秦州抒情詩(5)  即事 杜甫 <290> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1337 杜甫詩 700- 410


     
  同じ日のブログ 
     1335『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩506 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1335 
     1336城南聯句 韓退之(韓愈)詩<64-#23>Ⅱ中唐詩419 紀頌之の漢詩ブログ1336 
     1337即事 杜甫 <290> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1337 杜甫詩 700- 410 
   
 李商隠詩李商隠/韓愈韓退之(韓愈)・柳宗元・李煜・王安石・蘇東坡 
   2011/7/11李商隠 1 錦瑟 
      2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全130首(187回) 
   2012/1/11 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     
《秦州抒情詩(5)  『即事』 杜甫700の290首目、杜甫ブログ410回目》

即事
(最近のニュースで感じたこと。)
聞道花門破,和親事卻非。
最近聞くところによると花門の回紇軍が洛陽の戦いで敗れたそうである。和親条約で連合軍として戦ってきたがこれが上手くいっていなかったのだ。
人憐漢公主,生得渡河歸。
ウイグルの国王の死によって殉死させようとしたが,公主は抵抗したが人としては憐れである。巡視せずに黄河の流れにのって乗って,同年8月に唐に帰国した。
秋思拋雲髻,腰肢勝寶衣。
一昨年秋に思いを遣ると悲しい思いになる。けな気にも皇族の地位をなげうたれたこと、そしてウイグルの王室へ嫁がれたことは唐王朝がウイグルへ報奨金を約束したことよりももっと重要な事であった。
群凶猶索戰,回首意多違。
史思明を頭目とする群がっている凶悪な奴らは、なおも戦を仕掛けており、邪悪な意図をもって仕掛けている、よくよく考えてみれば、こうなることも自業自得というものである。天子も自分の選り好みで賢臣たちをしりぞけ、功労者をしりぞけ、安易にウイグルに援軍を求めたことなど多くの点で意見は違っているのだ。




この詩は、日本で紹介されているものがないので(誤訳や理解不足のものはある)、少し詳しく解説する。


1.安史の乱における回紇について

1-1. 756年09月,粛宗はウイグルに援軍を求めるために使者を。漠北のモンゴリアに派遣使者となったのは,王族の一人(敦 煙郡王承粟)とトルコ系武将の僕固懐恩とソグド系 武将の石定番.

1-2 756年8~9月 杜甫蘆子関付近で捕縛される

1-3. ・756年10月にオルホン河畔のオルドバリクで会見.ウイグルの第2代 可汗・磨延畷(葛 勒可汗)は喜んで、可敦(カトン;可汗の正妻)の妹を妾(めあわ)自分の娘とした上で、これを承粟に嬰す。さらにウイグルの首領を答礼の使者として派遣してきたので、粛宗はこれを彭原に出迎え、ウ イグル王女を砒伽公主 に封じた.。

1-4 756年7~12月[通鑑 による],安史勢力側の阿史那従礼が突廠・同羅・僕骨軍5000騎を率い,河曲にあった九府・六胡州の勢力数万も合わせて、行在=霊武を襲わんとした。

1-5. 756年9~12月郭子儀は,磨延啜自身が率いて南下してきたウィグル本軍を陰山と黄河の間にある呼延谷で迎え,これと合流、
1-6 ・一方これ以前 に葛遷支率いる ウイグル別働 隊2000騎 がまず范陽を攻撃したが,成功せずにそこから太原方面に移動
1-7 ・.郭子儀軍はこれ らのウイグル本軍並びに別働隊と協力して,阿史那従礼軍を斥け,河曲(黄河の大湾曲部内側の北半部,す なわちオルドスを中心に,そ の外側の陰山山脈以南を合わせた一帯;現在の内蒙古自治区の一部とちんにし陝西省~寧夏回族自治区の北辺)を平定した.。

1-8. 757年至徳二 年元 旦,安禄山は洛陽で実子の安慶緒,並びに腹心の部下によって暗殺さる.

1-9 757年安禄山の盟友で,洛陽政権樹立の最:大の功労者であった史思明は,いちはやく分離独立の方針を決め,莫大な軍資金を蓄積してある范陽に帰還.

1-10  757年同年2月,粛宗は鳳翔に進出.前年末からこれまでに,コータン・安西・北庭・抜汗那・大食からの援軍が集結.同 月,ウイグル首領の大将軍・多攬15人 が入朝.

1-11  同年9月,ウ イグルの磨 延畷可汗は太子 の葉護 を筆頭に,将 軍の帝徳らに4000余 騎(旧 唐書 ・安禄山伝では3000騎)を率いさせて唐に派遣.粛宗は喜び,宴会を催し,元帥の広平王・淑(後の代宗)に命じて葉護 と兄弟の契りを結ばせる.

1-12. 蕃漢15万にふくれあがった唐軍は,広平王・淑 を総帥とし,鳳翔を出発.扶風で ウイグル軍を出迎 えた郭子儀は,3日 間の大宴会で接待.以 後,ウイグル軍には食料として毎日,羊200匹,牛20頭,米40石 が支給さる.。

1-13  757年9月17日,長安攻撃開始.朔方左廟兵馬使・僕固懐恩 とウイグル軍が連携して活躍.安慶緒側の守備軍は約6万の損失を蒙って潰走.唐軍,長安を回復す.

1-14  757年10月,反乱軍は唐側の郭子儀軍やウイグル軍により滝関・陳郡を次々に落とされ,安 慶緒は洛陽を脱出して河北の鄭に走る.唐側は遂に洛陽を奪回.

1-15 757年11月,長 安で粛宗と葉護が会見.粛宗は葉護を労い,司空の位を与え,忠義王に封じ,錦繍繰や金銀器皿を賜す,さらに毎年,絹2万匹を朔方軍にて支給する事を約す.


2. .唐は、回紇(ウイグル)に大きく分けて2回援軍により助けられている。
一回目は758年粛宗が霊武の行在所から鳳翔へ、そして長安、洛陽の奪還のために和親し、成功した。1-1~1-15、3-(1)~(2)。
・759年3月相州彭城を9節度使軍と回紇軍が安史軍に大敗。3-(3)~(6)。
二回目は、763年吐蕃が進行して、長安に攻め入ったのを背後から回紇軍が唐軍と呼応して攻めたため、吐蕃が退いた。吐蕃は杜甫が秦州に入ってくる頃、秦州の西域の沙州に攻め入って「吐蕃の乱」を起こしている。これらは、杜甫『秦州雑詩二十首』、『寓目』に述べられている。


3. 「即事」詩の理解のための経緯―最近の通説

(1) 758年乾元元年5~7月,ウイグルの使者・多亥 阿波一行が長安に来て,公主降嫁 を要請.粛宗は幼少であった実の王女を寧国公主に封じて降嫁させ、同時に磨延畷を英武威遠砒伽可汗に冊立することを決定.寧国公主と冊立使の一行が ウイグルの本営に到着
.
(2) 758年08月,磨 延畷は王子の骨畷特勤と宰相・帝徳らに3000騎を率いさせて唐に派遣.粛宗は僕固懐恩にこの援軍との共同作戦の指揮を命ず.

(3) 759年乾元二年3月,史思明 は安慶緒を殺し,4月,自ら大燕皇帝として即位.

(4) 759年4月,ウイグルの磨延畷可汗が急逝.ウイグルは寧国公主を殉死させようとしたが,公主は抵抗し,同年8月に唐に帰国.一 方,長男・葉護太子は既に罪を得て殺されていたので,末子の移地健が牟羽可汗として即位(第3代).磨延畷在世中に,移地健のために唐に婚姻 を請うたため,粛宗は僕固懐恩めあわに命じてその娘を嬰せていた.それゆえ,彼女が可敦に昇格.。

(5) 760年上元元年(760)閏3月,史思明は洛陽に入城.再び東西両都に対立する政権.となる。

(6)  しかし,この後,史思明は長男の史朝義に替わって妾腹の子・史朝清を溺愛し始め,これを後継者にせんとしたため,逆に史朝義の部下が史思明を捕らえて幽閉.以後,史朝義が洛陽を保持.



現代語訳と訳註
(本文)

聞道花門破,和親事卻非。
人憐漢公主,生得渡河歸。
秋思拋雲髻,腰肢勝寶衣。
群凶猶索戰,回首意多違。


(下し文)
聞道く花門の破を,和親して事 卻って非なり。
人は憐れむ 漢の公主を,生きて 渡河して歸るを得るを。
秋思して 雲髻【うんけい】を拋【なげう】ち,腰肢して寶衣に勝る。
凶は群りて 猶お戰を索す,首を回らせて意に違うを多くす。


(現代語訳)
(最近のニュースで感じたこと。)
最近聞くところによると花門の回紇軍が洛陽の戦いで敗れたそうである。和親条約で連合軍として戦ってきたがこれが上手くいっていなかったのだ。
ウイグルの国王の死によって殉死させようとしたが,公主は抵抗したが人としては憐れである。巡視せずに黄河の流れにのって乗って,同年8月に唐に帰国した。
一昨年秋に思いを遣ると悲しい思いになる。けな気にも皇族の地位をなげうたれたこと、そしてウイグルの王室へ嫁がれたことは唐王朝がウイグルへ報奨金を約束したことよりももっと重要な事であった。
史思明を頭目とする群がっている凶悪な奴らは、なおも戦を仕掛けており、邪悪な意図をもって仕掛けている、よくよく考えてみれば、こうなることも自業自得というものである。天子も自分の選り好みで賢臣たちをしりぞけ、功労者をしりぞけ、安易にウイグルに援軍を求めたことなど多くの点で意見は違っているのだ。


(訳注)
即事

最近のニュースで感じたこと。
その場の事柄、目の前のけしき・ようすを即興で詩にしたもの。759年7~9月史思明は安慶緒軍を壊滅させて、760年3月まで洛陽付近で戦鬥し、洛陽を再度陥落し、入場を果たしている。


聞道花門破,和親事卻非。
最近聞くところによると花門の回紇軍が洛陽の戦いで敗れたそうである。和親条約で連合軍として戦ってきたがこれが上手くいっていなかったのだ。
聞道 きくところによれば。・花門の回紇種族(ウイグル騎馬民族)の軍隊を国内にとどめる。留花門-留 唐の方へひきとめておくことをいう。ウイグルの援助がなければ、唐王朝は消滅し、758年長安、落葉の奪回等及びもつかなかった。○花門 堡の名であるが回紇種族(ウイグル騎馬民族)そのものをさす。元来、居延海(寧夏省の西北境にある湖水)の北にある要塞の名であるが、当時その地点は回紇の領土としていたところからこの名前を使った。『唐書』地理志「甘州寧寇軍の東北に、居延海あり、又北三百里にして、花門山堡あり、又東北千里にして、回紇の衙帳に至る。」とある。
留花門 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1004 杜甫特集700- 299
留花門 #2 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1007 杜甫特集700- 300
留花門 #3 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1010 杜甫特集700- 301


人憐漢公主,生得渡河歸。
ウイグルの国王の死によって殉死させようとしたが,公主は抵抗したが人としては憐れである。巡視せずに黄河の流れにのって乗って,同年8月に唐に帰国した。.
◎この聯は―「即事」詩の理解のための経緯―の3-(4)の部分を述べている。


秋思拋雲髻,腰肢勝寶衣。
一昨年秋に思いを遣ると悲しい思いになる。けな気にも皇族の地位をなげうたれたこと、そしてウイグルの王室へ嫁がれたことは唐王朝がウイグルへ報奨金を約束したことよりももっと重要な事であった。
秋思 悲愁などのように杜甫の意に沿わない出来事、つまり、回紇に援軍を―1.安史の乱における回紇について、3.「即事」詩の理解のための経緯―などを示す。・ 国のために身をなげうつ。・雲髻  756年ウイグルの王女が粛宗の妾になる際に、ウイグル国王に嫁いだ姫君のこと。女性の髪が雲の形のように大きなものとしていた。大きいほど高貴であった。これを雲鬢とするテキストがあるが、それでは三国志の「関羽」の顔がイメージされ意味が限定され通らない。・腰肢 腰と手足。国のために体を張ってという意味。このことのは、杜甫『黄河二首』に詳しく述べている。・寶衣 宝玉と絹の衣裳。回紇に報奨金を支払う約束をしていること。
黄河二首 其一 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 193

黄河二首 其二 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 194

群凶猶索戰,回首意多違。
史思明を頭目とする群がっている凶悪な奴らは、なおも戦を仕掛けており、邪悪な意図をもって仕掛けている、よくよく考えてみれば、こうなることも自業自得というものである。天子も自分の選り好みで賢臣たちをしりぞけ、功労者をしりぞけ、安易にウイグルに援軍を求めたことなど多くの点で意見は違っているのだ。
群凶 唐・安・史の三権鼎立を目指していたが安史軍の安は史思明によって滅ぼされ、残ったのは史思明軍であることをさすが、この軍には、唐王朝への不満諸公、しいたげられた異民族が加わっていたので「群凶」(群がっている凶悪な奴ら)というほどの意。・索戰 史思明は唐の九節度使軍を破り、燕皇帝と称し、唐を燕の二国鼎立統治を模索していた。・回首 よくよく考えてみればよくよく考えてみれば、こうなることも自業自得という意。頭を回してと訳せば「意多違」の理解が浅いものになる。・意多違 唐王朝軍を強化することを全くしないで、準備もしないで圧倒的に有利であった自国を滅亡直前までに追い詰められたことは、臣下の内の賢臣の多くを戦死させ、左遷させている。杜甫を含め多くの友人たちは、左遷させられている。これは、この紀頌之漢詩ブログ
杜甫700の150~を順を追って読んでいただくと必ず理解が深まるとおもわれる。



 杜甫氏は割愛したり、飛ばしたりしては理解が全くできない。杜甫は多くのシリーズの作品を残している。たとえば「何将軍」・「鄭虔」シリーズ、「前出塞」・「後出塞」シリーズ、「北征」とその前後40首あまり作品、華州での50首あまり作品、「遣興」20首シリーズ、「秦州雑詩二十首」、「カテゴリー秦州抒情詩として」などこのブログではまったく割愛などせずに紹介している。