悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152


(詩の背景)
長安にいる杜甫にぜったい有利であった陳陶斜における王朝軍の敗北がしらせれ、それを悲しんで作った詩である。
756年至徳元載十月に、杜甫の幼友達の房琯は自ずから安禄山の軍を討とうと請い、軍を南中北の三派分け、楊希文は南軍に将として宜寿より入り、劉恵は中軍に将として武功より入り、李光進は北軍に将として奉天より入り、房琯は自ずから中軍に将として前鋒であった。二十一日の9日目(辛丑)、中軍・北軍は賊と陳陶斜に遇って敗績し、二十三日の11日目(癸卯)に房琯は自ずから南軍を以て戦い又敗れた。このとき房琯は古法にならって車戦を用いたが、安禄山軍は風に順って火を縦って之を焚いたために人畜は大いに乱れ王朝軍の死傷する者は四万余人。陳陶斜は咸陽県の東にあり、斜とは山沢をいう。故に詩中に陳陶沢ともいう。製作時は至徳元載十月。五行思想での日にち計算により、たった11日間で敗れたのである。兵力の多さを過信した作戦面で失敗である。
 
至徳元年 756年 10月
悲陳陶     
孟冬十郡良家子、血作陳陶沢中水。
冬の初めの月に凡そ十郡の良家出身の兵卒たちで構成されたものだった。しかし彼等の血は流れて陳陶の沢の水となってしまったのだ。
野曠天清無戦声、四万義軍同日死。
死の後には戦場の野原はむなしくひろい、空も青々として寂しい、さらに戦の声はまったくしないのだ。あれだけの兵士、四万という忠義の兵士がたった一日のうちで死んだのである。
群胡帰来血洗箭、仍唱胡歌飲都市。
勝ちほこった異民族の入り混じった叛乱軍の兵士どもはもどって来て血の箭をあらい流した。そして、そのまま異民族の歌を唱えながら、長安の繁華街で酒を飲んでいるのである。
都人廻面向北啼、日夜更望官軍至。
都の人たちは之を見て面をそむけて北方に向いて啼いたのだ、昼となく夜となく王朝の官軍が到著してくれればよいとみんなが望んでいるのである。

陳陶を悲しむ

孟冬(もうとう)  十郡の良家(りょうか)の子()、血は陳陶(ちんとう)沢中(たくちゅう)の水と作()る。

()(むな)しく天清くして戦声(せんせい)無し、四万の義軍  同日に死す。

群胡(ぐんこ)帰り来たって血もて箭()を洗い、仍()お胡歌(こか)を唱(うた)って都市に飲む。

都人  面(かお)を廻(めぐ)らして北に向かって啼き、日夜  更に官軍の至るを望む。





悲陳陶 現代語訳と訳註
(本文)

孟冬十郡良家子、血作陳陶沢中水。
野曠天清無戦声、四万義軍同日死。
群胡帰来血洗箭、仍唱胡歌飲都市。
都人廻面向北啼、日夜更望官軍至。

(下し文)
孟冬(もうとう)  十郡の良家(りょうか)の子(こ)、血は陳陶(ちんとう)沢中(たくちゅう)の水と作(な)る。
野(の)曠(むな)しく天清くして戦声(せんせい)無し、四万の義軍  同日に死す。
群胡(ぐんこ)帰り来たって血もて箭(や)を洗い、仍(な)お胡歌(こか)を唱(うた)って都市に飲む。
都人  面(かお)を廻(めぐ)らして北に向かって啼き、日夜  更に官軍の至るを望む。

(現代語訳)
冬の初めの月に凡そ十郡の良家出身の兵卒たちで構成されたものだった。しかし彼等の血は流れて陳陶の沢の水となってしまったのだ。
死の後には戦場の野原はむなしくひろい、空も青々として寂しい、さらに戦の声はまったくしないのだ。あれだけの兵士、四万という忠義の兵士がたった一日のうちで死んだのである。
勝ちほこった異民族の入り混じった叛乱軍の兵士どもはもどって来て血の箭をあらい流した。そして、そのまま異民族の歌を唱えながら、長安の繁華街で酒を飲んでいるのである。
都の人たちは之を見て面をそむけて北方に向いて啼いたのだ、昼となく夜となく王朝の官軍が到著してくれればよいとみんなが望んでいるのである。


(訳注)
このブログでは、○官軍と賊軍 勝てば官軍である。時限的にとらえると表現が難しい。客観性を持たせるため、唐の王朝軍に対して、叛乱軍、安禄山軍という。賊軍というものには、この反乱に便乗して、略奪をするためだけの盗賊が含まれていたのだ。王朝軍に対して、叛乱軍、安禄山軍ということにしている。
孟冬十郡良家子、血作陳陶沢中水。

冬の初めの月に凡そ十郡の良家出身の兵卒たちで構成されたものだった。しかし彼等の血は流れて陳陶の沢の水となってしまったのだ。
孟冬 冬の初めの月、即ち十月。〇十郡 長安から北部十か所の郡。○良家子 良属の子弟で兵卒となったもの、囚人又は寝返りの多い召募の無頼漢ではないことをいう。

野曠天清無戦声、四万義軍同日死。
死の後には戦場の野原はむなしくひろい、空も青々として寂しい、さらに戦の声はまったくしないのだ。あれだけの兵士、四万という忠義の兵士がたった一日のうちで死んだのである。
野曠 原野の広いことがむなしく見えるさま。○無戦声 これは倒装の法で下旬の事実がある故に戦の声がないのである。仇氏は察注によって戦わずして敗れたことをいうといっているが取らぬ。○義軍 忠義の兵士、軍、即ち王朝の軍。


群胡帰来血洗箭、仍唱胡歌飲都市。
勝ちほこった異民族の入り混じった叛乱軍の兵士どもはもどって来て血の箭をあらい流した。そして、そのまま異民族の歌を唱えながら、長安の繁華街で酒を飲んでいるのである。
羣胡 多くの賊兵。○帰来 戦場から都市へかえってくる。○血洗箭 雪洗はそそぎあらうこと、箭の血をきよめることをいう。血沈レ箭ならば水で應鳩わず血の節を血を以て洗うということ。血の字が却って勝っているように思われる。○ そのまま。○胡歌 異民族の歌。以前から、反体制の詩として、歌われていたもの。○ 酒をのむ。○都市 長安の街のにぎやかな部分、繁華街をいう。

都人廻面向北啼、日夜更望官軍至。
都の人たちは之を見て面をそむけて北方に向いて啼いたのだ、昼となく夜となく王朝の官軍が到著してくれればよいとみんなが望んでいるのである。
廻面 面を胡兵からそむけることをいう。○向北 北とは粛宗の居られる霊武の地の方向をさす。乱以前は、北方異民族の戦いに出征している人を心配することを意味したが、南にいる玄宗への期待は全くなかったのである。○官軍 粛宗のところへ賢臣たちが集結し始めたのである。太原の顔真卿の兄弟軍。粛宗のもとへは、郭子儀が参じていた。



(解説)
 杜甫が長安に軟禁されていた至徳元年(756)の八月、霊州の粛宗は自分への譲位を玄宗に求めた。その要請が成都に届くと玄宗はやむなく承認し、譲位の詔勅を起草して宰相の房琯(ぼうかん)を使者として粛宗のもとに届けさせたのだ。

 粛宗は朔方郡に出陣していた朔方節度使郭子儀(かくしぎ)の軍を霊武に呼びもどし、体制を調え、南下を始め、九月に順化(甘粛省慶陽県)にいた。房琯が譲位の詔勅をとどけたことで喜び、房琯をとどめて自分の政府の宰相に任じた。

 粛宗は房琯に首都の奪還を命じた。房琯は十郡の兵六万余を率いて南下し、西から長安に迫ったのだ。安禄山の軍との戦闘は10月21日に中軍と南軍が敗れ、23日に北軍まで敗れた。咸陽(長安の西北)の西の陳陶斜で行われ、房琯率いる王朝軍は命が下って、わずか11日で、完膚無き大敗を喫するのである。


 杜甫は長安にあって王朝軍が勝利するものと確信していたので落胆は大きかった。略奪と殺戮の叛乱軍に怒りが込み上げてくるものの、むき出しに詩にすることはできなかったのである。

 反乱軍に略奪を抑え、統治する意識を持った統率者がいたら、唐王朝は滅亡していたはずである。唐王朝の中心は何から何まで腐っていたのである。ただ、日増しに横暴になっていく叛乱軍にたいして、大敗してはいるが王朝軍への期待、世論は王朝軍へ味方していくのである。