kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 146 除夜作 高適
月夜」と家族の考え方の考察(研究)
 1.なぜ「長安の月」ではなく「鄜州の月」なのか
 2. 九月九日憶山東兄弟  王維
 3. 除夜作  高適
 4.八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易
 5. 夜雨寄北 李商隠
 6.李白の詩
 7.杜甫の彭衙行(ほうがこう)自京赴奉先縣詠懷五百字遺興
 8. 「月夜」子供に対する「北征」の詩に、淋前の南中女
3. 除夜作  高適
高適 こうせき 702頃~765
杜甫は「送高三十五書記十五韻」の中で高適を「高生の鞍馬に跨るは、幽井の児に似たる有り。」といっている。これは掌書記として河隨の哥舒翰幕府に赴く高適の堂々として颯爽たる姿を描いたものである。といえる。つまり、勇敢で任侠の持ち主であること、杜甫とは、詩について深いところまで掘り下げた討論をしている。この詩は高適の肉親を思いやる気持ちがよく表された名作である。


 旅の空、一人迎える大みそかの夜。
 詩人を孤独が襲う。


除夜作  高適
 旅館寒燈獨不眠,客心何事轉悽然。
 故鄕今夜思千里,霜鬢明朝又一年。


除夜の作   
旅館の寒燈  獨(ひと)り 眠らず,客心(きゃくしん) 何事ぞ  轉(うた)た 悽然(せいぜん)。
故鄕 今夜  千里を 思う,霜鬢(さうびん) 明朝(みゃうちょう)   一年を 又(ゆる)す。
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現代語訳と訳註
(本文)
  除夜作 
 旅館寒燈獨不眠,客心何事轉悽然。
 故鄕今夜思千里,霜鬢明朝又一年。

(下し文)
旅館の寒燈  獨(ひと)り 眠らず,客心(きゃくしん) 何事ぞ  轉(うた)た 悽然(せいぜん)。
故鄕 今夜  千里を 思う,霜鬢(さうびん) 明朝(みゃうちょう)   一年を 又(ゆる)す。

(現代語訳)
寒々とした旅館のともしびのもと、一人過ごす眠れぬ除夜をすごす。ああ、本当にさみしい。
旅の寂しさは愈々増すばかり・・・・・・・・・・。
今夜は大晦日。
故郷の家族は、遠く旅に出ている私のことを思ってくれているだろう。
夜が明けると白髪頭の老いたこの身に、また一つ歳を重ねてしまうのか・・・・。



(詩の背景と解説)
 作者 高適は河南省開封市に祀られている。三賢祠と呼ばれるその杜は李白、杜甫、高適の三詩人が共に旅をした場所である。記念して建立されている。

 杜甫には、高適とその文学に対する深い理解があった。杜甫と高適の交遊は盛唐詩人間の交遊の中でも代表的なものとして知られており、その交遊においては二人の詩から、当然文学的な側面が大きなものであったものと思われる。

 746年天宝五載の夏から冬にかけて、杜甫と高適は李白とともに斉魯に遊び、冬には北海郡(‥青州、治・益都県‥山束省益都県)の太守・李邕を訪ねている。李邕は、『文選』の注釈者・李善の息子であり、当時の文壇の長老であった。天宝の初め、汲郡・北海の太守となり、六年李林甫に忌まれて殺された。
 この交遊の過程、特に李邕との面談において、文学について様々に意見が交換されている。

 杜甫が邊塞詩を書く上での情報源はすべて高適からのものなのだ。高適が出世していく中で杜甫は、高適を尊敬し多くの詩を贈っている。高適は、杜甫をいつまでも親友として接しているのだ。二人とも白髪の多い年齢であった。高適は765年没している。
杜甫は成都にいて高適と議論している。
 上元元年 760年 49歳 五言律詩 「奉簡高三十五使君」   高適に寄せた詩。詩によれば高適が栄任したようで、彭州より蜀州に転じた。
広徳2年 764年 七言律詩「奉寄高常侍(寄高三十五大夫)」 杜甫53歳  左散騎常侍高適が長安の都へかえるのにつき別れの意をのべて寄せた詩。広徳二年三月成都の作。


旅館+寒燈+獨不眠,客心+何事+轉悽然。

故鄕 +今夜+ 思 +  + 里
[名詩]+[時] +[動詞]+ [数] +[単位]
霜鬢 +明朝+ 又 +  + 年。



 旅先で一人過ごす大晦日、故郷にいれば家族そろって団欒し、みんなで酒を酌み交わしていたことでしょう。

 故鄕今夜思千里 :故鄕 今夜  千里を 思う。
自分が千里離れた故郷を偲ぶのではなく、故郷の家族が自分を思ってくれるだろうという中国人の発想の仕方である。中華思想と同じ発想法で、多くの詩人の詩に表れている。
 しかしそれが作者の孤独感を一層引き立て、望郷の念を掻き立てるのである。

  霜鬢明朝又一年。:霜鬢(さうびん) 明朝(みゃうちょう)   一年を 又(ゆる)す。
 ああ、大晦日の夜が過ぎると、また一つ年をゆるしてしまう。年々頭の白髪も増えていく、白髪の数と同じだけ愁いが増えてゆくのか
 当時、「数え」で歳を計算するので、新年を迎えると年を取る。又はここでは有と同じ。読み・意味はゆるすである。



以下はウィキペディアの「高適」による。
滄州渤海(現河北省)の出身。李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、落ちぶれて梁・宋(現河南省)で食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げられ、封丘尉の役職を授けられた。その後官職を捨てて河右に遊歴し、河西節度使哥舒翰に見いだされて幕僚となった。また侍御史となり、蜀に乱を避けた玄宗に随行した。粛宗の命で、江西采訪使・皇甫侁とともに皇弟である永王李璘の軍を討伐平定した。後に蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の代に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。

50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて汴州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。『高常侍集』8巻がある。


続く4.白居易「八月十五日夜禁中独直対月憶元九」