杜甫 立秋後題(日月不相饒) 
立秋後題 <224>杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1088 杜甫特集700- 327
(立秋の後に題す)乾元2年 759年 48歳

759年乾元二年の夏は、陝西省一帯にひでりがつづき、田畑の災害はひどいものであった。飛ぶ鳥も暑さに落ち、池の魚も水枯れて死んだ。人民は離散し、村落は見渡すかぎり荒れはてた。しかも黄河以北は、安史軍が勝手し放題、唐王朝軍は付近の不満足な住民から徴兵し、洛陽を守ろうとしている。この姿勢は千年前の春秋戦国の戦法、歩兵戦であった。元気のいい戦力と年長者を交えた戦力であれば勝てるわけはない。杜甫は食事もすすまず、心中の憂悶は限りもなかった。



立秋後題
立秋の後に題す
日月不相饒、節序昨夜隔。
月と太陽はどちらも豊かでない昼と夜の長さが同じになる立秋になったと思えば、時節は夜が長くなる序章となってきた。
玄蝉無停号、秋燕已如客。
それでも、蜩(ひぐらし)は啼くのを止めはしない。秋になると燕はすでに南に旅に出ようとしている。
平生独往願、惆悵年半百。
ひごろから一人静かな隠棲生活を願望しているが、飢饉に戦乱、こうした嘆き悲しむことが五十年も続いている。
罷官亦由人、何事拘形役。

官を辞めるのだがその理由がまた人間関係にあるのだ、どうして参軍の事務官というものがわが身を拘束されるものであろうか。


(立秋の後に題す)
日月【じつげつ】相饒【あいゆる】さず、節序【せつじょ】   昨夜隔【へだ】たる。
玄蝉【げんせん】 号【さけ】ぶこと停【とど】むる無きも、秋燕【しゅうえん】 已【すで】に客の如し。
平生【へいぜい】 独往【どくおう】の願い、惆悵【ちゅうちょう】す年【とし】半百【はんぴゃく】。
官を罷【や】むるも亦た人に由【よ】る、何事ぞ形役【けいえき】に拘【こう】せられむ。

秦州同谷成都紀行地図

現代語訳と訳註
(本文)
立秋後題
日月不相饒、節序昨夜隔。
玄蝉無停号、秋燕已如客。
平生独往願、惆悵年半百。
罷官亦由人、何事拘形役。


(下し文)
(立秋の後に題す)
日月【じつげつ】相饒【あいゆる】さず、節序【せつじょ】   昨夜隔【へだ】たる。
玄蝉【げんせん】 号【さけ】ぶこと停【とど】むる無きも、秋燕【しゅうえん】 已【すで】に客の如し。
平生【へいぜい】 独往【どくおう】の願い、惆悵【ちゅうちょう】す年【とし】半百【はんぴゃく】。
官を罷【や】むるも亦た人に由【よ】る、何事ぞ形役【けいえき】に拘【こう】せられむ。


(現代語訳)
立秋の後に題す
月と太陽はどちらも豊かでない昼と夜の長さが同じになる立秋になったと思えば、時節は夜が長くなる序章となってきた。
それでも、蜩(ひぐらし)は啼くのを止めはしない。秋になると燕はすでに南に旅に出ようとしている。
ひごろから一人静かな隠棲生活を願望しているが、飢饉に戦乱、こうした嘆き悲しむことが五十年も続いている。
官を辞めるのだがその理由がまた人間関係にあるのだ、どうして参軍の事務官というものがわが身を拘束されるものであろうか。


(訳注)
立秋後題

立秋の後に題す
○立秋(りっしゅう)は、二十四節気の第13。七月節(旧暦6月後半 - 7月前半)。
昼夜の長短を基準にした季節区分
(各季節の中間点) - 春分・夏至・秋分・冬至
(各季節の 始期)- 立春・立夏・立秋・立冬
気温 - 小暑・大暑・処暑・小寒・大寒
気象 - 雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪
物候 - 啓蟄・清明・小満
農事 - 穀雨・芒種

日月不相饒、節序昨夜隔。
月と太陽はどちらも豊かでない昼と夜の長さが同じになる立秋になったと思えば、時節は夜が長くなる序章となってきた。
不相饒 互いにゆたか有り余るほど多いというわけではない。昼と夜の長さが同じになることをいう。夏、昼が長いと時間の経過が遅いといわれ、冬、夜の時間が長くなると日の進み方が光陰矢の如しになるという。 ○昨夜隔 夜が長くなる。


玄蝉無停号、秋燕已如客。
それでも、蜩(ひぐらし)は啼くのを止めはしない。秋になると燕はすでに南に旅に出ようとしている。
玄蝉 蜩(ひぐらし)○無停号 啼くのが止まらない。○秋燕已如客 秋になると燕はすでに南に旅に出ようとしている。


平生独往願、惆悵年半百。
ひごろから一人静かな隠棲生活を願望しているが、飢饉に戦乱、こうした嘆き悲しむことが五十年も続いている。
平生 ひごろから。○独往願、一人静かな隠棲生活を願望していること。○惆悵 嘆き悲しむこと。○年半百 五十年。

罷官亦由人、何事拘形役。
官を辞めるのだがその理由がまた人間関係にあるのだ、どうして参軍の事務官というものがわが身を拘束されるものであろうか。
罷官 官を辞める。○亦由人 その理由がまた人間関係にある。○形役 参軍の事務官というものがわが身を拘束されるものである。


(解説)
 詩は職を辞して華州を離れる直前に作られているが、辞職の理由については「官を罷むるも亦た人に由る」と一言述べているだけである。杜甫は、地位があれば仕事を中心に生きていくということではない、この詩句でみると、人間関係でなにか我慢のならないことが起きたことをうかがわせるのであるが平穏な時なら官を辞めはしない。非常のときに二か月余も任地を離れることは鳳翔の行在所から「北征」した時と、今回の司公参軍の文官であって、所用で洛陽に行き、その後は、私用で鞏県まで行ったこと、そこで共通なこととして、杜甫が官僚であるから、そこでの詩ができたものが多い。したがって、此の詩で杜甫が官を辞した問題を判断することはできない。

 ただ、司公参軍の事務官という地位は杜甫自身の生きて上で男の拘束になるものではない。つまり、房琯一派とされ、徹底した疎外感しかなかったのである。将来に掛ける希望は全くなかった。

こうして彼は759年、乾元二年秋、遂に官を棄てて、1族杜佐の寄寓しているときく秦州(甘粛省天水)に、家族をつれて移って行ったり、杜甫の政治生活というものは、その誠実な努力、大きな理想にも係わらず、結局は何らなすこともなく、社会の矛盾と、自己の無力に、絶望を感ぜずにはいられなかった。

それにしてもこれからさき、この世の中はどうなってゆくのか、そしてまた自分はこれから、どうしてゆけばよいのか、彼には分からなかった。このころの作かと思われる遣興五首という詩には、その昔の賢人たちも、時運に遇わぬときは、きっと今の自分のような心持ちであったろう、と、かの山中の処士として身を終えた後漢の龐徳公、世俗をさけた陶淵明、道士となって故郷にかえった賀知章、貧窮に死んだ孟浩然らを慕って、その人々を詩に詠っている。しかし、他方でそういうすがすがしい心境に引かれながらも、やはり世を捨てて隠居する心持ちにはなりえないのが牡浦の性格であり、またその境遇でもあった。たとえ秦州という隴西の山中にいても、その心はいつも国家の危機、社会の変動、人民の苦難に対する限りない憂愁で満ちていたのである。