遣興五首其四 杜甫 <238>遣興22首の番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1163 杜甫特集700- 352


其一  ⑧
蟄龍三冬臥,老鶴萬裡心。
冬眠している竜は冬三か月じゅうじっとして寝ているが、老いた鶴ははるか万里のさきまで飛んで行こうとする心を抱いているものだ。
昔時賢俊人,未遇猶視今。
昔から賢く優れた人達がでてきた、彼らはまだ好機時運に出遭うまではやはり、ここで私が今日、現状を眺めているような気持ちでいたであろう。(冬の寒い時期に)はじっとしているもので、好機を覗って体力を温存する。)
嵇康不得死,孔明有知音。
儒者で賢俊な嵇康は鍾会の讒言で死罪となり、政党なしに肩を売ることはできなかったし、諸葛孔明は劉備の如きすべてを理解し、信頼してくれる者があって用いられたのである。
又如隴坻松,用舍在所尋。
また、これらのことから、人も喩えて見ればこの地方の有名な隴坻の急峻な坂に生えている松の樹のようなものである、この松木を家を建てるのに用うると棄てて置くとはその材を尋ねる人如何にあるということである。
大哉霜雪幹,歲久為枯林。
惜しいことにはあのように驚くべく大きな霜雪を凌ぐいで立っている松の幹であっても、いつまでも永久に棄ておかれたならば枯れ木の林になっているのである

(其の一)
蟄竜【ちつりょう】三冬に臥す、老鶴【ろうかく】は万里の心。
昔時 賢俊【けんしゅん】の人、未だ遇わざりしときは猶お今を視るがごとくなりしならん。
嵇康【けいこう】は死を得ず、孔明は知音【ちいん】有り。
又た隴坻【りょうてい】の松の如し、用舍は尋ぬる所に在り。
大なる哉 霜雪の幹、歳久しくして枯林となる。


其二  
昔者龐德公,未曾入州府。
むかし後漢の龐德公は、鹿門山の中に薬芝を取るといって引き込んで一度も荊州や襄陽府にさえ入り込んだことがなかったのである。
襄陽耆舊間,處士節獨苦。
襄陽の名のある老人たちの間で話題にされた 「襄陽耆舊記」の問答集にでており、徳公は、独り処士を貫き、儒者としての苦しい節操を守った。
豈無濟時策?終竟畏網罟。
どうして、徳公に三国の時世を救う謀が無いわけはなかったが、結論を言うと、世へ出て罪禍の網をひっかけることに手を貸すことを憚ったのである。
林茂鳥有歸,水深魚知聚。
林が茂りゆたかになれば鳥というものはそこへ帰るというものだし、水が深くしずかであれば魚はそこへ集まるものだ、
舉家隱鹿門,劉表焉得取。
そこで安棲できることを知っているからである。徳公も鹿門山の山中がその場所だと悟っているからだ、

(其の二)
昔者龐徳公【ほうとくこう】、未だ曾て州府に入らず。
嚢陽【じょうよう】耆旧【しきゅう】の間、処士【しょし】節独り苦しむ。
豈 時を済うの策なからんや、終に竟に網罟【もうこ】を茂る。
林茂れば鳥帰する有り、水深ければ魚衆まるを知る。
家を挙って鹿門に隠る、劉表焉んぞ取ることを得ん。

其三  
陶潛避俗翁,未必能達道。
東晋の陶淵明は官を辞して世俗を避けて隠遁した老翁がいる、隠者として、古今東西を通じて一般に行われるべき徳を積んでいるとはおもえない。
觀其著詩集,頗亦恨枯槁。
それは彼の作った詩集を見てみると、ただ単に落ちぶれて衰えた人というものではないか。
達生豈是足?默識蓋不早。
「荘子、達生」でいう自己を棄てようと思う者でありながら、 世を棄てられないということか、口に出さずに心中に会得するただ隠棲者としてはその生活は徳を積む悟りが早くはなかった。
有子賢與愚,何其掛懷抱?
彼の『責子』で子どものことを賢いとか、愚かだといっているのは隠者の言うことではないし、どうしてそういうことを胸にしまっておけなかったのであろうか。

(其の三)
陶潜は避俗の翁なるも、未だ必ずしも道に達する能はず。
其の著す詩集を観るに、頗る亦だ枯稿を恨む。
達生 豈に是れ足らんや、黙識 蓋し早からず。
子の賢と愚と有るも、何ぞ其れ懐抱に桂けんや。


其四  
賀公雅吳語,在位常清狂。
賀知章先生は朝廷内であっても江南語の国の方言ばかりで話しておられた。朝廷の秘書監でいる間も「四明狂客」と称され、おおらかで権力の争いには加わることのない清廉な方であった。
上疏乞骸骨,黃冠歸故鄉。
出世を願うということもしなくて辞職を願い出た。道士の黃冠を以て故郷に帰った。
爽氣不可致,斯人今則亡。
人格はさわやかな気配を漂わせており、追究することなどない。しかし、この人は今はもう亡くなっていない。
山陰一茅宇,江海日淒涼。

会稽の南に一軒の粗末な茅葺の家を建てていた、銭塘江や大海原に抱かれて日々爽やかに過ごした。


(其の四)

賀公雅に呉語し、位に在りては常に清狂たり。
上疏して骸骨を乞ひ、黄冠故郷に帰る。
爽気致すべからず、斯の人今や則ち亡し。
山陰 一茅宇、江海日に凄涼たり。


其五  
吾憐孟浩然,短褐即長夜。賦詩何必多,往往淩鮑謝。
清江空舊魚。春雨餘甘蔗。每望東南雲,令人幾悲吒。
(其の五) 
吾は憐む孟浩然、短褐長夜に即くを。
詩を賦すること何ぞ必ずしも多からんや、往往にして鮑謝を凌ぐ。
清江旧魚空しく、春雨甘蔗余る。
東南の雲を望む毎に、人をして幾たびか悲吒せしむる


現代語訳と訳註
(本文) 其の四
賀公雅吳語,在位常清狂。上疏乞骸骨,黃冠歸故鄉。
爽氣不可致,斯人今則亡。山陰一茅宇,江海日淒涼。


(下し文)
賀公雅に呉語し、位に在りては常に清狂たり。
上疏して骸骨を乞ひ、黄冠故郷に帰る。
爽気致すべからず、斯の人今や則ち亡し。
山陰一茅宇、江海日に凄涼たり。


(現代語訳)
賀知章先生は朝廷内であっても江南語の国の方言ばかりで話しておられた。朝廷の秘書監でいる間も「四明狂客」と称され、おおらかで権力の争いには加わることのない清廉な方であった。
出世を願うということもしなくて辞職を願い出た。道士の黃冠を以て故郷に帰った。
人格はさわやかな気配を漂わせており、追究することなどない。しかし、この人は今はもう亡くなっていない。
会稽の南に一軒の粗末な茅葺の家を建てていた、銭塘江や大海原に抱かれて日々爽やかに過ごした。


(訳注)
賀公雅吳語,在位常清狂。

賀知章先生は朝廷内であっても江南語の国の方言ばかりで話しておられた。朝廷の秘書監でいる間も「四明狂客」と称され、おおらかで権力の争いには加わることのない清廉な方であった。
雅呉語 飲酒ではなく、いつも方言まるだしであったこと。・清狂 四明狂客と号し、個償不輯、おおらかで権力の争いに加わることがなかった。
李白『對酒憶賀監二首 其二』
狂客歸四明。 山陰道士迎。
敕賜鏡湖水。 為君台沼榮。
人亡余故宅。 空有荷花生。
念此杳如夢。 淒然傷我情。


上疏乞骸骨,黃冠歸故鄉。
それ以上の出世を願うということもしなくて辞職を願い出た。道士の黃冠を以て故郷に帰った。
乞骸骨 主君に一身をささげて仕えた身だが、老いさらばえた骨だけは返していただきたいの意。辞職を願い出る。『晏子春秋』外篇「臣愚不能復治东阿,愿乞骸骨,避贤者之路」。・黃冠 道教指導者の發布巾。玄冠のこと。星冠、蓮花冠、五嶽冠、五老冠。


爽氣不可致,斯人今則亡。
人格はさわやかな気配を漂わせており、追究することなどない。しかし、この人は今はもう亡くなっていない。


山陰一茅宇,江海日淒涼。
会稽の南に一軒の粗末な茅葺の家を建てていた、銭塘江や大海原に抱かれて日々爽やかに過ごした。
茅宇【ぼう‐う】茅ぶきの家。また、あばら屋。茅屋。



・賀知章:659年~744年(天寶三年)盛唐の詩人。越州永興(現・浙江省蕭山県)の人。字は季真。則天武后の代に進士に及第して、国子監、秘書監などになった
○鏡湖 山陰にある湖。天宝二年、賀知章は年老いたため、官をやめ郷里に帰りたいと奏上したところ、玄宗は詔して、鏡湖剡川の地帯を賜わり、鄭重に送別した。〇台沼 高台や沼。

賀公、すなわち賀知章を追慕した作品である。賀知章は盛唐期の士人の代表ともいうべき人物であり、自ら四明狂客と号し、個償不輯、おおらかで権力の争いに加わることがなかった。その人柄は当時の多くの詩人達のあこがれであった。
杜甫『飲中八仙歌』
知章騎馬似乘船,眼花落井水底眠。
汝陽三鬥始朝天,道逢曲車口流涎,恨不移封向酒泉。』
左相日興費萬錢,飲如長鯨吸百川,銜杯樂聖稱避賢。
宗之瀟灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。
蘇晉長齋繡佛前,醉中往往愛逃禪。
李白一鬥詩百篇,長安市上酒家眠,
天子呼來不上船,自稱臣是酒中仙。
張旭三杯草聖傳,脫帽露頂王公前,揮毫落紙如雲煙。
焦遂五斗方卓然,高談雄辨驚四筵。
*赤に示すのが八仙の人々。

*賀知章のページは回鄕偶書  盛唐の詩人たち を参考。


杜甫は「飲中八仙歌」の中で、「知章騎馬似乗船、眼花落井水底眠。(知章 馬に騎ること船に乗るに似、眼花さき 井に落ち 水底に眠る。)」と、その飲酒の様子を詠じている。しかし、「遣興五首」では飲酒ではなく、いつも方言まるだしであったこと(「雅呉語」)、官吏としてきままであったこと(「在位常清狂」)、官吏として老境にいたって致仕して帰郷したこと(「乞骸骨」「帰故郷」)、道士となったこと(「黄冠」)を挙げ、彼の人生を総括するように「爽気不可致」と詠じている。「爽気」は、賀知章の人柄、そして官吏として生きた人生をも概括することばであろう。
李白『送賀賓客帰越』 
鏡湖流水漾清波、狂客帰舟逸興多。
山陰道士如相見、応写黄庭換白鵝。