赤穀西崦人家 杜甫 <280> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1289 杜甫詩 700- 394
759年乾元二年秦州の作。


赤穀西崦人家
秦州の南40kmの赤谷の西の山にある人家
躋險不自安,出郊始清目。
険阻な路を登って歩いてみたが、戦の影響が心配で自分の心境は不安でしょうがない、郊外に出てしまうとひろくすがすがしい眼界である。
溪廻日氣煖,徑轉山田熟。
渓流はぐるぐるめぐって太陽の光はあたたかであり、小道身がうねうね曲がっていいるし、山中の田畑の耕作物がよく実っている。
鳥雀依茅茨,藩籬帶松菊。
ここの山里に人家があり、雀などの鳥はかやぶきの屋根に寄り添って囀っているし、まがき一帯には松だの菊だのが帯状に生えられている。
如行武陵暮,欲問桃源宿。
ちょうど武陵の仙郷の夕暮れを歩いているようである、陶淵明をまねて、ここが桃源か問聞きして、そこの家に泊まろうかと思うところである。

(赤谷の西崎の人家)
険に躋【のぼ】りて自ら安からず、郊を出でて己に目を清くす。
渓廻【めぐ】りて日気煖【あたた】かに、徑【みち】は転じて山田熟す。
鳥雀【ちょうじゃく】茅茨【ぼうし】に依り 藩離【はんり】松菊【しょうぎく】を帯ぶ。
武陵【ぶりょう】の暮に行くが如し 桃源を問いて宿せんと欲す。

華州から秦州同谷成都00

赤谷の西方の山(崦)にある人家に、杜甫が一晩泊まろうかと心ひかれた経緯を詠じたものである。
赤谷という地名は杜甫の詩にもう一度出てくる。それは
『赤谷』_
天寒霜雪繁,遊子有所之。豈但歲月暮?重來未有期。
晨發赤穀亭,險艱方自茲。亂石無改轍,我車已載脂。
山深苦多風,落日童稚饑。悄然村墟迥。煙火何由追?
貧病轉零落,故鄉不可思。常恐死道路。永為高人嗤。

杜甫が秦州を去って同谷へ向かう旅で、同谷紀行の起点となった場所である。この二首の詩は情調がずいぶん違うから同じ場所でない可能性もある。秦州から西南方向へ七里下った所にあり、その中には赤谷川が流れているという


現代語訳と訳註
(本文)
赤穀西崦人家
躋險不自安,出郊始清目。
溪廻日氣煖,徑轉山田熟。
鳥雀依茅茨,藩籬帶松菊。
如行武陵暮,欲問桃源宿。


(下し文) (赤谷の西崎の人家)
険に躋【のぼ】りて自ら安からず、郊を出でて己に目を清くす。
渓廻【めぐ】りて日気煖【あたた】かに、徑【みち】は転じて山田熟す。
鳥雀【ちょうじゃく】茅茨【ぼうし】に依り 藩離【はんり】松菊【しょうぎく】を帯ぶ。
武陵【ぶりょう】の暮に行くが如し 桃源を問いて宿せんと欲す


(現代語訳)
秦州の南40kmの赤谷の西の山にある人家
険阻な路を登って歩いてみたが、戦の影響が心配で自分の心境は不安でしょうがない、郊外に出てしまうとひろくすがすがしい眼界である。
渓流はぐるぐるめぐって太陽の光はあたたかであり、小道身がうねうね曲がっていいるし、山中の田畑の耕作物がよく実っている。
ここの山里に人家があり、雀などの鳥はかやぶきの屋根に寄り添って囀っているし、まがき一帯には松だの菊だのが帯状に生えられている。
ちょうど武陵の仙郷の夕暮れを歩いているようである、陶淵明をまねて、ここが桃源か問聞きして、そこの家に泊まろうかと思うところである。


(訳注)
赤穀西崦人家

秦州の南40kmの赤谷の西の山にある人家
赤谷 秦州の南七十里(40km)にあり、中に赤谷川がある。10km北に東柯谷がある。○西崦 赤谷の西の山の意。崦磁山は秦州の西五十里にあり、「崦磁」はまた赤谷の西に位置するが、ここでいう「西崦」はそれとはべつである。
 

躋險不自安,出郊始清目。
険阻な路を登って歩いてみたが、戦の影響が心配で自分の心境は不安でしょうがない、郊外に出てしまうとひろくすがすがしい眼界である。
○臍険 山のけわしいみちをのぼる。〇滴目 眼がすんだ心地がする、眼明の意。


溪廻日氣煖,徑轉山田熟。
渓流はぐるぐるめぐって太陽の光はあたたかであり、小道身がうねうね曲がっていいるし、山中の田畑の耕作物がよく実っている。


鳥雀依茅茨,藩籬帶松菊。
ここの山里に人家があり、雀などの鳥はかやぶきの屋根に寄り添って囀っているし、まがき一帯には松だの菊だのが帯状に生えられている。


如行武陵暮,欲問桃源宿。
ちょうど武陵の仙郷の夕暮れを歩いているようである、陶淵明をまねて、ここが桃源か問聞きして、そこの家に泊まろうかと思うところである。
武陵、桃源  武陵は湖南省常徳府に属する県である。
世間とかけ離れた平和な別天地。桃源。桃源郷。陶淵明(365年 - 427年)『桃花源記』によると、晋(しん)の太元年間に、湖南武陵の人が桃林の奥の洞穴の向こうに出てみると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという。