行次昭陵 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700 - 204

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晩行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒歩歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。大宗の施政が仁徳のあるものであったと賛美し、暗に粛宗の愚帝ぶりを批判している。秀作。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。旅の報告と上奏文であり、ウイグルに救援を求める粛宗批判といえる内容のものである。一番の秀作。
977羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
978・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
979・村の長老たちと帰還の祝い。
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれるものである。が、一方、この時期の作品は左拾位としての役目をしようとする杜甫の誠実さを浮き彫りにするものでもある。秀作ぞろいである。ウイグル援軍要請批判は安禄山軍に拘束された時期、「黄河二首」「送楊六判官使西蕃」から一貫している。
   


(行くゆく昭陵に次る)
鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。昭陵は唐の太宗の陵で、陝西省西安府醴泉県の西北六十里九嵕山に在り、封内は周囲百二十里、陪葬せられるものは諾王七、公主二十一、妃嬪八、宰相十二、丞郎三品五十三人、功臣大将軍等六十四人。太宗の乗った六駿の石像は陵後にあったが今は持ち出されている。又、陵そのものは「唐会要」に「昭陵は九嵕の層峰に因りて山の南面を穿ち、深さ七十五丈、玄宮を為る。巌に傍い梁を架して桟道を為る、懸絶すること百仞、繞回すること二百三十歩にして始めて玄宮の門に達す。頂上にも亦遊殿を起す。」とあるのによって大略をうかがうことを得る。又、李商隠の『行次西郊作 一百韻』は杜甫のこの詩と『北征』を手本にして詠われているので参考になる。


行次昭陵

#1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。風雲隨絕足,日月繼高衢。
文物多師古,朝廷半老儒。直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』
#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。
時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
寂寥開國日,流恨滿山隅。

太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。


#1
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
#2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』


現代語訳と訳註
(本文)#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。寂寥開國日,流恨滿山隅。

(下し文) #2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』

(現代語訳)
隋時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。
 

(訳注)#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。
隋時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
往者 それ以前の、隋から唐の初め頃のこと。隋の大運河建設は人民を疲弊させたが、長期的には江南の物資を長安に大量に運ぶことができるようになって貞観の治の礎になったのである、しかし、隋末から貞観の初年に大水と干ばつがあり餓者が野にみちた。富がなかったため、自然災害に耐えうる力が備わっていなかったことをいう。○災猶降 国家的な財政が出来上がっていないから、災害に弱い大した鵜であったことをいう。前の句の繰り返しである。○蒼生 人民。○ よみがえる。


指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
指麾 はたでさしまねく、ここでは太宗が臣下を御することをいう。○率土 租庸調の租の部分で、均田法の基礎になるもので、今の住民票というものと考える。○蕩滌 うごかしそそぐ、きたないものをふりうごかしてあらう。○撫洪爐 洪爐のごとく撫すること。洪爐は大なる火をもやすいろり、造化自然をたとえていう。撫は愛してなでさすること。 


壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
○壮士 昭陵を守る武士をいう。○陵邑 九嵕山に太宗が築いた昭陵の地をいう。○幽人 隠遁者、幽静な人、杜甫自身の行在所から山中に向うことから隠遁者といった。○ 礼拝する。○鼎湖 黄帝は首山の銅で、鼎を荊山で鋳た。鼎が出来上がったとき、天から竜が下って帝を迎え、昇天した。その跡を鼎湖という。黄帝が天に昇った地、昭陵をたとえていぅ。


玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
玉衣晨自舉 玉衣は葬儀用玉の中の最高等級で、前漢の時期には、皇帝、皇后、王侯だけが金縷玉衣を使うことができるとされた。玉を金糸でつづった衣。○鐵馬汗常趨 鉄馬は鎧で武装した馬。哥舒翰が率いて大敗した潼関の戦いの際、この御陵の霊宮の前の石人石馬が、汗を流していたと。「玉衣」「鉄馬」などの語は太宗の霊が王朝軍が敗れ去ることを悲しんでいるということをいわんとしているのである。


松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
松柏 陵樹。〇 あおぎみる。○虚殿 叛乱軍による国が騒乱状態にあるため管理体制がなされていない状態で人のいない御殿。○塵沙 砂埃のなか。冬の風は北の砂漠地帯の砂塵を含んで吹き付ける。○瞑途 くらがりのみち。


寂寥開國日,流恨滿山隅。
太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。
寂蓼 心が満ち足りず、もの寂しいこと。ひっそりとしてもの寂しいさま。長安が叛乱軍に落ちて、鳳翔に行在所として存在していることをいう。○開国日 開国は太宗が唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開いたことをいう。大宗の威厳が浸透していた日々をいう。それは遠く去って今はひっそりとしている。朝廷とこの御陵がかけ離れていることをいう。○流恨 叛乱軍に対して、叛乱軍を生み出していった玄宗のふがいなさ、小さい人物で叛乱軍を討つのに胡の軍に頼っている粛宗に対してただよえるうらみの念。○山隅 山陵の四隅。



昭陵
昭陵は唐の第二代皇帝李世民の陵墓。李世民は父の高祖李淵に譲位され、626年に即位した。翌年、貞観と年号を改め、在位23年は中国の歴史上での極めて繁栄した時代で「貞観の治」といわれる。
太宗李世民はモラルの確立を重視し、儒教道徳政治の理想社会を築いた。「民、道に落ちたる物を拾わず、外出戸を閉じず」と言われたほどの平和な「貞観の治」は中間官僚の質を高めたことによるものであった。
 昭陵は当時の都長安から80キロくらい離れた九峻山の頂上にある。九峻山とは9つの険しい峰があることからそう呼ばれている。
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