自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫 110 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700-105-#6


彤庭所分帛,本自寒女出。
御所のお庭から臣下へお分ち賜う帛はもともと貧乏な女が織ったものでそこから出たものなのだ。
鞭撻其夫家,聚斂貢城闕。
その女の夫の働きが悪いとして家にむちをあてるようにして、過分に織らせ、それを御城門へ納税、貢物を差し出し収めさせたものだ。
聖人筐篚恩,實欲邦國活。
この唐国の民が活気づくようにとおぼしめされてのことだ。
臣如忽至理。君豈棄此物?
臣下たるものがもしこの国家の最上に治まることについての理由がわからず怠るならすまぬことだ。天子はまさかその品物をお棄てになるおつもりではないだろう。
多士盈朝廷,仁者宜戰栗。』

朝廷には多士多芸の者がたくさんいるが、この事を考えると仁慈の心あるものはみぶるいして畏れおおいといってくれなければならないのだ。』

(下し文)

彤庭(とうてい)にて分(わか)つ所の帛(はく)は、本(も)と寒女(かんじょ)より出ず
其の夫家(ふか)を鞭撻(べんたつ)して、聚斂(しゅうれん)して城闕(じょうけつ)に貢がしむ
聖人  筐篚(きょうひ)の恩、実に邦国(ほうこく)の活(い)きむことを願う
臣  如(も)し至理(しり)を忽(ゆるが)せにせば、君は豈(あ)に此の物を棄(す)つるや
多士(たし)  朝廷に盈(み)つるも、仁者(じんしゃ)は宜(よろ)しく戦慄(せんりつ)すべし




自京赴奉先縣詠懷五百字 #6 現代語訳と訳註 解説

(本文)#6 
彤庭所分帛、本自寒女出。
鞭撻其夫家、聚斂貢城闕。
聖人筐篚恩、実願邦国活。
臣如忽至理、君豈棄此物。
多士盈朝廷、仁者宜戦慄。
  
(下し文)
彤庭(とうてい)にて分(わか)つ所の帛(はく)は、本(も)と寒女(かんじょ)より出ず
其の夫家(ふか)を鞭撻(べんたつ)して、聚斂(しゅうれん)して城闕(じょうけつ)に貢がしむ
聖人  筐篚(きょうひ)の恩、実に邦国(ほうこく)の活(い)きむことを願う
臣  如(も)し至理(しり)を忽(ゆるが)せにせば、君は豈(あ)に此の物を棄(す)つるや
多士(たし)  朝廷に盈(み)つるも、仁者(じんしゃ)は宜(よろ)しく戦慄(せんりつ)すべし
  
(現代語訳)
御所のお庭から臣下へお分ち賜う帛はもともと貧乏な女が織ったものでそこから出たものなのだ。
その女の夫の働きが悪いとして家にむちをあてるようにして、過分に織らせ、それを御城門へ納税、貢物を差し出し収めさせたものだ。
この唐国の民が活気づくようにとおぼしめされてのことだ。
臣下たるものがもしこの国家の最上に治まることについての理由がわからず怠るならすまぬことだ。天子はまさかその品物をお棄てになるおつもりではないだろう。

  
(語訳と訳註)
彤庭所分帛,本自寒女出。

御所のお庭から臣下へお分ち賜う帛はもともと貧乏な女が織ったものでそこから出たものなのだ。
彤庭 聖殿の前の丹を以て飾った庭、天子の庭をいう。〇 分かち賜う。○ きぬ。○寒女 貧しい女。


鞭撻其夫家,聚斂貢城闕。
その女の夫の働きが悪いとして家にむちをあてるようにして、過分に織らせ、それを御城門へ納税、貢物を差し出し収めさせたものだ。
鞭棲むちを以てうつ。○聚斂 あつめ、おさめる。こちらへとりこむこと。○ みつぎものとする。○城闕 天子の城門。○聖人天子をいう。
律令体制の均田制と租庸調。 この中の調は、絹2丈と綿3両または、麻布2丈5尺と麻3斤であった。庸の勞役の代わりに絹綿などに代用献上もできた。


聖人筐篚恩、実願邦国活。
聖天子がそれを竹の籠にいれて御恩寵として賜わるのはこの唐国の民が活気づくようにとおぼしめされてのことだ。
筐篚 竹のかご。それに恩賜の物を盛って臣下に賜わるのである。


臣如忽至理、君豈棄此物。
臣下たるものがもしこの国家の最上に治まることについての理由がわからず怠るならすまぬことだ。天子はまさかその品物をお棄てになるおつもりではないだろう。
○忽怠ることをいう。○至理 理は治に同じ、韋左相二十韻 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 92詩にも「廟堂知至理,風俗盡還淳。」(廟堂(びょうどう)至理を知らば 風俗尽く淳に還らん)の語がある、至治とは天下の治まれることの至極をいう。○棄此物 此の物とは下賜の幣南の類をさす。


多士盈朝廷、仁者宜戦慄
朝廷には多士多芸の者がたくさんいるが、この事を考えると仁慈の心あるものはみぶるいして畏れおおいといってくれなければならないのだ。』
多士 朝廷に人物の多くあることをいうが奸臣が朝廷を握り、天子は楊貴妃のことばかり考えていた時期である。。○仁者民に対し仁愛の心のあるもの。○戦慄 おののきおそれる。
  
(解説)
押韻 出。闕。活。物。栗。


(朝廷で臣下に賜わる「帛」(絹布)など、貧しい家の娘が織ったもので、貢ぎの品として強制的に集めたものー律令体制化の税などについて解説の後部に示す) それを天子が臣下に下賜するのは、民の生活を活気づけようとの考えからなのだと、だから臣下たるものは、このおぼし召しを疎かにしてはならないのだ。臣下の心掛けに批判の目を向け、「仁者は宜しく戦慄すべし」と奸臣に猛省を促している。 


  唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は互いが互いに不可欠な制度である。
均田制はまず全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき永業田(その後、永久にその土地を所有することが認められ、子孫に受け継がれる)を20畝、口分田(当人が死亡するか、60歳になるかすると国家に返却する)が80畝支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。
そしてこれらの支給に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、それを免れるために収める税を庸と言い、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。


 府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。
均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、玄宗期になると窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事が多くなり、また窮迫した農民から買い取ることにより、土地の兼併が進んだために戸籍を正確に把握することが難しくなった。均田・租庸調制と府兵制は崩壊(749年廃止)し、それに代わる新しい税制・兵制が必要となる。
 新しい兵制は節度使・募兵制である。それまでは労働税として兵役に就かせていたが、節度使制ではその土地の租税を節度使が徴収し、それを基に兵士を雇い入れて国境防備に使うというものである。

  710年に安西節度使(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の節度使を設置している。当初はあくまで国境警備のためのものであり、辺境地域にしか置かれていない。しかしこの制度は節度使に過度の権力を持たせることになり、安史の乱の原因となったことは前述した。安史の乱後は内地にも節度使が置かれるようになる。このことで唐は半割拠状態となり、地方の節度使は唐に対する税の貢納は行っていたものの、徐々に自立色を深めていき、最終的には節度使により唐は滅ぼされることになる。
780年に施行された新しい税制は、それまで貧乏・富裕関らずに均等な額の税を徴収していたのを財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。ただし夏に収めるものは麦であり、秋に収めるものは粟と稲である。税額は一定しておらず、まずその年に使われる年間予算を計算し、それに併せて税額を各地に割り当てるというものである。

  かつて安禄山軍から投降した3人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の3つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この3つを河朔三鎮と呼んでいる。