寄李十二白 二十韻 杜甫 <232-#4> kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1139 杜甫特集700- 344


此の詩は759年乾元二年秋作者が秦州にあって、李白の恩赦の事を明知しなかった時に作ったものであろうと思う。詩は多く李白のために弁護を費している。


寄李十二白二十韻 #1
昔年有狂客,號爾謫仙人。
前年、四明の狂客(賀知章)で朝廷の重鎮であったものがいて、君を謫仙人だと名づけられた。
筆落驚風雨,詩成泣鬼神。
君は詩文をつくるに紙の上に筆が落ちれば風雨さえ驚くかとおもわれるほど快速であるし、詩が成就してみると鬼神さえそれに感じて泣くほどである。
聲名從此大,汩沒一朝伸。
それによって君の名声は大きくなり、これまでのへき地に埋もれて世に出ない身がにわかにのびだすことになった。
文彩承殊渥,流傳必絕倫。
そうして君の文彩は天子の特別のあつい御寵愛をうけ、世間につたえられる作物も必ず絶倫のものであった。
龍舟移棹晚,獸錦奪袍新。

#2
白日來深殿,青雲滿後塵。
君は昼日中にも翰林院から奥御殿に出入りする、君の居る高き位のところには追随する後輩の士が充満していた。
乞歸優詔許,遇我夙心親。
それが事に由って君はお暇をいただいて故郷へかえりたいと願い出で、優詔を以てそれを許されて朝廷から下がった。それで君は自分とであうことができ、かねての心からおたがいに親しむようになった。
未負幽棲誌,兼全寵辱身。
君は官をやめたからといって幽棲の志に負くことはしないし、兼ねて故事に言う、「寵をうけて、また辱めをうけることもある」という、自分のからだをはずかしめることのなしで全うすることができた。
劇談憐野逸。嗜酒見天真,
君を慕う文人たちと激しく談義をしたし、わたしらの在野におかれた者たちを気の毒がってくれたものだった、酒を嗜んで飲むところに天真の様子が覗われたものである。
醉舞梁園夜,行歌泗水春。』
かくて我々は梁園の夜に酔うて舞うたりしたし、泗水の春には歩きながら歌ったりした。』

#3
才高心不展,道屈善無鄰。
君は知恵と才能が高いけれど心は進展してないでいる。わたしは道を十分おこない得ず善を行いながら隣りとなってくれるものがない。
處士隬衡俊。諸生原憲貧。
君は後漢の処士文才があった禰衡のごとく人にひいでたものであり、自分は孔子の弟子で儒教者の鏡である諸生「原憲の貧」といわれる清貧であるのだ。
稻粱求未足,薏苡謗何頻?
わたしは食糧さえ十分に求められていないし、。君はなんで後漢の馬援が「薏苡仁の種」を人から賄賂として真珠をもってきたといわれたように、どうして讒言によって頻りに誹りを受けるのであろうか。
五嶺炎蒸地,三危放逐臣。
君が流されたところは五嶺地方であれば蒸し暑い所で、古代帝舜の三苗のように三危山へ放逐されたことと同じょうなものなのだ。
幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。
君は幾年目に不吉な鵩鳥に出合い漢の孝文帝劉恒に仕えた賈誼のようになるのか、また、君は孔子が麟鱗を見て「吾が道窮せり」といわれたように独りで泣いているだろう。

#4
蘇武元還漢,黃公豈事秦?
漢の蘇武は匈奴へ19年間降服せず漢へ帰還した、秦の夏黄公は秦に事えず四皓として商山にかくれていた、君の潔白忠誠な心は蘇武だ、夏黄公なのだ。
楚筵辭醴日,梁獄上書辰。
穆生は楚王戊の醴を辞退した、雛陽は獄中から梁の孝王を諌める書を上奏した、君は穆生であり、雛陽なのだ、だから永王璘の無法な好遇をうけたり、謀反に加わったりしたのではないのだ。
已用當時法,誰將此議陳?
それにもかかわらず君は当時の刑法を施行されて流刑にされたのだが、誰か君がそんな男ではないという意見を陳べたてくれる者はいないのであろうか。
老吟秋月下,病起暮江濱。
君は年老いて秋月の下で詩を吟じているだろう、君は夕ぐれの長江のほとりで宿していて病みあがりのすがたをしているだろう。
莫怪恩波隔,乘槎與問津。』
君は君自身昔の栄華時代に比べてこんな僻地に居て天子の恩沢の波と隔てたところにいるということなどと不思議がることがないようにしてくれ!。わたしは故事にあるように君のために桴に乗って天の川へ行きそこで渡場を尋ねて天帝の所へ行き、君の無実を訴えてやろうと思っている。』


#1
昔年 狂客有り、爾を謫仙人【たくせんにん】と号す。
筆落つれば風雨【ふうう】驚き、詩成れば鬼神【きしん】泣く。
声名 此 従【よ】り大に、汩沒【こつぼつ】一朝に伸ぶ。
文彩【ぶんさい】 殊渥【しゅあく】を承【う】く、流伝【るてん】するは必ず絶倫【ぜつりん】なり。
竜舟【りょうしゅう】棹【さお】を移すこと晩く、獣錦【じゅうきん】奪袍【だつほう】新たなり。
#2
白日【はくじつ】 深殿【しんでん】に来たる、青雲に後塵【こうじん】満つ。
帰るを乞うて優詔【ゆうしょう】許さる、我に遇うて宿心【しゅくしん】親しむ。
未だ負【そむ】かず幽棲【ゆうせい】の志に、兼ねて全うす寵辱【ちょうじょく】の身。
劇談【げきだん】野透【やいつ】を憐れむ、嗜酒【ししゅ】天真【てんしん】を見る。
酔舞【すいぶ】す梁園【りょえん】の夜、行歌【こうか】す泗水【しすい】の春。』
#3
才高くして心展べず、道屈【くつ】して善【ぜん】隣り無し。
処士【しょし】隬衡【でいこう】俊【しゅん】に、諸生【しょせい】原憲【げんけん】貧なり。
稲梁【とうりょう】求むる未だ足らず、薏苡【よくい】謗【そしり】り何ぞ頻りなる。
五嶺【ごれい】炎蒸【えんじょう】の地、三危【さんき】放逐【ほうちく】の臣。
幾年か鵩鳥【ふくちょう】に遭える、独泣【どくきゅう】麟鱗【きりん】に向こう。
#4
蘇武【そぶ】元【もと】漢に還る、黃公【こうこう】豈に秦に事【つか】えんや。
楚筵【そえん】醴【れい】を辞せし日、梁獄【りょうごく】書を上りし辰【とき】。
巳に当時の法を用う、誰か此の議を将で陳【ちん】せん。
老いて吟ず秋月の下、病起【へいき】す暮江【ぼこう】の浜【ほとり】。
怪しむ莫れ恩波【おんは】の隔たるを、槎【さ】に乗じて与【た】めに津【しん】を問わん。』



現代語訳と訳註
(本文)
#4
蘇武元還漢,黃公豈事秦?
楚筵辭醴日,梁獄上書辰。
已用當時法,誰將此議陳?
老吟秋月下,病起暮江濱。
莫怪恩波隔,乘槎與問津。』


(下し文) #4
蘇武【そぶ】元【もと】漢に還る、黃公【こうこう】豈に秦に事【つか】えんや。
楚筵【そえん】醴【れい】を辞せし日、梁獄【りょうごく】書を上りし辰【とき】。
巳に当時の法を用う、誰か此の議を将で陳【ちん】せん。
老いて吟ず秋月の下、病起【へいき】す暮江【ぼこう】の浜【ほとり】。
怪しむ莫れ恩波【おんは】の隔たるを、槎【さ】に乗じて与【た】めに津【しん】を問わん。』


(現代語訳) #4
漢の蘇武は匈奴へ19年間降服せず漢へ帰還した、秦の夏黄公は秦に事えず四皓として商山にかくれていた、君の潔白忠誠な心は蘇武だ、夏黄公なのだ。
穆生は楚王戊の醴を辞退した、雛陽は獄中から梁の孝王を諌める書を上奏した、君は穆生であり、雛陽なのだ、だから永王璘の無法な好遇をうけたり、謀反に加わったりしたのではないのだ。
それにもかかわらず君は当時の刑法を施行されて流刑にされたのだが、誰か君がそんな男ではないという意見を陳べたてくれる者はいないのであろうか。
君は年老いて秋月の下で詩を吟じているだろう、君は夕ぐれの長江のほとりで宿していて病みあがりのすがたをしているだろう。
君は君自身昔の栄華時代に比べてこんな僻地に居て天子の恩沢の波と隔てたところにいるということなどと不思議がることがないようにしてくれ!。わたしは故事にあるように君のために桴に乗って天の川へ行きそこで渡場を尋ねて天帝の所へ行き、君の無実を訴えてやろうと思っている。』


(訳注) #4
蘇武元還漢,黃公豈事秦?

漢の蘇武は匈奴へ19年間降服せず漢へ帰還した、秦の夏黄公は秦に事えず四皓として商山にかくれていた、君の潔白忠誠な心は蘇武だ、夏黄公なのだ。
蘇武元還漢 漢の蘇武は匈奴に使いして十九年間囚われ匈奴に屈服傾降しなかったが、その後漢に還った。李白の性格が蘇武に似ていてけっして謀反を起こしたのではない。漢の武将蘇武は、匈奴にとらわれていたが、匈奴はそれを隠しすでに死んだと伝えた。漢の使者が、武帝の射た雁の足に蘇武の手紙が結ばれていたから生きているはずだと鎌をかけると、匈奴の単于はやむなく認めて蘇武を釈放した(『漢書』蘇武伝)。その故事から「雁」は手紙を届けてくれる鳥。杜甫喜聞官軍己臨賊寇二十韻』、『送楊六判官使西蕃』、『遣興』 李商隠『春雨』、『茂陵』。○黄公豈事秦 黄公は夏黄公、商山の四皓の一人、秦末の乱を避けて出なかった、李白が永王燐の敷革に従わなかったのは黄公が秦につかえなかったのと似ている。商山の四皓はもと秦の博士であったが世のみだれたのにより山にかくれて採芝の歌をつくった。その「紫芝曲」歌は四言十句あって、「曄曄紫芝,可以疗飢。皇虞邈远,余将安歸」(曄曄たる紫芝、以て飢を療す可し。唐虞往きぬ、吾は当に安にか帰すべき。)の語がある。中国秦末、国乱を避けて陝西省商山に入った、東園公・綺里季・夏黄公・甪里(ろくり)の四人の隠士。全員鬚(ひげ)や眉が真っ白の老人であった。東洋画の画題として描かれた。杜甫『題李尊師松樹障子歌』、『洗兵行』、 『收京三首 其二』、『喜晴』、『昔遊』、李白『贈從弟南平太守之遙二首』、『重憶


楚筵辭醴日,梁獄上書辰。
穆生は楚王戊の醴を辞退した、雛陽は獄中から梁の孝王を諌める書を上奏した、君は穆生であり、雛陽なのだ、だから永王璘の無法な好遇をうけたり、謀反に加わったりしたのではないのだ。
楚筵辭醴日 漢の穆生の故事、楚の元王は穆生のために醴を設けたが、王の孫の戊の時にいたって醴を設けることを忘れたため穆生はついに去った。此の句は穆生が自発的に醴を辞したということであるが、ここでは李白は永王璘の偽官を受けなかったとの意に用いたものである。杜甫『贈特進汝陽王二十韻』○梁獄上書辰 漢の雛陽が梁の孝王の為めに獄に下さされたとき、獄中より書をたてまつって彼を諌めた、ここでは李白が雛陽のごとく永王璘の悪事をいさめたことをいう。
 

已用當時法,誰將此議陳?
それにもかかわらず君は当時の刑法を施行されて流刑にされたのだが、誰か君がそんな男ではないという意見を陳べたてくれる者はいないのであろうか。
当時法 当時法とはその時の刑法をいう、至徳元年永王璘の軍が丹陽に敗れ、李白は宿松に逃げたが、掴まり潯陽の獄に繋がれ、明年乾元二載宋若思によって囚を釈かれその参謀にめされた、刑をおかしたことをいう。○此議 この詩の楚筵~梁獄二句の事実、李白は永王璘に組する者ではないとの意見をいう。


老吟秋月下,病起暮江濱。
君は年老いて秋月の下で詩を吟じているだろう、君は夕ぐれの長江のほとりで宿していて病みあがりのすがたをしているだろう。
○老吟 李白のことをいう、李白は759年乾元二年には六十一歳である。○秋月下 この詩が秋作られたことを知る。○暮江浜 江は長江、辟仲邕の「李白年譜」をみると、李白は一度、獄より出されたが、758年乾元元年永王璘に事をなしたとされたのに坐せられて夜郎に流されることとなり、759年乾元二年に途中で恩命によって白帝山で放還され、同年三月には瞿塘峡を下り、漢陽で酒癖にかかり、江夏の地に居てさらに下江した、


莫怪恩波隔,乘槎與問津。』
君は君自身昔の栄華時代に比べてこんな僻地に居て天子の恩沢の波と隔てたところにいるということなどと不思議がることがないようにしてくれ!。わたしは故事にあるように君のために桴に乗って天の川へ行きそこで渡場を尋ねて天帝の所へ行き、君の無実を訴えてやろうと思っている。』
○莫怪 白に向かっていう。○恩波隔 天子の恩沢の波からとおくはなれている。○乘槎與問津 作者の希望をのべる。むかし海辺に一人の男がすんでいた、毎年八月になると桴がやって来たが、その人はこれに乗ってついに天の河に至ったという。事は張華の「博物志」にみえる。桴に乗ってあまの河に至りその津ばを問いたいといっているのである、杜詩は其の用語を借りているけれども意は同じくない、杜は天上に至って天の河のわたりばをたずね、李白のためにその無実を訴えたいといっているのである。
「与」は俗用で「為めに」と同じ。


寄李十二白二十韻 #1
昔年有狂客,號爾謫仙人。筆落驚風雨,詩成泣鬼神。
聲名從此大,汩沒一朝伸。文彩承殊渥,流傳必絕倫。
龍舟移棹晚,獸錦奪袍新。
#2
白日來深殿,青雲滿後塵。乞歸優詔許,遇我夙心親。
未負幽棲誌,兼全寵辱身。劇談憐野逸。嗜酒見天真,
醉舞梁園夜,行歌泗水春。』
#3
才高心不展,道屈善無鄰。處士隬衡俊。諸生原憲貧。
稻粱求未足,薏苡謗何頻?五嶺炎蒸地,三危放逐臣。
幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。
#4
蘇武元還漢,黃公豈事秦?楚筵辭醴日,梁獄上書辰。
已用當時法,誰將此議陳?老吟秋月下,病起暮江濱。
莫怪恩波隔,乘槎與問津。』


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