寄李十二白 二十韻 杜甫 <232-#3> kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1136 杜甫特集700- 343


此の詩は759年乾元二年秋作者が秦州にあって、李白の恩赦の事を明知しなかった時に作ったものであろうと思う。詩は多く李白のために弁護を費している。


寄李十二白二十韻 #1
昔年有狂客,號爾謫仙人。
前年、四明の狂客(賀知章)で朝廷の重鎮であったものがいて、君を謫仙人だと名づけられた。
筆落驚風雨,詩成泣鬼神。
君は詩文をつくるに紙の上に筆が落ちれば風雨さえ驚くかとおもわれるほど快速であるし、詩が成就してみると鬼神さえそれに感じて泣くほどである。
聲名從此大,汩沒一朝伸。
それによって君の名声は大きくなり、これまでのへき地に埋もれて世に出ない身がにわかにのびだすことになった。
文彩承殊渥,流傳必絕倫。
そうして君の文彩は天子の特別のあつい御寵愛をうけ、世間につたえられる作物も必ず絶倫のものであった。
龍舟移棹晚,獸錦奪袍新。
あるときは天子が舟遊びをされるときわざわざ棹を留めておまちになったり、他人にくれるはずの獣錦袍をあらたに奪いかえして君にお授けになるというほどであった。

#2
白日來深殿,青雲滿後塵。
君は昼日中にも翰林院から奥御殿に出入りする、君の居る高き位のところには追随する後輩の士が充満していた。
乞歸優詔許,遇我夙心親。
それが事に由って君はお暇をいただいて故郷へかえりたいと願い出で、優詔を以てそれを許されて朝廷から下がった。それで君は自分とであうことができ、かねての心からおたがいに親しむようになった。
未負幽棲誌,兼全寵辱身。
君は官をやめたからといって幽棲の志に負くことはしないし、兼ねて故事に言う、「寵をうけて、また辱めをうけることもある」という、自分のからだをはずかしめることのなしで全うすることができた。
劇談憐野逸。嗜酒見天真,
君を慕う文人たちと激しく談義をしたし、わたしらの在野におかれた者たちを気の毒がってくれたものだった、酒を嗜んで飲むところに天真の様子が覗われたものである。
醉舞梁園夜,行歌泗水春。』
かくて我々は梁園の夜に酔うて舞うたりしたし、泗水の春には歩きながら歌ったりした。』

#3
才高心不展,道屈善無鄰。
君は知恵と才能が高いけれど心は進展してないでいる。わたしは道を十分おこない得ず善を行いながら隣りとなってくれるものがない。
處士隬衡俊。諸生原憲貧。
君は後漢の処士文才があった禰衡のごとく人にひいでたものであり、自分は孔子の弟子で儒教者の鏡である諸生「原憲の貧」といわれる清貧であるのだ。
稻粱求未足,薏苡謗何頻?
わたしは食糧さえ十分に求められていないし、。君はなんで後漢の馬援が「薏苡仁の種」を人から賄賂として真珠をもってきたといわれたように、どうして讒言によって頻りに誹りを受けるのであろうか。
五嶺炎蒸地,三危放逐臣。
君が流されたところが五嶺地方であれば蒸し暑い所で、古代帝舜の三苗のように三危山へ放逐されたことと同じょうなものなのだ。
幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。

君は幾年目に不吉な鵩鳥に出合い漢の孝文帝劉恒に仕えた賈誼のようになるのか、また、君は孔子が麟鱗を見て「吾が道窮せり」といわれたように独りで泣いているだろう。

#4
蘇武元還漢,黃公豈事秦?楚筵辭醴日,梁獄上書辰。
已用當時法,誰將此議陳?老吟秋月下,病起暮江濱。
莫怪恩波隔,乘槎與問津。』

#1
昔年 狂客有り、爾を謫仙人【たくせんにん】と号す。
筆落つれば風雨【ふうう】驚き、詩成れば鬼神【きしん】泣く。
声名 此 従【よ】り大に、汩沒【こつぼつ】一朝に伸ぶ。
文彩【ぶんさい】 殊渥【しゅあく】を承【う】く、流伝【るてん】するは必ず絶倫【ぜつりん】なり。
竜舟【りょうしゅう】棹【さお】を移すこと晩く、獣錦【じゅうきん】奪袍【だつほう】新たなり。
#2
白日【はくじつ】 深殿【しんでん】に来たる、青雲に後塵【こうじん】満つ。
帰るを乞うて優詔【ゆうしょう】許さる、我に遇うて宿心【しゅくしん】親しむ。
未だ負【そむ】かず幽棲【ゆうせい】の志に、兼ねて全うす寵辱【ちょうじょく】の身。
劇談【げきだん】野透【やいつ】を憐れむ、嗜酒【ししゅ】天真【てんしん】を見る。
酔舞【すいぶ】す梁園【りょえん】の夜、行歌【こうか】す泗水【しすい】の春。』
#3
才高くして心展べず、道屈【くつ】して善【ぜん】隣り無し。
処士【しょし】隬衡【でいこう】俊【しゅん】に、諸生【しょせい】原憲【げんけん】貧なり。
稲梁【とうりょう】求むる未だ足らず、薏苡【よくい】謗【そしり】り何ぞ頻りなる。
五嶺【ごれい】炎蒸【えんじょう】の地、三危【さんき】放逐【ほうちく】の臣。
幾年か鵩鳥【ふくちょう】に遭える、独泣【どくきゅう】麟鱗【きりん】に向こう。

#4
蘇武【そぶ】元【もと】漢に還る、黃公【こうこう】豈に秦に事【つか】えんや。
楚筵【そえん】醴【れい】を辞せし日、梁獄【りょうごく】書を上りし辰【とき】。
巳に当時の法を用う、誰か此の議を将で陳【ちん】せん。
老いて吟ず秋月の下、病起【へいき】す暮江【ぼこう】の浜【ほとり】。
怪しむ莫れ恩波【おんは】の隔たるを、槎【さ】に乗じて与【た】めに津【しん】を問わん。』


現代語訳と訳註
(本文)
#3
才高心不展,道屈善無鄰。
處士隬衡俊。諸生原憲貧。
稻粱求未足,薏苡謗何頻?
五嶺炎蒸地,三危放逐臣。
幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。


(下し文) #3
才高くして心展べず、道屈【くつ】して善【ぜん】隣り無し。
処士【しょし】隬衡【でいこう】俊【しゅん】に、諸生【しょせい】原憲【げんけん】貧なり。
稲梁【とうりょう】求むる未だ足らず、薏苡【よくい】謗【そしり】り何ぞ頻りなる。
五嶺【ごれい】炎蒸【えんじょう】の地、三危【さんき】放逐【ほうちく】の臣。
幾年か鵩鳥【ふくちょう】に遭える、独泣【どくきゅう】麟鱗【きりん】に向こう。


(現代語訳)
君は知恵と才能が高いけれど心は進展してないでいる。わたしは道を十分おこない得ず善を行いながら隣りとなってくれるものがない。
君は後漢の処士文才があった禰衡のごとく人にひいでたものであり、自分は孔子の弟子で儒教者の鏡である諸生「原憲の貧」といわれる清貧であるのだ。
わたしは食糧さえ十分に求められていないし、。君はなんで後漢の馬援が「薏苡仁の種」を人から賄賂として真珠をもってきたといわれたように、どうして讒言によって頻りに誹りを受けるのであろうか。
君が流されたところは五嶺地方であれば蒸し暑い所で、古代帝舜の三苗のように三危山へ放逐されたことと同じょうなものなのだ。
君は幾年目に不吉な鵩鳥に出合い漢の孝文帝劉恒に仕えた賈誼のようになるのか、また、君は孔子が麟鱗を見て「吾が道窮せり」といわれたように独りで泣いているだろう。


(訳注)#3
才高心不展,道屈善無鄰。

君は知恵と才能が高いけれど心は進展してないでいる。わたしは道を十分おこない得ず善を行いながら隣りとなってくれるものがない。
道屈 道の行われぬことをいう、此の句は自ずからいう。○善無隣 善道を行いながら隣をなすものがない、『論語里仁』「徳不孤、必有隣徳」(徳は孤ならず、必ず隣りあり)の反対。徳のある者は孤立することがない。必ず共鳴する人が現れるものである。 


處士隬衡俊。諸生原憲貧。
君は後漢の処士文才があった禰衡のごとく人にひいでたものであり、自分は孔子の弟子で儒教者の鏡である諸生「原憲の貧」といわれる清貧であるのだ。
処士隬衡俊 李白をいう、処士は在野の士、禰衝は後漢末の文学者。後漢の禰衡は文才があったが、曹操は彼を穀そうと思い、黄祖が性急であることを知って祖のもとに赴かせたところ、祖はついに彼を殺した。○諸生原憲貧 自ずからいう、原憲の貧とは。道にそむかぬ生活を楽しみ、貧乏を苦にしないこと。清貧。儒教者の道。


稻粱求未足,薏苡謗何頻?
わたしは食糧さえ十分に求められていないし、。君はなんで後漢の馬援が「薏苡仁の種」を人から賄賂として真珠をもってきたといわれたように、どうして讒言によって頻りに誹りを受けるのであろうか。
稲梁求未足 此の句は自ずからいう、生活に足るだけの食糧がない。○薏苡謗何頻? 薏苡仁(ヨクイニン)は、イネ科ジュズダマ属種ハトムギの種皮を除いた種子。後漢の馬援が交址を征し、薏苡仁の種を載せて帰った、人はこれを謗って、人から賄賂にもらった明珠大貝をもちきたったという、李白が讒せられるのはこれに似ている。


五嶺炎蒸地,三危放逐臣。
君が流されたところが五嶺地方であれば蒸し暑い所で、古代帝舜の三苗のように三危山へ放逐されたことと同じょうなものなのだ。
五嶺 五嶺山脈は広東の北部において東西に走っている山脈で、大庾・始安・臨賀・桂陽・掲陽のこと、李白がは流された夜郎は貴州省遵義府桐梓県西二十里(11.5km)の地である。ここで当時の流刑は、五聯山脈を越えることがほとんどであった。杜甫に正確な情報がもたらされていなかったということ。〇三危 山名、甘粛省安西州敦煌県東南二十里(11.5km)にあり、山には三峰があるので三危という、むかし舜は三苗の種族を三危に竄(投棄すること)した故事、三苗は江水(長江)と淮水(淮河)に在り、荊州で数々の乱を起した。舜が帰還して帝堯に(各々の責任を取らせ)共工を幽陵に流刑、驩兜を崇山に放逐、三苗を三危に遷す、鯀を羽山に閉じ込めることを請うた。李白の夜郎に流されるのはそれと似ている。


幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。
君は幾年目に不吉な鵩鳥に出合い漢の孝文帝劉恒に仕えた賈誼のようになるのか、また、君は孔子が麟鱗を見て「吾が道窮せり」といわれたように独りで泣いているだろう。
幾年遭鵩鳥 幾年とはいくぱく年を経は、やがての意、漢の賈誼が長沙に謫せられ三年にして鵩が飛んで合に入った、誼は傷んで「鵩賦」を作った。賈誼(前200年-前168年),西漢洛陽(今河南省洛陽市)人。由於當過長沙王太傅,故世稱賈太傅、賈生、賈長沙。漢朝著名的思想家、文學家。賈誼(賈生) 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した○独泣向麒麟 麒麟に向かって独りで泣く、「春秋」(哀公十四年)に「西に狩して麟を獲たり」といい、「公羊伝」にはそのとき孔子は「訣を反し面を拭い、涕の袍を沾して日く、吾が道窮せりと」といったと記している、李白もその道の窮まったことをなげいて泣くのである。

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