至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有輩往事 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 267

「人生七十 古来 稀なり」 -古稀-という言葉は、杜甫のこの句にもとづくが、このとき彼は、永くもない人生、せめて好きな酒を飲み、暮れゆく春を楽しもうと、けだるい無力感にその身を任せている。

しかしながら、このような生活も、長くは続かなかった。それは、六月になって房琯が邠州の刺史として左遷され、それに関連して、房琯と近い関係にあった人たちに対しても同じような処置がとられた。京兆少尹(長安の副知事)であった厳武は巴州(四川省重慶の巴県)刺史に左遷され、杜甫が叛乱軍の中にあるときに何かと援助してくれた大雲経寺の賛公は秦州(甘粛省天水市)に追放された。そうして、杜甫も最前線、華州の司功参軍に左遷されたのである。

満一年の左拾遺であったが、羌村の家族のもとから長安に帰ってから、疎外されての数か月は、杜甫にとってつらいものであった。

しかし、いざ長安を去るとなると、その心境は複雑であった。その思いは「至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有悲往事。」(至徳二載 甫 京の金光門より野で 間道より鳳翔に帰す 乾元の初 左拾遺より華州の操に移され 親政と別る、因って此の門を出で 往事を悲しむ有り。)という長題の詩に詠われている。

華州は、長安の東約三〇〇キロの所にある町で、その司功参軍とは、州の祭祀、学校、官吏の選挙などの管理を担当する、今日の地方の「教育長」とでもいうべき職であった。彼はその職にあって、華州の長官に、依然、鄴城を占拠している安史軍をいかにして絶滅するかについての方策を奉ったり、また、華州の推薦する進士を選ぶための試験問題を作成して、戦時下における租税・交通・農田・水利など諸問題について出題したりして、それなりに職務に励んでいる。しかしながら、中央政府から左遷されたわびしきは、片時も消えることはなかったであろう。ここからカテゴリーが『華州の司功参軍左遷』に変わる。
杜甫『痩馬行』『收京三首其一其二其三』『喜聞官軍已臨賊寇 二十韻』(757年十月に洛陽を敗退した安慶緒は、この年になると相州(河南省安陽市)の鄴城(ぎょうじょう)に拠って兵六万を集め、周囲の七郡を支配する勢力に復活した。唐王朝は九月になると、朔方軍節度使郭子儀(かくしぎ)ら九節度使の軍を派遣して鄴城を包囲した。)李白『北上行』参照。 

 秋のはじめに杜甫は、杜観ひとりを洛陽にやったが、戦線が河北と河南の境にある相州に集中した冬になっても、杜観はもどってこなかった。杜甫の左遷先の華州は、洛陽と長安の中間であるが、敵は太行山脈を越え黄河を利用して攻め込むことが予想される地点である。敵が南下してくる長安洛陽のどちらも護、安史軍との前線基地にあたる。

 詩は、758年乾元元年六月の作。
756年、至徳二載に自分は長安の金光門からでて、ぬけみちをとおって粛宗皇帝のおわした鳳翔の方へとおもむいた。758年、乾元の初年に自分は左拾遺の官から華州のした役へと転任させられ、親戚故旧らと別れ、それにつれてまたこの同じ金光門を出たので、まえのことをおもいだしてかなしみ、この詩をつくった。


至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有悲往事。
徳二載に自分は長安の金光門からでて、ぬけみちをとおって粛宗皇帝のおわした鳳翔の方へとおもむいた。しかし、乾元の初年(6月)に自分は左拾遺の官から華州の下役へと転任させられ、親戚故旧らと別れ、それにつれてまたこの同じ金光門を出たので、まえのことをおもいだしてかなしみ、この詩をつくった。
此道昔歸順,西郊胡正繁。
この道で自分がむかし安史軍のなかから脱出して鳳翔の方へ帰順しにいったときとおった道だ。あのとき城西の野外では異民族の軍らがいっぱいいた。
至今猶破膽,應有未招魂。
あの時の肝の破れた様な驚きは今に至るもまだ続いている、まさに魂が飛び去ったままで、いまだに呼び帰されずにいるのである。
近侍歸京邑,移官豈至尊。
自分は鳳翔で左拾遺の官を賜り、お傍近くお供をしてこの長安へ戻ってきたほどだ。せっかく都へきて都から田舎へ官を移されるということはどうして我が君ご自身の御心から出たことであろうか。(そんなことをさせたものが別にいるのだ。)
無才日衰老,駐馬望千門。

自分は元来才のないものであるがそれが日々衰え老いゆくのである、これが別れと思うとにわかには立ち去りかね、馬の足をとどめてじっと長安城の諸門を眺めるのである。

(至徳二載 甫 京の金光門より野で 間道より鳳翔に帰す 乾元の初 左拾遺より華州の操に移され 親政と別る 因って此の門を出で 往事を悲しむ有り。)
此の道昔帰順【きじゅん】す、西郊【せいこう】胡 正に繁【しげ】し。
今に至って 猶 胆を破る、応に未招【みしょう】の魂 有るなるべし。
近侍して京邑【けいゆう】に帰る、移官 豈【あに】至尊ならんや。
才無くして日々に衰老【すいろう】す、馬を駐めて千門【せんもん】を望む。


現代語訳と訳註
(本文)

至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,
從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有悲往事。
此道昔歸順,西郊胡正煩。
至今殘破膽,應有未招魂。
近侍歸京邑,移官豈至尊。
無才日衰老,駐馬望千門。

(下し文)
(至徳二載 甫 京の金光門より野で 間道より鳳翔に帰す 乾元の初 左拾遺より華州の操に移され 親政と別る、 因って此の門を出で 往事を悲しむ有り。)
此の道昔帰順【きじゅん】す、西郊【せいこう】胡 正に繁【しげ】し。
今に至って 猶 胆を破る、応に未招【みしょう】の魂 有るなるべし。
近侍して京邑【けいゆう】に帰る、移官 豈【あに】至尊ならんや。
才無くして日々に衰老【すいろう】す、馬を駐めて千門【せんもん】を望む。
 

(現代語訳)
至徳二載に自分は長安の金光門からでて、ぬけみちをとおって粛宗皇帝のおわした鳳翔の方へとおもむいた。しかし、乾元の初年(6月)に自分は左拾遺の官から華州の下役へと転任させられ、親戚故旧らと別れ、それにつれてまたこの同じ金光門を出たので、まえのことをおもいだしてかなしみ、この詩をつくった。

この道で自分がむかし安史軍のなかから脱出して鳳翔の方へ帰順しにいったときとおった道だ。あのとき城西の野外では異民族の軍らがいっぱいいた。
あの時の肝の破れた様な驚きは今に至るもまだ続いている、まさに魂が飛び去ったままで、いまだに呼び帰されずにいるのである。
自分は鳳翔で左拾遺の官を賜り、お傍近くお供をしてこの長安へ戻ってきたほどだ。せっかく都へきて都から田舎へ官を移されるということはどうして我が君ご自身の御心から出たことであろうか。(そんなことをさせたものが別にいるのだ。)
自分は元来才のないものであるがそれが日々衰え老いゆくのである、これが別れと思うとにわかには立ち去りかね、馬の足をとどめてじっと長安城の諸門を眺めるのである。


(訳注)
至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有悲往事。
(至徳二載 甫 京の金光門より野で 間道より鳳翔に帰す 乾元の初 左拾遺より華州の操に移され 親政と別る、 因って此の門を出で 往事を悲しむ有り。)

至徳二載に自分は長安の金光門からでて、ぬけみちをとおって粛宗皇帝のおわした鳳翔の方へとおもむいた。しかし、乾元の初年(6月)に自分は左拾遺の官から華州の下役へと転任させられ、親戚故旧らと別れ、それにつれてまたこの同じ金光門を出たので、まえのことをおもいだしてかなしみ、この詩をつくった。
至德二載 757年6月。○ 杜甫自身。○ 長安。○金光門 長安の外郭の城の西側に三門があり、北にあるものを聞達門、中にあるものを金光門、南にあるものを延平門という。金光門を西に出ると昆明池の方へゆく。○鳳翔。乾元初 758年6月。○華州掾 杜甫『白水崔少府十九翁高齋三十韻』「東郊何時開?帶甲且未釋。」(東郊何の時か開けん 帯甲且未だ釈けず)・東郊 長安の東方の野外、華州・潼関などは東郊である。○親故 親戚故旧。○此門 金光門○往事 前脱出したときのこと。○金光門 ○間道 ぬけみち。○ おもむく。○ 転任させられる。○華州接 接は官属、華州の司功参軍をいう、華州は長安の東百八十里にある。○親故 親戚故旧。○往事 すぎしむかしのこと。○此道 金光門よりでるみち。


此道昔歸順,西郊胡正煩。
此の道昔帰順す 西郊胡正に繁し
この道で自分がむかし安史軍のなかから脱出して鳳翔の方へ帰順しにいったときとおった道だ。あのとき城西の野外では異民族の軍らがいっぱいいた。
 至徳二載。○帰順 順に帰すとは官軍についたことをいう。○西郊 長安城西ののはら。○ 安史軍には異民族の兵士がたくさんいた。○ 煩わしいほどたくさんいる。


至今殘破膽,應有未招魂。
今に至って猶胆を破る 応に未招の魂有るなるべし
あの時の肝の破れた様な驚きは今に至るもまだ続いている、まさに魂が飛び去ったままで、いまだに呼び帰されずにいるのである。
至今 今とは乾元元年六月。○破胆 きもをやぶるとは驚くことの甚しいことをいう。○未招魂 魂は作者自己のたましい、生き霊をいう。招かざるの魂とは魂が飛びちって人のこれをいまだ呼びかえさぬものをいう。楚の宋玉はその師屈原の魂をよびかえすことをのべて「招魂」を作った。


近侍歸京邑,移官豈至尊。
近侍して京邑に帰る 移官豊に豈尊ならんや
自分は鳳翔で左拾遺の官を賜り、お傍近くお供をしてこの長安へ戻ってきたほどだ。せっかく都へきて都から田舎へ官を移されるということはどうして我が君ご自身の御心から出たことであろうか。(そんなことをさせたものが別にいるのだ。)
近侍帰京邑 ・近侍とは左拾遺の官を以て天子のそぼちかく侍ることをいう。・京邑とは長安の都をさす。・帰とは鳳翔よりもどって来ることをいう。○移官 長安から華州へ転任させる。○豈至尊 「豈出於至尊之意」(豈至尊之意において出る。)天子の御本意からでたものではないという意味。事実は作者は房琯を救おうとしたが房琯は758年乾元元年五月に官をおとされ、六月にいたって杜甫自身も左遷されるに至ったのであり、房琯及び杜甫を粛宗に謗ったものは賀蘭進明という者であるが、現代になって諸資料を分析して、房琯は将軍で無気力な大敗をきっしている。杜甫が擁護したからといって何も変わらない、マイナス要素のみの擁護であった。


無才日衰老,駐馬望千門。
才無くして日々に衰老す 馬を駐めて千門を望む
自分は元来才のないものであるがそれが日々衰え老いゆくのである、これが別れと思うとにわかには立ち去りかね、馬の足をとどめてじっと長安城の諸門を眺めるのである。
千門 宮殿の諸門をいう。




至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,
從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有悲往事。
此道昔歸順,西郊胡正煩。
至今殘破膽,應有未招魂。
近侍歸京邑,移官豈至尊。
無才日衰老,駐馬望千門。

(至徳二載 甫 京の金光門より野で 間道より鳳翔に帰す 乾元の初 左拾遺より華州の操に移され 親政と別る、 因って此の門を出で 往事を悲しむ有り。)
此の道昔帰順【きじゅん】す、西郊【せいこう】胡 正に繁【しげ】し。
今に至って 猶 胆を破る、応に未招【みしょう】の魂 有るなるべし。
近侍して京邑【けいゆう】に帰る、移官 豈【あに】至尊ならんや。
才無くして日々に衰老【すいろう】す、馬を駐めて千門【せんもん】を望む。
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