野老 杜甫 <373>


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成都(2部)浣花渓の草堂(2 -10) 野老 杜甫 <373>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1799 杜甫詩 700- 549 

詩 題:成都(2部)浣花渓の草堂(2 -10) 野老
作時760年7月杜甫49歳 
掲 載; 杜甫1000の373首目-#2 -10
杜甫ブログ1500-549回目




杜甫の草堂はこの地はもともと湿地であったために「Uの字型」に蛇行する錦江の内側であり、見方によれば南北も川であるともいえる地点であった。
草堂時代の杜甫の詩をいくつか総合してみると、草堂は錦江の西岸にあり、錦江がUの字型に蛇行するその内側に位置していたのではないかと思われる。
『卜居』(居を卜す)
「浣花溪水水西頭、主人為卜林塘幽。」(浣花渓水 水の西頭、主人は為に卜(ボク)す 林塘の幽なるを。)
とあり、西頭は西側の意味だから、住まいを定めたのは浣花渓の西側と読める。蛇行する錦江に村全体が大きく包まれ、とくに草堂付近はその湾曲部(浣花渓)にあったことがわかる。
・『田舍』
「田舍清江曲、柴門古道旁。」(田舎は清江の曲(くま)、柴門は古道の旁(かたわら)) 
・『江村』、
「清江一曲抱村流、長夏江村事事幽。」(清江 一曲 村を抱きて流れ、長夏 江村 事事に幽なり)
清江は錦江のことで、柴門は杜甫の草堂の粗末な門のこと。
・『野老』、
「野老籬邊江岸迴、柴門不正逐江開。」(野老の籬(まがき)の辺には 江岸迴(めぐ)り、柴門は正しくあらず 江を逐(お)いて開く )
ということで地点的にはかなり明確になってきた。

江畔独歩尋花












野老
野老籬邊江岸迴,柴門不正逐江開。
田野の老人の家の籬の一辺は錦江流れで岸がまがっている、だから柴の門もまがった江の流れに添うように家に平行でなくつくったのだ。
漁人網集澄潭下,估客船隨返照來。
垣根の向こうに魚を取る人々は澄んだ潭に集まって網漁をしている。流れを下ってくる商人の船も夕日の照り返しとともに成都にやってくる。
長路關心悲劍閣,片雲何意傍琴台?
こうしてみると華州、秦州、同谷から成都の西のこの地へ遠い道を旅をしたことをおもいだす、その上途中に剣閣という難所があり悲苦しいものであった。成都の琴台の方をみると一片の雲がこの樓閣に寄り添っているが、なんと司馬相如の所縁とでもいうのだろうか。
王師未報收東郡,城闕秋生畫角哀。
未だに唐王朝軍が安史軍に抑えられている洛陽以東の諸郡を取り返したという知らせはまだないけれど、この成都城の門闕には秋が生じている、軍隊の吹きならす角笛の音がまた秋の哀れにきこえるのである。

(野 老)
野老の籬邊【れへん】江岸【こうがん】迴【めぐ】る、柴門正しからず江を逐うて開く。
漁人の網は澄みたる潭に集まりて下り、估客【こかく】の船は返照に随って来たる。
長路 心に関るは劍閣を悲しみ、片雲 何の意ぞ琴台に傍うは。
王師 未だ報ぜず東郡を収むるを、城闕【じょうけつ】 秋は生じて画角【がかく】哀【かな】し。


『野老』 現代語訳と訳註
(本文)
野老
野老籬邊江岸迴,柴門不正逐江開。
漁人網集澄潭下,估客船隨返照來。
長路關心悲劍閣,片雲何意傍琴台?
王師未報收東郡,城闕秋生畫角哀。


(下し文)(野 老)
野老の籬邊【れへん】江岸【こうがん】迴【めぐ】る、柴門正しからず江を逐うて開く。
漁人の網は澄みたる潭に集まりて下り、估客【こかく】の船は返照に随って来たる。
長路 心に関るは劍閣を悲しみ、片雲 何の意ぞ琴台に傍うは。
王師 未だ報ぜず東郡を収むるを、城闕【じょうけつ】 秋は生じて画角【がかく】哀【かな】し。


(現代語訳)
田野の老人の家の籬の一辺は錦江流れで岸がまがっている、だから柴の門もまがった江の流れに添うように家に平行でなくつくったのだ。
垣根の向こうに魚を取る人々は澄んだ潭に集まって網漁をしている。流れを下ってくる商人の船も夕日の照り返しとともに成都にやってくる。
こうしてみると華州、秦州、同谷から成都の西のこの地へ遠い道を旅をしたことをおもいだす、その上途中に剣閣という難所があり悲苦しいものであった。成都の琴台の方をみると一片の雲がこの樓閣に寄り添っているが、なんと司馬相如の所縁とでもいうのだろうか。
未だに唐王朝軍が安史軍に抑えられている洛陽以東の諸郡を取り返したという知らせはまだないけれど、この成都城の門闕には秋が生じている、軍隊の吹きならす角笛の音がまた秋の哀れにきこえるのである。


(訳注)
野老
野老 田野の老人、杜甫を指す。 


野老籬邊江岸迴,柴門不正逐江開。
田野の老人の家の籬の一辺は錦江流れで岸がまがっている、だから柴の門もまがった江の流れに添うように家に平行でなくつくったのだ。
○江岸 邊江は錦江、過はまがっておることをいう、「清江一曲村ヲ抱キテ流ル」(「江村」)の高とおなじ。 
○不正 中國の家は南北を基準にし、門は東西南北に家と平行に作っている。それが江岸がまがっているので籬や門の形も家に対して平行、ー直線でないことをいう。 
○逐江 江のまがったすがたにしたがっての意。小川ではないから直線に近いが家に対して平行ではなく、川に随ったということ。この表現を自分の思っていたものと違う厭なことだととらえるか、これもまた風流につってくれたときにっているのか、よく見られる注釈では前者と見る向きが多いが、これは後者で間違いなく気に入っているのである。したがって、「門を曲がって作られた」と訳してはいけない。「つくった」と訳すべきである


漁人網集澄潭下,估客船隨返照來。
垣根の向こうに魚を取る人々は澄んだ潭に集まって網漁をしている。流れを下ってくる商人の船も夕日の照り返しとともに成都にやってくる。
○澄潭 水のすんでいる淵、蛇行する河川に淵はいたるところに出来上がる。おおきなひろい百花潭をさしていうだけでなく、杜甫の家の前の、近くの淵である。 
〇估客 商人をさす。 成都の街に來る商人である。
○随返照来 返照は夕日のてりかえし、返照に随って来るとは舟を泊そうとの気持からして来ること。このことで杜甫の家の門は西向きであったというのがわかる。又この景色を気に入っているものと思える。日がな一日船の往来を眺めている杜甫の姿が見えるようである。


長路關心悲劍閣,片雲何意傍琴台?
こうしてみると華州、秦州、同谷から成都の西のこの地へ遠い道を旅をしたことをおもいだす、その上途中に剣閣という難所があり悲苦しいものであった。成都の琴台の方をみると一片の雲がこの樓閣に寄り添っているが、なんと司馬相如の所縁とでもいうのだろうか。
○長路 華州、秦州、同谷から成都の西へ遠い道を旅をしたことをいう。 
○関心 気にかかること。 
○悲剣閣 剣閣によって隔てられることを悲しむこと。 
○片雲 此の句は叙景にして兼ねて自己もこの成都に来たという身況をたとえている、片雲は、はぐれ雲。 
○琴台 司馬相如の故跡、作者には別に「琴台」(本書にはとらぬ)の作がある。相知がまだ若くて貧乏であったころ、成都の金持の卓王孫の娘文君に、琴歌をもっていどんだところ、文君は夜家を逃げ出して相如のもとに走ったという。台は浣花渓の東に成都の西部分にある。花街は西側白門にあるもの。 


王師未報收東郡,城闕秋生畫角哀。
未だに唐王朝軍が安史軍に抑えられている洛陽以東の諸郡を取り返したという知らせはまだないけれど、この成都城の門闕には秋が生じている、軍隊の吹きならす角笛の音がまた秋の哀れにきこえるのである。
○王師 唐王朝軍。 
○収東郡 東郡は洛陽以東の諸郡をさす。乾元二年九月に東京及び済・汝・鄭・滑の四州が皆賊に陥り、上元元年六月、田神功が史思明の兵を鄭州に破ったが、東京の諸郡はまだ収復されるにはいたらなかった。 
○城闕 成都の城闕、闕は宮門についていうことばであるが、成都は至徳二年に南京とされ、第二の都としての取りあっかいを受けていた。特に安禄山の乱の折り、前皇帝の玄宗の逃避先であった。 
○秋生 秋になること。○画角哀 画き飾った角ぶえの音がかなしい。


杜甫の浣花草堂は、個人的な園林作りの一環として見直すことができる。規模的には、一千五百坪程度であったと思われ、池や築山や亭などを完備した白居易の園林などとは比べようもないが錦江をめぐる環境はその代りとなった。草堂作りへの情熱、精神生活の中での草堂の位置づけ、詩作との関わりなど、草堂と個人の精神の有り様としては、両者には通じるものがある。
成都において叛乱がなかったら、東都が安史軍に陥落されていなかったら、吐蕃の動向が杜甫を不安がらせなかったら、白居易のように高級官僚でなくとも権力に近い関係が維持されていたら、浣花渓を離れることはなかったことであろう。もしそうであれば、夔州においての人生1/3の量にもあたる詩を書けたであろうか論じても仕方のない問題である。