「陪李北海宴歴下亭」 時邑人蹇處土輩在坐 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  20 


梁・宋での遊びののち、高適は南方楚の地に遊び、杜甫は李白に従って斉・魯に行くことにした。李白は兗州(山東省滋陽)の我が家に帰り、すぐ北海(山東省益都)の道士高天師のところへ出かけた。道教のお札をもらうためであったらしい。

 これまで744年天宝3載 33歳の作
七言絶句 16 贈李白(李白と旅する)
五言律排 17 贈李白(二年客東都)
五言律詩 18 重題鄭氏東亭  


745年天宝4載 34歳
五言律詩20 陪李北海宴歴下亭 時邑人蹇處土輩在坐 

杜甫は途中、李白と別れて、かつて洛陽の文会で会ったことのある北海の太守李邕を訪ねた。
邕は、杜甫が詩文の手本としていた『文選』三十巻に注釈を施した李善の子であり、書と詩文によって当時の文壇に名声があった。李邕は、『文選』に収められている古来の名作や、父の李善、それに自分も関係している『文選』注にまで詳しい杜甫に、驚きと親しみの念をもって対したにちがいない。
その年の夏、李邕が済州(済南)にやって来たので、杜甫は李邕に従い、済州の駅事にある歴下事や、済州城の北方にある鵲山亭での宴遊に加わって、当代の文壇のあれこれについて談じた。話は祖父審言にも及び、李邕は審言の詩の美しきを賛えた。杜甫は祖父の存在を、どんなに誇りに思ったことであろう。


陪李北海宴歴下亭 時邑人蹇處土輩在坐
  北海太守李邕のお相伴をして歴下の亭で宴に同席したことをのべる。745年天宝四載34歳の作。


五言律排
陪李北海宴歴下亭 時邑人蹇處土輩在坐
李北海につきそって歴下亭に宴席した。その時、邑人蹇處土も列席されていた。
東藩駐皂蓋、北渚凌淸河。
李北海太守公は東藩のここ青州にその黒き車蓋をとどめておられる、北方面は渤海の渚をそして南は淮河の清らかな流れまで凌駕されておられる。
海右此亭古、済南名士多。』
このあたり一帯、海に至るまでの場所で歴下のこの亭は由緒ある有名なものであり、またこの済南の地方おける名士が今日ここに多く列席されている。』
雲山己發興、玉珮仍當歌。
この事で雲山をながめここの自然だけでもはや興をおこした、また、その上に玉珮の佳人が対面席の向こうで歌をうたってくれる。
傾竹不受暑、交流室湧波。』 
高くしげった竹林は静かで暑気などを感じさせない、合流しゆく諸水もいたずらになくてもいい大波をたたせている。』
蘊眞愜所遇、落日将如何。 
この真の自然の趣をもっている境地にであった事はさらにおおいに気にいった所につつまれていることだ、日が沈みかけてきたこの境地の趣きが消えてゆく、どうしたらよいだろう。
貴賤倶物役、従公難重過。』 
さて人は貴きも賤しきもそれぞれ、その時々の事物に使役せられるものであるから、李公のお伴をしてここに再び訪れることはすることは難しいことではあろう。


李北海につきそって歴下亭に宴席した。その時、邑人蹇處土も列席されていた。
李北海太守公は東藩のここ青州にその黒き車蓋をとどめておられる、北方面は渤海の渚をそして南は淮河の清らかな流れまで凌駕されておられる。
このあたり一帯、海に至るまでの場所で歴下のこの亭は由緒ある有名なものであり、またこの済南の地方おける名士が今日ここに多く列席されている。』
この事で雲山をながめここの自然だけでもはや興をおこした、また、その上に玉珮の佳人が対面席の向こうで歌をうたってくれる。
高くしげった竹林は静かで暑気などを感じさせない、合流しゆく諸水もいたずらになくてもいい大波をたたせている。』
この真の自然の趣をもっている境地にであった事はさらにおおいに気にいった所につつまれていることだ、日が沈みかけてきたこの境地の趣きが消えてゆく、どうしたらよいだろう。
さて人は貴きも賤しきもそれぞれ、その時々の事物に使役せられるものであるから、李公のお伴をしてここに再び訪れることはすることは難しいことではあろう。


(李北海に陪 し、歴下の亭に宴 す、時に蹇處土輩が坐に在り)
東藩(とうはん)皂蓋(そうがい)を駐(とど)め 北渚(ほくしょ)淸河(せいが)を凌しのぐ
海右 此の亭 古たり 済南名士多し』
雲山己に興を発す 玉珮仍りて 当り 歌う
脩竹を受けず 交流空しく波を湧かす』
真を蘊(つつ)みて遇う所に愜(かの)う 落日将に如何にせんとする
貴餞倶に役される 公に従う 重ねて過り難し』

陪李北海宴歴下亭 時邑人蹇處土輩在坐
李北海につきそって歴下亭に宴席した。その時、邑人蹇處土も列席されていた。
李北海 李邕をいう。邕は広陵の人、天宝の初め、汲郡・北海の太守となり、六年李林甫に忌まれて殺され
た。北海は青州のこと。○歴下 今の山東省済南府、歴山の下にあるので歴下という。○ この亭は歴山の台上にあったという。


東藩駐皂蓋、北渚凌淸河

李北海太守公は東藩のここ青州にその黒き車蓋をとどめておられる、北方面は渤海の渚をそして南は淮河の清らかな流れまで凌駕されておられる。
○東藩 青州をさす、東にあって京都のまもりとなるが故に東藩という。○竃蓋 黒色の車の傘で太守の用いるもの。○北渚凌清河 北は済州の渤海に面した渚で、南側は淮河の清き流れまでの間を凌ぐ、凌駕、立派におさめていると考えるのが妥当と思う。これには諸説あって、李邕がこの地に来たことを示すものというのが多い。それだと、北渚は北方の渚、北方は亭より北側を指す。凌とは川を凌ぎわたってきたこと、淸河は済河を示すとされる。これでは意味が全く通らない。
 まず、①(本来なら中央朝廷の人のはずが、)立派な方なのにこの青州へ左遷された。②太守専用車をいつでも出られるように駐車されている。その意味は、問題解決に自ら出ていかれるお気持ちがある。以上が初めの句の本位である。これを踏まえると③凌とは凌駕、つまりわずかの間に北海の太守の席を立派にされているということになる。④北の渚、詩人的表現で、渤海に至る渚、ということ。⑤南をずっと南の淮河の清流と詩人的誇張表現をして③の凌を強調している。と考えると杜甫が高級官僚に対して最大の社交辞令が生きてくる。河を渡った凄い人、というのは視点が狭い。

海右此亭古、済南名士多。
このあたり一帯、海に至るまでの場所で歴下のこの亭は由緒ある有名なものであり、またこの済南の地方おける名士が今日ここに多く列席されている。』
海右 都に向かって、右に海がある。顔を都の向け歴下(済南)の右は海。当時は川・運河が主な交通手段だからそれを中心に方角も考えているので、若干の誤差は出る。○済南 済州の南。歴下。○名士 題注の蹇處土輩、そのとき集まった人々をさす。 
 
雲山已發興,玉佩仍當歌。
この事で雲山をながめここの自然だけでもはや興をおこした、また、その上に玉珮の佳人が対面席の向こうで歌をうたってくれる。
雲山 雲のいる山、草よりみえる所のもの。○発興 興をおこす。○玉珮 ギョクハイ。玉でつくったおびもの、これは酒宴のお相手をする女の身の帯のかざり。玉珮といって之を帯状のさげた女をさす。○ そのうえにも。○当歌 当は対当の義、「筵を当る」をいう、宴席にてお客のむかいにすわってということ。

修竹不受暑,交流空湧波。
高くしげった竹林は静かで暑気などを感じさせない、合流しゆく諸水もいたずらになくてもいい大波をたたせている。』
修竹 背たけのたかい竹。 ○不受暑 竹葉がしげりあっているために暑気を感じさせない。 ○交流 歴山の祠下より歴水が出て、濼水と共に鵲山湖に入る。交流は諸水の合流をいう、これは竹林から振り向いて遠望している。詩の場面を大きく変化させる。○空 無意味な、徒らにという類、徒らにとはぶつかって大きな波を起こしているが静かで清らかな川にむだなことをしている。

蘊真愜所遇,落日將如何!
この真の自然の趣をもっている境地にであった事はさらにおおいに気にいった所につつまれていることだ、日が沈みかけてきたこの境地の趣きが消えてゆく、どうしたらよいだろう。
蘊真 謝霊運の詩句にみえる語、真趣をつつむ。此の亭の風景が真の趣を蔵有することをいう。○ かなう、気にいる。○所遇 我がであうところ、蘊真と所遇とは同一事。○落日 太陽の没せんとするころ。○将如何 日が沈んでいくことを惜しむ。ここを去ることを惜しむこと。
 
貴賤俱物役,從公難重過。』
さて人は貴きも賤しきもそれぞれ、その時々の事物に使役せられるものであるから、李公のお伴をしてここに再び訪れることはすることは難しいことではあろう。
貴餞 貴は李畠をいい、賤しきは自己をいう。○物役 事物のために使役される。○従公 公とは李をさす。



911.陪李北海宴歷下亭
東藩駐皂蓋,北渚臨清河。
海右此亭古,濟南名士多。
雲山已發興,玉佩仍當歌。
修竹不受暑,交流空湧波。
蘊真愜所遇,落日將如何!
貴賤俱物役,從公難重過。