示侄佐 杜甫 <274> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1271 杜甫詩 700- 388


『秦州雜詩二十首』 で杜甫は秦州で隠遁することを決意し、その場所も姪従弟杜佐の推薦する東柯谷という谷あいの村であった。そして其二十で長安の朝廷で「鴛行」していた旧友たちに応援を頼むものであった。秦州に来て、
『遣興』二十首
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『秦州雜詩二十首』 
秦州雜詩二十首 其一 杜甫 第1部 <254> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1211 杜甫詩 700- 368
秦州雜詩二十首 其五 杜甫 第2部 <258> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1223 杜甫詩 700- 372
秦州雜詩二十首 其十三 杜甫 第4部 <266> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1247 杜甫詩 700- 380
秦州雜詩二十首 其二十

佳人

有懷台州鄭十八司

夢李白二首 其一

夢李白二首 其二

寄李十二白 二十韻

天末懷李白



と作詩してきたが、この地で病気を患ってたびたび寝込んでいる。
示侄佐 杜甫

多病秋風落,君來慰眼前。
病気がちで度々寝込んだ、秋風が吹き木の葉が落ち待っている。君(姪従弟の杜佐)が来てくれこうして目の前で見舞ってくれる。
自聞茅屋趣,只想竹林眠。
この茅葺のあばら家のことを心配して色々聞いてくれる。ただし、わたしが思っていたのは竹林に隠遁して静かな眠りを得ることであったのだ。
滿穀山雲起,侵籬澗水懸。
隠遁の場所は谷に十分の水や食べるのもがあり、その谷から湧き出し雲になって山にかかる、垣根を越して谷川の水が降りかかっている。
嗣宗諸子侄,早覺仲容賢。

隠遁者の先人の阮籍をはじめとして数多くの詩人たちはこうした谷あいに隠遁した。私もできるだけ早く、竹林の七賢者ののように隠遁者の仲間となって過ごす喜びを味わいたいものだ。


現代語訳と訳註
(本文)

多病秋風落,君來慰眼前。
自聞茅屋趣,只想竹林眠。
滿穀山雲起,侵籬澗水懸。
嗣宗諸子侄,早覺仲容賢。


(下し文)
病すること多くして秋風落つ,君來りて眼前に慰む。
自ら聞くは茅屋の趣,只想うは竹林の眠。
穀に滿ちて山雲起き,籬を侵して澗水懸る。
嗣宗 諸子 侄【とど】まる,早【つと】に覺ゆ 仲に賢きことを容【よろこ】びぬ。


(現代語訳)
病気がちで度々寝込んだ、秋風が吹き木の葉が落ち待っている。君(姪従弟の杜佐)が来てくれこうして目の前で見舞ってくれる。
この茅葺のあばら家のことを心配して色々聞いてくれる。ただし、わたしが思っていたのは竹林に隠遁して静かな眠りを得ることであったのだ。
隠遁の場所は谷に十分の水や食べるのもがあり、その谷から湧き出し雲になって山にかかる、垣根を越して谷川の水が降りかかっている。
隠遁者の先人の阮籍をはじめとして数多くの詩人たちはこうした谷あいに隠遁した。私もできるだけ早く、竹林の七賢者ののように隠遁者の仲間となって過ごす喜びを味わいたいものだ。


(訳注)
示侄佐

『秦州雑詩二十首 其十三』「船人近相報、但恐失桃花。」(船人【せんじん】  近【ちかづ)きて 相 報ず、「但【た】だ恐る桃花【とうか】を失せんか」と。)
これほどに私の隠棲の場所としてよさそうであるが、船頭が近寄ってきて報せてくれたことがある、それは「早くあんないい場所に隠棲地と定めないと、桃源郷の花のようにすぐに無くしてしまう」ということである。

船頭が早くこの村に住居せよとすすめるのであり、作者は卜居に心を労したものと思われる。桃花源の故事にもとづけば、船人は桃花源を発見した人であり、実際に桃花源に滞在し村人の接待を受け桃花源の生活を体験できた人である。その点に着目すれば、杜甫にとって桃花源すなわち東柯谷への水先案内人は、杜佐ということになるというように、秦州雑詩には、さまざまに登場する。。


多病秋風落,君來慰眼前。
病気がちで度々寝込んだ、秋風が吹き木の葉が落ち待っている。君(姪従弟の杜佐)が来てくれこうして目の前で見舞ってくれる。


自聞茅屋趣,只想竹林眠。
この茅葺のあばら家のことを心配して色々聞いてくれる。ただし、わたしが思っていたのは竹林に隠遁して静かな眠りを得ることであったのだ。
茅屋趣・竹林眠 この二句は隠遁生活に欠かせない語であり、隠遁したい気持ちをさらけ出している言葉である。

自聞 : 只想  、茅屋 : 竹林 、趣:

*同じ品詞を同じ位置に配置する修辞により、一層の強調がなされる。


滿穀山雲起,侵籬澗水懸。
隠遁の場所は谷に十分の水や食べるのもがあり、その谷から湧き出し雲になって山にかかる、垣根を越して谷川の水が降りかかっている。
【まがき】1 竹や柴などで目を粗く編んだ垣根。ませ。ませがき。2 遊郭で、遊女屋の入り口の土間と店の上がり口との間の格子戸。
〇谷川の下流に移り住んで薬草畑を作り、不老長寿の隠遁生活を送りたいなどと想像しているのだ。
滿穀 : 侵籬  、山雲 : 澗水 、起:

*同じ品詞を同じ位置に配置する修辞により、一層の強調がなされる。


嗣宗諸子侄,早覺仲容賢。
隠遁者の先人の阮籍をはじめとして数多くの詩人たちはこうした谷あいに隠遁した。私もできるだけ早く、竹林の七賢者のように隠遁者の仲間となって過ごす喜びを味わいたいものだ。
嗣宗 阮籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の人物。字(あざな)を嗣宗、陳留尉氏の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は建安七子の一人である阮瑀。阮籍
阮嗣宗【げんしそう】(210-263)
(魏) 阮籍、字は嗣宗、陳留尉氏(河南省開封県付近)の人。建安七子の一人である阮瑀の子。容貌瑰傑、志気宏放と称せられ、群籍を博覧し、特に老荘を好み、酒を嗜み、琴を善くし、清談を事とし、曠達にして礼節にかかわらず、竹林七賢の首償格であった。
曹爽召して参軍としたが辞して受けなかった。司馬懿に命ぜられて、大尉掾から、散騎常侍に進んだ。大将軍司馬昭がその子炎のために婚を阮籍に求めたが、籍は六十日沈酔したので話を進め得なかったという。鐘会が罪しようとしたが酣酔して免れ、大将軍の従事中郎に召されたが、歩兵の厨に美酒の多いのを聞いて求めて歩兵校尉となった。平生人を非難せず、ただ好悪を示すに青眼と白眼とをもってしたという。礼法の士からは深く忌まれたが、常に司馬昭の保護によって全きを得た。本伝に「性至孝」とあり、母の沒した時碁を囲み、酒を飲み、吐血数升、痩せ衰えて殆んど死ぬばかりになったと伝えられているのは、かえって彼の孝心を示すものであろうか。その集十三巻、「詠懐」八十二首は詩の代表作であり、外に「大人先生伝」「達生論」「楽論」等の文及び辞賦現がある。隋志には、匡十巻。
 阮籍 詠懐詩 、 白眼視    嵆康 幽憤詩
『詩品』は上品に位置付け、「詠懐の作は、以って性霊を陶い、幽思を發くべし、言は耳目の内に在るも、情は八荒の表に寄す。洋洋乎として風雅に会い、人をして其の鄙近を忘れ、自ら遠大を致さしむ」と評する。
置阮籍詩於上品,評曰:“詠懷之作,可以陶性靈、發幽思。言在耳目之内,情寄八荒之表。洋洋乎會於風雅,使人忘其鄙近,自致遠大。頗多感慨之詞。厥旨淵放,歸趣難求。”其中“厥旨淵放,歸趣難求”說明了阮籍的詩充滿了象征性、隱蔽性,難以了解其内在思想。
諸子 1 多くの人々を親しみや敬意を込めていう語。同等または、それ以下の人々をさしていう。代名詞的にも用いる。諸君。「学生―」2 中国周代の官名。諸侯の世子の教育などをつかさどったもの。杜佐をはじめとするこの東柯谷の人々ということ。
 賢者。ここは上句の「嗣宗諸子」をうけており、竹林の七賢人をいう。竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。
阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)
王戎(おうじゅう)をいう。当時は、半官半隠のものが多く官を辞して隠遁するものだけが隠者とはしていない。

尚、諸子侄を「諸-子姪」として阮籍の姪の阮咸とし、阮籍が杜甫で阮咸を杜佐とし、嗣宗(阮籍)の 諸(もろもろ)の子姪(シテツ)の中、「早に覚ゆ 仲容(阮咸)の賢なるを」として杜佐を誉めあげているという解釈はこの頃の杜甫の作品から見て少し無理がある。

ここは、素直に、杜甫の隠遁先を探してくれている杜佐に対して、「なかなか決められないが、私は本当に隠遁したいのだ、感謝するよ」という気持ちを述べている。阮籍を持ち出してきたのは「賢人」であること、反体制的であることを強調したかったと思われる。阮咸については阮籍の晩年司馬昭との関係等から判断して杜佐を持ち上げる表現と考えるには意味がない。