崔氏東山草堂  杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 279


陰暦九月九日重陽の日に藍田県の崔氏の別荘において作った詩。九日藍田崔氏荘 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 277
藍田は長安の南にある県の名、華州より60kmばかりへだたるところだ。
前詩の崔氏と同じく藍田の崔氏であり、東山は藍田県の東南にある藍田山、即ち玉山であり、草堂はかやぶきの堂である。此の堂は前詩の別荘とは異なるものである。此の詩は崔氏の東山の草堂において作る。前詩と同時期の作。西隣に王維の輞川荘があるが、王維は自身傷心の身であると同時に朝廷に嫌気を覚えていた。安史の乱までに輞川荘を完成させ、二十首の『輞川集』を完成させたことも官僚勤めを遠ざけるもので、仏教に傾倒深くなっていたのである。
 

崔氏東山草堂
愛汝玉山草堂靜,高秋爽氣相鮮新。
わたしは、あなたのこの玉山の草堂は閑静であるかた深く愛あひている、空高くすみきった秋の爽かな気が山の色ととともに新鮮をきそっている。
有時自發鐘磬響,落日更見漁樵人。
また時おりやまのなかの寺でならすのか、鐘や聲のおとがひびいてひとりでにおこってくるし、日の落ちかかるときそのうえ漁師や樵人らがかえりゆくのをみることができる。
盤剝白鴉谷口栗,飯煮青泥坊底蓴。
また食物についてみると、大きな皿には白鴉谷のほとりでとれた栗が皮をむいて盛りだされ、ご飯には青泥坊の堤でとれた芹がまぜて煮られている。
何為西莊王給事,柴門空閉鎖松筠?

ここへ西どなりの王維でも居るといっそういいのだが、どうしたためか彼の別荘はいたずらに柴門が閉じられて松竹林中にかぎをおろしてある。

(崔氏が東山の草堂)
愛す汝が玉山【ぎょくさん】草堂の静かなるを、高秋【こうしゅう】の爽気【そうき】 相 鮮新【せんしん】。
時有ってか自ら発す鐘磬【しょうけい】の響、落日更に見る漁樵【ぎょしょう】の人。
盤には剥【は】ぐ白鴉【はくあ】谷口【こくこう】の栗【りつ】、飯【はん】には煮る青泥【せいでい】坊底【ぼうてい】の蓴【じゅん】。
何為【なんすれ】ぞ西荘【せいそう】の王給事、柴門【さいもん】空しく閉じて松筠【しょうきん】に鎖【とざ】す。


現代語訳と訳註
(本文) 崔氏東山草堂
愛汝玉山草堂靜,高秋爽氣相鮮新。
有時自發鐘磬響,落日更見漁樵人。
盤剝白鴉谷口栗,飯煮青泥坊底蓴。
何為西莊王給事,柴門空閉鎖松筠?


(下し文)

(現代語訳)
わたしは、あなたのこの玉山の草堂は閑静であるかた深く愛あひている、空高くすみきった秋の爽かな気が山の色ととともに新鮮をきそっている。
また時おりやまのなかの寺でならすのか、鐘や聲のおとがひびいてひとりでにおこってくるし、日の落ちかかるときそのうえ漁師や樵人らがかえりゆくのをみることができる。
また食物についてみると、大きな皿には白鴉谷のほとりでとれた栗が皮をむいて盛りだされ、ご飯には青泥坊の堤でとれた芹がまぜて煮られている。
ここへ西どなりの王維でも居るといっそういいのだが、どうしたためか彼の別荘はいたずらに柴門が閉じられて松竹林中にかぎをおろしてある。

(訳注)
崔氏東山草堂
九月九日の重陽節に、杜甫は崔氏の藍田の別荘に招かれた。主人の崔李重(さいりじゅう)は母方の一族と見られている。藍田は華州からだと西南に60kmほどの道程なので、杜甫は馬で出かけた。


愛汝玉山草堂靜,高秋爽氣相鮮新。
愛す汝が玉山【ぎょくさん】草堂の静かなるを、高秋【こうしゅう】の爽気【そうき】 相 鮮新【せんしん】。
時有ってか自ら発す鐘磬【しょうけい】の響、落日更に見る漁樵【ぎょしょう】の人。
わたしは、あなたのこの玉山の草堂は閑静であるかた深く愛あひている、空高くすみきった秋の爽かな気が山の色ととともに新鮮をきそっている。
玉山 藍田にある山の名、即ち藍田山。昔、宝玉を産出していたのでそう呼ぶ。○高秋 天たかき秋。○爽気 さわやかな気。○相鮮新 鮮新は新鮮に同じ、あたらしくあざやか。相とは山色に関していう、山色の翠と秋気の澄碧とがたがいにその新鮮をきそうことをいう。


有時自發鐘聲響,落日更見漁樵人。
時有ってか自ら発す鐘磬【しょうけい】の響、落日更に見る漁樵【ぎょしょう】の人。
また時おりやまのなかの寺でならすのか、鐘や聲のおとがひびいてひとりでにおこってくるし、日の落ちかかるときそのうえ漁師や樵人らがかえりゆくのをみることができる。
 おこる。○鐘磬響 かね、磬磐石の音、これは附近に寺があると思われるので、近くの山の中というシチュエーションであろう。○漁樵人 魚をとる人、薪や柴をとる人。隠遁したものの総称。


盤剝白鴉谷口栗,飯煮青泥坊底蓴。
盤には剥【は】ぐ白鴉【はくあ】谷口【こくこう】の栗【りつ】、飯【はん】には煮る青泥【せいでい】坊底【ぼうてい】の蓴【じゅん】。
また食物についてみると、大きな皿には白鴉谷のほとりでとれた栗が皮をむいて盛りだされ、ご飯には青泥坊の堤でとれた芹がまぜて煮られている。
盤 大きなさら。〇 皮をむくこと。〇白鴉谷 県の東南二十里にある谷の名、栗によろしい地であるという。○青泥坊 坊は防と通ずる、「つつみ」をいう、青泥城は県南七里にあるというのからすれば防はその城の水をたくわえるつつみである。○ 沈徳潜の説に芹(きん)は十二文の韻字であるから蓴の字の誤りであろうという、芹はせり、蓴はじゅんさい。


何為西莊王給事,柴門空閉鎖松筠?
何為【なんすれ】ぞ西荘【せいそう】の王給事、柴門【さいもん】空しく閉じて松筠【しょうきん】に鎖【とざ】す。
ここへ西どなりの王維でも居るといっそういいのだが、どうしたためか彼の別荘はいたずらに柴門が閉じられて松竹林中にかぎをおろしてある。
西荘 雀氏草堂の西にある別荘。 ○王給事 王維のこと。王維は宋之間の藍田の別業を安史の乱までにすべての財産をつぎ込んで、整備し、建設した。即ち綱川荘である。粛宗が長安に還るや王維は太子中允となり、また給事中となった、このとき王維は長安にあってこの輞川荘にいなかった。 ○柴門 王維の荘の柴でつくった門。 ○鎖松筠 筠は竹の膚の青色をいうが竹そのものの義として用いる。松筠に鎖すとは松竹の林の中にとざすことをいう。


この詩もそうだし、このころの詩のほとんどに朝廷に対する不満が語られている。
このとき王維も杜甫も、朝廷に嫌気がさしていた。わけのわからない人事、宦官の台頭、軍事組織の崩壊、このころ、詩人たちは、行き場のないところに追い詰められていた。杜甫の知人の官僚、幕僚、軍人は降格か左遷されている。朝廷は体制を整えることより、権威を振りかざした。節度使の忠誠心はなく、ただ、安禄山それに変わる安慶緒、忠思明、が他より少しだけ抜けているだけで安定した力はない。したがって叛乱はこのあと5,6年治まらない。これに外敵からの挑発が盛んになされる。経済的にも律令体制が機能しなくなり、貿易でも不平等なものが多く、朝廷の財政を悪化させている。

このころまでの詩人のほとんどは高級官僚で、これらに批判的でないはずがないのだが、朝廷の無作為に対する批判勢力の配置転換、長安を奪還して以降の数年は朝廷は疑心暗鬼の塊であった。(家臣を信じないで宦官を信じる傾向にあった。)かといって、それらを文章で残すと発見されると処刑されるのである。


乾元元年の春は左拾遺として長安にあり、賈至・王維・岑參らと唱和と、詩人たちの意見交換は最高潮でした。5,6月、高適、房琯の左遷、杜甫自らも左遷、すべての詩人は、疎まれていきます。


六月、房琯の邠州刺史に貶せらるるに座し、出されて華州司功参軍となる。秋、藍田に王維を訪い、冬末、洛陽の陸渾荘に帰る。

その後、この詩の時分、王維は長安の南の終南山の別荘にいた。王維は杜甫の言う「西莊」を経営する意欲は薄らぎ、「西莊」いわゆる輞川荘は一部寺に寄贈されていた。

この詩以降、杜甫は漢を辞して隠遁したい気持ちが強くなっていく。(文献には出てこないが王維と相談して、互いに、職を辞したい胸の内を話したのではないだろうか)