王維 口號又示裴迪 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 253

(2)王維
両作ともほぼ同時と思われるのが、次の「口号して又に裴迪に示す」と題する七言絶句である。


前作を話して、王維の昂奮はいっそう高まったのであろう。「又」の字はよくそれを示していなお『万首句人絶唐』はこれを「菩提寺の禁にて裴迪に示す」と題する。

口號又示裴迪
安得捨塵網、沸衣辭世喧。
悠然策藜杖、歸向桃花源。
(口号して又に裴迪に示す)
安くにか塵網を捨つるを得て、衣を払いて世の喧しきを辞し。
悠然として藜の杖を策き、帰りて桃花源に向かわん。


現代語訳と訳註
(本文)

口號又示裴迪
安得捨塵網、沸衣辭世喧。
悠然策藜杖、歸向桃花源。

(下し文) (口号して又に裴迪に示す)
安くにか塵網を捨つるを得て、衣を払いて世の喧しきを辞し。
悠然として藜の杖を策き、帰りて桃花源に向かわん。


(現代語訳)
とても難しいことだけど俗世界を捨てたいのだ、煩わしい衣についてくる塵のように私に要求してくることを払いのけたい、そして隠棲したいのだ。
ゆったりと落ち着いた気分で藜杖をついて、散策する桃源郷に向かって帰りたい。

(訳注)
安得捨塵網、沸衣辭世喧。

とても難しいことだけど俗世界を捨てたいのだ、煩わしい衣についてくる塵のように私に要求してくることを払いのけたい、そして隠棲したいのだ。
安得 難しいことだがなんとかしての意。ほとんど実行不可能を予想していう言葉。○塵網 脱出が難しい俗世のこと。俗界。『文選、江淹、雜體、許徴君自序詩』「五難既に儷落、超迹絶塵網」陶淵明『帰田園居』(田園の居に帰る)
歸園田居五首       其一
少無適俗韻,性本愛邱山。
誤落塵網中,一去三十年。
羈鳥戀舊林,池魚思故淵。
開荒南野際,守拙歸園田。
方宅十餘畝,草屋八九間。
楡柳蔭後簷,桃李羅堂前。
曖曖遠人村,依依墟里煙。
狗吠深巷中,鷄鳴桑樹巓。
戸庭無塵雜,虚室有餘閒。
久在樊籠裡,復得返自然。
「誤って塵網の中に落ち、一たび去りて十三年」と見える。
○払衣 衣の塵をはらって隠遁する意、
歸園田居五首    其一
少より 俗韻に適ふこと無く,性本と邱山を愛す。
誤りて塵網の中に落ち,一たび去ること 三十年。
羈鳥 舊林を戀ひ,池魚 故淵を思ふ。
荒を開く 南野の際,拙を守りて 園田に歸る。
方宅 十餘畝,草屋 八九間。
楡柳 後簷(えん)を蔭(おほ)ひ,桃李堂前に羅(つらな)る。
曖曖たり 遠人の村,依依たり 墟里の煙。
狗は吠ゆ 深巷の中,鷄は鳴く 桑樹の巓。
戸庭 塵雜 無く,虚室 餘閒有り。
久しく樊籠の裡に在れども,復(ま)た自然に返るを得(う)。
謝霊運「述祖徳詩」其二祖(徳を述ぶ)に謝霊運の『述祖德詩』に「達人貴自我,高情屬天雲。兼抱濟物性,而不纓垢氛。段生蕃魏國,展季救魯人。」「高く七州の外に揖り、衣を五湖の蓑に払う」と見える。


悠然策藜杖、歸向桃花源。
ゆったりと落ち着いた気分で藜杖をついて、散策する桃源郷に向かって帰りたい。
○悠 ゆったりと落ち着いたさま。『文選、陶淵明、雑詩』「飲酒其五 陶淵明
結廬在人境,而無車馬喧。
問君何能爾?心遠地自偏。
采菊東籬下,悠然見南山。
山氣日夕佳,飛鳥相與還。
此中有真意,欲辨已忘言。」(菊を采る東籬の下、悠然として南山を望む)○藜杖【あかざのつえ】 『荘子』譲王篇に子頁が貧乏な原意を訪ねたとき、原意は「藜を杖つきて門に応じ」たと見える。藜はアカザ科の一年草、葉は食用・薬用に供せられ、茎は軽くて堅いので老人の杖に用いられる。「桃花源」は古代の質朴さを留めた理想社会。陶淵明に「桃花源記」がある。王維はこのとき「塵網」と「世喧」につくづく安禄山に愛想が尽きていたのであろう。隠者となって、嘘と偽りのない古代社会に帰りつくことを、ひたすら願望していた。


756年至徳元載七月、粛宗は霊武に即位した(はじめ文武官は三十人ほど)のち、態勢を整え、長安回復をはかりつつあったが、帰属する官僚や軍人は次第に増加し、特に郭子儀・李光弼の両名将の到着は臨時政府の大きなささえとなった。勇将の顔真卿は敵の根拠地河北を中心に力戦していたが、房琯が率いた五万の兵が十月に陳涛斜(隣西成陽東)青坂で大敗を喫し、十二月、四道の節度使を兼ねた、永王璘(李白はその幕僚となった)が叛意を抱いて江陵(湖北省)から金陵(南京)をめざしたのは、ともに大きな痛手であった。

当時、山西の地で李光弼とともに、要衝の大原を守っていたのは、大原少尹(副長官、従四品下)の職にあった王維の弟王縉である。
757年至徳二載(時に王維五十七歳)正月、安慶緒は父の安禄山を殺して、大燕皇帝となった。大原が史思明の大軍十万に包囲され、李光弼が嘉の弱卒を率い、知略の限りを尽くして守り抜いたのもこの一月のことである。

二月には粛宗は行在所を寧夏の霊武から、長安の西140kmの鳳翔に移し、隴右・河西・安西など西海の辺境守備軍やウイグル異民族の兵を集め、永王璘の反乱も鋲圧し、両都回復の態勢を撃え、各地における官軍の善戦もあって、
九月には広平主催(のちの代宗)を総帥とする十五万の兵を発して両都に向かわせ、
九月二十七日、敵十万を長安の西で破り、
九月二十八日には長安を、
十月十八日には洛陽を回復した。
十月二十三日に粛宗が鳳翔から、
十二月四日に上皇(玄宗)が蜀から長安に帰ってきた。

■河北を中心に兵乱はなお続いていたが、中興の業はほぼ成り、論功行賞とあわせて、偽政府に従った官僚の処罰が議せられた。御史中盃の程器・呂詮は、敵に降った官僚は「国に背き偽に従ったもの」ゆえ、法律どおりすべて死刑に処すべしと主張し、粛宗も一時はそれに賛成したが、皇族の李幌が処分をゆるめるように進言するや、結局、李幌の意見が採択されて、見せしめの死刑から流罪、左遷に至る六等の刑によって処分することが確定した。

このとき、いちばん問題になったのは張均・張泊兄弟の処分であった。彼ら兄弟はかつての重臣張説の子で、張泊は唐王室と婚姻関係までありながら、ともに安禄山に従い、均は偽政府の中書令に、泊は宰相に就いた。上皇は両者の死罪を当然としたが、粛宗は兄弟の力で李林甫の毒手を免れえたのを理由に助命を願ったので、均は死罪、泊は広東方面への永久配流と決定した(以上は『賢治通鑑』巻二二〇による。両『唐吾』は均は合浦(広東省)に配流、泊は賊中で死亡と記す)。その他、達臭均ら十八人は死刑、陳希烈ら七人には自尽を賜わった。王維は長安におれば、上述のように九月二十八日に解放されたであろうが、「貴公の神道碑」の自述によれば、十か月ほどの拘禁生活を経たのち、ついに堪えきれず給事中の偽職を受けたようであるので、職掌柄洛陽に移っていたとも察せられる(至徳二我の五、六月ごろからか)。とすれば、彼は十月十八日洛陽で官軍により、解放されたことになる。ただ、彼はそれ以後も十二月の処分決定まで、未決囚としてまず京兆府の獄に、ついで楊国忠の旧邸に身体を拘束されたであろうから、安禄山軍の長安占領以後約一年半ほどを、拘禁またはそれに近い状態で生活を送ったことになる。その間、彼は生命の危険を幾度か覚えたはずである。崖器らの意見が通れば、王維も死罪に処せられるところであったが、彼に対する処分は意外に軽かった。このあたりの事情を『旧唐書』本伝は次のようにいう。

賊平らぎ、賊に陥ちし官は三等にて罪是めらる。王維は「擬碧」の詩行在に聞こゆるを以って、粛宗之差したまう。会【たま】たま王縉己が刑部侍即を削りて、兄の罪を贖【あがな】わんと請う。特に之を宥【ゆる】し、太子中允を責授さる。

『新唐書』本伝の記事もほぼ同じであるが、「擬碧」の詩が自然に行在所に伝わったのではなく、ある人がわざわざその詩を行在所の粛宗に伝えたと記述している。「三等」は本来「六等」が正しいが、ここでは、見せしめの死刑・自尽・杖刑の比較的重い「三等」の刑をあげたのであろう。王維に対する処分は「責授」(罪芸めつつ官を授ける。左遷に同じ)であるので、「三等」以下の監当たる。それゆえ「特に宥す」と表現したのであろう。「刑部侍郎」は尚書六部の一つで、刑法を管掌する。侍即は次官で正四雫。王潜は大原少冒して大原防衛に功績があったので、刑部侍郎(当時は『新唐害』本伝誓うように計と呼ばれていた)覧進したのである。

かくして偽政府に投降した行為は、最も軽い処分で決着したが、この拭いようのない汚点は、彼姦しい自責に駆。たてた。彼が太子中允(李中允といっても、彼の「集賢学士を謝する表」に「朝議大夫雲子中允臣維」というように、正官ではなく試官であり、正確には李中允待遇というべきである)に任ぜられたとき、恩命を謝して奉った表(文体の名称で上奏文の一撃あり、事柄を明らかにする目的で、陳情に用いる)の「太子中允に除せらるるを謝する表」に、当時の心境をよく綴いる。


詔は宸衷【しんちゅう】より出で、恩は望表【ぼうひょう】に過ぐ。捧戴【ほうたい】して裁【な】す所知らず。臣は聞く、君の禄を食むものは、君の難に死すと。逆胡の紀を干し、上皇の官を出でたまうに当たり、臣は進みて従行するを得ず、退きて自殺する能わず。情は察すべしと雖ども、罪は誅を容されず。……仍ち、網を祝するの恩を開き、臣を鼓に釁【ちぬ】るの戮【りく】より免【まぬか】れしめたまい、書を投じて罪を削り、襟を端【ただ】して朝に立たしめたもう。穢汚【わいお】の残骸、死滅の余気、伏して明主に謁【まみ】ゆるに、豈に自から心に娩【は】じざらんや。仰ぎて勲臣に廁【まじ】わるに、亦た何をか其の面に施さん。天に媚みて内を省みるに、地として自ら容るる無し。……朝に罪人の禄を食むを容さは、必ずや法を屈ぐるの嫌【うたが】いを招かん。臣は仏を奉じ恩に報ゆるを得て、白から死せざるの痛みを寛【ゆる】うせん。


「望表」は望外に同じ、『南史』王藻伝に「栄は望表に出ず」と見える。「網を祝す」とは「解網祝禽」の略で、殿の湯王が網の三面を開けて、閉じこめられた鳥を解き放ち、その前途を祝福した故事にもとづく。「鼓に馨る」とは人を殺してその血を太鼓に塗ること。戦争時の勝利を祈る儀式であった。『左伝』僖公三十三年に「孟明稽首して日わく、君の恵みは囚われの臣を以って鼓に費らざることなり」と見える。「天に指む」とは天が高いのに、つかえはしないかと身をかがめることで、恐れのため過度に行動を慎重にするたとえ。『詩経』小雅、正月にもとづく言葉。彼は前述のように、裴迪に示した作品で、隠退して桃源郷に赴きたいといい、ここでは仏道に帰依して、贖罪と報恩のうちに一生を終わりたいという。彼は太子中允の職に任ぜられて、出仕する毎日ではあったが、顔に厚化粧を施すか、仮面でもかぶらねは過ごせないほどの思いをいだいていたのであろう。



さて王維の作品は、次のような裴迪と昌号した七言絶句と長い題名がついているものとある。それはこの作品が書きつけたものでなく、口頭による即興吟(いわゆる「口号」)であった関係によるのであろう。

問題はこの状況下で杜甫が一年前に房琯について僭越にも余計なことをいってしまったこと。そして、兩都を奪還し、朝廷内での地位が固まってきた段階でまた余計なことをいったことになる。この詩の後左遷ということになってしまうのである。あくまでも此の視点は朝廷側、粛宗側から見たのである。粛宗は基本的に文人が嫌いなのである。