贈李白 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  16(李白と旅する)(李白を詠う-2)
 単父での交遊のあと、李白と杜甫は高適と別れ、二人は斉州(山東省済南市)へ行く。
 斉州に着くと、李白は斉州の道観紫極宮の道士高如貴(こうじょき)のもとに入門し、杜甫は、斉州司馬として斉州に赴任していた太宗の玄孫で皇室の一員である李之芳(りしほう)のもとに身を寄せた。


贈李白
秋来相顧尚飄蓬、未就丹砂愧葛洪。
秋が到来したお互いを見比べてみると二人とも当てもなく流浪の旅をしている飄蓬のようだ。いまだに仙人の境地の端達していない道教の学者の教えに照らしても恥ずかしい限りだ。
痛飲狂歌空度日、飛揚跋扈為誰雄。
徹底して酒を飲み 気が狂ったように大声で歌う、何も考えないで日々を過ごす、飛んだり跳ねたりして、修行が足りていないのにこんな仙人のようにしている誰のためといえば自分のためにしている。

秋が到来したお互いを見比べてみると二人とも当てもなく流浪の旅をしている飄蓬のようだ。いまだに仙人の境地の端達していない道教の学者の教えに照らしても恥ずかしい限りだ。
徹底して酒を飲み 気が狂ったように大声で歌う、何も考えないで日々を過ごす、飛んだり跳ねたりして、修行が足りていないのにこんな仙人のようにしている誰のためといえば自分のためにしている。

秋来相顧尚飄蓬、未就丹砂愧葛洪。
秋が到来したお互いを見比べてみると二人とも当てもなく流浪の旅をしている飄蓬のようだ。いまだに仙人の境地の端達していない道教の学者の教えに照らしても恥ずかしい限りだ。
飄蓬 転蓬と同じ。枝が四方に広がり、表面で絡み合い毬状になったころ秋風が吹いてくると根こそぎちぎれて、すさまじい勢いで転がっていく植物。人が当てもなく流浪の旅を行うことを比喩に用いられる。○丹砂 煉藥 仙薬を練ること。丹砂:水銀と硫黄の化合した赤色の土を何回もねり上げると金丹:黄金となり、それを飲むと仙人になれるという。覚醒状態にさせる薬。ここでは目標とすることの達成。仙人の境地。  ○葛洪 晋代の道家の学者。
  

痛飲狂歌空度日、飛揚跋扈為誰雄。
徹底して酒を飲み 気が狂ったように大声で歌う、何も考えないで日々を過ごす、飛んだり跳ねたりして、修行が足りていないのにこんな仙人のようにしている誰のためといえば自分のためにしている。
狂歌 気が狂ったように大声で歌う。 ○跋扈 ばっこ 強くて我儘かって。臣下が主人や君主をしのぐ。道教の勉強が李白より足りないのにそれ以上のことしようとする。他の解説書でこの語の解釈がはっきりしていないのでこの句が訳の分からないものであった。たとえばこの詩の意味を次のように訳されていた。
 

ここでの訳詩文通常の他の訳詩文例
秋が到来したお互いを見比べてみると二人とも当てもなく流浪の旅をしている飄蓬のようだ。 秋になり顔を見合わせると  瓢か蓬のように頼りない
いまだに仙人の境地の端達していない道教の学者葛洪先生の教えに照らしても恥ずかしい限りだ。 いまだ丹砂にも辿りつけず  葛洪に合わせる顔がない
徹底して酒を飲み 気が狂ったように大声で歌う、何も考えないで日々を過ごす 飲み明かし 歌い狂って  空しく日を送り
、飛んだり跳ねたりして、修行が足りていないのにこんな仙人のようにしている誰のためといえば自分のためにしている。 飛び跳ねて暴れているが   誰のためにやっているの

  

(下し文)李白に贈る
秋来(しゅうらい) 相顧みれば 尚お飄蓬(ひょうほう)たり
未だ丹砂(たんしゃ)を就(な)さずして葛洪(かつこう)に愧ず
痛飲(つういん) 狂歌(きょうか) 空しく日を度(わた)
飛揚(ひよう) 跋扈(ばっこ) 誰(た)が為にか雄(ゆう)なる

  (745年) 杜甫は翌天宝四載  夏の終わりまで斉州にいて、李之芳の知人や斉州の知識人と交流して過ごしている。秋になって斉州を出て魯郡の李白の家を訪ね、しばらく李白といっしょに暮らしている。李白は道士の修行を終え、魯郡の「魯の婦人」のもとで日を過ごしていた。魯郡で杜甫は李白に連れられて、道士や隠士のもとを訪れたが、杜甫には道教や隠士の道は求めなかったのだ。

 この詩は、そのころ杜甫が李白に贈った作品とされている。道教の教義を若い時から勉強している李白に比較して、かなり引いた自分がいたのであろう。「跋扈」という表現は修行もしていない自分が李白と同じことをすることを表現したものである。