寄岳州賈司馬六丈、巴州嚴八使君兩閣老五十韻 杜甫 <317-#1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1448 杜甫詩 700- 447

     
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 李商隠詩李商隠/韓愈韓退之(韓愈)・柳宗元・李煜・王安石・蘇東坡 
   2011/7/11李商隠 1 錦瑟 
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   2012/1/11 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     

岳州の司馬賈至と巴州の刺史厳武とに寄せた詩である。近況を知らせ、隠棲地取得の資金応援を頼んだもの。759年乾元二年秦州、秋の作。


寄岳州賈司馬六丈、巴州嚴八使君兩閣老五十韻
 気の置けない友人の賈至と厳武に当てたものである。
§1:二人は立派な人材であると切り出し、

§2:安禄山の反乱軍から、霊武行在所で即位、それから鳳翔に行在所を移し、都長安を奪還し、さらに、永王鄰の叛乱の平定、長安で正式に皇帝が即位の儀ができたのは、両君の働きによるものだ。皇帝から一定の評価を受けていたはずであった。

§3:前皇帝玄宗一派の排除ということで、有能な人材がことごとく左遷されたり、免職されたりしている。賈至、厳武、高適、岑参らも左遷された。宦官の影響もあった。特に杜甫は、左拾遺任官直後に玄宗系房琯を擁護する発言をしたことがその後の朝廷での疎外されることにつながった。

§4:これからも反乱が続くことが予想され、援軍に来ている外国軍も不穏な動きをしている。これを収められるのは心ある二人のような人材である。杜甫自身はこれからも隠遁生活のような生活は続く。


寄岳州賈司馬六丈、巴州嚴八使君兩閣老五十韻
  #1
§1衡嶽猿啼裡,巴州鳥道邊。故人俱不利,謫宦兩悠然。
開闢乾坤正,榮枯雨露偏。長沙才子遠,釣瀨客星懸。』
#2
§2憶昨趨行殿,殷憂捧禦筵。討胡愁李廣,奉使待張騫。
無複雲台仗,虛修水戰船。蒼茫城七十,流落劍三千。
畫角吹秦晉,旄頭俯澗瀍。」
#3
小儒輕董卓,有識笑苻堅。浪作禽填海,那將血射天。
萬方思助順,一鼓氣無前。陰散陳倉北,晴燻太白巔。
亂麻屍積衛,破竹勢臨燕。」
#4
法駕還雙闕,王師下八川。此時沾奉引,佳氣拂周旋。
貔虎開金甲,麒麟受玉鞭。侍臣諳人仗,廄馬解登仙。
花動朱樓雪,城凝碧樹煙。衣冠心慘愴,故老淚潺湲。」
#5
哭廟悲風急,朝正霽景鮮。月分梁漢米,春給水衡錢。
內蘂繁於纈,宮莎軟勝綿。恩榮同拜手,出入最隨肩。
晚著華堂醉,寒重繡被眠。轡齊兼秉燭,書枉滿懷箋。』
#6
§3每覺升元輔,深期列大賢。秉鈞方咫尺,鎩翮再聊翩。
禁掖朋從改,微班性命全。青蒲甘受戮,白發竟誰憐?
弟子貧原憲,諸生老伏虔。師資謙未達,鄉黨敬何先?
#7
舊好腸堪斷,新愁眼欲穿。翠幹危棧竹,紅膩小湖蓮。
賈筆論孤憤,嚴詩賦幾篇。定知深意苦,莫使眾人傳。
貝錦無停織,朱絲有斷弦。浦鷗防碎首,霜鶻不空拳。
#8
地僻昏炎瘴,山稠隘石泉。且將棋度日,應用酒為年。
典郡終微眇。治中實棄捐。安排求傲吏,比興展歸田。
去去才難得,蒼蒼理又玄。』
#9
§4古人稱逝矣,吾道蔔終焉。隴外翻投跡,漁陽複控弦。
笑為妻子累,甘與歲時遷。親故行稀少,兵戈動接聯。
他鄉饒夢寐,失侶自忳邅。多病加淹泊,長吟阻靜便。
如公盡雄俊,誌在必騰騫。』



寄岳州賈司馬六丈、巴州嚴八使君兩閣老五十韻
湖南岳州府賈至司馬君が排行六であると四川の巴州重慶府の厳刺史が排行八である。兩閣老にたいし五十韻の詩を寄せる。
#1 §1
衡嶽猿啼裡,巴州鳥道邊。
賈君の居る五岳南岳の衡岳のある地方は猿の鳴き声のうちにあり、厳君の居る巴州は高く鳥の通い路をこえたあたりにある。
故人俱不利,謫宦兩悠然。
わたしの旧友である両君はともに幸せが無くて遙かなる地方に罪として左遷されて官途に仕えている。
開闢乾坤正,榮枯雨露偏。
今や叛乱暴挙など暗闇の天と地を立て直されたのである、しかし、天子の恵みの雨や露の掛りぐあいが栄枯の違いができているのだ。
長沙才子遠,釣瀨客星懸。』
才子たる賈君は漢の賈誼のように長沙の遠き地に貶められた、厳君は後漢の厳光が客星であるといわれたが釣陵瀬に高くひかりをはなっておられる。』


現代語訳と訳註
(本文)
#1
寄岳州賈司馬六丈、巴州嚴八使君兩閣老五十韻
§1
衡嶽猿啼裡,巴州鳥道邊。故人俱不利,謫宦兩悠然。
開闢乾坤正,榮枯雨露偏。長沙才子遠,釣瀨客星懸。』


(下し文)
(岳州の貫司馬六丈・巴州の厳八使君・兩閣老に寄す 五十韻)
衡岳【こうがく】は啼猿【ていえん】の裏【うち】、巴州【はしゅう】は鳥道【ちょうどう】の辺【ほとり】。
故人供に利あらず、謫宦【たくかん】両【ふたり】ながら悠然【ゆうぜん】たり。
開闢【かいへき】乾坤【けんこん】正しく、栄枯雨露偏なり。
長沙才子遠く、釣瀬【ちょうらい】客星懸かる。』


(現代語訳)
湖南岳州府賈至司馬君が排行六であると四川の巴州重慶府の厳刺史が排行八である。兩閣老にたいし五十韻の詩を寄せる。
賈君の居る五岳南岳の衡岳のある地方は猿の鳴き声のうちにあり、厳君の居る巴州は高く鳥の通い路をこえたあたりにある。
わたしの旧友である両君はともに幸せが無くて遙かなる地方に罪として左遷されて官途に仕えている。
今や叛乱暴挙など暗闇の天と地を立て直されたのである、しかし、天子の恵みの雨や露の掛りぐあいが栄枯の違いができているのだ。
才子たる賈君は漢の賈誼のように長沙の遠き地に貶められた、厳君は後漢の厳光が客星であるといわれたが釣陵瀬に高くひかりをはなっておられる。』


(訳注)
寄岳州賈司馬六丈・巴州八使君・兩閣老五十韻

湖南岳州府賈至司馬君が排行六であると四川の巴州重慶府の厳刺史が排行八である。兩閣老にたいし五十韻の詩を寄せる。
岳州賈司馬六丈 岳州は今の湖南岳州府、賈司馬は賈至のこと、賈至が汝州にゆくのを送る詩がある。送賈閣老出汝州 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 242  (758年乾元元年47歳)
758年乾元二年三月九節度の軍隊が相州に敗れたとき賈至は汝州より裏罫に奔ったが、その罪によって岳州の司馬に貶せられた、六は排行、丈は年長者に対する敬称、文人の略語。早朝大明宮呈両省僚友 賈至 杜甫の「奉和賈至舍人早朝大明宮」に関連した詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 233

巴州厳八使君 巴州は四川の重慶府、厳八使君は厳武のこと、八は排行、使君は刺史の敬称、武は房琯の事に連坐して757年乾元元年六月に巴州の刺史に定せられた。
閣老 貫は中書舎人、厳は給事中、二人を敬して称する。
厳八 厳八は厳武、厳武の父挺之は作者の友人であり、武は後輩である。杜甫の強力な援助者である。特に成都紀行、成都浣花渓草堂期に世話になる。厳武が没して成都を離れる。 
閣老 唐人は給事中をよぶのに閣老といった。また、宰相は堂老といい、両省のものは閣老といった。閣老は両省呼びあうので、給事中をよぶのに限られるわけではない。又このとき厳武は給事中、杜甫は左拾遺であるから同じく門下省に属し同省であるが、両省で呼び合う口称しあったとおもわれる。
留別嚴二閣老兩院補缺 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 275

奉贈嚴八閣老 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 187



衡嶽猿啼裡,巴州鳥道邊。
賈君の居る五岳南岳の衡岳のある地方は猿の鳴き声のうちにあり、厳君の居る巴州は高く鳥の通い路をこえたあたりにある。
衡岳 湖南省衡州府衡陽県にある名山で五岳のひとつ衡山(南嶽;1,298m湖南省衡陽市衡山県)、名山をあげて賈至の居る岳州を表わす。
猿啼 猿声をいう。手長猿で、悲しい鳴き声をする。
巴州 厳武の居る地をいう。
鳥道 長安から剣門を超えることを鳥の通う道、山の高い処をさす、巴州は山地なのでかくいう。
 

故人俱不利,謫宦兩悠然。
わたしの旧友である両君はともに幸せが無くて遙かなる地方に罪として左遷されて官途に仕えている。
○故人 旧友賈・厳をさす。
不利 身に利福のないこと。不遇であると。
謫宦 罪として左遷されて官途に仕えていること。
 賈・厳の二人ともに。
悠然 はるかなさま、杜甫自身とは遠くへだたっていることをいう。


開闢乾坤正,榮枯雨露偏。
今や叛乱暴挙など暗闇の天と地を立て直されたのである、しかし、天子の恵みの雨や露の掛りぐあいが栄枯の違いができているのだ。
○開闢乾坤正 粛宗が天下をひとまず落ち着くところまでなったことをいう、開闢は暗闇を開くこと、乾坤は天と地、世の中。正とは今まで叛乱があって天地が歪み曲がっていたのを正したことをいう。
○榮枯雨露偏 偏はかたよる、一方へ多くかかることをいう、栄枯は臣下の身のうえの二面がでたことをいう、長安洛陽の奪還の後、家臣の人によって栄えるものもあれば、枯れてしぼむものもある、栄えるものは雨露を多くうけるということであり、、枯れるものは雨露がかからないことをいい、賈厳の二人が官を貶めるのは枯の側であることをいう。


長沙才子遠,釣瀨客星懸。』
才子たる賈君は漢の賈誼のように長沙の遠き地に貶められた、厳君は後漢の厳光が客星であるといわれたが釣陵瀬に高くひかりをはなっておられる。』
○長沙才子遠 漢の賈誼の故事、漢代の洛陽の人。わずか二十歳で孝文帝に召されて博士となり、一年のうちに大中大夫となり、法制の改革にカをつくしたが、重臣である絳侯の周勃や穎陰侯の潅嬰に妬まれ、長沙王の傅に左遷された。のち梁の懐王の大将となり、三十三歳で死んだ。屈原とともに、すぐれた才能をもつがゆえに不遇であった文人としてよく例にひかれる。同姓の故事を借りて賈至のことをいう。
○釣瀨客星懸 後漢の厳光、字は子陵の故事、光は光武帝の友人で、一夜帝と共に臥し足を帝の腹に加えたところ、太史は「客星の帝座を犯すこと甚だ急なり」と奏したという、光は天上では客星に当たる人である、光は帝に仕えず浙江省厳州府桐鹿県の富春山に隠れて釣を垂れていたが、其の釣りをした処を厳陵瀬という、釣瀬は厳陵瀬をさす、此の句はまた同姓の故事を借りて厳武のことをいう。厳光が釣りをしていた場所(桐盧県の南、富春江の湖畔)は「厳陵瀬」と名づけられた。釣臺は東西に一つずつあり、高さはそれぞれ数丈、その下には羊裘軒・客星館・招隠堂があった。