投贈哥舒開府翰二十韻  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 82
開府儀同三司・河西節度使哥舒翰に贈った詩。作時は754年天宝13載43歳。


投贈哥舒開府翰二十韻
今代麒麟閣,何人第一功。君王自神武,駕馭必英雄。』
開府當朝傑,論兵邁古風。先鋒百勝在,略地兩隅空。
青海無傳箭,天山早掛弓。廉頗仍走敵,魏絳巳和戎。』
每惜河湟棄,新兼節製通。智謀垂睿想,出入冠諸公。
日月低秦樹,乾坤繞漢宮。胡人愁逐北,宛馬又從東。』
受命邊沙遠,歸來禦席同。軒墀曾寵鶴,畋獵舊非熊。
茅土加名數,山河誓始終。策行遺戰伐,契合動昭融。
勛業青冥上,交親氣概中。』
未為珠履客,巳見白頭翁。壯節初題柱,生涯獨轉蓬。
幾年春草歇,今日暮途窮。軍事留孫楚,行間識呂蒙。
防身一長劍,將欲倚崆峒。』


投贈哥舒開府翰二十韻
今代麒麟閣,何人第一功。君王自神武,駕馭必英雄。』
今の唐の世で麒麟閣上に画かれる功臣も多くあろうが、誰が其の中の第一の功あるものであろうか。
我が君王(玄宗)におかせられては神と武の徳を具えられたお方である、その駕馭をじゆうにあやつれる英雄のものときまっている。』


(哥舒翰の陳右での武功をのべる。)
開府當朝傑,論兵邁古風。先鋒百勝在,略地兩隅空。
青海無傳箭,天山早掛弓。廉頗仍走敵,魏絳巳和戎。』
開府侯あなたは朝廷において豪傑であります、兵を論じる時には古風な武人を超えた感がある。
戦にのぞんで先鋒となり、百勝した事実が存在している、攻略した敵地の二方の辺境に敵なしであった。
即ち君あるが故に青海地方には箭を伝えて兵を召す事もなく、天山の地方も吐蕃が降服して早くも弓を掛けておくに至った。
丁度むかし趙の将廉頗が敵を敗走させた事とおなじであり、また魏の絳が戎夷と講和したと同じようである。』


(翰が河西地方を恢復したことをのべる。)
每惜河湟棄,新兼節製通。智謀垂睿想,出入冠諸公。
日月低秦樹,乾坤繞漢宮。胡人愁逐北,宛馬又從東。』
自分はいつも河湟の地方が蕃人の手へ放棄されてあったことを惜しんでいたが君が新に河西節度使を兼ねられてからその軍隊の節制がよくゆきわたるようになった。
開府侯の智謀に対しては我が君王におかせられても恩おもいをよせられ、従って君寵もあついため、開府侯という高位高官にとりたてられ、朝廷への出入に当っては文武諸顕官の上位におられる。
今や日月の光りも帝都の樹木に向って照らしかけ、唐の宮殿をめぐって天地が広く横わっているのだ。
この勢で吐蕃の異民族はただ我が唐から逐いまくられはすまいかと心配し、遂に彼等は我が唐に降参し、華の優秀な宛馬は我が唐の方へやってくる事になった。』


(翰が入朝して君王に封れたことをのべる。)
受命邊沙遠,歸來禦席同。軒墀曾寵鶴,畋獵舊非熊。
茅土加名數,山河誓始終。策行遺戰伐,契合動昭融。
勛業青冥上,交親氣概中。』
こうして開府侯は辺方沙漠のはるか遠き地に在り天子からの命を受けて中央朝へ凱旋歸朝され、君王と同席で宴を賜わった。
開府侯が君寵を担うことは恰もむかしの衛國の懿公(いこう)の鶴のように頻繁に御殿の軒端土縁近くで可愛がられ、又、文王が猟りした時、熊でなく開府侯、あなたを我が君に獲られたのである。
君は領土を授与されてそれにかのうた名誉の地位と禄高数を加えられ、「泰山が崩れ、黄河が水が枯れようと始終変易することあるまじ」と我が君王から誓いを賜わった。
策謀・戦略によって戦伐は無用で遺棄せられるほどなのだ、君王から一平卒までの統率・統合されていて、その功績は輝き照らされて感動を与えている。
開府侯の勛業は実にあおぞらの上に届くほどであり、そして気概をもった人であるから、親交者の中に自分のような者まで加えていただいている。』


(杜甫自身をこと、この詩を投贈する意義について。)
未為珠履客,巳見白頭翁。壯節初題柱,生涯獨轉蓬。
幾年春草歇,今日暮途窮。軍事留孫楚,行間識呂蒙。
防身一長劍,將欲倚崆峒。』

自分はまだ珠履を踏む身分でもない、いつしか白髪交じりの白頭翁のようにみられるようになった。
若いときは司馬相如のように故郷の橋に、題を書きつけて出かけたものでしたが、生涯はただ一塊の蓬のころがっていくようなものですが芯はしっかりしています。
幾年もたってしまっている。旅住いをしながら春の息衝く芳草が冬の寒さに衰えゆくのを見たことのである。今日、すでに晩年となって目途が窮まってしまった。
軍事的には部下に孫楚の如き人をとどめておかれるし、小組小隊、行伍の間から呂蒙の如きすぐれた人物を識りわけて抜擢している。
自分もできるならば一長剣を横えて身を防ぎ、そのうえで開府侯の管轄地にある崆峒山の軍に倚るつもりでいるのです。


○韻  功、雄。』/風、空、弓、戎。』/通、公、宮、東。』
           /同、熊、終、融、中。』/翁、蓬、窮、蒙、峒。』




今の唐の世で麒麟閣上に画かれる功臣も多くあろうが、誰が其の中の第一の功あるものであろうか。
我が君王(玄宗)におかせられては神と武の徳を具えられたお方である、その駕馭をじゆうにあやつれる英雄のものときまっている。』

(哥舒翰の陳右での武功をのべる。)
開府侯あなたは朝廷において豪傑であります、兵を論じる時には古風な武人を超えた感がある。
戦にのぞんで先鋒となり、百勝した事実が存在している、攻略した敵地の二方の辺境に敵なしであった。
即ち君あるが故に青海地方には箭を伝えて兵を召す事もなく、天山の地方も吐蕃が降服して早くも弓を掛けておくに至った。
丁度むかし趙の将廉頗が敵を敗走させた事とおなじであり、また魏の絳が戎夷と講和したと同じようである。』

(翰が河西地方を恢復したことをのべる。)
自分はいつも河湟の地方が蕃人の手へ放棄されてあったことを惜しんでいたが君が新に河西節度使を兼ねられてからその軍隊の節制がよくゆきわたるようになった。
開府侯の智謀に対しては我が君王におかせられても恩おもいをよせられ、従って君寵もあついため、開府侯という高位高官にとりたてられ、朝廷への出入に当っては文武諸顕官の上位におられる。
今や日月の光りも帝都の樹木に向って照らしかけ、唐の宮殿をめぐって天地が広く横わっているのだ。
この勢で吐蕃の異民族はただ我が唐から逐いまくられはすまいかと心配し、遂に彼等は我が唐に降参し、華の優秀な宛馬は我が唐の方へやってくる事になった。』

(翰が入朝して君王に封れたことをのべる。) 
こうして開府侯は辺方沙漠のはるか遠き地に在り天子からの命を受けて中央朝へ凱旋歸朝され、君王と同席で宴を賜わった。
開府侯が君寵を担うことは恰もむかしの衛國の懿公(いこう)の鶴のように頻繁に御殿の軒端土縁近くで可愛がられ、又、文王が猟りした時、熊でなく開府侯、あなたを我が君に獲られたのである。
君は領土を授与されてそれにかのうた名誉の地位と禄高数を加えられ、「泰山が崩れ、黄河が水が枯れようと始終変易することあるまじ」と我が君王から誓いを賜わった。
策謀・戦略によって戦伐は無用で遺棄せられるほどなのだ、君王から一平卒までの統率・統合されていて、その功績は輝き照らされて感動を与えている。
開府侯の勛業は実にあおぞらの上に届くほどであり、そして気概をもった人であるから、親交者の中に自分のような者まで加えていただいている。』

(杜甫自身をこと、この詩を投贈する意義について。)
自分はまだ珠履を踏む身分でもない、いつしか白髪交じりの白頭翁のようにみられるようになった。
若いときは司馬相如のように故郷の橋に、題を書きつけて出かけたものでしたが、生涯はただ一塊の蓬のころがっていくようなものですが芯はしっかりしています。
幾年もたってしまっている。旅住いをしながら春の息衝く芳草が冬の寒さに衰えゆくのを見たことのである。今日、すでに晩年となって目途が窮まってしまった。
軍事的には部下に孫楚の如き人をとどめておかれるし、小組小隊、行伍の間から呂蒙の如きすぐれた人物を識りわけて抜擢している。
自分もできるならば一長剣を横えて身を防ぎ、そのうえで開府侯の管轄地にある崆峒山の軍に倚るつもりでいるのです。



(哥舒翰開府翰に投贈す二十韻)
今代麒麟閣 何人か第一の功なる
君王自ら神武 駕駁必ず英雄なり』


(哥舒翰の陳右での武功をのべる。)
開府は朝に当るの傑 兵を論ずる古に遇ぐる風あり
先鋒百戦在り 略地両隅空し
青海箭を伝うること無く 天山早く弓を挫く
廉頗偽りて敵を走らす 魂経己に戎に和す』


(翰が河西地方を恢復したことをのべる。)
毎に悼む河塩の棄てらるるを 新に兼ねて節制通ず
智謀着想を垂る 出入諸公に冠たり
日月秦樹に低れ 乾坤漢宮を繞る
胡人逐北を愁う 宛馬又た東に従う』


(翰が入朝して君王に封れたことをのべる。) 
命を辺抄の速さに受く 帰り来って御席同じ
軒軽骨ねて鶴を寵す 故猟旧と非熊
茅土名数を加う 山河始終を誓う
策行われて戦伐を過す 契り合して昭融を動かす
勲業青冥の上 交親気概の中』


(杜甫自身をこと、この詩を投贈する意義について。)
未だ珠履の客と為らざるに 己に見る白頭の翁なるを
壮節初め柱に題す 生涯独り転蓬
幾年か春草飲む  今日暮途窮す
軍事孫楚を留め  行間呂蒙を識る
防身の一長剣 崆峒に倚らんと将欲す』




(哥舒翰開府翰に投贈す二十韻
投贈此の詩篇を投じ贈る。○哥舒翰 開府哥舒は姓、名は翰。突騎施の首領、哥舒部落の出身であることから哥舒を姓とする。747、749年天宝六、八載吐蕃を破る。・府兵制の崩壊、折衝府軍の形骸化。752年天宝十一載に開府儀同三司を加えられ、754年同十三載には河西節度使を加えられ西平郡王に封ぜられた。翰は753年十二載の冬に入朝した。


今代麒麟閣,何人第一功。
今の唐の世で麒麟閣上に画かれる功臣も多くあろうが、誰が其の中の第一の功あるものであろうか。
今代 唐をさす。○麟麟閣 漢の武帝は麟を獲て麟麟閣を作りそこに功臣を画いた。宣帝の甘露三年にも大将軍電光等十二人を画いた。



君王自神武,駕馭必英雄。』
我が君王(玄宗)におかせられては神と武の徳を具えられたお方である、その駕馭をじゆうにあやつれる英雄のものときまっている。』
君王玄宗をさす。○神武「易」にみえる。人力以上の武徳あること。○駕馭 駕は馬を車につけること、馭は馬をあやつること、人物を馬に此していう。○英雄人傑をいう。



(哥舒翰の陳右での武功をのべる。)
開府當朝傑,論兵邁古風。
開府侯あなたは朝廷において豪傑であります、兵を論じる時には古風な武人を超えた感がある。
開府 哥舒翰をさす。○当朝傑 朝廷に於ての豪傑。
論兵 兵謀のことを議論する。○遇古風 遇は過ぎる、こえることをいう。風とはすがたをいう。



先鋒百勝在,略地兩隅空。
戦にのぞんで先鋒となり、百勝した事実が存在している、攻略した敵地の二方の辺境に敵なしであった。
先鋒百戦 哥舒翰は初め、河西節度使王健の部下にあり、又王忠嗣の将校となって西辺に武功をたてた。○略地 略は取ること。〇両隅 二万の辺地、天山、青海をさす。○ むかう敵がない。



青海無傳箭,天山早掛弓。
即ち君あるが故に青海地方には箭を伝えて兵を召す事もなく、天山の地方も吐蕃が降服して早くも弓を掛けておくに至った。
青海 今の青海省の地方。○無伝箭 兵を起こすときは箭(命令のしるし)を信号としてつぎつぎと命令を伝える。箭を伝うるなしとは兵をやめることをいう。哥舒翰は天宝六載に王忠嗣に代って陳右節度使となり青海のほとりに神威軍を築いて吐蕃を破った。又青海の中の竜駒島に城を築いたので吐蕃は後退した。○天山 祁連山とも白山ともいう山、唐の交河県(今の吐魯蕃地万)の北一百二十里にある。翰が吐蕃の石堡城を攻めたとき、麾下の将高秀微、張守喩をして進攻せしめ旬日ならずしてこれを破った。○掛弓 弓をかけておくこと。戦のないために弓を用いないこと。



廉頗仍走敵,魏絳巳和戎。』
丁度むかし趙の将廉頗が敵を敗走させた事とおなじであり、また魏の絳が戎夷と講和したと同じようである。』
廉頗 戦国時の趙の良将。○魏絳 春秋の時の晋の悼公の臣。絳は公に説くに戎と和するのには五利のあることを以てし、遂に戎と和した。


 
(翰が河西地方を恢復したことをのべる。)
每惜河湟棄,新兼節製通。
自分はいつも河湟の地方が蕃人の手へ放棄されてあったことを惜しんでいたが君が新に河西節度使を兼ねられてからその軍隊の節制がよくゆきわたるようになった。
毎惜 作者の心にてつねにこれを惜しむこと。○河渡 河は黄河、湟は塩水。塩水は青海の東の乱山中より出て東南流して蘭州の西南に至って黄河に入る。今は甘粛省の西寧府城北を東南流して黄河に入る。此の地方は常に唐と吐蕃との争奪の目的となった処である。○ 蕃人の手にすてることをいう。○新兼節制 天宝十二載に翰は封を涼国公に進められ、河西節度使を加えられ、吐蕃の洪済・大漠門等の城を破り、悉く九曲の地を収め、其の地に挑陽郡を置き、神策・宛秀の二軍を築いた。節制を兼ねるとはこれをさす。○ 節制のゆきわたることをいう。



智謀垂睿想,出入冠諸公。
開府侯の智謀に対しては我が君王におかせられても恩おもいをよせられ、従って君寵もあついため、開府侯という高位高官にとりたてられ、朝廷への出入に当っては文武諸顕官の上位におられる。
智謀翰の智謀。○垂睿想 睿想とは天子の恩おもいをいう。垂るとは想いをかけられることを敬っていう。○出入 翰が朝廷に出入することをいう。○冠諸公 冠とは首位におることをいう、諸公とは文武の顕官をさす。



日月低秦樹,乾坤繞漢宮。
今や日月の光りも帝都の樹木に向って照らしかけ、唐の宮殿をめぐって天地が広く横わっているのだ。
日月低秦樹秦樹とは関中の樹木、帝畿の樹木をいう。日月の光がこの樹木に向かって上から下へと照らしかけるというのは帝業のかがやくこころをこめていう。○乾坤続漢宮 漢宮とは唐の宮殿をいう、乾坤は天地のこと。天地が唐の宮殿をめぐるとは、この地球上の広がりがことごとく唐のものとなったさまをいう。此の二句は実に壮大な句ということができる。



胡人愁逐北,宛馬又從東。』
この勢で吐蕃の異民族はただ我が唐から逐いまくられはすまいかと心配し、遂に彼等は我が唐に降参し、華の優秀な宛馬は我が唐の方へやってくる事になった。』
胡人 えびす、異民族、吐蕃をさす。○逐北 北するを逐うとは唐の軍が南方より勝ちに乗じて逐いまくることをいう。○宛馬又従東 漢の武帝の時大宛国を伐って天馬を得、天馬の歌を作った。その歌に「天馬来タル、無事ヲ歴、千里ヲ経、東通二循ウ」とある。従東とは「東通二循り」の意であり、西方の地より東方なる中国本土の方へと道に添うてやってくることをいう。ここでは吐蕃等の西戎が唐へ降ったので、その馬が唐へくることをいう。




(翰が入朝して君王に封れたことをのべる。) 
受命邊沙遠,歸來禦席同。
こうして開府侯は辺方沙漠のはるか遠き地に在り天子からの命を受けて中央朝へ凱旋歸朝され、君王と同席で宴を賜わった。
受命 天子より入朝すべしとの命令をうけること。○辺沙 遠辺方沙漠の遠い地、河西をさす。○帰来 朝廷に凱旋してかえり来る。○御席 君王天子賜宴の席。



軒墀曾寵鶴,畋獵舊非熊。
開府侯が君寵を担うことは恰もむかしの衛國の懿公(いこう)の鶴のように頻繁に御殿の軒端土縁近くで可愛がられ、又、文王が猟りした時、熊でなく開府侯、あなたを我が君に獲られたのである。
軒墀 のきば、土縁。○層と同じ。○寵鶴「左伝」に衛の殊公は鶴を愛し、鶴に大夫の軒にのるものがあったという。この故事を用いる。○政猟 すなどり、かり。○非熊 これは文王が太公望を得たときの故事である。文王が猟をしようとしてこれを卜したところ、獲る所は「竜二非ズ影二非ズ、虎二非ズ熊二非ズ、乃チ覇王ノ輔ナラン」とあったという、果たして大公を得てかえった。熊を熊として用いている。唐の李翰の「蒙求」に呂望非熊の語があり、「後漢書」雀相伝の李賢注にも「史記」を引いて非熊非熊といっているのからすれば唐代の「史記」は非熊とあったものがあったことを知ることができる。哥舒翰を太公望に此したもの。



茅土加名數,山河誓始終。
君は領土を授与されてそれにかのうた名誉の地位と禄高数を加えられ、「泰山が崩れ、黄河が水が枯れようと始終変易することあるまじ」と我が君王から誓いを賜わった。
茅土加名数 茅土とは領地を与えることをいう。古代天子が諸侯を封ずるときにはその地方の東西南北如何によって其の方位の色(東は青、酉は白、南は赤、北は墨の土を与えて社(土神を祭る)を立てしめ、その土はこれをしくに白き茅を以てし、葢うに黄土を以てした。白茅はその潔白なる義を取り、黄土は王者は四方を覆うの義を取ったもの。天宝十二載九月に隴右節度使涼国公哥舒翰は封を西平郡王に進められ実封五百戸を食した。名数とは名位度数にして、名位とは官爵をさし、度数は名位に相応した階級数量(五百戸というのは禄数である)をさす。○山河誓始終 漢の高祖が功臣を封ずるとき誓っていう、「黄河ヲシテ帯ノ如ク、泰山ヲシテ礪ノ若クナラシムルモ、国ハ以テ永二存シ、爰(ここ)二苗裔(びょうえい)二及バン」と。黄河が細りて帯のようになり泰山が砕けてといしのようになろうとも、汝の国は永久に存在して子孫まで及ぼしめようというのである、誓始終とは始終変易あるまじと誓うこと。



策行遺戰伐,契合動昭融。
策謀・戦略によって戦伐は無用で遺棄せられるほどなのだ、君王から一平卒までの統率・統合されていて、その功績は輝き照らされて感動を与えている。
策行 翰の辺境処置の策謀・戦略が行われる。○遺戰伐 遺とはすておいて用いないことをいう。○契合 君王から一平卒までの統率・統合されていること。○動昭融 「詩経」大雅の既酔第に「昭明融アリ」の語があり、周の成王の道は光大にして甚だ長いことをいうと説いているが、ここは蓋し天子の徳光をいうのであろう。動とは感動せしめることをいう。功績は輝き照らされて感動を与えているとする。
 


勛業青冥上,交親氣概中。』

開府侯の勛業は実にあおぞらの上に届くほどであり、そして気概をもった人であるから、親交者の中に自分のような者まで加えていただいている。』
勛業 勛は勲に同じ。翰の勲功事業。○青冥 あおぞら。○交親 自己との親交。○気概中 気概は気節をいう。翰は気節があるので、その中に自己との親交をたもつということ。




(杜甫自身をこと、この詩を投贈する意義について。)
未為珠履客,巳見白頭翁。
自分はまだ珠履を踏む身分でもない、いつしか白髪交じりの白頭翁のようにみられるようになった。
珠履客 戦国の時、楚の春申君の食客三千余人、其の上客は皆珠の履を踏んだという、ここは作者が未だ諸侯の幕客にさえなっていないことをいう。



壯節初題柱,生涯獨轉蓬。
若いときは司馬相如のように故郷の橋に、題を書きつけて出かけたものでしたが、生涯はただ一塊の蓬のころがっていくようなものですが芯はしっかりしています。
壮節 壮年期の節操。○題柱漢 の司馬相加の故事、相如は蜀の人で故郷を出ようとするとき昇仙橋の柱に題して「駟馬の車に乗らざれば復び此の橋を過らず」といったが後ち果たして其の言の如くなった。○転蓬 蓬の草は秋風に吹かれるままにとんで移転しあるくので漂泊生活にたとえるがその芯にあるものはしっかりあるという、矜持の心を失っていない場合に使う。



幾年春草歇,今日暮途窮。
幾年もたってしまっている。旅住いをしながら春の息衝く芳草が冬の寒さに衰えゆくのを見たことのである。今日、すでに晩年となって目途が窮まってしまった
春草歇 これは唐人の慣用であり、出典は「楚辞」の「王孫遊ンデ帰ラズ、春草生イテ著書タリ」の句に本づく。唐人はやります、できます、お願いしますといわないもの。その表現を逆にして訴えるので、日本人的に見ると、自虐的に感じたり、嘆いてばかりに見える訳注などに杜甫は嘆いてばかりいると訳されているが、全く違う。歇は哀歇の義、花芳が衰えてやんでしまうことをいう、春草の芳がやむということは、空しく春をすごしてしかも故郷に帰らぬことをいう強い意志を持っているのである。○暮途 晩年の道途。



軍事留孫楚,行間識呂蒙。
軍事的には部下に孫楚の如き人をとどめておかれるし、小組小隊、行伍の間から呂蒙の如きすぐれた人物を識りわけて抜擢している。
孫楚 晋の時、石苞の参軍となった人。甚だ倣慢な人で始めて苞の処に至るや、「天子我二命ジテ、卿ノ軍事二参セシム」といったという。○行間 行伍(兵卒の小組)の間をいう。○呂蒙 三国の時の呉の孫権の臣。孫楚・呂蒙は翰の幕府中の英才をさす。厳武・呂謹・高適・帝折・王思礼・郭英父・曲環等の人々を列挙しているといわれる。



防身一長劍,將欲倚崆峒。』
自分もできるならば一長剣を横えて身を防ぎ、そのうえで開府侯の管轄地にある崆峒山の軍に倚るつもりでいるのです。
防身 身をふせざまもる。〇倚崆峒 倚の字は上旬の長剣をうけていう。宋玉「大言賦」に「長剣秋秋トシテ、天外二倍ル」とみえる。崆峒は山の名、甘粛省輩昌府眠州治の西二十里にあり、河西の地の名山。


○韻  功、雄。』/風、空、弓、戎。』/通、公、宮、東。』/同、熊、終、融、中。』/翁、蓬、窮、蒙、峒。』