秦州雜詩二十首 其十一 杜甫 第3部 <264> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1241 杜甫詩 700- 378


秦州雜詩二十首 第一部(其の一から其四)
秦州の概要について述べる。

秦州雜詩二十首 第二部(其の五から其八)
秦州と戰について述べる。

秦州雜詩二十首 第三部(其の九から其の十二)
秦州城内のようすや住居のことを詠っている。


乾元2年 759年 48歳
 「秦州雑詩二十首」は五言律詩の二十首に亘る連作で、官を辞して、漂浪生活の最初の寓居となった場所である。家族全員で総勢十人余りの旅に出た。
 杜甫は四十数年、士官だけを念頭にし生きてきた。自分の思いと現実のはざま、杜甫は左遷されて、約一年悩み、王維、孟雲卿、崔氏、高適、別賛上人らに相談し、出した結論であった。そこに追い込んだのは粛宗皇帝の権力闘争、戦略的思考に無知、失政、偏見であることと、相次ぐ戦争と飢饉による社会的疲労、官僚でさえ食べていけないほどの困窮、貧困が背景にある。

そして杜甫は政治的なフラストレーションを詩にしたためた。、①安禄山の叛乱は予測できたこと、②それに対する策が全くとらていなかったこと、③反乱を起こさせる数々の失政があったこと、重税のこと、府兵制の崩壊、節度使に分権していったこと、④叛乱直後圧倒的な戦力を持ちながら大敗し、陥落していったこと、などなど、これらすべてこの杜甫44・45~48歳の間、秦州での詩の前後、数年の詩から読み取れる。

当時の状況から、杜甫は安史の乱直後家族を邠州羌村に疎開させ、その後蘆子関を経て、霊武の行在所の向かおうとして安氏軍に捕縛され拘禁されたとき、そしてその中から脱出したこと、その叛乱軍の恐怖体験がトラウマになっている。その「おびえ」がそののちの行動に影響しているのである。

約200首ぐらいの詩にちりばめて①~④、反乱軍に対する怯えなどを表現している。確かに一部の師団長の叛乱から10年近く唐の全土に安穏の場所はないくらい大殺戮と略奪の数々あり、詩人は生きた心地がしなかったのである。そういった社会情勢の中、杜甫が家族を守れる手段は逃避しかなかった。最前線に赴任され守る方法も生きていく力もなくした杜甫は官を辞すよりなかった。東方、北方、南方すべて戦場、叛乱軍により、大殺戮があり、西方のみが逃避可能と考えられたのである。
 こうして秦州に逃避紀行したわけであるが、ここではまだ、官に心残りがあり、詩人として生きていく決意はしているものの葛藤している様子がうかがえる。

 秦州へ向かう杜甫の一行は、妻が杜甫より十歳下の三十八歳、長女は十三歳、長子宗文は十歳、次子宗武は七歳、次女は五歳であった。ほかに異母弟の杜占が加わっている。家族は七人、ほかに従僕が二人くらいはいたので、総勢十人の大移動だ。杜甫は馬に乗り、家財を載せた車に小さな子供を同乗させた旅である。
 隴山を越える困難の旅は七月中に秦州に到着した。五言律詩の連作「秦州雑詩二十首」は秦州作の有名な作品である。

「秦州雑詩」二十首は、四首ずつの五部構成になっているので、それに合わせページを変更することとする。全体を通せば、この秦州の地が詩人として、あるいは隠棲生活者として生きられるところではなく別の場所に向かわせることになるということを秦州での思いとしてつづったものである。



秦州雑詩二十首 其九
(秦州の駅亭付近の風景と戰の前線基地であることへの思いを詠った作。)
今日明人眼,臨池好驛亭。
今日になって人としての本来の見る眼になったようだ、景色のよい駅亨のさまを向こうの池から臨んで見たのである。
叢篁低地碧,高柳半天青。
そのそばには、竹やぶが地面にひくくたれて碧に立っており、この青い空の中ほどに届くかのように高い柳が青く繁っている。
稠疊多幽事,喧呼閱使星。
一人静かによい風景に関する事柄を確認したり、認識したりしてみるとそのほかくさぐさの風景がここにはあるが、しかしそこに興ざめであるところの吐蕃へ行く和平交渉、あるいは恫喝のための使者が議論して怒鳴り合いをしている。
老夫如有此,不異在郊垌。
年老いてきた士太夫のわたしがこのような景色の中にいるということで示されるように、林外の別荘に居るように静かにながめていようとおもうのに戦に行く人たちによりそれとは違ったものになってしまう。

秦州雑詩二十首 其十
(秦州の雨の景事を叙しながら、同時に前線基地であることを述べる。)
雲氣接昆侖,涔涔塞雨繁。
雨空を見上げると靄は雲とつながり崑崙山の方まで覆われている、秦州の雨はざ塞にもざあざあ降りつづく。
羌童看渭水,使節向河源。
あちらでは、異民族の子供らは雨にはしゃぎ渭水の水嵩を心配してみている、こちらでは唐王朝の使者は吐蕃と黄河の水源である地方で局地戦をしているところへ兵士を向かわせようとしている。
煙火軍中幕,牛羊嶺上村。
こちらでは炊煙がただよう軍中の幕営があり、あちらには嶺上の村に牛や羊が放たれている。
所居秋草靜,正閉小蓬門。
そして私の住んでいる処はというと秋の草が静かに生えていて、まさに今、よもぎのしげっている家の小さな柴門を閉じたところである。
雲気【うんき】  崑崙【こんろん】に椄し、涔涔【しんしん】として塞雨【さいう】繁【しげ】し。
羌童【きょうどう】 渭水【いすい】を看、使客【しかく】  河源【かげん】に向かう。
煙火【えんか】 軍中の幕【ばく】、牛羊【ぎゅうよう】 嶺上【れいじょう】の村。
居【お】る所  秋草【しゅうそう】静かなり、正【まさ】に閉ず小蓬門【しょうほうもん】。

秦州雑詩二十首 其十一
(秋雨の中に東方も西方も乱がおさまらず、西方の基地である秦州にいることに嫌気を示し作る。)
蕭蕭古塞冷,漠漠秋雲低。
しめやかにしずかな古くからある塞が秋のつめたさのなかにある、秋の長あめの雲がはるかに広く低くたれおおいつくしている。
黃鵠翅垂雨,蒼鷹饑啄泥。
せっかく黄鵠の故事のように愛娘を嫁がせて兩都を奪還したのに今やその一つである洛陽を奪われそうでまるで雨中にそのつばさを垂れて飛ぶ勢いがなくなってしまったのだろうか、あるいは後燕の慕容垂の故事のように蒼鷹が餓えて泥のなかの餌をあさっているというのか。
薊門誰自北,漢將獨徵西。
このときだれなのか薊門の方面の北から南進せんとするものは、それはせっかく謀反の矛を収めていた史思明が薊門の戦いからふたたび安慶緒を鄴城で助け洛陽に攻め入ってふたたび安史軍とし南下しているのである。漢将である郭子儀は最も大切な東伐をしないで独りこのような西にむかって吐蕃などを征するというのか。
不意書生耳,臨衰厭鼓鼙。
私のような一介の詩人ごときの耳に、そのうえ老衰にさしかかっているものに戰の太鼓の音が入ってくる。戦のない地をもとめ官を棄てたものに聞きあき、厭になることなのである。
蕭蕭【しょうしょう】として古塞【こさい】冷かに、漠漠【ばくばく】として秋雲【しゅううん】低【た】る。
黄鵠【こうこく】は翅【つばさ】を雨に垂れ、蒼鷹【そうよう】は饑【う】えて泥【でい】に啄【ついば】む。
薊門【けいもん】誰か北よりする、漢将  独り西を征す。
不意【おも】にして  書生【しょせい】の耳、衰【すい】に臨みて 鼓鞞【こへい】に厭【いこ】うとは。
 
12  山頭南郭寺,水號北流泉。老樹空庭得,清渠一邑傳。
   秋花危石底,晚景臥鐘邊。俯仰悲身世,溪風為颯然。



現代語訳と訳註
(本文)

秦州雑詩二十首 其十一
蕭蕭古塞冷、漠漠秋雲低。
黄鵠翅垂雨、蒼鷹饑啄泥。
薊門誰自北、漢将独征西。
不意書生耳、臨衰厭鼓鞞。


(下し文)
蕭蕭【しょうしょう】として古塞【こさい】冷かに、漠漠【ばくばく】として秋雲【しゅううん】低【た】る。
黄鵠【こうこく】は翅【つばさ】を雨に垂れ、蒼鷹【そうよう】は饑【う】えて泥【でい】に啄【ついば】む。
薊門【けいもん】誰か北よりする、漢将  独り西を征す。
不意【おも】にして  書生【しょせい】の耳、衰【すい】に臨みて 鼓鞞【こへい】に厭【いこ】うとは。


(現代語訳) 秦州雑詩二十首 其十一
(秋雨の中に東方も西方も乱がおさまらず、西方の基地である秦州にいることに嫌気を示し作る。)

しめやかにしずかな古くからある塞が秋のつめたさのなかにある、秋の長あめの雲がはるかに広く低くたれおおいつくしている。
せっかく黄鵠の故事のように愛娘を嫁がせて兩都を奪還したのに今やその一つである洛陽を奪われそうでまるで雨中にそのつばさを垂れて飛ぶ勢いがなくなってしまったのだろうか、あるいは後燕の慕容垂の故事のように蒼鷹が餓えて泥のなかの餌をあさっているというのか。
このときだれなのか薊門の方面の北から南進せんとするものは、それはせっかく謀反の矛を収めていた史思明が薊門の戦いからふたたび安慶緒を鄴城で助け洛陽に攻め入ってふたたび安史軍とし南下しているのである。漢将である郭子儀は最も大切な東伐をしないで独りこのような西にむかって吐蕃などを征するというのか。
私のような一介の詩人ごときの耳に、そのうえ老衰にさしかかっているものに戰の太鼓の音が入ってくる。戦のない地をもとめ官を棄てたものに聞きあき、厭になることなのである。


(訳注)
秦州雑詩二十首 其十一
(秋雨の中に東方も西方も乱がおさまらず、西方の基地である秦州にいることに嫌気を示し作る。)

蕭蕭古塞冷、漠漠秋雲低。
しめやかにしずかな古くからある塞が秋のつめたさのなかにある、秋の長あめの雲がはるかに広く低くたれおおいつくしている。
蕭蕭 ・しめやかにしずかなさま。杜甫『兵車行』「車轔轔,馬蕭蕭,行人弓箭各在腰。」・すっかりととのっている整斉なるさま。杜甫『喜晴』 「皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。」・風の吹く音。杜甫『羌村三首 其二』「蕭蕭北風勁、撫事煎百慮。」○古塞 ふるくからあるとりで、秦州の関塞をさす。○漠漠 はるか広く平かなさま。 杜甫『元都壇歌寄元逸人』「屋前太古元都壇,青石漠漠常風寒。」


黄鵠翅垂雨、蒼鷹饑啄泥。
せっかく黄鵠の故事のように愛娘を嫁がせて兩都を奪還したのに今やその一つである洛陽を奪われそうでまるで雨中にそのつばさを垂れて飛ぶ勢いがなくなってしまったのだろうか、あるいは後燕の慕容垂の故事のように蒼鷹が餓えて泥のなかの餌をあさっているというのか。
黄鵠:おおとりの名。前漢の昆莫の故事がある、漢の武帝の元封中に、匈奴、大宛国を抑えるため、江東王建の娘の細君を公主にして、西域の鳥孫国を建国した昆莫に妻わせた、昆莫は時老人であり、またことぱも通じず、公主は悲しんで歌を作ったが、その中に「願わくは黄鵠と為りて故郷に帰らん」の句がある。事実は唐より回紇ヘ女を嫁にやったことをいう、756年乾元元年七月、粛宗はその幼女寧国公主を回紇可汗に妻わせた、可汗は公主を可敦(回紇の皇后)とし、三千騎を唐の二都奪還のための援軍とした。

本ブログ、杜甫『黄河二首』に概要概説がある。これが成功し、安慶緒を鄴城に追い詰めることができたのだ。

留花門 #2 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1007 杜甫特集700- 300に詳しい。〇麹垂雨 垂れるものはつばさである。〇蒼鷹 慕容垂の故事、垂は鷹のごとく餓えれば人に附き、飽けば高く飛びさるといわれた。士卒の勇悍にして鷹の餓えて人につき用を為すごとくであることをいう。
杜甫『觀安西兵過赴關中待命二首 其一』四鎮富精銳,摧鋒皆絕倫。還聞獻士卒,足以靜風塵。老馬夜知道,蒼鷹饑著人。」
慕容垂. 326年生まれ、396年没。後燕の創建者。前燕王慕容皝(こう)の第5子。宇文部を滅ぼし桓温(かんおん)を破るなど勲功があり前燕宗室の中心をなしたが,実力者慕容評に忌まれて前秦に亡命,苻堅に信任された。淝水(ひすい)の敗戦(淝水の戦)には苻堅を助けて帰還したが,これを機に燕の再興を図り,滎陽(けいよう)に自立して燕王を称し,ついで386年(建興1)中山を首都に帝号を称した。さらに同族の建てた西燕を滅ぼし,前燕復興の志が成るかとみえたが,北魏征討の途中病没した。

觀安西兵過赴關中待命 二首 其一 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 272

黄鵠 : 蒼鷹  、翅垂 : 饑啄 、雨 :

*同じ品詞を同じ位置に配置する修辞により、一層の強調がなされる。


薊門誰自北、漢将独征西。
このときだれなのか薊門の方面の北から南進せんとするものは、それはせっかく謀反の矛を収めていた史思明が薊門の戦いからふたたび安慶緒を鄴城で助け洛陽に攻め入ってふたたび安史軍とし南下しているのである。漢将である郭子儀は最も大切な東伐をしないで独りこのような西にむかって吐蕃などを征するというのか。
薊門 関名、河北省順天府薊州、安禄山の興った地、時に薊門の戦いで史思明の叛乱軍は鄴城の安慶緒を援護、九節度軍を大敗させた【759年三月三日】。尚お盛んであった。〇自北 自然景色が北に去るということで南進することをいう。杜甫は形勢が不利だとはわかってはいるが、この詩の段階で洛陽陥落は知らない。○漢将 唐の将軍郭子儀をいう。○征西 吐蕃の方を征伐する。

薊門 : 漢将  、誰 : 、自北 : 征西

*同じ品詞を同じ位置に配置する修辞により、一層の強調がなされる。



不意書生耳、臨衰厭鼓鞞。
私のような一介の詩人ごときの耳に、そのうえ老衰にさしかかっているものに戰の太鼓の音が入ってくる。戦のない地をもとめ官を棄てたものに聞きあき、厭になることなのである。
不意 意外なことに。○書生 官を辞し、一介の詩人となった自己をさす。○臨衰 老衰になりかかって。○ 飽くこと。結局「いやになる」の意。ここを去ることにつながる○鼓稗 たいこ、こつづみ、軍中で行進の際用いる所のもの。


蕭蕭【しょうしょう】として古塞【こさい】冷かに、漠漠【ばくばく】として秋雲【しゅううん】低【た】る。
黄鵠【こうこく】は翅【つばさ】を雨に垂れ、蒼鷹【そうよう】は饑【う】えて泥【でい】に啄【ついば】む。
薊門【けいもん】誰か北よりする、漢将  独り西を征す。
不意【おも】にして  書生【しょせい】の耳、衰【すい】に臨みて 鼓鞞【こへい】に厭【いこ】うとは。


現代読み
古い砦はものさびしく冷え、秋の雲は 低く果てなく広がる。
黄鵠は雨に濡れた翼を垂れ、鷹は飢えて泥中に餌をついばむ。
薊門を出て南進するのは誰か、漢の将軍はひたすら西を征するだけ。
自分のような書生の耳、老衰に臨しているのに兵鼓の音に聞き飽き嫌気になる。


 
蕭蕭古塞冷、漠漠秋雲低。
黄鵠翅垂雨、蒼鷹饑啄泥。
薊門誰自北、漢将独征西。
不意書生耳、臨衰厭鼓鞞。