kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 145

月夜」と家族の考え方の考察(研究)
 1.なぜ「長安の月」ではなく「鄜州の月」なのか
 2. 九月九日憶山東兄弟  王維
 3. 除夜作  高適
 4.八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易
 5. 夜雨寄北 李商隠
 6.李白の詩
 7.杜甫の彭衙行(ほうがこう)自京赴奉先縣詠懷五百字遺興
 8. 「月夜」子供に対する「北征」の詩に、淋前の南中女


1.なぜ「長安の月」ではなく「鄜州の月」なのか
杜甫は、江南の舟中で五十九年の生涯を終わるまで、この愛する妻とともに過ごした。友である李白が、次々と妻を持ち、芸妓と遊んだのとは異なる。自分が眺めている月は「長安の月」であるが自分の思いの先の妻のいる方に思いを寄せて「鄜州の月」と詠っている。中国人の思い遣る発想の表現法である。世話の焼ける、やんちゃ盛りの子供たちをかかえての妻の苦労をいとおしみつつ、今宵、この月の光に照らされているだろうその姿を美しく妻の姿を詠い上げる杜甫の言葉には、遠く離れている妻への愛情があふれているということなのだ。これが「長安の月」だったら、杜甫の品位に疑問が生じるだけでなく、に詩の品格が段違いに落ちる。

この時代、憂国の士は、国難にあたっては国事にのみ奔走し、たとえ家族のことが心にかかっていても、それを表面には出さないもので、男子が人であった時代なのである。しかし、杜甫はそうではなかった。国を憂うとともに家族のことも心配し、それを詩に詠う。国のことが大切ではあったが、それとともに妻や子供も、彼にとってはかけがえのない存在であった。それをそのまま詩に歌うということは杜甫だけである。しかも、初めの句に配しているのである。そのことによって詩のイメージ、妻がそこにいないこと、妻への思い訳気持ちというものが強調され、全体に覆われるのである。

 同様にはるか離れた肉親や、肉親以上に考えている親友を思って歌った詩をあげて、杜甫の詩と比較してみよう。


2. 九月九日憶山東兄弟  王維

九月九日憶山東兄弟

独在異郷為異客、毎逢佳節倍思親。
ひとりだけで故郷を離れて異郷にいる、他郷の宿坊で勉強しいるのだ、今度も運気を運んでくれる重陽節の日が来るたびに肉親のこと思いつづけるのである。
遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。

遠くから私は知るのである、「身内の兄弟が、高い山に登り、家族や親しい人を憶っているだろう」ことを。そして、「みんなが、重陽の日の風習である、邪気を払うという茱萸の実を頭に挿している」ということを、でもそこにわたしはひとりをかけているのだ。


(本文)
独在異郷為異客、毎逢佳節倍思親。
遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。

(下し文)九月九日山東の兄弟を憶う
独り異郷に在って異客と為り、佳節に逢う毎に倍ます親を思う。
遥かに知る兄弟高きに登る処、遍く茱萸を挿して一人を少くを。

(現代語訳)
ひとりだけで故郷を離れて異郷にいる、他郷の宿坊で勉強しいるのだ、今度も運気を運んでくれる重陽節の日が来るたびに肉親のこと思いつづけるのである。
遠くから私は知るのである、「身内の兄弟が、高い山に登り、家族や親しい人を憶っているだろう」ことを。そして、「みんなが、重陽の日の風習である、邪気を払うという茱萸の実を頭に挿している」ということを、でもそこにわたしはひとりをかけているのだ。


(詩の背景) 
 王維が十四歳の時の712年先天元年8月に、唐の第六代皇帝玄宗が即位した。杜甫がこの年に生まれているのが実に運命的なことであるが、その翌年には王維は科挙試験準備で上京している。玄宗は七月に叔母の太平公主一派を粛清し、則天武后の残存勢力を一掃し、十二月に開元と改元、唐王朝の最盛、開元の治のはじまりとなる。王維のこの詩は上京して二年後、715年開元三年9月9日17歳時の作である。王維は、この二年間、長安の寺の宿坊で勉学に励んでいた。

 中国では九月九日、重陽節に、茱萸(「ぐみ」の一種)の枝をかざして兄弟や親しい友人が小高い丘に登り、菊の花びらを浮かべた酒を飲み、粽を食べて健康を祈るものなのだ。
長安で二回目の重陽節を迎え、故郷が懐かしくなった王維には弟四人のほか妹もいた。
この詩のいいところは王維の優しい人柄がにじみ出ているところである。