秦州雜詩二十首 其十三 杜甫 第4部 <266> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1247 杜甫詩 700- 380


秦州雜詩二十首 第一部(其の一から其四)
秦州の概要について述べる

秦州雜詩二十首 第二部(其の五から其八)
秦州と戰について述べる。

秦州雜詩二十首 第三部(其の九から其の十二)
秦州城内のようすや住居のことを詠っている。

秦州雜詩二十首 第四部(其の十三から其の十六)
隠棲の場所として東柯谷、仇池山、西枝村の西谷を候補にする。

 秦州へ向かう杜甫の一行は、妻が杜甫より十歳下の三十八歳、長女は十三歳、長子宗文は十歳、次子宗武は七歳、次女は五歳であった。ほかに異母弟の杜占が加わっている。家族は七人、ほかに従僕が二人くらいはいたので、総勢十人の大移動だ。杜甫は馬に乗り、家財を載せた車に小さな子供を同乗させた旅である。
 隴山を越える困難の旅は七月中に秦州に到着した。五言律詩の連作「秦州雑詩二十首」は秦州作の有名な作品である。


杜甫が秦州路を通った頃は、安史の乱の後期であり、幹線はさびれたものになっていた。それでも西域防衛上重要なこの幹線は、一旦国境で事が起これば、次々と烽火が長安まで伝えられるほどの秩序は十分に保たれていた。

 三年前の夏、長安陥落を前に関東一円がパニック状態に陥り、杜甫はそれまで家族をあずけていた白水県から北に逃げ、彭衙、華原、三川を経て鄜州に避難したのだがそれは自京赴奉先縣詠懷五百字』、『白水崔少府十九翁高齋三十韻』、『三川觀水漲二十韻 杜甫 』、『_送重表姪王砅評事使南海_、『彭衙行』、『塞盧子』、などに詳しく述べられている。今回はその時のような戦乱からの避難民的な旅ではなかった。また秦州には結局足かけ三ヶ月ほどしか滞在せず、秦州から同谷へ、さらに同谷から成都へと南下していくのだが、今回の秦州入りは、その時のような厳しい寒さの時候に険しい山道を上り下りする難儀な旅でもなかった。概して杜甫の一行は比較的良き時節にあまり大きな事件もなく、ひと月もかからずに秦州に到着できたに違いない。

 華州司功参軍を辞めようと決心している、心の動きが読み取れる詩が不歸、『獨立』、『重題鄭氏東亭』、『夏日嘆』、『夏夜嘆』、『立秋後題』、であり、特に「立秋の後に題す」と題されて秋に入るころで、秦州で作られた詩はみな秋であり、洛陽から帰り、空白の期間がないまま秦州に旅立ったのである。それは華州に来て洛陽に用足しに出て華州に帰るまでの詩の中に杜甫がその歓にどこに行けばよいのか、ぐずぐずしているとまた戦火にまみえることになるという恐怖感で秦州に迎い、結果的には間一髪の逃避行であった。そのためか、華州から秦州への紀行詩がないのは急いでいたからということであろう。また杜甫には隴山越えを思い起こした「遅迴(ためら)いつつ隴を度(わた)りて怯ゆ」秦州雜詩二十首其一や「昨には隴坂を踰(こ)えしを憶う」『青陽峽』などの句はあるが、秦州紀行を詠じた詩篇が無い(残されていない)のである。

 杜甫がなぜ秦州を選んだのか、その理由もいろいろな憶測がなされている。秦州が成都へ入るための単なる通過点に過ぎなかったと言う説があるが、それは事実と最も異なる。なぜなら秦州に到着した杜甫は、多くの詩中、当地で隠遁することへの願いを述べ、実際にいくつかの隠遁の候補地を真剣に探し歩いたからである。むしろ隠遁への願望は秦州雜詩二十首 第四部の一つのモチーフになっている。

華州司功参軍を辞めたとき、故郷の洛陽へ帰るという選択肢は最初から彼の念頭にはなかった。故郷の洛陽は、758年冬から春にかけての時期、華州司功参軍の在任中に一度帰省した。その時洛陽は一年前に反乱軍の手中から回復されてはいたものの、乱後の故郷は見る影もなくさびれていた。故居の陸渾荘に帰り着いて得た感慨は、「他郷は故郷に勝る」得舎弟消息憶弟二首 其一 憶 弟 二首 其二という厳しいものだった。


 それに何よりも洛陽周辺をめぐる情勢は杜甫をしてこの地を隠棲地とすることにはまったくならなかった。杜甫が洛陽から長安へ戻る途中、郭子儀ら九節度使の連合軍が相州(鄴城)包囲戦で大敗したが、そのとき洛陽の住民は驚き慌て、散り散りに山谷に逃げ込んだ。また、破れて本鎮へ帰還する各節度使の士卒たちは、通過する村々を略奪し、役人もしばらくの期間は阻止できなかったという(『資治通鑑』巻二二一、乾元二(759)年三月「東京士民驚駭、散奔山谷。……諸節度各潰歸本鎮。士卒所過剽掠、吏不能止、旬日方定。」)。だからこの時杜甫の帰京がもう少し遅れていたら、きっと彼もその混乱に巻き込まれていた。


 また勢力を盛り返して自ら大燕皇帝と称した史思明が、南下して洛陽に迫る勢いとなったとき、洛陽の官僚たちは西して関内に避難させられ、住民たちも賊軍を避けて城外に出され、洛陽城を空にする策が取られた。だから史思明が洛陽に入城したとき、城内は空っぽで何も得るものがなかったという(『資治通鑑』巻二二一、乾元二(759)年九月「思明乘勝西攻鄭州、光弼整衆徐行、至洛陽、……遂移牒留守韋陟使帥東京官屬西入關、牒河南尹李若幽使帥吏民出城避賊、空其城。……庚寅、思明入洛陽、城空、無所得、畏光弼掎其後、不敢入宮、退屯白馬寺南……。」)。洛陽でこの騒動があった時、杜甫はもう秦州に滞在しており、その翌月にはさらに同谷に向かおうとしていたのである。だから洛陽周辺のこの混乱した危険な情勢を見る限り、司功参軍を辞めた時点で、杜甫が故郷の洛陽を選択するということは全く無かったということである。

 第四部になって、いよいよ杜甫は、隠棲するのにいい場所を見つけたようだ。東柯谷である。


13 秦州雜詩二十首 其十三 杜甫
(他人に尋ねて東桶谷の幽勝地であることをのべた。)
傳道東柯谷,深藏數十家。
人々から伝え聞いたのは東河谷というところのことだ、まず、そこは谷間に数十戸の家が蔵されているという。
對門藤蓋瓦,映竹水穿沙。
門前に生えている藤がのびて屋根瓦にまで達し、蓋をしたようになる、水辺の竹林の碧が映り、水が射しこむ砂浜があり、清い水が流れている。
瘦地翻宜粟,陽坡可種瓜。
土地はやせているが却って粟がよくそだつので都合よいというものだ、日あたりの岡には瓜を種えることもできるとのことである。
船人近相報,但恐失桃花。
これほどに私の隠棲の場所としてよさそうであるが、船頭(姪杜佐)が近寄ってきて報せてくれたことがある、それは「早くあんないい場所に隠棲地と定めないと、桃源郷の花のようにすぐに無くしてしまう」ということである。
伝道【でんどう】す東柯谷【とうかこく】、「深く蔵【ぞう】す数十家。
門に対して 藤 瓦を蓋【おお】い、竹に映じて 水 沙【すな】を穿【うが】つ。
痩地【そうち】  翻【かえ】って粟【あわ】に宜【よろ】しく、陽坡【ようひ】  瓜を種【う】う可し」と。
船人【せんじん】  近【ちかづ)きて 相 報ず、「但【た】だ恐る桃花【とうか】を失せんか」と

 
14 萬古仇池穴,潛通小有天。神魚今不見,福地語真傳。
 近接西南境,長懷十九泉。何當一茅屋,送老白雲邊。
 
15 未暇泛蒼海,悠悠兵馬間。塞門風落木,客舍雨連山。
 阮籍行多興,龐公隱不還。東柯遂疏懶,休鑷鬢毛斑。
 
16 東柯好崖谷,不與眾峰群。落日邀雙鳥,晴天卷片雲。
 野人矜險絕,水竹會平分。采藥吾將老,兒童未遣聞。

杜甫 体系 地図458華州から秦州

現代語訳と訳註
(本文)

秦州雑詩二十首 其十三 
伝道東柯谷、深蔵数十家。
対門藤蓋瓦、映竹水穿沙。
痩地翻宜粟、陽坡可種瓜。
船人近相報、但恐失桃花。

(下し文)
伝道【でんどう】す東柯谷【とうかこく】、「深く蔵【ぞう】す数十家。
門に対して 藤 瓦を蓋【おお】い、竹に映じて 水 沙【すな】を穿【うが】つ。
痩地【そうち】  翻【かえ】って粟【あわ】に宜【よろ】しく、陽坡【ようひ】  瓜を種【う】う可し」と。
船人【せんじん】  近【ちかづ)きて 相 報ず、「但【た】だ恐る桃花【とうか】を失せんか」と


(現代語訳)
(他人に尋ねて東桶谷の幽勝地であることをのべた。)
人々から伝え聞いたのは東河谷というところのことだ、まず、そこは谷間に数十戸の家が蔵されているという。
門前に生えている藤がのびて屋根瓦にまで達し、蓋をしたようになる、水辺の竹林の碧が映り、水が射しこむ砂浜があり、清い水が流れている。
土地はやせているが却って粟がよくそだつので都合よいというものだ、日あたりの岡には瓜を種えることもできるとのことである。
これほどに私の隠棲の場所としてよさそうであるが、船頭(姪杜佐)が近寄ってきて報せてくれたことがある、それは「早くあんないい場所に隠棲地と定めないと、桃源郷の花のようにすぐに無くしてしまう」ということである。


(訳注)
秦州雑詩二十首 其十三 

(他人に尋ねて東桶谷の幽勝地であることをのべた。)


伝道東柯谷、深蔵数十家。
人々から伝え聞いたのは東河谷というところのことだ、まず、そこは谷間に数十戸の家が蔵されているという。
伝道 一般人が伝えいう。○東柯谷 秦州の東南五十里にある谷の名、杜甫が秦州での隠棲のよりどころとした一人、甥の杜佐はその近くに住んでいた。


対門藤蓋瓦、映竹水穿沙。
門前に生えている藤がのびて屋根瓦にまで達し、蓋をしたようになる、水辺の竹林の碧が映り、水が射しこむ砂浜があり、清い水が流れている。
対門 門のむかいに生えていること。○水穿沙 沙洲などとおりぬけて水がながれる。


痩地翻宜粟、陽坡可種瓜。
土地はやせているが却って粟がよくそだつので都合よいというものだ、日あたりの岡には瓜を種えることもできるとのことである。
陽坡 目あたりのよい坂地。南向きの斜面。そこでは瓜がとれるという。○陽坡 目あたりのよい坂地。南向きの斜面。そこでは瓜がとれるという。元の王禎『農書』はこの部分を引いて「種うるは陽地に宜し、暖ければ則ち長じ易し。杜詩の所謂『陽坡可種瓜』とは、これなり」(百穀譜集之三・蓏屬・甜瓜)という。同書によれば瓜類は用途によって、果物としての「果瓜」と野菜としての「菜瓜」に大別できるというが、杜甫が話題にしている東柯谷の瓜を、王禎は「果瓜」の類と考えていたようである。それに対して明の徐光啓は、王禎のその部分を『農政全書』巻二七、樹藝、蓏部、白瓜の条で引く。ということは、杜甫の瓜を白瓜(越瓜=冬瓜)、すなわち「菜瓜」の類と見なしていたことになる。このように、杜甫の言う瓜は果物類か野菜類か截然としない面もあるが、いずれにせよ東柯谷の斜面では瓜も作れるということで、農業の方面から隠遁地としての条件を備えていることを杜甫は確認しようとしている。
 もともと瓜を植えるという行為には、無位無官となった召平が瓜を植えて生計を立てたという「東門の瓜」故事喜晴  157があるように、隠遁を連想しやすい。だから杜甫がここで瓜を持ち出してきていることで、この詩にはいっそう隠遁的雰囲気がかもしだされている。
また、
李白『古風其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」 ・種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。
東陵の瓜 召平は、広陵の人である。世襲の秦の東陵侯であった。秦末期、陳渉呉広に呼応して東陵の街を斬り従えようとしたが失敗した。後すぐに陳渉が敗死し、秦軍の脅威に脅かされた。長江の対岸の項梁勢力に目をつけ、陳渉の使者に成り済まし項梁を楚の上柱国に任命すると偽り、項梁を秦討伐に引きずり出した。後しばらくしてあっさり引退し平民となり、瓜を作って悠々と暮らしていた。貧困ではあったが苦にする様子も無く、実った瓜を近所の農夫に分けたりしていた。その瓜は特別旨かったので人々は『東陵瓜』と呼んだ。召平は、かつて秦政府から東陵侯の爵位を貰っていたからである。後、彼は漢丞相の蕭何の相談役となり、適切な助言・計略を蕭何に与えた。蕭何は、何度も彼のあばら家を訪ねたという。蕭何が蒲団の上で死ねたのも彼のおかげである。


船人近相報、但恐失桃花。
これほどに私の隠棲の場所としてよさそうであるが、船頭(姪杜佐)が近寄ってきて報せてくれたことがある、それは「早くあんないい場所に隠棲地と定めないと、桃源郷の花のようにすぐに無くしてしまう」ということである。
○船人 せんどう。○但恐 此の一句は船人の語。○失桃花 桃花は桃花のある地の意で武陵桃源の仙郷の意に用いる、今は秋で実際の桃花は無い、此の語は船頭が早くこの村に隠棲、住居せよとすすめるのであり、作者は卜居に心を労したものと思われる。桃花源の故事にもとづけば、船人は桃花源を発見した人であり、実際に桃花源に滞在し村人の接待を受け桃花源の生活を体験できた人である。その点に着目すれば、杜甫にとって桃花源すなわち東柯谷への案内者は、杜佐ということになる。

杜甫 体系 地図459同谷紀行

伝え聞く東柯谷は、谷間の奥に数十戸の家がある。門傍の藤は瓦を蓋って伸び、竹林の緑は水に映えて砂洲に揺れる。痩せた土地は粟を育てるのに適し、日当たりの土手に瓜も植えられる。船頭が 近ずいてきて報せてくれた、「はやく住まないと桃源郷の花をなくしますよ」と
秦州雑詩二十首 其十三 
伝道東柯谷、深蔵数十家。
対門藤蓋瓦、映竹水穿沙。
痩地翻宜粟、陽坡可種瓜。
船人近相報、但恐失桃花。
伝道【でんどう】す東柯谷【とうかこく】、「深く蔵【ぞう】す数十家。
門に対して 藤 瓦を蓋【おお】い、竹に映じて 水 沙【すな】を穿【うが】つ。
痩地【そうち】  翻【かえ】って粟【あわ】に宜【よろ】しく、陽坡【ようひ】  瓜を種【う】う可し」と。
船人【せんじん】  近【ちかづ)きて 相 報ず、「但【た】だ恐る桃花【とうか】を失せんか」と。