杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

2016年01月

767年-18 # 1 《杜少陵集 19-21 甘林 》#1 杜甫詩index-15-1124 <1574> 767年大暦2年56歲-18 #1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7267 

甘林  #1

舍舟越西岡,入林解我衣。青芻適馬性,好鳥知人歸。

晨光映遠岫,夕露見日晞。遲暮少寢食,清曠喜荊扉。

(瀼西の柑林にかえってきて、感じたことをよんだ詩)

自分は大瀼水左岸に舟をのりすてて西の岡を越え、林のなかにはいって自分の禮服をぬぐ。それから馬に青草をたべさせると、馬はよろこんでたべる。またよい鳥も人が帰ってきたことを知るとそれにこたえるようにさえずってくれる。朝日の光が遠方の山にうつろうと、昨夕からかけての露は太陽がでるとまもなく乾いてしまう。自分はもう晩年になってきている中、寝ることも食べることも少く、ただこんなすがすがしくてさつぱりとして、ひろびろとした柴門の扉の住居をよろこぶのである。

767-18  # 1

《杜少陵集 19-21 甘林 》#1

杜甫詩index-15-1124 <1574 767年大暦256-18  #1

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7267 

 

 
  2016年1月31日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(70)李太白集卷十六23-《送白利從金吾董將軍西征》(西羌延國討,) 389Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(70) Ⅰ李白詩1745 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7265  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128《 巻01-13南山詩 -#10》 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(1)<1657> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7261  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-18 # 1 《杜少陵集 19-21 甘林 》#1 杜甫詩index-15-1124 <1574> 767年大暦2年56歲-18 #1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7267  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻 八49 菩薩蠻二首 其一 13 魏承班 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》401巻八49 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7269  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1124-1574/2500

晩春に果樹園(蜜柑園)を丸ごと買い入れて、収穫を終えた翌春早々には、もう他人に譲渡している。ワン・サイクルの収穫を終えただけでは、経営と呼ぶには値しないかもしれない。したがって、一定の成果しか上がらず、故郷に帰る軍資金づくりの足しにならないか、あるいは、その軍資金に達する売り上げがあったので、早いうちにやめないと、菱州を旅立つことができないと思ったのかもしれない。しかし、収穫作業の他にも除草や施肥や土寄せなどの作業、また除虫や防寒対策(さらに蜜柑泥棒からの防護策)などの若干の必要な農事は行われたであろうし、この時期に突出して現れる蜜柑に対する並々ならぬ杜甫の関心などを考えると、杜甫の農的営為の一つとして蜜柑園経営をあげてもよいのではないかと思う。それに、杜甫は、蜜柑に関する詩を作ること、その詩を関係者に見せることで、蜜柑を得ることに成功したと考えられる。杜甫に生活を進める手段としても杜詩はうまく活用されたのである。

 とはいえ、さして具体的な農作業が歌われているわけではないので、杜甫の蜜柑関連の詩の中で、どのように蜜柑が登場し、どのように詠じられているかを、時代順に追記していくと以下の通り。

夔州における杜甫の蜜柑に関する詩

《杜少陵集   詩題   》( 下し文 ) 767年度の作順

767年~夏

  《1917_阻雨不得歸瀼西甘林》(雨に阻まれ瀼西の甘林に帰るを得ず 14

    767年~秋

  《1921_甘林》 18

  2068_即事》 61

  1858_暮春題瀼西新賃草屋,五首之二》(暮春に瀼西の新たに賃せる草屋に題す、五首》其二 74

  《1925_樹間》 84

  《2066_寒雨朝行視園樹》(寒雨に朝に行きて園樹を視る) 88

  《2064_季秋江村》(季秋の江村) 89

  《2054_從驛次草堂復至東屯茅屋,二首之一》(駅従りきたりて草堂に次(やど)り、復た東屯の茅屋に至る、二首其一)99

  《1945_峽隘》 104

  《1940_秋日夔府詠懷奉寄鄭監李賓客一百韻》六段目(秋日に夔府にて懐いを詠じ鄭監と李賓客に寄せ奉る、一百韻)106

  《1926_白露》 154

  2033_十七夜對月》 (十七夜に月に対す)179

767年~正月

  《2075_孟冬》 198

   768年~

  《2137_將別巫峽,贈南卿兄瀼西果園四十畝》 (将に巫峡に別れんとして南卿兄に瀼西の果園四十畝を贈る) 27

 

 

 

年:767年大暦256-18 

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    甘林

 

甘林

(瀼西の柑林にかえってきて、感じたことをよんだ詩)

舍舟越西岡,入林解我衣。

自分は大瀼水左岸に舟をのりすてて西の岡を越え、林のなかにはいって自分の禮服をぬぐ。

青芻適馬性,好鳥知人歸。

それから馬に青草をたべさせると、馬はよろこんでたべる。またよい鳥も人が帰ってきたことを知るとそれにこたえるようにさえずってくれる。

晨光映遠岫,夕露見日晞。

朝日の光が遠方の山にうつろうと、昨夕からかけての露は太陽がでるとまもなく乾いてしまう。

遲暮少寢食,清曠喜荊扉。

自分はもう晩年になってきている中、寝ることも食べることも少く、ただこんなすがすがしくてさつぱりとして、ひろびろとした柴門の扉の住居をよろこぶのである。

(甘林)

舟を舍てて西岡を越え,林に入りて我が衣を解く。

青芻 馬性に適【かな】う,好鳥 人の歸るを知る。

晨光 遠岫に映ず,夕露 日を見て晞【かわ】く。

遲暮 寢食少し,清曠 荊扉を喜ぶ。

經過倦俗態,在野無所違。

試問甘藜藿,未肯羨輕肥。

喧靜不同科,出處各天機。

勿矜朱門是,陋此白屋非。

 

明朝步鄰里,長老可以依。

時危賦斂數,粟為爾揮。

相攜行荳田,秋花靄菲菲。

子實不得喫,貨市送王畿。

 

盡添軍旅用,迫此公家威。

主人長跪問,戎馬何時稀。

我衰易悲傷,屈指數賊圍。

勸其死王命,慎莫遠奮飛。

 

『甘林』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

甘林

舍舟越西岡,入林解我衣。

青芻適馬性,好鳥知人歸。

晨光映遠岫,夕露見日晞。

遲暮少寢食,清曠喜荊扉。

(下し文)
(甘林)

舟を舍てて西岡を越え,林に入りて我が衣を解く。

青芻 馬性に適【かな】う,好鳥 人の歸るを知る。

晨光 遠岫に映ず,夕露 日を見て晞【かわ】く。

遲暮 寢食少し,清曠 荊扉を喜ぶ。

(現代語訳)
甘林(瀼西の柑林にかえってきて、感じたことをよんだ詩)

自分は大瀼水左岸に舟をのりすてて西の岡を越え、林のなかにはいって自分の禮服をぬぐ。

それから馬に青草をたべさせると、馬はよろこんでたべる。またよい鳥も人が帰ってきたことを知るとそれにこたえるようにさえずってくれる。

朝日の光が遠方の山にうつろうと、昨夕からかけての露は太陽がでるとまもなく乾いてしまう。

自分はもう晩年になってきている中、寝ることも食べることも少く、ただこんなすがすがしくてさつぱりとして、ひろびろとした柴門の扉の住居をよろこぶのである。

瞿塘峡・白帝城・魚復
(訳注)

甘林

(瀼西の柑林にかえってきて、感じたことをよんだ詩)

瀼東から帰ろうとして、長雨であえることができずにいた(《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14漢詩ブログ7187)が、瀼西の柑林にかえったことをよんだ詩。大暦二年秋の作。

1 甘林 晩春に果樹園(蜜柑園)を丸ごと買い入れ、四十畝の果樹園を所有した。後で取り上げるが《2066_寒雨朝行視園樹》(寒雨に朝行きて園の樹を視る)の詩には「わが柴門は樹を擁して千株に向(なんな)んとす」とあり、千本にも近い蜜柑の木(千橘)が、瀼西の草堂に具わっていたとはっきり述べている。

 

舍舟越西岡,入林解我衣。

自分は大瀼水左岸に舟をのりすてて西の岡を越え、林のなかにはいって自分の禮服をぬぐ。

2 舍舟 大瀼水左岸に舟をのりする。

 

青芻適馬性,好鳥知人歸。

それから馬に青草をたべさせると、馬はよろこんでたべる。またよい鳥も人が帰ってきたことを知るとそれにこたえるようにさえずってくれる。

3 青芻 青草のまぐさ。

4 適馬性 上陸後に馬にのって草堂に帰り、馬に草をたべさす。草は馬の好む餌である。

《巻十九04 歸》

束帶還騎馬,東西卻渡船。林中才有地,峽外無天。

虛白高人靜,喧卑俗累牽。他鄉閱遲暮,不敢廢詩篇。

束帶して還た馬に騎る,東西卻って船を渡す。林中 才【わずか】に地有り,峽外 えて天無し。

虛白 高人靜なり,喧卑なるは 俗累牽かる。他 遲暮をし,敢えて詩篇を廢せず。

 

晨光映遠岫,夕露見日晞。

朝日の光が遠方の山にうつろうと、昨夕からかけての露は太陽がでるとまもなく乾いてしまう。

5 遠岫 洞窟のある山が遠くに見える。岫は穴のあるやま。

6 夕露見 昨日の夕刻からの夜露。

7 日晞 太陽の日明かりで乾くことを言う。

 

遲暮少寢食,清曠喜荊扉。

自分はもう晩年になってきている中、寝ることも食べることも少く、ただこんなすがすがしくてさつぱりとして、ひろびろとした柴門の扉の住居をよろこぶのである。

8 清曠 すがすがしく広い気持ちになる風景。

9 荊扉 瀼西の草堂の棘で造った扉、隠遁者の棲む柴門。
夔州東川卜居図詳細 002 

767年-17 杜少陵集19-23 雨 -#4 杜甫詩index-15 1123 <1573> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7262 

杜甫  雨#4

浮俗何萬端,幽人有獨步。龐公竟獨往,尚子終罕遇。

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。杖策可入舟,送此齒髮暮。

世間の俗人はどうしてあの様にさまざまの人生を進もうとするのだろうか。それとちがって幽人はひとり、高尚な人生、生き方をするものである。例えば、東漢の末の龐德公は三顧の礼で請われても城内に入らず結局、ひとりでそのゆくべき鹿門山へ往ってしまったし、後漢逸民傳にみえる、尚長は、五岳名山に遊び、誰とも会わず、竟に終る所を知るものはいなかった。だから自分はここを去って素晴らしい景色の洞庭湖の秋に、漢の武帝が宿し留まったいう故事のようにして、天空が寒く凍り付き、瀟湘の水の神二女が濁水を白水となるのをみとどけたいのである。だから、策をついてでも舟のなかへはいり、此処を立って洞庭湖の舟を泛べ、痩せて歯が白いのと髪の毛が白いこの晩年を仙人のように送るがよろしいと思っているのである。

767-17

杜少陵集19-23

 -#4

杜甫詩index-15

1123 <1573

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7262 

 

 
  2016年1月30日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(69)李太白集卷十六21-《送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風,) 388Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(69) Ⅰ李白詩1744 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7260  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128《 巻01-13南山詩 -#10》 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(1)<1657> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7261韓愈詩-韓愈128  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-17 杜少陵集19-23 雨 -#4 杜甫詩index-15 1123 <1573> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7262   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog 李太白集  339《太白巻三19-白頭吟》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7268 (01/30)  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八48 漁歌子二首其二 12 孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》400巻八48 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の 漢詩ブログ-7264  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

 

年:767年大暦256-17  #4

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:   

作地點:              目前尚無資料

及地點:              洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭      

 

雨 #1

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

山雨不作埿,江雲薄為霧。

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。

晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。

明滅洲景微,隱見巖姿露。

中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。

拘悶出門遊,曠經目趣。

こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

(雨)#1

山雨埿を作さす、江雲薄く霧を為す。

晴には飛ぶ半嶺の鶴、風には亂る平沙の樹。

明滅洲景微なら、隠見巌姿露る。

拘せられて悶す出門の遊、曠なり曠目の趣

#2

消中日伏枕,臥久塵及屨。

自分は糖尿病など持病で日日枕に伏しており、それも、ながながしく臥せっているので履にも塵が厚く及んでいる。

豈無平肩輿,莫辨望路。

肩輿がないわけでもないが、それで、出かけてみても故郷への道路をながめても、歸る路がわきまることもできないのである。

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。

久しく兵乱が終わらないので、家族の消息はとどかないけれど、そのかわりに、蛇やまむしがたずねできてくれる。

悠悠邊月破,鬱鬱流年度。 

いたずらに、長長とこの邊境の月の欠けてゆくのをみるばかりであって、思い沈んでさかんに多く流れる年がすぎ去ってゆく。

#2

消中 日びに枕に伏し,臥 久しくして 塵 屨に及ぶ。

豈に 平肩輿無らんや,辨ずる莫し 望路を。

兵戈 浩として 未だ息まず,蛇虺【だき】反って相い顧る。

悠悠 邊月破り,鬱鬱 流年度る。 

#3

針灸阻朋曹,糠對童孺。

針灸治療をしてもらいながらともだちとはへだたり、糠や麦くずをたべながら子供等とうちむかっている。

一命須屈色,新知漸成故。

天子の一命の郎官を辱くしながら他人にはこちらの顔色を屈しなければならす、新知己と一時は喜ばれてもやがて故いものとして棄てられる。

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。

辺鄙な荒れ果てた土地でますます自分を卑くしてゆかねはならないのである。この漂泊の生活に於いてだれに自分の心中を訴へるべきであろうか。

羸愁應接,俄頃恐違迕。

らだがよわくつかれているから人と応対するのはめんどうである。ちょっとした時にでも相手の心にさからいはせぬかと気遣われるのである。

#4

浮俗何萬端,幽人有獨步。

世間の俗人はどうしてあの様にさまざまの人生を進もうとするのだろうか。それとちがって幽人はひとり、高尚な人生、生き方をするものである。

龐公竟獨往,尚子終罕遇。

例えば、東漢の末の龐德公は三顧の礼で請われても城内に入らず結局、ひとりでそのゆくべき鹿門山へ往ってしまったし、後漢逸民傳にみえる、尚長は、五岳名山に遊び、誰とも会わず、竟に終る所を知るものはいなかった。

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。

だから自分はここを去って素晴らしい景色の洞庭湖の秋に、漢の武帝が宿し留まったいう故事のようにして、天空が寒く凍り付き、瀟湘の水の神二女が濁水を白水となるのをみとどけたいのである。

杖策可入舟,送此齒髮暮。

だから、策をついてでも舟のなかへはいり、此処を立って洞庭湖の舟を泛べ、痩せて歯が白いのと髪の毛が白いこの晩年を仙人のように送るがよろしいと思っているのである。

#4

浮俗 何ぞ萬端なる,幽人 獨步有り。

龐公 竟に獨り往き,尚子 終に遇うを罕【まれ】にす。

宿留さん 洞庭の秋,天寒くして 瀟湘素し。

策を杖き 舟に入り,此の齒髮の暮れなんとするを送る可し。

三峡 巫山十二峰001 

『雨』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

浮俗何萬端,幽人有獨步。

龐公竟獨往,尚子終罕遇。

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。

杖策可入舟,送此齒髮暮。

(下し文)
#4

浮俗 何ぞ萬端なる,幽人 獨步有り。

龐公 竟に獨り往き,尚子 終に遇うを罕【まれ】にす。

宿留さん 洞庭の秋,天寒くして 瀟湘素し。

策を杖き 舟に入り,此の齒髮の暮れなんとするを送る可し。

(現代語訳)
#4

世間の俗人はどうしてあの様にさまざまの人生を進もうとするのだろうか。それとちがって幽人はひとり、高尚な人生、生き方をするものである。

例えば、東漢の末の龐德公は三顧の礼で請われても城内に入らず結局、ひとりでそのゆくべき鹿門山へ往ってしまったし、後漢逸民傳にみえる、尚長は、五岳名山に遊び、誰とも会わず、竟に終る所を知るものはいなかった。

だから自分はここを去って素晴らしい景色の洞庭湖の秋に、漢の武帝が宿し留まったいう故事のようにして、天空が寒く凍り付き、瀟湘の水の神二女が濁水を白水となるのをみとどけたいのである。

だから、策をついてでも舟のなかへはいり、此処を立って洞庭湖の舟を泛べ、痩せて歯が白いのと髪の毛が白いこの晩年を仙人のように送るがよろしいと思っているのである。

16shisenseitomap
(訳注) #4

 #4

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

雨のときの感をのべたる詩。峡を出でて荊州・瀟湘の地に入らんと欲する意をいったもの。大暦二年秋の作。

 

浮俗何萬端,幽人有獨步。

世間の俗人はどうしてあの様にさまざまの人生を進もうとするのだろうか。それとちがって幽人はひとり、高尚な人生、生き方をするものである。

27 浮俗 軽薄な世俗。世間の軽薄な付き合い。

28 萬端 ある物事についての,すべての事柄。諸般。

29 幽人 世俗を避けてひっそりと隠れ住む人。隠者。

30 有獨步 独り高尚なあるきかたをする。

 

龐公竟獨往,尚子終罕遇。

例えば、東漢の末の龐德公は三顧の礼で請われても城内に入らず結局、ひとりでそのゆくべき鹿門山へ往ってしまったし、後漢逸民傳にみえる、尚長は、五岳名山に遊び、誰とも会わず、竟に終る所を知るものはいなかった。

31 龐公 龐徳公。東漢の末年、襄陽の名士である龐徳公は薬草を求めて妻を連れて山に入ってからもどらなかった。劉表からの士官への誘い、諸葛孔明からも誘われた、それを嫌って、奥地に隠遁したということと解釈している。隠遁を目指すものの憧れをいう。孟浩然《卷159_35 登鹿門山懐古孟浩然》「昔聞龐德公,采藥遂不返。」(昔聞く 龐徳公、藥を採りて遂に返らずと。)

孟浩然 登鹿門山懐古 #1 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -319

李白《寄弄月溪山人》「嘗聞龐德公,家住洞湖水。」(嘗て聞く 龐德公,家は住す 洞湖の水。)

124-2 《寄弄月溪山人》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27 6首 安陸を中心に35歳まで約十年遊ぶ。<124-2> Ⅰ李白詩1306 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5078

32 獨往 独りで隠遁すること。《文選江淹<雜體詩效許詢“自序”>》に遣此弱喪情, 資神任獨往。”とあり、李善 注に淮南王 《莊子略要》曰:江海之士, 山谷之人, 輕天下, 細萬物, 而獨往者也。 淮南王 《莊子略要》に曰く: ‘江海の士, 山谷の人,天下を輕んじ,萬物を細にして,獨り往く者なり。)

33 尚子 後漢逸民傳にみえる、尚長のことで、字を子平という。髙士として傳わる。隱居して仕えず。肆意して五岳名山に遊ぶ。竟に終る所を知らず謝靈運は、畢聚して尚子の類であるという。

34 罕遇 世人がまれに遭遇するだけを言うので、誰も会うことがないという意味。。

 

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。

だから自分はここを去って素晴らしい景色の洞庭湖の秋に、漢の武帝が宿し留まったいう故事のようにして、天空が寒く凍り付き、瀟湘の水の神二女が濁水を白水となるのをみとどけたいのである。

35 宿留 漢の武帝が、海上に宿して、仙人の到来を待ったという故事《漢書、郊祀志第五》、「天子宿留海上,與方士傳車,及間使求神仙人以千數。」に基づく。ここは杜甫が夔州の渓谷で、詞を迎えるのなら海上に宿しとどまって死を迎える方がよいということを言う意。

36 洞庭秋 明代の《帝京景物略》中是這樣美譽什海的「西湖春,秦淮夏,洞庭秋。」とあるように、秋の洞庭湖が一番いい。

37 瀟湘素 瀟湘の水の神二女の素いはだで濁水も白水となる。。

 

杖策可入舟,送此齒髮暮。

だから、策をついてでも舟のなかへはいり、此処を立って洞庭湖の舟を泛べ、痩せて歯が白いのと髪の毛が白いこの晩年を仙人のように送るがよろしいと思っているのである。

38 杖策可入舟 これは杜甫の病状が、良くなくて旅に出るような状態でないとしても、つえをついてでも、どうしても旅立ちたいと思っているということ。この詩の段階では、旅に出るには資金不足であるから決意を述べているのである。

39 齒髮暮 やせ衰えた老人の姿をいう。

 

 

 


続きを読む

767年-17 杜少陵集19-23 雨 -#3 杜甫詩index-15 1122 <1572> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7257 

杜甫  雨 #3

針灸阻朋曹,糠對童孺。一命須屈色,新知漸成故。

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。羸愁應接,俄頃恐違迕。

針灸治療をしてもらいながらともだちとはへだたり、糠や麦くずをたべながら子供等とうちむかっている。天子の一命の郎官を辱くしながら他人にはこちらの顔色を屈しなければならす、新知己と一時は喜ばれてもやがて故いものとして棄てられる。辺鄙な荒れ果てた土地でますます自分を卑くしてゆかねはならないのである。この漂泊の生活に於いてだれに自分の心中を訴へるべきであろうか。らだがよわくつかれているから人と応対するのはめんどうである。ちょっとした時にでも相手の心にさからいはせぬかと気遣われるのである。

767-17

杜少陵集19-23

 -#3

杜甫詩index-15

1122 <1572

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7257 

 

 

 
  2016年1月29日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(68)李太白集卷十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》(月蝕西方破敵時,) 387Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(68) Ⅰ李白詩1743 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7255  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩 #9(31~34) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7251  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-17 杜少陵集19-23 雨 -#3 杜甫詩index-15 1122 <1572> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7257   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八47 漁歌子二首其一 12 孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》399巻八47 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7259  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1122-1572/2500

年:767年大暦256-17  #3

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:   

作地點:              目前尚無資料

及地點:              洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭      

 

雨 #1

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

山雨不作埿,江雲薄為霧。

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。

晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。

明滅洲景微,隱見巖姿露。

中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。

拘悶出門遊,曠經目趣。

こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

(雨)#1

山雨埿を作さす、江雲薄く霧を為す。

晴には飛ぶ半嶺の鶴、風には亂る平沙の樹。

明滅洲景微なら、隠見巌姿露る。

拘せられて悶す出門の遊、曠なり曠目の趣

#2

消中日伏枕,臥久塵及屨。

自分は糖尿病など持病で日日枕に伏しており、それも、ながながしく臥せっているので履にも塵が厚く及んでいる。

豈無平肩輿,莫辨望路。

肩輿がないわけでもないが、それで、出かけてみても故郷への道路をながめても、歸る路がわきまることもできないのである。

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。

久しく兵乱が終わらないので、家族の消息はとどかないけれど、そのかわりに、蛇やまむしがたずねできてくれる。

悠悠邊月破,鬱鬱流年度。 

いたずらに、長長とこの邊境の月の欠けてゆくのをみるばかりであって、思い沈んでさかんに多く流れる年がすぎ去ってゆく。

#2

消中 日びに枕に伏し,臥 久しくして 塵 屨に及ぶ。

豈に 平肩輿無らんや,辨ずる莫し 望路を。

兵戈 浩として 未だ息まず,蛇虺【だき】反って相い顧る。

悠悠 邊月破り,鬱鬱 流年度る。 

#3

針灸阻朋曹,糠對童孺。

針灸治療をしてもらいながらともだちとはへだたり、糠や麦くずをたべながら子供等とうちむかっている。

一命須屈色,新知漸成故。

天子の一命の郎官を辱くしながら他人にはこちらの顔色を屈しなければならす、新知己と一時は喜ばれてもやがて故いものとして棄てられる。

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。

辺鄙な荒れ果てた土地でますます自分を卑くしてゆかねはならないのである。この漂泊の生活に於いてだれに自分の心中を訴へるべきであろうか。

羸愁應接,俄頃恐違迕。

らだがよわくつかれているから人と応対するのはめんどうである。ちょっとした時にでも相手の心にさからいはせぬかと気遣われるのである。

#4

浮俗何萬端,幽人有獨步。

龐公竟獨往,尚子終罕遇。

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。

杖策可入舟,送此齒髮暮。

 

瞿塘峡・白帝城・魚復 

『雨』  現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

針灸阻朋曹,糠對童孺。

一命須屈色,新知漸成故。

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。

羸愁應接,俄頃恐違迕

(下し文)
#3

針灸に 朋曹阻る,糠 童孺に對す。

一命 須らく色を屈すべし,新知 漸く故と成る。

窮荒 益ます自ら卑くし,飄泊 誰にか訴えんと欲す。

羸【おうえい】應接を愁い,俄頃 違迕せんことを恐る


(現代語訳)
#3

針灸治療をしてもらいながらともだちとはへだたり、糠や麦くずをたべながら子供等とうちむかっている。

天子の一命の郎官を辱くしながら他人にはこちらの顔色を屈しなければならす、新知己と一時は喜ばれてもやがて故いものとして棄てられる。

辺鄙な荒れ果てた土地でますます自分を卑くしてゆかねはならないのである。この漂泊の生活に於いてだれに自分の心中を訴へるべきであろうか。

らだがよわくつかれているから人と応対するのはめんどうである。ちょっとした時にでも相手の心にさからいはせぬかと気遣われるのである。

tanbo955
(訳注) #3

 #3

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

雨のときの感をのべたる詩。峡を出でて荊州・瀟湘の地に入らんと欲する意をいったもの。大暦二年秋の作。

 

針灸阻朋曹,糠對童孺。

針灸治療をしてもらいながらともだちとはへだたり、糠や麦くずをたべながら子供等とうちむかっている。

針灸阻朋曹 鍼灸治療は血の巡りをよくすることにより治癒力高めること。血の巡りは良くなるのに、友人とは音信など滞ってうまくゆかないという意味。

 糠や麦くずをたべること。杜甫《巻19-20 驅豎子摘蒼耳 -3》「亂世誅求急,黎民糠窄。(亂世 誅求 急なり,黎民 糠【こうけつ】窄し。今、世は乱れて人民は上から誅求されることが多く、それも急を要す徴兵、調達であり、糠とか麦といったものでさえ、たらふく食べることができない。

・誅求急 租税などを厳しく取り立てられ、そのうえ急を要す徴兵、調達であること。・ 糠とか麦といったものでさえ、たらふく食べることができない。

766年大暦元年55-37-#3奉節-20-#3 《巻19-20 驅豎子摘蒼耳 -#3 杜甫index-15 杜甫<892-#3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5465

對童孺 子供(宗武らの三人と同年配の下僕の子供)のことであるが、夔州に来て二年目の夏、杜甫は虎の防御用の垣根が壊れているのを修理しようとして、三人の使用人に仕事を与えた。朝早くから遠く山越えをして、谷間から一日一人四株の木を切って、担ぎ出してくるのをノルマとした。彼らはその仕事を誠実にこなした。ほかにも竹を切り出したりしながら、垣根そして恐らくは壁や屋根などもきれいに修繕してくれたのである。暑い中、細かな注文を聞きながら、よく辛抱して働いてくれたことに杜甫は感激して、《1907_伐木を課す》「作詩示宗武誦。」という詩を作った

下僕の子供は、伯夷、幸秀【辛秀】、信行、阿段・阿稽が杜甫の詩から確認できる。

 

一命須屈色,新知漸成故。

天子の一命の郎官を辱くしながら他人にはこちらの顔色を屈しなければならす、新知己と一時は喜ばれてもやがて故いものとして棄てられる。

一命須屈色 天子の一命の郎官を辱くしながら他人にはこちらの顔色を屈しなければならない旨を言う。《巻18-69 晚登瀼上堂》「衰老自成病,郎官未為冗。」(衰老 自ら病を成し,郎官 未だ冗なりを為さず。)自分は衰老で自然病気にもなっているが自分の辱くも頂戴してなる郎官の職は決してむだなものではない、その職責を果さなければならないのだ。

新知漸成故 他人が自分を始めは新知としてめづらしがり、後に故いものとして棄てるをいう。

 

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。

辺鄙な荒れ果てた土地でますます自分を卑くしてゆかねはならないのである。この漂泊の生活に於いてだれに自分の心中を訴へるべきであろうか。

窮荒 辺鄙な荒れ果てた土地、夔州、特に、瀼西の杜甫草堂付近。

自卑 上の「一命須屈色」を承け、この地において、長安に帰る資金を作るために、農作物を売るために作ることを示している。

欲誰訴 漂泊の旅の中にあって、長安に帰ることに関しての協力者を言う。

 

羸愁應接,俄頃恐違迕。

からだがよわくつかれているから人と応対するのはめんどうである。ちょっとした時にでも相手の心にさからいはせぬかと気遣われるのである。

羸 からだがよわくつかれていることをいう。

應接 人と応対する。農作物を上手に売るための応対を言う。

違迕 他人の情意に違い、さからうことを言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

杜甫  《雨》 【字解】

 

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

雨のときの感をのべたる詩。峡を出でて荊州・瀟湘の地に入らんと欲する意をいったもの。大暦二年秋の作。

 

1 夔州での“雨の詩”

766年大暦元年55-32奉節-23 《巻15-48 雨 -#1 杜甫index-15 杜甫<896-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5500 杜甫詩1500-896-#1-1271/2500766年大暦元年55-32

766年大暦元年55-33奉節-23 《巻15-48 雨 -#2 杜甫index-15 杜甫<896-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5505

766年大暦元年55-33奉節-24 《巻15-49 雨,二首之一》 杜甫index-15 杜甫<897 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5505

766年大暦元年55-34-#1奉節-25 -#1 《巻15-50 雨,二首之二 -#1 杜甫index-15 杜甫<898-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5510

766年大暦元年55-34-#2奉節-25 -#2 《巻15-50 雨,二首之二 -#2 杜甫index-15 杜甫<898-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5515

767年大暦二年56-35奉節-26 《巻15-55 雨》 杜甫index-15 杜甫<899 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5520

767年大曆二年56-36-奉節-27 《巻15-60 雨》 杜甫index-15 杜甫<900 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5530

766年-69杜甫 《1502船下夔州郭宿,雨不得上岸,別王十二判官》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-69 <932 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6295

766年-70杜甫 《1553雨不》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-70 <933 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6300

766年-74杜甫 《1713西閣雨望》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-74 <937 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6320 杜甫詩1500-937-1435/2500

766年-153杜甫 《1552雨晴》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-153 <1025 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6805

766年-154杜甫 《卷一四82雨 (冥冥甲子雨,) 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-154 <1026 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6810

767年-14-#1杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#1 <1108 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7187

767年-14-#2杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#2 <1109 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7192

767年-14-#3杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#3 <1110 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7197

767年-14-#4杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#4 <1111 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7202

2 不作埿 石地の土地であること。

3 洲景微 景は日光。中洲のあたりをてらす日光。

4 拘悶出門遊 遊びを拘せらるるにより悶えるをいうのであろう。

5 曠 ひさしく絶つ。

6 經目趣 目を經る趣とは、晴れた景色を眺望するさま。

7 消中 消渴病。糖尿病の三徴とは多尿、多飲、口渇の症状があった。これに、喘息、リュウマチの症状がうかがえる。

8 平肩輿 肩で担ぐみこし。杜甫《》「我有平肩輿,前途猶準的。」(我に平肩の輿有り,前途 猶お 准的なり。)役に立たない馬なら、いっそのこと、自分には人肩でかついでくれる輿がよいだろう。これならば、何とか遊覧という我がめざす的にすることができる前途となるだろう。

767年-5-#6杜甫 《20-98 鄭典設自施州歸》 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-5-#6 <1068 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7020

9 辨 辯/瓣 [訓]わきまえる① 是非・善悪を区別する。わきまえる。② けじめをつけて処理する。③ 弁当。④ 理屈

10 浩 はるかに、久しく。

11 蛇虺 蛇、虺もへび、まむしの類。

12 邊月破 邊月とは邊境の月、夔州の、この地の月をいう。破とは満月の後にかけてゆくことをいう。時が過ぎてゆく場合の表現、葉が落ちる、などと同じ。

13 鬱鬱 1 心の中に不安や心配があって思い沈むさま。「―として日を過ごす」2 草木がよく茂っているさま。さかんなる貌。

14 流年度 流れゆく年月が経過する。

767年-17 杜少陵集19-23 雨 -#2 杜甫詩index-15 1121 <1571> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7252 

杜甫  雨 #2

消中日伏枕,臥久塵及屨。豈無平肩輿,莫辨望路。

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。悠悠邊月破,鬱鬱流年度。 

自分は糖尿病など持病で日日枕に伏しており、それも、ながながしく臥せっているので履にも塵が厚く及んでいる。肩輿がないわけでもないが、それで、出かけてみても故郷への道路をながめても、歸る路がわきまることもできないのである。久しく兵乱が終わらないので、家族の消息はとどかないけれど、そのかわりに、蛇やまむしがたずねできてくれる。いたずらに、長長とこの邊境の月の欠けてゆくのをみるばかりであって、思い沈んでさかんに多く流れる年がすぎ去ってゆく。

767-17

杜少陵集19-23

 -#2

杜甫詩index-15

1121 <1571

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7252 

 

 
  2016年1月28日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(67)李太白集卷十六18-2-《送外甥鄭灌從軍,三首之二》(丈八蛇矛出隴西,) 386Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(67) Ⅰ李白詩1742 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7250  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩 #8(27~30) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7251  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-17 杜少陵集19-23 雨 -#2 杜甫詩index-15 1121 <1571> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7252   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八46 望梅花一首 12 孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》398 巻八46 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7254  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1121-1571/2500

年:767年大暦256-17  #2

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:   

作地點:              目前尚無資料

及地點:              洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭      

 

雨 #1

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

山雨不作埿,江雲薄為霧。

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。

晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。

明滅洲景微,隱見巖姿露。

中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。

拘悶出門遊,曠經目趣。

こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

(雨)#1

山雨埿を作さす、江雲薄く霧を為す。

晴には飛ぶ半嶺の鶴、風には亂る平沙の樹。

明滅洲景微なら、隠見巌姿露る。

拘せられて悶す出門の遊、曠なり曠目の趣

#2

消中日伏枕,臥久塵及屨。

自分は糖尿病など持病で日日枕に伏しており、それも、ながながしく臥せっているので履にも塵が厚く及んでいる。

豈無平肩輿,莫辨望路。

肩輿がないわけでもないが、それで、出かけてみても故郷への道路をながめても、歸る路がわきまることもできないのである。

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。

久しく兵乱が終わらないので、家族の消息はとどかないけれど、そのかわりに、蛇やまむしがたずねできてくれる。

悠悠邊月破,鬱鬱流年度。 

いたずらに、長長とこの邊境の月の欠けてゆくのをみるばかりであって、思い沈んでさかんに多く流れる年がすぎ去ってゆく。

#2

消中 日びに枕に伏し,臥 久しくして 塵 屨に及ぶ。

豈に 平肩輿無らんや,辨ずる莫し 望路を。

兵戈 浩として 未だ息まず,蛇虺【だき】反って相い顧る。

悠悠 邊月破り,鬱鬱 流年度る。 

#3

針灸阻朋曹,糠對童孺。

一命須屈色,新知漸成故。

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。

羸愁應接,俄頃恐違迕。

#4

浮俗何萬端,幽人有獨步。

龐公竟獨往,尚子終罕遇。

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。

杖策可入舟,送此齒髮暮。

 

DCF00004 

『雨』  現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

消中日伏枕,臥久塵及屨。

豈無平肩輿,莫辨望路。

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。

悠悠邊月破,鬱鬱流年度。

(下し文)
#2

消中 日びに枕に伏し,臥 久しくして 塵 屨に及ぶ。

豈に 平肩輿無らんや,辨ずる莫し 望路を。

兵戈 浩として 未だ息まず,蛇虺【だき】反って相い顧る。

悠悠 邊月破り,鬱鬱 流年度る。 


(現代語訳)
#2

自分は糖尿病など持病で日日枕に伏しており、それも、ながながしく臥せっているので履にも塵が厚く及んでいる。

肩輿がないわけでもないが、それで、出かけてみても故郷への道路をながめても、歸る路がわきまることもできないのである。

久しく兵乱が終わらないので、家族の消息はとどかないけれど、そのかわりに、蛇やまむしがたずねできてくれる。

いたずらに、長長とこの邊境の月の欠けてゆくのをみるばかりであって、思い沈んでさかんに多く流れる年がすぎ去ってゆく。


(訳注)  #2

 #2

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

雨のときの感をのべたる詩。峡を出でて荊州・瀟湘の地に入らんと欲する意をいったもの。大暦二年秋の作。

 

消中日伏枕,臥久塵及屨。

自分は糖尿病など持病で日日枕に伏しており、それも、ながながしく臥せっているので履にも塵が厚く及んでいる。

7 消中 消渴病。糖尿病の三徴とは多尿、多飲、口渇の症状があった。この時期の詩から、これに、喘息、リュウマチの症状がうかがえる。

 

豈無平肩輿,莫辨望路。

肩輿がないわけでもないが、それで、出かけてみても故郷への道路をながめても、歸る路がわきまることもできないのである。

8 平肩輿 肩で担ぐみこし。杜甫《》「我有平肩輿,前途猶準的。」(我に平肩の輿有り,前途 猶お 准的なり。)役に立たない馬なら、いっそのこと、自分には人肩でかついでくれる輿がよいだろう。これならば、何とか遊覧という我がめざす的にすることができる前途となるだろう。

767年-5-#6杜甫 《20-98 鄭典設自施州歸》 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-5-#6 <1068 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7020

9 辨 辯/瓣 [訓]わきまえる① 是非・善悪を区別する。わきまえる。② けじめをつけて処理する。③ 弁当。④ 理屈

 

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。

久しく兵乱が終わらないので、家族の消息はとどかないけれど、そのかわりに、蛇やまむしがたずねできてくれる。

10 浩 はるかに、久しく。

11 蛇虺 蛇、虺もへび、まむしの類。

 

悠悠邊月破,鬱鬱流年度。

いたずらに、長長とこの邊境の月の欠けてゆくのをみるばかりであって、思い沈んでさかんに多く流れる年がすぎ去ってゆく。

12 邊月破 邊月とは邊境の月、夔州の、この地の月をいう。破とは満月の後にかけてゆくことをいう。時が過ぎてゆく場合の表現、葉が落ちる、などと同じ。

13 鬱鬱 1 心の中に不安や心配があって思い沈むさま。「―として日を過ごす」2 草木がよく茂っているさま。さかんなる貌。

14 流年度 流れゆく年月が経過する。

 

 

 

杜甫  《雨》 【字解】

 

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

雨のときの感をのべたる詩。峡を出でて荊州・瀟湘の地に入らんと欲する意をいったもの。大暦二年秋の作。

 

1 夔州での“雨の詩”

766年大暦元年55-32奉節-23 《巻15-48 雨 -#1 杜甫index-15 杜甫<896-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5500 杜甫詩1500-896-#1-1271/2500766年大暦元年55-32

766年大暦元年55-33奉節-23 《巻15-48 雨 -#2 杜甫index-15 杜甫<896-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5505

766年大暦元年55-33奉節-24 《巻15-49 雨,二首之一》 杜甫index-15 杜甫<897 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5505

766年大暦元年55-34-#1奉節-25 -#1 《巻15-50 雨,二首之二 -#1 杜甫index-15 杜甫<898-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5510

766年大暦元年55-34-#2奉節-25 -#2 《巻15-50 雨,二首之二 -#2 杜甫index-15 杜甫<898-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5515

767年大暦二年56-35奉節-26 《巻15-55 雨》 杜甫index-15 杜甫<899 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5520

767年大曆二年56-36-奉節-27 《巻15-60 雨》 杜甫index-15 杜甫<900 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5530

766年-69杜甫 《1502船下夔州郭宿,雨不得上岸,別王十二判官》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-69 <932 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6295

766年-70杜甫 《1553雨不》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-70 <933 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6300

766年-74杜甫 《1713西閣雨望》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-74 <937 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6320 杜甫詩1500-937-1435/2500

766年-153杜甫 《1552雨晴》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-153 <1025 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6805

766年-154杜甫 《卷一四82雨 (冥冥甲子雨,) 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-154 <1026 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6810

767年-14-#1杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#1 <1108 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7187

767年-14-#2杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#2 <1109 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7192

767年-14-#3杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#3 <1110 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7197

767年-14-#4杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#4 <1111 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7202

2 不作埿 石地の土地であること。

3 洲景微 景は日光。中洲のあたりをてらす日光。

4 拘悶出門遊 遊びを拘せらるるにより悶えるをいうのであろう。

5 曠 ひさしく絶つ。

6 經目趣 目を經る趣とは、晴れた景色を眺望するさま。

7 消中 消渴病。糖尿病の三徴とは多尿、多飲、口渇の症状があった。これに、喘息、リュウマチの症状がうかがえる。

8 平肩輿 肩で担ぐみこし。杜甫《》「我有平肩輿,前途猶準的。」(我に平肩の輿有り,前途 猶お 准的なり。)役に立たない馬なら、いっそのこと、自分には人肩でかついでくれる輿がよいだろう。これならば、何とか遊覧という我がめざす的にすることができる前途となるだろう。

767年-5-#6杜甫 《20-98 鄭典設自施州歸》 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-5-#6 <1068 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7020

9 辨 辯/瓣 [訓]わきまえる① 是非・善悪を区別する。わきまえる。② けじめをつけて処理する。③ 弁当。④ 理屈

10 浩 はるかに、久しく。

11 蛇虺 蛇、虺もへび、まむしの類。

12 邊月破 邊月とは邊境の月、この地の月払いふ。破とは満月ののちにかけてゆくことをいう。鬱鬱さかんなる貌。

13 流年度 流れゆく年月が経過する。

767年-17 《19-23 雨》-#1(4分割) 杜甫詩index-15 1120 <1570> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7247

杜甫  雨 #1

山雨不作埿,江雲薄為霧。晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

明滅洲景微,隱見巖姿露。拘悶出門遊,曠經目趣。

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

767-17

19-23 雨》-#1(4分割)

杜甫詩index-15

1120 <1570

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7247

 

 

杜甫詩1500-1120-1570/2500

年:       大曆二年

寫作時間:           767

寫作年紀:           56

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:   

作地點:              目前尚無資料

及地點:              洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭      

 

雨 #1

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

山雨不作埿,江雲薄為霧。

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。

晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。

明滅洲景微,隱見巖姿露。

中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。

拘悶出門遊,曠經目趣。

こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

(雨)#1

山雨埿を作さす、江雲薄く霧を為す。

晴には飛ぶ半嶺の鶴、風には亂る平沙の樹。

明滅洲景微なら、隠見巌姿露る。

拘せられて悶す出門の遊、曠なり曠目の趣。 

#2

消中日伏枕,臥久塵及屨。

豈無平肩輿,莫辨望路。

兵戈浩未息,蛇虺反相顧。

悠悠邊月破,鬱鬱流年度。

#3

針灸阻朋曹,糠對童孺。

一命須屈色,新知漸成故。

窮荒益自卑,飄泊欲誰訴。

羸愁應接,俄頃恐違迕。

#4

浮俗何萬端,幽人有獨步。

龐公竟獨往,尚子終罕遇。

宿留洞庭秋,天寒瀟湘素。

杖策可入舟,送此齒髮暮。

 

瞿塘峡・白帝城・魚復 

『雨』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

雨 #1

山雨不作埿,江雲薄為霧。

晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

明滅洲景微,隱見巖姿露。

拘悶出門遊,曠經目趣
(下し文)
(雨)#1

山雨埿を作さす、江雲薄く霧を為す。

晴には飛ぶ半嶺の鶴、風には亂る平沙の樹。

明滅洲景微なら、隠見巌姿露る。

拘せられて悶す出門の遊、曠なり曠目の趣。 

(現代語訳)
(雨)#1(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。

晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。

中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。

こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

扁舟 00
(訳注)

 #1

(秋の長雨で、瀼西の自宅草堂にこもって感じたことを述べる。)

雨のときの感をのべたる詩。峡を出でて荊州・瀟湘の地に入らんと欲する意をいったもの。大暦二年秋の作。

 

山雨不作埿,江雲薄為霧。

瀼西の山にふる雨は石地の土地のため泥とはならないし、長江の雲はうすく霧にそまる。

不作埿 石地の土地であること。

 

晴飛半嶺鶴,風亂平沙樹。

晴れ間には、嶺のなかごろに鶴が飛ぶ。風が吹くと沙はらの樹木ががさがさと騒ぎ乱れる。

 

明滅洲景微,隱見巖姿露。

中洲のあたりをてらす日光は明るくなったり消えたりし、巌石の姿は見えたり隠れたりする。

洲景微 景は日光。中洲のあたりをてらす日光。

 

拘悶出門遊,曠經目趣。

こんなことで門外へ出てあそぶことが限られるので気が滅入ってしまう。こんなことで幾日もはればれとした眺望をしたことがない。 

拘悶出門遊 遊びを拘せらるるにより悶えるをいうのであろう。

 ひさしく絶つ。

經目趣 目を經る趣とは、晴れた景色を眺望するさま。

 

夔州での“雨の詩”

766年大暦元年55-32奉節-23 《巻15-48 雨 -#1 杜甫index-15 杜甫<896-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5500 杜甫詩1500-896-#1-1271/2500766年大暦元年55-32

766年大暦元年55-33奉節-23 《巻15-48 雨 -#2 杜甫index-15 杜甫<896-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5505

766年大暦元年55-33奉節-24 《巻15-49 雨,二首之一》 杜甫index-15 杜甫<897 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5505

766年大暦元年55-34-#1奉節-25 -#1 《巻15-50 雨,二首之二 -#1 杜甫index-15 杜甫<898-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5510

766年大暦元年55-34-#2奉節-25 -#2 《巻15-50 雨,二首之二 -#2 杜甫index-15 杜甫<898-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5515

767年大暦二年56-35奉節-26 《巻15-55 雨》 杜甫index-15 杜甫<899 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5520

767年大曆二年56-36-奉節-27 《巻15-60 雨》 杜甫index-15 杜甫<900 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5530

766年-69杜甫 《1502船下夔州郭宿,雨不得上岸,別王十二判官》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-69 <932 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6295

766年-70杜甫 《1553雨不》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-70 <933 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6300

766年-74杜甫 《1713西閣雨望》五言律詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-74 <937 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6320 杜甫詩1500-937-1435/2500

766年-153杜甫 《1552雨晴》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-153 <1025 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6805

766年-154杜甫 《卷一四82雨 (冥冥甲子雨,) 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-154 <1026 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6810

767年-14-#1杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#1 <1108 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7187

767年-14-#2杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#2 <1109 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7192

767年-14-#3杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#3 <1110 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7197

767年-14-#4杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-14-#4 <1111 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7202

767年-16 #5杜甫 《19-19 又上後園山腳》#5 杜甫詩index-15-1119 <1569> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7242 

杜甫  又上後園山 #5

秋風亦已起,江漢始如湯。登高欲有往,蕩析川無梁。

哀彼遠征人,去家死路旁。不及祖父塋,纍纍冢相當。

たしかに秋風は起ったのだが、『蓴羮鱸膾』か、この國を憂い、悲愁するのか、それでも長江は「朝宗」支流渓流が全て注ぎ込み、「江漢湯湯,武夫洸洸。」と流れてゆくのである。

ここにきても、重陽には、高いところにのぼって故郷を望み、そのに往きたいとおもうが船橋はこわれてしまって川にはそれがないという。彼の遠征の人人のことをかんがえると、気の毒なことであるとしか思えず、彼等の末路は遠く故郷の家からはなれて、路傍で死にたえてしまうのである。先祖伝来の墳墓にたどりつくことはできず、他郷での無縁のものの塚と、向き合って埋葬されてしまうのである。

767-16 #5杜甫 《19-19 又上後園山#5 杜甫詩index-15-1119 <1569

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7242 

 

 
  2016年1月26日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(65)李太白集卷十六13-《送張遙之壽陽幕府》(壽陽信天險,) 384-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(65) Ⅰ李白詩1740 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7240  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩 #6(19~22) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7231  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-16 #5杜甫 《19-19 又上後園山腳》#5 杜甫詩index-15-1119 <1569> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7242   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八43 楊柳枝四首其三 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》396巻八44 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7244  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1119-1569/2500

年:767年大暦256-16 #4

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    又上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

日觀峰 (河南道 兗州 泰山)              

龜山 (河南道 兗州 兗州)    

蒙山 (河南道 沂州 蒙山) 別名:東蒙             

交遊人物/地點:  

 

 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

窮秋立日觀,矯首望八荒。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

(又た 後園の山上る) #1

昔 我れ山東に遊び,憶う 東嶽の陽に戲れしことを。

窮秋 日觀に立ち,首を矯げて八荒を望む。

朱崖 毫髮を著く,碧海 衣裳に吹く。
#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。

逝水自朝宗,鎮名各其方。

東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。

非關風露凋,曾是戍役傷。

これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。

#2

蓐收 用事に困しみ,玄冥 蔚として強梁たり。

逝水は 自ら朝宗し,鎮名す 各の其の方を。

平原に獨り憔悴し,農力 耕桑を廢す。

風露の凋ましむるに關するに非ず,曾【すなわ】ち是れ 戍役に 傷ましむるなり。
#3

於時國用富,足以守邊疆。

それ以前は、生産力が絶頂であり、史上最高の国力を誇るに至ったので、国内施政はもちろん、それで十分に国境を守れたのである。

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

ところが朝廷は蕃人出身の猛将に事をうちまかされ、遠く北狄の地方を奪取することをなされた。

到今事反覆,故老淚萬行。

その結果が、あのとき、安禄山の乱から今日まで軍事の形勢反覆常なく、老人たちをして萬行の涙を流させているのである。

龜蒙不復見,況乃懷舊

今じぶんは泰山のそばの亀山蒙山などをみたいとおもうがそれは見ることができない。ましてやいくら故郷をおもうても、故郷が見られるわけのものではない。

#3

時に國用富めり,以て邊疆を守るに足れり。

朝廷 猛將に任ず,遠く奪う 戎虜の場。

今に到る 事 反覆す,故老 淚 萬行。

龜蒙 復た見るなし,況んや乃ち舊懷うをや。


#4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

十年に及ぶながきにわたって安史の乱という戦乱にあたってじぶんの肺はしぼんで活発でなくなってしまい、激やせで、骨はとびだして腸のなかが熱して落ち着かない。

憂來杖匣劍,更上林北岡。

しんぱいの心を落ち着かせるのに剣をついてさらに林の北の岡にのぼってみる。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

すると瘴癘の悪気のために猿や鳥も上から落ちるようにしてくる、峡谷に目をやれば、乾ききっており、南方の日色が黄ばんで渓谷をそめる。

#4

肺 萎む 久戰に屬す,骨出でて 中腸熱す。

憂來 匣劍に杖り,更に上る 林北の岡。

瘴毒に 猿鳥落つ,峽 乾きて 南日黃なり。

#5

秋風亦已起,江漢始如湯。

たしかに秋風は起ったのだが、『蓴羮鱸膾』か、この國を憂い、悲愁するのか、それでも長江は「朝宗」支流渓流が全て注ぎ込み、「江漢湯湯,武夫洸洸。」と流れてゆくのである。

登高欲有往,蕩析川無梁。

ここにきても、重陽には、高いところにのぼって故郷を望み、そのに往きたいとおもうが船橋はこわれてしまって川にはそれがないという。

哀彼遠征人,去家死路旁。

彼の遠征の人人のことをかんがえると、気の毒なことであるとしか思えず、彼等の末路は遠く故郷の家からはなれて、路傍で死にたえてしまうのである。

不及祖父塋,纍纍冢相當。

先祖伝来の墳墓にたどりつくことはできず、他郷での無縁のものの塚と、向き合って埋葬されてしまうのである。
#5

秋風 亦た已に起る,江漢 始めから 湯の如し。

高きに登りて 往く有らんと欲し,蕩析して川に梁無し。

哀しむは 彼の遠征の人を,家を去りて 路旁に死すを。

祖父の塋に及ばず,纍纍として 冢 相い當る。

 

 

『又上後園山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

秋風亦已起,江漢始如湯。

登高欲有往,蕩析川無梁。

哀彼遠征人,去家死路旁。

不及祖父塋,纍纍冢相當。

(下し文)
#5

秋風 亦た已に起る,江漢 始めから 湯の如し。

高きに登りて 往く有らんと欲し,蕩析して川に梁無し。

哀しむは 彼の遠征の人を,家を去りて 路旁に死すを。

祖父の塋に及ばず,纍纍として 冢 相い當る。

(現代語訳)
#5

たしかに秋風は起ったのだが、『蓴羮鱸膾』か、この國を憂い、悲愁するのか、それでも長江は「朝宗」支流渓流が全て注ぎ込み、「江漢湯湯,武夫洸洸。」と流れてゆくのである。

ここにきても、重陽には、高いところにのぼって故郷を望み、そのに往きたいとおもうが船橋はこわれてしまって川にはそれがないという。

彼の遠征の人人のことをかんがえると、気の毒なことであるとしか思えず、彼等の末路は遠く故郷の家からはなれて、路傍で死にたえてしまうのである。

先祖伝来の墳墓にたどりつくことはできず、他郷での無縁のものの塚と、向き合って埋葬されてしまうのである。

(訳注) #5

又上後園山 

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

 

秋風亦已起,江漢始如湯。

たしかに秋風は起ったのだが、『蓴羮鱸膾』か、この國を憂い、悲愁するのか、それでも長江は「朝宗」支流渓流が全て注ぎ込み、「江漢湯湯,武夫洸洸。」と流れてゆくのである。

30 秋風 秋風が吹けば、①『蓴羮鱸膾』「晉書・張翰傳」の原文には「(張)翰因見秋風起,乃思呉中菰菜、蓴羮、鱸魚膾,曰:『人生貴得適志,何能羈宦數千里以要名爵乎!』遂命駕而歸。」とある。②宋玉の九弁にいう、「悲哉秋之為氣也!蕭瑟兮草木搖落而變衰。」(悲しいかな秋の気たるや、蕭瑟たり草木揺落して変衰す)と。1735詠懷古跡,五首之二》「搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。」(揺落深く知る 宋玉が悲しみ、風流 儒雅も亦た吾が師。千秋を帳望して 一に涙を濯ぐ、蕭条 異代 時を同じくせず。)むかし宋玉は「悲愁」といい、秋風揺落に対して悲しんだというが自分もいま深く彼の悲しみの意味を知った。また彼は風流儒雅の人物であるがこの点もまた吾が師とすべきものだ。彼と我とは千年経ており、代を異にして時を同じくして生まれあわさぬことはまことにさびしい、自分はただ千年のむかしをうらめしくながめてもっぱら涙をそそぐのである。

31 江漢 蜀の江をいう。《詩經大雅蕩之什江漢》「江漢湯湯,武夫洸洸。」(江漢 湯湯【しょうしょう】たり,武夫 洸洸たり。)江漢の水は盛んに流れゆく。武夫はいずれも武勇であり、勢い盛んである。

32 如湯 「如湯湯」詩經「江漢湯湯」江漢の水は盛んに流れゆく。前句に「逝水自朝宗」とあったのと同じ支流渓流の水が長江に注ぎ込み、長江の流れが滔々となるというほどの意。無ことを言う。

 

登高欲有往,蕩析川無梁。

ここにきても、重陽には、高いところにのぼって故郷を望み、そのに往きたいとおもうが船橋はこわれてしまって川にはそれがないという。

33 登高 重陽には高い丘に登ることを言う。この園の高処にのぼるをいう。

《卷一二58  九日》「去年登高縣北,今日重在涪江濱。」(去年 高きに登る 縣の北,今日 重ねて在る 涪江の濱。)

《卷一七25 九日(登高)諸人集於林》 「登高明朝是,相要舊俗非。」(高きに登る 明朝 是なり,相い要うるも舊俗非なり。)

卷一九18又上後園山》「秋風亦已起,江漢始如湯。登高欲有往,蕩析川無梁。」(秋風 亦た已に起る,江漢 始めから 湯の如し。高きに登りて 往く有らんと欲し,蕩析して川に梁無し。)      

《卷二○49九日五首其四》「 故里樊川菊,登高素滻源。」(故里樊川の菊,高きに登る 素滻の源。)

《卷二○九日五首其五登高》「風急天高猿嘯哀、渚清沙白鳥飛廻。」(風急に天高くして 猿嘯哀し、 渚清く沙白くして 鳥飛廻る。)

34 蕩析 梁が波にうごかされて裂開する。

35 川無梁 梁は船橋なり。

 

哀彼遠征人,去家死路旁。

彼の遠征の人人のことをかんがえると、気の毒なことであるとしか思えず、彼等の末路は遠く故郷の家からはなれて、路傍で死にたえてしまうのである。

 

不及祖父塋,纍纍冢相當。

先祖伝来の墳墓にたどりつくことはできず、他郷での無縁のものの塚と、向き合って埋葬されてしまうのである。

36 不及 及とはゆきつくをいう。

37 祖父塋 父祖の墓。

38 纍纍 盛衰かさなる鋭。

39 冢相當 無縁の塚にむきあうことをいう。

 

 

 

 

 


続きを読む

767年-16 #4杜甫 《19-18 又上後園山腳》#4 杜甫詩index-15 1118 <1568> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7237 

杜甫   又上後園山 #4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。憂來杖匣劍,更上林北岡。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。
十年に及ぶながきにわたって安史の乱という戦乱にあたってじぶんの肺はしぼんで活発でなくなってしまい、激やせで、骨はとびだして腸のなかが熱して落ち着かない。しんぱいの心を落ち着かせるのに剣をついてさらに林の北の岡にのぼってみる。すると瘴癘の悪気のために猿や鳥も上から落ちるようにしてくる、峡谷に目をやれば、乾ききっており、南方の日色が黄ばんで渓谷をそめる。

767-16 #4杜甫

 19-18 又上後園山#4

杜甫詩index-15

1118 <1568

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7237 

 

 
  2016年1月25日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(65)李太白集卷十六13-《送張遙之壽陽幕府》(壽陽信天險,) 384Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(65) Ⅰ李白詩1739 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7235  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩 #5(15~18) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7231  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-16 #4杜甫 《19-18 又上後園山腳》#4 杜甫詩index-15 1118 <1568> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7237   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八43 楊柳枝四首其二 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》395巻八43 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7239  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1118-1568/2500

年:767年大暦256-16 #4

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    又上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

日觀峰 (河南道 兗州 泰山)              

龜山 (河南道 兗州 兗州)    

蒙山 (河南道 沂州 蒙山) 別名:東蒙             

交遊人物/地點:  

 

 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

窮秋立日觀,矯首望八荒。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

(又た 後園の山上る) #1

昔 我れ山東に遊び,憶う 東嶽の陽に戲れしことを。

窮秋 日觀に立ち,首を矯げて八荒を望む。

朱崖 毫髮を著く,碧海 衣裳に吹く。
#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。

逝水自朝宗,鎮名各其方。

東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。

非關風露凋,曾是戍役傷。

これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。

#2

蓐收 用事に困しみ,玄冥 蔚として強梁たり。

逝水は 自ら朝宗し,鎮名す 各の其の方を。

平原に獨り憔悴し,農力 耕桑を廢す。

風露の凋ましむるに關するに非ず,曾【すなわ】ち是れ 戍役に 傷ましむるなり。
#3

於時國用富,足以守邊疆。

それ以前は、生産力が絶頂であり、史上最高の国力を誇るに至ったので、国内施政はもちろん、それで十分に国境を守れたのである。

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

ところが朝廷は蕃人出身の猛将に事をうちまかされ、遠く北狄の地方を奪取することをなされた。

到今事反覆,故老淚萬行。

その結果が、あのとき、安禄山の乱から今日まで軍事の形勢反覆常なく、老人たちをして萬行の涙を流させているのである。

龜蒙不復見,況乃懷舊

今じぶんは泰山のそばの亀山蒙山などをみたいとおもうがそれは見ることができない。ましてやいくら故郷をおもうても、故郷が見られるわけのものではない。

#3

時に國用富めり,以て邊疆を守るに足れり。

朝廷 猛將に任ず,遠く奪う 戎虜の場。

今に到る 事 反覆す,故老 淚 萬行。

龜蒙 復た見るなし,況んや乃ち舊懷うをや。


#4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

憂來杖匣劍,更上林北岡。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

十年に及ぶながきにわたって安史の乱という戦乱にあたってじぶんの肺はしぼんで活発でなくなってしまい、激やせで、骨はとびだして腸のなかが熱して落ち着かない。

しんぱいの心を落ち着かせるのに剣をついてさらに林の北の岡にのぼってみる。

すると瘴癘の悪気のために猿や鳥も上から落ちるようにしてくる、峡谷に目をやれば、乾ききっており、南方の日色が黄ばんで渓谷をそめる。

#4

肺 萎む 久戰に屬す,骨出でて 中腸熱す。

憂來 匣劍に杖り,更に上る 林北の岡。

瘴毒に 猿鳥落つ,峽 乾きて 南日黃なり。

#5

秋風亦已起,江漢始如湯。

登高欲有往,蕩析川無梁。

哀彼遠征人,去家死路旁。

不及祖父塋,纍纍冢相當。

 

瞿塘峡・白帝城・魚復 

『又上後園山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

憂來杖匣劍,更上林北岡。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

(下し文)
#4

肺 萎む 久戰に屬す,骨出でて 中腸熱す。

憂來 匣劍に杖り,更に上る 林北の岡。

瘴毒に 猿鳥落つ,峽 乾きて 南日黃なり。

(現代語訳)
#4

十年に及ぶながきにわたって安史の乱という戦乱にあたってじぶんの肺はしぼんで活発でなくなってしまい、激やせで、骨はとびだして腸のなかが熱して落ち着かない。

しんぱいの心を落ち着かせるのに剣をついてさらに林の北の岡にのぼってみる。

すると瘴癘の悪気のために猿や鳥も上から落ちるようにしてくる、峡谷に目をやれば、乾ききっており、南方の日色が黄ばんで渓谷をそめる。


(訳注) #4

又上後園山 4

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

前回は夏の盛りであった。《19-10 上後園山

 

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

十年に及ぶながきにわたって安史の乱という戦乱にあたってじぶんの肺はしぼんで活発でなくなってしまい、激やせで、骨はとびだして腸のなかが熱して落ち着かない。

25 屬久戰 長かった安史の乱によって、杜甫は餓死寸前まで経験し、敵の捕縛され、長手を辞して各地を流転した。その間に、持病喘息、糖尿、リュウマチは悪化したのである。

26 骨出熱中腸 骨皮状態にやせ細ることを言う。

 

憂來杖匣劍,更上林北岡。

しんぱいの心を落ち着かせるのに剣をついてさらに林の北の岡にのぼってみる。

27 杖匣劍 剣の鞘を抜かないままで杖にすること。箱型の鞘におさめられた釼を言う。

 

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

すると瘴癘の悪気のために猿や鳥も上から落ちるようにしてくる、峡谷に目をやれば、乾ききっており、南方の日色が黄ばんで渓谷をそめる。

28 瘴毒 瘴癘の地の毒気。この時の空気の漢字を言うのであろう。

29 峽乾南日黃 南国の夕陽が、乾ききった峡谷を黄色に染める様子を言う。

 

 

杜甫像0012 

又上後園山 【字解】 

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

1 遊山東・憶戲 736年開元24年杜甫25~740年開元2829歳頃の5年間を言う。儒教、孔子の生まれ育ったところであり、竹林の七賢のいわれ、関連の多いところ。。山東・河北(魯、斉・趙)蘇源明らとに遊ぶ。そのころの詩は下記のとおりに示す。

杜甫 4 與任城許主簿游南池 (青年期の詩)

杜甫 5 封雨書懐走邀許圭簿 (青年期の詩)

杜甫6 兗州城楼(青年期の詩)

望嶽 杜甫 <7> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ98 杜甫詩 700- 

杜甫 8 巳上人茅粛 (青年期の詩)

2 東嶽陽 東嶽は泰山、泰安府にあり、陽は南。

李白313-#1 《巻十九07泰山,六首之一【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#1> Ⅰ李白詩1620 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6648

李白313-#2 《巻十九08遊泰山,六首之一》#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#2> Ⅰ李白詩1621 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6653

李白313-#3 《巻十九09遊泰山,六首之一》#3Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#3> Ⅰ李白詩1622 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6658

李白314 《巻十九08遊泰山,六首之二【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白314> Ⅰ李白詩1623 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6663

李白315 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315> Ⅰ李白詩1624 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6668

李白315-#2 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315-#2> Ⅰ李白詩1625 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6673

李白316#1 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#1> Ⅰ李白詩1626 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6678

李白316#2 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#2>Ⅰ李白詩1627kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6683

李白317-#1 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#1> Ⅰ李白詩1628 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6688

李白317-#2 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#2> Ⅰ李白詩1629 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6693

李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

李白318-#2 《巻十九12遊泰山,六首之六》318-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#2> Ⅰ李白詩1631 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6703

遊泰山,六首之一:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。)

遊泰山,六首之二:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、洞中の選任に出逢ったが一巻の書を残してくれたが読めないのでここに残って研究するというもの。)

遊泰山,六首之三: (道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:この詩は日觀峰にのぼって、日の出(御来光)を見て、清晨の光景の感慨を述べたもの。)

遊泰山,六首之四:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、緑黒髪の仙童に出逢ったが、その風姿は脱俗しているが、仙学を学んで間もないというが、たちまち見えなくなったが、感慨に堪えないことであった。)

遊泰山,六首之五:(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。)

遊泰山,六首之六:

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

 

3 日觀 泰山頂上の東南嶽の名称、日觀峰 (河南道 兗州 泰山)をいう。《水經注汶水》引漢應劭《漢官儀》「泰山東南山頂名曰日觀。  日觀者, 雞一鳴時, 見日始欲出, 長三丈許, 故以名焉。” (《水經の注汶水》漢の應劭《漢官儀》に引く:泰山の東南山頂 名づけて日觀と曰う。 日觀は, 雞 一たび鳴く時,日の始めて出でんと欲するを見ん, 長さ三丈許, 故に以て名づく。)

4 矯首 高く首をもたげたことを言う。

5 望八荒 八方の果てを望む。

6 朱崖 珠崖ともいう。漢の武帝の時、おかれた郡の名。今の広東地方。

7 著毫髮 珠崖が遠い南の果てにあるので、髪の毛一本ほどの微かなものであることを言う。

8 碧海 東海を言う。泰山日観峰から180度に大きく広がる太平洋である。

9 蓐收 古代漢民族の伝説中の秋神であり,その姿かたちは、人面、虎爪、白毛、執戉,左耳は蛇が有り,双頭の龍にる。これは、三皇五帝の一人で、白帝とか少昊といわれた紙を補佐する神である実在の人物であるとされる。

10 困用事 権力をほしいままにしていたものが衰えることを言う。

11 玄冥 冬の神。歴代王朝は雨師廟をまつってきた。古書に〈屛翳(へいえい)〉〈玄冥〉などの雨師の名が見える。〈畢宿(ひつしゆく)〉という星が雨を降らすとも信じられた。

12 蔚強梁。秋の神に変わって冬の神が大暴れすることを言う。

13 逝水自朝宗 中國の常識として、流れてゆく水は東に流れ、支流の川も自然に奔流に灌がれ、東海に流れてゆくこと。天子の御威光は自然に人民に徳として注がれること。朝宗:1 《「朝」は春に、「宗」は夏に天子に謁見する意》古代中国で、諸侯が天子に拝謁すること。2 多くの河川がみな海に流れ入ること。3 権威あるものに寄り従うこと。

杜甫《卷一四65 長江二首其一》「眾水會涪萬,瞿塘爭一門。朝宗人共挹,盜賊爾誰尊?孤石隱如馬,高蘿垂飲猿」(衆水 涪 万に会し、瞿塘 一門を争う。朝宗 人 共に拇り、盗賊 爾をば 誰か尊ばん。孤石隱れて 馬の如し、高蘿に飲猿垂る。帰心は 波浪に異なり、何事ぞ即ち飛翻するや。)“(この蜀という地には一時でも居たくない、中央の暗躍で四六時中権力闘争をしている、何とか三峡を早く下るようになりたいと詠う。)多くの水が涪州万州に会合し、それらの水が更に瞿塘峡が一門に向かって争いながれる。この大江は、諸侯の天子に拝謁するように江水が朝宗し、東海に流入することは、万人の共に取る常識なのである。此の義を解せざる汝ら盗賊どもをだれが尊敬するものがあろうか。瞿塘では灔澦のひとつ石がかくれてわずかに馬のごとく、高処のひめかつらから水をのもうとする猿が垂れさがっている。自分はそこをとおって荊州の方へゆこうとするのだが、自分の帰郷をおもう心は波浪ならいざ知らず波浪でもないくせに、いかなるせいかびっくりかえりつつあるのである。とある。

14 鎮名各其方 基本に五岳があり、東南揚州は会稽山、正南は荊州山。ここにいう山は、南嶽衡山をいう。

15 平原獨憔悴 中原地方は疲弊し、憔悴しきっているということ。

16 風露凋 気候により、つまり、天災によって凋み衰えること。

17 曾是 曾はすなわち、是は凋み衰えるている現状。

18 戍役傷 戦争、叛乱、謀叛による世情不安、賦役が増大、戦死による労働力不足、逃散による村落崩壊、山賊、盗賊の横行、私物化、賄賂等々に倚る人民の生産力が著しく減少したことで、社会の再生産体制が傷ついたということ。

19 於時國用富 玄宗の開元の治の時期のことを言う。国民総生産が最高であり、領土も最大の時期であった。

20 守邊疆 積極的な防衛をしなくても、消極的に防備をして守れたことを言う。

21 任猛將 蕃人出身の安禄山、史忠明などの猛將、武将をいう。

22 戎虜場 夷狄の地をいう。

23 事反覆 河北の節度使が再三朝廷に叛く。

24 龜蒙 魯の國の亀山と蒙山のことで、泰山に近い。《詩経、魯頌》「奄有龜蒙、遂荒大東。」(龜蒙を奄有し、遂に大東を荒【たも】つ亀山・蒙山をも奄い有ち、延いて大陸の極東のはてまでも覆い保有し、東海に臨む迄に至っている。

767年-16 #3杜甫 《19-18 又上後園山腳》#3 杜甫詩index-15-1117 <1567> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7232 

杜甫  又上後園山#3

於時國用富,足以守邊疆。朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

到今事反覆,故老淚萬行。龜蒙不復見,況乃懷舊

それ以前は、生産力が絶頂であり、史上最高の国力を誇るに至ったので、国内施政はもちろん、それで十分に国境を守れたのである。ところが朝廷は蕃人出身の猛将に事をうちまかされ、遠く北狄の地方を奪取することをなされた。その結果が、あのとき、安禄山の乱から今日まで軍事の形勢反覆常なく、老人たちをして萬行の涙を流させているのである。今じぶんは泰山のそばの亀山蒙山などをみたいとおもうがそれは見ることができない。ましてやいくら故郷をおもうても、故郷が見られるわけのものではない。

767-16 #3杜甫 《19-18 又上後園山#3 杜甫詩index-15-1117 <1567

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7232 


 
  2016年1月24日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(64)李太白集卷十六10-《送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》(安西幕府多材雄,) 383Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(64) Ⅰ李白詩1738 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7230  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩 #4(11~14) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7231  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-16 #3杜甫 《19-18 又上後園山腳》#3 杜甫詩index-15-1117 <1567> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7232   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八42 楊柳枝四首其一 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》394巻八42 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7234  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1117-1567/2500

年:767年大暦256-16 #3

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    又上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

日觀峰 (河南道 兗州 泰山)              

龜山 (河南道 兗州 兗州)    

蒙山 (河南道 沂州 蒙山) 別名:東蒙             

交遊人物/地點:  

 

 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

窮秋立日觀,矯首望八荒。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

(又た 後園の山上る) #1

昔 我れ山東に遊び,憶う 東嶽の陽に戲れしことを。

窮秋 日觀に立ち,首を矯げて八荒を望む。

朱崖 毫髮を著く,碧海 衣裳に吹く。
#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。

逝水自朝宗,鎮名各其方。

東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。

非關風露凋,曾是戍役傷。

これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。

#2

蓐收 用事に困しみ,玄冥 蔚として強梁たり。

逝水は 自ら朝宗し,鎮名す 各の其の方を。

平原に獨り憔悴し,農力 耕桑を廢す。

風露の凋ましむるに關するに非ず,曾【すなわ】ち是れ 戍役に 傷ましむるなり。
#3

於時國用富,足以守邊疆。

それ以前は、生産力が絶頂であり、史上最高の国力を誇るに至ったので、国内施政はもちろん、それで十分に国境を守れたのである。

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

ところが朝廷は蕃人出身の猛将に事をうちまかされ、遠く北狄の地方を奪取することをなされた。

到今事反覆,故老淚萬行。

その結果が、あのとき、安禄山の乱から今日まで軍事の形勢反覆常なく、老人たちをして萬行の涙を流させているのである。

龜蒙不復見,況乃懷舊

今じぶんは泰山のそばの亀山蒙山などをみたいとおもうがそれは見ることができない。ましてやいくら故郷をおもうても、故郷が見られるわけのものではない。

#3

時に國用富めり,以て邊疆を守るに足れり。

朝廷 猛將に任ず,遠く奪う 戎虜の場。

今に到る 事 反覆す,故老 淚 萬行。

龜蒙 復た見るなし,況んや乃ち舊懷うをや。
#4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

憂來杖匣劍,更上林北岡。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

#5

秋風亦已起,江漢始如湯。

登高欲有往,蕩析川無梁。

哀彼遠征人,去家死路旁。

不及祖父塋,纍纍冢相當。

 

泰山002 

『又上後園山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

於時國用富,足以守邊疆。

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

到今事反覆,故老淚萬行。

龜蒙不復見,況乃懷舊

(下し文)
#3

時に國用富めり,以て邊疆を守るに足れり。

朝廷 猛將に任ず,遠く奪う 戎虜の場。

今に到る 事 反覆す,故老 淚 萬行。

龜蒙 復た見るなし,況んや乃ち舊懷うをや。

(現代語訳)
#3

それ以前は、生産力が絶頂であり、史上最高の国力を誇るに至ったので、国内施政はもちろん、それで十分に国境を守れたのである。

ところが朝廷は蕃人出身の猛将に事をうちまかされ、遠く北狄の地方を奪取することをなされた。

その結果が、あのとき、安禄山の乱から今日まで軍事の形勢反覆常なく、老人たちをして萬行の涙を流させているのである。

今じぶんは泰山のそばの亀山蒙山などをみたいとおもうがそれは見ることができない。ましてやいくら故郷をおもうても、故郷が見られるわけのものではない。

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図


(訳注) #3

又上後園山 3

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

前回は夏の盛りであった。《19-10 上後園山

 

於時國用富,足以守邊疆。

それ以前は、生産力が絶頂であり、史上最高の国力を誇るに至ったので、国内施政はもちろん、それで十分に国境を守れたのである。

19 於時國用富 玄宗の開元の治の時期のことを言う。国民総生産が最高であり、領土も最大の時期であった。

20 守邊疆 積極的な防衛をしなくても、消極的に防備をして守れたことを言う。

 

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

ところが朝廷は蕃人出身の猛将に事をうちまかされ、遠く北狄の地方を奪取することをなされた。

21 任猛將 蕃人出身の安禄山、史忠明などの猛將、武将をいう。

22 戎虜場 夷狄の地をいう。

 

到今事反覆,故老淚萬行。

その結果が、あのとき、安禄山の乱から今日まで軍事の形勢反覆常なく、老人たちをして萬行の涙を流させているのである。

23 事反覆 河北の節度使が再三朝廷に叛く。

 

龜蒙不復見,況乃懷舊

今じぶんは泰山のそばの亀山蒙山などをみたいとおもうがそれは見ることができない。ましてやいくら故郷をおもうても、故郷が見られるわけのものではない。

24 龜蒙 魯の國の亀山と蒙山のことで、泰山に近い。《詩経、魯頌》「奄有龜蒙、遂荒大東。」(龜蒙を奄有し、遂に大東を荒【たも】つ亀山・蒙山をも奄い有ち、延いて大陸の極東のはてまでも覆い保有し、東海に臨む迄に至っている。

 

 

 

 

 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

1 遊山東・憶戲 736年開元24年杜甫25~740年開元2829歳頃の5年間を言う。儒教、孔子の生まれ育ったところであり、竹林の七賢のいわれ、関連の多いところ。。山東・河北(魯、斉・趙)蘇源明らとに遊ぶ。そのころの詩は下記のとおりに示す。

杜甫 4 與任城許主簿游南池 (青年期の詩)

杜甫 5 封雨書懐走邀許圭簿 (青年期の詩)

杜甫6 兗州城楼(青年期の詩)

望嶽 杜甫 <7> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ98 杜甫詩 700- 

杜甫 8 巳上人茅粛 (青年期の詩)

2 東嶽陽 東嶽は泰山、泰安府にあり、陽は南。

李白313-#1 《巻十九07遊泰山,六首之一【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#1> Ⅰ李白詩1620 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6648

李白313-#2 《巻十九08遊泰山,六首之一》#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#2> Ⅰ李白詩1621 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6653

李白313-#3 《巻十九09遊泰山,六首之一》#3Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#3> Ⅰ李白詩1622 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6658

李白314 《巻十九08遊泰山,六首之二【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白314> Ⅰ李白詩1623 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6663

李白315 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315> Ⅰ李白詩1624 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6668

李白315-#2 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315-#2> Ⅰ李白詩1625 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6673

李白316#1 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#1> Ⅰ李白詩1626 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6678

李白316#2 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#2>Ⅰ李白詩1627kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6683

李白317-#1 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#1> Ⅰ李白詩1628 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6688

李白317-#2 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#2> Ⅰ李白詩1629 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6693

李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

李白318-#2 《巻十九12遊泰山,六首之六》318-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#2> Ⅰ李白詩1631 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6703

遊泰山,六首之一:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。)

遊泰山,六首之二:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、洞中の選任に出逢ったが一巻の書を残してくれたが読めないのでここに残って研究するというもの。)

遊泰山,六首之三: (道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:この詩は日觀峰にのぼって、日の出(御来光)を見て、清晨の光景の感慨を述べたもの。)

遊泰山,六首之四:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、緑黒髪の仙童に出逢ったが、その風姿は脱俗しているが、仙学を学んで間もないというが、たちまち見えなくなったが、感慨に堪えないことであった。)

遊泰山,六首之五:(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。)

遊泰山,六首之六:

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

 

3 日觀 泰山頂上の東南嶽の名称、日觀峰 (河南道 兗州 泰山)をいう。《水經注汶水》引漢應劭《漢官儀》「泰山東南山頂名曰日觀。  日觀者, 雞一鳴時, 見日始欲出, 長三丈許, 故以名焉。” (《水經の注汶水》漢の應劭《漢官儀》に引く:泰山の東南山頂 名づけて日觀と曰う。 日觀は, 雞 一たび鳴く時,日の始めて出でんと欲するを見ん, 長さ三丈許, 故に以て名づく。)

4 矯首 高く首をもたげたことを言う。

5 望八荒 八方の果てを望む。

6 朱崖 珠崖ともいう。漢の武帝の時、おかれた郡の名。今の広東地方。

7 著毫髮 珠崖が遠い南の果てにあるので、髪の毛一本ほどの微かなものであることを言う。

8 碧海 東海を言う。泰山日観峰から180度に大きく広がる太平洋である。

9 蓐收 古代漢民族の伝説中の秋神であり,その姿かたちは、人面、虎爪、白毛、執戉,左耳は蛇が有り,双頭の龍にる。これは、三皇五帝の一人で、白帝とか少昊といわれた紙を補佐する神である実在の人物であるとされる。

10 困用事 権力をほしいままにしていたものが衰えることを言う。

11 玄冥 冬の神。歴代王朝は雨師廟をまつってきた。古書に〈屛翳(へいえい)〉〈玄冥〉などの雨師の名が見える。〈畢宿(ひつしゆく)〉という星が雨を降らすとも信じられた。

12 蔚強梁。秋の神に変わって冬の神が大暴れすることを言う。

13 逝水自朝宗 中國の常識として、流れてゆく水は東に流れ、支流の川も自然に奔流に灌がれ、東海に流れてゆくこと。天子の御威光は自然に人民に徳として注がれること。朝宗:1 《「朝」は春に、「宗」は夏に天子に謁見する意》古代中国で、諸侯が天子に拝謁すること。2 多くの河川がみな海に流れ入ること。3 権威あるものに寄り従うこと。

杜甫《卷一四65 長江二首其一》「眾水會涪萬,瞿塘爭一門。朝宗人共挹,盜賊爾誰尊?孤石隱如馬,高蘿垂飲猿」(衆水 涪 万に会し、瞿塘 一門を争う。朝宗 人 共に拇り、盗賊 爾をば 誰か尊ばん。孤石隱れて 馬の如し、高蘿に飲猿垂る。帰心は 波浪に異なり、何事ぞ即ち飛翻するや。)“(この蜀という地には一時でも居たくない、中央の暗躍で四六時中権力闘争をしている、何とか三峡を早く下るようになりたいと詠う。)多くの水が涪州万州に会合し、それらの水が更に瞿塘峡が一門に向かって争いながれる。この大江は、諸侯の天子に拝謁するように江水が朝宗し、東海に流入することは、万人の共に取る常識なのである。此の義を解せざる汝ら盗賊どもをだれが尊敬するものがあろうか。瞿塘では灔澦のひとつ石がかくれてわずかに馬のごとく、高処のひめかつらから水をのもうとする猿が垂れさがっている。自分はそこをとおって荊州の方へゆこうとするのだが、自分の帰郷をおもう心は波浪ならいざ知らず波浪でもないくせに、いかなるせいかびっくりかえりつつあるのである。とある。

14 鎮名各其方 基本に五岳があり、東南揚州は会稽山、正南は荊州山。ここにいう山は、南嶽衡山をいう。

15 平原獨憔悴 中原地方は疲弊し、憔悴しきっているということ。

16 風露凋 気候により、つまり、天災によって凋み衰えること。

17 曾是 曾はすなわち、是は凋み衰えるている現状。

18 戍役傷 戦争、叛乱、謀叛による世情不安、賦役が増大、戦死による労働力不足、逃散による村落崩壊、山賊、盗賊の横行、私物化、賄賂等々に倚る人民の生産力が著しく減少したことで、社会の再生産体制が傷ついたということ。

767年-16 #2杜甫 《19-18 又上後園山腳》#2 杜甫詩index-15-1116 <1566> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7227

杜甫  又上後園山#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。逝水自朝宗,鎮名各其方。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。非關風露凋,曾是戍役傷。

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。

767-16 #2杜甫 《19-18 又上後園山#2 杜甫詩index-15-1116 <1566

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7227 

 

 
  2016年1月23日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(63)李太白集卷十六08-《送竇司馬貶宜春》(天馬白銀鞍,) 382Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(63) Ⅰ李白詩1737 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7225  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩  #3(7~10) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7226  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-16 #2杜甫 《19-18 又上後園山腳》#2 杜甫詩index-15-1116 <1566> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7227  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八41 思越人二首 其二 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》393巻八41 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7229  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1116-1566/2500

年:767年大暦256-16 #1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    又上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

日觀峰 (河南道 兗州 泰山)              

龜山 (河南道 兗州 兗州)    

蒙山 (河南道 沂州 蒙山) 別名:東蒙             

交遊人物/地點:  

 

 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

窮秋立日觀,矯首望八荒。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

(又た 後園の山上る) #1

昔 我れ山東に遊び,憶う 東嶽の陽に戲れしことを。

窮秋 日觀に立ち,首を矯げて八荒を望む。

朱崖 毫髮を著く,碧海 衣裳に吹く。
#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。

逝水自朝宗,鎮名各其方。

東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。

非關風露凋,曾是戍役傷。

これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。

#3

於時國用富,足以守邊疆。

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

到今事反覆,故老淚萬行。

龜蒙不復見,況乃懷舊

#4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

憂來杖匣劍,更上林北岡。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

#5

秋風亦已起,江漢始如湯。

登高欲有往,蕩析川無梁。

哀彼遠征人,去家死路旁。

不及祖父塋,纍纍冢相當。

 

安史の乱当時の勢力図 

『又上後園山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

逝水自朝宗,鎮名各其方。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

非關風露凋,曾是戍役傷。

(下し文)
#2

蓐收 用事に困しみ,玄冥 蔚として強梁たり。

逝水は 自ら朝宗し,鎮名す 各の其の方を。

平原に獨り憔悴し,農力 耕桑を廢す。

風露の凋ましむるに關するに非ず,曾【すなわ】ち是れ 戍役に 傷ましむるなり。

(現代語訳)
#2

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。

東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。

しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。

これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。


(訳注) #2

又上後園山 2

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

前回は夏の盛りであった。《19-10 上後園山

 

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

時候は秋の神がやつと勢力を失ひかけて、冬の神があばれだすときであった。

9 蓐收 古代漢民族の伝説中の秋神であり,その姿かたちは、人面、虎爪、白毛、執戉,左耳は蛇が有り,双頭の龍にる。これは、三皇五帝の一人で、白帝とか少昊といわれた紙を補佐する神である実在の人物であるとされる。

10 困用事 権力をほしいままにしていたものが衰えることを言う。

11 玄冥 冬の神。歴代王朝は雨師廟をまつってきた。古書に〈屛翳(へいえい)〉〈玄冥〉などの雨師の名が見える。〈畢宿(ひつしゆく)〉という星が雨を降らすとも信じられた。

12 蔚強梁。秋の神に変わって冬の神が大暴れすることを言う。

 

逝水自朝宗,鎮名各其方。

東にながれゆく水は自然にあたりまえのこととして海へとそそぐ、天下九州の山鎭はそれぞれ其の方位に於てその地方の鎮めしつめとして聳えている。

13 逝水自朝宗 中國の常識として、流れてゆく水は東に流れ、支流の川も自然に奔流に灌がれ、東海に流れてゆくこと。天子の御威光は自然に人民に徳として注がれること。朝宗:1 《「朝」は春に、「宗」は夏に天子に謁見する意》古代中国で、諸侯が天子に拝謁すること。2 多くの河川がみな海に流れ入ること。3 権威あるものに寄り従うこと。

杜甫《卷一四65 長江二首其一》「眾水會涪萬,瞿塘爭一門。朝宗人共挹,盜賊爾誰尊?孤石隱如馬,高蘿垂飲猿」(衆水 涪 万に会し、瞿塘 一門を争う。朝宗 人 共に拇り、盗賊 爾をば 誰か尊ばん。孤石隱れて 馬の如し、高蘿に飲猿垂る。帰心は 波浪に異なり、何事ぞ即ち飛翻するや。)“(この蜀という地には一時でも居たくない、中央の暗躍で四六時中権力闘争をしている、何とか三峡を早く下るようになりたいと詠う。)多くの水が涪州万州に会合し、それらの水が更に瞿塘峡が一門に向かって争いながれる。この大江は、諸侯の天子に拝謁するように江水が朝宗し、東海に流入することは、万人の共に取る常識なのである。此の義を解せざる汝ら盗賊どもをだれが尊敬するものがあろうか。瞿塘では灔澦のひとつ石がかくれてわずかに馬のごとく、高処のひめかつらから水をのもうとする猿が垂れさがっている。自分はそこをとおって荊州の方へゆこうとするのだが、自分の帰郷をおもう心は波浪ならいざ知らず波浪でもないくせに、いかなるせいかびっくりかえりつつあるのである。とある。

14 鎮名各其方 基本に五岳があり、東南揚州は会稽山、正南は荊州山。ここにいう山は、南嶽衡山をいう。

 

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

しかるに中原の地方だけは民力、生産力が窶れ、農民は耕桑の業をやめてしまったり、やめさせられたのである。

15 平原獨憔悴 中原地方は疲弊し、憔悴しきっているということ。

 

非關風露凋,曾是戍役傷。

これは風露などの天地の気候のためにしぼまされたのではなくして征戊や賦役力役に人力がとられるために生産力が損傷したのである。

16 風露凋 気候により、つまり、天災によって凋み衰えること。

17 曾是 曾はすなわち、是は凋み衰えるている現状。

18 戍役傷 戦争、叛乱、謀叛による世情不安、賦役が増大、戦死による労働力不足、逃散による村落崩壊、山賊、盗賊の横行、私物化、賄賂等々に倚る人民の生産力が著しく減少したことで、社会の再生産体制が傷ついたということ。

 

汜水関などの地図 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

1 遊山東・憶戲 736年開元24年杜甫25~740年開元2829歳頃の5年間を言う。儒教、孔子の生まれ育ったところであり、竹林の七賢のいわれ、関連の多いところ。。山東・河北(魯、斉・趙)蘇源明らとに遊ぶ。そのころの詩は下記のとおりに示す。

杜甫 4 與任城許主簿游南池 (青年期の詩)

杜甫 5 封雨書懐走邀許圭簿 (青年期の詩)

杜甫6 兗州城楼(青年期の詩)

望嶽 杜甫 <7> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ98 杜甫詩 700- 

杜甫 8 巳上人茅粛 (青年期の詩)

2 東嶽陽 東嶽は泰山、泰安府にあり、陽は南。

李白313-#1 《巻十九07遊泰山,六首之一【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#1> Ⅰ李白詩1620 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6648

李白313-#2 《巻十九08遊泰山,六首之一》#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#2> Ⅰ李白詩1621 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6653

李白313-#3 《巻十九09遊泰山,六首之一》#3Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#3> Ⅰ李白詩1622 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6658

李白314 《巻十九08遊泰山,六首之二【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白314> Ⅰ李白詩1623 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6663

李白315 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315> Ⅰ李白詩1624 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6668

李白315-#2 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315-#2> Ⅰ李白詩1625 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6673

李白316#1 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#1> Ⅰ李白詩1626 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6678

李白316#2 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#2>Ⅰ李白詩1627kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6683

李白317-#1 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#1> Ⅰ李白詩1628 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6688

李白317-#2 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#2> Ⅰ李白詩1629 kanbuniinkai頌之の漢詩ブログ6693

李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

李白318-#2 《巻十九12遊泰山,六首之六》318-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#2> Ⅰ李白詩1631 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6703

遊泰山,六首之一:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。)

遊泰山,六首之二:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、洞中の選任に出逢ったが一巻の書を残してくれたが読めないのでここに残って研究するというもの。)

遊泰山,六首之三: (道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:この詩は日觀峰にのぼって、日の出(御来光)を見て、清晨の光景の感慨を述べたもの。)

遊泰山,六首之四:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、緑黒髪の仙童に出逢ったが、その風姿は脱俗しているが、仙学を学んで間もないというが、たちまち見えなくなったが、感慨に堪えないことであった。)

遊泰山,六首之五:(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。)

遊泰山,六首之六:

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

 

3 日觀 泰山頂上の東南嶽の名称、日觀峰 (河南道 兗州 泰山)をいう。《水經注汶水》引漢應劭《漢官儀》「泰山東南山頂名曰日觀。  日觀者, 雞一鳴時, 見日始欲出, 長三丈許, 故以名焉。” (《水經の注汶水》漢の應劭《漢官儀》に引く:泰山の東南山頂 名づけて日觀と曰う。 日觀は, 雞 一たび鳴く時,日の始めて出でんと欲するを見ん, 長さ三丈許, 故に以て名づく。)

4 矯首 高く首をもたげたことを言う。

5 望八荒 八方の果てを望む。

6 朱崖 珠崖ともいう。漢の武帝の時、おかれた郡の名。今の広東地方。

7 著毫髮 珠崖が遠い南の果てにあるので、髪の毛一本ほどの微かなものであることを言う。

8 碧海 東海を言う。泰山日観峰から180度に大きく広がる太平洋である。

767年-16 #1杜甫 《19-18 又上後園山腳》#1 杜甫詩index-15-1115 <1565> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7222 

杜甫  又上後園山 1

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。窮秋立日觀,矯首望八荒。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

767-16 #1杜甫 《19-18 又上後園山#1 杜甫詩index-15-1115 <1565

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7222 

 

 
  2016年1月22日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(62)李太白集巻十四34-《贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 381-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(62) Ⅰ李白詩1736 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7220  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩  #2(4~6) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7221  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-16 #1杜甫 《19-18 又上後園山腳》#1 杜甫詩index-15-1115 <1565> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7222   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog 李太白集  331《太白巻二25 上雲樂》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7228 (01/22)  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八40 思越人二首 其一 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》392巻八40 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7224  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

19-10 上後園山

朱夏熱所嬰,清旭步北林。小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。潛鱗恨水壯,去翼依雲深。

勿謂地無疆,劣於山有陰。石遍天下,水陸兼浮沈。

自我登隴首,十年經碧岑。劍門來巫峽,薄倚浩至今。

故園暗戎馬,骨肉失追尋。時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

(後園の山上る

朱夏 熱 嬰る所なり,清旭に 北林に步す。小園 高岡をに背す,葛を挽きて 崎崟たるに上る。

曠望 駐目を延く,飄颻 疏襟を散ず。潛鱗 水の壯なるを恨み,去翼 雲の深きに依る。
謂う勿れ 地 疆【かぎ】り無しと,山の陰有るよりも劣れり。石
【せきげん】天下に遍し,水陸 兼て 浮沈す。

我が隴首に登りしより,十年 碧岑を經る。劍門より 巫峽に來る,薄倚 浩として今に至れり。
故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。

志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。

 

 

杜甫詩1500-1115-1565/2500

年:767年大暦256-16 #1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    又上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

日觀峰 (河南道 兗州 泰山)              

龜山 (河南道 兗州 兗州)    

蒙山 (河南道 沂州 蒙山) 別名:東蒙             

交遊人物/地點:  

 

 

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

窮秋立日觀,矯首望八荒。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

(又た 後園の山上る) #1

昔 我れ山東に遊び,憶う 東嶽の陽に戲れしことを。

窮秋 日觀に立ち,首を矯げて八荒を望む。

朱崖 毫髮を著く,碧海 衣裳に吹く。
#2

蓐收困用事,玄冥蔚強梁。

逝水自朝宗,鎮名各其方。

平原獨憔悴,農力廢耕桑。

非關風露凋,曾是戍役傷。

#3

於時國用富,足以守邊疆。

朝廷任猛將,遠奪戎虜場。

到今事反覆,故老淚萬行。

龜蒙不復見,況乃懷舊

#4

肺萎屬久戰,骨出熱中腸。

憂來杖匣劍,更上林北岡。

瘴毒猿鳥落,峽乾南日黃。

#5

秋風亦已起,江漢始如湯。

登高欲有往,蕩析川無梁。

哀彼遠征人,去家死路旁。

不及祖父塋,纍纍冢相當。

泰山案内図01 

 

『又上後園山』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

又上後園山 #1

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

窮秋立日觀,矯首望八荒。

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。
詩文(含異文):#1           

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

窮秋立日觀,矯首望八荒【矯首望北荒】。

朱崖【案:在南海中。】著毫髮,碧海吹衣裳。


(下し文)
(又た 後園の山上る) #1

昔 我れ山東に遊び,憶う 東嶽の陽に戲れしことを。

窮秋 日觀に立ち,首を矯げて八荒を望む。

朱崖 毫髮を著く,碧海 衣裳に吹く。

(現代語訳)
又上後園山 #1(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

泰山絵図
(訳注)

又上後園山 1

(再び、瀼西の北園の山麓にのぼったこと詠んだ詩。)

前回は夏の盛りであった。《19-10 上後園山

 

昔我遊山東,憶戲東嶽陽。

むかしじぶんは山東に遊んだ。あのとき戯れに東嶽(泰山)におぼり、その南、南池などに戯れたことをおもいだす。

1 遊山東・憶戲 736年開元24年杜甫25~740年開元2829歳頃の5年間を言う。儒教、孔子の生まれ育ったところであり、竹林の七賢のいわれ、関連の多いところ。。山東・河北(魯、斉・趙)蘇源明らとに遊ぶ。そのころの詩は下記のとおりに示す。

杜甫 4 與任城許主簿游南池 (青年期の詩)

杜甫 5 封雨書懐走邀許圭簿 (青年期の詩)

杜甫6 兗州城楼(青年期の詩)

望嶽 杜甫 <7> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ98 杜甫詩 700- 

杜甫 8 巳上人茅粛 (青年期の詩)

2 東嶽陽 東嶽は泰山、泰安府にあり、陽は南。

李白313-#1 《巻十九07遊泰山,六首之一【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#1> Ⅰ李白詩1620 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6648

李白313-#2 《巻十九08遊泰山,六首之一》#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#2> Ⅰ李白詩1621 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6653

李白313-#3 《巻十九09遊泰山,六首之一》#3Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#3> Ⅰ李白詩1622 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6658

李白314 《巻十九08遊泰山,六首之二【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白314> Ⅰ李白詩1623 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6663

李白315 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315> Ⅰ李白詩1624 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6668

李白315-#2 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315-#2> Ⅰ李白詩1625 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6673

李白316#1 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#1> Ⅰ李白詩1626 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6678

李白316#2 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#2>Ⅰ李白詩1627kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6683

李白317-#1 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#1> Ⅰ李白詩1628 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6688

李白317-#2 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#2> Ⅰ李白詩1629 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6693

李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

李白318-#2 《巻十九12遊泰山,六首之六》318-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#2> Ⅰ李白詩1631 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6703

遊泰山,六首之一:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。)

遊泰山,六首之二:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、洞中の選任に出逢ったが一巻の書を残してくれたが読めないのでここに残って研究するというもの。)

遊泰山,六首之三: (道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:この詩は日觀峰にのぼって、日の出(御来光)を見て、清晨の光景の感慨を述べたもの。)

遊泰山,六首之四:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、緑黒髪の仙童に出逢ったが、その風姿は脱俗しているが、仙学を学んで間もないというが、たちまち見えなくなったが、感慨に堪えないことであった。)

遊泰山,六首之五:(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。)

遊泰山,六首之六:

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

 

窮秋立日觀,矯首望八荒。

あのときは秋の末であったが日観峯のうえに立って首をあげて八方のはてをながめたものだ。

3 日觀 泰山頂上の東南嶽の名称、日觀峰 (河南道 兗州 泰山)をいう。《水經注汶水》引漢應劭《漢官儀》「泰山東南山頂名曰日觀。  日觀者, 雞一鳴時, 見日始欲出, 長三丈許, 故以名焉。” (《水經の注汶水》漢の應劭《漢官儀》に引く:泰山の東南山頂 名づけて日觀と曰う。 日觀は, 雞 一たび鳴く時,日の始めて出でんと欲するを見ん, 長さ三丈許, 故に以て名づく。)

4 矯首 高く首をもたげたことを言う。

5 望八荒 八方の果てを望む。

 

朱崖著毫髮,碧海吹衣裳。

その南のはての方、珠崖の地は、一髪のごとくであり、東のかたに広がるのは東海であり、その碧海の風は衣裳を吹きあげたものだった。

6 朱崖 珠崖ともいう。漢の武帝の時、おかれた郡の名。今の広東地方。

7 著毫髮 珠崖が遠い南の果てにあるので、髪の毛一本ほどの微かなものであることを言う。

8 碧海 東海を言う。泰山日観峰から180度に大きく広がる太平洋である。

 

続きを読む

767年-15 #3杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#3 杜甫詩index-15-1114 <1564> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7217 

杜甫  晚登瀼上堂 #3

淒其望呂葛,不復夢周孔。濟世數嚮時,斯人各枯冢。

楚星南天黑,蜀月西霧重。安得隨鳥翎,迫此懼將恐。

世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。自分の居る楚蜀の西南の地ではいま星がいでても天は黒く、月がかかっても霧が重くとざしているという有様なのである。この盗賊が跋扈して恐懼すべき際に迫られている自分は、どうにかして鳥のつばさにでもつきしたがって、故郷の方へ飛んでかへりたいと願っている次第である。

767-15 #3杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#3 杜甫詩index-15-1114 <1564

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7217 

 

 
  2016年1月21日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(62)李太白集巻十四34-《贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 381Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(62) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈128 巻01-13 南山詩  #1(1~3) 806年貞元22年 39歳-(1)  漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ7216  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-15 #3杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#3 杜甫詩index-15-1114 <1564> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7217   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八39 謁金門一首 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》391巻八39 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7219  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1114-1564/2500

年:767年大暦256-15 #1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    晚登瀼上堂

作地點:              奉節(山南東道 / 夔州 / 奉節)

及地點:              瀼上堂 (山南東道 夔州 奉節)           

交遊人物/地點:  

 

晚登瀼上堂 #1

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

故躋瀼岸高,頗免崖石擁。

それまで、崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることから免れることができるために、自分は、どうしても瀼水の崖の高いところにのぼってながめてみたかったのである。

開襟野堂豁,繫馬林花動。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

雉堞粉如雲,山田麥無壟。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

春氣晚更生,江流靜猶湧。

夕がたであるために、夕もやによって春の雲気は更にましてきて、大瀼水の江の流れはきよらかで静ではあるがそれでも湧きたっている。

(晚に瀼上の堂に登る) #1

故【ことさら】に躋【のぼ】る 瀼岸の高きに,頗る免る 崖石に擁せらるるを。

襟を開く 野堂の豁なるに,馬を繫いで 林花動く。

雉堞 粉 雲の如し,山田 麥 壟無し。

春氣 晚に更に生じ,江流 靜に猶お湧く。


#2

四序嬰我懷,群盜久相踵。

四季を訪わず自分の胸にひっかかっていることはいろいろの盗賊どもの叛乱者が久しくあいついでおこっていることだ。

黎民困逆節,天子渴垂拱。

人民は叛逆のために困しみ、天子は垂拱無為の治平を渇望しておいでになる。

所思注東北,深峽轉修聳。

自分の思いはいつまでも東北の故郷にそそがれていて、そこへ帰りたくおもっているのだが、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。

衰老自成病,郎官未為冗。

自分は衰老で自然病気にもなっているが自分の辱くも頂戴してなる郎官の職は決してむだなものではない、その職責を果さなければならないのだ。

#2

四序 我が懷に嬰る,群盜 久しく相い踵ぐ。

黎民 逆節に困み,天子 垂拱に渴す。

所思 東北に注ぐも,深峽 轉た修聳なり。

衰老 自ら病を成し,郎官 未だ冗なりを為さず。

#3

淒其望呂葛,不復夢周孔。

濟世數嚮時,斯人各枯冢。

楚星南天黑,蜀月西霧重。

安得隨鳥翎,迫此懼將恐。

世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。

世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。

自分の居る楚蜀の西南の地ではいま星がいでても天は黒く、月がかかっても霧が重くとざしているという有様なのである。

この盗賊が跋扈して恐懼すべき際に迫られている自分は、どうにかして鳥のつばさにでもつきしたがって、故郷の方へ飛んでかへりたいと願っている次第である。

#3

淒其 呂葛を望み,復た周孔を夢みず。

濟世 嚮時を數うれば,斯の人 各の枯冢なり。

楚星 南天黑く,蜀月 西霧重し。

安んぞ得ん 鳥翎に隨うことを,此の懼れ將に恐るるに迫らる。

 

安史の乱当時の勢力図 

『晚登瀼上堂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

淒其望呂葛,不復夢周孔。

濟世數嚮時,斯人各枯冢。

楚星南天黑,蜀月西霧重。

安得隨鳥翎,迫此懼將恐。

(下し文)
#3

淒其 呂葛を望み,復た周孔を夢みず。

濟世 嚮時を數うれば,斯の人 各の枯冢なり。

楚星 南天黑く,蜀月 西霧重し。

安んぞ得ん 鳥翎に隨うことを,此の懼れ將に恐るるに迫らる。

(現代語訳)
#3

世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。

世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。

自分の居る楚蜀の西南の地ではいま星がいでても天は黒く、月がかかっても霧が重くとざしているという有様なのである。

この盗賊が跋扈して恐懼すべき際に迫られている自分は、どうにかして鳥のつばさにでもつきしたがって、故郷の方へ飛んでかへりたいと願っている次第である。

夔州東川卜居図詳細 002
(訳注) #3

晚登瀼上堂 

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

大暦二年三月、赤甲より瀼西に居を移して、ある春の晴れた時の作。

 

淒其望呂葛,不復夢周孔。

それで太公望や諸葛孔明の様な人物がでてもらいたいと望んではいるものの、さむくものがなしいじょうきょうである、それに、自分自身は衰えてきてわかい時のように周公や孔子を夢に見ることもなくなった。

19 淒其望 天子に影響を与え、夜を救うほどの力を発揮する人物が出現することを望んでいるがそれを期待できてはいない。淒は寒い様子を言う。

20 呂葛 呂尚(太公望)、諸葛亮

・呂尚(太公望) 紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。 姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。

・諸葛 は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明。 司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。

21 夢周孔 周孔は周公旦と、孔子のこと。論語、述而篇 “子曰:「甚矣,吾衰也!久矣,吾不復夢見周公!」” (子曰く:「甚だしいかな,吾れ衰るなり!久しいかな,吾れ復た夢に周公を見ず!」)

・周公旦 魯の初代の公である伯禽の父であり、周公は称号と思われる。周の西伯昌(文王)の第四子で、初代武王の同母弟である。次兄・武王の補佐を勤め、さらに武王の少子(年少の子)の成王を補佐して建国直後の周を安定させた。

・孔子 春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏は孔、諱は丘、字は仲尼。孔子とは尊称である。

 

濟世數嚮時,斯人各枯冢。

世をすくうことができるに足るほどの過去の人物をかぞへあげてみると、それらの人人、自分が尊敬していた房琯をはじめとする人々は今ではそれぞれ墳墓に埋葬されて骨となっているのである。

22 濟世 世を救う。

23 數嚮時 過去の人物を数えあげる。

24 斯人 杜甫が尊敬していた房琯グループの儒者の仲間たちを言う。張鎬、房琯、嚴武、高適、岑参、鄭虔らも同じグループである。基本に儒者たちであり、復古主義であったもの。

756年至徳元から二載 《杜甫と房琯房琯関連 1-(1) 杜甫index-5 756年房琯関連 1-(1) 杜甫<1601-1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4345 杜甫詩1500-1601-1-1040/2500

757年至徳二載 《杜甫と房琯 房琯関連 1-(2) 杜甫index-5 756年 房琯関連 1-(2) 杜甫<1601-2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4350 杜甫詩1500-1601-2-1041/2500

757年至徳二載 《杜甫と房琯房琯関連 1-(3) 杜甫index-14 764年房琯関連 1-(3) 杜甫<1601-3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4355 杜甫詩1500-1601-3-1042/2500

25 枯冢 すでにその人死んでいて墳墓に入っている。

 

楚星南天黑,蜀月西霧重。

自分の居る楚蜀の西南の地ではいま星がいでても天は黒く、月がかかっても霧が重くとざしているという有様なのである。

26 楚星 楚の國で見る星。

27 南天黑 南の天涯においても、周辺の異民族との関係が心配であることを言う。

28 蜀月西霧重 蜀において、夔州において、東北洛陽からすれば西南であり、世情不安であることを言う。

 

安得隨鳥翎,迫此懼將恐。

この盗賊が跋扈して恐懼すべき際に迫られている自分は、どうにかして鳥のつばさにでもつきしたがって、故郷の方へ飛んでかへりたいと願っている次第である。

29 安得 希望の思いを言う。

30 隨鳥翎 鳥の翅に随って東北、洛陽に還ることを言う。

31 懼將恐 困難に対してともに力を合わせて助け合おうということ。將は、詩經では、“まさに”という意味で【はた】と読ませる。《詩經、小雅谷風之什谷風》「習習谷風,維風及雨。 將恐將懼,維予與女。 將安將樂,女轉棄予。 習習谷風,維風及 將恐將懼,寘予于懷。 將安將樂,棄予如遺。 習習谷風,維山崔嵬。 無草不死,無木不萎。 忘我大德,思我小怨。」(習習たる谷風,維れ風と及び雨。 將【はた】恐れ將懼れしは,維れ予と女のみ。 將安んじ將樂めば,女轉って予を棄つ。 習習たる谷風,維れ風及び 將恐れ將懼れては,予を懷に寘く。將安んじ將樂めば,予を棄て遺れたるが如し。 習習たる谷風,維れ山の崔嵬。草として死せざ無るく,木として萎せざる無し。我が大德を忘れ,我が小怨を思う。)

 

扁舟 00

 

晚登瀼上堂  【字解】

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

大暦二年三月、赤甲より瀼西に居を移して、ある春の晴れた時の作。

1 瀼上堂 大瀼水のほとりにある杜甫の草堂。

2 故躋 深い意味があって上る。

3 崖石擁 崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることをいう。

4 繫馬林花動 堂に近いところに行くのに、花畑のそばを通って行って馬をつなぎとめるという風流な情景を言う。

5 雉堞 白帝城の姫牆が漆喰で塗られているので真っ白であることをいう。

6 粉如雲 仙界を示す雲の様である。

7 麥無壟 麦がもう少しで刈り入れができるほどに成長して、畝が見えないほど一面たわわになっている。

8 四序 春夏秋冬り節序。

9 嬰我懷 嬰はひっかかること、かかるものは下の群盗事なり。

10 群盜久 正道にさからう道、安禄山・史思明、以来全国的に謀叛、叛乱、山賊・盗賊を言う。蜀では、徐知道が反乱を起こしてから、節度使軍の中で権力闘争から叛乱することが続いている。

11 黎民 一般人民。庶民。万民。

12 困逆節 人民の平穏無事に過ごしてゆく良い循環を「群盗」らによって、乱され、苦しめられるが、それでも、納税義務は変わらずあるということで疲弊しつくすほどの苦しみを言う。

13 渴垂拱 渇は渇望、垂拱無為、垂拱は、「垂衣拱手」、人形のごとく静立し、無爲にして天下治まるをいう。

14 東北 洛陽の故郷をいう。

15 深峽 夔州の峡谷のふかいようすをいう。

16 轉修聳 修はながく続いていること、聳はそびえていることをいう。故郷に帰りたいけれど、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。

17 郎官 工部員外郎をいう。

18 未為冗 冗は余って無駄なものを言う。杜甫の郎官職を果たすことを言う。 

 

767年-15 #2杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#2 杜甫詩index-15-1113 <1563> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7212 

杜甫詩  晚登瀼上堂#2

四序嬰我懷,群盜久相踵。黎民困逆節,天子渴垂拱。

所思注東北,深峽轉修聳。衰老自成病,郎官未為冗。

四季を訪わず自分の胸にひっかかっていることはいろいろの盗賊どもの叛乱者が久しくあいついでおこっていることだ。人民は叛逆のために困しみ、天子は垂拱無為の治平を渇望しておいでになる。自分の思いはいつまでも東北の故郷にそそがれていて、そこへ帰りたくおもっているのだが、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。自分は衰老で自然病気にもなっているが自分の辱くも頂戴してなる郎官の職は決してむだなものではない、その職責を果さなければならないのだ。

767-15 #2杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#2 杜甫詩index-15-1113 <1563

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7212 

 

 
  2016年1月20日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(61)李太白集巻十二06-《夕霽杜陵登樓寄韋繇》 380-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(61) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈127《 巻四19 送廖道士序》 #5 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1647> Ⅱ#5 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7211  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-15 #2杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#2 杜甫詩index-15-1113 <1563> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7212   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八38 上行盃二首 其二 12孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 《花間集》390巻八38 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7214  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1113-1563/2500

年:767年大暦256-15 #1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    晚登瀼上堂

作地點:              奉節(山南東道 / 夔州 / 奉節)

及地點:              瀼上堂 (山南東道 夔州 奉節)           

交遊人物/地點:  

 

晚登瀼上堂 #1

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

故躋瀼岸高,頗免崖石擁。

それまで、崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることから免れることができるために、自分は、どうしても瀼水の崖の高いところにのぼってながめてみたかったのである。

開襟野堂豁,繫馬林花動。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

雉堞粉如雲,山田麥無壟。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

春氣晚更生,江流靜猶湧。

夕がたであるために、夕もやによって春の雲気は更にましてきて、大瀼水の江の流れはきよらかで静ではあるがそれでも湧きたっている。

(晚に瀼上の堂に登る) #1

故【ことさら】に躋【のぼ】る 瀼岸の高きに,頗る免る 崖石に擁せらるるを。

襟を開く 野堂の豁なるに,馬を繫いで 林花動く。

雉堞 粉 雲の如し,山田 麥 壟無し。

春氣 晚に更に生じ,江流 靜に猶お湧く。


#2

四序嬰我懷,群盜久相踵。

四季を訪わず自分の胸にひっかかっていることはいろいろの盗賊どもの叛乱者が久しくあいついでおこっていることだ。

黎民困逆節,天子渴垂拱。

人民は叛逆のために困しみ、天子は垂拱無為の治平を渇望しておいでになる。

所思注東北,深峽轉修聳。

自分の思いはいつまでも東北の故郷にそそがれていて、そこへ帰りたくおもっているのだが、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。

衰老自成病,郎官未為冗。

自分は衰老で自然病気にもなっているが自分の辱くも頂戴してなる郎官の職は決してむだなものではない、その職責を果さなければならないのだ。

#2

四序 我が懷に嬰る,群盜 久しく相い踵ぐ。

黎民 逆節に困み,天子 垂拱に渴す。

所思 東北に注ぐも,深峽 轉た修聳なり。

衰老 自ら病を成し,郎官 未だ冗なりを為さず。

#3

淒其望呂葛,不復夢周孔。

濟世數嚮時,斯人各枯冢。

楚星南天黑,蜀月西霧重。

安得隨鳥翎,迫此懼將恐。

#3

淒其 呂葛を望み,復た周孔を夢みず。

濟世 嚮時を數うれば,斯の人 各の枯冢なり。

楚星 南天黑く,蜀月 西霧重し。

安んぞ得ん 鳥翎に隨うことを,此の懼れ將に恐るるに迫らる。

 瞿塘峡・白帝城・魚復

『晚登瀼上堂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

四序嬰我懷,群盜久相踵。

黎民困逆節,天子渴垂拱。

所思注東北,深峽轉修聳。

衰老自成病,郎官未為冗。

(下し文)
#2

四序嬰我懷,群盜久相踵。

黎民困逆節,天子渴垂拱。

所思注東北,深峽轉修聳。

衰老自成病,郎官未為冗。

(現代語訳)
#2

四季を訪わず自分の胸にひっかかっていることはいろいろの盗賊どもの叛乱者が久しくあいついでおこっていることだ。

人民は叛逆のために困しみ、天子は垂拱無為の治平を渇望しておいでになる。

自分の思いはいつまでも東北の故郷にそそがれていて、そこへ帰りたくおもっているのだが、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。

自分は衰老で自然病気にもなっているが自分の辱くも頂戴してなる郎官の職は決してむだなものではない、その職責を果さなければならないのだ。


(訳注) #2

晚登瀼上堂 

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

大暦二年三月、赤甲より瀼西に居を移して、ある春の晴れた時の作。

 

四序嬰我懷,群盜久相踵。

四季を訪わず自分の胸にひっかかっていることはいろいろの盗賊どもの叛乱者が久しくあいついでおこっていることだ。

8 四序 春夏秋冬り節序。

9 嬰我懷 嬰はひっかかること、かかるものは下の群盗事なり。

10 群盜久 正道にさからう道、安禄山・史思明、以来全国的に謀叛、叛乱、山賊・盗賊を言う。蜀では、徐知道が反乱を起こしてから、節度使軍の中で権力闘争から叛乱することが続いている。

 

黎民困逆節,天子渴垂拱。

人民は叛逆のために困しみ、天子は垂拱無為の治平を渇望しておいでになる。

11 黎民 一般人民。庶民。万民。

12 困逆節 人民の平穏無事に過ごしてゆく良い循環を「群盗」らによって、乱され、苦しめられるが、それでも、納税義務は変わらずあるということで疲弊しつくすほどの苦しみを言う。

13 渴垂拱 渇は渇望、垂拱無為、垂拱は、「垂衣拱手」、人形のごとく静立し、無爲にして天下治まるをいう。

 

所思注東北,深峽轉修聳。

自分の思いはいつまでも東北の故郷にそそがれていて、そこへ帰りたくおもっているのだが、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。

14 東北 洛陽の故郷をいう。

15 深峽 夔州の峡谷のふかいようすをいう。

16 轉修聳 修はながく続いていること、聳はそびえていることをいう。故郷に帰りたいけれど、ここの深い峡はいよいよ永く、この思いを妨げるようにまたそびえている。

 

衰老自成病,郎官未為冗。

自分は衰老で自然病気にもなっているが自分の辱くも頂戴してなる郎官の職は決してむだなものではない、その職責を果さなければならないのだ。

17 郎官 工部員外郎をいう。

18 未為冗 冗は余って無駄なものを言う。杜甫の郎官職を果たすことを言う。 

 

三峡 巫山十二峰001 

 

晚登瀼上堂  【字解】

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

大暦二年三月、赤甲より瀼西に居を移して、ある春の晴れた時の作。

1 瀼上堂 大瀼水のほとりにある杜甫の草堂。

2 故躋 深い意味があって上る。

3 崖石擁 崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることをいう。

4 繫馬林花動 堂に近いところに行くのに、花畑のそばを通って行って馬をつなぎとめるという風流な情景を言う。

5 雉堞 白帝城の姫牆が漆喰で塗られているので真っ白であることをいう。

6 粉如雲 仙界を示す雲の様である。

7 麥無壟 麦がもう少しで刈り入れができるほどに成長して、畝が見えないほど一面たわわになっている。

767年-15 #1杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#1 杜甫詩index-15-1112 <1562> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7207 杜甫詩1500-1112-1562/2500

杜甫  晚登瀼上堂 #1

故躋瀼岸高,頗免崖石擁。開襟野堂豁,繫馬林花動。

雉堞粉如雲,山田麥無壟。春氣晚更生,江流靜猶湧。
(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

それまで、崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることから免れることができるために、自分は、どうしても瀼水の崖の高いところにのぼってながめてみたかったのである。城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。夕がたであるために、夕もやによって春の雲気は更にましてきて、大瀼水の江の流れはきよらかで静ではあるがそれでも湧きたっている。

767-15 #1杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#1 杜甫詩index-15-1112 <1562

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7207 杜甫詩1500-1112-1562/2500

 




 
  2016年1月19日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(61)李太白集巻十二06-《夕霽杜陵登樓寄韋繇》(浮陽滅霽景,) 380Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(61) Ⅰ李白詩1731 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7195  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈127《 巻四19 送廖道士序》 #4 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1646> Ⅱ#4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7206  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-15 #1杜甫 《18-69 晚登瀼上堂》#1 杜甫詩index-15-1112 <1562> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7207 杜甫詩1500-1112-1562/2500  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 巻八37 上行盃二首 其 孫光憲 (改訂版Ver.2.1) 『花間集』389 全詩訳注解説-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7209  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 


年:

767年大暦256-15 #1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    晚登瀼上堂

作地點:              奉節(山南東道 / 夔州 / 奉節)

及地點:              瀼上堂 (山南東道 夔州 奉節)           

交遊人物/地點:  

 

晚登瀼上堂 #1

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

故躋瀼岸高,頗免崖石擁。

それまで、崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることから免れることができるために、自分は、どうしても瀼水の崖の高いところにのぼってながめてみたかったのである。

開襟野堂豁,繫馬林花動。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

雉堞粉如雲,山田麥無壟。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

春氣晚更生,江流靜猶湧。

夕がたであるために、夕もやによって春の雲気は更にましてきて、大瀼水の江の流れはきよらかで静ではあるがそれでも湧きたっている。

(晚に瀼上の堂に登る) #1

故【ことさら】に躋【のぼ】る 瀼岸の高きに,頗る免る 崖石に擁せらるるを。

襟を開く 野堂の豁なるに,馬を繫いで 林花動く。

雉堞 粉 雲の如し,山田 麥 壟無し。

春氣 晚に更に生じ,江流 靜に猶お湧く。
#2

四序嬰我懷,群盜久相踵。

黎民困逆節,天子渴垂拱。

所思注東北,深峽轉修聳。

衰老自成病,郎官未為冗。

#3

淒其望呂葛,不復夢周孔。

濟世數嚮時,斯人各枯冢。

楚星南天黑,蜀月西霧重。

安得隨鳥翎,迫此懼將恐。

 

安史の乱当時の勢力図 

『晚登瀼上堂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

晚登瀼上堂 #1

故躋瀼岸高,頗免崖石擁。

開襟野堂豁,繫馬林花動。

雉堞粉如雲,山田麥無壟。

春氣晚更生,江流靜猶湧。

(下し文)
(晚に瀼上の堂に登る) #1

故【ことさら】に躋【のぼ】る 瀼岸の高きに,頗る免る 崖石に擁せらるるを。

襟を開く 野堂の豁なるに,馬を繫いで 林花動く。

雉堞 粉 雲の如し,山田 麥 壟無し。

春氣 晚に更に生じ,江流 靜に猶お湧く。

(現代語訳)
晚登瀼上堂 #1(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

それまで、崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることから免れることができるために、自分は、どうしても瀼水の崖の高いところにのぼってながめてみたかったのである。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

夕がたであるために、夕もやによって春の雲気は更にましてきて、大瀼水の江の流れはきよらかで静ではあるがそれでも湧きたっている。

瞿塘峡・白帝城・魚復
(訳注)

晚登瀼上堂 #1

(夕がた瀼西の堂に登りでながめ感じたることをのべた詩。)

大暦二年三月、赤甲より瀼西に居を移して、ある春の晴れた時の作。

瀼上堂 大瀼水のほとりにある杜甫の草堂。

 

故躋瀼岸高,頗免崖石擁。

それまで、崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることから免れることができるために、自分は、どうしても瀼水の崖の高いところにのぼってながめてみたかったのである。

故躋 深い意味があって上る。

崖石擁 崖石にとりかこまれて憂鬱になっていることをいう。

 

開襟野堂豁,繫馬林花動。

ここへあがって林の花が動かして馬をつなぎとめてから、野堂のひろびろとしたところで胸襟を開いてながめるのである。

繫馬林花動 堂に近いところに行くのに、花畑のそばを通って行って馬をつなぎとめるという風流な情景を言う。

 

雉堞粉如雲,山田麥無壟。

城の女牆の白壁は仙界の雲の様にみえるし、山の田に麦が成長して隴といふものがないほどみのってきている。

雉堞 白帝城の姫牆が漆喰で塗られているので真っ白であることをいう。

粉如雲 仙界を示す雲の様である。

麥無壟 麦がもう少しで刈り入れができるほどに成長して、畝が見えないほど一面たわわになっている。

 

春氣晚更生,江流靜猶湧。

夕がたであるために、夕もやによって春の雲気は更にましてきて、大瀼水の江の流れはきよらかで静ではあるがそれでも湧きたっている。

767年-14-#4杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#4 <1111> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7202

杜甫  阻雨不得歸瀼西甘林 #4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。令兒快搔背,我頭上簪
雨足があがってくれたらどうしようか、まず、あかぎの杖をつきながらけわしい山からでてゆく。それから、枝のさきになっているミカンの青い実を数え、碧水のほとりにかえってきて休息をする。つぎは、黒皮の脇息のほこりをふきとつてきれいにし、きこりや家畜飼いの歌をうれしくきこうとおもう。そうして、頭の冠の簪をぬき去って楽にし、こどもにきもちよく背をかかせることをできたらいいなと思うのである。

767-14-#4杜甫 19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#4 杜甫詩index-15-767年大暦256-14-#4 <1111 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7202

 

 
  2016年1月18日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(60)李太白集巻十二05-《望終南山寄紫閣隱者》(出門見南山,) 379Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(60) Ⅰ李白詩1732 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7200  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈127《 巻四19 送廖道士序》 #3 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1645> Ⅱ#3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7201  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-14-#4杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#4 <1111> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7202  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八36思帝鄉一首》『花間集』388全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7204  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1111-1561/2500

瀼西に移り住んでからの、杜甫の蜜柑に対する関心は、果木の美しさを観賞するという立場ではなく、あきらかに経済的、経営的な立場からのそれである。《1850_暮春題瀼西新賃草屋五首其二》(暮春に瀼西の新たに賃せる草屋に題す、五首其の二)である。767(大暦二)年、作者五十六歳の作。「此邦千樹橘、不見比封君。養拙干戈際、全生麋鹿羣。 畏人江北草、旅食瀼西雲。萬里巴渝曲、三年實飽聞。」(此()の邦(くに)の千樹の橘は、封君に比せらるるを見ず。拙を養う 干戈(カンカ)の際、生を全うす 麋鹿(ビロク)の群。人を畏る 江北の草、旅食す 瀼西の雲。みやこより万里のかなたのこの巴渝の曲、三年 実に聞くに飽く)この詩と《1916_雨に阻まれ瀼西の甘林に帰るを得ず》の詩について「よって蜜柑を植えることが杜甫の瀼西における重要な仕事となった」、「この二首の詩からみて、彼の蜜柑園もまた商品作物であり、また即ちいわゆる封殖(土寄して栽培)することである。どのように言おうとも、彼は蜜柑園をとても重視していた」(『杜甫夔州詩現地研究』二八六頁。第Ⅲ部第一章参照)と述べているとおりである。蜜柑が商品作物だから当然お金で売り買いされる。

 

年:767年大曆二年           56

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    阻雨不得歸瀼西甘林

作地點:              目前尚無資料

及地點:瀼西 (山南東道 夔州 奉節)              

草堂 (劍南道北部 益州 成都) 別名:一室、西郭茅舍  

 

 

阻雨不得歸瀼西甘林#1

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

三伏適已過,驕陽化為霖。

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。

欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。

こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。

篙工初一棄,恐泥勞寸心。

船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。

(雨に阻れて 瀼西の甘林に歸えるを得ず)

三伏 適たま已に過ぎたり,驕陽 化して 霖と為る。

瀼西の宅に歸らんと欲すれども,此の江浦の深きに阻てらる。

壞舟 百版坼く,峻岸 復た萬尋なり。

篙工 初めより一棄す,恐泥 寸心を勞す。
#2

佇立東城隅,悵望高飛禽。

それで夔州城の東にある白帝城の隅にたたすんで、高く飛ぶ鳥をうらめしく眺めている。

草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

崑崙山に隔てられたわけではないが、じぶんの瀼西の草堂が玄圃かなにかのようにめったたに往けぬ場所のようになってしまった。

昏渾衣裳外,曠同層陰。

じぶんの着ている着物以外は真っ暗で、非常に遠方まで、一様に陰気が重なっているのである。

園甘長成時,三寸如黃金。

果樹園のみかんが大きくなったときは実の大さは直徑三寸ほどあって黄金色をしている。

#2

佇立す 東城の隅,悵望す 高飛の禽。

草堂 懸圃に亂る,隔てず 崑崙の岑。

昏渾なり 衣裳の外,曠 同じく層陰。

園甘 長成せし時,三寸 黃金の如し。
#3

諸侯舊上計,厥貢傾千林。

もとは此地の長官は千林のみかんを傾けつくして中央への貢物とし會計吏とともにたてまつらせたものだ。

邦人不足重,所迫豪吏侵。

それなのに、いま土地の人人がそれを重んずるに足らぬものだとしているのは、みかんをつくっても豪吏の侵奪に迫られるからのことである。

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。

じぶんは旅住居でしばらくみかんの木を植え付け、昼も夜も瑤琴同様に愛撫した。

虛徐五株態,側塞煩胸襟。

そのなかで五株ばかりは弱った態をしているので、それをおもうと心も轉倒し塞がって胸のなかがむしゃくしゃしてくるのである。

#3

諸侯 舊 計とともに上【たてま】つる,厥の貢 千林を傾く。

邦人 重んずるに足らずとす,迫らるる所は豪吏に侵さるることになり。

客居 暫く封殖し,日夜 瑤琴に偶す。

虛徐なり 五株の態,側塞 胸襟に煩なり。
#4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

令兒快搔背,我頭上簪。

雨足があがってくれたらどうしようか、まず、あかぎの杖をつきながらけわしい山からでてゆく。

それから、枝のさきになっているミカンの青い実を数え、碧水のほとりにかえってきて休息をする。

つぎは、黒皮の脇息のほこりをふきとつてきれいにし、きこりや家畜飼いの歌をうれしくきこうとおもう。

そうして、頭の冠の簪をぬき去って楽にし、こどもにきもちよく背をかかせることをできたらいいなと思うのである。

denen03350 

 

『阻雨不得歸瀼西甘林』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

令兒快搔背,我頭上簪

(下し文)
#4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

令兒快搔背,我頭上簪

(現代語訳)
#4

雨足があがってくれたらどうしようか、まず、あかぎの杖をつきながらけわしい山からでてゆく。

それから、枝のさきになっているミカンの青い実を数え、碧水のほとりにかえってきて休息をする。

つぎは、黒皮の脇息のほこりをふきとつてきれいにし、きこりや家畜飼いの歌をうれしくきこうとおもう。

そうして、頭の冠の簪をぬき去って楽にし、こどもにきもちよく背をかかせることをできたらいいなと思うのである。

瞿塘峡・白帝城・魚復
(訳注) #4

阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

1 阻雨 長雨により河川の流量が増し、東屯から、瀼西の草堂に帰られない。

2 瀼西  杜甫が(西閣または赤甲から)瀼西へ引っ越した。

 

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

雨足があがってくれたらどうしようか、まず、あかぎの杖をつきながらけわしい山からでてゆく。

33. 焉得輟兩足 雨足があがってくれたらどうしようか、この句の “焉得” は、これより最後の句までにかかる。

34. 出嶇嶔 ミカン畑の裏山の険しい様子を言う。

 

條流數翠實,偃息歸碧潯。

それから、枝のさきになっているミカンの青い実を数え、碧水のほとりにかえってきて休息をする。

35. 條流 ミカンの木の小枝に青い実がなっている枝ぶりを言う。

36. 數翠實 ミカンの青い実を数える。得ることを考えているので凡その数が知りたいということだと思う。一枝何個か、一本の木に何個か、・・・・・。故郷に帰る資金を作るためである。

37. 偃息 寝転がって休息をとる。

38. 歸碧潯 緑色に住んで流れる大瀼水のほとりの草堂に帰る。

 

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

つぎは、黒皮の脇息のほこりをふきとつてきれいにし、きこりや家畜飼いの歌をうれしくきこうとおもう。

39 烏皮几 黒皮の脇息の汚れ、ミカンの木の間を歩いたら汚れるのでその汚れを取る。

40 樵牧音 長雨が止んで晴れれば、樵、牧童、家畜の世話や作業も楽しいので、歌いながら作業をしたりするのを聞くことを言う。

 

令兒快搔背,我頭上簪。

そうして、頭の冠の簪をぬき去って楽にし、こどもにきもちよく背をかかせることをできたらいいなと思うのである。

 

 

 

 

【字解】阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

1 阻雨 長雨により河川の流量が増し、東屯から、瀼西の草堂に帰られない。

2 瀼西  杜甫が(西閣または赤甲から)瀼西へ引っ越したことは、いろいろな詩から総合的に判断できることであるが、より直接的には以下の詩からわかる。

それは1813_瀼西寒望》の詩に、瀼西への引っ越し計画を、

瀼西寒望

(瀼西の寒望)

【夔人以澗水通江者為瀼,大昌縣西有千頃池,水分三道,其一南流奉節縣,為西瀼水。】

【夔人 以て澗水江に通ずる者は瀼と為し,大昌縣 西に千頃の池有り,水 三道に分れ,其の一 南に奉節縣に流る,西瀼水と為す。】

水色含群動,朝光切太虛。

水色 群動を含む、朝光 太虚に切なり。

年侵頻悵望,興遠一蕭疏。

年侵して 頻りに帳望す、興遠くして一に蕭疏たり。

猿挂時相學,鷗行炯自如。

猿挂かりて時に相学ぶ、鴎行く 炯として自如たり。

瞿唐春欲至,定卜瀼西居。

瞿唐 春 至らんと欲す、定めて卜せん瀼西の居。

と述べており、そして実際に1850_暮春に、瀼西の新たに賃せし草屋に題す》の五首連作の詩を作っているからである。

暮春題瀼西新賃草屋,五首之一                   久嗟三峽客,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之二                   此邦千樹橘,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之三                   綵雲陰復白,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之四                   壯年學書劍,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之五                   欲陳濟世策,

3 甘林 瀼西の住まいはこの段階ではまだ賃借りの状態であるが、その後間もなく杜甫によって買い上げられ、その住宅には果園も付属していたと考えられる。その証拠となる詩は、次の四首である。大暦二年の秋、その住宅を杜甫の娘婿の呉郎に、貸し与えることを述べた2043_呉郎司法に簡す》の詩に、

郎司法

郎司法に簡す

有客乘舸自忠州,遣騎安置瀼西頭。

客有り乘舸にじて忠州よりし,騎を遣わし 安置せしむ瀼西の頭り。

古堂本買藉疏豁,借汝遷居停宴遊。

古堂 本と買いしは 疏豁に藉る、汝に借して居を遷さしめ 宴遊を停めしめん

雲石熒熒高葉曙,風江颯颯亂帆秋。

雲石熒熒たり 高葉の曙,風江 颯颯たり亂帆の秋。

卻為姻婭過逢地,許坐曾軒數散愁。

卻て姻婭 過逢の地を為し,曾軒に坐して數しば散愁をずることを許さんや。

と述べ、その年の晩秋の767年 《巻20-65小園》の詩には、

小園

 

由來巫峽水,本自楚人家。

由來 巫峽の水,本自り楚人の家。

客病留因藥,春深買為花。

(たび)に病んで 留まるは薬に因る,春深くして 買うは花の為なり。

秋庭風落果,瀼岸雨沙。

秋庭 風果を落す,瀼岸 雨 沙を

問俗營寒事,將詩待物華。

俗の問いて 寒事を營む,詩を將て物華を待つ。

とあって、詩題にいう小園を晩春に買ったと述べているからである。この小園については浦起竜も「瀼西の果園なり」「買うとは園を買うにして、花を買うには非ざるなり」(巻三之六)というように、瀼西の四十畝のそれであったろう。そしてその果園が瀼西宅に附属していたものであることは、《20-66寒雨朝行視園樹寒雨に朝行きて園の樹を視る)の詩に「わが柴門は樹を擁して千株に向(なんな)んとす」とあることからわかる。千株は「千橘」の典故を意識した千本にも近い蜜柑の木を意味する。

寒雨朝行視園樹

柴門雜樹向千株,丹橘黃甘此地無。

江上今朝寒雨歇,籬中秀色畫屏紆。

桃蹊李徑年雖故,梔子紅椒豔復殊。

鎖石藤稍元自落,倚天松骨見來枯。

林香出實垂將盡,葉蒂辭枝不重蘇。

愛日恩光蒙借貸,清霜殺氣得憂虞。

衰顏更覓藜床坐,緩步仍須竹杖扶。

散騎未知雲閣處,啼猿僻在楚山隅。

さらに翌年正月、夔州を去るに当たって、その家屋と果園の不動産を南卿兄という人物に贈ることを詩題にした2138_将に巫峡に別れんとして南卿兄に瀼西の果園四十畝を贈る》の詩が作られている。果園が何ヶ所でどこにあったかなどについては異説があるが、全体としてこの通説は正しいであろう。「瀼西宅」(《1917_阻雨不得歸瀼西甘林》による)に住んだのは、東屯に一時移り住み呉郎に貸し与えた時期を考慮外とし、多く見積もったとしても大暦二年の暮春三月から翌年正月まで十ヶ月足らずである。

 大暦二(七六七)年、五十六歳の杜甫が、野菜作りや稲田・蜜柑園の管理経営に力を入れるのが、この瀼西(東屯)に住んでいた一時期である。

4 三伏 三伏(さんぷく)とは、陰陽五行説に基づく選日の1つで、初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の3回の庚の日を三伏とする。夏至以後の3回目・4回目と立秋以後の最初の庚の日をそれぞれ初伏・中伏・末伏とする。

5 驕陽 威張っていた陽気。

6 霖 長雨。

7 瀼西宅 杜甫の瀼西の草堂。

8 江浦深 大瀼水が長雨によって増水して流れが速くなり、水深が深くなったこと言う。

9 百版坼 船の多くの板材が裂する。

10 篙工 船頭、船夫。

11 恐泥 泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。《19-09 .槐葉冷淘》「路遠思恐泥,興深終不渝。」(路 遠くして 恐泥を思う,興 深くして 終に渝らず。)「論語」子張篇に、枝葉末節の技芸にこだわらず本質的な大義を果たすことの重要性を述べた部分で「子夏曰、雖小道必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子不為也」(子夏曰わく、小道(しょうどう)と雖も(いえども)必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥(なず)まんことを恐る、是(ここ)を以て君子は為さざるなり。子夏が言った。『小さな技芸の道であっても、見るべき部分はあるものだ。しかし、究極まで道を極めようとすれば、小さな技芸は邪魔になる。だから、君子は小さな道を行かないのである、とある。泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。

767年-9-#2杜甫 《19-09 .槐葉冷淘》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-9-#2 <1086 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7110 

12 佇立 じっと佇んで待つ。

13 東城隅 夔州城の東にある白帝城のすみ。

14 悵望 心をいためて思いやること。うらめしげに見やること。

15 亂懸圃 山頂にかかる屋上庭園がまぎれる。東屯側から見れば赤甲山が崑崙山であり、杜甫のミカン園がその山の懸圃であり、大瀼水を間に挟んで対岸から見て乱れていることを表現している。

16 崑崙岑 中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。 崑崙奴とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。岑とは、みね。山が切りたった高い所。また、鋭く切り込んだように険しいさま。 高くて先がとがる。けわしい。するどい。

17 昏渾衣裳外 雨空がどんよりとし、谷合は暗くなっていることを表現している。

18 曠 非常に遠方までをいう。

19 層陰 雲が重層し、靄が覆うほど、重なった陰気。

20 園甘長成時 果樹園のみかんが大きく成長すれば。

21 三寸 ミカンの直径。

22 黃金 ミカンの色を言う。

23 諸侯 地方長官。

24 舊上計 計は会計報告吏。上計とはその会計計報告吏が中央に帰ってゆくときに朝廷へたてまつるならいをいう。

25 厥貢 其の土地の貢、夔州の土産品を貢ぐこと。

26 傾千林 たくさんのミカンの木からミカンを取りつくす意。

27 邦人 この土地の人人。

28 豪吏侵 勢力のある官吏である豪吏がその役目をかさに着て農民が作ったミカンを侵奪すること。杜甫には、地方役人の横暴を詠ったものに三吏三別の作品がある。

石壕吏 杜甫 三吏三別詩<216>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブロ1028 杜甫詩集700- 307 : 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩 杜甫詩1000

29 封殖 土を盛り植える。

30 偶瑤琴 偶は偶匹、匹敵することを言う。“瑤琴に偶す”とは、瑤琴をとても愛撫するごとくミカンの木を愛撫するをいう。

31 虚徐 虚邪とおなじで、《詩經・邶風、北風篇》「其虛其邪?既亟只且!」(其れ虛 其れ邪?既に亟【すみや】かなり!)に基づく虚邪(邪の音は徐)である。虚邪にゆるやかなる貌。蓋し柑樹の衰弱したさまをいうのである。

32 側塞 かたむき、ふさがる。平正を失い、開散することができない。ミカン畑のことが心配でならないことを言う。
夔州東川卜居図詳細 002扁舟 00 

767年-14-#3杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#3 <1110> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7197

杜甫  阻雨不得歸瀼西甘林 #3

諸侯舊上計,厥貢傾千林。邦人不足重,所迫豪吏侵。

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。虛徐五株態,側塞煩胸襟。

もとは此地の長官は千林のみかんを傾けつくして中央への貢物とし會計吏とともにたてまつらせたものだ。それなのに、いま土地の人人がそれを重んずるに足らぬものだとしているのは、みかんをつくっても豪吏の侵奪に迫られるからのことである。じぶんは旅住居でしばらくみかんの木を植え付け、昼も夜も瑤琴同様に愛撫した。そのなかで五株ばかりは弱った態をしているので、それをおもうと心も轉倒し塞がって胸のなかがむしゃくしゃしてくるのである。

767-14-#3杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#3 杜甫詩index-15-767年大暦256-14-#3 <1110> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7197

 

 

 
 2016年1月17日の紀頌之5つのBlog 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
LiveDoorBlog
743年(59)李太白集卷八36-《贈盧徵君昆弟》#2 378-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(59) Ⅰ李白詩1731 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7195 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> 
 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈127《 巻四19 送廖道士序》 #2 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1644> Ⅱ#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7196 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog767年-14-#3杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#3 <1110> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7197 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog12孫光憲《巻八35竹枝二首其二》『花間集』387全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7199 
 薛濤の全詩花間集(1巻花間集(2巻花間集(3巻花間集(4巻花間集(5巻 
 魚玄機全詩花間集(6巻花間集(7巻花間集(8巻花間集(9巻花間集10巻 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
  ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門)漢詩総合サイト 07ch 
 杜甫全詩案内韓愈全詩案内李白全集文選古詩源花間集案内 
 

 

 

杜甫詩1500-1110-1560/2500

瀼西に移り住んでからの、杜甫の蜜柑に対する関心は、果木の美しさを観賞するという立場ではなく、あきらかに経済的、経営的な立場からのそれである。《1850_暮春題瀼西新賃草屋五首其二》(暮春に瀼西の新たに賃せる草屋に題す、五首其の二)である。767(大暦二)年、作者五十六歳の作。「此邦千樹橘、不見比封君。養拙干戈際、全生麋鹿羣。 畏人江北草、旅食瀼西雲。萬里巴渝曲、三年實飽聞。」(此()の邦(くに)の千樹の橘は、封君に比せらるるを見ず。拙を養う 干戈(カンカ)の際、生を全うす 麋鹿(ビロク)の群。人を畏る 江北の草、旅食す 瀼西の雲。みやこより万里のかなたのこの巴渝の曲、三年 実に聞くに飽く)この詩と《1916_雨に阻まれ瀼西の甘林に帰るを得ず》の詩について「よって蜜柑を植えることが杜甫の瀼西における重要な仕事となった」、「この二首の詩からみて、彼の蜜柑園もまた商品作物であり、また即ちいわゆる封殖(土寄して栽培)することである。どのように言おうとも、彼は蜜柑園をとても重視していた」(『杜甫夔州詩現地研究』二八六頁。第Ⅲ部第一章参照)と述べているとおりである。蜜柑が商品作物だから当然お金で売り買いされる。

 

年:767年大曆二年           56

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    阻雨不得歸瀼西甘林

作地點:              目前尚無資料

及地點:瀼西 (山南東道 夔州 奉節)              

草堂 (劍南道北部 益州 成都) 別名:一室、西郭茅舍  

 

 

阻雨不得歸瀼西甘林#1

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

三伏適已過,驕陽化為霖。

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。

欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。

こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。

篙工初一棄,恐泥勞寸心。

船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。

(雨に阻れて 瀼西の甘林に歸えるを得ず)

三伏 適たま已に過ぎたり,驕陽 化して 霖と為る。

瀼西の宅に歸らんと欲すれども,此の江浦の深きに阻てらる。

壞舟 百版坼く,峻岸 復た萬尋なり。

篙工 初めより一棄す,恐泥 寸心を勞す。
#2

佇立東城隅,悵望高飛禽。

それで夔州城の東にある白帝城の隅にたたすんで、高く飛ぶ鳥をうらめしく眺めている。

草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

崑崙山に隔てられたわけではないが、じぶんの瀼西の草堂が玄圃かなにかのようにめったたに往けぬ場所のようになってしまった。

昏渾衣裳外,曠同層陰。

じぶんの着ている着物以外は真っ暗で、非常に遠方まで、一様に陰気が重なっているのである。

園甘長成時,三寸如黃金。

果樹園のみかんが大きくなったときは実の大さは直徑三寸ほどあって黄金色をしている。

#2

佇立す 東城の隅,悵望す 高飛の禽。

草堂 懸圃に亂る,隔てず 崑崙の岑。

昏渾なり 衣裳の外,曠 同じく層陰。

園甘 長成せし時,三寸 黃金の如し。
#3

諸侯舊上計,厥貢傾千林。

もとは此地の長官は千林のみかんを傾けつくして中央への貢物とし會計吏とともにたてまつらせたものだ。

邦人不足重,所迫豪吏侵。

それなのに、いま土地の人人がそれを重んずるに足らぬものだとしているのは、みかんをつくっても豪吏の侵奪に迫られるからのことである。

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。

じぶんは旅住居でしばらくみかんの木を植え付け、昼も夜も瑤琴同様に愛撫した。

虛徐五株態,側塞煩胸襟。

そのなかで五株ばかりは弱った態をしているので、それをおもうと心も轉倒し塞がって胸のなかがむしゃくしゃしてくるのである。

#3

諸侯 舊 計とともに上【たてま】つる,厥の貢 千林を傾く。

邦人 重んずるに足らずとす,迫らるる所は豪吏に侵さるることになり。

客居 暫く封殖し,日夜 瑤琴に偶す。

虛徐なり 五株の態,側塞 胸襟に煩なり。
#4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

令兒快搔背,我頭上簪。

瞿塘峡・白帝城・魚復 

 

『阻雨不得歸瀼西甘林』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

諸侯舊上計,厥貢傾千林。

邦人不足重,所迫豪吏侵。

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。

虛徐五株態,側塞煩胸襟。

(下し文)
#3

諸侯 舊 計とともに上【たてま】つる,厥の貢 千林を傾く。

邦人 重んずるに足らずとす,迫らるる所は豪吏に侵さるることになり。

客居 暫く封殖し,日夜 瑤琴に偶す。

虛徐なり 五株の態,側塞 胸襟に煩なり。

(現代語訳)
#3

もとは此地の長官は千林のみかんを傾けつくして中央への貢物とし會計吏とともにたてまつらせたものだ。

それなのに、いま土地の人人がそれを重んずるに足らぬものだとしているのは、みかんをつくっても豪吏の侵奪に迫られるからのことである。

じぶんは旅住居でしばらくみかんの木を植え付け、昼も夜も瑤琴同様に愛撫した。

そのなかで五株ばかりは弱った態をしているので、それをおもうと心も轉倒し塞がって胸のなかがむしゃくしゃしてくるのである。


(訳注) #3

阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

 

諸侯舊上計,厥貢傾千林。

もとは此地の長官は千林のみかんを傾けつくして中央への貢物とし會計吏とともにたてまつらせたものだ。

23 諸侯 地方長官。

24 舊上計 計は会計報告吏。上計とはその会計計報告吏が中央に帰ってゆくときに朝廷へたてまつるならいをいう。

25 厥貢 其の土地の貢、夔州の土産品を貢ぐこと。

26 傾千林 たくさんのミカンの木からミカンを取りつくす意。

 

邦人不足重,所迫豪吏侵。

それなのに、いま土地の人人がそれを重んずるに足らぬものだとしているのは、みかんをつくっても豪吏の侵奪に迫られるからのことである。

27 邦人 この土地の人人。

28 豪吏侵 勢力のある官吏である豪吏がその役目をかさに着て農民が作ったミカンを侵奪すること。杜甫には、地方役人の横暴を詠ったものに三吏三別の作品がある。

石壕吏 杜甫 三吏三別詩<216>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1028 杜甫詩集700- 307 : 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩 杜甫詩1000

 

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。

じぶんは旅住居でしばらくみかんの木を植え付け、昼も夜も瑤琴同様に愛撫した。

29 封殖 土を盛り植える。

30 偶瑤琴 偶は偶匹、匹敵することを言う。“瑤琴に偶す”とは、瑤琴をとても愛撫するごとくミカンの木を愛撫するをいう。

 

虛徐五株態,側塞煩胸襟。

そのなかで五株ばかりは弱った態をしているので、それをおもうと心も轉倒し塞がって胸のなかがむしゃくしゃしてくるのである。

31 虚徐 虚邪とおなじで、《詩經・邶風、北風篇》「其虛其邪?既亟只且!」(其れ虛 其れ邪?既に亟【すみや】かなり!)に基づく虚邪(邪の音は徐)である。虚邪にゆるやかなる貌。蓋し柑樹の衰弱したさまをいうのである。

32 側塞 かたむき、ふさがる。平正を失い、開散することができない。ミカン畑のことが心配でならないことを言う。

 

夔州東川卜居図詳細 002 

【字解】阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

1 阻雨 長雨により河川の流量が増し、東屯から、瀼西の草堂に帰られない。

2 瀼西  杜甫が(西閣または赤甲から)瀼西へ引っ越したことは、いろいろな詩から総合的に判断できることであるが、より直接的には以下の詩からわかる。

それは1813_瀼西寒望》の詩に、瀼西への引っ越し計画を、

瀼西寒望

(瀼西の寒望)

【夔人以澗水通江者為瀼,大昌縣西有千頃池,水分三道,其一南流奉節縣,為西瀼水。】

【夔人 以て澗水江に通ずる者は瀼と為し,大昌縣 西に千頃の池有り,水 三道に分れ,其の一 南に奉節縣に流る,西瀼水と為す。】

水色含群動,朝光切太虛。

水色 群動を含む、朝光 太虚に切なり。

年侵頻悵望,興遠一蕭疏。

年侵して 頻りに帳望す、興遠くして一に蕭疏たり。

猿挂時相學,鷗行炯自如。

猿挂かりて時に相学ぶ、鴎行く 炯として自如たり。

瞿唐春欲至,定卜瀼西居。

瞿唐 春 至らんと欲す、定めて卜せん瀼西の居。

と述べており、そして実際に1850_暮春に、瀼西の新たに賃せし草屋に題す》の五首連作の詩を作っているからである。

暮春題瀼西新賃草屋,五首之一                          久嗟三峽客,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之二                          此邦千樹橘,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之三                          綵雲陰復白,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之四                          壯年學書劍,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之五                          欲陳濟世策,

3 甘林 瀼西の住まいはこの段階ではまだ賃借りの状態であるが、その後間もなく杜甫によって買い上げられ、その住宅には果園も付属していたと考えられる。その証拠となる詩は、次の四首である。大暦二年の秋、その住宅を杜甫の娘婿の呉郎に、貸し与えることを述べた2043_呉郎司法に簡す》の詩に、

郎司法

郎司法に簡す

有客乘舸自忠州,遣騎安置瀼西頭。

客有り乘舸にじて忠州よりし,騎を遣わし 安置せしむ瀼西の頭り。

古堂本買藉疏豁,借汝遷居停宴遊。

古堂 本と買いしは 疏豁に藉る、汝に借して居を遷さしめ 宴遊を停めしめん

雲石熒熒高葉曙,風江颯颯亂帆秋。

雲石熒熒たり 高葉の曙,風江 颯颯たり亂帆の秋。

卻為姻婭過逢地,許坐曾軒數散愁。

卻て姻婭 過逢の地を為し,曾軒に坐して數しば散愁をずることを許さんや。

と述べ、その年の晩秋の767年 《巻20-65小園》の詩には、

小園

 

由來巫峽水,本自楚人家。

由來 巫峽の水,本自り楚人の家。

客病留因藥,春深買為花。

(たび)に病んで 留まるは薬に因る,春深くして 買うは花の為なり。

秋庭風落果,瀼岸雨沙。

秋庭 風果を落す,瀼岸 雨 沙を

問俗營寒事,將詩待物華。

俗の問いて 寒事を營む,詩を將て物華を待つ。

とあって、詩題にいう小園を晩春に買ったと述べているからである。この小園については浦起竜も「瀼西の果園なり」「買うとは園を買うにして、花を買うには非ざるなり」(巻三之六)というように、瀼西の四十畝のそれであったろう。そしてその果園が瀼西宅に附属していたものであることは、《20-66寒雨朝行視園樹寒雨に朝行きて園の樹を視る)の詩に「わが柴門は樹を擁して千株に向(なんな)んとす」とあることからわかる。千株は「千橘」の典故を意識した千本にも近い蜜柑の木を意味する。

寒雨朝行視園樹

柴門雜樹向千株,丹橘黃甘此地無。

江上今朝寒雨歇,籬中秀色畫屏紆。

桃蹊李徑年雖故,梔子紅椒豔復殊。

鎖石藤稍元自落,倚天松骨見來枯。

林香出實垂將盡,葉蒂辭枝不重蘇。

愛日恩光蒙借貸,清霜殺氣得憂虞。

衰顏更覓藜床坐,緩步仍須竹杖扶。

散騎未知雲閣處,啼猿僻在楚山隅。

さらに翌年正月、夔州を去るに当たって、その家屋と果園の不動産を南卿兄という人物に贈ることを詩題にした2138_将に巫峡に別れんとして南卿兄に瀼西の果園四十畝を贈る》の詩が作られている。果園が何ヶ所でどこにあったかなどについては異説があるが、全体としてこの通説は正しいであろう。「瀼西宅」(《1917_阻雨不得歸瀼西甘林》による)に住んだのは、東屯に一時移り住み呉郎に貸し与えた時期を考慮外とし、多く見積もったとしても大暦二年の暮春三月から翌年正月まで十ヶ月足らずである。

 大暦二(七六七)年、五十六歳の杜甫が、野菜作りや稲田・蜜柑園の管理経営に力を入れるのが、この瀼西(東屯)に住んでいた一時期である。

4 三伏 三伏(さんぷく)とは、陰陽五行説に基づく選日の1つで、初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の3回の庚の日を三伏とする。夏至以後の3回目・4回目と立秋以後の最初の庚の日をそれぞれ初伏・中伏・末伏とする。

5 驕陽 威張っていた陽気。

6 霖 長雨。

7 瀼西宅 杜甫の瀼西の草堂。

8 江浦深 大瀼水が長雨によって増水して流れが速くなり、水深が深くなったこと言う。

9 百版坼 船の多くの板材が裂する。

10 篙工 船頭、船夫。

11 恐泥 泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。《19-09 .槐葉冷淘》「路遠思恐泥,興深終不渝。」(路 遠くして 恐泥を思う,興 深くして 終に渝らず。)「論語」子張篇に、枝葉末節の技芸にこだわらず本質的な大義を果たすことの重要性を述べた部分で「子夏曰、雖小道必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子不為也」(子夏曰わく、小道(しょうどう)と雖も(いえども)必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥(なず)まんことを恐る、是(ここ)を以て君子は為さざるなり。子夏が言った。『小さな技芸の道であっても、見るべき部分はあるものだ。しかし、究極まで道を極めようとすれば、小さな技芸は邪魔になる。だから、君子は小さな道を行かないのである、とある。泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。

767年-9-#2杜甫 《19-09 .槐葉冷淘》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-9-#2 <1086 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7110 

12 佇立 じっと佇んで待つ。

13 東城隅 夔州城の東にある白帝城のすみ。

14 悵望 心をいためて思いやること。うらめしげに見やること。

15 亂懸圃 山頂にかかる屋上庭園がまぎれる。東屯側から見れば赤甲山が崑崙山であり、杜甫のミカン園がその山の懸圃であり、大瀼水を間に挟んで対岸から見て乱れていることを表現している。

16 崑崙岑 中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。 崑崙奴とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。岑とは、みね。山が切りたった高い所。また、鋭く切り込んだように険しいさま。 高くて先がとがる。けわしい。するどい。

17 昏渾衣裳外 雨空がどんよりとし、谷合は暗くなっていることを表現している。

18 曠 非常に遠方までをいう。

19 層陰 雲が重層し、靄が覆うほど、重なった陰気。

20 園甘長成時 果樹園のみかんが大きく成長すれば。

21 三寸 ミカンの直径。

22 黃金 ミカンの色を言う。

767年-14-#2杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#2 <1109> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7192

杜甫  阻雨不得歸瀼西甘林 #2

佇立東城隅,悵望高飛禽。草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

昏渾衣裳外,曠同層陰。園甘長成時,三寸如黃金。

それで夔州城の東にある白帝城の隅にたたすんで、高く飛ぶ鳥をうらめしく眺めている。崑崙山に隔てられたわけではないが、じぶんの瀼西の草堂が玄圃かなにかのようにめったたに往けぬ場所のようになってしまった。じぶんの着ている着物以外は真っ暗で、非常に遠方まで、一様に陰気が重なっているのである。果樹園のみかんが大きくなったときは実の大さは直徑三寸ほどあって黄金色をしている。

767-14-#2杜甫 19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#2 杜甫詩index-15-767年大暦256-14-#2 <1109 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7192

 

 
  2016年1月16日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(59)李太白集卷八36-#1《贈盧徵君昆弟》(明主訪賢逸,) 378Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(59) Ⅰ李白詩1729 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7185  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈127《 巻四19 送廖道士序》 #1 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1643> Ⅱ#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7191  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-14-#2杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#2 <1109> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7192  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八34竹枝二首其一》『花間集』386全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7194  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1109-1561/2500

瀼西に移り住んでからの、杜甫の蜜柑に対する関心は、果木の美しさを観賞するという立場ではなく、あきらかに経済的、経営的な立場からのそれである。それについては簡錦松氏も、この詩と《1916_雨に阻まれ瀼西の甘林に帰るを得ず》の詩について「よって蜜柑を植えることが杜甫の瀼西における重要な仕事となった」、「この二首の詩からみて、彼の蜜柑園もまた商品作物であり、また即ちいわゆる封殖(土寄して栽培)することである。どのように言おうとも、彼は蜜柑園をとても重視していた」(『杜甫夔州詩現地研究』二八六頁。第Ⅲ部第一章参照)と述べているとおりである。蜜柑が商品作物だから当然お金で売り買いされる。

 

年:767年大曆二年           56

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    阻雨不得歸瀼西甘林

作地點:              目前尚無資料

及地點:瀼西 (山南東道 夔州 奉節)              

草堂 (劍南道北部 益州 成都) 別名:一室、西郭茅舍  

 

 

阻雨不得歸瀼西甘林#1

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

三伏適已過,驕陽化為霖。

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。

欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。

こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。

篙工初一棄,恐泥勞寸心。

船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。

(雨に阻れて 瀼西の甘林に歸えるを得ず)

三伏 適たま已に過ぎたり,驕陽 化して 霖と為る。

瀼西の宅に歸らんと欲すれども,此の江浦の深きに阻てらる。

壞舟 百版坼く,峻岸 復た萬尋なり。

篙工 初めより一棄す,恐泥 寸心を勞す。
#2

佇立東城隅,悵望高飛禽。

草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

昏渾衣裳外,曠同層陰。

園甘長成時,三寸如黃金。

それで夔州城の東にある白帝城の隅にたたすんで、高く飛ぶ鳥をうらめしく眺めている。

崑崙山に隔てられたわけではないが、じぶんの瀼西の草堂が玄圃かなにかのようにめったたに往けぬ場所のようになってしまった。

じぶんの着ている着物以外は真っ暗で、非常に遠方まで、一様に陰気が重なっているのである。

果樹園のみかんが大きくなったときは実の大さは直徑三寸ほどあって黄金色をしている。

#2

佇立す 東城の隅,悵望す 高飛の禽。

草堂 懸圃に亂る,隔てず 崑崙の岑。

昏渾なり 衣裳の外,曠 同じく層陰。

園甘 長成せし時,三寸 黃金の如し。
#3

諸侯舊上計,厥貢傾千林。

邦人不足重,所迫豪吏侵。

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。

虛徐五株態,側塞煩胸襟。

#4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

令兒快搔背,我頭上簪。

 

16shisenseitomap瞿塘峡・白帝城・魚復 

『阻雨不得歸瀼西甘林』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

佇立東城隅,悵望高飛禽。

草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

昏渾衣裳外,曠同層陰。

園甘長成時,三寸如黃金。

(下し文)
#2

佇立す 東城の隅,悵望す 高飛の禽。

草堂 懸圃に亂る,隔てず 崑崙の岑。

昏渾なり 衣裳の外,曠 同じく層陰。

園甘 長成せし時,三寸 黃金の如し。

(現代語訳)
#2

それで夔州城の東にある白帝城の隅にたたすんで、高く飛ぶ鳥をうらめしく眺めている。

崑崙山に隔てられたわけではないが、じぶんの瀼西の草堂が玄圃かなにかのようにめったたに往けぬ場所のようになってしまった。

じぶんの着ている着物以外は真っ暗で、非常に遠方まで、一様に陰気が重なっているのである。

果樹園のみかんが大きくなったときは実の大さは直徑三寸ほどあって黄金色をしている。


(訳注) #2

阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

1 阻雨 長雨により河川の流量が増し、東屯から、瀼西の草堂に帰られない。

 

佇立東城隅,悵望高飛禽。

それで夔州城の東にある白帝城の隅にたたすんで、高く飛ぶ鳥をうらめしく眺めている。

12 佇立 じっと佇んで待つ。

13 東城隅 夔州城の東にある白帝城のすみ。

14 悵望 心をいためて思いやること。うらめしげに見やること。

 

草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

崑崙山に隔てられたわけではないが、じぶんの瀼西の草堂が玄圃かなにかのようにめったたに往けぬ場所のようになってしまった。

15 亂懸圃 山頂にかかる屋上庭園がまぎれる。東屯側から見れば赤甲山が崑崙山であり、杜甫のミカン園がその山の懸圃であり、大瀼水を間に挟んで対岸から見て乱れていることを表現している。

16 崑崙岑 中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。 崑崙奴とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。岑とは、みね。山が切りたった高い所。また、鋭く切り込んだように険しいさま。 高くて先がとがる。けわしい。するどい。

 

昏渾衣裳外,曠同層陰。

じぶんの着ている着物以外は真っ暗で、非常に遠方まで、一様に陰気が重なっているのである。

17 昏渾衣裳外 雨空がどんよりとし、谷合は暗くなっていることを表現している。

18 曠 非常に遠方までをいう。

19 層陰 雲が重層し、靄が覆うほど、重なった陰気。

 

園甘長成時,三寸如黃金。

果樹園のみかんが大きくなったときは実の大さは直徑三寸ほどあって黄金色をしている。

20 園甘長成時 果樹園のみかんが大きく成長すれば。

21 三寸 ミカンの直径。

22 黃金 ミカンの色を言う。

 

 

 

 

 

 

 

【字解】阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

1 阻雨 長雨により河川の流量が増し、東屯から、瀼西の草堂に帰られない。

2 瀼西  杜甫が(西閣または赤甲から)瀼西へ引っ越したことは、いろいろな詩から総合的に判断できることであるが、より直接的には以下の詩からわかる。

それは1813_瀼西寒望》の詩に、瀼西への引っ越し計画を、

瀼西寒望

(瀼西の寒望)

【夔人以澗水通江者為瀼,大昌縣西有千頃池,水分三道,其一南流奉節縣,為西瀼水。】

【夔人 以て澗水江に通ずる者は瀼と為し,大昌縣 西に千頃の池有り,水 三道に分れ,其の一 南に奉節縣に流る,西瀼水と為す。】

水色含群動,朝光切太虛。

水色 群動を含む、朝光 太虚に切なり。

年侵頻悵望,興遠一蕭疏。

年侵して 頻りに帳望す、興遠くして一に蕭疏たり。

猿挂時相學,鷗行炯自如。

猿挂かりて時に相学ぶ、鴎行く 炯として自如たり。

瞿唐春欲至,定卜瀼西居。

瞿唐 春 至らんと欲す、定めて卜せん瀼西の居。

と述べており、そして実際に1850_暮春に、瀼西の新たに賃せし草屋に題す》の五首連作の詩を作っているからである。

暮春題瀼西新賃草屋,五首之一                          久嗟三峽客,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之二                          此邦千樹橘,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之三                          綵雲陰復白,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之四                          壯年學書劍,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之五                          欲陳濟世策,

3 甘林 瀼西の住まいはこの段階ではまだ賃借りの状態であるが、その後間もなく杜甫によって買い上げられ、その住宅には果園も付属していたと考えられる。その証拠となる詩は、次の四首である。大暦二年の秋、その住宅を杜甫の娘婿の呉郎に、貸し与えることを述べた2043_呉郎司法に簡す》の詩に、

簡呉郎司法

郎司法

 

有客乘舸自忠州,遣騎安置瀼西頭。

 

古堂本買藉疏豁,借汝遷居停宴遊。

古堂 本と買いしは 疏豁に藉る、汝に借して居を遷さしめ 宴遊を停めしめん

雲石熒熒高葉曙,風江颯颯亂帆秋。

 

卻為姻婭過逢地,許坐曾軒數散愁。

 

と述べ、その年の晩秋の767年 《巻20-65小園》の詩には、

小園

 

由來巫峽水,本自楚人家。

 

客病留因藥,春深買為花。

(たび)に病んで 留まるは薬に因る,春深くして 買うは花の為なり。

秋庭風落果,瀼岸雨沙。

 

問俗營寒事,將詩待物華。

 

とあって、詩題にいう小園を晩春に買ったと述べているからである。この小園については浦起竜も「瀼西の果園なり」「買うとは園を買うにして、花を買うには非ざるなり」(巻三之六)というように、瀼西の四十畝のそれであったろう。そしてその果園が瀼西宅に附属していたものであることは、《20-66寒雨朝行視園樹寒雨に朝行きて園の樹を視る)の詩に「わが柴門は樹を擁して千株に向(なんな)んとす」とあることからわかる。千株は「千橘」の典故を意識した千本にも近い蜜柑の木を意味する。

寒雨朝行視園樹

柴門雜樹向千株,丹橘黃甘此地無。

江上今朝寒雨歇,籬中秀色畫屏紆。

桃蹊李徑年雖故,梔子紅椒豔復殊。

鎖石藤稍元自落,倚天松骨見來枯。

林香出實垂將盡,葉蒂辭枝不重蘇。

愛日恩光蒙借貸,清霜殺氣得憂虞。

衰顏更覓藜床坐,緩步仍須竹杖扶。

散騎未知雲閣處,啼猿僻在楚山隅。

さらに翌年正月、夔州を去るに当たって、その家屋と果園の不動産を南卿兄という人物に贈ることを詩題にした2138_将に巫峡に別れんとして南卿兄に瀼西の果園四十畝を贈る》の詩が作られている。果園が何ヶ所でどこにあったかなどについては異説があるが、全体としてこの通説は正しいであろう。「瀼西宅」(《1917_阻雨不得歸瀼西甘林》による)に住んだのは、東屯に一時移り住み呉郎に貸し与えた時期を考慮外とし、多く見積もったとしても大暦二年の暮春三月から翌年正月まで十ヶ月足らずである。

 大暦二(七六七)年、五十六歳の杜甫が、野菜作りや稲田・蜜柑園の管理経営に力を入れるのが、この瀼西(東屯)に住んでいた一時期である。

4 三伏 三伏(さんぷく)とは、陰陽五行説に基づく選日の1つで、初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の3回の庚の日を三伏とする。夏至以後の3回目・4回目と立秋以後の最初の庚の日をそれぞれ初伏・中伏・末伏とする。

5 驕陽 威張っていた陽気。

6 霖 長雨。

7 瀼西宅 杜甫の瀼西の草堂。

8 江浦深 大瀼水が長雨によって増水して流れが速くなり、水深が深くなったこと言う。

9 百版坼 船の多くの板材が裂する。

10 篙工 船頭、船夫。

11 恐泥 泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。《19-09 .槐葉冷淘》「路遠思恐泥,興深終不渝。」(路 遠くして 恐泥を思う,興 深くして 終に渝らず。)「論語」子張篇に、枝葉末節の技芸にこだわらず本質的な大義を果たすことの重要性を述べた部分で「子夏曰、雖小道必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子不為也」(子夏曰わく、小道(しょうどう)と雖も(いえども)必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥(なず)まんことを恐る、是(ここ)を以て君子は為さざるなり。子夏が言った。『小さな技芸の道であっても、見るべき部分はあるものだ。しかし、究極まで道を極めようとすれば、小さな技芸は邪魔になる。だから、君子は小さな道を行かないのである、とある。泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。

767年-9-#2杜甫 《19-09 .槐葉冷淘》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-9-#2 <1086 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7110 

767年-14-#1杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#1 <1108> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7187

杜甫詩  阻雨不得歸瀼西甘林 #1

三伏適已過,驕陽化為霖。欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。篙工初一棄,恐泥勞寸心。

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。

767-14-#1杜甫 19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦256-14-#1 <1108 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7187

 

 

 
  2016年1月15日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(58)李太白集巻八22-《贈郭將軍》(將軍少年出武威,) 377Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(58) Ⅰ李白詩1729 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7185  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈126《 巻四21 荊潭唱和詩序》 #6 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1642> Ⅱ#6 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7186  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-14-#1杜甫 《19-17 阻雨不得歸瀼西甘林》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-14-#1 <1108> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7187  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八33八拍蠻一首》『花間集』385全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7189  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

杜甫詩1500-1108-1560/2500

767年巻1917 阻雨不得歸瀼西甘林

 夔州の地に着いて二年目の春、瀼西に引っ越してから蜜柑の詩が突如として多くなる。その最初の詩は五言律詩の《1850_暮春題瀼西新賃草屋五首》其二(暮春に瀼西の新たに賃せる草屋に題す、五首其の二)である。767(大暦二)年、作者五十六歳の作。「此邦千樹橘、不見比封君。養拙干戈際、全生麋鹿羣。 畏人江北草、旅食瀼西雲。萬里巴渝曲、三年實飽聞。」(此()の邦(くに)の千樹の橘は、封君に比せらるるを見ず。拙を養う 干戈(カンカ)の際、生を全うす 麋鹿(ビロク)の群。人を畏る 江北の草、旅食す 瀼西の雲。みやこより万里のかなたのこの巴渝の曲、三年 実に聞くに飽く)この詩は、瀼西に引っ越した経済的理由を明らかにしたものである。引っ越した理由の一つは蜜柑園の経営のためであったようである。司馬遷が“本来なら、千株の蜜柑園があれば大富豪になれる”といっているのだが、たとえそれぐらい所有していたとしても、輸送費に掛かりすぎ、この地ではとてもむりで、せいぜい生計を維持していけるぐらいだろうと、杜甫は言いたげである。

 杜甫は瀼西に移ってから、或いは移ると同時に、どういう経緯によってかはよくわからないが、四十畝の果樹園を所有した。後で取り上げるが《2038_寒雨に朝行きて園の樹を視る》の詩には「わが柴門は樹を擁して千株に向(なんな)んとす」とあり、千本にも近い蜜柑の木(千橘)が、瀼西の草堂に具わっていたとはっきり述べている。またこの年の、まだいくばくかの暑さが残る初秋の頃の五言排律《1939_秋の日、夔府にて懐いを詠じ鄭監と李賓客に寄せ奉る、一百韻》に、この瀼西の居宅を概括して、「甘子陰涼葉、茅齋八九椽。」(甘子(みかん)には陰涼の葉あり、茅斎(あばらや)は八九の椽(へや)のみ。)と詠じている。このことも、瀼西の草堂と蜜柑園がワン・セットになっていたらしいことを思わせる。また《1850_暮春題瀼西新賃草屋五首》其三の詩に「乾坤の一草亭」、すなわちこの草屋にあって「細雨に鋤を荷って立つ」とあるから、畑なども同時に付属していたらしいことがわかる。

 この詩の詠じ方からすると、瀼西に移り住んでからの、杜甫の蜜柑に対する関心は、果木の美しさを観賞するという立場ではなく、あきらかに経済的、経営的な立場からのそれである。それについては簡錦松氏も、この詩と《1916_雨に阻まれ瀼西の甘林に帰るを得ず》の詩について「よって蜜柑を植えることが杜甫の瀼西における重要な仕事となった」、「この二首の詩からみて、彼の蜜柑園もまた商品作物であり、また即ちいわゆる封殖(土寄して栽培)することである。どのように言おうとも、彼は蜜柑園をとても重視していた」(『杜甫夔州詩現地研究』二八六頁。第Ⅲ部第一章参照)と述べているとおりである。蜜柑が商品作物だから当然お金で売り買いされる。

 

年:767年大曆二年           56

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    阻雨不得歸瀼西甘林

作地點:              目前尚無資料

及地點:瀼西 (山南東道 夔州 奉節)              

草堂 (劍南道北部 益州 成都) 別名:一室、西郭茅舍  

 

 

阻雨不得歸瀼西甘林#1

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

三伏適已過,驕陽化為霖。

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。

欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。

こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。

篙工初一棄,恐泥勞寸心。

船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。

(雨に阻れて 瀼西の甘林に歸えるを得ず)

三伏 適たま已に過ぎたり,驕陽 化して 霖と為る。

瀼西の宅に歸らんと欲すれども,此の江浦の深きに阻てらる。

壞舟 百版坼く,峻岸 復た萬尋なり。

篙工 初めより一棄す,恐泥 寸心を勞す。
#2

佇立東城隅,悵望高飛禽。

草堂亂懸圃,不隔崑崙岑。

昏渾衣裳外,曠同層陰。

園甘長成時,三寸如黃金。

#3

諸侯舊上計,厥貢傾千林。

邦人不足重,所迫豪吏侵。

客居暫封殖,日夜偶瑤琴。

虛徐五株態,側塞煩胸襟。

#4

焉得輟兩足,杖藜出嶇嶔。

條流數翠實,偃息歸碧潯。

拂拭烏皮几,喜聞樵牧音。

令兒快搔背,我頭上簪。

瞿塘峡・白帝城・魚復 

 

『阻雨不得歸瀼西甘林』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

阻雨不得歸瀼西甘林

三伏適已過,驕陽化為霖。

欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。

篙工初一棄,恐泥勞寸心。

(下し文)

(雨に阻れて 瀼西の甘林に歸えるを得ず)

三伏 適たま已に過ぎたり,驕陽 化して 霖と為る。

瀼西の宅に歸らんと欲すれども,此の江浦の深きに阻てらる。

壞舟 百版坼く,峻岸 復た萬尋なり。

篙工 初めより一棄す,恐泥 寸心を勞す。

(現代語訳)
阻雨不得歸瀼西甘林#1(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。

自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。

こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。

船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。


(訳注)

阻雨不得歸瀼西甘林

(雨にじゃまされて瀼西のみかんばやしへかえることができなかったことをよんだもの。)

1 阻雨 長雨により河川の流量が増し、東屯から、瀼西の草堂に帰られない。

2 瀼西  杜甫が(西閣または赤甲から)瀼西へ引っ越したことは、いろいろな詩から総合的に判断できることであるが、より直接的には以下の詩からわかる。

それは1813_瀼西寒望》の詩に、瀼西への引っ越し計画を、

瀼西寒望

(瀼西の寒望)

【夔人以澗水通江者為瀼,大昌縣西有千頃池,水分三道,其一南流奉節縣,為西瀼水。】

【夔人 以て澗水江に通ずる者は瀼と為し,大昌縣 西に千頃の池有り,水 三道に分れ,其の一 南に奉節縣に流る,西瀼水と為す。】

水色含群動,朝光切太虛。

水色 群動を含む、朝光 太虚に切なり。

年侵頻悵望,興遠一蕭疏。

年侵して 頻りに帳望す、興遠くして一に蕭疏たり。

猿挂時相學,鷗行炯自如。

猿挂かりて時に相学ぶ、鴎行く 炯として自如たり。

瞿唐春欲至,定卜瀼西居。

瞿唐 春 至らんと欲す、定めて卜せん瀼西の居。

と述べており、そして実際に1850_暮春に、瀼西の新たに賃せし草屋に題す》の五首連作の詩を作っているからである。

暮春題瀼西新賃草屋,五首之一                          久嗟三峽客,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之二                          此邦千樹橘,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之三                          綵雲陰復白,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之四                          壯年學書劍,

暮春題瀼西新賃草屋,五首之五                          欲陳濟世策,

3 甘林 瀼西の住まいはこの段階ではまだ賃借りの状態であるが、その後間もなく杜甫によって買い上げられ、その住宅には果園も付属していたと考えられる。その証拠となる詩は、次の四首である。大暦二年の秋、その住宅を杜甫の娘婿の呉郎に、貸し与えることを述べた2043_呉郎司法に簡す》の詩に、

簡呉郎司法

郎司法

 

有客乘舸自忠州,遣騎安置瀼西頭。

 

古堂本買藉疏豁,借汝遷居停宴遊。

古堂 本と買いしは 疏豁に藉る、汝に借して居を遷さしめ 宴遊を停めしめん

雲石熒熒高葉曙,風江颯颯亂帆秋。

 

卻為姻婭過逢地,許坐曾軒數散愁。

 

と述べ、その年の晩秋の767年 《巻20-65小園》の詩には、

小園

 

由來巫峽水,本自楚人家。

 

客病留因藥,春深買為花。

(たび)に病んで 留まるは薬に因る,春深くして 買うは花の為なり。

秋庭風落果,瀼岸雨沙。

 

問俗營寒事,將詩待物華。

 

とあって、詩題にいう小園を晩春に買ったと述べているからである。この小園については浦起竜も「瀼西の果園なり」「買うとは園を買うにして、花を買うには非ざるなり」(巻三之六)というように、瀼西の四十畝のそれであったろう。そしてその果園が瀼西宅に附属していたものであることは、《20-66寒雨朝行視園樹寒雨に朝行きて園の樹を視る)の詩に「わが柴門は樹を擁して千株に向(なんな)んとす」とあることからわかる。千株は「千橘」の典故を意識した千本にも近い蜜柑の木を意味する。

寒雨朝行視園樹

柴門雜樹向千株,丹橘黃甘此地無。

江上今朝寒雨歇,籬中秀色畫屏紆。

桃蹊李徑年雖故,梔子紅椒豔復殊。

鎖石藤稍元自落,倚天松骨見來枯。

林香出實垂將盡,葉蒂辭枝不重蘇。

愛日恩光蒙借貸,清霜殺氣得憂虞。

衰顏更覓藜床坐,緩步仍須竹杖扶。

散騎未知雲閣處,啼猿僻在楚山隅。

 

さらに翌年正月、夔州を去るに当たって、その家屋と果園の不動産を南卿兄という人物に贈ることを詩題にした2138_将に巫峡に別れんとして南卿兄に瀼西の果園四十畝を贈る》の詩が作られている。果園が何ヶ所でどこにあったかなどについては異説があるが、全体としてこの通説は正しいであろう。「瀼西宅」(《1917_阻雨不得歸瀼西甘林》による)に住んだのは、東屯に一時移り住み呉郎に貸し与えた時期を考慮外とし、多く見積もったとしても大暦二年の暮春三月から翌年正月まで十ヶ月足らずである。

 大暦二(七六七)年、五十六歳の杜甫が、野菜作りや稲田・蜜柑園の管理経営に力を入れるのが、この瀼西(東屯)に住んでいた一時期である。

 

三伏適已過,驕陽化為霖。

三伏の炎熱がすでに過ぎて、これまで威張っていた陽気は、長雨にかわった。

4 三伏 三伏(さんぷく)とは、陰陽五行説に基づく選日の1つで、初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の3回の庚の日を三伏とする。夏至以後の3回目・4回目と立秋以後の最初の庚の日をそれぞれ初伏・中伏・末伏とする。

5 驕陽 威張っていた陽気。

6 霖 長雨。

 

欲歸瀼西宅,阻此江浦深。

自分は瀼西の宅へ帰ろうとおもうが、江浦の水の深いのにじゃまされているのである。

7 瀼西宅 杜甫の瀼西の草堂。

8 江浦深 大瀼水が長雨によって増水して流れが速くなり、水深が深くなったこと言う。

 

壞舟百版坼,峻岸復萬尋。

こわれた舟は多くの板が開けてしまったし、嶮しい岸は、萬尋の高さほどある。

9 百版坼 船の多くの板材が裂する。

 

篙工初一棄,恐泥勞寸心。

船夫は、初めから渡ることなどしようともしないのである。自分はいくとなれば、途中でぐずついて目的地へはゆきつけぬのではないかと心をいためているのである。

10 篙工 船頭、船夫。

11 恐泥 泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。《19-09 .槐葉冷淘》「路遠思恐泥,興深終不渝。」(路 遠くして 恐泥を思う,興 深くして 終に渝らず。)「論語」子張篇に、枝葉末節の技芸にこだわらず本質的な大義を果たすことの重要性を述べた部分で「子夏曰、雖小道必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子不為也」(子夏曰わく、小道(しょうどう)と雖も(いえども)必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥(なず)まんことを恐る、是(ここ)を以て君子は為さざるなり。子夏が言った。『小さな技芸の道であっても、見るべき部分はあるものだ。しかし、究極まで道を極めようとすれば、小さな技芸は邪魔になる。だから、君子は小さな道を行かないのである、とある。泥とは、どこぞにへばりついて先方へゆきつけぬをいう。詩の思恐泥とは論語に「恐泥」といふことがわるがそれを思うということである。

767年-9-#2杜甫 《19-09 .槐葉冷淘》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-9-#2 <1086 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7110 
denen03350 

767年-13-#5杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#5 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#5 <1107> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7182

杜甫詩  秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#5

西成聚必散,不獨陵我倉。豈要仁里譽,感此亂世忙。

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

じき秋になり豊作になれば、自分は自分の倉をたかく積みあげるばかりでなく、集まった穀物をきっと散じてひとびとにもわけてやろうとおもっている。これは自分のいるこの村が、仁者の里だなどいわれてほめられることを求めるわけではない、まのあたりみる乱世の人民のあわただしさをみて感にたえないためだ。(仁者のむらといわれれば管理者であるものが高い評価を受けるのである、だからしっかり除草の指示をせよということを言う)この暑い時期に大切な除草作業をしっかりしなければ、すぐに北風が葭葦を吹きたて、こおろぎは堂中にちかづく頃にはすぐなってしまう。寒さが音づれるにつけて、そのまま何もせず時を過ごして、野外の諸仕事も休みになってしまったとしたら、かかるを乱世により、窮民が多く出ており、彼らの事をかんが得てやることが大切であり、この時期しっかりと除草作業をやらないと、晩年の自分のこころに傷むこと、稲が成長せず不作にでもなったら年も暮れかかってさらに心を痛めることになってしまうでしょう。

767-13-#5杜甫 19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#5 杜甫詩index-15-767年大暦256-13-#5 <1107 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7182

 

 

 
  2016年1月14日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(56)李太白集卷六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》(高堂粉壁圖蓬瀛,) 376-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(58) Ⅰ李白詩1728 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7180  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈126《 巻四21 荊潭唱和詩序》 #5 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1641> Ⅱ#5 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7181  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-13-#5杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#5 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#5 <1107> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7182  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八32玉蝴蝶春欲盡,》『花間集』384全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7184  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

杜甫詩1500-1107-1559/2500

年:767年大暦256-13

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問【秋行官張望督促東渚刈稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              茅堂 (山南東道 夔州 夔州) 別名:東渚、東屯             

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門       

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海    

交遊人物/地點:阿稽          當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

阿段         當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

 

 

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#1

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

人情見非類,田家戒其荒。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ)
東渚 雨 今足る,聞かんと佇つ粳稻の香しきを。

上天 偏頗無し,蒲稗 各自 長し。

人情 非類を見れば,田家 其の荒るるを戒む

#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。

穀者命之本,客居安可忘。

穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。

青春具所務,勤墾免亂常。

春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。

牛力容易,並驅動莫當。

水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

#2

功夫 競いて搰搰たり,除草 岸旁に置く。

穀は 命の本なり,客居 安んぞ忘る可けん。

青春より 務むる所を具う,勤墾せば 亂常を免る。

牛 力 容易なり,並驅 動として當る莫れ【並驅 紛として場に遊ぶ。】
#3

豐苗亦已雲水照方塘。

そうした作業の成果で、ふさふさした苗がたくさんでき、雲影を写したきれいな水は貯水池にかがやいている。

有生固蔓延,靜一資堤防。

雑草もそこに生える、生えたやつは頑固にはびこり、はびこらせず苗をよく成長させるには、専心して草の伸びるのをふせがなくてはならないのである。

督領不無人,提攜頗在綱。

草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。

苗を豐にし亦た已に,雲水 方塘を照す。

生有れば 固く蔓延し,靜一 堤防を資る。

督領 人無きならず,提攜 頗る綱に在り。
#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

こちらは風土があたたかで、つめたい霜がおく頃に稲刈りをするのを待っているのだ。

尚恐主守疏,用心未甚臧。

そんな場合だから草とりの監督は人を得ていてそれでよさそうではあるが、自分はそれでもまだ責任者(張望)がうっかりして心のくばりがひどくいいこともなかろうかときづかわれるので、

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

今日はあさから婢僕(阿稽と阿段)をつかわして高い岡をこえで先方へこちらのこころもちを伝言させた。

荊揚は風土暖なり,肅肅 微霜を候【うかが】う。

尚恐る 主守の疏するを,用心す 未だ甚だ臧からざらむことを。

清朝 婢僕を遣わし,語を寄せ 崇岡を踰えしむ。
#5

西成聚必散,不獨陵我倉。

じき秋になり豊作になれば、自分は自分の倉をたかく積みあげるばかりでなく、集まった穀物をきっと散じてひとびとにもわけてやろうとおもっている。

豈要仁里譽,感此亂世忙。

これは自分のいるこの村が、仁者の里だなどいわれてほめられることを求めるわけではない、まのあたりみる乱世の人民のあわただしさをみて感にたえないためだ。(仁者のむらといわれれば管理者であるものが高い評価を受けるのである、だからしっかり除草の指示をせよということを言う)

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

この暑い時期に大切な除草作業をしっかりしなければ、すぐに北風が葭葦を吹きたて、こおろぎは堂中にちかづく頃にはすぐなってしまう。

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

寒さが音づれるにつけて、そのまま何もせず時を過ごして、野外の諸仕事も休みになってしまったとしたら、かかるを乱世により、窮民が多く出ており、彼らの事をかんが得てやることが大切であり、この時期しっかりと除草作業をやらないと、晩年の自分のこころに傷むこと、稲が成長せず不作にでもなったら年も暮れかかってさらに心を痛めることになってしまうでしょう。

西成 聚まれば必ず散ぜん,獨り我が倉を陵【たか】くするのみならず。

豈に仁里の譽を要めんや,此の亂世の忙わしきに感ず。

北風 蒹葭に吹けば,蟋蟀 中堂に近づく。

荏苒 百工休し,鬱紆として 遲暮に傷まん。

DCF00004 

『秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

西成聚必散,不獨陵我倉。

豈要仁里譽,感此亂世忙。

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

(下し文)
#5

西成 聚まれば必ず散ぜん,獨り我が倉を陵【たか】くするのみならず。

豈に仁里の譽を要めんや,此の亂世の忙わしきに感ず。

北風 蒹葭に吹けば,蟋蟀 中堂に近づく。

荏苒 百工休し,鬱紆として 遲暮に傷まん。

(現代語訳)
#5

じき秋になり豊作になれば、自分は自分の倉をたかく積みあげるばかりでなく、集まった穀物をきっと散じてひとびとにもわけてやろうとおもっている。

これは自分のいるこの村が、仁者の里だなどいわれてほめられることを求めるわけではない、まのあたりみる乱世の人民のあわただしさをみて感にたえないためだ。(仁者のむらといわれれば管理者であるものが高い評価を受けるのである、だからしっかり除草の指示をせよということを言う)

この暑い時期に大切な除草作業をしっかりしなければ、すぐに北風が葭葦を吹きたて、こおろぎは堂中にちかづく頃にはすぐなってしまう。

寒さが音づれるにつけて、そのまま何もせず時を過ごして、野外の諸仕事も休みになってしまったとしたら、かかるを乱世により、窮民が多く出ており、彼らの事をかんが得てやることが大切であり、この時期しっかりと除草作業をやらないと、晩年の自分のこころに傷むこと、稲が成長せず不作にでもなったら年も暮れかかってさらに心を痛めることになってしまうでしょう。


(訳注) #5

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

 

西成聚必散,不獨陵我倉。

じき秋になり豊作になれば、自分は自分の倉をたかく積みあげるばかりでなく、集まった穀物をきっと散じてひとびとにもわけてやろうとおもっている。

48 西成 西風が吹き、秋が来ると、五穀豊穣となり、この調子だと稲も豊作である。前の「肅肅候微霜」の句より、もう一歩進んだことを言う。《尚書、堯典》「平秩西成。宵中、星虛,以殷仲秋。」(平に 西成を秩す。宵中、星虛,以て殷として仲秋なり。)

49 聚必散 夏の作業をきちんと行えば豊作になるであろう、そうすれば収穫してそれらを、従事してくれたものはもちろん苦しんでいるものにも必ず分け与えたいというほどの意。

50 陵我倉 わが倉に丘のごとく高く積み上げることで満足する。

 

豈要仁里譽,感此亂世忙。

これは自分のいるこの村が、仁者の里だなどいわれてほめられることを求めるわけではない、まのあたりみる乱世の人民のあわただしさをみて感にたえないためだ。(仁者のむらといわれれば管理者であるものが高い評価を受けるのである、だからしっかり除草の指示をせよということを言う)

51 仁里譽 人に、収穫したコメを分け与えるという仁の人がいる村里は誉である。《論語、里仁第四》「子曰、里仁爲美、擇不處仁、焉得知。」(子曰わく、仁に里すは美しと為す。択【えら】んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん。)《論語里仁第四》講要選錄.“子曰:里仁為美;擇不處仁,焉得知。 居於仁者所居之里,是為美。不擇處仁者之里,隨意而居,安得為有智者。古語,千金置宅,萬金買鄰,又如孟母三遷,皆是擇仁之意。廣義而言,交友,求配偶,皆須擇仁。”とあるに基づく。

 

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

この暑い時期に大切な除草作業をしっかりしなければ、すぐに北風が葭葦を吹きたて、こおろぎは堂中にちかづく頃にはすぐなってしまう。

52 兼葭 ひめよし、あしくさ、枯れ始めた陰暦九月の候をいう。蒹とは。・蒹葭アシやヨシの類.葭 片葉の葦(かたはのあし)。『詩経・秦風・蒹葭』「兼葭蒼蒼,白露為霜。 所謂伊人,在水一方。 溯洄從之,道阻且長;溯游從之,宛在水中央。」とある。河の向こう岸にすむ美しい娘がいる。訪ねようと上流に行くと道が険しく、川を渡るには水が多い。不遇で志を得られぬ、果たせない男、やるせない気持ちを歌ったものである。杜甫の秦州抒情詩《巻七74 蒹葭》の詩も最終句「蹉跎」という語でそのすべてを表している。

兼 葭

けんか)

摧折不自守,秋風吹若何?

暫時花戴雪,幾處葉沈波。

體弱春苗早,叢長夜露多。

江湖後搖落,亦恐蹉跎。

 

摧折【さいせつ】自ら守らず、秋風吹くも若何【いか】にせん。

暫時【ざんじ】花雪を戴【いただ】く、幾処【いくつのところ】か葉 波に沈む。

体弱くして春苗【しゅんびょう】早く、叢【そう】長うして夜露【やろ】多し。

江湖【こうこ】搖落【ようらく】に後【おく】るるも 亦た恐る歳に蹉跎【さた】たらんことを

この「片葉あし」というものは、くだかれ折られ、しっかり自己を保つことがないのであるから、秋風に吹かれたとしてもどうかなるというのか。(どうにもならない、それは自分のせいなのだ。)

「片葉あし」は穂花をだすときしばらくの間、花が雪をいただいて立っているが、そこ処処でその葉は波間に沈んでいるのだ。

「片葉あし」は春の苗が早くでるがその体質は弱くて、群がって生え背は高くなり、夏にはたくさんの夜露をうけるのである。

「片葉あし」は南方の江湖の地方では他の草木が枯れ、葉がおちるよりかおそいのだけれど、それはまるで時機を逸して、適時にできず、不遇で志を得られぬ状態なのだと気づかわれるのである。

兼葭 杜甫 <298> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1361 杜甫詩 700- 418

53 蟋蟀 《詩經 豳風·七月》篇雲:“七月在野,八月在宇,九月在,十月蟋蟀入我床下。”七月野に在り,八月宇に在り,九月在る,十月には蟋蟀 我が床下に入る。)8月からは軒に居り、それ以降は“在堂”であるということ

54 近中堂 詩經·國風·唐風·蟋蟀 「蟋蟀在堂,聿其莫。(蟋蟀 堂に在り, 聿【ここ】に其れ莫【く】れん。コオロギが座敷で鳴くようになるとその年もくれようとする頃である。農事も終わるころであることを言う 

杜甫詩《巻七72 促織》

促織甚微細、哀音何動人。

草根吟不穏、牀下意相親。

久客得無涙、故妻難及晨。

悲糸与急管、感激異天真。

促織 杜甫 <296> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1355 杜甫詩 700- 416

 

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

寒さが音づれるにつけて、そのまま何もせず時を過ごして、野外の諸仕事も休みになってしまったとしたら、かかるを乱世により、窮民が多く出ており、彼らの事をかんが得てやることが大切であり、この時期しっかりと除草作業をやらないと、晩年の自分のこころに傷むこと、稲が成長せず不作にでもなったら年も暮れかかってさらに心を痛めることになってしまうでしょう。

55 荏苒 なすことのないまま歳月が過ぎるさま。また、物事が延び延びになるさま。

56 百工休 諸事の力役をすべておわること。《禮記•月令》:「季秋之月,霜始降,則百工休。」(季 秋の月,霜始めに降りて,則ち百工休す。)前の句「肅肅候微霜」とある。

57 鬱紆 心がはれず、くよくよするさま。

58 遲暮傷 杜甫自身が晩年であること、舟を停泊して、旅費を作るために農業を懸命にしたこと、しかし、故郷方面の世情は落ち着いていないというのが杜甫の心が痛むことであるが、この詩は、張望にあてたものであるから、このたびの水田の除草作業をしっかりやらないと収穫の時のことが心配でならないというように訴えたのである。

 

瞿塘峡・白帝城・魚復夔州東川卜居図詳細 002 

 


続きを読む

767年-13-#4杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#4 <1106> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7177

杜甫詩  秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。尚恐主守疏,用心未甚臧。清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

こちらは風土があたたかで、つめたい霜がおく頃に稲刈りをするのを待っているのだ。そんな場合だから草とりの監督は人を得ていてそれでよさそうではあるが、自分はそれでもまだ責任者(張望)がうっかりして心のくばりがひどくいいこともなかろうかときづかわれるので、今日はあさから婢僕(阿稽と阿段)をつかわして高い岡をこえで先方へこちらのこころもちを伝言させた。

767-13-#4杜甫 19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#4 杜甫詩index-15-767年大暦256-13-#4 <1106 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7177

 

 
  2016年1月13日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(56)李白 卷六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》(高堂粉壁圖蓬瀛,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(56) <李白> Ⅰ李白詩1715 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7123  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈126《 巻四21 荊潭唱和詩序》 #4 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1640> Ⅱ#4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7176  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-13-#4杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#4 <1106> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7177  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八31河滿子冠劍不隨》『花間集』383全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7179  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1106-1562/2500

年:767年大暦256-13

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問【秋行官張望督促東渚刈稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              茅堂 (山南東道 夔州 夔州) 別名:東渚、東屯             

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門       

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海    

交遊人物/地點:阿稽          當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

阿段         當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

 

 

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#1

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

人情見非類,田家戒其荒。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ)
東渚 雨 今足る,聞かんと佇つ粳稻の香しきを。

上天 偏頗無し,蒲稗 各自 長し。

人情 非類を見れば,田家 其の荒るるを戒む

#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。

穀者命之本,客居安可忘。

穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。

青春具所務,勤墾免亂常。

春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。

牛力容易,並驅動莫當。

水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

#2

功夫 競いて搰搰たり,除草 岸旁に置く。

穀は 命の本なり,客居 安んぞ忘る可けん。

青春より 務むる所を具う,勤墾せば 亂常を免る。

牛 力 容易なり,並驅 動として當る莫れ【並驅 紛として場に遊ぶ。】
#3

豐苗亦已雲水照方塘。

そうした作業の成果で、ふさふさした苗がたくさんでき、雲影を写したきれいな水は貯水池にかがやいている。

有生固蔓延,靜一資堤防。

雑草もそこに生える、生えたやつは頑固にはびこり、はびこらせず苗をよく成長させるには、専心して草の伸びるのをふせがなくてはならないのである。

督領不無人,提攜頗在綱。

草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。

苗を豐にし亦た已に,雲水 方塘を照す。

生有れば 固く蔓延し,靜一 堤防を資る。

督領 人無きならず,提攜 頗る綱に在り。
#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

こちらは風土があたたかで、つめたい霜がおく頃に稲刈りをするのを待っているのだ。

尚恐主守疏,用心未甚臧。

そんな場合だから草とりの監督は人を得ていてそれでよさそうではあるが、自分はそれでもまだ責任者(張望)がうっかりして心のくばりがひどくいいこともなかろうかときづかわれるので、

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

今日はあさから婢僕(阿稽と阿段)をつかわして高い岡をこえで先方へこちらのこころもちを伝言させた。

荊揚は風土暖なり,肅肅 微霜を候【うかが】う。

尚恐る 主守の疏するを,用心す 未だ甚だ臧からざらむことを。

清朝 婢僕を遣わし,語を寄せ 崇岡を踰えしむ。
#5

西成聚必散,不獨陵我倉。

豈要仁里譽,感此亂世忙。

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

 

 DCF00004tanbo955

『秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

尚恐主守疏,用心未甚臧。

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

(下し文)
#4

荊揚は風土暖なり,肅肅 微霜を候【うかが】う。

尚恐る 主守の疏するを,用心す 未だ甚だ臧からざらむことを。

清朝 婢僕を遣わし,語を寄せ 崇岡を踰えしむ。

(現代語訳)
#4

こちらは風土があたたかで、つめたい霜がおく頃に稲刈りをするのを待っているのだ。

そんな場合だから草とりの監督は人を得ていてそれでよさそうではあるが、自分はそれでもまだ責任者(張望)がうっかりして心のくばりがひどくいいこともなかろうかときづかわれるので、

今日はあさから婢僕(阿稽と阿段)をつかわして高い岡をこえで先方へこちらのこころもちを伝言させた。

瞿塘峡・白帝城・魚復
(訳注) #4

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

 

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

こちらは風土があたたかで、つめたい霜がおく頃に稲刈りをするのを待っているのだ。

38 荊揚 長江流域、蜀地を含めて南土をいう。蜀三巴、荊州、湖南、淮河流域揚州。

39 肅肅 冷たくて引き締まる霜の形容。

40 候微霜 つめたい霜がおくのを待っているというほどの意。

 

尚恐主守疏,用心未甚臧。

そんな場合だから草とりの監督は人を得ていてそれでよさそうではあるが、自分はそれでもまだ責任者(張望)がうっかりして心のくばりがひどくいいこともなかろうかときづかわれるので、

41 尚恐 「督領不無人,提攜頗在綱」(草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。)を受けて、そうであるから、なお心配で仕方がないという意。

42 主守疏 他の責任者、監督者の主守が用意が足らない、目配りがない、うっかりしているという意。

43 未甚臧 張望が雑草を抜いて取らなければ、稲の生育、稲穂の実りが悪くなるという自覚が足りないこと、何時まで経っても是正されないことを言う。臧は善し。

 

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

今日はあさから婢僕(阿稽と阿段)をつかわして高い岡をこえで先方へこちらのこころもちを伝言させた。

44 清朝 清清しい朝方。

45 遣婢僕 阿稽と阿段を使いにやる。

46 寄語 張望に伝言する。

47 踰崇岡 行く道すがらが、高い丘を越えてゆくことを言う。

 

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》【字解】

 

1 行官張望 ・行官:稲田を管理する吏官。・張望:行官の姓名。

㋐ 767年-10-#1杜甫 《19-15 行官張望補稻畦水歸》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-10-#1 <1088 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7120

㋑ 767年-8-#1杜甫 《19-06 園人送瓜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-8-#1 <1082 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7090

㋒ 767年-11-#1杜甫 《19-05 園官送菜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-11-#1 <1091 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7135

2 東渚 西瀼水の川向こうの水田。

3 耗稻 稲の間に生えて来る雑草をぬきとってなくすこと。

4 向畢 除草作業が終わりかける。

5 清晨 はれたあさ。

6 女奴 女婢

7 豎子 奴。

8 女奴阿稽と豎子阿段 大暦二年、春から始まった東屯での米作りが、夏の除草、灌漑など幾多の農作業の過程をへて、秋に入り最後の除草が終わろうとしていた。米作りには、干害や水害や虫害などの天災がつきものであるが、この年の東屯での米作は大きな災害にも見舞われず、うまくいきつつあった。この取り入れが首尾よく行けば、杜甫にとっては南下する旅費の一部が工面できることになる。秋の収穫は目前であり、杜甫はこの詩で、「西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず」などと、もう秋の豊作を夢見てその後の計画をたてている。杜甫の今次の稲作への期待が想像できるというものである。

 だから彼は、いっそう最後の除草の仕事を好い加減にはしなかった。もともと農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。そのことをきっかけに作ったのが1915_秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ》という長編の五言古詩である。その詩の中ごろに次のように詠じていることが重要である。

有生固蔓延、靜一資隄防。 督領不無人、提攜頗在綱。 

荊揚風土暖、肅肅候微霜。 尚恐主守疏、用心未甚臧。

清朝遣婢僕、寄語踰崇岡。 西成聚必散,不獨陵我倉。

(いのち)有るものは固(もと)より蔓延すれば、静一に隄防するを資()

(ひき)い領(おさ)むることは 人無きにあらず (して行官張望なるものあり)、 かれと提携することは 頗(すこぶ)る綱に在り。

荊揚は風土暖かく、 粛粛として微霜(の降りる収穫のとき)を候()たん。

尚お恐る (行官張望の)主(つかさど)り守ることの疏にして、心を用いること 未だ甚だしくは臧()からざらんことを。

ゆえにわれは清朝(あけがた)に婢と僕とを遣(つか)わして、 語を寄せて崇(たか)き岡を踰()えさす。

西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず。

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》

 

 この詩は農業詩としてみた場合様々な興味深い事柄を含んでいるのだが、それについては別の機会に譲ることにして、ここでは二つの点のみを指摘しておきたい。

 この詩もまた今までの詩と同様、詩題の中に使用人の名前がみえる。豎子の阿段というのは②《巻15-06 示獠奴阿段》に出てきた獠族の少年阿段である。女奴の阿稽というのは、この詩でしか登場しないが、阿夷、阿等などの言い方との類似性を考えれば、阿段と同じ獠族の女性である。行官の張望という人物はこの詩より少し前の、㋐《19-15 行官張望補稻畦水歸》の詩に登場する。張望という人物も、行官という官も、どれほどのものか具体的にはわからないが、いずれにしろ「婢僕」の身分の阿稽と阿段が、行官の張望と同じレベルで並べて述べていることに関しては何の抵抗もないのは、杜甫の心根の問題である。

 杜甫がこの詩を書くに当たっての動機は、先にも述べたように、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、使用人の阿稽と阿段に言い付けを託す、ということであった。この婢僕の二人は単なる杜甫の走り使いということではあるまい。張望がちゃんと除草の仕事をなし終えるかどうかは、杜甫にとってはその後の旅程にも影響するきわめて重要な事であった。杜甫は張望の仕事をきちんと見極めることのできる人間として、阿稽と阿段を使いに送ったものと思われる。行官の張望に対してよりは、むしろ現地の異民族の二人の「婢僕」に信頼を置いていたと言ってもいいくらいである。

 この詩と、前出の《巻15-42 信行遠修水筒》の詩とをくらべて「『信行修水筒(ママ)』の詩は其の奨賞を極め、此の詩には乃ち『尚恐主守疏、用心未甚臧』の語有り。則ち二人の賢否見えたり」(巻二)と述べるかいせつもあるし、使用人の信行と行官の張望とを比較して、おのずと賢なる信行と、賢にあらざる張望とが見えてくると言っているが、これはそのまま阿稽・阿段と張望との関係にも当てはまるであろう。

 このように杜甫が、詩題の中に社会の最下層の人たちの呼び名を書き込み、その人たちへの信頼を示すのは、杜甫指示通り、あるいはそれ以上の作業するという実績の中で生まれた信頼関係であり、一方、それとは対照的に、出来の悪い役人への不信をあらわにしているという詩の書き方も、杜甫の人間性を表している。

 

杜甫が下僕に指示をしたもの、あるいは、息子の宗文に指示して下僕に作業させたもの。

    15-05引水》②《巻15-06 示獠奴阿段》③《巻15-42 信行遠修水筒》④《巻19-20 驅豎子摘蒼耳》⑥《巻15-43 催宗文樹雞柵》⑦《巻19-02豎子至》 ⑧《19-07 課伐木 幷序》⑨《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》

 

    引水

月峽瞿塘雲作頂,亂石崢嶸俗無井。雲安酤水奴僕悲,魚復移居心力省。

白帝城西萬竹蟠,接筒引水喉不乾。人生留滯生理難,斗水何直百憂寬。

 (引水)

月峽 瞿塘 雲頂と作し,亂石 崢嶸【そうおう】俗 井無し。雲安 水を酤うて奴僕悲しむ,魚復 居移して心力省く。

白帝城 西萬竹 蟠【わだかま】る,筒を接し水を引きて喉を乾かず。人生 留滯 生理難し,斗水 何ぞ直【あた】らん百憂の寬なるに。

766年大暦元年55-9 《引水》 杜甫index-15 杜甫<872 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5170 杜甫詩1500-872-1205/2500766年大暦元年55-9

 

 

杜甫が下僕に支持をしたもの、あるいは、息子の宗文に支持して下僕に作業させたもの。

   766年大暦元年55-36 奉節-29 《巻15-06 示獠奴阿段》 杜甫index-15 杜甫<900-01 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5565

    766年大暦元年55-29-#1奉節-19 《巻15-42 信行遠修水筒 -#1 杜甫index-15 杜甫<891-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5445 杜甫詩1500-891-#1-1260/2500766年大暦元年55-29-#1

   766年大暦元年55-37-#1奉節-20-#1 《巻19-20 驅豎子摘蒼耳 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   766年大暦元年55-30-#1奉節-20 《巻15-43 催宗文樹雞柵 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   767年-7-#1杜甫 《19-07 課伐木 序》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-7-#1 <1075 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7055 

   767-65杜甫 《巻19-02豎子至》 杜甫詩index-15-767年大暦256-65 <1155> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7422 杜甫詩1500-1155-1611/2500

とある。

9 粳稻 一種稻米、うるち米。葉片較狹くして短い,色は深綠,莖稈は堅硬である。穀粒はわりあい短く圓形であり,外の穎には上細毛が多くして長い,煮起すると較軟である。粳稻は一般學術上、「日本型稻」或「中國型稻」というよびかたをし,其の米粒は直鏈性をもっていて、澱粉含量は18%~25%である。炊きあがりの香りがよく、味もよい。

10 偏頗 えこひいき。

11 蒲稗 がま、ひえ。

12 非類 同類でないもの、此処では稲以外の雑草をいう。

13 田家 東屯の農家。

14 戒其荒 東屯の水田を耕さず荒れたままにすることを戒める。

15 功夫 ①手段や方法。②手間と暇。③物事を行なう素地となる教養や才能。④今までにない新しいものを生み出す

16 競搰搰 競うように力を用いて努力する。《莊子.天地》:「搰搰然,用力甚多,而見功寡。」(搰搰然として,力を用うること甚だ多く,而して功を見ること寡し。)あくせく身体を動かしているけれど、効果はすくない。

17 除草置岸旁 抜いた草を土手や岸のわきにおいておく。

18 穀者命之本【穀者令士本】 穀物は人の生命の基本である

19 青春 盛春、春の盛りからずっと。

20 具所務 すべきことはすべてやってきた。

21 勤墾 みんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめる。

22 亂常 常道が乱れる。春先、春に土地を耕し、種を植え付けることは、農家の常道であるが、これをしないければ、農家そのものが成り立たないことを言う。①破杯綱常;違反人倫。 〈馬王堆 墓帛書〉《經法國次》「變故亂常, 擅制更爽。」  ②異常;不正常。

23 牛 呉地方の牛、水牛のことで水田を耕すのに使われる。

 24 力容易 力をださせることがたやすい。

25 並驅 【案:去聲。】二匹を並べて鋤をひかせること。

26 動莫當【紛遊場】 粘土質の水田であることで二頭の牛を自由抜動けないように一帯化すること、圃場が掘り起こされることをいう。

28  禾稻種が苗として密集して生えている。《漢書.卷三十八.齊悼惠王子傳》「深耕29 種,立苗欲疏。」 

30 雲水 雲影を写したきれいな水。

31 有生 雑草を生じさせる。

32 靜一 静かに心を専一にする。雑草を抜き取ることに専心するという意。

33 資堤防 堤防とは、雑草の蔓延を食い止めることを言い、資はそれによって恩恵を受けることを言う。

34 督領 草取りの作業員を監督するもの。

35 不無人 居てもいなくても同じような人がいる。何のためにいるのかという人物がいる。ここでは、張望を言う。

36 提攜 協力し合って働くこと。

37 在綱 大綱を張って管理する。空威張りをすること。

767年-13-#3杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#3 <1105> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7172

杜甫詩  秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#3

豐苗亦已雲水照方塘。有生固蔓延,靜一資堤防。督領不無人,提攜頗在綱。

そうした作業の成果で、ふさふさした苗がたくさんでき、雲影を写したきれいな水は貯水池にかがやいている。

雑草もそこに生える、生えたやつは頑固にはびこり、はびこらせず苗をよく成長させるには、専心して草の伸びるのをふせがなくてはならないのである。

草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。

767-13-#3杜甫 19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#3 杜甫詩index-15-767年大暦256-13-#3 <1105 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7172

 

 
  2016年1月12日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(56)李太白集卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》 375-#4Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(56) Ⅰ李白詩1726 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7170  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈126《 巻四21 荊潭唱和詩序》 #3 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1639> Ⅱ#3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7171  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-13-#3杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#3 <1105> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7172  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八30定西番二首 其二》『花間集』382全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7174  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1105-1561/2500

年:767年大暦256-13

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問【秋行官張望督促東渚刈稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              茅堂 (山南東道 夔州 夔州) 別名:東渚、東屯             

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門       

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海    

交遊人物/地點:阿稽          當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

阿段         當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

 

 

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#1

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

人情見非類,田家戒其荒。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ)
東渚 雨 今足る,聞かんと佇つ粳稻の香しきを。

上天 偏頗無し,蒲稗 各自 長し。

人情 非類を見れば,田家 其の荒るるを戒む

#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。

穀者命之本,客居安可忘。

穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。

青春具所務,勤墾免亂常。

春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。

牛力容易,並驅動莫當。

水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

#2

功夫 競いて搰搰たり,除草 岸旁に置く。

穀は 命の本なり,客居 安んぞ忘る可けん。

青春より 務むる所を具う,勤墾せば 亂常を免る。

牛 力 容易なり,並驅 動として當る莫れ【並驅 紛として場に遊ぶ。】
#3

豐苗亦已雲水照方塘。

そうした作業の成果で、ふさふさした苗がたくさんでき、雲影を写したきれいな水は貯水池にかがやいている。

有生固蔓延,靜一資堤防。

雑草もそこに生える、生えたやつは頑固にはびこり、はびこらせず苗をよく成長させるには、専心して草の伸びるのをふせがなくてはならないのである。

督領不無人,提攜頗在綱。

草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。

#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

尚恐主守疏,用心未甚臧。

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

#5

西成聚必散,不獨陵我倉。

豈要仁里譽,感此亂世忙。

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

DCF00004 

 

『秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

豐苗亦已,雲水照方塘。

有生固蔓延,靜一資堤防。

督領不無人,提攜頗在綱。

(下し文)
#3

苗を豐にし亦た已に,雲水 方塘を照す。

生有れば 固く蔓延し,靜一 堤防を資る。

督領 人無きならず,提攜 頗る綱に在り。

(現代語訳)
#3

そうした作業の成果で、ふさふさした苗がたくさんでき、雲影を写したきれいな水は貯水池にかがやいている。

雑草もそこに生える、生えたやつは頑固にはびこり、はびこらせず苗をよく成長させるには、専心して草の伸びるのをふせがなくてはならないのである。

草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。

denen03350
(訳注) #3

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問

稲田の係りの張望に東田の草とり督促させておいたところ、秋になってそれが終わりかけたので、晴れた朝、女婢の阿稽と、奴の阿段とをあちらへやって様子を尋ねさせた。そのことを詠んだ詩。

 

豐苗亦已雲水照方塘。

そうした作業の成果で、ふさふさした苗がたくさんでき、雲影を写したきれいな水は貯水池にかがやいている。

28  禾稻種が苗として密集して生えている。《漢書.卷三十八.齊悼惠王子傳》「深耕29 種,立苗欲疏。」 

30 雲水 雲影を写したきれいな水。

 

有生固蔓延,靜一資堤防。

雑草もそこに生える、生えたやつは頑固にはびこり、はびこらせず苗をよく成長させるには、専心して草の伸びるのをふせがなくてはならないのである。

31 有生 雑草を生じさせる。

32 靜一 静かに心を専一にする。雑草を抜き取ることに専心するという意。

33 資堤防 堤防とは、雑草の蔓延を食い止めることを言い、資はそれによって恩恵を受けることを言う。

 

督領不無人,提攜頗在綱。

草とりの監督者としては、人がないわけではなく、(張望がいるのであるが)他のものをひきつれて大綱をしめくくってやっているのである。

34 督領 草取りの作業員を監督するもの。

35 不無人 居てもいなくても同じような人がいる。何のためにいるのかという人物がいる。ここでは、張望を言う。

36 提攜 協力し合って働くこと。

37 在綱 大綱を張って管理する。空威張りをすること。

 

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》【字解】

 

1 行官張望 ・行官:稲田を管理する吏官。・張望:行官の姓名。

㋐ 767年-10-#1杜甫 《19-15 行官張望補稻畦水歸》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-10-#1 <1088 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7120

㋑ 767年-8-#1杜甫 《19-06 園人送瓜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-8-#1 <1082 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7090

㋒ 767年-11-#1杜甫 《19-05 園官送菜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-11-#1 <1091 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7135

2 東渚 西瀼水の川向こうの水田。

3 耗稻 稲の間に生えて来る雑草をぬきとってなくすこと。

4 向畢 除草作業が終わりかける。

5 清晨 はれたあさ。

6 女奴 女婢

7 豎子 奴。

8 女奴阿稽と豎子阿段 大暦二年、春から始まった東屯での米作りが、夏の除草、灌漑など幾多の農作業の過程をへて、秋に入り最後の除草が終わろうとしていた。米作りには、干害や水害や虫害などの天災がつきものであるが、この年の東屯での米作は大きな災害にも見舞われず、うまくいきつつあった。この取り入れが首尾よく行けば、杜甫にとっては南下する旅費の一部が工面できることになる。秋の収穫は目前であり、杜甫はこの詩で、「西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず」などと、もう秋の豊作を夢見てその後の計画をたてている。杜甫の今次の稲作への期待が想像できるというものである。

 だから彼は、いっそう最後の除草の仕事を好い加減にはしなかった。もともと農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。そのことをきっかけに作ったのが1915_秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ》という長編の五言古詩である。その詩の中ごろに次のように詠じていることが重要である。

有生固蔓延、靜一資隄防。 督領不無人、提攜頗在綱。 

荊揚風土暖、肅肅候微霜。 尚恐主守疏、用心未甚臧。

清朝遣婢僕、寄語踰崇岡。 西成聚必散,不獨陵我倉。

(いのち)有るものは固(もと)より蔓延すれば、静一に隄防するを資()

(ひき)い領(おさ)むることは 人無きにあらず (して行官張望なるものあり)、 かれと提携することは 頗(すこぶ)る綱に在り。

荊揚は風土暖かく、 粛粛として微霜(の降りる収穫のとき)を候()たん。

尚お恐る (行官張望の)主(つかさど)り守ることの疏にして、心を用いること 未だ甚だしくは臧()からざらんことを。

ゆえにわれは清朝(あけがた)に婢と僕とを遣(つか)わして、 語を寄せて崇(たか)き岡を踰()えさす。

西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず。

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》

 

 この詩は農業詩としてみた場合様々な興味深い事柄を含んでいるのだが、それについては別の機会に譲ることにして、ここでは二つの点のみを指摘しておきたい。

 この詩もまた今までの詩と同様、詩題の中に使用人の名前がみえる。豎子の阿段というのは②《巻15-06 示獠奴阿段》に出てきた獠族の少年阿段である。女奴の阿稽というのは、この詩でしか登場しないが、阿夷、阿等などの言い方との類似性を考えれば、阿段と同じ獠族の女性である。行官の張望という人物はこの詩より少し前の、㋐《19-15 行官張望補稻畦水歸》の詩に登場する。張望という人物も、行官という官も、どれほどのものか具体的にはわからないが、いずれにしろ「婢僕」の身分の阿稽と阿段が、行官の張望と同じレベルで並べて述べていることに関しては何の抵抗もないのは、杜甫の心根の問題である。

 杜甫がこの詩を書くに当たっての動機は、先にも述べたように、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、使用人の阿稽と阿段に言い付けを託す、ということであった。この婢僕の二人は単なる杜甫の走り使いということではあるまい。張望がちゃんと除草の仕事をなし終えるかどうかは、杜甫にとってはその後の旅程にも影響するきわめて重要な事であった。杜甫は張望の仕事をきちんと見極めることのできる人間として、阿稽と阿段を使いに送ったものと思われる。行官の張望に対してよりは、むしろ現地の異民族の二人の「婢僕」に信頼を置いていたと言ってもいいくらいである。

 この詩と、前出の《巻15-42 信行遠修水筒》の詩とをくらべて「『信行修水筒(ママ)』の詩は其の奨賞を極め、此の詩には乃ち『尚恐主守疏、用心未甚臧』の語有り。則ち二人の賢否見えたり」(巻二)と述べるかいせつもあるし、使用人の信行と行官の張望とを比較して、おのずと賢なる信行と、賢にあらざる張望とが見えてくると言っているが、これはそのまま阿稽・阿段と張望との関係にも当てはまるであろう。

 このように杜甫が、詩題の中に社会の最下層の人たちの呼び名を書き込み、その人たちへの信頼を示すのは、杜甫指示通り、あるいはそれ以上の作業するという実績の中で生まれた信頼関係であり、一方、それとは対照的に、出来の悪い役人への不信をあらわにしているという詩の書き方も、杜甫の人間性を表している。

 

杜甫が下僕に指示をしたもの、あるいは、息子の宗文に指示して下僕に作業させたもの。

    15-05引水》②《巻15-06 示獠奴阿段》③《巻15-42 信行遠修水筒》④《巻19-20 驅豎子摘蒼耳》⑥《巻15-43 催宗文樹雞柵》⑦《巻19-02豎子至》 ⑧《19-07 課伐木 幷序》⑨《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》

 

    引水

月峽瞿塘雲作頂,亂石崢嶸俗無井。雲安酤水奴僕悲,魚復移居心力省。

白帝城西萬竹蟠,接筒引水喉不乾。人生留滯生理難,斗水何直百憂寬。

 (引水)

月峽 瞿塘 雲頂と作し,亂石 崢嶸【そうおう】俗 井無し。雲安 水を酤うて奴僕悲しむ,魚復 居移して心力省く。

白帝城 西萬竹 蟠【わだかま】る,筒を接し水を引きて喉を乾かず。人生 留滯 生理難し,斗水 何ぞ直【あた】らん百憂の寬なるに。

766年大暦元年55-9 《引水》 杜甫index-15 杜甫<872 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5170 杜甫詩1500-872-1205/2500766年大暦元年55-9

 

 

杜甫が下僕に支持をしたもの、あるいは、息子の宗文に支持して下僕に作業させたもの。

   766年大暦元年55-36 奉節-29 《巻15-06 示獠奴阿段》 杜甫index-15 杜甫<900-01 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5565

    766年大暦元年55-29-#1奉節-19 《巻15-42 信行遠修水筒 -#1 杜甫index-15 杜甫<891-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5445 杜甫詩1500-891-#1-1260/2500766年大暦元年55-29-#1

   766年大暦元年55-37-#1奉節-20-#1 《巻19-20 驅豎子摘蒼耳 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   766年大暦元年55-30-#1奉節-20 《巻15-43 催宗文樹雞柵 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   767年-7-#1杜甫 《19-07 課伐木 序》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-7-#1 <1075 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7055 

   767-65杜甫 《巻19-02豎子至》 杜甫詩index-15-767年大暦256-65 <1155> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7422 杜甫詩1500-1155-1611/2500

とある。

9 粳稻 一種稻米、うるち米。葉片較狹くして短い,色は深綠,莖稈は堅硬である。穀粒はわりあい短く圓形であり,外の穎には上細毛が多くして長い,煮起すると較軟である。粳稻は一般學術上、「日本型稻」或「中國型稻」というよびかたをし,其の米粒は直鏈性をもっていて、澱粉含量は18%~25%である。炊きあがりの香りがよく、味もよい。

10 偏頗 えこひいき。

11 蒲稗 がま、ひえ。

12 非類 同類でないもの、此処では稲以外の雑草をいう。

13 田家 東屯の農家。

14 戒其荒 東屯の水田を耕さず荒れたままにすることを戒める。

15 功夫 ①手段や方法。②手間と暇。③物事を行なう素地となる教養や才能。④今までにない新しいものを生み出す

16 競搰搰 競うように力を用いて努力する。《莊子.天地》:「搰搰然,用力甚多,而見功寡。」(搰搰然として,力を用うること甚だ多く,而して功を見ること寡し。)あくせく身体を動かしているけれど、効果はすくない。

17 除草置岸旁 抜いた草を土手や岸のわきにおいておく。

18 穀者命之本【穀者令士本】 穀物は人の生命の基本である

19 青春 盛春、春の盛りからずっと。

20 具所務 すべきことはすべてやってきた。

21 勤墾 みんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめる。

22 亂常 常道が乱れる。春先、春に土地を耕し、種を植え付けることは、農家の常道であるが、これをしないければ、農家そのものが成り立たないことを言う。①破杯綱常;違反人倫。 〈馬王堆 墓帛書〉《經法國次》「變故亂常, 擅制更爽。」  ②異常;不正常。

23 牛 呉地方の牛、水牛のことで水田を耕すのに使われる。

 24 力容易 力をださせることがたやすい。

25 並驅 【案:去聲。】二匹を並べて鋤をひかせること。

26 動莫當【紛遊場】 粘土質の水田であることで二頭の牛を自由抜動けないように一帯化すること、圃場が掘り起こされることをいう。

767年-13-#2杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#2 <1104> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7167

杜甫詩  秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。穀者命之本,客居安可忘。

青春具所務,勤墾免亂常。牛力容易,並驅動莫當。

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

767-13-#2杜甫 19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#2 杜甫詩index-15-767年大暦256-13-#2 <1104 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7167 

 

 

 
  2016年1月11日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(56)李太白集卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》 375-#3Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(56) Ⅰ李白詩1725 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7165  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈126《 巻四21 荊潭唱和詩序》 #2 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1638> Ⅱ#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7166  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-13-#2杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#2 <1104> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7167  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 改訂 12孫光憲《巻八29定西番二首 其一》『花間集』381全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7169  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

杜甫詩1500-1104-1560/2500

年:767年大暦256-13

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問【秋行官張望督促東渚刈稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              茅堂 (山南東道 夔州 夔州) 別名:東渚、東屯             

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門       

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海    

交遊人物/地點:阿稽          當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

阿段         當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

 

 

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問#1

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

人情見非類,田家戒其荒。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ)
東渚 雨 今足る,聞かんと佇つ粳稻の香しきを。

上天 偏頗無し,蒲稗 各自 長し。

人情 非類を見れば,田家 其の荒るるを戒む

#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。

穀者命之本,客居安可忘。

穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。

青春具所務,勤墾免亂常。

春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。

牛力容易,並驅動莫當。

水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

#2

功夫 競いて搰搰たり,除草 岸旁に置く。

穀は 命の本なり,客居 安んぞ忘る可けん。

青春より 務むる所を具う,勤墾せば 亂常を免る。

牛 力 容易なり,並驅 動として當る莫れ【並驅 紛として場に遊ぶ。】
#3

豐苗亦已雲水照方塘。

有生固蔓延,靜一資堤防。

督領不無人,提攜頗在綱。

#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

尚恐主守疏,用心未甚臧。

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

#5

西成聚必散,不獨陵我倉。

豈要仁里譽,感此亂世忙。

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

瞿塘峡・白帝城・魚復

 

『秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。

穀者命之本,客居安可忘。

青春具所務,勤墾免亂常。

牛力容易,並驅動莫當
#2功夫競搰搰,除草置岸旁。穀者命之本【穀者令士本】,客居安可忘。青春具所務,勤墾免亂常。牛力容易,並驅【案:去聲。】動莫當【並驅紛遊場】。


(下し文)
#2

功夫 競いて搰搰たり,除草 岸旁に置く。

穀は 命の本なり,客居 安んぞ忘る可けん。

青春より 務むる所を具う,勤墾せば 亂常を免る。

牛 力 容易なり,並驅 動として當る莫れ【並驅 紛として場に遊ぶ。】

(現代語訳)
#2

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。

穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。

春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。

水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

夔州東川卜居図詳細 002
(訳注) #2

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》

稲田の係りの張望に東田の草とり督促させておいたところ、秋になってそれが終わりかけたので、晴れた朝、女婢の阿稽と、奴の阿段とをあちらへやって様子を尋ねさせた。そのことを詠んだ詩。

 

功夫競搰搰,除草置岸旁。【穀者令士本】

だから競うように力を用いて努力する、草とりをして、抜いた草を土手や岸のわきにおいておくのである。

1.    功夫 ①手段や方法。②手間と暇。③物事を行なう素地となる教養や才能。④今までにない新しいものを生み出す

2.    競搰搰 競うように力を用いて努力する。《莊子.天地》:「搰搰然,用力甚多,而見功寡。」(搰搰然として,力を用うること甚だ多く,而して功を見ること寡し。)あくせく身体を動かしているけれど、効果はすくない。

3.    除草置岸旁 抜いた草を土手や岸のわきにおいておく。

 

穀者命之本,客居安可忘。

穀物は人の生命の基本であるから、旅をしている身だとしても、その基本を忘れていいものではない。

4.    穀者命之本【穀者令士本】 穀物は人の生命の基本である

 

青春具所務,勤墾免亂常。

春から務めるべきことはみんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめたし、農家の守るべき決まりをみださぬようにしてきた。

5.    青春 盛春、春の盛りからずっと。

6.    具所務 すべきことはすべてやってきた。

7.  勤墾 みんなつとめて、土壌をほりかえすことにつとめる。

23 亂常 常道が乱れる。春先、春に土地を耕し、種を植え付けることは、農家の常道であるが、これをしないければ、農家そのものが成り立たないことを言う。①破杯綱常;違反人倫。 〈馬王堆 墓帛書〉《經法國次》「變故亂常, 擅制更爽。」  ②異常;不正常。

 

牛力容易,並驅動莫當。【案:去聲。】【並驅紛遊場】

水牛を飼って、これに鋤を付けて引かせ、それも二匹一緒につないで耕場にはたらかせたのだ。

24. 牛 呉地方の牛、水牛のことで水田を耕すのに使われる。

25. 力容易 力をださせることがたやすい。

26. 並驅 【案:去聲。】二匹を並べて鋤をひかせること。

27. 動莫當【紛遊場】 粘土質の水田であることで二頭の牛を自由抜動けないように一帯化すること、圃場が掘り起こされることをいう。

 

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》【字解】

 

1 行官張望 ・行官:稲田を管理する吏官。・張望:行官の姓名。

㋐ 767年-10-#1杜甫 《19-15 行官張望補稻畦水歸》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-10-#1 <1088 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7120

㋑ 767年-8-#1杜甫 《19-06 園人送瓜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-8-#1 <1082 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7090

㋒ 767年-11-#1杜甫 《19-05 園官送菜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-11-#1 <1091 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7135

2 東渚 西瀼水の川向こうの水田。

3 耗稻 稲の間に生えて来る雑草をぬきとってなくすこと。

4 向畢 除草作業が終わりかける。

5 清晨 はれたあさ。

6 女奴 女婢

7 豎子 奴。

8 女奴阿稽と豎子阿段 大暦二年、春から始まった東屯での米作りが、夏の除草、灌漑など幾多の農作業の過程をへて、秋に入り最後の除草が終わろうとしていた。米作りには、干害や水害や虫害などの天災がつきものであるが、この年の東屯での米作は大きな災害にも見舞われず、うまくいきつつあった。この取り入れが首尾よく行けば、杜甫にとっては南下する旅費の一部が工面できることになる。秋の収穫は目前であり、杜甫はこの詩で、「西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず」などと、もう秋の豊作を夢見てその後の計画をたてている。杜甫の今次の稲作への期待が想像できるというものである。

 だから彼は、いっそう最後の除草の仕事を好い加減にはしなかった。もともと農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。そのことをきっかけに作ったのが1915_秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ》という長編の五言古詩である。その詩の中ごろに次のように詠じていることが重要である。

有生固蔓延、靜一資隄防。 督領不無人、提攜頗在綱。 

荊揚風土暖、肅肅候微霜。 尚恐主守疏、用心未甚臧。

清朝遣婢僕、寄語踰崇岡。 西成聚必散,不獨陵我倉。

(いのち)有るものは固(もと)より蔓延すれば、静一に隄防するを資()

(ひき)い領(おさ)むることは 人無きにあらず (して行官張望なるものあり)、 かれと提携することは 頗(すこぶ)る綱に在り。

荊揚は風土暖かく、 粛粛として微霜(の降りる収穫のとき)を候()たん。

尚お恐る (行官張望の)主(つかさど)り守ることの疏にして、心を用いること 未だ甚だしくは臧()からざらんことを。

ゆえにわれは清朝(あけがた)に婢と僕とを遣(つか)わして、 語を寄せて崇(たか)き岡を踰()えさす。

西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず。

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》

 

 この詩は農業詩としてみた場合様々な興味深い事柄を含んでいるのだが、それについては別の機会に譲ることにして、ここでは二つの点のみを指摘しておきたい。

 この詩もまた今までの詩と同様、詩題の中に使用人の名前がみえる。豎子の阿段というのは②《巻15-06 示獠奴阿段》に出てきた獠族の少年阿段である。女奴の阿稽というのは、この詩でしか登場しないが、阿夷、阿等などの言い方との類似性を考えれば、阿段と同じ獠族の女性である。行官の張望という人物はこの詩より少し前の、㋐《19-15 行官張望補稻畦水歸》の詩に登場する。張望という人物も、行官という官も、どれほどのものか具体的にはわからないが、いずれにしろ「婢僕」の身分の阿稽と阿段が、行官の張望と同じレベルで並べて述べていることに関しては何の抵抗もないのは、杜甫の心根の問題である。

 杜甫がこの詩を書くに当たっての動機は、先にも述べたように、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、使用人の阿稽と阿段に言い付けを託す、ということであった。この婢僕の二人は単なる杜甫の走り使いということではあるまい。張望がちゃんと除草の仕事をなし終えるかどうかは、杜甫にとってはその後の旅程にも影響するきわめて重要な事であった。杜甫は張望の仕事をきちんと見極めることのできる人間として、阿稽と阿段を使いに送ったものと思われる。行官の張望に対してよりは、むしろ現地の異民族の二人の「婢僕」に信頼を置いていたと言ってもいいくらいである。

 この詩と、前出の《巻15-42 信行遠修水筒》の詩とをくらべて「『信行修水筒(ママ)』の詩は其の奨賞を極め、此の詩には乃ち『尚恐主守疏、用心未甚臧』の語有り。則ち二人の賢否見えたり」(巻二)と述べるかいせつもあるし、使用人の信行と行官の張望とを比較して、おのずと賢なる信行と、賢にあらざる張望とが見えてくると言っているが、これはそのまま阿稽・阿段と張望との関係にも当てはまるであろう。

 このように杜甫が、詩題の中に社会の最下層の人たちの呼び名を書き込み、その人たちへの信頼を示すのは、杜甫指示通り、あるいはそれ以上の作業するという実績の中で生まれた信頼関係であり、一方、それとは対照的に、出来の悪い役人への不信をあらわにしているという詩の書き方も、杜甫の人間性を表している。

 

杜甫が下僕に指示をしたもの、あるいは、息子の宗文に指示して下僕に作業させたもの。

    15-05引水》②《巻15-06 示獠奴阿段》③《巻15-42 信行遠修水筒》④《巻19-20 驅豎子摘蒼耳》⑥《巻15-43 催宗文樹雞柵》⑦《巻19-02豎子至》 ⑧《19-07 課伐木 幷序》⑨《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》

 

    引水

月峽瞿塘雲作頂,亂石崢嶸俗無井。雲安酤水奴僕悲,魚復移居心力省。

白帝城西萬竹蟠,接筒引水喉不乾。人生留滯生理難,斗水何直百憂寬。

 (引水)

月峽 瞿塘 雲頂と作し,亂石 崢嶸【そうおう】俗 井無し。雲安 水を酤うて奴僕悲しむ,魚復 居移して心力省く。

白帝城 西萬竹 蟠【わだかま】る,筒を接し水を引きて喉を乾かず。人生 留滯 生理難し,斗水 何ぞ直【あた】らん百憂の寬なるに。

766年大暦元年55-9 《引水》 杜甫index-15 杜甫<872 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5170 杜甫詩1500-872-1205/2500766年大暦元年55-9

 

 

杜甫が下僕に支持をしたもの、あるいは、息子の宗文に支持して下僕に作業させたもの。

   766年大暦元年55-36 奉節-29 《巻15-06 示獠奴阿段》 杜甫index-15 杜甫<900-01 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5565

    766年大暦元年55-29-#1奉節-19 《巻15-42 信行遠修水筒 -#1 杜甫index-15 杜甫<891-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5445 杜甫詩1500-891-#1-1260/2500766年大暦元年55-29-#1

   766年大暦元年55-37-#1奉節-20-#1 《巻19-20 驅豎子摘蒼耳 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   766年大暦元年55-30-#1奉節-20 《巻15-43 催宗文樹雞柵 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   767年-7-#1杜甫 《19-07 課伐木 序》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-7-#1 <1075 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7055 

   767-65杜甫 《巻19-02豎子至》 杜甫詩index-15-767年大暦256-65 <1155> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7422 杜甫詩1500-1155-1611/2500

とある。

9 粳稻 一種稻米、うるち米。葉片較狹くして短い,色は深綠,莖稈は堅硬である。穀粒はわりあい短く圓形であり,外の穎には上細毛が多くして長い,煮起すると較軟である。粳稻は一般學術上、「日本型稻」或「中國型稻」というよびかたをし,其の米粒は直鏈性をもっていて、澱粉含量は18%~25%である。炊きあがりの香りがよく、味もよい。

10 偏頗 えこひいき。

11 蒲稗 がま、ひえ。

12 非類 同類でないもの、此処では稲以外の雑草をいう。

13 田家 東屯の農家。

14 戒其荒 東屯の水田を耕さず荒れたままにすることを戒める。

767年-13-#1杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#1 <1103> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7163

杜甫  秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問 #1

東渚雨今足,佇聞粳稻香。上天無偏頗,蒲稗各自長。人情見非類,田家戒其荒。

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

767-13-#1杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#1 杜甫詩index-15-767年大暦256-13-#1 <1103> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7163

 

 
  2016年1月10日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(56)李太白集卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》 375-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(56) Ⅰ李白詩1724 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7161  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈126《 巻四21 荊潭唱和詩序》 #1 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1637> Ⅱ#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7162  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-13-#1杜甫 《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-13-#1 <1103> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7163  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八28風流子三首其三》『花間集』380全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7164  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

 杜甫詩1500-1103-1559/2500

年:767年大暦256-13

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問【秋行官張望督促東渚刈稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              茅堂 (山南東道 夔州 夔州) 別名:東渚、東屯             

荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門       

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海    

交遊人物/地點:阿稽          當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

阿段         當地交遊(山南東道 夔州 夔州)

 

 

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問 #1

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

人情見非類,田家戒其荒。

#2

功夫競搰搰,除草置岸旁。

穀者命之本,客居安可忘。

青春具所務,勤墾免亂常。

牛力容易,並驅動莫當。

#3

豐苗亦已雲水照方塘。

有生固蔓延,靜一資堤防。

督領不無人,提攜頗在綱。

#4

荊揚風土暖,肅肅候微霜。

尚恐主守疏,用心未甚臧。

清朝遣婢僕,寄語踰崇岡。

#5

西成聚必散,不獨陵我倉。

豈要仁里譽,感此亂世忙。

北風吹蒹葭,蟋蟀近中堂。

荏苒百工休,鬱紆遲暮傷。

 

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問 #1

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

人情見非類,田家戒其荒。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ)
東渚 雨 今足る,聞かんと佇つ粳稻の香しきを。

上天 偏頗無し,蒲稗 各自 長し。

人情 非類を見れば,田家 其の荒るるを戒む

 

瞿塘峡・白帝城・魚復 

『秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問 #1

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

上天無偏頗,蒲稗各自長。

人情見非類,田家戒其荒。

(下し文)
(秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ)
東渚 雨 今足る,聞かんと佇つ粳稻の香しきを。

上天 偏頗無し,蒲稗 各自 長し。

人情 非類を見れば,田家 其の荒るるを戒む。


(現代語訳)
秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問 #1(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

denen03350
(訳注)

秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問 #1

稲田の係りの張望に東田の草とり督促させておいたところ、秋になってそれが終わりかけたので、晴れた朝、女婢の阿稽と、奴の阿段とをあちらへやって様子を尋ねさせた。そのことを詠んだ詩。

(農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。というのも、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。)

1.    行官張望 ・行官:稲田を管理する吏官。・張望:行官の姓名。

㋐ 767年-10-#1杜甫 《19-15 行官張望補稻畦水歸》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-10-#1 <1088 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7120

㋑ 767年-8-#1杜甫 《19-06 園人送瓜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-8-#1 <1082 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7090

㋒ 767年-11-#1杜甫 《19-05 園官送菜》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-11-#1 <1091 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7135

2.    東渚 西瀼水の川向こうの水田。

3.    耗稻 稲の間に生えて来る雑草をぬきとってなくすこと。

4.    向畢 除草作業が終わりかける。

5.    清晨 はれたあさ。

6.    女奴 女婢

7.  豎子 奴。

8.  女奴阿稽と豎子阿段 大暦二年、春から始まった東屯での米作りが、夏の除草、灌漑など幾多の農作業の過程をへて、秋に入り最後の除草が終わろうとしていた。米作りには、干害や水害や虫害などの天災がつきものであるが、この年の東屯での米作は大きな災害にも見舞われず、うまくいきつつあった。この取り入れが首尾よく行けば、杜甫にとっては南下する旅費の一部が工面できることになる。秋の収穫は目前であり、杜甫はこの詩で、「西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず」などと、もう秋の豊作を夢見てその後の計画をたてている。杜甫の今次の稲作への期待が想像できるというものである。

 だから彼は、いっそう最後の除草の仕事を好い加減にはしなかった。もともと農作業の管理を一部代行してもらっている行官の張望という州の役人がいるのだが、杜甫は彼に対して今ひとつ信頼が置けなかった。そこで使用人の阿稽と阿段に言伝てを持たせて、わざわざ行官の張望のところまで行かせたのである。そのことをきっかけに作ったのが1915_秋に行官の張望、東渚の耗稲を督促し、畢るに向(なんなん)とす。清晨に女奴の阿稽と豎子の阿段を遣(つか)わして往()きて問わしむ》という長編の五言古詩である。その詩の中ごろに次のように詠じていることが重要である。

有生固蔓延、靜一資隄防。 督領不無人、提攜頗在綱。 

荊揚風土暖、肅肅候微霜。 尚恐主守疏、用心未甚臧。

清朝遣婢僕、寄語踰崇岡。 西成聚必散,不獨陵我倉。

(いのち)有るものは固(もと)より蔓延すれば、静一に隄防するを資()

(ひき)い領(おさ)むることは 人無きにあらず (して行官張望なるものあり)、 かれと提携することは 頗(すこぶ)る綱に在り。

荊揚は風土暖かく、 粛粛として微霜(の降りる収穫のとき)を候()たん。

尚お恐る (行官張望の)主(つかさど)り守ることの疏にして、心を用いること 未だ甚だしくは臧()からざらんことを。

ゆえにわれは清朝(あけがた)に婢と僕とを遣(つか)わして、 語を寄せて崇(たか)き岡を踰()えさす。

西(あき)の成(みの)りは 聚(あつ)まれば必ず散じて、独り我が倉を陵(おか)のごとくたかくするのみならず。

1915_秋行官張望督促東渚耗稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問》

 

 この詩は農業詩としてみた場合様々な興味深い事柄を含んでいるのだが、それについては別の機会に譲ることにして、ここでは二つの点のみを指摘しておきたい。

 この詩もまた今までの詩と同様、詩題の中に使用人の名前がみえる。豎子の阿段というのは②《巻15-06 示獠奴阿段》に出てきた獠族の少年阿段である。女奴の阿稽というのは、この詩でしか登場しないが、阿夷、阿等などの言い方との類似性を考えれば、阿段と同じ獠族の女性である。行官の張望という人物はこの詩より少し前の、㋐《19-15 行官張望補稻畦水歸》の詩に登場する。張望という人物も、行官という官も、どれほどのものか具体的にはわからないが、いずれにしろ「婢僕」の身分の阿稽と阿段が、行官の張望と同じレベルで並べて述べていることに関しては何の抵抗もないのは、杜甫の心根の問題である。

 杜甫がこの詩を書くに当たっての動機は、先にも述べたように、最後の除草を前に、役人の張望が好い加減で、配慮があまり行き届かないのを心配して、使用人の阿稽と阿段に言い付けを託す、ということであった。この婢僕の二人は単なる杜甫の走り使いということではあるまい。張望がちゃんと除草の仕事をなし終えるかどうかは、杜甫にとってはその後の旅程にも影響するきわめて重要な事であった。杜甫は張望の仕事をきちんと見極めることのできる人間として、阿稽と阿段を使いに送ったものと思われる。行官の張望に対してよりは、むしろ現地の異民族の二人の「婢僕」に信頼を置いていたと言ってもいいくらいである。

 この詩と、前出の《巻15-42 信行遠修水筒》の詩とをくらべて「『信行修水筒(ママ)』の詩は其の奨賞を極め、此の詩には乃ち『尚恐主守疏、用心未甚臧』の語有り。則ち二人の賢否見えたり」(巻二)と述べるかいせつもあるし、使用人の信行と行官の張望とを比較して、おのずと賢なる信行と、賢にあらざる張望とが見えてくると言っているが、これはそのまま阿稽・阿段と張望との関係にも当てはまるであろう。

 このように杜甫が、詩題の中に社会の最下層の人たちの呼び名を書き込み、その人たちへの信頼を示すのは、杜甫指示通り、あるいはそれ以上の作業するという実績の中で生まれた信頼関係であり、一方、それとは対照的に、出来の悪い役人への不信をあらわにしているという詩の書き方も、杜甫の人間性を表している。

 

杜甫が下僕に指示をしたもの、あるいは、息子の宗文に指示して下僕に作業させたもの。

    15-05引水》②《巻15-06 示獠奴阿段》③《巻15-42 信行遠修水筒》④《巻19-20 驅豎子摘蒼耳》⑥《巻15-43 催宗文樹雞柵》⑦《巻19-02豎子至》 ⑧《19-07 課伐木 幷序》⑨《19-16 秋行官張望督促東渚耗稻向畢,清晨遣女奴阿稽、豎子阿段往問》

 

    引水

月峽瞿塘雲作頂,亂石崢嶸俗無井。雲安酤水奴僕悲,魚復移居心力省。

白帝城西萬竹蟠,接筒引水喉不乾。人生留滯生理難,斗水何直百憂寬。

 (引水)

月峽 瞿塘 雲頂と作し,亂石 崢嶸【そうおう】俗 井無し。雲安 水を酤うて奴僕悲しむ,魚復 居移して心力省く。

白帝城 西萬竹 蟠【わだかま】る,筒を接し水を引きて喉を乾かず。人生 留滯 生理難し,斗水 何ぞ直【あた】らん百憂の寬なるに。

766年大暦元年55-9 《引水》 杜甫index-15 杜甫<872 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5170 杜甫詩1500-872-1205/2500766年大暦元年55-9

 

 

杜甫が下僕に支持をしたもの、あるいは、息子の宗文に支持して下僕に作業させたもの。

   766年大暦元年55-36 奉節-29 《巻15-06 示獠奴阿段》 杜甫index-15 杜甫<900-01 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5565

    766年大暦元年55-29-#1奉節-19 《巻15-42 信行遠修水筒 -#1 杜甫index-15 杜甫<891-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5445 杜甫詩1500-891-#1-1260/2500766年大暦元年55-29-#1

   766年大暦元年55-37-#1奉節-20-#1 《巻19-20 驅豎子摘蒼耳 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   766年大暦元年55-30-#1奉節-20 《巻15-43 催宗文樹雞柵 -#1 杜甫index-15 杜甫<892-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5455 

   767年-7-#1杜甫 《19-07 課伐木 序》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56-7-#1 <1075 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7055 

   767-65杜甫 《巻19-02豎子至》 杜甫詩index-15-767年大暦256-65 <1155> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7422 杜甫詩1500-1155-1611/2500

とある。

 

東渚雨今足,佇聞粳稻香。

東瀼水のなぎさ(東屯の水田)では、いま雨が十分で、やがて粳稲が香しくみのるであろうとかまえて、まっているのだ。

9.    粳稻 一種稻米、うるち米。葉片較狹くして短い,色は深綠,莖稈は堅硬である。穀粒はわりあい短く圓形であり,外の穎には上細毛が多くして長い,煮起すると較軟である。粳稻は一般學術上、「日本型稻」或「中國型稻」というよびかたをし,其の米粒は直鏈性をもっていて、澱粉含量は18%~25%である。炊きあがりの香りがよく、味もよい。

 

上天無偏頗,蒲稗各自長。

天には偏頗はないはずであるから稲が育つとともにガマや稗もそれぞれが背を伸ばしてくる。

10.  偏頗 えこひいき。

11.  蒲稗 がま、ひえ。

 

人情見非類,田家戒其荒。

こうした水田では、人の情で、稲の間に生えて来るやくざな草をそのままにして田地を荒してしまうことは、耕作者としてやってはならないことである。

12.  非類 同類でないもの、此処では稲以外の雑草をいう。

13.  田家 東屯の農家。

14.  戒其荒 東屯の水田を耕さず荒れたままにすることを戒める。

767年-12-#3杜甫 《19-10 上後園山腳》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-12-#3 <1102> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7159

杜甫  上後園山 #3

故園暗戎馬,骨肉失追尋。時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。

767-12-#3杜甫 19-10 上後園山#3 杜甫詩index-15-767年大暦256-12-#3 <1102 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7159

 

 

 
  2016年1月9日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(56)李白 卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》(西嶽崢嶸何壯哉,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(56) <李白> Ⅰ李白詩1714 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7118  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈125《 巻三03 上兵部李侍郎書》 #8§5 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1636> Ⅱ#8§5 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7158  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-12-#3杜甫 《19-10 上後園山腳》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-12-#3 <1102> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7159  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八27風流子三首其二》『花間集』379全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7160  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

杜甫詩1500-1102-1558-#3/2500

年:767年大暦256-12-#2

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              隴首山 (隴右道東部 秦州 秦州)       

劍門山 (劍南道北部 劍州 劍門) 別名:蜀門  

蘇門山 (河北道南部 衛州 蘇門山)    

交遊人物/地點:  

 

 

上後園山  #1

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

朱夏熱所嬰,清旭步北林。

真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。

小園背高岡,挽葛上崎崟。

小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。

そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。

潛鱗恨水壯,去翼依雲深。

淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。

#2

勿謂地無疆,劣於山有陰。

天下の地面には際限がないなどと謂うものではない。いま、この天下は広いといってもここの山にこの山陰の園が有ることそのものがもっとわるいのではなかろうか。

遍天下,水陸兼浮沈。

安史の乱から、いわば天下じゅう、隅々までが穀物のできない石原みたいなものになってしまい、人民は水にも溺れ沈み、陸ながらも沈没しているとおなじことになっている。

自我登隴首,十年經碧岑。

自分は西の辺境、隴山の首にのぼりだしてから、もう十年ばかり、青山を経歴し、旅客している。

劍門來巫峽,薄倚浩至今。

隴から剣門・成都へ、剣門・成都から巫峡へ、拙と疾とにとりつかれてあのときからすっと今日におよんでいるのである。

#3

故園暗戎馬,骨肉失追尋。

それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。

時危無消息,老去多歸心。

社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。

志士惜白日,久客藉黃金。

志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。

敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。

 

(後園の山上る

朱夏 熱 嬰る所なり,清旭に 北林に步す。

小園 高岡をに背す,葛を挽きて 崎崟たるに上る。

曠望 駐目を延く,飄颻 疏襟を散ず。

潛鱗 水の壯なるを恨み,去翼 雲の深きに依る。
#2

謂う勿れ 地 疆【かぎ】り無しと,山の陰有るよりも劣れり。

【せきげん】天下に遍し,水陸 兼て 浮沈す。

我が隴首に登りしより,十年 碧岑を經る。

劍門より 巫峽に來る,薄倚 浩として今に至れり。
#3

故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。

時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。

志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。

敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。

 

瞿塘峡・白帝城・魚復 

『上後園山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

故園暗戎馬,骨肉失追尋。

時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。

敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。


(下し文)
#3

故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。

時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。

志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。

敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。


(現代語訳)
#3

それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。

社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。

志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。

だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。


(訳注)#3

上後園山

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

 

故園暗戎馬,骨肉失追尋。

それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。

23 故園 故郷。

24 暗戎馬 安史の乱によるものと、それが収まって、謀叛、叛乱、叛起等が増加したことを言う。

25 骨肉 兄弟、肉親の消息。

 

時危無消息,老去多歸心。

社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。

26 時危無消息 社会が混乱していて、特に駅伝制に乱れが起こったことで、書簡の往復がむつかしい状況が続いているのである。死んでしまったから消息がないのか、社会の混乱によって消息が取れないのか、この時杜甫はわかっていない。

 

志士惜白日,久客藉黃金。

志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。

27 藉黃金 金は金銭で、月給といえるものをもらっていたようで、この時杜甫は柏中丞から月ごとに金銭をもらっていたことをしめすものだ。

 

敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。

28 蘇門嘯 蘇門長嘯の故事のこと。魏の阮籍が薊門山にのぼり、孫登に遭遇、ともに古今のこと、道家の導氣之術などを談義しようとしたが、孫登はこれに答えようとはしなかった。阮籍は 長嘯して、その場を退き、山を下り始めた。半ば下りかけたころ、天空に声がした。それは鸞鳳の声かとおもったが、孫登の長嘯であった。ここでは、孫登の隠者風なことを形容するものである。また、この頃までは、隠者を訪ねて逢えないものというものというのが隠者の形容であった。「隠者不遇」と「蘇門長嘯」とは同類の語である。

《晉書·卷四十九·阮籍傳》「阮籍曾於蘇門遇孫登, 談論道家導氣之術, 登皆不應答, 籍因此長嘯而退。 行至半嶺, 聞山谷中傳出有若鸞鳳的聲音, 乃是孫登之嘯。 」( 阮籍 曾て於蘇門に孫登遇,道家の導氣之術を談論す, 登 皆 應答せず, 籍此因にり長嘯して退く。 行きて半嶺に至り,山谷に中って傳出する 鸞鳳の聲音の若く有るを聞き, 乃ち是れ孫登の嘯なり。)にみえる。 後 以て蘇門長嘯を形容するのは高傲或は嘯傲 不羈とする態度をいう。

29 梁父吟 梁甫吟は古楽府題の一つ。相和歌楚調曲に梁父吟行とあって、その由来は戦国の武侯が好んで詠ったものといわれる。梁甫は、梁父とも書き、むかしの斉の国、いまの山東省の、泰山のふもとにある、570mの小さな山の名である。そこは、古代の迷信では、死者のたましいの帰る場所とされていた。「梁甫吟」はもともと、葬いの歌であったという。また、骨子(孔子の弟子)の作ったものであるという。骨子が泰山のふもとに耕していたところ、天が大雪をふらし、凍ること旬日、帰ることができず、その父母を思って、巣山歌を作ったと、「琴挽」という本に見える、それが「梁甫吟」の起源であるという。現在「楽府詩集」に収められている一首は、「三国志」の立役者である諸葛亮(孔明)の作と伝えられている。それは次の歌である。
諸葛亮(孔明)「梁甫吟」
歩出斉城門、遥望蕩陰里。里中有三墳、塁塁正相似。
問是誰家墓、田疆古冶子。力能排南山、文能絶地紀。
一朝被讒言、二桃殺三士。誰能為此謀、国相斉晏子。
歩して斉の城門を出で  遥に蕩陰の里を望む 
里中に三墳有り  塁塁として正に相似たり
問う是れ誰が家の墓ぞ  田疆古冶氏
力を能く南山を排し  文を能く地紀を絶つ
一朝 讒言を被りて  二桃 三士を殺す
誰か能く此の謀を為せる  国相斉の晏子なり
現代訳
梁甫の歌;
斉の城門を歩いて出て、遠くに蕩陰(地名)の村を眺めるとそこにお墓が三基ある 並んで立っていて、よく似ていた。
これはどちらのお墓ですかと聞いてみた。
これが有名な公孫接・田開彊・古冶子のお墓です。
三人は南山を動かすほど力が強く、大地の四隅を繋ぐ紐を切るほど学問もできる人たちでした
ところが、ひとたび、讒言を言われ、二つの桃でもって三人を殺してしまった。
誰がこんなはかりごとをしたのですか? それは斉の宰相の晏嬰です

これは、詭計をもちいて人を殺した、斉の量子の故事をうたったものである。「力排南山三壯士。齊相殺之費二桃」参照。李白のこの詩は、その故事をふくみつつ、主題を少しかえ、不遇の志士の時機到来を待つ気持をうたいあげる。

梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643

・諸葛亮 (181234)字は孔明、陽都(山東折水県の南) の人。蜀漢の名臣で、三国時代第一流の人物。劉備三顧の礼に感激して襄陽(湖北省)の隠居を出で、曹操を赤壁に破って丞相となり、劉備の死後はその千割禅を助けて幾を討ったが、陣中に病没した。その 「出師表」は赤誠の発露と文品の高いのによって称せられる。

李白も同様に作っている。

155-#1 《巻02-04 梁吟 -#1》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <155-#1> Ⅰ李白詩1355 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5323

155-#2 《巻02-04 梁甫吟 -#2》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <155-#2> Ⅰ李白詩1356 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5328

155-#3 《巻02-04 梁甫吟 -#3》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <155-#3> Ⅰ李白詩1357 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5333

155-#4 《巻02-04 梁甫吟 -#4》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <155-#4> Ⅰ李白詩1358 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5338

杜甫  《1347》登樓

花近高樓傷客心,萬方多難此登臨。

錦江春色來天地,玉壘浮雲變古今。

北極朝廷終不改,西山寇盜莫相侵。

可憐後主還祠廟,日暮聊為梁甫吟。

(楼に登る)

花 高楼に近うして 客心を傷ましむ、万方 多難 此に登臨す。

錦江の春色 天地より来たり、玉塁の浮雲古今 変ず。

北極の朝廷は終に改まらず、西山の寇盜 相い侵すこと莫れ。

憐む可し後主 還た祠廟、日暮 聊か梁父の吟を為す。

廣徳2年764-94 巻13-47登樓》 杜甫index-14 764年登樓 杜甫<766 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4415 杜甫詩1500-766-1054/25001

杜甫 《巻14-24初冬》初冬

垂老戎衣窄,歸休寒色深。漁舟上急水,獵火著高林。

日有習池醉,愁來〈梁甫吟〉。干戈未偃息,出處遂何心。

(初冬)

垂老 戎衣窄【せま】し,歸休すれば 寒色深し。漁舟 急水を上り,獵火 高林に著く。

日に 習池の醉有り,愁い來れば〈梁甫吟〉をす。干戈 未だ偃息せず,出處 遂に何の心ぞ。

廣徳2年764-90 巻14-24初冬》 杜甫index-14 764年 杜甫<791 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4645 杜甫詩1500-791-1100/2500廣徳2年764-90

1917諸葛廟》

久遊巴子國,屢入武侯祠。竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。

君臣當共濟,賢聖亦同時。翊戴歸先主,并吞更出師。

蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。欻憶吟梁父,躬耕也未遲。
(諸葛廟)

久しく遊ぶ巴子の国、屡々入る武侯の祠。竹日 虚寝に斜めに、渓風薄唯に満つ。

君臣 共済に当たる、賢聖 亦た時を同じくす。翊戴 先主に帰す、併呑 更に師を出す。

虫蛇 画壁を穿つ、巫覡 蛛糸に酔う。欻ち憶う 梁父を吟ぜしを、窮耕するも 也た 未だ遅からず。

766年-98杜甫 《1917諸葛廟》五言古詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-98 <961 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6440

 

 

 

続きを読む

767年-12-#2杜甫 《19-10 上後園山腳》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-12-#2 <1101> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7155

杜甫  上後園山#2

勿謂地無疆,劣於山有陰。石遍天下,水陸兼浮沈。

自我登隴首,十年經碧岑。劍門來巫峽,薄倚浩至今。

天下の地面には際限がないなどと謂うものではない。いま、この天下は広いといってもここの山にこの山陰の園が有ることそのものがもっとわるいのではなかろうか。安史の乱から、いわば天下じゅう、隅々までが穀物のできない石原みたいなものになってしまい、人民は水にも溺れ沈み、陸ながらも沈没しているとおなじことになっている。自分は西の辺境、隴山の首にのぼりだしてから、もう十年ばかり、青山を経歴し、旅客している。隴から剣門・成都へ、剣門・成都から巫峡へ、拙と疾とにとりつかれてあのときからすっと今日におよんでいるのである。

767-12-#2杜甫 19-10 上後園山#2 杜甫詩index-15-767年大暦256-12-#2 <1101 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7155

 

 
  2016年1月8日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(55)李太白集卷六05 -《玉壺吟》#2 374Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(55)#2 Ⅰ李白詩1722 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7153  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈125《 巻三03 上兵部李侍郎書》 #7§4-2 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1635> Ⅱ#7§4-2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7154  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-12-#2杜甫 《19-10 上後園山腳》#2 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-12-#2 <1101> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7155  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 改訂12孫光憲《巻八26風流子三首其一》『花間集』378全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7162  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1101-1558-#2/2500

年:767年大暦256-12-#2

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              隴首山 (隴右道東部 秦州 秦州)       

劍門山 (劍南道北部 劍州 劍門) 別名:蜀門  

蘇門山 (河北道南部 衛州 蘇門山)    

交遊人物/地點:  

 

 

上後園山  #1

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

朱夏熱所嬰,清旭步北林。

真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。

小園背高岡,挽葛上崎崟。

小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。

そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。

潛鱗恨水壯,去翼依雲深。

淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。

#2

勿謂地無疆,劣於山有陰。

天下の地面には際限がないなどと謂うものではない。いま、この天下は広いといってもここの山にこの山陰の園が有ることそのものがもっとわるいのではなかろうか。

遍天下,水陸兼浮沈。

安史の乱から、いわば天下じゅう、隅々までが穀物のできない石原みたいなものになってしまい、人民は水にも溺れ沈み、陸ながらも沈没しているとおなじことになっている。

自我登隴首,十年經碧岑。

自分は西の辺境、隴山の首にのぼりだしてから、もう十年ばかり、青山を経歴し、旅客している。

劍門來巫峽,薄倚浩至今。

隴から剣門・成都へ、剣門・成都から巫峡へ、拙と疾とにとりつかれてあのときからすっと今日におよんでいるのである。

#3

故園暗戎馬,骨肉失追尋。

時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。

敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

 

(後園の山上る

朱夏 熱 嬰る所なり,清旭に 北林に步す。

小園 高岡をに背す,葛を挽きて 崎崟たるに上る。

曠望 駐目を延く,飄颻 疏襟を散ず。

潛鱗 水の壯なるを恨み,去翼 雲の深きに依る。
#2

謂う勿れ 地 疆【かぎ】り無しと,山の陰有るよりも劣れり。

【せきげん】天下に遍し,水陸 兼て 浮沈す。

我が隴首に登りしより,十年 碧岑を經る。

劍門より 巫峽に來る,薄倚 浩として今に至れり。

#3

故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。

時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。

志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。

敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。

 

 

『上後園山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

勿謂地無疆,劣於山有陰。

遍天下,水陸兼浮沈。

自我登隴首,十年經碧岑。

劍門來巫峽,薄倚浩至今。

(下し文)
#2

謂う勿れ 地 疆【かぎ】り無しと,山の陰有るよりも劣れり。

【せきげん】天下に遍し,水陸 兼て 浮沈す。

我が隴首に登りしより,十年 碧岑を經る。

劍門より 巫峽に來る,薄倚 浩として今に至れり。


(現代語訳)
#2

天下の地面には際限がないなどと謂うものではない。いま、この天下は広いといってもここの山にこの山陰の園が有ることそのものがもっとわるいのではなかろうか。

安史の乱から、いわば天下じゅう、隅々までが穀物のできない石原みたいなものになってしまい、人民は水にも溺れ沈み、陸ながらも沈没しているとおなじことになっている。

自分は西の辺境、隴山の首にのぼりだしてから、もう十年ばかり、青山を経歴し、旅客している。

隴から剣門・成都へ、剣門・成都から巫峡へ、拙と疾とにとりつかれてあのときからすっと今日におよんでいるのである。


(訳注) #2

上後園山

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

 

勿謂地無疆,劣於山有陰。

天下の地面には際限がないなどと謂うものではない。いま、この天下は広いといってもここの山にこの山陰の園が有ることそのものがもっとわるいのではなかろうか。

1.   地無疆 広大な地面には際限がないということはない。

2.   劣於山有陰 山の北斜面の農園の後ろ側の農園よりも劣る。

 

遍天下,水陸兼浮沈。

安史の乱から、いわば天下じゅう、隅々までが穀物のできない石原みたいなものになってしまい、人民は水にも溺れ沈み、陸ながらも沈没しているとおなじことになっている。

3.  遍天下 は食糧難で木の皮を食べて原っぱになることを言い、安史の乱により,世が乱れ、石ころだらけの原野になることという意。

 

自我登隴首,十年經碧岑。

自分は西の辺境、隴山の首にのぼりだしてから、もう十年ばかり、青山を経歴し、旅客している。

4.   十年 759年乾元二年七月秦州に入ってから足掛け9年である。

5.   碧岑 青いとがった山。

 

劍門來巫峽,薄倚浩至今。

隴から剣門・成都へ、剣門・成都から巫峡へ、拙と疾とにとりつかれてあのときからすっと今日におよんでいるのである。

6.   薄倚 失敗と病気がちであること。

7.   浩至今 ずいぶん遠くはるかな感じの時が過ぎたことを言う。

 

 

上後園山

朱夏熱所嬰,清旭步北林。小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。潛鱗恨水壯,去翼依雲深。
勿謂地無疆,劣於山有陰。石遍天下,水陸兼浮沈。

自我登隴首,十年經碧岑。劍門來巫峽,薄倚浩至今。

故園暗戎馬,骨肉失追尋。時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

 

杜甫 『上後園山【字解】

 

 

1.    後ろ側、地形的に北征に険しい山があるがその山裾は、居宅からは北側になる。

2.  園 都督の管理の農園 

3.    赤甲山の山懐のような小高いところ。

4.   朱夏 《五行思想で、赤色を夏に配するところから》夏の異称。《爾雅釋天》:夏為朱明。” 三國 曹植 《槐賦》:在季春以初茂, 踐朱夏而乃繁。” 《舊五代史梁書末帝紀下》:況青春告謝, 朱夏已臨。” 唐孫華 《夏日園居雜詠》之十二:三年客裏逢朱夏, 一月天邊盼素秋。”

5.    とりつかれる。

6.   清旭 朝日の清清しい時。

7.   挽葛 葛の蔓を手で引っ張る。

8.   上崎崟 山の険しいところに登る

9.   曠望 眼前の悵望が広く望める。

10. 延駐目 延はこちらを呼んでくれる、駐目は注視すること。

11. 飄颻 風にひるがえるさま。隨風に飄動する。

文選.曹植.《雜詩六首其二》

轉蓬離本根,飄颻長隨風。何意回飆舉,吹我入雲中。

高高上無極,天路安可窮。類此遊客子,捐軀遠從戎。

毛褐不掩形,薇藿常不充。去去莫復道,沈憂令人老。

轉蓬は本根より離れ,飄颻として長く風に隨う。

何んぞ意わん回飆【かいひょう】の舉がり,我を吹きて雲中に入れんとは。

高高と上りて極り無く,天路 安んぞ窮む可かんや。

類たり此の遊客の子,軀を捐てて遠く戎に從う。

毛褐 形を掩わず,薇藿【びかく】常に充たざるに。去り去りて復た道う莫れ,沈憂 人をして老わしむ。

転びゆく蓬は、もとの根より離れ、ひらひらと、遠く風の吹くまにまにひるがえってとばされる。

ところが、思いがけなくも、つむじ風が巻きおこったとすると我々蓬は雲中高く吹きあげられてしまうのだ。

高く高く吹き上げられると、どこまでも限りなく飛ばされるのだ。しかし、天の路こそは、どうしてその窮極の先まで行くというのか。

これはさすらう旅人に似ているというものであり、その身を犠牲にして、遠く従軍するというのはこのことをいうものなのだ。

その旅人が冬にきる短い皮ごろもは、身体を全ておおうことにならないし、食べるものも、わらびや豆の葉などで、いつも腹をみたすことはできないのである。

こんな話はやめなければ、そうだもうもうやめよう。二度とこのような言葉は繰りかえすことはしない。こんな深い憂愁な気分でいることは人をふけさせるものでしかないのだ。

12. 疏襟 襟元を緩くして風通しをよくするという意。

13. 潛鱗 淵の深いところに潜んだ魚。

14. 恨水壯 水の流れの勢いが盛んであるため泳ぎだせないでいる。

15. 去翼 飛び去って行った鳥。

 

 

杜甫 『園官送菜 并序』【字解】

 

園官送菜 并序:園官送菜把,本數日闕。矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,傷小人妒害君子,菜不足道也,比而作詩。

清晨蒙菜把,常荷地主恩。守者愆實數,略有其名存。苦苣刺如針,馬齒葉亦繁。

青青嘉蔬色,埋沒在中園。園吏未足怪,世事固堪論。嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。小人塞道路,為態何喧喧。又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

點染不易虞,絲麻雜羅紈。一經器物永挂粗刺痕。志士采紫芝,放歌避戎軒。

畦丁負籠至,感動百慮端。

 

 

1 園官 菜園を管理する吏官。

2 菜把 野菜束

3 本 本来。

4 數日闕 数日間、中止されていた。

5 苦苣 キク科の一年草で、野菜である。和名はキクヂシャ。ニガチシャという別名もある。同じキクニガナ属の多年生野菜チコリーと同様に独特の苦みがあるが、見かけはチコリーと違い非結球レタスに似ている。又称苦菊,菊科菊苣属的植物,是一种栽培菊苣。

6 馬齒 五行草の一つ。葉が青く、梗は赤く、花は黄色、根は白く、実は黒く、食べると少し酸味が強い。スベリヒユは、スベリヒユ科スベリヒユ属の多年生植物。 同属にはマツバボタンなどが知られる。

7 掩乎嘉蔬 良い野菜で覆い隠す。

8 比 たとえることをいう。

9 地主 土地の主人、夔州の都督柏茂琳をさす。柏茂琳ほ大暦元年八月には卭南節度であったが、其の夔州に到りしは、元年と二年の交にあるようである。

10 守者 番人、即ち農園の管理官をいう。

11 其名存 野菜の品名と実物。

12. 埋沒在中園 園の中にある他のよい野菜の中に埋もれていた野菜であるが、此処で見るととても良さがわかるというほどの意。

13. 固堪論 反語である。論ずるに堪えられない。

14. 苦苣輩 人間界でも苦チシャの様なもの、朝廷内で、宦官と結託して策謀する者たちをさす。

15. 為態 態をなす。

16. 何喧喧 ががやがやとなんとさわがしくすることか。

17. 氣 馬齒の気勢。

18. 葵荏昏 葵は葉ワサビの類。桂荏紫蘇のことであるが、エゴマの古名でもある。《爾雅·釋草》蘇,桂荏。《揚子·方言》關之東西或謂之蘇,或謂之荏。《後漢·馬融傳》桂荏、鳧葵。《本草》荏子可壓油。

19. 點染 善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらうこと。

20. 不易虞 おもいもよらないこと。

21. 絲麻 木綿糸と麻。絲と麻があれば衣服ができる、千から学ぶことができれば士官しようなどとは思わない、自らをしめればよい。《莊子·讓王》: 孔子謂顏回曰:「回來!家貧居卑,胡不仕乎?」顏回對曰:「對曰:不願仕,回有郭外之田五十畝,足以給𩜾鬻,郭十畝,足以為絲麻,鼓琴可以自,所學夫子者,足以自樂也。」(回來れ!家貧にして卑しきに居る,胡ぞ仕えざるや?」顏回對えて曰く:「對えて曰く:仕を願わず,回 郭外の田五十畝,以て𩜾鬻に給するに足り,郭十畝,以て絲麻を為るに足る有り,琴を鼓すれば以て自らしむ,夫子に學ぶ所の者は,以て自ら樂しむに足れり。)

22. 雜 まざる。

23. 羅紈 羅紈うすきぬ。精美的絲織品。 《戰國策齊策四》:下宮糅羅紈, 曳綺縠, 而士不得以為緣。”(下宮糅羅紈, 曳綺縠, 而士不得以為緣。) 《淮南子齊俗訓》:有詭文繁繡, 弱緆羅紈。” 高誘 注:羅, 縠;紈, 素也。” 《淮南子・説林訓》「有羅紈者は必有麻蒯。」(羅紈ある者は必ず麻蒯【まけい】あり。) 美服を着る者は、必ず粗服を着るときがある。栄える者は必ず衰えるときがある。

 

 

 

園人送瓜

江間雖炎瘴,瓜熟亦不早。柏公鎮夔國,滯務茲一掃。

食新先戰士,共少及溪老。傾筐蒲鴿青,滿眼顏色好。

竹竿接嵌竇,引注來鳥道。沈浮亂水玉,愛惜如芝草。

落刃嚼冰霜,開懷慰枯槁。許以秋蒂除,仍看小童抱。

東陵跡蕪楚漢休征討。園人非故侯,種此何草草。

 

杜甫 園人送瓜【字解】

 

1 園人 都督の管理の農園の係の吏人。

2 柏公 柏茂琳。

3 鎮夔國 夔州の軍務の長官となることをいう。

4 滯務 事務の仕事が溜まっている。

5 食新 初物、旬のものをたべる。

6 共少 数の少ないものを衆人とともに分け、分配する。

7 溪老 渓居の老人、杜甫のこと。

 

8 傾筐 目を細かく編んだ竹かご。堅間(かたま)。勝間(かつま)。「花筐」傾とあるのは背中に背負うのにいいようにしたが凋んでいる畚であろう。

9 蒲鴿 あおはと、であるが、杜甫が此処で使ったことから、こののち青瓜をこう呼ぶようになっている。

10 接嵌竇 岩の間から染み出ている水に差しこんで水を竹竿で接続して引水する。

11 來鳥道 高いところへ続く人が歩く道ではなく、鳥が通るほどの水が作ったの道のようなもの。

12 水玉 引水が傾筐や、水だまりに落ちて飛び散るときの水の玉。

13 芝草 靈芝や薬草、杜甫は成都ではこれを集めて南市に売りに行っていたこともあって詳しい。

14 落刃 瓜を刃物できること。

15 嚼冰霜 瓜に肩の葉を入れた時の果肉の切れるときの表現。

16 慰枯槁 自分のような枯れかかったものにはそのみずみずしさが胸にしみこみ開かれるようで老境をなぐさめてくれるというほどの意。

 

17 許以 園人が杜甫に対して(瓜を持ってきてあげることを)予約することを言う。

18 秋蒂除 秋になって熟して来たら蔓に帯びてなっている瓜を切りとる。

19 仍看 瓜が熟したその時、また今回の様に瓜を見ることができる。

20 小童抱 管理園の下僕に抱きかかえて持ってこさせる。

21 東陵 東陵の五色の瓜の故事。長安城の東に出る南斗第一の門を霸城門という。民間では、門が青いことから青城門と呼んでいる。 門外には佳い瓜がなっている。廣陵の人、邵平が秦の東陵侯になったが、秦が滅亡すると 一般人になった。そこで彼は瓜の種を青城門の外に植えた。この瓜は美味である。 この瓜は五色有り、その邵平の故事に因んで東陵瓜と呼ばれている。『廟記』曰く、霸城門は青綺門とも呼ばれている。

22 楚漢休征討 楚漢戦争の終結を言う。この戦争終結を以て秦が滅亡したことで、邵平が一般人になり、五色の瓜を作り、青綺門で瓜を売ることができた。この句は、瓜についての勿体、嬉しさ、などを表現するための二句で、杜甫の人間性を表した句といえるのである。

この二句は、諸説あって、評価されなかった二句であるが、この二句こそ杜甫研究をするものにとってその研究の深さ、度合いを測る重要な二句なのである。杜甫は、戦争から逃げ回ってこの菱州にたどり着いている、平和の象徴のように思えて瓜をこのように表現解釈するということが杜甫の人間性を理解するうえでも大切なことである。杜甫の詩を何度も何度も読み返したものでこそこの二句が理解できるというものである。

 

23 故侯 秦の東陵侯、邵平をいう。

24 種此 瓜を植えること。

25 草草 心労する顔つきをいう。《詩經、小雅、巷伯》「驕人好好、勞人草草。蒼天蒼天、視彼驕人、矜此勞人。」(驕人は好好たり、勞人は草草たり。彼の驕人を視よ此の勞人を矜【あわれ】め。)高ぶって悪口いって有頂天、悪口いわれてしょんぼりと。悪口いった奴をよく見張れ、悪口言われた人を不憫がれ。

767年-12-#1杜甫 《19-10 上後園山腳》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-12-#1 <1095> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7155 

杜甫  上後園山  #1

朱夏熱所嬰,清旭步北林。小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。潛鱗恨水壯,去翼依雲深。

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。

767-12-#1杜甫 19-10 上後園山#1 杜甫詩index-15-767年大暦256-12-#1 <1095 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7155 

 

 
  2016年1月7日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(54)李白 卷六05 -《玉壺吟》(烈士擊玉壺,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(54) <李白> Ⅰ李白詩1713 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7113  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈125《 巻三03 上兵部李侍郎書》 #6§4-1 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1634> Ⅱ#6§4-1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7150  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-12-#1杜甫 《19-10 上後園山腳》#1 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-12-#1 <1095> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7155   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八25女冠子二首其二》『花間集』377全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7152  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1095-1558-#1/2500

年:       大曆二年

寫作時間:           767

寫作年紀:           56

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    上後園山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              隴首山 (隴右道東部 秦州 秦州)       

劍門山 (劍南道北部 劍州 劍門) 別名:蜀門  

蘇門山 (河北道南部 衛州 蘇門山)    

交遊人物/地點:  

 

 

上後園山  #1

朱夏熱所嬰,清旭步北林。

小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。

潛鱗恨水壯,去翼依雲深。

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。

小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。

そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。

淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。

#2

勿謂地無疆,劣於山有陰。

遍天下,水陸兼浮沈。

自我登隴首,十年經碧岑。

劍門來巫峽,薄倚浩至今。

#3

故園暗戎馬,骨肉失追尋。

時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。

敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

(後園の山上る

朱夏 熱 嬰る所なり,清旭に 北林に步す。

小園 高岡をに背す,葛を挽きて 崎崟たるに上る。

曠望 駐目を延く,飄颻 疏襟を散ず。

潛鱗 水の壯なるを恨み,去翼 雲の深きに依る。
#2

謂う勿れ 地 疆【かぎ】り無しと,山の陰有るよりも劣れり。

【せきげん】天下に遍し,水陸 兼て 浮沈す。

我が隴首に登りしより,十年 碧岑を經る。

劍門より 巫峽に來る,薄倚 浩として今に至れり。
#3

故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。

時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。

志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。

敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。 

 

 

『上後園山』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

上後園山

朱夏熱所嬰,清旭步北林。

小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。

潛鱗恨水壯,去翼依雲深。
詩文(含異文):#1           

朱夏熱所嬰,清旭步北林【清旦步北林】。小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。潛鱗恨水壯【潛鱗恨川壯】,去翼依雲深。


(下し文)

(後園の山上る

朱夏 熱 嬰る所なり,清旭に 北林に步す。

小園 高岡をに背す,葛を挽きて 崎崟たるに上る。

曠望 駐目を延く,飄颻 疏襟を散ず。

潛鱗 水の壯なるを恨み,去翼 雲の深きに依る。


(現代語訳)
上後園山(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。

小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。

そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。

淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。


(訳注)

上後園山

(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)

1.    後ろ側、地形的に北征に険しい山があるがその山裾は、居宅からは北側になる。

2.   園 都督の管理の農園

3.   赤甲山の山懐のような小高いところ。

 

朱夏熱所嬰,清旭步北林。

真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。

4.   朱夏 《五行思想で、赤色を夏に配するところから》夏の異称。《爾雅釋天》:夏為朱明。” 三國 曹植 《槐賦》:在季春以初茂, 踐朱夏而乃繁。” 《舊五代史梁書末帝紀下》:況青春告謝, 朱夏已臨。” 唐孫華 《夏日園居雜詠》之十二:三年客裏逢朱夏, 一月天邊盼素秋。”

5.    とりつかれる。

6.   清旭 朝日の清清しい時。

 

小園背高岡,挽葛上崎崟。

小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。

7.   挽葛 葛の蔓を手で引っ張る。

8.   上崎崟 山の険しいところに登る

 

曠望延駐目,飄颻散疏襟。

そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。

9.   曠望 眼前の悵望が広く望める。

10. 延駐目 延はこちらを呼んでくれる、駐目は注視すること。

11. 飄颻 風にひるがえるさま。隨風に飄動する。

文選.曹植.《雜詩六首其二》

轉蓬離本根,飄颻長隨風。何意回飆舉,吹我入雲中。

高高上無極,天路安可窮。類此遊客子,捐軀遠從戎。

毛褐不掩形,薇藿常不充。去去莫復道,沈憂令人老。

轉蓬は本根より離れ,飄颻として長く風に隨う。

何んぞ意わん回飆【かいひょう】の舉がり,我を吹きて雲中に入れんとは。

高高と上りて極り無く,天路 安んぞ窮む可かんや。

類たり此の遊客の子,軀を捐てて遠く戎に從う。

毛褐 形を掩わず,薇藿【びかく】常に充たざるに。去り去りて復た道う莫れ,沈憂 人をして老わしむ。

転びゆく蓬は、もとの根より離れ、ひらひらと、遠く風の吹くまにまにひるがえってとばされる。

ところが、思いがけなくも、つむじ風が巻きおこったとすると我々蓬は雲中高く吹きあげられてしまうのだ。

高く高く吹き上げられると、どこまでも限りなく飛ばされるのだ。しかし、天の路こそは、どうしてその窮極の先まで行くというのか。

これはさすらう旅人に似ているというものであり、その身を犠牲にして、遠く従軍するというのはこのことをいうものなのだ。

その旅人が冬にきる短い皮ごろもは、身体を全ておおうことにならないし、食べるものも、わらびや豆の葉などで、いつも腹をみたすことはできないのである。

こんな話はやめなければ、そうだもうもうやめよう。二度とこのような言葉は繰りかえすことはしない。こんな深い憂愁な気分でいることは人をふけさせるものでしかないのだ。

12. 疏襟 襟元を緩くして風通しをよくするという意。

 

潛鱗恨水壯,去翼依雲深。

淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。

13. 潛鱗 淵の深いところに潜んだ魚。

14. 恨水壯 水の流れの勢いが盛んであるため泳ぎだせないでいる。

15. 去翼 飛び去って行った鳥。

 瞿塘峡・白帝城・魚復

 

上後園山

朱夏熱所嬰,清旭步北林。小園背高岡,挽葛上崎崟。

曠望延駐目,飄颻散疏襟。潛鱗恨水壯,去翼依雲深。
勿謂地無疆,劣於山有陰。石遍天下,水陸兼浮沈。

自我登隴首,十年經碧岑。劍門來巫峽,薄倚浩至今。

故園暗戎馬,骨肉失追尋。時危無消息,老去多歸心。

志士惜白日,久客藉黃金。敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。

 

杜甫 『上後園山【字解】

 

 


続きを読む

767年-11-#4杜甫 《19-05 園官送菜》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-11-#4 <1094> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7150

杜甫  園官送菜#4

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。小人塞道路,為態何喧喧。

又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。點染不易虞,絲麻雜羅紈。

してみれば人間界でも苦チシャの様なものどもが蕙草の根をうちまかしてその勢を奪っているのである。小人たちというものは、誰もが通る道路をふさいで、ががやがやとなんとさわがしくい態をすることか。その様子はまた馬歯莧の気勢が盛んで葵荏などの善菜を抱き抱えて昏くはびこっている様なものである。おもいもよらぬところに善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらっておもいもよらない手品がほどこしてある、それはあたかもそれだけでも満足するという絲や麻を羅紈の織物にませである様なことである。

767-11-#4杜甫 19-05 園官送菜》#4 杜甫詩index-15-767年大暦256-11-#4 <1094 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7150

 

 
  2016年1月6日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 373-#3Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(54) Ⅰ李白詩1720 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7148  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈125《 巻三03 上兵部李侍郎書》 #5§3  韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1633> Ⅱ#5§3  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7149  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-11-#4杜甫 《19-05 園官送菜》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-11-#4 <1094> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7150  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 改訂 12孫光憲《巻八24女冠子二首其一》『花間集』376全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7152  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1094-1557-#4/2500

年:767年大暦256-11-#1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    園官送菜

詩序:    并序:園官送菜把,本數日闕。矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,傷小人妒害君子,菜不足道也,比而作詩。

 

園官送菜 并序

(菜園を管理している役人が野菜束を送ってきた)

園官送菜把,本數日闕。

都督の菜園を管理している役人が野菜束を送ってきた。本来その送り方は二三日のあいだ中止されていたのである。

矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,

その上でいま送ってきたのをみると苦苣だの、馬齒だのがよい野菜のうえにかぶせられてある。

傷小人妒害君子,

自分は之を見て小人が君子を妬み害うことを傷み悲むのである。

菜不足道也,

野菜ごときは言うに足らぬのである。

比而作詩。

それでたとへて此の詩を作った。

園官菜把を送る幷に序

園官菜把を送る,本 數日 闕かぬ。

矧んや苦苣、馬齒,嘉蔬を掩うや,

小人の君子を妒害するを傷む,

菜は道うに足らざる也,

比して詩を作る。

 

#2

清晨蒙菜把,常荷地主恩。

朝早く野菜を束にして、送ってきてくれた。というのも自分はいつも土地の主人たる都督の御恩を荷なっているからである。

守者愆實數,略有其名存。

ところでどうしたのか管理官が実際の野菜の数をまちがえて、自分の手許へきた野菜をみると品物の名だけがあって実物がすくないのである。

苦苣刺如針,馬齒葉亦繁。

苦チシャは葉先に針の様な刺をしているし、スベリ莧の葉があり、それもよくしげるほどの物である。

#2

清晨 菜把を蒙る,常に地主の恩を荷う。

守者 實數を愆【あやま】る,略【ほ】ぼ 其の名の存する有り。

苦苣 刺 針の如し,馬齒 葉 亦た繁し。
#3

青青嘉蔬色,埋沒在中園。

青青としたよい野菜の色は園内で恵菜のなかに埋没していたと同じ様にほとんどあるかなしである。

園吏未足怪,世事固堪論。

園吏がこんなことをしたとてそれはまだ怪むに足らない、世上の事はどうして論ずるに堪えられることができようか。

嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

ああ、戦伐がながくつづいて荊棘が遠き原野に暗く生い茂っている。

#3

青青たる嘉蔬の色,埋沒して中園に在るがごとし。

園吏は未だ足怪むに,世事 固より論ずるに堪えんや。

嗚呼 戰伐久し,荊棘 長原に暗し


#4

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。

してみれば人間界でも苦チシャの様なものどもが蕙草の根をうちまかしてその勢を奪っているのである。

小人塞道路,為態何喧喧。

小人たちというものは、誰もが通る道路をふさいで、ががやがやとなんとさわがしくい態をすることか。

又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

その様子はまた馬歯莧の気勢が盛んで葵荏などの善菜を抱き抱えて昏くはびこっている様なものである。

點染不易虞,絲麻雜羅紈。

おもいもよらぬところに善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらっておもいもよらない手品がほどこしてある、それはあたかもそれだけでも満足するという絲や麻を羅紈の織物にませである様なことである。#4

乃ち 苦苣の輩を知り,傾 蕙草の根を奪す。

小人 道路を塞ぎ,態 何ず喧喧たるを為さん。

又た馬齒 盛んにして,氣 葵荏を擁して昏きが如し。

點染 虞り易からず,絲麻 羅紈に雜う。#5


#5
一經器物
永挂粗刺痕。

志士采紫芝,放歌避戎軒。

畦丁負籠至,感動百慮端。

 

denen03350 

 

 

 

 

『園官送菜 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。

小人塞道路,為態何喧喧。

又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

點染不易虞,絲麻雜羅紈。

(下し文)
#4

乃ち 苦苣の輩を知り,傾 蕙草の根を奪す。

小人 道路を塞ぎ,態 何ず喧喧たるを為さん。

又た馬齒 盛んにして,氣 葵荏を擁して昏きが如し。

點染 虞り易からず,絲麻 羅紈に雜う。

(現代語訳)
#4

してみれば人間界でも苦チシャの様なものどもが蕙草の根をうちまかしてその勢を奪っているのである。

小人たちというものは、誰もが通る道路をふさいで、ががやがやとなんとさわがしくい態をすることか。

その様子はまた馬歯莧の気勢が盛んで葵荏などの善菜を抱き抱えて昏くはびこっている様なものである。

おもいもよらぬところに善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらっておもいもよらない手品がほどこしてある、それはあたかもそれだけでも満足するという絲や麻を羅紈の織物にませである様なことである。

瞿塘峡・白帝城・魚復
(訳注)

#4

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。

してみれば人間界でも苦チシャの様なものどもが蕙草の根をうちまかしてその勢を奪っているのである。

5 苦苣 キク科の一年草で、野菜である。和名はキクヂシャ。ニガチシャという別名もある。同じキクニガナ属の多年生野菜チコリーと同様に独特の苦みがあるが、見かけはチコリーと違い非結球レタスに似ている。又称苦菊,菊科菊苣属的植物,是一种栽培菊苣。

14. 苦苣輩 人間界でも苦チシャの様なもの、朝廷内で、宦官と結託して策謀する者たちをさす。

 

小人塞道路,為態何喧喧。

小人たちというものは、誰もが通る道路をふさいで、ががやがやとなんとさわがしくい態をすることか。

15. 為態 態をなす。

16. 何喧喧 ががやがやとなんとさわがしくすることか。

 

又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

その様子はまた馬歯莧の気勢が盛んで葵荏などの善菜を抱き抱えて昏くはびこっている様なものである。

17. 氣 馬齒の気勢。

18. 葵荏昏 葵は葉ワサビの類。桂荏紫蘇のことであるが、エゴマの古名でもある。《爾雅·釋草》蘇,桂荏。《揚子·方言》關之東西或謂之蘇,或謂之荏。《後漢·馬融傳》桂荏、鳧葵。《本草》荏子可壓油。

 

點染不易虞,絲麻雜羅紈。

おもいもよらぬところに善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらっておもいもよらない手品がほどこしてある、それはあたかもそれだけでも満足するという絲や麻を羅紈の織物にませである様なことである。

19. 點染 善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらうこと。

20. 不易虞 おもいもよらないこと。

21. 絲麻 木綿糸と麻。絲と麻があれば衣服ができる、千から学ぶことができれば士官しようなどとは思わない、自らをしめればよい。《莊子·讓王》: 孔子謂顏回曰:「回來!家貧居卑,胡不仕乎?」顏回對曰:「對曰:不願仕,回有郭外之田五十畝,足以給𩜾鬻,郭十畝,足以為絲麻,鼓琴可以自,所學夫子者,足以自樂也。」(回來れ!家貧にして卑しきに居る,胡ぞ仕えざるや?」顏回對えて曰く:「對えて曰く:仕を願わず,回 郭外の田五十畝,以て𩜾鬻に給するに足り,郭十畝,以て絲麻を為るに足る有り,琴を鼓すれば以て自らしむ,夫子に學ぶ所の者は,以て自ら樂しむに足れり。)

22. 雜 まざる。

23. 羅紈 羅紈うすきぬ。精美的絲織品。 《戰國策齊策四》:下宮糅羅紈, 曳綺縠, 而士不得以為緣。”(下宮糅羅紈, 曳綺縠, 而士不得以為緣。) 《淮南子齊俗訓》:有詭文繁繡, 弱緆羅紈。” 高誘 注:羅, 縠;紈, 素也。” 《淮南子・説林訓》「有羅紈者は必有麻蒯。」(羅紈ある者は必ず麻蒯【まけい】あり。) 美服を着る者は、必ず粗服を着るときがある。栄える者は必ず衰えるときがある。

 

 

 

杜甫 『園官送菜 并序』【字解】

 

園官送菜 并序:園官送菜把,本數日闕。矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,傷小人妒害君子,菜不足道也,比而作詩。

清晨蒙菜把,常荷地主恩。守者愆實數,略有其名存。苦苣刺如針,馬齒葉亦繁。

青青嘉蔬色,埋沒在中園。園吏未足怪,世事固堪論。嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。小人塞道路,為態何喧喧。又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

點染不易虞,絲麻雜羅紈。一經器物永挂粗刺痕。志士采紫芝,放歌避戎軒。

畦丁負籠至,感動百慮端。

 

 

1 園官 菜園を管理する吏官。

2 菜把 野菜束

3 本 本来。

4 數日闕 数日間、中止されていた。

5 苦苣 キク科の一年草で、野菜である。和名はキクヂシャ。ニガチシャという別名もある。同じキクニガナ属の多年生野菜チコリーと同様に独特の苦みがあるが、見かけはチコリーと違い非結球レタスに似ている。又称苦菊,菊科菊苣属的植物,是一种栽培菊苣。

6 馬齒 五行草の一つ。葉が青く、梗は赤く、花は黄色、根は白く、実は黒く、食べると少し酸味が強い。スベリヒユは、スベリヒユ科スベリヒユ属の多年生植物。 同属にはマツバボタンなどが知られる。

7 掩乎嘉蔬 良い野菜で覆い隠す。

8 比 たとえることをいう。

9 地主 土地の主人、夔州の都督柏茂琳をさす。柏茂琳ほ大暦元年八月には卭南節度であったが、其の夔州に到りしは、元年と二年の交にあるようである。

10 守者 番人、即ち農園の管理官をいう。

11 其名存 野菜の品名と実物。

12. 埋沒在中園 園の中にある他のよい野菜の中に埋もれていた野菜であるが、此処で見るととても良さがわかるというほどの意。

13. 固堪論 反語である。論ずるに堪えられない。

14. 苦苣輩 人間界でも苦チシャの様なもの、朝廷内で、宦官と結託して策謀する者たちをさす。

15. 為態 態をなす。

16. 何喧喧 ががやがやとなんとさわがしくすることか。

17. 氣 馬齒の気勢。

18. 葵荏昏 葵は葉ワサビの類。桂荏紫蘇のことであるが、エゴマの古名でもある。《爾雅·釋草》蘇,桂荏。《揚子·方言》關之東西或謂之蘇,或謂之荏。《後漢·馬融傳》桂荏、鳧葵。《本草》荏子可壓油。

19. 點染 善いものに悪いものをうまいぐあいにまぜてあしらうこと。

20. 不易虞 おもいもよらないこと。

21. 絲麻 木綿糸と麻。絲と麻があれば衣服ができる、千から学ぶことができれば士官しようなどとは思わない、自らをしめればよい。《莊子·讓王》: 孔子謂顏回曰:「回來!家貧居卑,胡不仕乎?」顏回對曰:「對曰:不願仕,回有郭外之田五十畝,足以給𩜾鬻,郭十畝,足以為絲麻,鼓琴可以自,所學夫子者,足以自樂也。」(回來れ!家貧にして卑しきに居る,胡ぞ仕えざるや?」顏回對えて曰く:「對えて曰く:仕を願わず,回 郭外の田五十畝,以て𩜾鬻に給するに足り,郭十畝,以て絲麻を為るに足る有り,琴を鼓すれば以て自らしむ,夫子に學ぶ所の者は,以て自ら樂しむに足れり。)

22. 雜 まざる。

23. 羅紈 羅紈うすきぬ。精美的絲織品。 《戰國策齊策四》:下宮糅羅紈, 曳綺縠, 而士不得以為緣。”(下宮糅羅紈, 曳綺縠, 而士不得以為緣。) 《淮南子齊俗訓》:有詭文繁繡, 弱緆羅紈。” 高誘 注:羅, 縠;紈, 素也。” 《淮南子・説林訓》「有羅紈者は必有麻蒯。」(羅紈ある者は必ず麻蒯【まけい】あり。) 美服を着る者は、必ず粗服を着るときがある。栄える者は必ず衰えるときがある。

 

 

 

園人送瓜

江間雖炎瘴,瓜熟亦不早。柏公鎮夔國,滯務茲一掃。

食新先戰士,共少及溪老。傾筐蒲鴿青,滿眼顏色好。

竹竿接嵌竇,引注來鳥道。沈浮亂水玉,愛惜如芝草。

落刃嚼冰霜,開懷慰枯槁。許以秋蒂除,仍看小童抱。

東陵跡蕪楚漢休征討。園人非故侯,種此何草草。

 

杜甫 園人送瓜【字解】

 

1 園人 都督の管理の農園の係の吏人。

2 柏公 柏茂琳。

3 鎮夔國 夔州の軍務の長官となることをいう。

4 滯務 事務の仕事が溜まっている。

5 食新 初物、旬のものをたべる。

6 共少 数の少ないものを衆人とともに分け、分配する。

7 溪老 渓居の老人、杜甫のこと。

 

8 傾筐 目を細かく編んだ竹かご。堅間(かたま)。勝間(かつま)。「花筐」傾とあるのは背中に背負うのにいいようにしたが凋んでいる畚であろう。

9 蒲鴿 あおはと、であるが、杜甫が此処で使ったことから、こののち青瓜をこう呼ぶようになっている。

10 接嵌竇 岩の間から染み出ている水に差しこんで水を竹竿で接続して引水する。

11 來鳥道 高いところへ続く人が歩く道ではなく、鳥が通るほどの水が作ったの道のようなもの。

12 水玉 引水が傾筐や、水だまりに落ちて飛び散るときの水の玉。

13 芝草 靈芝や薬草、杜甫は成都ではこれを集めて南市に売りに行っていたこともあって詳しい。

14 落刃 瓜を刃物できること。

15 嚼冰霜 瓜に肩の葉を入れた時の果肉の切れるときの表現。

16 慰枯槁 自分のような枯れかかったものにはそのみずみずしさが胸にしみこみ開かれるようで老境をなぐさめてくれるというほどの意。

 

17 許以 園人が杜甫に対して(瓜を持ってきてあげることを)予約することを言う。

18 秋蒂除 秋になって熟して来たら蔓に帯びてなっている瓜を切りとる。

19 仍看 瓜が熟したその時、また今回の様に瓜を見ることができる。

20 小童抱 管理園の下僕に抱きかかえて持ってこさせる。

21 東陵 東陵の五色の瓜の故事。長安城の東に出る南斗第一の門を霸城門という。民間では、門が青いことから青城門と呼んでいる。 門外には佳い瓜がなっている。廣陵の人、邵平が秦の東陵侯になったが、秦が滅亡すると 一般人になった。そこで彼は瓜の種を青城門の外に植えた。この瓜は美味である。 この瓜は五色有り、その邵平の故事に因んで東陵瓜と呼ばれている。『廟記』曰く、霸城門は青綺門とも呼ばれている。

22 楚漢休征討 楚漢戦争の終結を言う。この戦争終結を以て秦が滅亡したことで、邵平が一般人になり、五色の瓜を作り、青綺門で瓜を売ることができた。この句は、瓜についての勿体、嬉しさ、などを表現するための二句で、杜甫の人間性を表した句といえるのである。

この二句は、諸説あって、評価されなかった二句であるが、この二句こそ杜甫研究をするものにとってその研究の深さ、度合いを測る重要な二句なのである。杜甫は、戦争から逃げ回ってこの菱州にたどり着いている、平和の象徴のように思えて瓜をこのように表現解釈するということが杜甫の人間性を理解するうえでも大切なことである。杜甫の詩を何度も何度も読み返したものでこそこの二句が理解できるというものである。

 

23 故侯 秦の東陵侯、邵平をいう。

24 種此 瓜を植えること。

25 草草 心労する顔つきをいう。《詩經、小雅、巷伯》「驕人好好、勞人草草。蒼天蒼天、視彼驕人、矜此勞人。」(驕人は好好たり、勞人は草草たり。彼の驕人を視よ此の勞人を矜【あわれ】め。)高ぶって悪口いって有頂天、悪口いわれてしょんぼりと。悪口いった奴をよく見張れ、悪口言われた人を不憫がれ。

767年-11-#3杜甫 《19-05 園官送菜》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-11-#3 <1093> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7145

杜甫  園官送菜 #3

青青嘉蔬色,埋沒在中園。園吏未足怪,世事固堪論。嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

青青としたよい野菜の色は園内で恵菜のなかに埋没していたと同じ様にほとんどあるかなしである。

園吏がこんなことをしたとてそれはまだ怪むに足らない、世上の事はどうして論ずるに堪えられることができようか。

ああ、戦伐がながくつづいて荊棘が遠き原野に暗く生い茂っている。

767-11-#3杜甫 19-05 園官送菜》#3 杜甫詩index-15-767年大暦256-11-#3 <1093 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7145

 

 
  2016年1月5日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 LiveDoorBlog
743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌》 373-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(54) Ⅰ李白詩1719 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7143  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
韓愈125《 巻三03 上兵部李侍郎書》 #4§2-3 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1632> Ⅱ#4§2-3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7144  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-11-#3杜甫 《19-05 園官送菜》#3 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-11-#3 <1093> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7145  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻八23更漏子二首其二》『花間集』375全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7147  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
 

 

杜甫詩1500-1093-1557-#3/2500

年:767年大暦256-11-#1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    園官送菜

詩序:    并序:園官送菜把,本數日闕。矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,傷小人妒害君子,菜不足道也,比而作詩。

 

園官送菜 并序

(菜園を管理している役人が野菜束を送ってきた)

園官送菜把,本數日闕。

都督の菜園を管理している役人が野菜束を送ってきた。本来その送り方は二三日のあいだ中止されていたのである。

矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,

その上でいま送ってきたのをみると苦苣だの、馬齒だのがよい野菜のうえにかぶせられてある。

傷小人妒害君子,

自分は之を見て小人が君子を妬み害うことを傷み悲むのである。

菜不足道也,

野菜ごときは言うに足らぬのである。

比而作詩。

それでたとへて此の詩を作った。

園官菜把を送る幷に序

園官菜把を送る,本 數日 闕かぬ。

矧んや苦苣、馬齒,嘉蔬を掩うや,

小人の君子を妒害するを傷む,

菜は道うに足らざる也,

比して詩を作る。

 

#2

清晨蒙菜把,常荷地主恩。

朝早く野菜を束にして、送ってきてくれた。というのも自分はいつも土地の主人たる都督の御恩を荷なっているからである。

守者愆實數,略有其名存。

ところでどうしたのか管理官が実際の野菜の数をまちがえて、自分の手許へきた野菜をみると品物の名だけがあって実物がすくないのである。

苦苣刺如針,馬齒葉亦繁。

苦チシャは葉先に針の様な刺をしているし、スベリ莧の葉があり、それもよくしげるほどの物である。

#2

清晨 菜把を蒙る,常に地主の恩を荷う。

守者 實數を愆【あやま】る,略【ほ】ぼ 其の名の存する有り。

苦苣 刺 針の如し,馬齒 葉 亦た繁し。
#3

青青嘉蔬色,埋沒在中園。

園吏未足怪,世事固堪論。

嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

青青としたよい野菜の色は園内で恵菜のなかに埋没していたと同じ様にほとんどあるかなしである。

園吏がこんなことをしたとてそれはまだ怪むに足らない、世上の事はどうして論ずるに堪えられることができようか。

ああ、戦伐がながくつづいて荊棘が遠き原野に暗く生い茂っている。

#3

青青たる嘉蔬の色,埋沒して中園に在るがごとし。

園吏は未だ足怪むに,世事 固より論ずるに堪えんや。

嗚呼 戰伐久し,荊棘 長原に暗し。
#4

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。

小人塞道路,為態何喧喧。

又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

點染不易虞,絲麻雜羅紈。

#5

一經器物永挂粗刺痕。

志士采紫芝,放歌避戎軒。

畦丁負籠至,感動百慮端。

 

夔州東川卜居図詳細 002 

『園官送菜 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

青青嘉蔬色,埋沒在中園。

園吏未足怪,世事固堪論。

嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

(下し文)
#3

青青たる嘉蔬の色,埋沒して中園に在るがごとし。

園吏は未だ足怪むに,世事 固より論ずるに堪えんや。

嗚呼 戰伐久し,荊棘 長原に暗し。

(現代語訳)
#3

青青としたよい野菜の色は園内で恵菜のなかに埋没していたと同じ様にほとんどあるかなしである。

園吏がこんなことをしたとてそれはまだ怪むに足らない、世上の事はどうして論ずるに堪えられることができようか。

ああ、戦伐がながくつづいて荊棘が遠き原野に暗く生い茂っている。


(訳注) #3

園官送菜 并序

(菜園を管理している役人が野菜束を送ってきた)

1 園官 菜園を管理する吏官。

 

青青嘉蔬色,埋沒在中園。

青青としたよい野菜の色は園内で恵菜のなかに埋没していたと同じ様にほとんどあるかなしである。

12. 埋沒在中園 園の中にある他のよい野菜の中に埋もれていた野菜であるが、此処で見るととても良さがわかるというほどの意。

 

園吏未足怪,世事固堪論。

園吏がこんなことをしたとてそれはまだ怪むに足らない、世上の事はどうして論ずるに堪えられることができようか。

13. 固堪論 反語である。論ずるに堪えられない。

 

嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

ああ、戦伐がながくつづいて荊棘が遠き原野に暗く生い茂っている。

瞿塘峡・白帝城・魚復 

 

 

 

杜甫 『園官送菜 并序』【字解】

 

園官送菜 并序:園官送菜把,本數日闕。矧苦苣、馬齒,掩乎嘉蔬,傷小人妒害君子,菜不足道也,比而作詩。

清晨蒙菜把,常荷地主恩。守者愆實數,略有其名存。苦苣刺如針,馬齒葉亦繁。

青青嘉蔬色,埋沒在中園。園吏未足怪,世事固堪論。嗚呼戰伐久,荊棘暗長原。

乃知苦苣輩,傾奪蕙草根。小人塞道路,為態何喧喧。又如馬齒盛,氣擁葵荏昏。

點染不易虞,絲麻雜羅紈。一經器物永挂粗刺痕。志士采紫芝,放歌避戎軒。

畦丁負籠至,感動百慮端。

 

 

1 園官 菜園を管理する吏官。

2 菜把 野菜束

3 本 本来。

4 數日闕 数日間、中止されていた。

5 苦苣 キク科の一年草で、野菜である。和名はキクヂシャ。ニガチシャという別名もある。同じキクニガナ属の多年生野菜チコリーと同様に独特の苦みがあるが、見かけはチコリーと違い非結球レタスに似ている。又称苦菊,菊科菊苣属的植物,是一种栽培菊苣。

6 馬齒 五行草の一つ。葉が青く、梗は赤く、花は黄色、根は白く、実は黒く、食べると少し酸味が強い。スベリヒユは、スベリヒユ科スベリヒユ属の多年生植物。 同属にはマツバボタンなどが知られる。

7 掩乎嘉蔬 良い野菜で覆い隠す。

8 比 たとえることをいう。

9 地主 土地の主人、夔州の都督柏茂琳をさす。柏茂琳ほ大暦元年八月には卭南節度であったが、其の夔州に到りしは、元年と二年の交にあるようである。

10 守者 番人、即ち農園の管理官をいう。

11 其名存 野菜の品名と実物。

12. 埋沒在中園 園の中にある他のよい野菜の中に埋もれていた野菜であるが、此処で見るととても良さがわかるというほどの意。

13. 固堪論 反語である。論ずるに堪えられない。

 

 

 

園人送瓜

江間雖炎瘴,瓜熟亦不早。柏公鎮夔國,滯務茲一掃。

食新先戰士,共少及溪老。傾筐蒲鴿青,滿眼顏色好。

竹竿接嵌竇,引注來鳥道。沈浮亂水玉,愛惜如芝草。

落刃嚼冰霜,開懷慰枯槁。許以秋蒂除,仍看小童抱。

東陵跡蕪楚漢休征討。園人非故侯,種此何草草。

 

杜甫 園人送瓜【字解】

 

1 園人 都督の管理の農園の係の吏人。

2 柏公 柏茂琳。

3 鎮夔國 夔州の軍務の長官となることをいう。

4 滯務 事務の仕事が溜まっている。

5 食新 初物、旬のものをたべる。

6 共少 数の少ないものを衆人とともに分け、分配する。

7 溪老 渓居の老人、杜甫のこと。

 

8 傾筐 目を細かく編んだ竹かご。堅間(かたま)。勝間(かつま)。「花筐」傾とあるのは背中に背負うのにいいようにしたが凋んでいる畚であろう。

9 蒲鴿 あおはと、であるが、杜甫が此処で使ったことから、こののち青瓜をこう呼ぶようになっている。

10 接嵌竇 岩の間から染み出ている水に差しこんで水を竹竿で接続して引水する。

11 來鳥道 高いところへ続く人が歩く道ではなく、鳥が通るほどの水が作ったの道のようなもの。

12 水玉 引水が傾筐や、水だまりに落ちて飛び散るときの水の玉。

13 芝草 靈芝や薬草、杜甫は成都ではこれを集めて南市に売りに行っていたこともあって詳しい。

14 落刃 瓜を刃物できること。

15 嚼冰霜 瓜に肩の葉を入れた時の果肉の切れるときの表現。

16 慰枯槁 自分のような枯れかかったものにはそのみずみずしさが胸にしみこみ開かれるようで老境をなぐさめてくれるというほどの意。

 

17 許以 園人が杜甫に対して(瓜を持ってきてあげることを)予約することを言う。

18 秋蒂除 秋になって熟して来たら蔓に帯びてなっている瓜を切りとる。

19 仍看 瓜が熟したその時、また今回の様に瓜を見ることができる。

20 小童抱 管理園の下僕に抱きかかえて持ってこさせる。

21 東陵 東陵の五色の瓜の故事。長安城の東に出る南斗第一の門を霸城門という。民間では、門が青いことから青城門と呼んでいる。 門外には佳い瓜がなっている。廣陵の人、邵平が秦の東陵侯になったが、秦が滅亡すると 一般人になった。そこで彼は瓜の種を青城門の外に植えた。この瓜は美味である。 この瓜は五色有り、その邵平の故事に因んで東陵瓜と呼ばれている。『廟記』曰く、霸城門は青綺門とも呼ばれている。

22 楚漢休征討 楚漢戦争の終結を言う。この戦争終結を以て秦が滅亡したことで、邵平が一般人になり、五色の瓜を作り、青綺門で瓜を売ることができた。この句は、瓜についての勿体、嬉しさ、などを表現するための二句で、杜甫の人間性を表した句といえるのである。

この二句は、諸説あって、評価されなかった二句であるが、この二句こそ杜甫研究をするものにとってその研究の深さ、度合いを測る重要な二句なのである。杜甫は、戦争から逃げ回ってこの菱州にたどり着いている、平和の象徴のように思えて瓜をこのように表現解釈するということが杜甫の人間性を理解するうえでも大切なことである。杜甫の詩を何度も何度も読み返したものでこそこの二句が理解できるというものである。

 

23 故侯 秦の東陵侯、邵平をいう。

24 種此 瓜を植えること。

25 草草 心労する顔つきをいう。《詩經、小雅、巷伯》「驕人好好、勞人草草。蒼天蒼天、視彼驕人、矜此勞人。」(驕人は好好たり、勞人は草草たり。彼の驕人を視よ此の勞人を矜【あわれ】め。)高ぶって悪口いって有頂天、悪口いわれてしょんぼりと。悪口いった奴をよく見張れ、悪口言われた人を不憫がれ。

プロフィール

紀 頌之

Twitter プロフィール
記事検索
最新記事(画像付)
最新記事
記事検索
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
記事検索
  • ライブドアブログ