奉贈王中允維 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 254
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彼は杜甫から「高人王維」と呼ばれたが杜甫に「王中允経に贈り奉る」と題する五言律詩があり、これは758年乾元元年(時に杜甫47歳)の作とされているが、私は同年六月彼が左拾遺から、房琯のことで、朝廷内で疎外を受けて悩み、苦しんだのだ。そして王維に詩を贈って、結果こんどは華州司功参軍に左遷された以後のものではないかと推察している。詩題に王維の官を「中允」(太子中允)というのと、詩の内容に、杜甫自身のかげりある心境が反映されているためである。太子中允は正五品下で、東宮官の太子左春坊に属する侍従職で、天子への上奏を批正したり諌言を口上することを任務とする。王維は前職の給事中より一段階おとされただけの軽い処分ですんだのである。

奉贈王中允維
中允聲名久,如今契闊深。
あなたの名声あることは久しいものであるが、ただ今では非常に深い勤苦をしておられる。
共傳收庾信,不比得陳琳。
世人のいいったえる所ではあなたは庚信が元帝に採用せられたように採用されたということだが、曹操が陳琳を得たことなどとはくらべものにならぬのである。
一病緣明主,三年獨此心。
あなたはただ明天子を忘れず思わるるがために病気となられたのであり、三年のあいだただただ守節の心を持しておられたのである。
窮愁應有作,試誦白頭吟。

あなたは窮愁の境遇に居られてはさだめしお作があることであろう、それをきかんと欲して、自分は先ず試みにこの拙吟をくちずさんでみるのである。

中允声名久し 如今契閥深し
共に伝う庚信を収むと 此せず陳琳を得るに
一癖明主に縁る 三年独り此の心
窮愁応に作有るなるぺし 試みに謂す白頭吟

賊は迫って偽官に著した。賊が平いで、賊に陥った官吏は罪されるはずであったが、そのとき前詩を奏したので、粛宗は王維を宥して太子中允を授けた。此の詩は作者が其の頃に王維に贈ったもの。


現代語訳と訳註
(本文)
奉贈王中允維
中允聲名久,如今契闊深。
共傳收庾信,不比得陳琳。
一病緣明主,三年獨此心。
窮愁應有作,試誦白頭吟。


(下し文)
中允声名久し 如今契閥深し
共に伝う庚信を収むと 此せず陳琳を得るに
一癖明主に縁る 三年独り此の心
窮愁応に作有るなるぺし 試みに謂す白頭吟


(現代語訳)
あなたの名声あることは久しいものであるが、ただ今では非常に深い勤苦をしておられる。
世人のいいったえる所ではあなたは庚信が元帝に採用せられたように採用されたということだが、曹操が陳琳を得たことなどとはくらべものにならぬのである。
あなたはただ明天子を忘れず思わるるがために病気となられたのであり、三年のあいだただただ守節の心を持しておられたのである。
あなたは窮愁の境遇に居られてはさだめしお作があることであろう、それをきかんと欲して、自分は先ず試みにこの拙吟をくちずさんでみるのである。


(訳注)奉贈王中允維
中允聲名久,如今契闊深。

あなたの名声あることは久しいものであるが、ただ今では非常に深い勤苦をしておられる。
中允 王維をさす。○如今 いま。○契閲 勤苦なるさま。


共傳收庾信,不比得陳琳。
世人のいいったえる所ではあなたは庚信が元帝に採用せられたように採用されたということだが、曹操が陳琳を得たことなどとはくらべものにならぬのである。
共伝 世間の人がともにいいつたえる。○収庚信 梁の侯景の乱の時、簡文帝は庚信をして朱雀航に営せしめたが、景が至るや信は衆を以て江陵に奔った。しかし乱がおさまるに及び、元帝は信を以て御史中兎となした。収とは収録し、採用すること。○不比 くらべられぬ。○得陳琳 魂の曹操と衰絹と相い争ったとき、初め陳琳は絹のために挽を討つ散文を草したが後に、挽に事えた。得とは操が琳を得て用いることをいう。


一病緣明主,三年獨此心。
あなたはただ明天子を忘れず思わるるがために病気となられたのであり、三年のあいだただただ守節の心を持しておられたのである。
一病 癖といつわったこと。○明主 天子(玄宗)をさす。〇三年 天宝末より乾元初年までの間。○此心 節を守る心。


窮愁應有作,試誦白頭吟。
あなたは窮愁の境遇に居られてはさだめしお作があることであろう、それをきかんと欲して、自分は先ず試みにこの拙吟をくちずさんでみるのである。
窮愁 戦国超の虞卿の故事、窮して愁うる、経の困窮をいう。○ 詩をつくること。○試諦 作者が詞する。○白頭吟 漢の司馬相如の妻卓文君が夫が妾を買おうとするのをきいて賦した「白頭吟」を引き、王維の詩が君に対して二心なきをいうのはこれと似ている。又、飽照の「白頭吟」の「直きこと朱糸の縄の如く、清きこと玉壷の氷の如し」といい、身の清直で潔白な旨を表現する。

ここでは杜甫自身も、華州司功参軍へ左遷処分をうけるわけで、王維が悶々たる心情をいだいているのが、よく理解できるのだ。「試みに誦られよ」と読んで、王維に身の証しを立てるように、杜甫が勧めたのであろう。杜甫も同じく賊中に捕らわれて「哀王孫」「春望」の詩を作り、のち脱出して鳳翔で粛宗に会い、左拾遺の官を授けられただけに、王維の心情が痛いほど理解できたのである。白頭吟とは作者が自己の詩、即ち此の詩篇をさしていうものとみる。作者の『寄楊五桂州譚』詩に、
五嶺皆炎熱,宜人獨桂林。
梅花萬裡外,雪片一冬深。
聞此寬相憶,為邦複好音。
江邊送孫楚,遠附白頭吟。
(楊五桂州譚に寄す)
五嶺は皆炎熱なり 人に宜しきは独り桂林のみ
梅花万里の外 雪片一冬深し
此れを聞いて相憶を寛にす 邦を為むる復好音
江辺孫楚を送る 遠く附す白頭吟

「あなたの名声はまことに久しいものだ。それが今大変苦しんでいられる。世間では庚信の任用に似ておって、曹操の陳琳採用と大違いという。明主を思えばこそ口のきけぬ病いとなり、三年間ひたすら忠誠の心を守られた。やりきれぬ悲しみに近作がおありでしょう。私も試みに 『白頭吟』を口ずさんでおります」し「庚信を収む」とは、六朝末のすぐれた詩人庚信(513一581)敵防衛の任を放棄して逃亡したが、元帝は彼を御史中丞に任じたことをさす。「陳琳を得」建安七子の一人陳琳(未詳―217)ははじめ蓑紹に仕えて曹操攻撃の猛烈な檄文を書いたがが敗れると曹操に許しを乞い、その幕下に加えられた。庾信の場合は敵前逃亡であったが、陳琳は一時、敵対した。両者の再雇用は事情が異なり、王維の場合は前者に当たるという「三年」の句には、王維の虜囚時の作を唐朝に忠誠を示すものとの認定がこめられている。「窮愁」は『史記』虞卿伝に見える語「白頭吟」は楽府題で相和歌に属し、劉宋の飽照の「白頭吟」には「直きこと朱糸の縄の如く、清きこと玉壷の氷の如し」といい、身の清直で潔白な旨を表現する。ここでは杜甫自身も、華州司功参軍へ左遷処分受けた身であり、王維が不幸な境遇に陥って悶々たる心情をいだいているのが、よく理解できるとの意にとったが「試みに誦られよ」と読んで、王維に身の証しを立てるように、杜甫が勧めたと解釈することも可能であろう。杜甫も同じく賊中に捕らわれて「春望」の詩を作り、のち脱出して鳳翔で粛宗に会い、左拾遺の官を授けられただけに、王維の心情が痛いほど理解できたのであろう。
しかし、後世の王維に対する批判には厳しいものがあり、南宋の朱熹や明・清の交の雇炎武(1613-1682)はなかなかに痛烈である。朱熹は「禄山の乱に遭いて、賊中に陥るも死する能わず、事平らぎて復た幸いに誅されず、其の人民に言うに足らず」(『楚辞後語』)といい、顧炎武は王維の虜囚時の作を挙げて、「古来、文辞を以って人を欺く者は謝霊運に若くは莫く、次は則ち王維なり」(『日知録』巻二一)ときめつけ、杜甫が王維を高人と評したことを、「天下に高人にして賊に仕うる者有りや」と杜甫にまで駁撃を加える。