秦州雜詩二十首 其十五 杜甫 第4部 <268> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1253 杜甫詩 700- 382


秦州雜詩二十首 第一部(其の一から其四)
●秦州の概要について述べる。


秦州雜詩二十首 第二部(其の五から其八)
●秦州と戰について述べる。


秦州雜詩二十首 第三部(其の九から其の十二)
●秦州城内のようすや住居のことを詠っている。

秦州雜詩二十首 第四部(其の十三から其の十六)
●隠棲の場所として東柯谷、仇池山の洞穴、西枝村の西谷を候補にする。

いよいよ杜甫は、隠棲するのにいい場所を見つけたようだ。東柯谷である。


13 秦州雜詩二十首 其十三 杜甫
(他人に尋ねて東桶谷の幽勝地であることをのべた。)
傳道東柯谷,深藏數十家。
人々から伝え聞いたのは東河谷というところのことだ、まず、そこは谷間に数十戸の家が蔵されているという。
對門藤蓋瓦,映竹水穿沙。
門前に生えている藤がのびて屋根瓦にまで達し、蓋をしたようになる、水辺の竹林の碧が映り、水が射しこむ砂浜があり、清い水が流れている。
瘦地翻宜粟,陽坡可種瓜。
土地はやせているが却って粟がよくそだつので都合よいというものだ、日あたりの岡には瓜を種えることもできるとのことである。
船人近相報,但恐失桃花。

これほどに私の隠棲の場所としてよさそうであるが、船頭(姪杜佐)が近寄ってきて報せてくれたことがある、それは「早くあんないい場所に隠棲地と定めないと、桃源郷の花のようにすぐに無くしてしまう」ということである。
伝道【でんどう】す東柯谷【とうかこく】、「深く蔵【ぞう】す数十家。
門に対して 藤 瓦を蓋【おお】い、竹に映じて 水 沙【すな】を穿【うが】つ。
痩地【そうち】  翻【かえ】って粟【あわ】に宜【よろ】しく、陽坡【ようひ】  瓜を種【う】う可し」と。
船人【せんじん】  近【ちかづ)きて 相 報ず、「但【た】だ恐る桃花【とうか】を失せんか」と


14秦州雜詩二十首 其十四
(古来、道教の仙人が住んだという仇池山の洞穴のことを想像してのぺる。)
萬古仇池穴,潛通小有天。
仇池山の洞穴は古来からある、そこははるか河南の王屋山にある小有天の洞穴とひそかに通じているという。
神魚今不見,福地語真傳。
その池にいるという神魚は今は見えないが、その場所が旧書の謂う所の仙人の住む福地だという話は本当に伝わっている。
近接西南境,長懷十九泉。
この秦州は西から南にかけて国境であり、異民族と接している、仇池山は国境近くに接している、自分はいつもそこに在るという恵み豊かな九十九泉のことなどおもっている。
何當一茅屋,送老白雲邊。
いつになったら一軒の茅屋をそこにかまえて、白雲の浮かべるあたりで老いさきを送ることができるであろうか。
万古仇池の穴、潜かに通ず小有天。
神魚今見えず。福地 語 眞に伝う。
近く接す西南の境、長【とこしえ】に懐う十九泉。
何の時か一茅屋、老を送らん白雲の辺に。

 
15 秦州雜詩二十首 其十五
(長雨で客舎にいて東柯に隠遁しての生活を想像して作る。)
未暇泛蒼海,悠悠兵馬間。
わたしの今の心境は孔子が弟子に「桴を海に浮べる」と話したという、船を浮かべて遠くへ去ってしまうという暇はいまだにないのである、これまでは長いあいだ兵馬にかこまれた中にさまよっているだけなのだ。
塞門風落木,客舍雨連山。
ここの秦州の関門に来てからは風が木の葉を落とす季節になっている、旅先の間借りの住まいに雨がふり、山々にもつづいて降っている。
阮籍行多興,龐公隱不還。
今の私は阮籍が出かけて行って「途窮まって慟哭した」と風興の多い生活をしているし、また隠遁を決意しており、龐徳公のように妻子を携えて山にかくれて世間へかえることはないと考えている。
東柯遂疏懶,休鑷鬢毛斑。
東柯というところに隠遁すれば嵇康がしたように「疏懶の本性」の限りを尽くし、鬢の毛の白髪をはさんだり、切ったりすることさえもしないで無精をしようとおもうのである。
未だ蒼海【そうかい】に泛ぶに暇【いとま】あらず、悠悠たり兵馬の間。
塞門【さいもん】風木を落とし、客舎【かくしゃ】雨山に連なる。
阮籍【げんせき】行くゆく興【きょう】多からん、龐公【ほうこう】隠れて還らず。
東柯【とうか】疏懶【そらん】を遂げん、鑷【はさ】むを休めよ鬢毛【びんもう】の斑【まだら】なるを。
 
16 東柯好崖谷,不與眾峰群。落日邀雙鳥,晴天卷片雲。
 野人矜險絕,水竹會平分。采藥吾將老,兒童未遣聞。

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15 この詩に登場の隠遁者
龐徳公
○龐徳公【ほうとくこう】生年不詳~没年不詳、襄陽の名士であり、人物鑑定の大家。「徳公」は字で、名は不詳。子に龐山民、孫に龐渙、従子に龐統がいる。東漢の末年、襄陽の名士である龐徳公は薬草を求めて妻を連れて山に入ってからもどらなかった。劉表からの士官への誘い、諸葛孔明からも誘われた、それを嫌って、奥地に隠遁したということと解釈している。隠遁を目指すものの憧れをいう。

遣興 ①喜晴  159

鹿門(一首。山名。鹿門山のこと。嚢陽城の東、漢水東岸にある山。峴山とともに襄陽を代表する山。『嚢陽香旧記』に「鹿門山、旧名蘇嶺山。建武中、習郁為侍中、時従光武幸黎丘、与帝通夢、見蘇嶺山神、光武嘉之、拝大鴻櫨。録其前後功、封裏陽侯、使立蘇嶺祠。刻二石鹿、爽神道口、百姓謂之鹿門廟、或呼蘇嶺山為鹿門山」とある。
後漢の逸民・䴇龐廟徳公、唐詩人の孟浩然、皮日休隠棲の地として知られる)孟浩然は四季、一日を詩にした。
遣興五首其二 ⑨ (龐徳公の事を叙して、暗に自己の志す所もまた彼と同じであることをしめした。)
遣興五首其二 ⑨
昔者龐德公,未曾入州府。
襄陽耆舊間,處士節獨苦。
豈無濟時策?終竟畏網罟。
林茂鳥有歸,水深魚知聚。
舉家隱鹿門,劉表焉得取。


阮籍
阮嗣宗
【げんしそう】(210-263)
(魏) 阮籍、字は嗣宗、陳留尉氏(河南省開封県付近)の人。建安七子の一人である阮瑀の子。容貌瑰傑、志気宏放と称せられ、群籍を博覧し、特に老荘を好み、酒を嗜み、琴を善くし、清談を事とし、曠達にして礼節にかかわらず、竹林七賢の首償格であった。
曹爽召して参軍としたが辞して受けなかった。司馬懿に命ぜられて、大尉掾から、散騎常侍に進んだ。大将軍司馬昭がその子炎のために婚を阮籍に求めたが、籍は六十日沈酔したので話を進め得なかったという。鐘会が罪しようとしたが酣酔して免れ、大将軍の従事中郎に召されたが、歩兵の厨に美酒の多いのを聞いて求めて歩兵校尉となった。平生人を非難せず、ただ好悪を示すに青眼と白眼とをもってしたという。礼法の士からは深く忌まれたが、常に司馬昭の保護によって全きを得た。本伝に「性至孝」とあり、母の沒した時碁を囲み、酒を飲み、吐血数升、痩せ衰えて殆んど死ぬばかりになったと伝えられているのは、かえって彼の孝心を示すものであろうか。その集十三巻、「詠懐」八十二首は詩の代表作であり、外に「大人先生伝」「達生論」「楽論」等の文及び辞賦類がある。隋志には、十三巻。

 阮籍 詠懐詩 、 白眼視    嵆康 幽憤詩

幽憤詩 嵆康 訳注篇

『詩品』は上品に位置付け、「詠懐の作は、以って性霊を陶い、
幽思を發くべし、言は耳目の内に在るも、情は八荒の表に寄す。洋洋乎として風雅に会い、人をして其の鄙近を忘れ、自ら遠大を致さしむ」と評する。置阮籍詩於上品,評曰:“詠懷之作,可以陶性靈、發幽思。言在耳目之内,情寄八荒之表。洋洋乎會於風雅,使人忘其鄙近,自致遠大。頗多感慨之詞。厥旨淵放,歸趣難求。”其中“厥旨淵放,歸趣難求”說明了阮籍的詩充滿了象征性、隱蔽性,難以了解其内在思想。


嵇康
嵇叔夜
(223-262)
(魏) 嵇康、字は叔夜、譙国銍【しょうこくちつ】(安徽省宿県西南)の人。幼少のころ孤となった。志気正直の人で奇才があり、独学で博覧、もっとも老荘を好み、魏の宗室と結婚し、中散大夫を拝したが、常に琴を弾じ詩を詠じ、山沢に遊んで薬草を採り、楽しんでは帰るを忘れたという。竹林七賢の一人で、阮籍と共に魏の正始文学を代表する作家である。後に山濤が吏都尚書となり、康を挙げて自らに代えようとしたが、彼は絶交書を作ってこれを拒んだ。当時司馬氏の権勢は日に盛んで、曹魏と関係洗い彼に禍の至るは予知されたことで、彼は自らこれを避けるに努めたのであるが、ついにその京なる東平(山東省)の呂安の罪せられるのに坐して害に遇った。刑に臨んで神色自若、琴を弾じて終ったという。「幽憤詩」はその獄中の作である。今「嵇中散集」十巻があり、詩の存するものは五十三首、特に四言詩が多くて、その半ばを占めているが、それらは形は詩経を摸し、情は楚辞に近い。この外「養生論」 「声無哀楽論」 「大師箴」などの文が世に伝わっている。隋志には、集十三巻。

 阮籍 詠懐詩 、 白眼視    嵆康 幽憤詩

幽憤詩 嵆康 訳注篇

『詩品』は中品に位置付け、「頗や魏文に似、過ぎて峻切を為す。訐直にして了を露わし、淵雅の致きを傷う。然れども託喩は清遠にして、良に鍳裁有り、亦未だ高流たるを失わず」と評する。「晉中散嵇康頗似魏文。過為峻切,訐直露才,傷淵雅之致。然託喻清遠,良有鑒裁,亦未失高流矣。」


現代語訳と訳註
(本文)
秦州雜詩二十首 其十五
未暇泛蒼海,悠悠兵馬間。
塞門風落木,客舍雨連山。
阮籍行多興,龐公隱不還。
東柯遂疏懶,休鑷鬢毛斑。


(下し文)
未だ蒼海【そうかい】に泛ぶに暇【いとま】あらず、悠悠たり兵馬の間。
塞門【さいもん】風木を落とし、客舎【かくしゃ】雨山に連なる。
阮籍【げんせき】行くゆく興【きょう】多からん、龐公【ほうこう】隠れて還らず。
東柯【とうか】疏懶【そらん】を遂げん、鑷【はさ】むを休めよ鬢毛【びんもう】の斑【まだら】なるを。


(現代語訳) 秦州雜詩二十首 其十五
(長雨で客舎にいて東柯に隠遁しての生活を想像して作る。)
わたしの今の心境は孔子が弟子に「桴を海に浮べる」と話したという、船を浮かべて遠くへ去ってしまうという暇はいまだにないのである、これまでは長いあいだ兵馬にかこまれた中にさまよっているだけなのだ。
ここの秦州の関門に来てからは風が木の葉を落とす季節になっている、旅先の間借りの住まいに雨がふり、山々にもつづいて降っている。
今の私は阮籍が出かけて行って「途窮まって慟哭した」と風興の多い生活をしているし、また隠遁を決意しており、龐徳公のように妻子を携えて山にかくれて世間へかえることはないと考えている。
東柯というところに隠遁すれば嵇康がしたように「疏懶の本性」の限りを尽くし、鬢の毛の白髪をはさんだり、切ったりすることさえもしないで無精をしようとおもうのである。


(訳注)
秦州雜詩二十首 其十五

(長雨で客舎にいて東柯に隠遁しての生活を想像して作る。)


未暇泛蒼海,悠悠兵馬間。
わたしの今の心境は孔子が弟子に「桴を海に浮べる」と話したという、船を浮かべて遠くへ去ってしまうという暇はいまだにないのである、これまでは長いあいだ兵馬にかこまれた中にさまよっているだけなのだ。
泛蒼海 孔子が礼徳の評価がなされない時、暇なので礼節の説法の旅に出ようと弟子と会話したもので、仙界の蓬莱山の浮ぶ東海の海に船を浮かべるというもの。『論語、公冶長』「子曰、道不行、乗桴浮於海、従我者其由也与、子路聞之喜、子曰、由也好勇過我、無所取材。」(子曰く、道行われず、桴【いかだ】に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由【ゆう】か。子路【しろ】これを聞きて喜ぶ。子曰く、由は勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なからん。)○悠悠 はるか、時間のうえでいう。


塞門風落木,客舍雨連山。
ここの秦州の関門に来てからは風が木の葉を落とす季節になっている、旅先の間借りの住まいに雨がふり、山々にもつづいて降っている。
塞門 秦州の関門。○落木 木の葉をおとす。○客舍 秦州の客舎、場所については触れられた文献がないのでは不明。


阮籍行多興,龐公隱不還。
今の私は阮籍が出かけて行って「途窮まって慟哭した」と風興の多い生活をしているし、また隠遁を決意しており、龐徳公のように妻子を携えて山にかくれて世間へかえることはないと考えている。
阮籍 魏の人、時世を憤っては不意に車に乗ってでかけ途が窮まると慟哭してかえったという、これはそれを転用する。○ 将来についていう。○龐公 龐徳公『遣興五首其二 ⑨の「龐徳公」の条を参照。


東柯遂疏懶,休鑷鬢毛斑。
東柯というところに隠遁すれば嵇康がしたように「疏懶の本性」の限りを尽くし、鬢の毛の白髪をはさんだり、切ったりすることさえもしないで無精をしようとおもうのである。
疏懶 ぶしょう、暗に嵇康のことを用いる、嵇康は髪もくしけずらず沐浴もしなかったという、次の句を帯びていう。○ はさみきる。

秦州雜詩二十首 其十五
未暇泛蒼海,悠悠兵馬間。
塞門風落木,客舍雨連山。
阮籍行多興,龐公隱不還。
東柯遂疏懶,休鑷鬢毛斑。

未だ蒼海【そうかい】に泛ぶに暇【いとま】あらず、悠悠たり兵馬の間。
塞門【さいもん】風木を落とし、客舎【かくしゃ】雨山に連なる。
阮籍【げんせき】行くゆく興【きょう】多からん、龐公【ほうこう】隠れて還らず。
東柯【とうか】疏懶【そらん】を遂げん、鑷【はさ】むを休めよ鬢毛【びんもう】の斑【まだら】なるを。