遣興五首其二 杜甫 <236>遣興22首の⑨番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1157 杜甫特集700- 350
(興を遣る五首 其の二)


遣興五首其二(龐徳公の事を叙して、暗に自己の志す所もまた彼と同じであることをしめした。)
昔者龐德公,未曾入州府。
むかし後漢の龐德公は、鹿門山の中に薬芝を取るといって引き込んで一度も荊州や襄陽府にさえ入り込んだことがなかったのである。
襄陽耆舊間,處士節獨苦。
襄陽の名のある老人たちの間で話題にされた 「襄陽耆舊記」の問答集にでており、徳公は、独り処士を貫き、儒者としての苦しい節操を守った。
豈無濟時策?終竟畏網罟。
どうして、徳公に三国の時世を救う謀が無いわけはなかったが、結論を言うと、世へ出て罪禍の網をひっかけることに手を貸すことを憚ったのである。
林茂鳥有歸,水深魚知聚。
林が茂りゆたかになれば鳥というものはそこへ帰るというものだし、水が深くしずかであれば魚はそこへ集まるものだ、そこで安棲できることを知っているからである。徳公も鹿門山の山中がその場所だと悟っているからだ、
舉家隱鹿門,劉表焉得取。
だから一家を挙げて鹿門山にかくれてしまわれた。だから劉表だからといって徳公を取り収めることができようか。


(興を遣る五首 其の二)
昔者龐徳公【ほうとくこう】、未だ曾て州府に入らず。
嚢陽【じょうよう】耆旧【しきゅう】の間、処士【しょし】節独り苦しむ。
豈 時を済うの策なからんや、終に竟に網罟【もうこ】を茂る。
林茂れば鳥帰する有り、水深ければ魚衆まるを知る。
家を挙って鹿門に隠る、劉表焉んぞ取ることを得ん。



現代語訳と訳註
(本文)
遣興五首其二
昔者龐德公,未曾入州府。
襄陽耆舊間,處士節獨苦。
豈無濟時策?終竟畏網罟。
林茂鳥有歸,水深魚知聚。
舉家隱鹿門,劉表焉得取。

(下し文) (興を遣る五首 其の二)
昔者龐徳公【ほうとくこう】、未だ曾て州府に入らず。
嚢陽【じょうよう】耆旧【しきゅう】の間、処士【しょし】節独り苦しむ。
豈 時を済うの策なからんや、終に竟に網罟【もうこ】を茂る。
林茂れば鳥帰する有り、水深ければ魚衆まるを知る。
家を挙って鹿門に隠る、劉表焉んぞ取ることを得ん。


(現代語訳)
むかし後漢の龐德公は、鹿門山の中に薬芝を取るといって引き込んで一度も荊州や襄陽府にさえ入り込んだことがなかったのである。
襄陽の名のある老人たちの間で話題にされた 「襄陽耆舊記」の問答集にでており、徳公は、独り処士を貫き、儒者としての苦しい節操を守った。
どうして、徳公に三国の時世を救う謀が無いわけはなかったが、結論を言うと、世へ出て罪禍の網をひっかけることに手を貸すことを憚ったのである。
林が茂りゆたかになれば鳥というものはそこへ帰るというものだし、水が深くしずかであれば魚はそこへ集まるものだ、そこで安棲できることを知っているからである。徳公も鹿門山の山中がその場所だと悟っているからだ、

だから一家を挙げて鹿門山にかくれてしまわれた。だから劉表だからといって徳公を取り収めることができようか。
嚢陽一帯00

(訳注)
昔者龐德公,未曾入州府。
むかし後漢の龐德公は、鹿門山の中に薬芝を取るといって引き込んで一度も荊州や襄陽府にさえ入り込んだことがなかったのである。
龐徳公【ほうとくこう】生年不詳~没年不詳、襄陽の名士であり、人物鑑定の大家。「徳公」は字で、名は不詳。子に龐山民、孫に龐渙、従子に龐統がいる。東漢の末年、襄陽の名士である龐徳公は薬草を求めて妻を連れて山に入ってからもどらなかった。劉表からの士官への誘い、諸葛孔明からも誘われた、それを嫌って、奥地に隠遁したということと解釈している。隠遁を目指すものの憧れをいう。
 

襄陽耆舊間,處士節獨苦。
襄陽の名のある老人たちの間で話題にされた 「襄陽耆舊記」の問答集にでており、徳公は、独り処士を貫き、儒者としての苦しい節操を守った。
襄陽 湖北省襄陽府。○耆舊 「襄陽耆舊記」龐德公と劉表、諸葛孔明らと問答をまとめて書いた史書 故老。○処士 官に出で仕えぬ人。○節 節操。


豈無濟時策?終竟畏網罟。
どうして、徳公に三国の時世を救う謀が無いわけはなかったが、結論を言うと、世へ出て罪禍の網をひっかけることに手を貸すことを憚ったのである。
済時策 時世の艱難をすくうはかりごと。○網罟 ともにあみのこと、罪禍の拘束にたとえる。


林茂鳥有歸,水深魚知聚。
林が茂りゆたかになれば鳥というものはそこへ帰るというものだし、水が深くしずかであれば魚はそこへ集まるものだ、そこで安棲できることを知っているからである。徳公も鹿門山の山中がその場所だと悟っているからだ、
鳥、魚 生物が本性を遂げようとするさまをいう、龐德公も世俗のことにかかわりたくないというのである。


舉家隱鹿門,劉表焉得取。
だから一家を挙げて鹿門山にかくれてしまわれた。だから劉表だからといって徳公を取り収めることができようか。
挙家一家みんな。○鹿門 嚢陽にある山の名。○鹿門山 鹿門山は旧名を蘇嶺山という。建武年間(25~56年)、襄陽侯の習郁が山中に祠を建立し、神の出入り口を挟んで鹿の石像を二つ彫った。それを俗に「鹿門廟」と呼び、廟のあることから山の名が付けられた。○劉表 刑州刺史、その時代この地方の長官、事は上にみえる。 


昔者威徳公 未だ曾て州府に入らず
嚢陽膏旧の間 処士節独り苦しむ
豊に時を済うの策なからんや 終に寛に羅署を茂る
林茂れば鳥帰する有り 水深ければ魚衆まるを知る
家を挙って鹿門に隠る 劉表焉んぞ取ることを得ん




遣興
驥子好男兒,前年學語時:問知人客姓,誦得老夫詩。
世亂憐渠小,家貧仰母慈。鹿門攜不遂,雁足系難期。
天地軍麾滿,山河戰角悲。儻歸免相失,見日敢辭遲。
驥子はいい子だ、前年彼がやっと言葉を習い始めの時分のことである:客人の名前を質問して知ることができ、わたしの作った詩をそらで覚えて言ったたりしたのである。
この世のみだれたときであるのに彼がまだ幼少であるのは可哀相に思う、貧乏な家だからとりわけ母親の慈しみによっていることなのだ。
自分は龐徳公(ほうとくこう)の様に妻子をたずさえて鹿門山に隠遁でもしたいのだがそれはなしとげられない、蘇武が雁の足に手紙を繋いで託した様に手紙でも届けてくれる約束は難しいのだ。
天地には軍の旗が満ちあふれている、山河には戦の角声が悲しくひびいている。
もし万一、家に帰ることができて互に見失うことを免れることができ得るならば、面会の時はいくら遅くなってもかまわないというものだ。

杜甫 『遣興』 五言排律 757年46歳 長安。



孟浩然 『登鹿門山懐古』 


孟浩然は、故郷の鹿門山に自適の暮らしをし、季節の訪れも気づかず、あくせくと過ごす俗人の世界に対して、悠然と自然にとけ入った世界が歌われている。
「ぬくぬく春の眠りを貪っている」のは、宮仕えの生活を拒否した、つまり世俗の巷を低く見ている入物であり、詩人にとってあこがれの生活である。立身出世とは全く縁のない世界、悠然たる『高士』の世界である。