「月夜」の背景  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 143

■ 反乱軍に捕らえられる




孫宰一家の手厚いもてなし、いったいだれがこの難難の際に、真心をそのままに尽くしてくれる者があろうか。別れてから歳月はめぐったが、蕃賊どもは今なお人々に災いをもたらしている。いつになったら翼を手に入れて、あなたの前に飛んでゆけることだろう。「彭衙行」の終わりの聯であった。
孫宰家で元気を取りもどした杜甫と家族は、さらに北に向かって進んだが、当初の目的地である蘆子関(陝西省の北端、横山県の近く)までは行き着けず、ひとまず鄜州(陝西省延安の都県)の羌村に落ち着くことになった。そうして八月になって、杜甫は単身、粛宗のいる霊武の行在所を目指し、身をやつして出発した。北上して蘆子関を抜け、西に霊武に向かおうとしたものであろうが、不運にも途中で賊軍に捕らえられ、長安に送られてしまった。

長安に送還された杜甫は、地位がそれほど高くなかったのと、本人が身分を知られないようにつとめたためであろう。詩人であることは、叛乱軍にとって何の支障もなかったのである。他の官吏、杜甫の知り合いのなかでは王維や鄭虔のように、洛陽に連行されて安禄山の朝廷に仕えるよう強要されるものもいた。
この年、756年、天宝十五年、改元されて至徳元年の秋から、翌年四月に長安を脱出して鳳翔の粛宗のもとにたどり着くまでの半年あまりの間、叛乱軍中にあっての杜甫のおもな作品には「王孫を哀しむ」「月夜」「陳陶を悲しむ」「雪に対す」「春望」「江頭に哀しむ」などがある。
まず「王孫を哀しむ」詩は、賊に描らえられて間もなくの作で、叛乱軍の厳しい捜索の目をのがれて町なかに身を潜めている皇族に出会い、その惨めな様子を哀れみ、力づけたものである。

月夜の詩は、その年の秋の夜、鄭州にあって、幼い子供たちをかかえて自分の安否を気遣っているであろう妻をしのんで詠んだものである。


月夜(今夜鄜州月)  
杜甫乱前後の図003鳳翔
           

月夜
今夜鄜州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。


今夜  鄜州(ふしゅう)の月、閨中(けいちゅう)  只だ独り看(み)るらん。
遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の、未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを。
香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。
何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り、双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん。



■杜甫が家族を州羌村に避難させている間

六月十三日の早朝、玄宗は蜀(現在の四川省)へと逃れる。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪され、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害される。皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。
玄宗は退位し、皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位した。


 玄宗は皇太子李亨(りきょう)に都の防衛を命じて、蜀の成都へ向かったのだ。長安は十日足らずで安禄山軍に占領されてしまう。李亨は兵をととのえるためにひとまず霊州(寧夏回族自治区霊武県)に向かった。霊州には朔方節度使の使府が置かれていて、軍事上の拠点であったからだ。ここから、兵を整え、次第に南下していくという作戦であった。

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 皇太子は七月十三日に霊州で伝国璽のないまま即位をする。同時に年号も至徳と改元した。

こうした都の動きは羌村にいた杜甫にも伝わってきた。
杜甫は七月の末になって霊州の新帝、粛宗(しゅくそう)のもとに駆け付けるため、家族を羌村に残して北へ馬を走らせた。鄜州から霊州までは西北に350kmほどある。蘆子関(陝西省靖辺県)の近くまで来たところで安禄山軍に捕らえられてしまったのだ。杜甫を捕らえたのは大同(山西省大同市)の高秀岩(こうしゅうがん)の兵であった。安禄山は幽州で兵を興すと同時に大同の軍を朔方郡(夏州以北のオルドス地方)に派遣して、北からも長安に攻め込ませていたのだ。

 安禄山軍に捕らえられた杜甫は、長安に連行された。長安では多くの政府高官が叛乱軍に捕らえられ、洛陽の政府に協力を強要されていたが、杜甫は微官であったので安禄山の政府に仕えることは命ぜられず、軟禁処分になって城内にとどまることになる。



 皇太子は七月十三日に霊州で伝国璽のないまま即位をする。同時に年号も至徳と改元した。

こうした都の動きは羌村にいた杜甫にも伝わってきた。
杜甫は七月の末になって霊州の新帝、粛宗(しゅくそう)のもとに駆け付けるため、家族を羌村に残して北へ馬を走らせた。鄜州から霊州までは西北に350kmほどある。蘆子関(陝西省靖辺県)の近くまで来たところで安禄山軍に捕らえられてしまったのだ。杜甫を捕らえたのは大同(山西省大同市)の高秀岩(こうしゅうがん)の兵であった。安禄山は幽州で兵を興すと同時に大同の軍を朔方郡(夏州以北のオルドス地方)に派遣して、北からも長安に攻め込ませていたのだ。

 安禄山軍に捕らえられた杜甫は、長安に連行された。長安では多くの政府高官が叛乱軍に捕らえられ、洛陽の政府に協力を強要されていたが、杜甫は微官であったので安禄山の政府に仕えることは命ぜられず、軟禁処分になって城内にとどまることになる。


 五言律詩 「月夜」 は長安に連行されて間もない晩秋の作で、鄜州羌村に残してきた家族を想う詩である。この詩は有名な名作である。特徴的なのは杜甫が自分の妻を優雅に描いていることである。
 女性として登場するのは妓女に限られたものというのが明代まで続いての常識とされていた。唐代の天宝年間以降に彼女らを題材にして、多くの士大夫が詩文にうたい、妓女となじんだという記録が盛んになる。明代までその活動は大きなものであった。唐代女流詩人の上官婉児、薛濤や魚玄機など妓女、妓女出身者なのだ。女性は、特に妻はまったく表に出ないのが当たり前で、杜甫のように妻のことを描くというのは革命的なことだった。杜甫は妻を容麗な表現で登場させている。
李白も妻について結構作っているが、妓女なのか妻なのか、彼女なのか、明確でない部分を残しており、表に出さない時代であることがうかがえる。