題李尊師松樹障子歌 #2 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 256
(李尊師が松樹の障子に題する歌)

玄都観の道士李が示した松をえがいたついたてに題した歌。乾元元年の作とする説に従う。


題李尊師松樹障子歌
老夫清晨梳白頭,玄都道士來相訪。握發呼兒延入戶,手提新畫青松障。
障子松林靜杳冥,憑軒忽若無丹青。陰崖卻承霜雪幹,偃蓋反走虬龍形。』
老夫平生好奇古,對此興與精靈聚。
このわたしはふだん奇古なものを好むが、この画に向うと、自己の感興は忽ち画者の精神といっしょになってしまった。
已知仙客意相親,更覺良工心獨苦。
仙客というべき李尊師の御親切、心遣いはもとよりわかったが、之をかく時の画者がどんなにひとりで心を苦しめたかということに一層つよくこころに響いてくるのである。』
松下丈人巾屨同,偶坐似是商山翁。
松の木の下に老人たちが画いてあり、そのいでたちはどれも互に同じである。そこに対坐しているその老人たちはどうやら商山の老人であるようである。
悵望聊歌紫芝曲,時危慘澹來悲風。』

自分も憤然として南山の方をながめてちょっと四皓等が作ったと称する「紫芝曲」をうたうというと、この時にあたってもいまだに安泰ではなくしてものがなしく悲風が吹き来るのである。』

老夫 清晨【せいしん】に白頭を梳【くしけず】る、玄都の道士来りて相 訪【と】う。
髪を握り児を呼び延【ひ】きて戸に入らしむ、手に提【ひっさ】ぐ新画の青松の障。』
障子の松林 静かにして杳冥【ようめい】、軒に憑【よ】れば忽ち丹青無きが若し。
陰崖【いんがい】卻【かえ】って承【う】く霜雪の幹、偃蓋【えんがい】反って走らす虬龍【きゅうりょう】の形。』
老夫 平生 奇古【きこ】を好む、此に対して興 精霊と聚まる。
己に知る仙客の意 相親しむを、更に覺【おぼ】ゆ 良工【りょうこう】の心独り苦しむを。』
松下の丈人 巾屨【きんく】同じ、偶坐是れ商山の翁なるに似たり。
悵望【ちょうぼう】聊【いささ】か歌う紫芝【しし】の曲、時危くして惨澹【さんたん】悲風来る』



現代語訳と訳註
(本文)

老夫平生好奇古,對此興與精靈聚。
已知仙客意相親,更覺良工心獨苦。
松下丈人巾屨同,偶坐似是商山翁。
悵望聊歌紫芝曲,時危慘澹來悲風。』


(下し文) (李尊師が松樹の障子に題する歌)
老夫 平生 奇古【きこ】を好む、此に対して興 精霊と聚まる。
己に知る仙客の意 相親しむを、更に覺【おぼ】ゆ 良工【りょうこう】の心独り苦しむを。』
松下の丈人 巾屨【きんく】同じ、偶坐是れ商山の翁なるに似たり。
悵望【ちょうぼう】聊【いささ】か歌う紫芝【しし】の曲、時危くして惨澹【さんたん】悲風来る』


(現代語訳)
このわたしはふだん奇古なものを好むが、この画に向うと、自己の感興は忽ち画者の精神といっしょになってしまった。
仙客というべき李尊師の御親切、心遣いはもとよりわかったが、之をかく時の画者がどんなにひとりで心を苦しめたかということに一層つよくこころに響いてくるのである。』
松の木の下に老人たちが画いてあり、そのいでたちはどれも互に同じである。そこに対坐しているその老人たちはどうやら商山の老人であるようである。
自分も憤然として南山の方をながめてちょっと四皓等が作ったと称する「紫芝曲」をうたうというと、この時にあたってもいまだに安泰ではなくしてものがなしく悲風が吹き来るのである。』


(訳注)
老夫平生好奇古,對此興與精靈聚。

このわたしはふだん奇古なものを好むが、この画に向うと、自己の感興は忽ち画者の精神といっしょになってしまった。
奇古 かわったふるめかしいもの。○対此 此とは画をさす。○ 作者の感興。○精霊 画者の精神。


已知仙客意相親,更覺良工心獨苦。
仙客というべき李尊師の御親切、心遣いはもとよりわかったが、之をかく時の画者がどんなにひとりで心を苦しめたかということに一層つよくこころに響いてくるのである。』
仙客 李尊師をさす。○意相親 この画陣をわざわざもってきて見せてくれたのはこちらと親密であるからである。○良工 画の名人、この画陣の筆者をさす。○心独苦 びとりで苦心する。

 
松下丈人巾屨同,偶坐似是商山翁。
松の木の下に老人たちが画いてあり、そのいでたちはどれも互に同じである。そこに対坐しているその老人たちはどうやら商山の老人であるようである
松下文人 文人は老人、松下の老人とは画中の人物をさす。○巾履同 文人等のずきんとくつが互に同じ。一説に文人等の巾医が商山の老人たちと同様である。○偶坐 対坐に同じ、我(作者)が画中の人物と対して坐することをいう。○商山翁 漢の高祖の時、秦の乱を避けて商山に隠れた東園公・用里先生・綺里季・夏黄公の四人が商山に隠れ、ともに八十余歳で、髪は白かったので商山の四皓という。


悵望聊歌紫芝曲,時危慘澹來悲風。』
自分も憤然として南山の方をながめてちょっと四皓等が作ったと称する「紫芝曲」をうたうというと、この時にあたってもいまだに安泰ではなくしてものがなしく悲風が吹き来るのである。
悵望 うらめしくながめる。○紫芝曲 商山の四皓はもと秦の博士であったが世のみだれたのにより山にかくれて採芝の歌をつくった。その歌は四言十句あって、「曄曄紫芝,可以疗飢。皇虞邈远,余将安歸」(曄曄たる紫芝、以て飢を療す可し。唐虞往きぬ、吾は当に安にか帰すべき。)の語がある。〇時危 時世の安泰ならぬこと、安史(安禄山・史思明)の乱がいまだに平定していないことをいう。○惨澹 ものがなしいさま。○悲風 人をかなしませるようなかぜ。 
 


商山の四皓(四人の老人)、漢の高祖のとき張良の計によって老人は山より出て来て高祖の太子の輔佐役となった。羽翼とは輔佐となることをいう。詩意は李泌が広平王僻の輔佐となってくれたならばとおもうことをいう。杜甫自身補佐役であることを示している。綺皓という表現をつかう。秦末の商山の四皓を指す。東園公・用里先生・綺里季・夏黄公の四人が商山に隠れ、ともに八十余歳で、髪は白かったので商山の四皓という。その中の綺里季を代表させてという。漢の高祖が迎えたが、従わなかった。○商山芝 商山は長安の東商商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。