遣興 杜甫 <242>遣興22首の①番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1175 杜甫特集700- 356
遣興 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 151を改定したページである。



五言排律
ふと興にふれて作った詩。やはり長安にあって驥子をおもって作ったものである。製作時、至徳二載。757年46歳 この時遣興のシリーズの先頭である。これが20首も続くとは思っていなかったのである。しかし、この先頭と20首目、21,22番目の詩にこのシリーズの「ワケ」がある。(20~21参照)


遣興 
驥子好男兒,前年學語時:
驥子はいい子だ、前年彼がやっと言葉を習い始めの時分のことである:
問知人客姓,誦得老夫詩。
客人の名前を質問して知ることができ、わたしの作った詩をそらで覚えて言ったたりしたのである。
世亂憐渠小,家貧仰母慈。
この世のみだれたときであるのに彼がまだ幼少であるのは可哀相に思う、貧乏な家だからとりわけ母親の慈しみによっていることなのだ。
鹿門攜不遂,雁足系難期。
自分は龐徳公(ほうとくこう)の様に妻子をたずさえて鹿門山に隠遁でもしたいのだがそれはなしとげられない、蘇武が雁の足に手紙を繋いで託した様に手紙でも届けてくれる約束は難しいのだ。
天地軍麾滿,山河戰角悲。
天地には軍の旗が満ちあふれている、山河には戦の角声が悲しくひびいている。
儻歸免相失,見日敢辭遲。
もし万一、家に帰ることができて互に見失うことを免れることができ得るならば、面会の時はいくら遅くなってもかまわないというものだ。

(興を遣る)①
驥子は好男兒なり,前年、語を學びし時:
問知す 人客の姓、誦し得たり 老夫の詩
世乱れて 渠が小なるを憐む 家 貧にして母の慈を仰ぐ
鹿門 携うること遂げず 雁足 繋くること期し難し
天地 軍麾 満つ 山河 戰角 悲しむ
儻くは 帰りて相失うことを免れれば 見る日敢て遅きを辞せんや


遣興 現代語訳と訳註
(本文) 遣興

驥子好男兒,前年學語時:
問知人客姓,誦得老夫詩。
世亂憐渠小,家貧仰母慈。
鹿門攜不遂,雁足系難期。
天地軍麾滿,山河戰角悲。
儻歸免相失,見日敢辭遲。

(下し文)
驥子は好男兒なり,前年、語を學びし時:
問知す 人客の姓、誦し得たり 老夫の詩
世乱れて 渠が小なるを憐む 家 貧にして母の慈を仰ぐ
鹿門 携うること遂げず 雁足 繋くること期し難し
天地 軍麾 満つ 山河 戰角 悲しむ
儻くは 帰りて相失うことを免れれば 見る日敢て遅きを辞せんや。

(現代語訳)
驥子はいい子だ、前年彼がやっと言葉を習い始めの時分のことである:客人の名前を質問して知ることができ、わたしの作った詩をそらで覚えて言ったたりしたのである。
この世のみだれたときであるのに彼がまだ幼少であるのは可哀相に思う、貧乏な家だからとりわけ母親の慈しみによっていることなのだ。
自分は龐徳公(ほうとくこう)の様に妻子をたずさえて鹿門山に隠遁でもしたいのだがそれはなしとげられない、蘇武が雁の足に手紙を繋いで託した様に手紙でも届けてくれる約束は難しいのだ。
天地には軍の旗が満ちあふれている、山河には戦の角声が悲しくひびいている。
もし万一、家に帰ることができて互に見失うことを免れることができ得るならば、面会の時はいくら遅くなってもかまわないというものだ。


(訳注)
はじめの2句の意味が次の二句にかかる。
驥子好男兒,前年學語時:
驥子はいい子だ、前年彼がやっと言葉を習い始めの時分のことである:
○学語 言語をならいおぼえること。


問知人客姓,誦得老夫詩。
客人の名前を質問して知ることができ、わたしの作った詩をそらで覚えて言ったたりしたのである。
人客 客人をいう。○老夫 作者杜甫自ずからをさす。


世亂憐渠小,家貧仰母慈。
この世のみだれたときであるのに彼がまだ幼少であるのは可哀相に思う、貧乏な家だからとりわけ母親の慈しみによっていることなのだ。
 驥子をさす。○母 驥子の母、杜甫の妻。


鹿門攜不遂,雁足系難期。
自分は龐徳公(ほうとくこう)の様に妻子をたずさえて鹿門山に隠遁でもしたいのだがそれはなしとげられない、蘇武が雁の足に手紙を繋いで託した様に手紙でも届けてくれる約束は難しいのだ。
鹿門 山の名、湖北省嚢陽府に在り、後漢の龐徳公が妻子をたずさえてこの山に登り薬を採って返らなかった、杜甫も隠遁の念があることをいう。○雁足 蘇武の故事。妻からの手紙をいう。蘇武が漢の使となって匈奴に捕えられていたとき、漢より別の使者がいって匈奴をあざむいていうのに、天子が上林中において弓を射て雁を得たところ、雁の足に帛書が繋いであった「蘇武は大沢の中にある」により蘇武の所在がわかり、救出できた。○期 約束。


天地軍麾滿,山河戰角悲。
天地には軍の旗が満ちあふれている、山河には戦の角声が悲しくひびいている。
軍麾 麾は旗のたぐい。○戦角  角はつのぶえ。


儻歸免相失,見日敢辭遲。
もし万一、家に帰ることができて互に見失うことを免れることができ得るならば、面会の時はいくら遅くなってもかまわないというものだ。
 ひょっと、万一。 〇相失 みうしなう。○見日 面会する時日。
 

 杜甫は国のゆくすえを心配すると同時に、羌村に残したまま音信不通になっている家族のことも気になる。詩題の「遣興」は湧き出る思いを吐き出すという意味で、即興的な詩で感情的なものである。
 「驥子」というのは次男宗武の幼名で、このとき五歳である。五歳で父親の詩を暗誦したりして賢いところのある次男に杜甫は注目しており、言葉を覚え始めるくらいの幼さで戦乱の世に遭遇した幼児にあわれを寄せているのだ。そして占領下、囚われの身では家族に便りを出すこともできないと述べている。



鹿門(一首。山名。鹿門山のこと。嚢陽城の東、漢水東岸にある山。峴山とともに襄陽を代表する山。『嚢陽香旧記』に「鹿門山、旧名蘇嶺山。建武中、習郁為侍中、時従光武幸黎丘、与帝通夢、見蘇嶺山神、光武嘉之、拝大鴻櫨。録其前後功、封裏陽侯、使立蘇嶺祠。刻二石鹿、爽神道口、百姓謂之鹿門廟、或呼蘇嶺山為鹿門山」とある。

後漢の逸民・䴇龐廟徳公、唐詩人の孟浩然、皮日休隠棲の地として知られる)孟浩然は四季、一日を詩にした。

曉朝 登鹿門山懐古 

真昼:澗南園即時貽皎上入  

輿黄侍御北津泛舟 

真夏: 仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 

夏日南亭懷辛大 

夕夜: 夜歸鹿門山歌 



元旦: 田家元日 

鹿門山: 田園作 

南山下與老圃期種瓜 

秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 孟浩然 

夏日辮玉法師茅齋 孟浩然

萬山潭作 


洞湖(一首。後漢の逸民・寵徳公隠棲の地。孟浩然「尋張五回夜園作」に「聞就廟徳公、移居近河湖」とあり、李白も「嘗聞鹿徳公、家住減湖水」と語っている。また、『後漢書』「逸民伝」に「鹿公者、南郡裏陽人也。居山之南、未嘗入府城」とあることから、洞湖は幌山の南にあっ たと推定される。『輿地紀勝』巻八二「嚢陽府」に「鹿徳公宅、在山南広昌里、今廃」とある)

杜甫『喜晴』  喜晴  159
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』


雁書・雁足の逸話
 果てしない空、そして、その下には目路のかぎりつづくかとみえる、
海のような湖、また湖のまわりの大密林。人かげもない。だが今、とある丸木小屋から、その湖のほとりにさまよいでた男があった。手には弓矢、頭から毛皮をかぶり、髭はぼうぼうと顔をおおう。まるで山男だ。
だが、その眼のなかには、澄んだ不屈の輝きがある。頭の上をこうこうとなきわたる音に、彼はふっと空をみあげた。
  「雁がもう渡るそうな。」
  この人、名を蘇武という。
 
 蘇武は漢の中郎将であった。武帝の天漢元年彼は使いとして、北のかた匈奴の国に赴いた。捕虜交換のためである。だが、匈奴の内紛にまきこまれて、使節団はすべて捕えられ、匈奴に降るか、それとも死ぬか、と脅かされた。そして、蘇武だけはついに降らなかったのである。彼は山腹の窖にとじこめられ、食を絶たれた。そのとき、彼は毛氈をかみ、雪をのんで飢えをしのいだという。蘇武が何日たっても死なないのを見た匈奴は、これを神かとおどろき、北海(バイカル湖)のほとりの人けもないところにやって、羊を飼わせることにした。だが与えられたのは牧羊ばかりであり、そしてこう言われたのである。
  「牧羊が子をうんだら、国に帰してやろうさ。」
 
 そこにあるのは空、森、水、きびしい冬、そして飢えだった。盗賊が彼の羊をぬすんでしまった。彼は野鼠を掘って飢えをしのいだ。それでも彼は匈奴に降ろうとはしなかった。いつかは漢に帰れる、と期待したからではない。ただ、降ろうとしなかったのだ。
 
 この荒れはてた地の果てに流されて、もう何年の歳月がたったのか、
それすらもおぼろであった。きびしい、単調な日々。しかし、ひろびろとした空を渡る雁は、蘇武にその故郷を想わせるのだ。‥‥
 
 武帝が死に、つぎの昭帝の始元六年、漢の使いが匈奴のもとに来た。
漢使は、先頃匈奴に使いしたまま消息を絶った蘇武を還してほしい、と要求した。匈奴は、蘇武はもう死んだ、この世の者ではない、と答えた。真偽を押してたしかめるすべは、漢使にはなかった。だが、その夜のことである。さきに蘇武とともに来て、ここに留まっていた常恵というものが、漢使をたずねて、なにごとか教えた。つぎの会見のとき、漢使は言った。
 
 「漢の天子が、上林苑で狩りをしておられたとき、
  一羽の雁をしとめられた。
  ところが、その雁の足には帛がつけられ、
  帛にはこう書いてあったのだ。[蘇武は大沢の中にある]と。
  蘇武が生きているのは明白だ。」
 
 匈奴の単于(酋長)は驚きの色をみせ、なにか臣下とうちあわせた。そして言った。
 
 「まえに言ったのはまちがいだった。蘇武は生きているそうだ。」
  作り話は、巧くあたった。たちまち使者がバイカル湖めざして奔り、蘇武はつれもどされた。髪もひげもことごとく白く、破れた毛皮をまとった姿は牧人と変わりなかったが、その手には、漢の使者の手形である符節をしっかりとにぎっていた。
  蘇武は国に帰ることになった。捕らえられ、北海のほとりで飢えや寒さとたたかううちに、いつか十九年がたっていた(「漢書」蘇武伝、「十八氏略」)。
 
 この故事がおこりとなって、手紙やおとずれのことを、「雁書」と言いならわすようになった。また雁札、雁信、雁帛などともいう。わが国でも古くからよく使われることばである。雁の玉章、かりの便り、かりの使い、雁の文章などとも言いならわす。
  風が立ちそめるころ、大空をこうこうと鳴きわたる雁のむれは、たしかに何かをわたしたちのもとにもたらすのだ。そして、よし手紙ではないにしても、わたしたちの心のなにかを、ともに運んでゆくのである。
わたしたちの想いはそれを追って遠くのかなたへかけてゆく。