秦州雜詩二十首 其二十<解説とまとめ>杜甫 第5部 <273> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1268 杜甫詩 700- 387 

杜甫 体系 地図458華州から秦州

秦州雜詩二十首
秦州雜詩二十首 第一部(其の一から其四)
●秦州の概要について述べる。

秦州雜詩二十首 第二部(其の五から其八)
●秦州と戰について述べる。

秦州雜詩二十首 第三部(其の九から其の十二)
●秦州城内のようすや住居のことを詠っている。

秦州雜詩二十首 第四部(其の十三から其の十六)
●隠棲の場所として東柯谷、仇池山、西枝村の西谷を候補にする。いよいよ杜甫は、隠棲するのにいい場所を見つけたようだ。東柯谷である。

秦州雜詩二十首 第五部(其の十七から其の二十)


17秦州雜詩二十首 其十七
(東柯谷の雨中山居のさまをのぺる。)
邊秋陰易久,不複辨晨光。
辺地の秋に雨雲で昼でも暗く、夕がたになるとはやく暮れてしまいやすいし、秋の夜長がさらにながい朝の区別が谷あいのためわからないに加えて雲りのために夜が明けたからといっても日光が知り分けられるわけではない。
簷雨亂淋幔,山雲低度牆。
のきばにそそぐ雨はみだれて幔幕にしただり、山よりおこる雲はひくく土塀をこえつつある。
鸕鶿窺淺井,蚯蚓上深堂。
鵜の鳥は浅い井に餌があるかとのぞきこんでくる、みみずは奥のざしきまであがってくる。
車馬何蕭索,門前百草長。
訪いくる車馬はなくてひっそりさびしいものであり、門前にはたださまざまの草がせたかくのびている。
邊秋【へんしゅう】陰【くも】りて久しくなり易し、複た晨光【しんこう】をも辨【べん】ぜず。
簷雨【えんう】亂れて幔に淋り、山雲【さんうん】低【た】れて牆【しょう】を度【わた】る。
鸕鶿【ろじ】浅井【せんせい】を窺【うかが】い、蚯蚓【きゅういん】深堂【しんどう】に上る。
車馬何ぞ蕭索【しょうさく】たる、門前【もんぜん】百草【ひゃくそう】長し。



18秦州雜詩二十首 其十八
(客人として間借りの身でいるために吐蕃の乱の基地であるため憂えた詩である。)
地僻秋將盡,山高客未歸。
この山間僻地のこの地に秋がもう尽きかけている。わたしは山が高くとりかこんでいるこんなところに隠遁できなくてまだ旅人のままでいる。
塞雲多斷績,邊日少光輝。
とりでの上にうかぶ雲は途切れたり続いたりしているし、ここ国境地域の太陽はひかりが薄く見える。
警急烽常報,傳聞檄屢飛。
吐蕃の乱で一刻も警備をいそがねばならぬことは蜂火がいつもそれを知らせてくるし、軍隊の戦意高揚の檄もたびたび飛んでいるということは人伝にきいている。
西戎外甥國,何得迕天威。
西戎たる吐蕃は我が唐にとっては甥の国であったはず、それなのにどうして天子の御威光にさからうのであろうか、さからえるはずはないのであるが。
地僻【ちへき】にして 秋 将に尽きんとす、山高くして客未だ帰らず。
塞【さい】雲 多く断続す、辺【へん】日【じつ】光輝【こうき】少なし。
警急【けいきゅう】蜂常に報ず、伝聞す檄【げき】の屢【しばし】ば飛ぶを。
西戎【せいじゅう】は外甥【がいせい】の国、何ぞ天威【てんい】に迕【たご】うことを得ん。



秦州雑詩二十首 其十九
(吐蕃の西北辺の乱は心配の種で、良将が任ぜられて、この地が安寧することをのべる。)
鳳林戈未息、魚海路常難。
鳳林関のあたりではまだ戦争がやまない、吐蕃征伐の魚海湖の方面にいくにはいつも難儀な道路である。
候火雲峰峻、縣軍幕井乾。
その地区の戦況はのろし火が急峻に聳える雲の峰であげられてわかるし、遠くからやってきた唐王朝軍の設営場所はいつの場合も井水は空からの状況である。
風連西極動、月過北庭寒。
いまや時節は晩秋となって、風は西のはての地方から連って吹き、月の光は寒さを帯びて照らされ北庭都護府を過ぎて寒さが来る。
故老思飛将、何時議築壇。
漢の飛将軍李広はこの地で育った、このような人がいま居たならばと老人たちはそれを思慕しているが、いつになったら朝廷でその大将を郭子儀が任命せられるために壇をきずく御相談があるのであろうか。 

20秦州雜詩二十首 其二十
(総まとめの詩で、この二十首の精神をあらわしている詩であると同時に旧友知人に現状を理解して応援を求める詩としている。)
唐堯真自聖、野老復何知。
古代「堯」のような徳を積んだ唐の皇帝は太宗の血を引きまことに聖明のお方である。この地に来ているわたしごとき隠遁する老人は徳のことにつけてなにを知ってというものではないので、申すべきではない。
曬薬能無婦、応門幸有児。
薬草をこまめに天日干しにあてる婦人が居ないではないし、客があれば門で取次するものがおり、子供だってしてくれる。
蔵書聞禹穴、読記憶仇池。
会稽に書を蔵したという禹穴は多くの詩人に詠われたところにちがいないが、古い書籍をよむとここ東柯谷のひと山越えれば神仙の聖地である仇池があるのでわたしはその地のことをおもい詠うのである。
為報鴛行旧、鷦鷯在一枝。
わたしは都の在官の旧友諸君に御しらせする、自分の現在は小さい鳥の「みそさざい」がただ一枝におちついて棲んでおるようなもの、求めるものは些少なものでこんな田舎に引っ込んでいる。(できればご厚情を賜りたい。)
唐堯【とうぎょう】真に自ら聖なり、野老復た何をか知らん。
薬を曬【さら】す能【あ】に婦【つま】無からんや、門に応ずるは幸い児有り。
書を蔵する禹穴【うけつ】ありと聞く、記を読みて仇池【きゅうち】を憶う。
為に報ず 鴛行【えんこう】の旧に、鷦鷯【しょうりょう】は一枝【いっし】に在りと。

華州から秦州同谷成都00

杜甫 体系 地図459同谷紀行



現代語訳と訳註
(本文) 秦州雜詩二十首 其二十

唐堯真自聖、野老復何知。
曬薬能無婦、応門幸有児。
蔵書聞禹穴、読記憶仇池。
為報鴛行旧、鷦鷯在一枝。


(下し文)
唐堯【とうぎょう】真に自ら聖なり、野老復た何をか知らん。
薬を曬【さら】す能【あ】に婦【つま】無からんや、門に応ずるは幸い児有り。
書を蔵する禹穴【うけつ】ありと聞く、記を読みて仇池【きゅうち】を憶う。
為に報ず 鴛行【えんこう】の旧に、鷦鷯【しょうりょう】は一枝【いっし】に在りと。


(現代語訳) 其の二十
(総まとめの詩で、この二十首の精神をあらわしている詩であると同時に旧友知人に現状を理解して応援を求める詩としている。)
古代「堯」のような徳を積んだ唐の皇帝は太宗の血を引きまことに聖明のお方である。この地に来ているわたしごとき隠遁する老人は徳のことにつけてなにを知ってというものではないので、申すべきではない。
薬草をこまめに天日干しにあてる婦人が居ないではないし、客があれば門で取次するものがおり、子供だってしてくれる。
会稽に書を蔵したという禹穴は多くの詩人に詠われたところにちがいないが、古い書籍をよむとここ東柯谷のひと山越えれば神仙の聖地である仇池があるのでわたしはその地のことをおもい詠うのである。
わたしは都の在官の旧友諸君に御しらせする、自分の現在は小さい鳥の「みそさざい」がただ一枝におちついて棲んでおるようなもの、求めるものは些少なものでこんな田舎に引っ込んでいる。(できればご厚情を賜りたい。)


(訳注)
秦州雑詩二十首 其二十

(総まとめの詩で、この二十首の精神をあらわしている詩であると同時に旧友知人に現状を理解して応援を求める詩としている。)


唐堯真自聖、野老復何知。
古代「堯」のような徳を積んだ唐の皇帝は太宗の血を引きまことに聖明のお方である。この地に来ているわたしごとき隠遁する老人は徳のことにつけてなにを知ってというものではないので、申すべきではない。
唐堯 三皇五帝の堯のことを謂い、現粛宗を比喩している。堯帝のころは、世襲制でなく聖徳を積んだものが即位した。○自聖 聖ではないがみずから聖とするとといている、「おのずから」と訓ずるのがよい、天然自然にの意味で、太宗が徳を重んじた政治を行って、全国鍵をかけることがなくなっていた。その血を受け継いだという意味であろう。○天属 天よりの血属をいう、父子の関係をさす。これは唐の高祖と太宗の間がら、父たる高祖が子たる太宗に帝位を譲られたことをさす。三皇五帝の堯帝より世襲により譲位されるようになった。この両句、首聯で述べる意味の事は、杜甫の次の詩に詳しい。行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203で、後世の詩人に大きな影響を与えた詩である。また、杜甫の詩が劇的に変化したころでもあり、多くの秀作を残している。すべてこのブログに取り上げている。○野老 自己をさす。この句は悔しさのあらわれたものである。


曬薬能無婦、応門幸有児。
薬草をこまめに天日干しにあてる婦人が居ないではないし、客があれば門で取次するものがおり、子供だってしてくれる。
曬薬 薬草を天日干しにする ・ (1) 日が照りつける晒黑了日焼けした.西晒西日が照りつける.(2) 日に干す,日に当てる。○応門 客がきたとき門でとりつぎする。通常侍女下人がする。

: 応門  、能 : 、無婦 : 有児

*同じ品詞を同じ位置に配置する修辞により、一層の強調がなされる。


蔵書聞禹穴、読記憶仇池。
会稽に書を蔵したという禹穴は多くの詩人に詠われたところにちがいないが、古い書籍をよむとここ東柯谷のひと山越えれば神仙の聖地である仇池があるのでわたしはその地のことをおもい詠うのである。
蔵書 秦始皇の東巡で会稽に訪れた際、丞相の李斯は文章を書き残した《会稽石刻》などの貴重な碑、石刻が数多く残っている。○禹穴 禹が皇帝になった後、“巡守大越(見守り続けた大越)”ここで病死してしまったため、会稽山の麓に埋葬した。禹陵は古くは、禹穴と呼ばれ、大禹の埋葬地となった。大禹陵は会稽山とは背中合わせにあり、前には、禹池がある。この禹池が仇池であると杜甫は言う。○記 旧記。○仇池 仇池山は古来より神仙の住む聖地の一つとして名高い。池には神魚がいたし、はるか河南の王屋山にある小有天にも通じている。山頂には九十九泉があり、秦州の西南方向にあってさほど遠くない。第十四首秦州雜詩二十首 其十四 杜甫 第4部 <267> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1250 杜甫詩 700- 381に見える。
仇池国故扯 西和県の県城南方60kmの仇池山にあり、頂上が千畝ほどの平坦地になっており、百頃城とも云う
天然の城郭を為し、後漢代の末に白馬氐(はくばてい)部族の楊駒が仇池国を興し、三百八十年にわたり周辺を支配したと伝える。

蔵書 : 読記  、聞 : 、禹穴: 仇池

*同じ品詞を同じ位置に配置する修辞により、一層の強調がなされる。


為報鴛行旧、鷦鷯在一枝。
わたしは都の在官の旧友諸君に御しらせする、自分の現在は小さい鳥のみそさざいがただ一枝におちついて棲んでおるようなもの、求むる所は些少なものでこんな田舎に引っこんでいる。(できればご厚情を賜りたい。)
鴛行旧 朝廷に居る旧友をいう、鴛行は鴛鷺の行、朝廷に入る時の様子で文官の行列のことをいう。○鷦鷯 小さい鳥のこと。みそさざい。わずかの欲望しか持たないことの喩につかわれる。〇一枝 『荘子、逍遥遊篇』「鷦鷯巣於深林、不過一枝、偃鼠飲河、不過満腹。」(鷦鷯は深林に巣うも、一枝に過ぎず、偃鼠は河に飲むも、満腹に過ぎず。)とあるのにもとづく。


<解説>
杜甫は秦州雑詩二十首」其二十は其一から其十九の総まとめの詩である。まず、【首聯】で暗帝である粛宗を皮肉を込めて「自聖」といっていい、そして、【頷聯】では、商山の皓や龐徳公の故事に見るように妻を携えて隠棲し薬草を取る。鹿門山の山門をイメージする句とし、【頸聯】で古代徳を積んだものが選ばれて即位した地位を世襲制に変えた禹帝を例にとってはいるが、様々な功績を遺したこをに基づいて句を構成している。
【尾聯】は杜甫の隠棲することへの決意を示したものである。当然この詩では、杜佐の推薦する東柯谷を隠棲の地点と考えているものと思われる。


一般的に 「秦州雑詩二十首」の最後は、①杜甫の悲痛な叫びで結ばれているとされ、②すでに辞官した身だから国政を案じても仕方がないと諦めの言葉をもらし、③薬草を採取して暮らす考えも捨てず、④士身分の者として読書の大切である、とされているものがあるが、このような表面的な理解は、「秦州雑詩二十首」を飛ばして訳註紹介をしている粗悪な文学者の偏見である。


杜甫はこの二十首の詩を親族知人に送り、隠遁生活の援助者を募ったのである。したがって、左拾遺で仕事をさせてもらえなかったこと、朝廷での疎外感、華州へのいわれなき左遷、愚帝による失政のため、負けるはずのない戦に大敗をきしたこと、棲む場所がなくなった事、など、杜甫の詩人としての矜持を詠いつつ、隠遁への援助を期待しているのである。しかし、実際にはこの書簡が知人友人たちに届く前に杜甫はこの地を後にし、「同谷紀行」「成都紀行」の旅に入っている。