哀王孫 杜甫140  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#1

■ 孫宰一家の手厚いもてなしを受けて元気を取りもどした杜甫と家族は、さらに北に向かって進んだが、当初の目的地である蘆子関(駅西省の北端、横山県の近く)までは行き着けず、ひとまず鄜州(陳西省延安の鄜県)の羌村に落ち着くことになった。そうして八月になって、杜甫は単身、粛宗のいる霊武の行在所を目指し、身をやつして出発した。北上して蘆子関を抜け、西に霊武に向かおうとしたものであろうが、不運にも途中で安禄山の叛乱軍に捕らえられ、長安に送られたのだ。
(孫宰一家の手厚いもてなしにつては彭衙行 杜甫 132 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132 -#1、#2、#3、#4を参照)

■ 長安に送還された杜甫は、詩人としては、知られていても、李白、王維のように官僚としては知られていない存在であった。叛乱軍の手に落ちた他の官吏、杜甫の知り合いのなかでは王維や鄭虔のように、洛陽に連行されて安禄山の朝廷に仕えるよう強要されることはなく、一般の市民とほぼ同じように行動できたようだ。(初めのころは拘束されていた。)

その間、杜甫は、鄜州の羌村にいる家族のこと、霊武の行在所で長安・洛陽の奪回の機をうかがっている粛宗、そうして蜀の成都で悲嘆の日々を送っているであろう玄宗の身の上に思いをはせながら、これから自分のとるべき行動を考えていた。この年、天宝十五年、改元されて至徳元年八七票)の秋から、翌年四月に長安を脱出して鳳翔の粛宗のもとにたどり着くまでの半年あまりの間、叛乱軍中にあっての杜甫のおもな作品には「哀王孫」(王孫を哀しむ)、「月夜」、「悲陳陶」(陳陶を悲しむ)、「対雪」(雪に対す)、「春望」、「哀江頭」(江頭に哀しむ」、など歴史的名作がある。


■哀王孫(王孫を哀しむ)
「王孫を哀しむ」詩は、賊に描らえられて間もなくの作で、賊軍の厳しい捜索の目をのがれて町なかに身を潜めている皇族に出会い、その惨めな様子を哀れみ、力づけたものである。

安禄山の乱に逃げ遅れた皇族が零落して民間に潜んでおるのを見てあわれにおもって作った詩である。製作時は756年至徳元載(即ち天宝十五載)の九月頃の作で、掴まって初めて書いたもの。。
事蹟は次のとおりである。756年天宝十五載の六月九日に潼関が禄山の軍に破られた。楊国忠は玄宗に蜀に逃れることをすすめ、十一日(甲午)の夕、陳玄礼に命じて軍隊を整え九百の厩馬をひそかに選びおかせ、十二日(乙未)の朝、白々あけに玄宗は楊貴妃、その姉妹、王子、妃主、皇孫、楊国忠、葦見素、陳玄礼及び高力士など親近の宦官、宮人と長安の延秋門から外へ逃出した。時に居あわさなかった人々はすべておきざりとなった。

哀王孫 #1
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;
長安の城の上に頭の白い烏がいた、夜なかに飛んできて、延秋門の上で「西に逃げなさい」と鳴きたてた。
又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
それから又、普通の民家に向ってなかでも貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつついているのだ。すでに、その屋根の下に住んでいた大官はもはや叛乱軍を避けるために逃げ走ってしまっていたのである。』
金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
逃げだした天子御一門、貴族らは、黄金の鞭は折れたまま放置し、血統の良い名馬でさえ死なせている。貴族の血統である貴公子が逃げた人々と一緒に行くことはできなかった。(とりのこされている。) 
腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』

その貴公子は腰のあたりに青色珊瑚の宝玦の佩びをまいている。かわいそうに王孫はみちばたで泣いていのだ。
#2
問之不肯道姓名,但道困苦乞為奴。
已經百日竄荊棘,身上無有完肌膚。
高帝子孫盡隆準,龍種自與常人殊。
豺狼在邑龍在野,王孫善保千金軀。』
#3
不敢長語臨交衢,且為王孫立斯須。
昨夜春風吹血腥,東來橐駝滿舊都。
朔方健兒好身手,昔何勇銳今何愚?」
竊聞天子已傳位,聖德北服南單於。
花門剺面請雪恥,慎勿出口他人狙。
哀哉王孫慎勿疏,五陵佳氣無時無。』

○押韻 烏,呼。胡。/死,驅。隅。/名,奴。膚。殊。軀。/衢,須。都。愚。/位,於。狙。無。

王孫を哀れむ #1
長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。
又人家に向って大屋に啄む、屋底の達官走って胡を遅く」
金鞭折断して九馬は死す、骨肉も同じく馳駆する を 得ず。
腰下の宝珠青珊瑚、憐れむべし 王孫路隅に泣く。』
#2
之に問えども 肯て 姓名を這わず、但だ 這う困苦なり乞う奴と為らんと
己に百日 刑疎に 窺する を 経たり、身上 完き 肌膚 有ること無し。
高帝の子孫は 尽く隆準、竜種 自ら常人と殊なり。
財狼 邑に在り 竜野に在り、王孫 善く 保てよ 千金の姫。』
#3
敢て 長話して 交衝に臨まず、且つ王孫の為めに立つこと斯須。
昨夜 東風 血を吹いて過し、東乗の秦乾は旧都に満つ。
朔方の健児は 好身手、昔 何ぞ勇鋭に今何ぞ愚なる。』
縞に聞く 天子 己に位を伝うと、聖徳 北服せしむ南単干。
花門 面を嘗きて 恥を雪がんと請う、憤みてロより出す勿れ他人に狙われん。
哀しい哉 王孫 慎みて疎なること勿れ、五陵の佳気は時として無きは無し。』

哀王孫 #1現代語訳と訳註
(本文) #1
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;
又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』

(下し文)  #1
長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。
又人家に向って大屋に啄む、屋底の達官走って胡を遅く」
金鞭折断して九馬は死す、骨肉も同じく馳駆する を 得ず。
腰下の宝珠青珊瑚、憐れむべし 王孫路隅に泣く。』


(現代語訳) #1 
長安の城の上に頭の白い烏がいた、夜なかに飛んできて、延秋門の上で「西に逃げなさい」と鳴きたてた。
それから又、普通の民家に向ってなかでも貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつついているのだ。すでに、その屋根の下に住んでいた大官はもはや叛乱軍を避けるために逃げ走ってしまっていたのである。』
逃げだした天子御一門、貴族らは、黄金の鞭は折れたまま放置し、血統の良い名馬でさえ死なせている。貴族の血統である貴公子が逃げた人々と一緒に行くことはできなかった。(とりのこされている。) 
その貴公子は腰のあたりに青色珊瑚の宝玦の佩びをまいている。かわいそうに王孫はみちばたで泣いていのだ。


(訳注)#1 
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;

長安の城の上に頭の白い烏がいた、夜なかに飛んできて、延秋門の上で「西に逃げなさい」と鳴きたてた。
城頭 ○頭白鳥 頭の白いからす。これを言うのは変異を記すのであり、梁の侯景が叛いたときにも、頭白の烏が朱雀門の楼に集まったという。○延秋 延秋門のことで端門外西建此門のこと。五行思想で秋は西を示す。宮中の一番西門で右参軍に守られていた。○門上呼 門の上でカラスが「ここから西に逃げなさい」と啼いた。通常の烏は宦官とか、賊軍を示す。


又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
それから又、普通の民家に向ってなかでも貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつついているのだ。すでに、その屋根の下に住んでいた大官はもはや叛乱軍を避けるために逃げ走ってしまっていたのである。』
人家 ただぴとの家用。○啄大屋 貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつつく。○達官 高位の官をいう。高位の官は其の人の姓名が君に通達するのによって達官という。○ 安禄山の叛乱軍には異民族の兵士がかなりいた。

金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
逃げだした天子御一門、貴族らは、黄金の鞭は折れたまま放置し、血統の良い名馬でさえ死なせている。貴族の血統である貴公子が逃げた人々と一緒に行くことはできなかった。(とりのこされている。) 
金鞭折断 黄金をかざったむちがおれる、びどく馬をうったのである。〇九馬死 漢の文帝が代の地より迎えられたとき、九匹の名馬があった。○骨肉不得 骨肉とは親属であることをいう。詩題の王孫は天子と血つづきである。○同馳駆 一緒に走ってにげる。

腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』
その貴公子は腰のあたりに青色珊瑚の宝玦の佩びをまいている。かわいそうに王孫はみちばたで泣いていのだ。
宝珠 珠は環の一部が開いているもの。○青桐瑚 珠の実質をいう。○王孫 王孫は貴公子のこと。


************ 参考 ***************

756年6月4日潼関で哥舒翰の軍が敗れ、長安には瞬く間にしらされたが10日になってやっと玄宗は実感したのだ。
士民は驚き慌てて走り出したが、行くべき所が判らない。10日、市里は寂れかえった。 楊国忠は韓、虢夫人を入宮させて、玄宗皇帝へ入蜀を勧めた。
  11日、登朝した百官は一、二割もいなかった。玄宗皇帝は勧政楼へ御幸して制を下し、 親征の意思を表明したが、聞く者は誰もいなかった。
  京兆尹の魏方進を御史大夫兼置頓使とする。京兆少尹の霊昌の崔光遠を京兆尹として、西京留守に充てる。 将軍・辺令誠へ宮殿内のことを任せた。剣南節度大使に、急いで鎮へ赴き本道へ皇帝の後座所を 設けさせるよう命じた。
  この日、玄宗皇帝は北内へ移った。 夕方になると、龍武大将軍・陳玄禮へ六軍を整列させ、厚く銭帛を賜下する。閑厩馬九百余匹を選んだが、 他の者は何も知らなかった。
  12日黎明、玄宗皇帝は貴妃姉妹、皇子、妃、主、皇孫、楊国忠、韋見素、魏方進、陳玄禮及び近親の宦官、 宮人達と延秋門を出た。在外の妃、主、皇孫は、皆、これを委ねて去った。