卜居 杜甫 <355>
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成都(1)浣花渓の草堂(2) 卜居 杜甫 <355>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1727 杜甫詩 700- 531
 
詩 題:成都(1)浣花渓草堂(2) 卜居
作時760年3月杜甫49歳 七言律詩
掲 載; 杜甫1000の354首目
杜甫ブログ1500-531回目



成都(1)
屋敷の回りには灌木などが茂り、まだ手つかずの自然が残っていたようである。そういう部分も含めて草堂では、杜甫はかなり広い土地(総合的にみて2000坪程度と判断しているがもう少し広いかもしれない)を自由に使ってよいとされていたようである。


そのような成都郊外の土地を新参者の杜甫に提供し、屋敷造りを援助してくれたのは、その地域の最高権力者であったと思われる。この人物が誰であるかについては諸説があるが、①当時の成都尹・剣南西川節度使の裴冕(?―769)であった可能性が強いとされているが、裴冕は杜甫が草堂造りを始めた初年度にはもうその任をやめており、三月には杜甫とは関係の薄い李若幽が後任となっているので、②彭州(四川省彭県)の刺史詩人の友人高適。③厳武、というところで、厳武の働きかけが一番ではなかったというところであろうか。


草堂が完成した喜びや満足感が表されているのだが、草堂と成都城の位置関係を、「背郭堂成蔭白茅、縁江路熟俯青郊。」(郭を背にし堂は成って 白茅の蔭(おお)い、江に縁う路は熟して たかきより青郊をしたに俯す。)のように述べている。草堂が成都城の西側の外に位置し、高台にある草堂から見ると、川沿いの道が郊外を突き抜けて成都の方へ続いていることがわかる。




杜甫一家の生活や草堂の建築費用について、成都に到着して10首の詩でわかる。

1.詩人の友人高適)が成都の北40kmほどのところにある彭州(四川省彭県)の刺史をしており、禄米をまわしている(『酬高使君相贈』「古寺僧牢落,空房客寓居。故人分祿米,鄰舍與園蔬。雙樹容聽法,三車肯載書。草玄吾豈敢,賦或似相如。」)。


2.卜居 まず雨露がしのげる小屋を建て、その後に本宅を建てたもので、期間的には小屋は1~2日、草堂が2,3週間ではなかろうか。

3.母方の従兄弟で成都尹の王十五(『王十五司馬弟出郭相訪兼遺營草堂資』)、「憂我營茅棟,攜錢過野橋。」


4.蕭実には桃の苗百本、
奉乞桃栽一百根,春前為送浣花村。
河陽縣裡雖無數,濯錦江邊未滿園。


5.韋続には綿竹県の竹を、
華軒藹藹他年到,綿竹亭亭出縣高。
江上舍前無此物,幸分蒼翠拂波濤。


6. 何邕には三年で大木になるという榿木の苗を、
「覓榿木栽」「榿木三年大。與致溪邊十畝陰。」


7. 韋班には松の苗木を、
落落出羣非櫸柳,青青不朽豈楊梅?
欲存老蓋千年意,為覓霜根數寸栽。


8. 韋班には更に大邑県産の白い磁碗をたのんでいる。
大邑燒瓷輕且堅,扣如哀玉錦城傳。
君家白碗勝霜雪,急送茅齋也可憐。


9. 石筍街呆園坊の主人徐卿には果樹の苗を、
詣徐卿覓果栽
草堂少花今欲栽,不問綠李與黄梅。
石筍街中卻歸去,果園坊裡為求來。

・裴冕幕下の従侄(従兄弟の子)杜済と、


10.そしてこうした親戚、友人の援助によって草堂は晩春までにはできあがる。『堂成』
草堂が完成した喜びや満足感が表されているのだが、草堂と成都城の位置関係を、「背郭堂成蔭白茅、縁江路熟俯青郊。」(郭を背にし堂は成って 白茅の蔭(おお)い、江に縁う路は熟して たかきより青郊をしたに俯す。)のように述べている。草堂が成都城の西側の外に位置し、高台にある草堂から見ると、川沿いの道が郊外を突き抜けて成都の方へ続いていることがわかる。
 番号は掲載順である。
すべてにお礼を込めた詩を贈っている。

上元元年  760年 49歳

卜居
浣花溪水水西頭,主人為卜林塘幽。
浣花渓の雪解け水の流れるその西のほとり、そこに自分は林と堤の幽遂なところに建設して住居ときめた。
已知出郭少塵事,更有澄江銷客愁。
そこは成都の城郭をはなれていて私の苦手な俗事がすくないことはもう知ることが出来た。その上に、自分の旅の愁いを解消してくれる澄み切ったきれいな江辺がある。
無數蜻蜓齊上下,一雙鸂鶒對沈浮。
そのあたりには数知れないたくさんのとんぼが水の上をそろってのぼりくだりをしているし、一対のおしどりはむきあって浮きつ沈みつしている。
東行萬裡堪乘興,須向山陰上小舟。

更に興に乗ずれば東のかた万里の遠くまでもゆくことはできるだろう。こんなよい渓谷に住むとなるといつか小舟にのって王獻之の故事の山陰地方にまででかけるべきである。

浣花渓水 水の西頭、主人為に卜【ぼく】す林塘【りんとう】の幽なるを。
已に知る 郭を出でて塵事【じんじ】の少【まれ】なるを、更に澄江【ちょうこう】の客愁を銷【しょう】する有り。
無数の蜻蜓【せいてい】 斉【ひと】しく上下し、一双の鸂鶒【けいせき】 対して沈浮【ちんぷ】す。
東行万里  興に乗ずるに堪えたり、須【すべから】く山陰に向かって小舟に入るべし。


『卜居』 現代語訳と訳註
(本文)

卜居
浣花溪水水西頭,主人為卜林塘幽。
已知出郭少塵事,更有澄江銷客愁。
無數蜻蜓齊上下,一雙鸂鶒對沈浮。
東行萬裡堪乘興,須向山陰上小舟。


(下し文)
浣花渓水 水の西頭、主人為に卜【ぼく】す林塘【りんとう】の幽なるを。
已に知る 郭を出でて塵事【じんじ】の少【まれ】なるを、更に澄江【ちょうこう】の客愁を銷【しょう】する有り。
無数の蜻蜓【せいてい】 斉【ひと】しく上下し、一双の鸂鶒【けいせき】 対して沈浮【ちんぷ】す。
東行万里  興に乗ずるに堪えたり、須【すべから】く山陰に向かって小舟に入るべし。


(現代語訳)
浣花渓の雪解け水の流れるその西のほとり、そこに自分は林と堤の幽遂なところに建設して住居ときめた。
そこは成都の城郭をはなれていて私の苦手な俗事がすくないことはもう知ることが出来た。その上に、自分の旅の愁いを解消してくれる澄み切ったきれいな江辺がある。
そのあたりには数知れないたくさんのとんぼが水の上をそろってのぼりくだりをしているし、一対のおしどりはむきあって浮きつ沈みつしている。
更に興に乗ずれば東のかた万里の遠くまでもゆくことはできるだろう。こんなよい渓谷に住むとなるといつか小舟にのって王獻之の故事の山陰地方にまででかけるべきである。


(訳注)
卜居

杜甫は成都の浣花渓に住居を定めたことを「寄題江外草堂」詩に、「誅茅初一畝,廣地方連延。經營上元始,斷手寶應年。」とある。成都の中心から4kmほど離れた閑静な田園地帯で、浣花渓(錦江支流であり、河岸の西端、)の北の百花潭岸辺にあった。此の詩は到着の翌760年上元元年春の作である。

卜居 住居のよしあしをうらなってさだめる。

浣花溪水水西頭,主人為卜林塘幽。
浣花渓の雪解け水の流れるその西のほとり、そこに自分は林と堤の幽遂なところに建設して住居ときめた。
浣花渓 渓は成都の西郭外にあり、一に百花澤ともいう。○主人 自ずからいう。
為卜 為めにとは自己のためにということ。


已知出郭少塵事,更有澄江銷客愁。
そこは成都の城郭をはなれていて私の苦手な俗事がすくないことはもう知ることが出来た。その上に、自分の旅の愁いを解消してくれる澄み切ったきれいな江辺がある。
出郭 くるわをはなれること。
澄江 錦江をいう、澄は水のすんでいることをいう。


無數蜻蜓齊上下,一雙鸂鶒對沈浮。
そのあたりには数知れないたくさんのとんぼが水の上をそろってのぼりくだりをしているし、一対のおしどりはむきあって浮きつ沈みつしている。
○蜻蜓 とんぼ。
上下 のぼり、くだる。
鸂鶒 おしどり。


東行萬裡堪乘興,須向山陰上小舟。
更に興に乗ずれば東のかた万里の遠くまでもゆくことはできるだろう。こんなよい渓谷に住むとなるといつか小舟にのって王獻之の故事の山陰地方にまででかけるべきである。
乗興 この句は王献之の故事。「吾は本と輿に乗じて行く、輿尽きて返る。」
山陰 晋の王献之の故事、献之、字は子猷が山陰(浙江省紹興府)に居たとき、雪の夜にふと剡渓にあった戴安道を思い出し、舟に乗ってでかけたが、その門まで行ってひきかえしてしまった、人が其のわけをたずねたところ、子猷は「吾は本と輿に乗じて行く、輿尽きて返る。」と答えたという。