九日藍田崔氏荘 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 274

陰暦九月九日重陽の菊の節句の日に藍田県の崔氏の別荘において作った詩。藍田は長安の南にある県の名、華州より60kmばかりへだたる、乾元元年華州司功であったときの作。
乾元元年 758年 47歳
 
九日藍田崔氏荘
老去悲愁強自寛、興来今日尽君歓。
自分はだんだん年老いて悲しき秋にあたって無理に胸の内を寛ごうと思って、漫然とした生活の中で気の向くままにとおもっていたが、今日にかぎっては十分に君が奉げてくれる歓情を受け尽くすのである。
羞将短髪環吹帽、笑倩旁人為正冠。
晉の孟嘉のように適当なかぶり方にして風が帽子を吹きおとすのは老いの短い髪の毛になっている自分にははずかしいことにおもわれる、笑い話のようであるが自分は孟嘉ほどのものではないので脇の人にこいねがってこの帽のかぶり具合をきちんと治してもらうことにしよう。
藍水遠従千澗落、玉山高並両峰寒。
荘外をながめると、遠く多くの谷間の水を集めてそこから藍水へと落ちてくるし、玉山はその二つの峰が高くならんできた赦免なのですでに寒色をたたえている。
明年此会知誰健、酔把茱萸子細看。

今日は主賓と共にこんなにおもしろく過ごせたが、さて明年のこの会には、果たして誰が変わりなく達者でいるであろうか、それをおもうて自分は酔いながら茱萸の枝を手にして詳しく眺めいるのである。


九日 藍田の崔氏の荘
老い去【ゆ】きて悲愁(に強【し】いて自ら寛(ゆる)うし、
興【きょう】来【おこ】りて今日ぞ君の歓(よろこ)びを尽くさん。
羞【は】ずらくは短髪を将【もっ】て環【な】お帽を吹かかることを、笑いて旁人に倩【こ】いて為に冠【かんむり】を正さしむ。
藍水【らんすい】は遠く  千澗【せんかん】従【よ】りして落ち、玉山【ぎょくざん】は高く 両峰【りょうほう】に並【そ】うて寒し。
明年【みょうねん】は 此の会【つど】い 知んぬ 誰か健【すこやか】なるを、酔うて茱萸【しゅゆ】を把【と】りて子細【しさい】に看【み】る。



現代語訳と訳註
(本文)

九日藍田崔氏荘
老去悲愁強自寛、興来今日尽君歓。
羞将短髪環吹帽、笑倩旁人為正冠。
藍水遠従千澗落、玉山高並両峰寒。
明年此会知誰健、酔把茱萸子細看。

(下し文)
九日 藍田の崔氏の荘
老い去【ゆ】きて悲愁(に強【し】いて自ら寛(ゆる)うし、
興【きょう】来【おこ】りて今日ぞ君の歓(よろこ)びを尽くさん。
羞【は】ずらくは短髪を将【もっ】て環【な】お帽を吹かかることを、笑いて旁人に倩【こ】いて為に冠【かんむり】を正さしむ。
藍水【らんすい】は遠く  千澗【せんかん】従【よ】りして落ち、玉山【ぎょくざん】は高く 両峰【りょうほう】に並【そ】うて寒し。
明年【みょうねん】は 此の会【つど】い 知んぬ 誰か健【すこやか】なるを、酔うて茱萸【しゅゆ】を把【と】りて子細【しさい】に看【み】る。

(現代語訳)
自分はだんだん年老いて悲しき秋にあたって無理に胸の内を寛ごうと思って、漫然とした生活の中で気の向くままにとおもっていたが、今日にかぎっては十分に君が奉げてくれる歓情を受け尽くすのである。
晉の孟嘉のように適当なかぶり方にして風が帽子を吹きおとすのは老いの短い髪の毛になっている自分にははずかしいことにおもわれる、笑い話のようであるが自分は孟嘉ほどのものではないので脇の人にこいねがってこの帽のかぶり具合をきちんと治してもらうことにしよう。
荘外をながめると、遠く多くの谷間の水を集めてそこから藍水へと落ちてくるし、玉山はその二つの峰が高くならんできた赦免なのですでに寒色をたたえている。
今日は主賓と共にこんなにおもしろく過ごせたが、さて明年のこの会には、果たして誰が変わりなく達者でいるであろうか、それをおもうて自分は酔いながら茱萸の枝を手にして詳しく眺めいるのである。


(訳注)
九日藍田崔氏荘

(九日 藍田の崔氏の荘)


老去悲愁強自寛、興来今日尽君歓。
(老い去【ゆ】きて悲愁(に強【し】いて自ら寛(ゆる)うし、
興【きょう】来【おこ】りて今日ぞ君の歓(よろこ)びを尽くさん。)
自分はだんだん年老いて悲しき秋にあたって無理に胸の内を寛ごうと思って、漫然とした生活の中で気の向くままにとおもっていたが、今日にかぎっては十分に君が奉げてくれる歓情を受け尽くすのである。
悲秋 ものがなしい秋の節。安史の乱がいまだ続いており、杜甫自身、天子のおそばの左拾遺から、地方の進士試験の出題者という夢を失わせる時期であった。
宋玉『九辨』、
悲哉秋之為氣也!
蕭瑟兮草木搖落而變衰,
憭慄兮若在遠行,
登山臨水兮送將歸,
泬寥兮天高而氣清,
寂寥兮收潦而水清,
憯悽欷兮薄寒之中人,
愴怳懭悢兮去故而就新,
坎廩兮貧士失職而志不平,
廓落兮羇旅而無友生。
惆悵兮而私自憐。
燕翩翩其辭歸兮,蝉寂漠而無聲。
鴈廱廱而南遊兮,鶤[昆+鳥]雞 啁哳而悲鳴。
獨申旦而不寐兮,哀蟋蟀之宵征。
時亹亹而過中兮,蹇淹留而無成。
「悲レ秋」とよんでもよい。大暦元年 766年55歳七言律詩『詠懐古蹟五首』  古跡において自己の懐う所を詠じた詩。五首ある。大暦元年夔州に在ったおり各古跡をおとずれることなく予想して作ったもの
杜甫『詠懐古跡 其の二』
搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。
悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。
江山故宅空文藻,雲雨荒台豈夢思。
最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
自寛 自己の愁懐をくつろげ、なぐさめる。○興来 気の向くままに、偶然に身を任せ、漫然としていた杜甫が今日、その日だけ、という限定したことでこの訪問を強調している。○尽君歓 他人が私を喜ばそうとしたとき、八分を受け二分を残すのが君子の礼とされるが、ここでは先方の歓待を十分に受け尽くすことをいう。君は主人崔氏。


羞将短髪環吹帽、笑倩旁人為正冠。
(羞【は】ずらくは短髪を将【もっ】て環【な】お帽を吹かかることを、笑いて旁人に倩【こ】いて為に冠【かんむり】を正さしむ。)
晉の孟嘉のように適当なかぶり方にして風が帽子を吹きおとすのは老いの短い髪の毛になっている自分にははずかしいことにおもわれる、笑い話のようであるが自分は孟嘉ほどのものではないので脇の人にこいねがってこの帽のかぶり具合をきちんと治してもらうことにしよう。
短髪 作者の老いてみじかくなったかみのけ。○ 我もまたの意。○吹帽 晋の孟嘉が桓温の参軍となり、九日龍山で催おされた登高の宴に、秋風のいたずらに孟嘉の帽子を飛ばした。本人はそれに気づかなかったが、桓温はそっと左右のものに目配せをし放置させ、やがて、孟嘉が手洗いに立つと文士の孫盛に命じ、孟嘉を嘲笑する文を孟嘉の席に置いた。席に戻った孟嘉は冷静に答辭を作った。其の文は見事な美文で一同を感嘆させた。東晉の風流の故事の一つとされている。○ 雇うこと。故事を踏まえているので少しオーバーな言い方である。○傍人 そばのひと。○ 我がために。○正冠 冠は即ち上旬の帽、正とはまがらぬようになおすこと。


藍水遠従千澗落、玉山高並両峰寒。
藍水【らんすい】は遠く  千澗【せんかん】従【よ】りして落ち、玉山【ぎょくざん】は高く 両峰【りょうほう】に並【そ】うて寒し

荘外をながめると、遠く多くの谷間の水を集めてそこから藍水へと落ちてくるし、玉山はその二つの峰が高くならんできた赦免なのですでに寒色をたたえている。
藍水 藍田にある川の名。㶚水の支流で北流して長安東門春明門を出た街道滻水橋を渡り、㶚陵橋と続くを北流して、渭水に豪牛する。〇千澗 多くの谷川。○玉山 藍田にある山の名、即ち藍田山。昔、宝玉を産出していたのでそう呼ぶ。○両峰 玉山に属する二つの峰かとおもう。この聯は、藍水・・・・・、玉山・・・・・。通常の七言の句の構成とは異なっている。通常は四語+三語で句とするものが多い。つまり藍水を五言句で表し、同様に、玉山を五言句で表現している。寒については、渭水の向こうの山々は南面であるため、藍田の山々は北面であるため景色が違っていることをあらわしている。



明年此会知誰健、酔把茱萸子細看。
(明年【みょうねん】は 此の会【つど】い 知んぬ 誰か健【すこやか】なるを、酔うて茱萸【しゅゆ】を把【と】りて子細【しさい】に看【み】る。)
今日は主賓と共にこんなにおもしろく過ごせたが、さて明年のこの会には、果たして誰が変わりなく達者でいるであろうか、それをおもうて自分は酔いながら茱萸の枝を手にして詳しく眺めいるのである。
知誰健 知の下に疑問詞があるときは「知」は「不知」の義となる、即ち不知誰健の意、○茱萸 ぐみ、九日にぐみを凧び菊酒をのめば長生をするとされる。kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 145 九月九日憶山東兄弟  王維仔細 くわしく。○ 蓋し菜糞の枝をみつめる。古来多くこの義にとく。沈徳潜は栗東をみることの無意味なことをいい藍水と玉山とを看ることとする、即ち「酒を把って山水をみる」ととく。但し、果菜をみるとするのは決して無意味ではなく、上旬に「誰健」とあって主賓の健康を意としての語であるから長寿のしるしである茱萸を仔細にみるのは先頭の句に「悲愁」に帰っていくとみて意が深くなるものである。



唐朝の衰退はかなりなもので、どこで反乱が起こってもおかしくないし、外敵に攻められても、府兵の統率力はなかった、しかも、杜甫の知人の官僚、幕僚も次々に、左遷、降格、死没と中央集権国家の体をなさず、長安周辺の朝廷と言うくらいに力のない、先行き不安な状況であった。杜甫が冠を直すと詠むとき、朝廷の威信がそこまであるのかと思いながら正しているのかもしれない。
 九月九日の重陽節に、杜甫は崔氏の藍田の別荘に招かれた。主人の崔李重(さいりじゅう)は母方の一族と見られている。藍田は華州からだと西南に60kmほどの道程なので、杜甫は馬で出かけた。
 宋玉の「悲愁」を杜甫は同様に感じつつ、登高の宴に参列できたことへのよろこびを感じたものである。しかし、杜甫の置かれてい位置は決して、当時の世界、当時の人生観で、人生をかけるものではなく、悩みは更に深いものとなっていく。