憶弟二首其一 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 290
(弟を憶う 二首)
済州にあった弟を思って作る。作者は乾元元年の冬、華州より洛陽に赴いた。

 杜甫にしては珍しく平易な語句で作られている。書簡を送るのに途中の検閲にあっても問題なく通して貰えるためであろうと思う。

憶弟二首 其一(喪乱聞吾弟)759年1月。48歳



憶弟二首 其一
喪乱聞吾弟、飢寒傍済州。
人稀書不到、兵在見何由。
憶昨狂催走、無時病去憂。
即今千種恨、惟共水東流。

争乱のなかではあるが  弟の消息を聞くことができた。どうやら飢えと寒さをしのいで済州の片田舎にいるという。
行商にしても往来する人は稀で、書簡はとどいてこない。叛乱軍がいて物騒な状況が続き、どのような生活で過ごしているのか わからないし、ましてや会うことがどうしてできようか。
もう去年のことになるが きみをせき立てて我家の陸渾荘に走らせたが、それ以来、病気と身の上のことが心配事で仕方なく、片時も思わなかったことはない。
それにいま、さまざまな恨が千万で山ほどあるのであるが、時と共に「川水東へ流れてゆく」当たり前のこととなって流されるのである。


憶弟二首 其一
喪乱【そうらん】 吾【わ】が弟を聞く、飢寒【きかん】して済州【さいしゅう】に傍【そ】うと。
人稀にして書は 到らず、兵在りて何をか由【ゆえ】を見ん。
昨【さき】に憶う  狂おしく催走【さいそう】せしを、時無からん 病【やまい】の憂い去ることを。
即ち今や千種【ちぐさ】の恨みは、惟【た】だ「水は東流するもの」と共にす。



憶弟二首 其一 現代語訳と訳註
(本文)

喪乱聞吾弟、飢寒傍済州。
人稀書不到、兵在見何由。
憶昨狂催走、無時病去憂。
即今千種恨、惟共水東流。


(下し文) 憶弟二首 其一
喪乱【そうらん】 吾【わ】が弟を聞く、飢寒【きかん】して済州【さいしゅう】に傍【そ】うと。
人稀にして書は 到らず、兵在りて何をか由【ゆえ】を見ん。
昨【さき】に憶う  狂おしく催走【さいそう】せしを、時無からん 病【やまい】の憂い去ることを。
即ち今や千種【ちぐさ】の恨みは、惟【た】だ「水は東流するもの」と共にす。


(現代語訳)
争乱のなかではあるが  弟の消息を聞くことができた。どうやら飢えと寒さをしのいで済州の片田舎にいるという。
行商にしても往来する人は稀で、書簡はとどいてこない。叛乱軍がいて物騒な状況が続き、どのような生活で過ごしているのか わからないし、ましてや会うことがどうしてできようか。
もう去年のことになるが きみをせき立てて我家の陸渾荘に走らせたが、それ以来、病気と身の上のことが心配事で仕方なく、片時も思わなかったことはない。
それにいま、さまざまな恨が千万で山ほどあるのであるが、時と共に「川水東へ流れてゆく」当たり前のこととなって流されるのである。



(訳注) 弟を憶う 二首  其の一
喪乱聞吾弟、飢寒傍済州。

争乱のなかではあるが  弟の消息を聞くことができた。どうやら飢えと寒さをしのいで済州の片田舎にいるという。
済州 河南道済州済陽郡、山東省との境界あたり。


人稀書不到、兵在見何由。
行商にしても往来する人は稀でしかなく、書簡はとどいてこない。叛乱軍がいて物騒な状況が続き、どのような生活で過ごしているのか わからないし、ましてや会うことがどうしてできようか。
人稀 洛陽城は唐王朝軍によって奪還されたがこの時期になって、南放免、汴州、襄陽でも別な叛乱が起こり、東、東北方面は史思明が抑えており、北は、安慶緒が鄴城を拠点にしていた。唐王朝は洛陽、から西、北西の霊武から安西、南西の蜀方面を締めていて、叛乱軍が優勢な状況であった。夫れだけに、東部にいる弟との連絡は難しいものであった。


憶昨狂催走、無時病去憂。
もう去年のことになるが きみをせき立てて我家の陸渾荘に走らせたが、それ以来、病気名と身の上のことが心配事で仕方なく片時も思わなかったことはない。
催走 促して走る。無理やり行かせたという意味になる。


即今千種恨、惟共水東流。
それにいま、さまざまな恨が千万で山ほどあるのであるが、時と共に「川水東へ流れてゆく」当たり前のこととなって流されるのである。

水は高いところ方低いところへ下るもの、水は東に流れるものそれが当たり前のことなのだ。自然の力には従うもの、長いものには巻かれるもの。


<この詩の背景>
 弟の杜観を五か月まえに洛陽にやった。もう、十二月になるのに杜観から何の連絡もない。心配な杜甫は、休暇をとって洛陽に出かけた。
 詩は明けて759乾元二年の正月に陸渾荘に着いてから作ったもの。
 この頃は、安史軍が戦力を整えてきており、唐王朝軍は劣勢になっていた段階で、杜甫は十三歳の杜観ひとり洛陽にやったことを「狂おしくも」と表現し、後悔しているようだ。杜甫は死ぬときは一緒と思っていたようだ。
 左拾遺の時、疎外され、めまぐるしく変化していく情勢を教えてもらえなかったようだし、左遷され華州に来ても疎外は続いたようで、そのうえ、戦況も王朝軍が劣勢にあった。杜甫の目からすれば、戦力は圧倒的に王朝軍が多いのに大敗をすることが続き嫌気がしていたのだ。
 ここえ来て洛陽に危険が迫ってきた。華州に急いで帰ったのである。帰る途中で、王朝軍の欠点、欠陥が分かり、官を辞して脱出、逃亡を企てることになっていく。