かべて蓬莱山のあたりをしのぎわたって北方へはこぶのである。
肉食三十萬,獵射起黃埃。』
肉を食っている贅沢をしている安史軍の兵卒が三十万人、それらは、射猟をほしいままにして黄色い埃をたたせてくらしていたのである。』
-#4
隔河憶長眺,青歲已摧頹。
あの頃、黄河の南岸から北方をはるかにながめたことをいまも憶いだすが、もはや青年時代の元気はうちくだかれてしまったし、その地は安史軍で荒らされてしまったところだ。
不及少年日,無復故人杯。
とても少年の時には何事もかなわない。そうして高適と李白の様な旧友と酒杯を共にすることも無くなってしまった。
賦詩獨流涕,亂世想賢才。
それで詩を賦して我ひとり涙を流し、今の世の乱れたるにつけて賢才が居てくれたならとおもうところである。
有能市駿骨,莫恨少龍媒。』
今日でも昔の人のごとく駿馬の骨を買ってくれる者さへいるならば名馬が居ないことを恨むにはあたらぬのである。』
-#5
商山議得失,蜀主脫嫌猜。
今や商山の皓老人(李泌)は、政治の得失を議しつつある。どうぞ蜀主にも比すべき吾君には臣下を信用し、他のものから嫌猜せらるることなき様にしていただきたいものだ。
呂尚封國邑,傳說已鹽梅。
いま呂尚(郭子儀)は己に國邑に封ぜられ、傅説は巳に鹽梅の任にあたっている。(してみれば国政は必ずしも間ふにおよばぬ)
景晏楚山深,水鶴去低回。
いま楚地の山深く日がくれかかつていて、水邊の鶴が棲み家に去らんとしてさまよいつつある。
龐公任本性,攜子臥蒼苔。』
このおりしも自分は龐公のごときもので本性のまにまにこんな場所にひきこもって、子供らを携えて青苔のむせる庭に寝て暮らしているのである。」
(昔 遊)
昔者 高李と、晩(くれ)に単父【ぜんぽ】の台に登る。
寒蕪 碣石に際し、万里 風雲来る。
桑柘【そうしゃ】の葉は雨の如く、飛藿【ひかく】共に徘徊す。
清霜 大沢)凍り、禽獣 余 哀有り。』
是の時 倉廩【そうりん】実ち、洞達 寰区 開く。
猛士 胡を滅せんことを思い、将帥 三台を望む。
君王 惜む所無く、駕馭【がぎょ】す 英雄の材。』
幽燕 盛んに武を用す,供給 亦た勞せらる哉。
吳門より 粟帛を轉ず,海に泛びて 蓬萊を陵ぐ。
肉食 三十萬,獵射して 黃埃起る。』
河を隔てて憶う 長眺せしことを,青歲 已に摧頹す。
及ばず 少年の日,複た 故人の杯無し。
詩を賦して 獨り涕を流し,亂世 賢才を想う。
能く駿骨を市うもの 有らば,恨む莫れ 龍媒少きを。』
商山 得失を議す,蜀主 嫌猜を脫せん。
呂尚 國邑に封ぜられ,傅說 已に鹽梅す。
景晏れて 楚山 深し,水鶴 去って 低回す。
龐公 本性に任す,子を攜えて 蒼苔に臥す。』
『昔遊』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#5
商山議得失,蜀主脫嫌猜。
呂尚封國邑,傳說已鹽梅。
景晏楚山深,水鶴去低回。
龐公任本性,攜子臥蒼苔。』
(下し文)
商山 得失を議す,蜀主 嫌猜を脫せん。
呂尚 國邑に封ぜられ,傅說 已に鹽梅す。
景晏れて 楚山 深し,水鶴 去って 低回す。
龐公 本性に任す,子を攜えて 蒼苔に臥す。』
(現代語訳)
今や商山の皓老人(李泌)は、政治の得失を議しつつある。どうぞ蜀主にも比すべき吾君には臣下を信用し、他のものから嫌猜せらるることなき様にしていただきたいものだ。
いま呂尚(郭子儀)は己に國邑に封ぜられ、傅説は巳に鹽梅の任にあたっている。(してみれば国政は必ずしも間ふにおよばぬ)
いま楚地の山深く日がくれかかつていて、水邊の鶴が棲み家に去らんとしてさまよいつつある。
このおりしも自分は龐公のごときもので本性のまにまにこんな場所にひきこもって、子供らを携えて青苔のむせる庭に寝て暮らしているのである。」
昔遊
(744年 天宝3載 33歳のころ、高適、李白と杜甫の三人は秋の終わりから冬のはじめにかけて、宋州 單父縣、孟諸沢で狩りの遊んだ時のことを思い浮かべて現時の感をのべたもの)
744年 天宝3載 33歳のころ、三人は秋の終わりから冬のはじめにかけて、孟諸沢で狩りの遊でいる。「壮遊」『遣懐』『昔遊』766年大暦元年55歳のときの作品である。「壮遊」は杜甫の自叙伝ともいうべき五言古詩、『遣懐』『昔遊』は李白、高適と遊んだことの思い出を詠っている。
商山議得失,蜀主脫嫌猜。
今や商山の皓老人(李泌)は、政治の得失を議しつつある。どうぞ蜀主にも比すべき吾君には臣下を信用し、他のものから嫌猜せらるることなき様にしていただきたいものだ。
商山議得失 商山の四皓が漢の高祖が太子を廃せんとした時、山より出でてこれを調整した、子と同じように李泌がなしてほしいことをいう。
蜀主脫嫌猜 蜀主、劉備が諸葛亮と情好日に密なりし時、関羽と張飛は悦ばずとした。
呂尚封國邑,傳說已鹽梅。
いま呂尚(郭子儀)は己に國邑に封ぜられ、傅説は巳に鹽梅の任にあたっている。(してみれば国政は必ずしも間ふにおよばぬ)
呂尚封國邑,傳說已鹽梅 呂尚は太公望の事である。殷の王である帝辛(受王、紂)を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという。
景晏楚山深,水鶴去低回。
いま楚地の山深く日がくれかかつていて、水邊の鶴が棲み家に去らんとしてさまよいつつある。
景晏 日影が遅く、暮れかかること。
楚山 夔州の山々。
水鶴 水辺の鶴。こうづるの類。
去低回 棲み家に去らんとしてさまよひつつあることをいう。
龐公任本性,攜子臥蒼苔。』
このおりしも自分は龐公のごときもので本性のまにまにこんな場所にひきこもって、子供らを携えて青苔のむせる庭に寝て暮らしているのである。」
龐公 龐徳公は襄陽の人である。東漢の末年、襄陽の名士である龐徳公は薬草を求めて妻を連れて山に入ってからもどらなかった。劉表からの士官への誘い、諸葛孔明からも誘われた、それを嫌って、奥地に隠遁したということと解釈している。隠遁を目指すものの憧れをいう。
峴山の南、沔水のほとりに住まいして、一度も城内には入ったことがなかった。みずから田畑を耕し、夫婦はまるで賓客同士のように付き合った。休息するときは頭巾を正し、端坐して琴を弾いたり書を読んだりして楽しみ、その様子を見てみると実におだやかであった。



















