望嶽 杜甫 <7> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ98 杜甫詩 700- 7


望 嶽 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  7 
開元29年741年30歳の作。 兗州に滞在の終わりごろ。
五言古詩
 
杜甫は、736~737年間、洛陽に居て、その後江南から、次に斉趙へ、4年くらい旅に出ている。そしてその間に4. 與任城許主簿游南池 5. 封雨書懐走邀許圭簿 6. 登兗州城楼 とかきあげている。今回の詩はそのたびの終り頃のものである。
 この旅の様子は杜甫55歳の時、成都の浣花渓草堂を後にして、次に寓居した夔州での五言古詩「壮遊」という詩に懐古として書かれている。 

 杜甫の幼年期・青春時代をこの「壮遊」(幼少・青年期を振り返る)もとに述べている書物が多いがこのブログではあくまでも、時系列に合わせて、その時の詩から杜甫の詩を見ていきたい。杜甫自身が書いた、回想録ではあるが、それに頼ると青春期の作品に我々も55歳というめがねでみることになるからである。
 (ここでは、55歳の夔州の段階で、取り上げていく予定にしている。われわれもそこまで言いって振り返る方がより杜甫に近づけると思う)
 ただ杜甫4.5.6の詩をを737年に書いて741年30歳に足かけ4年飛んでしまうのでその間の行動部分を「壮遊」で見ると次のとおりである。。
放蕩斉趙間、裘馬頗清狂。
それから斉趙の間を気ままに歩き、軽裘肥馬(けいきゅうひば)  放逸の限りをつくした
春歌叢台上、冬猟青丘旁。
春は叢台の上で歌を吟じ、冬は青丘のかたわらで狩りをする
呼鷹皂櫪林、逐獣雲雪岡。
櫟(いちい)の林で鷹を呼び、降りつむ雪の岡で獣(けもの)を追う
射飛曾縦鞚、引臂落鶖鶬。
手綱(たづな)を放して飛鳥をねらい、弓をしぼって鶖鶬を射落とす
蘇侯拠鞍喜、忽如携葛彊。

友人の蘇預は鞍を寄せてよろこび、葛彊が山簡に従うような親しさである

一緒に旅をしたのは「蘇侯」と書かれ、杜甫の自注によると蘇預(そよ後に蘇源明)のこと。ふたりは「青丘」で狩りをした。「青丘」は地図に示す青州(山東省益都県)の丘。蘇預が馬を寄せてきて杜甫の弓の腕前を褒めるのを、杜甫は晋の将軍山簡(さんかん)が部下の葛彊(かつきょう)を褒めるのに例えて、親しみをあらわしている。蘇源明はこのあとも、杜甫の生涯の友のひとりとして交流する人物です。
 四年間にわたる斉魯の旅は、兗州の父の官舎を拠点にしたものである。兗州から北80kmに泰山があり、足を延して「望嶽」を詠んだ。詩は初期作品の名作とされている。

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望 嶽         杜甫
岱宗夫如何,齊魯青未了。
 荘厳である泰山という山は一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまではてしなくその山の尊き青さが終わりはしないのだ。
造化鍾神秀,陰陽割昏曉。
自然界の万物のつくり主が神秀の「気」をあつめている神山である、「陰」と「陽」の気を分け、南北とに分け、太陽と月の役割を分け、そして昼と夜とを分割しているのだ。
盪胸生曾雲,決眥入歸鳥。
雲が次々と重なって湧きたつとわがこころのたかまりは最高潮になる、心に響くものが胸に迫り悟りの境地で目が張り裂けそうになり、悟り心は山に帰りゆく鳥のように心の奥まで入ってきた。
會當凌絶頂,一覽衆山小。

このような心境になれたからにはいつか必ずやこの山の最頂上によじのぼり、足もとにみえる山々のよう「我も我もと往きたるは小人の常」の気持ちを見下していく。

嶽を望む   
岱宗たいそう 夫それ如何いかん,齊魯せい ろ  靑  未まだ了らず。
造化は 神秀を鐘あつめ,陰陽は 昏曉を割わかつ。
胸を盪とどろかせば 層雲 生じ,眥まなじりを決すれば 歸鳥 入る。
かならずまさに 絶頂を凌しのぎて,一覽すべし 衆山の小なるを。
 

現代語訳と訳註
(本文)

岱宗夫如何,齊魯青未了。
造化鍾神秀,陰陽割昏曉。
盪胸生曾雲,決眥入歸鳥。
會當凌絶頂,一覽衆山小。

(下し文)
嶽を望む   
岱宗たいそう 夫それ如何いかん,齊魯せい ろ  靑  未まだ了らず。
造化は 神秀を鐘あつめ,陰陽は 昏曉を割わかつ。
胸を盪とどろかせば 層雲 生じ,眥まなじりを決すれば 歸鳥 入る。
かならずまさに 絶頂を凌しのぎて,一覽すべし 衆山の小なるを。

(現代語訳)

荘厳である泰山という山は一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまではてしなくその山の尊き青さが終わりはしないのだ。 
自然界の万物のつくり主が神秀の「気」をあつめている神山である、「陰」と「陽」の気を分け、南北とに分け、太陽と月の役割を分け、そして昼と夜とを分割しているのだ。
雲が次々と重なって湧きたつとわがこころのたかまりは最高潮になる、心に響くものが胸に迫り悟りの境地で目が張り裂けそうになり、悟り心は山に帰りゆく鳥のように心の奥まで入ってきた。
このような心境になれたからにはいつか必ずやこの山の最頂上によじのぼり、足もとにみえる山々のよう「我も我もと往きたるは小人の常」の気持ちを見下していく。

(訳注)
岱宗夫如何,齊魯青未了。
荘厳である泰山という山は一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまではてしなくその山の尊き青さが終わりはしないのだ。
岱宗 泰山をいう。岱は泰に同じ。宗は五岳の長の意。五岳(ごがく)は中国の道教の聖地である5つの山の総称。五名山ともする。陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。
 東岳:泰山(山東省泰安市泰山区)
 南岳:衡山(湖南省衡陽市衡山県)
 中岳:嵩山(河南省鄭州市登封市)
 西岳:華山(陝西省渭南市華陰市)
 北岳:恒山(山西省大同市渾源県)
 道教では万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。
泰山では東岳大帝が最も重要な神位として祀られてきた。後漢代には「俗に岱宗(=泰山)上に金篋・玉策があり、人の年寿の脩短をよく知る」(『風俗通』巻2)と記されている。つまり、泰山の山頂には人間の寿命の定数を記録した原簿に相当する帳簿が置かれているという信仰が存在していた。下って魏晋南北朝より唐代頃になると、その帳簿を管理する、人間界同様の組織の存在が想定されるようになる。こうして、長官としての泰山府君が出現し、その配下の官僚としての泰山主簿、泰山録事、泰山伍伯等の存在が生み出されてくるのである。「太山地獄」が、中国では現実に実在する泰山の地下深くに存在するものと考えられるようになった。こうして泰山地獄も誕生する。
斉魯 斉は泰山の北から北東にかけての青洲地方(地図に示す)。魯は泰山の南の兗州地方。○未了 尽きないこと。

造化鍾神秀,陰陽割昏曉。
自然界の万物のつくり主が神秀の「気」をあつめている神山である、「陰」と「陽」の気を分け、南北とに分け、太陽と月の役割を分け、そして昼と夜とを分割しているのだ。
造化 造物主、天然・自然界の主宰者。 ○神秀 気のすぐれている、道教神仙思想の一つ「気」。 ○陰陽 陰は山の北側、楊は南側を言う、と同時に楊は太陽、陰は月をあらわす。  ○ 区劃仕分けること。  ○昏曉 夕暮れと暁。 この聯は(二句)はすべて道教の教えからの言葉。

盪胸生曾雲,決眥入歸鳥。
雲が次々と重なって湧きたつとわがこころのたかまりは最高潮になる、心に響くものが胸に迫り悟りの境地で目が張り裂けそうになり、悟り心は山に帰りゆく鳥のように心の奥まで入ってきた。
盪胸 心臓を動悸させること。 ○曾雲 層雲に同じ。雲は岩穴から生じるものとされていた。雲が生じてきてグッと下から迫ってきて心臓の動悸が高鳴ること言う。  ○決眥 まなじりを裂く、目を見開くこと。 ○ ずっと奥まで入っていく。悟りの境地に入っていく。 ○歸 帰っていく鳥。考えを持った鳥が悟りを開きかえっていくこと。

會當凌絶頂、 一覽衆山小。 
このような心境になれたからにはいつか必ずやこの山の最頂上によじのぼり、足もとにみえる山々のよう「我も我もと往きたるは小人の常」の気持ちを見下していく。
 かならず、唐時代の俗語。 ○衆山小 『孟子』尽心上、「揚子法言」学行篇に、孔子が泰山に登って天下を小としたとあるが、儒教の型にはまって、結局他人と同じようにするせこせこした部分を批判し、もっと自然にすべきであると説いていることを示す。孟荘の思想は、儒教を乗り越えるところから始まったもの。最終句を山の上から見下すというだけの解釈は浅すぎていけない。青年期の杜甫の詩からも儒教を乗り越えようとする様子が読み取れる。(盛唐期の流れである。李白は当然であるが王維でさえそれを感じる。ただ、王維は仏教:禅の方向へ進む。老荘思想はこの時期から仏教にも影響している)

○韻字 了・暁・鳥・小。

(下し文)嶽を望む      
岱宗たいそう 夫それ如何いかん,齊魯せい ろ  靑  未まだ了らず。
造化は 神秀を鐘あつめ,陰陽は 昏曉を割わかつ。
胸を盪とどろかせば 層雲 生じ,眥まなじりを決すれば 歸鳥 入る。
かならずまさに 絶頂を凌しのぎて,一覽すべし 衆山の小なるを。

 

解 説
詩のはじめの二句は、「岱宗 夫れ如何」と問いかける導入部、中四句で泰山の姿を描く。はじめの二句は泰山の雄大さを道教の言語で讃え、あとの二句は自然の情景より生じた自己の感応を語っている。最後の二句は結びで、杜甫は未来への決意を述べている。若い杜甫の満々たる自負心と人生への希望、若さを感じ取ることができるものである。


 泰山と道教
 この時代は道教を外して考えるわけにはいかない。泰山となると特にそうである。

泰山封禅は皇帝のものであるが、庶民の間でも泰山にまつわる信仰の歴史は古い。紀元前3世紀、春秋戦国に書かれた『莊子』の内篇の第一逍遙遊には既に大きいものの例えとして、「太山」という名前が記されている。荘子では人間の小ささを表すために、絶大な大きさを持つ架空の鵬という名の鳥を例に対比させている。これは泰山がとてつもなく大きいものの代表という概念が、春秋時代にはもう形成されていたことを示している。

山と道教と言った関係からも、道教と泰山はもともと相性が良かったと言いえよう。東晋の『搜神記』には、早くも泰山が神性を帯びて冥界の神として登場する。以後、泰山府君を中心とした泰山信仰は『太平廣記』や『夷堅志』などの異聞に多く見られる。
唐の時代、特に盛唐期玄宗によりピークを迎えるが、それ以降も女性の信仰対象としての存在意義が増し、圧倒的な人気を誇っている。