杜甫詩1500-1153-1603/2500 狄明府【寄狄明府博濟】#4
太宗社稷一朝正,漢官威儀重昭洗。時危始識不世才,誰謂荼苦甘如薺。
汝曹又宜列土食,身使門戶多旌棨。
これで太宗の建てられた社稜は一朝にして正しくなり、漢官の威儀は汚れをきよめられてふたたび光明をはなつようになった。時世が危くなってはじめて不世出の人才というものが出てくるもので、梁公の如きはそれで、梁公は「如何なる艱苦をも甘し」とされたのである。《詩経》に「だれが苦菜を苦いというぞ、苦菜は甘くて薺のようだ」というてあるが梁公の気持はそんなものであったのだ。かかる梁公の子孫であってみれば、あなたがたは鼎をつらねて御馳走をたべ、自身にはおのが門戸に旌棨をたくさんならべて建てるほどのいい地位にのぼるが至当なのである。
杜少陵集19-38-#4 |
狄 明 府 #4(5分割) |
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767年大暦2年56歲 24 #4 |
1153<1603> |
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年:767年大暦2年56歲-24 #4
卷別: 卷二二二 文體: 七言古詩
詩題: 狄明府【案:博濟。】【寄狄明府】
作地點: 夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)
及地點:房陵 (山南東道 房州 房陵)
交遊人物/地點: 狄博濟 書信往來
詩文:
狄明府【寄狄明府博濟】
(狄仁傑の曾孫で蜀の某縣の縣令であった博濟に寄せた詩。)
梁公曾孫我姨弟,不見十年官濟濟。
あなたは狄梁公の曾孫でわたくしの母方のいとこであるが、十年のながい間にあなたが威儀をそなえた立派な朝官となられたのをみうけたのである。
大賢之後竟陵遲,浩蕩古今同一體。
染公の様な大賢人の子孫たる者が、ついに、これほど衰微していることは、ひろく古今をみわたすといつもかはらぬすがたでなげかはしいことである。
比看叔伯四十人,有才無命百寮底。
このごろ伯叔父の列にあるもの四十人ほどの有様をみるに、才はあるがよい運命をもたず多くの下積の役人になっているものが多いのである。
#2
今者兄弟一百人,幾人卓絕秉周禮。
また、今は一族のいとこども百人ほどおり、そのうちで幾人がすぐれたものが朝廷に立って施政の禮をとり、守るものがあるのである。
在汝更用文章為,長兄白眉復天啟。
あなたはその上によく文章を働かす人であり、いちばんの兄さんは馬氏の白眉の様に天賦の才能をもっておられる。(それにやっぱりおちぶれておられるのだ)。
汝門請從曾翁說,太后當朝多巧詆。
あなたの家のことを曾祖父さまから謂うて見るならば、則天太后が朝政にあたられたときはよそから非難するものが多かつた。
#3
狄公執政在末年,濁河終不污清濟。
その末年になって狄梁公が政権をお執りになったが、濁った黄河はどうしても清んだ済水をけがすことはできなかった。(狄公をわるもののなかまにいれることはできなかった。)
國嗣初將付諸武,公獨廷諍守丹陛。
当時、周の國のおこりはじめ期で、武将の職をいろいろの武氏一門の人に付与しょうとしたが、狄公は朝廷でひとりでそのことについて諌めたが、貶められることはなく、丹陛から身動きもされることはなかった。
禁中決冊請房陵,前朝長老皆流涕。
それから禁中ではかりごとをきめて房陵に遷されていた中宗をみやこへ請い迎え位に復し奉った。これによって前朝の長老たちは皆感涙をながした。
#4
太宗社稷一朝正,漢官威儀重昭洗。
これで太宗の建てられた社稜は一朝にして正しくなり、漢官の威儀は汚れをきよめられてふたたび光明をはなつようになった。
時危始識不世才,誰謂荼苦甘如薺。
時世が危くなってはじめて不世出の人才というものが出てくるもので、梁公の如きはそれで、梁公は「如何なる艱苦をも甘し」とされたのである。《詩経》に「だれが苦菜を苦いというぞ、苦菜は甘くて薺のようだ」というてあるが梁公の気持はそんなものであったのだ。
汝曹又宜列土食,身使門戶多旌棨。
かかる梁公の子孫であってみれば、あなたがたは鼎をつらねて御馳走をたべ、自身にはおのが門戸に旌棨をたくさんならべて建てるほどのいい地位にのぼるが至当なのである。
#5
胡為漂泊岷漢間,干謁王侯頗歷抵。
況乃山高水有波,秋風蕭蕭露泥泥。
虎之飢,下巉巖。
蛟之橫,出清泚。
早歸來,黃土泥衣眼易眯。
(狄明府)【狄明府博濟に寄す】
染公の曾孫我が姨弟、十年にして官濟濟たるを見ず。
大賢の後竟に陵遅す、浩蕩古今同じく一體なり。
此ごろ看る 伯叔四十人、才有り命無し 百寮の底。
#2
今者兄弟 一百人、幾人か卓絶 周禮を秉る。
汝に在りでは更に文章を用ふと為す、長兄は白眉復た天啓なり。』
汝が門請ふ曾翁より說かむ、太后 朝に當るとき巧詆多し。
#3
狄公 政をる末年に在り,濁河 終に清濟を污さず。
國嗣の初將 諸武に付し,公 獨り廷諍して丹陛を守る。
禁中 冊を決して房陵を請う,前朝の長老 皆 流涕す。
#4
太宗の社稷 一朝に正し,漢官の威儀 重ねて昭洗す。
時危くして始めて識る不世の才,誰か荼を苦しと謂う甘きこと薺の如し。
汝が曹 又た 宜しく土を列して食し,身 門戶をして旌棨多からしむべし。
#5
胡為れぞ岷漢の間に漂泊して,王侯に干謁して頗る歷抵するや。
況んや乃ち山高くして水に波有り,秋風 蕭蕭として 露 泥泥たり。
虎の飢うる,巉巖より下る。
蛟の橫【ほしいまま】なる,清泚より出づるをや。
早く歸り來れ,黃土衣を泥し 眼 眯【まよ】わされ易し。
『狄明府』現代語訳と訳註解説
(本文)
#4
太宗社稷一朝正,漢官威儀重昭洗。
時危始識不世才,誰謂荼苦甘如薺。
汝曹又宜列土食,身使門戶多旌棨。
(下し文)
#4
太宗の社稷 一朝に正し,漢官の威儀 重ねて昭洗す。
時危くして始めて識る不世の才,誰か荼を苦しと謂う甘きこと薺の如し。
汝が曹 又た 宜しく土を列して食し,身 門戶をして旌棨多からしむべし。
(現代語訳)
#4
これで太宗の建てられた社稜は一朝にして正しくなり、漢官の威儀は汚れをきよめられてふたたび光明をはなつようになった。
時世が危くなってはじめて不世出の人才というものが出てくるもので、梁公の如きはそれで、梁公は「如何なる艱苦をも甘し」とされたのである。《詩経》に「だれが苦菜を苦いというぞ、苦菜は甘くて薺のようだ」というてあるが梁公の気持はそんなものであったのだ。
かかる梁公の子孫であってみれば、あなたがたは鼎をつらねて御馳走をたべ、自身にはおのが門戸に旌棨をたくさんならべて建てるほどのいい地位にのぼるが至当なのである。
(訳注) #4
狄明府【寄狄明府博濟】
(狄仁傑の曾孫で蜀の某縣の縣令であった博濟に寄せた詩。)767年大暦二年夔州での作。
1 狄明府博 狄博濟は姓名。明府は縣令の敬称、詩中に「漂泊岷漢間」の語あるので、蜀地漢州の某縣の縣令であったとおもわれる人物である。
太宗社稷一朝正,漢官威儀重昭洗。
これで太宗の建てられた社稜は一朝にして正しくなり、漢官の威儀は汚れをきよめられてふたたび光明をはなつようになった。
38 太宗 唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。
39 社稷 古代の天子・諸侯が土地の神である「社」や五穀の神である「稷」を祭ったことから,後には「社稷」が「国家」を表わすようになった.
40 漢官 漢は借りて唐をいう。
41 威儀 1 いかめしく重々しい動作。立ち居振る舞いに威厳を示す作法。2 仏語。㋐規律にかなった起居動作。また、その作法・規律。㋑袈裟 (けさ) につけた平ぐけのひも。袈裟をまとうとき肩にかける。
42 昭洗 席昭の倒用、けがれをあらいさり光明を復することをいう。
時危始識不世才,誰謂荼苦甘如薺。
時世が危くなってはじめて不世出の人才というものが出てくるもので、梁公の如きはそれで、梁公は「如何なる艱苦をも甘し」とされたのである。《詩経》に「だれが苦菜を苦いというぞ、苦菜は甘くて薺のようだ」というてあるが梁公の気持はそんなものであったのだ。
43 不世才 不世出の才、三十年ごとぐらいにきっと出るとはきまらぬほどの人才。
誰謂荼苦甘如薺 《詩経、邶風、(谷風)》「誰謂荼苦、其甘如薺。」(誰れか謂う荼【と】は苦しと、其の甘きこと薺【なずな】の如し。)人々は荼をとても苦いものだと言っているが、荼の苦味などは人生全体の苦味と比べれば、薺のように甘いものである。
『荼』とはニガナ(苦い菜っ葉)の事、『薺』とはアマナ(甘い菜っ葉)の事を意味している。この部分は食べ物である荼の苦さ・まずさを大げさに言う人は多いが、実際にはそんな荼(ニガナ)などよりも、人生や世間のほうがもっと何倍も苦くて大変だということ。梁公が艱難辛苦をいとわないことをいう。
汝曹又宜列土食,身使門戶多旌棨。
かかる梁公の子孫であってみれば、あなたがたは鼎をつらねて御馳走をたべ、自身にはおのが門戸に旌棨をたくさんならべて建てるほどのいい地位にのぼるが至当なのである。
列土食/列鼎食 鼎を多くならべて煮炊きして食べるとは美食することをいう。
旌棨 旌ははた、何かをそれによって表草する。棨は赤黒の繒をつけた棨戟をいう。三品以上の官は門に棨戟を列する。
狄明府【寄狄明府博濟】【宇解】
1 狄明府博 狄博濟は姓名。明府は縣令の敬称、詩中に「漂泊岷漢間」の語あるので、蜀地漢州の某縣の縣令であったとおもわれる人物である。
2 梁公 狄仁傑なり。武后の朝に天下を保持した功あり。仁傑は聖暦三年に卒し、中宗位に即位するや司空を贈り、睿宗之を梁國公に封ず。因って梁公という。
3 曾孫 ひまご。
4 姨弟 母の姉妹の子をいう、作者よりいへば母方のいとこである。
5 十年 乾元元年より大暦二年までにて十年なり。【六】 済済
6 濟濟 高官の威儀多き貌をいう。《詩經: 大雅: 文王之什》「濟濟多士、文王以寧。」(濟濟たる多士、文王 以て寧し。)立派な群臣が盛んに多くあったので、文王はこれら多くの賢士を善く用い、これらの賢士の輔翼によって、文王は安らかに国を治められたのである。
7 大賢 梁公をさす。
8 之後 この血筋の子孫。
9 陵遲 次第に低くなってゆく陵線。血筋が衰退していることを言う。
10 浩蕩 大いなる貌、時間の長さを言う。
11 同一體 いつもかはらぬすがた
12 叔伯 伯叔父の列にあたるもの。
また、今は一族のいとこども百人ほどおり、そのうちで幾人がすぐれたものが朝廷に立って施政の禮をとり、守るものがあるのである。
13 兄弟一百人 伯叔父の列にあたるものの兄弟を入れて百人いる。百人は詩的表現。
14 秉周禮 周の禮にのっとり守られる施政を行うこと。左傳「魯猶秉周禮,未可動也。」(魯猶お周禮を秉り,未だ動かる可からずなり。)魯国では周の禮にのっとり守られる施政を行い、これを移動したりすることはない。
15 汝 書簡の相手、狄博濟のこと。
16 更用文章為 文章をよくもちいる人である。よく文章を働かす人であること。
17 長兄 名前は不詳である狄博濟の長兄。
18 白眉 優れたものを言う。蜀の馬良で、字を季常は兄弟五人(皆“常”の名がつく)、皆、才人であり、そろって、眉が白かったことで、諺に謂う、馬氏の五常は「白眉最良」と。
19 天啟 天之をひらく、天賦に基づくことを言う。
20 汝門 汝の家門のこと。
21 曾翁 狄博濟の曽祖父である梁公(狄仁傑)のこと。
22 太后當朝 則天太后が朝政にあたるもので、唐の國号を周に改めたことを言う。
23 多巧詆 多くの功績を残したもののよそから非難するものが多かつたという意。杜甫は太宗の施政を継承した則天武后を一定の評価をしていたということ。
24 則天武后の時期 武皇后は自身に対する有力貴族の積極的支持が無いと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては狄仁傑・姚崇・宋璟などがいる。これらは低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と武皇后への忠誠心を重視した。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた。
出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排除、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し皇帝の権力奪還を許さなかった。
25 則天武后の功績 長年の課題であった高句麗を滅ぼし唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績である。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定していたとされる。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに優れていたことは事実であり、彼女の登用した人材が玄宗時代の開元の治を導いたことも特筆に値する。
26 狄公 狄人傑
27 末年 則天武后の末年期。
28 濁河・清濟 濁れる黄河、清める濟水、濟水は山東兗州にながれる。
29 國嗣 唐國を嗣いだ周をいう。
30 初將 その周の最初の将軍。
31 諸武 則武天の一族一門のものをいう。
32 公 梁公。
33 廷諍 朝廷で諌諍することをいう。武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し重用していた稀代の名臣、狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を治めた[13]。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの二名は玄宗の時代の開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。
34 丹陛 あかぬりのご殿に通じる階(なかの台のきざはし)。殿前の庭は丹庭があり、丹陛(階段)となっており、丹陛(階段)には龍彫の装飾がある。
《巻八26兩當縣吳十侍禦江上宅》「餘時忝諍臣,丹陛實咫尺。」(余 時に諍臣を忝うす、丹陛 実に咫尺。)自分はその時、左拾遺の官をかたじけなくしていたわけで、天子の丹陛の間近にお仕えしていたのである。
兩當縣吳十侍禦江上宅 杜甫 <320-#3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1508 杜甫詩 700- 467
35 禁中 朝廷のうち。
36 決冊/決策 はかりごとをきめる。
37 請房陵 房陵は中宗をいう。武后は唐を革めて周となし、中宗を廃して盧陵王となして房州に遷し、武三思(后の姪)を太子となそうと欲した。狄仁傑はしばしば諌めていうのに、子母と姑姪とどちらが親しい関係にあるか、もし三思を立てるならば廟には姑を祔(木主を合祭すること)するわけにはゆかぬと。武后は悔悟して即日中宗を迎えて宮中に還らせたという。